指導員・会員の総括

専従会員の総括 小林由紀 「オウムの事件と病理の総括」

■(12)生きて行く意味

●償い...地球のためにできること

 今まで私は、縁のあるたくさんの人にお世話になったり苦労をかけたり、苦しみを味わわせたりして生きて来ました。そのことに対して感謝することは難しくはありません。しかしその恩返しとしては、オウム的思考では、彼らを上から救済するのだという思考になっていました。

 他の生きもの、自然に対しても、例えば牛や豚、鶏などを食べていても普段は感謝することもなく、ましてや野菜に感謝などしなかったのです。小さい頃、お米を食べる時にお百姓さんに感謝をするとか、食べ物が血や肉になっているということは親からあるいは学校で習ったのですが、食べ物自体に感謝の念というのはありませんでした。

 でも最近は、あちこちの自然の中に行って瞑想しているうちに、人だけでなく地球に恩返しをすることが、生きることそのものなのではないかと感じるようになりました。そう感じるようになったのは、総括を深めるにつれ自分のエゴというものがクローズアップされ、もうこの性格は直らないのではないかと行き詰まり、生きて行くことは罪でしかない、でも自殺は人の迷惑になり悲しませるから、「もう死なせてください」と、神とも言えるなにものかに祈った時でした。

 有機化合物として身体が土に溶けて分解されるのを想像していると、暖かい土の中で、地球から「地球の中で自然に生かされているのだから、あえてそれに逆らわなくてもいいじゃない、そのままで生きていればいいじゃない」、と言われているように感じたのです。それは、自分自身の内奥の声のようでもありました。はじめて上高地に行った数日後のことでした。

 その時ハッとして、これまで解脱しようとか、悟ろうとか、性格を直すということも含めて、「自分が頑張るんだ」と言ってがむしゃらに生きて来たこと自体、エゴだったのではないか、と思いました。

 オウムでの修行は、大自然、大宇宙との調和を重んじるのではなく「私は頑張って解脱し、救済する」というものであり、人の上に立って指導者になるというものであり、自分が苦しめている人を傍目に架空の理想を追いかけて神になろうとしていたのであり、それ自体が善悪二元論に囚われていたわけです。

 そういった二元論的思考や、頑張って高みに登りつめようとするエゴは、果てには「私は神の国に行くんだ。私はけがれた社会を正すぞ。」となり、オウム事件や、世の中のさまざまな争い、テロにつながるものになるのではないかと思います。

 やはり、解脱しようとか悟ろうとか、自分ではないものになろうとして頑張るのではなく、ありのままに、そのままで生きて行くことができるということが、自然と一体になっているということなのだろうと思います。そのことを、無為自然というのだろうなと思います。

 そう感じてからは、これまでの習慣的思考や性格の傾向を変えることは難しいことに思えるけれども、何かに気づけば、今の自分とは大きく違う自分に生まれ変わることは可能なのだな、と思うようになりました。

 それは自分で頑張っても、努力してわかるものではなく、大自然や大宇宙のような、自分を包み込んでいる大きな世界から教えてもらうことなのではないかなと思いました。それは、ここ最近のことです。

 また、私がもともと願っていた、戦争のない世界のためには、戦争の原因となるものをなくすことが必要だと思いますが、それの一つが何であったか、それが皮肉にもオウムに没入したことでわかりました。

 「自分が正しく誰かが間違っている」という心、この心が昂じると、オウムのように、独善的になり、他を悪として排するようになり、戦争やテロを起こすそのおろかさがわからなくなってしまいます。

 人は、正しいもの、聖なるものだけを追い求めていても、決して救われない、この世に存在しているものを、すべてありのままに受け入れることができなければ、誰かがどこかで苦しむことになり、今自分が幸福を感じていても誰かの苦しみと引き換えになっているとしたら、必ずあとで自分も苦しむことになることも経験しました。これが仏教で言われる因果応報、自業自得というものであったのだと思います。

 オウムでは、後半になって特に「これを行えば来世高い世界に行ける」という教えが強調されるようになっていたと思いますが、この教えは「来世のためなら今生どんなことをしても良い」などとなる危険性を秘めています。

 これは、宗教的テロリズムによくありがちなことなのではないかと思います。自爆テロを行なう若者も、そういう来世信仰のもとに、神の国へ行くことを信じて行なうのだと思います。彼らの悲しいほどの祈りはわかりますが、本来の仏教の教えに立ち返れば、こういった価値観は間違っていて、苦しみをもたらすのだと理解できるようになると思います。

 今までのことを振り返ってみると、もともと自分の心の中に存在していた分裂した2つのもの、善と悪とを、極端な形で経験したように思います。今後もより自分の心を微細に見つめ、悪と思われる部分は特に、隠すのではなく受け入れることによって、悪に対して拒否反応を起こさず、結果的に悪の部分を早く見つけて消すことができるような気がしています。

 約一年前この総括を書き始めて、いったんは「私はなんて悪い性格なのだろう」と落ち込みすぎていましたが、だんだんと、もともと人に感謝できる部分も備わっていたのだということを思い出したり、子供の頃や高校時代など、友だちから慕われていたことも思い出し、私には悪の部分もあったけれども、善の部分もあったんだなと、とても意外なことのように、あらためて発見したのです。

 数ヶ月前は、もう私には何もできないと思っていました。能力も体力もなく、おまけにうつ状態になっていたからです。でも、それはもうどうでもよくなりました。よく考えたら、脱カルト、脱マインドコントロールの指導ならできるじゃないか、と思いました。なにも、人間を超えて神になる指導をしなくてもよいのです。人は人として幸福に生きる実践をすればよいのであり、聖者にならなくてもよいのです。今まで何かにがんじがらめに縛られていたのだなと思いました。

 私はただの人間であり、ただの雑草かもしれないけれども、もう立派なヒノキになろうとは思わなくなっていました。人はそれぞれ生まれて来て役割を持っています。自分でないものになろうとしなくてもよいのです。私が私のままに生きようとしなかったことによって、ほかの誰かが苦しんでしまった、そのせいで何かのバランスが崩れてしまった、ということもわかりました。

 2003年頃、引きこもりになってはいけないと思いスーパーでアルバイトをしていた時のことを、今ふと思い出しました。野菜の試食販売をしていて、「おいしいですよー、いかがですかー!」と、通り過ぎて行くお客さんに声を掛けていた時のことです。一人のおばあさんが、「最近のトマトはおいしくないねえ」と話しかけて来ました。「そうなんですか」「昔のトマトはおいしかったよ。今は野菜もおいしくない。人間も、寝たきりになっちゃいけない、人はみんな必要があって生まれて来ているんだよ。」と言うのです。
 
 「?...そうですね」「私はもう86だけど元気だよー。」「86なんですか?!」「そうだよ、みんな必要なんだ、みんな意味があって生きているんだよ。」私は、聞いているうちになにか抑えていたものが吹っ切れて涙がどっとあふれて泣き出してしまいました。スーパーの真ん中で売り子さんが泣き出してしまうシチュエーションをおかしいなと感じながら、その衝動を抑えることはできませんでした。

 おばあさんは、「アハハハ、、」と、私の肩を叩いて、なんとなくばつが悪そうにその場を去って行きました。通りがかりの主婦らしい年配の女性が「いろいろあるよね、」と言いながら通り過ぎて行きました。

 「私は偉い人間ではなく、弱い人間である、でも、それをサマナには見せてはならない、なぜかというと、私は成就者であり聖者なのだから、欠点や弱さを見せたら修行に対する信をなくさせ、幻滅させ、サマナが落ちてしまうからである。」そういったプライドがその頃はまだありました。

 でも、それはかえって心の成長には妨げになると今では思っています。オウムが地球のトップであり人類の中で一番強い心を持っているという超幻想は、その時とっくに崩れていましたが、まだ取り繕わなければと思っていました。でもそれは、今はもう必要ないと思います。その人のできることをしていればよいのだと思います。

 オウムで聖者であるとして認められたプライドが消えると、自分がいまだ救われていないどころか精神的にどこか問題があるのだ、ということがクローズアップされて来ましたが、ここ最近、本来の仏教の勉強を深めて行くにつれ、仏教というのは実にオウムと正反対の教えであって、人の精神病理をかなり癒すことができるのだということを実感するようになりました。麻原がオウムで説いた仏教は、内容が浅かったり都合のよい解釈がされていたのだということもあらためて知りました。

 私が、今まで外部の脱マインドコントロール研究者などに頼ることはなく、自分たちの中でやろうとしたのは、仏教的な実践や生活形態を崩さずに、マインドコントロールの部分だけを脱したかったからです。それは、95年当時に、「オウムにいた幹部が逮捕されて脱洗脳された」とかいう噂が流れ、仏教的実践も失ってしまったというので、それに対して悪い印象を持っていたというのもあります。

 しかし、オウム真理教の教祖が病的であったと感じるにつれ、人が持っている人格障害的な面については、子供のころから、周りの大人があるていど精神科医やカウンセラーなどの専門知識を持っている人からも学ぶことによって、適切な生活指導や治療を行なうことも、もっと行なわれなければいけないのではないかと思うようになりました。

 それは、最近の若者が無差別通り魔事件などを起こしてしまうような心理的要因を作らないということにもつながり、周りの大人が子供の健全な成長にもっと心を配ることが絶対に必要な世の中になっていると思います。

 そしてそこに、仏教的な生き方、つまり煩悩を少なくすることによって心が満足すること、その方法が取り入れられることが今の時代には必要なことだと思っています。仏教には、すべてのトラウマを癒す力があると聞いたことがありますが、私も今そう感じています。

 精神医学の世界でも、真にマインドコントロールを解くのは難しいとされているそうですが、たしかに、特にオウムなどの、社会と異質な価値観を絶対としていた世界にいた人が、自分のアイデンティティーが崩壊する中で、生きて行く方向性を確定するまでは大変な作業だというのは、よくわかります。

 私自身2002年くらいから徐々にマインドコントロールを解こうとしはじめ、2006~2007年ごろには、精神が混乱する中で正常を装うのがやっとという状態を経て、だんだんと別の生きる道が見えて来たのは、ひかりの輪が、オウム時代とは違った、縁起の法や、華厳経の教えなどの仏教的実践を取り入れて行ったからです。二元の意識から一元の意識に向かい、地球や宇宙とともに生きて行く、これが、本来の仏教の生き方だったのだということを知ったのです。

 強い劣等感から、虚栄心を満足できるものを探し、それを掴んで手放せなくなる結末は、依存症とも言える精神不安定だと思います。また、それがエスカレートし、神になろうとまでした結末は、ほんとうの自分との分裂、精神病に行き着くと思います。

 虚栄心を手放す過程では、今まで生きて来た中での価値観がなにもかもなくなり、自分自身さえすべて消えたような感覚になりますが、それでも、仏教的価値観によって新しく生きて行く方向性を見出すことはできるのだと思います。

 私は今まで自分に嘘をついて生きて来たと思います。オウムでは「情緒、感情は煩悩だ」とされて押し殺して来ました。しかし、人を傷つけない限りは、人は悲しいことは悲しい、嬉しいことは嬉しいと、そう感じることが健全なのではないかと思います。

 これからは私も、その中で仏教的な瞑想を取り入れ、すべては心の現れだと知って、周りの苦しみに共感し思いやりを持って、調和する方向の生き方をしたいと思うのです。そういうふうに価値観が変わって、今は修行のやり直しになっています。身の回りのあらゆるマインドコントロールの呪縛から心を解き放って、大自然の流れに合わせて生きて行くという修行です。

 それは、わかりやすく言うと、妄想の世界である「あっちの世界」に住むのではなく、常に地球の自然とともに「こっちの世界」に意識を置いて生きて行く、ということにもなります。オウムでは、「あっちの世界」に意識を向けすぎて、現実世界と意識が分裂してしまう教えでした。それは、仏教の「色即是空」に反し、その結果、より精神を病んでしまうことになった、と思っています。

 2ヶ月ほど前、高橋シズエさんの著書「ここにいること」を読みました。ごく普通に、しっかりと生きていた高橋さんの家庭を不幸にしてしまった原因が私にもあると思うと、読むのがつらい部分もありましたが、人間として、女性としてとても共感し、正直に、強く生きようとしているシズエさんの生き方に、私の方が励まされるようでした。

 まだまだ私の中での総括は続きます。今まで人を苦しめて来た償いのため、賠償を続けて行くと同時に、地球のことを考えた活動をこれからも考え、ひかりの輪を育てて行きたいと思います。「ひかりの輪」自体は大きくならなくても、同じような活動をする人やグループがあちこちで自然に集まって地球のために何かができたらいいなと思うのです。

 最近何度か福岡県の実家に行ったのですが、その時にあらためて、「私は、どうしても、償いになる何かをしなければ生きて行けないな」と思いました。家に帰って普通に仕事をしたりするだけでは、今までオウムでなして来た何かが清算されないような、ただ生きているだけでは罪が残るような気がして、やはり、何か今までの反省にもとづいて間違っていた部分を清算して、本来やりたかったこと、平和な地球を作ることのための仕事がしたい、という思いに駆られるのです。

 だからやはり、同じように償いをして行こうとしている人たちが集まった、ひかりの輪の中で生きていくのが自然な気がしています。

 私の生き方はまだ間違っているかもしれません。いえ、きっとまだ間違っていることがあると思います。自分に気づかないことがあったら周りの方から教えていただかなければわからない部分もあります。どうか今後もご指導よろしくお願いいたします。

 長い文章を読んでいただいてありがとうございました。

                          2008年9月2日
小林由紀

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