「はじめに」
この文章のタイトルに反して、私は、一連のオウム事件には一切関与しませんでしたし、事前にも全く知らされていませんでした。事後には、2000年になって、ようやく上祐代表から事件の実態を公式かつ詳細に知らされたというところです。ですから、私は、オウム事件については直接の刑事責任はありません。つまり、私は事件には直接関係ない。
そうした思いが、過去の総括を、今の今まで遅らせてきた一つの原因となりました。
しかし、一人の出家信者として、凶悪重大犯罪を犯した教団の維持・発展に尽くした道義的責任がありますし、何よりも、自らこの宗教の道を歩んできた者である以上、宗教的な責任からは決して逃れられないと現在は思っています。
今も苦しみ続ける事件のご遺族や被害者の姿を、マスコミ等を通じて目の当たりにしつつ、何もすることができない自分の無力さ、それどころか、以前は事件を宗教的に肯定しようとさえしていた情けない自分を振り返るたびに、その思いは拭いがたいものとなっていきました。
仮にも国家社会や人のために生きたいと決意してこの道に入ったにもかかわらず、全く正反対に、国家社会を混乱に陥れ、多くの人を苦しめるという不本意な結果を招いてしまった以上、私たちと同じ過ちを繰り返す人たちが今後出てこないように、私たちの教訓を残すことによって、せめてもの罪滅ぼしをさせていただければと願っています。
そこで、これから私が経験してきた限りのことを記していこうと考えていますが、最初にその流れをごく大まかに示すとすれば、以下の通り5つの段階に分けることができます。
●1 生まれてからオウム真理教に出会うまでの間、様々な霊的・哲学的・時代的な要因が積み重なって、オウム真理教に入信する動機を徐々に形成していきました。これは、いわば土壌の形成期といってもよいでしょう。
●2 形成してきた動機に基づき、それに最もマッチする存在として、私はオウム真理教を選び取りました。1989年に入信してからは、自分の精神や肉体に明らかに好影響があったのを感じたので、ますます教団への確信を深めました。
その段階では、教団の教えや修行は、自分にとって「よいもの」であり、「論理的・合理的・実証的に納得できるもの」でした。おそらく私以外の大多数の人にとっても同様に認められる存在だろうと考えていました。
そんな気持ちを抱きつつ、自分が通っていた仏教系の大学を捨ててまで、1990年に教団に出家します。
●3 出家してからは、建設部、外報部、法務部、広報部、出版部等で奉仕作業をしていきました。
その過程で、教団の教えや修行への確信はますます深まっていきましたが、その一方で、私が入信した時期と比べると、徐々に教団が変質していくのも感じました。
具体的には、松本智津夫(麻原彰晃)死刑囚(以下、麻原と表記)への個人崇拝の色彩が濃くなっていくとともに、終末思想や、社会との対決的思想が強くなっていくのを実感していました。
当初は少し違和感を感じましたが、自分がいったん「論理的・合理的・実証的に納得できる」「よいもの」として受け止めた教団でしたから、たとえ自分にとって理解しがたい行動をとり始めたとしても、それは今の自分に理解する能力が欠けているだけのことであって、いずれはその不可解な行動も、「論理的・合理的・実証的に納得できる」「よいもの」として理解できるときが来るだろうと考え、自分を無理に納得させていったのでした。
つまり、この時期からの教団に対する私の納得は、「論理的・合理的・実証的」なものではなくて、あくまでも「推測」に基づくものとなっていったのです。
それはたとえ、非合理に感じられ、実証できるものでなくても、現にこれまでは合理的で実証できる「よいもの」だったのだから、この延長上にも、きっと合理的で実証的な「よいもの」が存在しているはずであるという、まったくの「推測」にすぎなかったのです。
そして、その「推測」を裏付ける(ように見えた)様々な出来事も積み重なり、「推測」を強化していったのです。
また、教団内の一種独特な雰囲気に、私自身が周りの皆とエキサイトしていき、それを楽しんでいる側面があったのも厳然たる事実です。
●4 こうした「推測」に基づく信仰の傾向は、1995年の地下鉄サリン事件以後2000年までの間に、ますます拍車がかかっていきました。
地下鉄サリン事件が起きた当初は、私は、教団が事件を起こしたとは考えていませんでした。今となっては恥ずかしい話なのですが、事件は国家権力によるでっち上げで、教団は陥れられていると考えていました。
この日、私は麻原と直接電話で話したのですが、麻原も教団こそ被害者だと話していたので、私はそれを信じ込みました。
やがて、林郁夫氏をはじめとする教団元幹部らが事件関与の自供を始め、坂本弁護士ご一家の遺骨が発見されるなどするにつれて、教団は事件に関与したのではないかという疑いを強めていくことになります。
とうてい信じられないという気持ちと、関与は間違いないという現実との間に挟まれ、相当苦しみましたが、そこで出した私の結論は、「この事件には何か深い意味があるに違いない。尊師の深遠な救済活動に違いない」というものでした。
つまり「推測」です。
これまで(というよりも入信当初の体験)が「合理的な」「よいもの」だったのだから、その延長上にあるこの事件も、「よいもの」であるに違いないという「推測」、いやもっと正確にいうならば、「よいものであってほしい」「あってもらわなければ困る」という「願望」、さらには「熱望」の要素が加わってきたということになるでしょう。
ここまで至ると、傍目には盲信や狂信の世界なのですが、当時の私や周囲の人たちは、大まじめで、こういう心境なのでした。
ただ、その一方、教団内で社会に対応する部門(広報関係等)に所属して、社会一般の方々の苦しみとじかに接する機会が多かった私には、その怒りや苦しみも、身にしみるように理解できました。
社会と教団との間に立って苦悩煩悶しながらも、「たとえ事件を起こしたグル(導師のこと)であっても、とにかく自分は信じるしかない」という、推測、願望、熱望に基づく信仰が続いていきました。
こうした推測や願望の背景には、自分自身の判断力に対する過信、ひいては自分自身へのプライドがともなっています。
換言すれば、こうしたプロセスは、自己のアイデンティティ、プライドの崩壊を恐れての、自己防衛のための必死の「もがき」だったともいえるでしょう。
そういう中で、予言の1999年を待つというのが、当時の教団内の雰囲気でしたし、私もそれに、現状打破の一縷の望みをかけていた面があります。
●5 ところが、1999年には特に何も起こらず、実際に起きたのは教団に対する新しい規制法(無差別大量殺人行為を行った団体の規制に関する法律)の制定でした。破局は世界にではなくて、教団に訪れたのでした。
また、その直後に上祐代表が出所して教団に復帰し、事件の真相を話し始めるとともに、麻原は絶対的存在ではなかったと説き始めました。
事件は、自分たちの心の汚れがあらわれ出たものであって、自分たちが作り出したという責任もあるという上祐代表の話を聞いて、確かに自分にも思い当たる節はあると思うようになり、これらのことから、私の中に、冷静に現実的に事を見直そうという気持ちが少しずつ芽生えていきました。
とはいえ、麻原への強度の依存心が依然としてあったのも、また事実でした。
2003年になると、そうした上祐代表の改革方針が、麻原を絶対視する出家信者ら(それはとりもなおさず私自身のかつての姿でもあったわけですが)によって否定され、上祐代表は一般信者から隔離され、集中修行という名目で事実上軟禁されるに至りました。
私は上祐代表を支持しましたが、教団の中では少数派であり、反上祐の人たちからかなりの批判を受けました。
ここで自分が教団内で激しい批判にさらされる立場に立ったとき、遅まきながら、初めて宗教戦争や宗教テロの恐ろしさを感じたのです。
麻原への絶対視――それは私自身がそうだったように「推測」や「願望」に基づく信仰ですが――が存在するあまり、その事件を宗教的に肯定したり、麻原の絶対性を否定する人たちに激しい攻撃を浴びせたりするというあり方の中に、かつての事件を引き起こしたオウムを見、また世界で頻発している宗教戦争の姿を見たのです。
この世から戦争を無くしたいというのも私の入信動機の一つでしたが、その教団が、外部に対してだけでなく、内部に対してもその矛先を向けて戦争を引き起こす精神構造をいまだに堅持しているということに身をもって気づいたとき、私が歩む道は反上祐派が主導するアーレフの道ではないということを確信したのです。
そして何より、麻原自身、オウム国家を作ろうという狙いのもとで、あれだけの事件を引き起こし、あれだけの被害者を苦しませ、信者も苦しませ、国家社会に損害を与えておきながら、裁判では不規則発言を繰り返すなどして、一切責任をとろうとしてきませんでした。このような麻原は、多くの人を苦しめた無責任な加害者にほかならず、もはや救済者でも何でもないと思うようになりました。
しかし、このような麻原や教団は、ほかならぬ過去の自分自身の姿であり、その自分の心の傾向が、あのような麻原と教団、そして事件を生み出したのだとも思ったのでした。
つまり、この文章のタイトルにあるとおり、オウム事件を起こしたのは私自身だったということです。「私が起こしたオウム事件」というわけです。
その後、推測や願望に基づく信仰、言い換えれば無理に執着している自己のアイデンティティ(アーレフの場合は、麻原の絶対性=その裏返しである自分自身の絶対性)を放棄してこそ、はじめて他者との対立や闘争を超えた、本来の仏教者が求めるべき広大な意識に到達し、世のためになることができると感じていくようになりました。
そうした考え(一元的な思想)が、麻原への絶対視を超え、私をひかりの輪への流れに導いていくことになりました。
――話の流れをごく大まかに述べると以上のようになりますが、こうした過程を以下にできるだけ詳しく書いていきたいと思います。