指導員・会員の総括

小林由紀(会員) 「オウムの事件と病理の総括」

総括の概要

1,現在の私の麻原に対する見方

 現在私が麻原のことをどのような人だと思っているかというと、簡単に言ってしまえば、幼少のころからの環境の影響もあるかもしれませんが、もともと自信過剰で支配欲が強く、それが人類すべての支配までに肥大しており、人の弱みを探してはそこに付け入って巧妙にコントロールして自分を神格化、絶対化させ、絶対的権力によって自らの狂気的誇大妄想を実現したかった傲慢な人、そして哀れな人だと思っています。

 そして、その麻原の弟子になった者たちは、大抵そういう「神のような絶対者」の傘下につくことで自己の優位性を感じたかったのだろうと思います。凡人とは一線を画した上流階級の人間でありたいと願う弟子が麻原をさらに持ち上げ、様々な予言と関連づけて興奮し、そこに壮大なロマンを妄想して騒ぎ立てることで、麻原本人も、自分が地球人類を救ってあげるのだという使命感をさらに強くしたのではないかと思います。そこで、神の目から見た人類がいかに愚かしいかを想像した彼は、人類を救うにあたり、神は人間の転生すらコントロールするのだという発想を本気で正当化して、殺人までおかしました。そこには、そら恐ろしいほどに肥大した狂気と高慢さがあったと思います。

 そして、人が踏み込んではならない領域(神格化的な魔境)の一線を越えてしまった彼に対して、人類の上に君臨する存在として絶対的威厳や畏怖の念を感じて帰依したくなった弟子によって、オウム真理教は次々と増殖していきました。ヴァジラヤーナ的な教義の正当化のためには、麻原が絶対的神であるという前提のもとに後付けの理論が構築されていきました。そういった一連の流れは弟子によって裏付けられ、その彼の欲望のために弟子は、自分にも同じ欲望があるがためにそれを欲望と見抜けず、「神の意思」であるとして喜んで身を捧げて奉仕したのです。

 また、その頃の世相では、ノストラダムスの大予言やヨハネの黙示録など世界の滅亡の予言が流行っていたこともあり、そういった災害から救われたいと願う人もオウム真理教に惹かれていったのではないかと思います。今の私は、災害があれば死んでも仕方がないし、人間みんな生きていればいろいろ苦しいこともあるのだし、別に高い世界に転生して贅沢な暮らしをしたいとも思わないし、今のままで十分幸せだと思っています。多分これはどこに行っても変わらないと思うので、特に宗教に救いを求めようとは思いません。昔オウム真理教の世界を「救い」だとか「聖なるもの」だと思っていたのは、身の周りの幸せが見えていなかったからだと反省しています。今後は、二度とこういう人を信用することはないと確信を持って断言できるようになりました。


2,現在の私のオウム真理教の教義に対する見方

 オウム真理教の教義は、いろんな宗教の中から都合の良い部分をいいとこ取りし、仏教をねじ曲げて、後付けで麻原の欲望に合うように構築されていたと思います。いいとこ取りなので、もちろんいいところもあるわけです。いいところもあって、信じさせて、だんだんと核心に入っていく。麻原独自の、彼を絶対化する理論にだんだんと入っていくので、気づかないうちに、麻原は神なのだ、絶対者なのだと信じるような教義になっているのです。

 それは、きわめて独善的、敵対的な二元論で、仏教とは全く反対方向の教義なのですが、仏教を少しかじったぐらいでは見抜けないかもしれません。一見、良い教え、正しい善を行いましょうという教えに見えます。善は良いことであり、悪は悪業、地獄へ行くと教えられます。そして、都合の良いことに、死後に人の悪業を裁く閻魔大王に対して弁護士の役割を果たすのが麻原であるという、全く漫画のような設定になっています。しかし、真顔でそれを説明されると信じてしまう、そこが人間の弱さです。

 仏教の教義を説明する説法もありましたが、それは少ない方で、教義の大半は、恐怖をあおったり神秘的な意味づけをして麻原自身の偉大さを表現するものでした。それを極限状態で潜在意識に植え付ける、という修行方法を取り、また、麻原のための奉仕活動は一番の功徳になるということで、極限まで働くことを奨励されていました。自分の考えをはさまずに無心に麻原の指示に従う人が称賛され、あれこれと疑問を持つ人は、「疑念である」と言われ、極厳修行に入れてデータを入れ替える(考えを変えさせる)、ということをやっていました。

 洗脳の仕方はこうです。まず、その人の悩み、弱い部分を指摘します。そうやって信者自身が自分のことを汚れた者だと思うようにさせ、自己に対する信頼を失わさせます。そして極限状態まで眠らない、食べないという修行空間に置くことによって意識を朦朧とさせた上で、巧妙に恐怖感と優しさをバランスさせた言い回しで、麻原がいかに汚れた自分を愛によって救ってくれるか、麻原に帰依する以外に救われる方法はないのだ、という脅迫感と依存心を植え付け、鎖につながれたように逃れられない意識にさせるのです。まさに、適度な食べ物と住む場所、最小限の衣類を与えられ、檻の中に閉じ込めて好きなように使われているような状態です。

 そうやってマインドコントロールされていると、その中の世界ではそこそこ幸せに感じるものです。一般的善の戒律があり、上意下達の世界で争いなどはほとんど起こらないし、起こったとしても麻原の鶴の一声で解決します。麻原に帰依すれば絶対安全であり、麻原に対して従順であり逆らわなければ死後も最大限幸せな転生ができるという安心感からか、素直な子供のような意識でいられます。これが、よくオウムの人は純粋だと言われる所以ではないかと思います。でもそこには人間としての幼さ、未熟さが潜んでいたのです。


3,現在の私のひかりの輪の会員などに対する、麻原やオウム教義の説明のあり方

 現在の私が、ひかりの輪の会員などに対して、麻原やオウム教義を説明する機会があるならば、まずは、上で述べたことをお話しし、さらに、次のようなことも強調して注意を促すだろうと思います。

 まず、麻原は、現在は犯罪者として誰もが悪人であるということを知っているわけですが、事件以前は一見正しいことを言っているように見える部分もあったので、高学歴の人でも十分にその悪は見抜けませんでした。ただし、その中で、うさん臭い面があるとも思っていた人もいたのですが、結果としては信じてしまいました。よって、そうしたうさん臭い面を感じたら、もっと自分でよく考えて、注意しなければなりませんでした。

 特に、麻原は、仏教やキリスト教などの教えを利用して、信者が自分に帰依するように誘導しました。例えば、教えを守らなければ悪業になるとか地獄に行くと言って脅し、自分でも「オウムは脅しの宗教だと言われてしまうね」と言っていましたが、アニメなどで仏教の逸話を多く使って恐怖心を煽りました。そして、そこに登場するのが救世主の麻原であるという構図を信者に植え付け、不安や恐怖を背景として、麻原に依存をするように持って行ったのです。こうした不安や恐怖による誘導にも注意しなければなりませんでした。

 また、信者に対しては、優しい一面を見せ、信者の善も悪もすべてを承知の上で愛しているとか、弟子の悪業をわが身に引き受けるなどと言ったり、死後も閻魔大王に対して弁護士の役割を果たすと言って永久に信者の面倒を見るというフォームを見せ、弟子が「麻原に頭が上がらない、申し訳ない」という気持ちを常に持つようにさせ、麻原に究極的に依存する状態にさせていきました。ここでのポイントは、麻原が、こうした根拠のない大袈裟な愛の表現を恥ずかしげもなく真顔で語るために、それに多くの信者が騙されてしまったということです。よって、こうした詐欺師的な愛の表現にも、気を付けなければなりませんでした。

                               2017年3月


                                             >>オウムと出会ってからひかりの輪になるまで




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