指導員・会員の総括

細川美香 オウム・アーレフの総括と今後の抱負

『オウム・アーレフの総括と今後の抱負』

●中学の頃、求道心の兆し

 中学生の時に一つの出来事がありました。

 それまで普通の家庭で、宗教とはまったく無縁の環境で普通に育ってきましたが、中学生の時に突然、自宅に仏像がやってきました。私の母が祖父(母方の父)にもらってきたのでした。

 私の家には仏壇がありませんでしたから、タンスを改良し、仏像をおくスペースを作りました。そして私は、誰に言われたわけでもないのですが、朝晩に仏像を拝むことが習慣となりました。

 毎朝、仏像にお香をあげて「今日も一日よろしくお願いします。」と手を合わせ、夜、寝る前には、「今日も一日ありがとうございました。」と拝んでいました。こんなことは中学生の女の子がするようなことではないと思うのですが、自然と毎日仏像を拝むようになっていました。きっと神聖なものに対する、潜在的な畏敬の念のようなものがあったのだと思います。

 高校を卒業してからは、普通に働き、人並みに青春を楽しんでいました。カラオケ、ディスコ、などなど当時のОLがやっていたことは、ほとんどクリアしていました。というのは、それなりに好奇心がありましたので、なんでも良いから、その時、流行っていることをやってみたい、という思いから、いろんなことをしてみました。

 一方、そこから何かが得られるのではないかという思いがありましたが、いわゆる、遊び、といわれるものからは、何も得ることができませんでした。そんな中でも仲のいい友人との旅行は特に楽しみでした。

 この旅行でたくさんの神社仏閣にも行きました。ここでも潜在的な何かが働いたのかも知れません。ただその時は神聖な気持ちで神社仏閣を訪ねたわけではないので、何かを得られたということはないのですが。

 そして「ひかりの輪」で今、行われている聖地巡礼修行で訪れた神社仏閣の多くは、このOL時代に訪ねたところが、いくつもありました。聖地・神社仏閣に、縁があるんだな、と思いました。

●88年オウム真理教との出会い。

 順調だったOL生活に変化が現れたのが入社3年目でした。だんだんと仕事がつまらなくなり、会社を辞めたくなって来ました。しかし、このときは考え直して思いとどまりましたが、その1年後にまた会社を辞めたくなってしまいました。

 そして「今度こそ会社を辞めたい」と思い悩んでいたとき、去年と同じことで再び悩んでいる自分に気がつきました。「もしかして自分はまったく成長していない、去年と変わっていないのでは」と思い、愕然としました。自分が成長していない、という事実が自分にとっては耐え難いことでした。成長していない自分を許せませんでした。

 私はもともと「一年前よりも今年、昨日より今日の自分は少しでも成長した自分でありたい」という気持ちを持っていました。それなので、成長していない、不甲斐ない自分に対してとても腹が立ちました。なんとか自分を成長させなければ、という想い、焦りが強くなっていきました。

 そしてこのころ、以前から人の役に立ちたい、人助けをしたいという思いがあり、そういった道も模索し始めていました。当時は「カルマの法則」なんて知りませんでしたが、人の役に立つ生き方、人を幸せにする生き方をしなければ、自分は幸せになることはできないということをなんとなく感じていました。だから何かをしなければという焦りのようなものも感じ始めていました。

 ただ、何をどうしたら良いのかは、まったくわかりませんでした。そんなときに、オウム真理教に出会ったのでした。88年3月のころです。

 出会ったと言っても、私が直接的にではなく、私の母が宗教本をいろいろと読み漁っており、そうこうするうちに、「マハーヤーナスートラ」という本に出会い、母はそれを読み、「これが私の求めていたものだ」と思ったそうで、すぐさま入信に至りました。
同じ3月、私の弟の一人が入信しました。

 そのころの私はと言えば、宗教には興味がなく、というより胡散臭いものだと思っていました。

 それまでも母の勧めで、立正佼成会や生長の家などにも、多少首を突っ込んだことがあるのですが、どちらもこれで人が救われるとは思えない、という印象だけが残ってしまい、宗教に対して、興味が持てませんでした。ですから、当然、オウムについてもそうでした。

 3月、母が入信する際に、一緒に道場に行って欲しいと言うことでしたので、行くだけならと思い、一緒についていきました。

 初めて訪れた道場を見て、まず、祭壇に違和感を覚えました。私はどちらかというと、控えめな感じが好きでしたので、祭壇に掲げられているグヤサマジャを見たときは、「ちょっとこれは好きになれないな」と思いました。

 でも、そこで印象的な出会いがあったのです。それは都沢さん(ウッパラヴァンナー正悟師)との出会いでした。

 彼女は私を見たときに「どこかでお会いしたことありませんか?」と言われたのでした。今までの経験の中で、このように言われたことがなかった私にとって、これはとても印象に残った出来事になったのです。なぜ、このときのことが印象深かったのか、というのは、後でお話ししますが、それは、アニメーションなどで培った私の潜在的な欲求と関係しています。

●入会したときは、まったく信仰がなかったこと

 ともかく、こうして、親に一緒について、道場に行ったものの、その日に入信することは、当然しませんでした。

 しかし、そのような私が、最終的には、なぜオウムに入会したのかと言うと、そのころ、私が悩みを抱えていて、精神不安定になっていたこと、それを見るに見かねた母の強引ともとれる、強い勧めにあったからでした。

 人に言われて入会はしたくなかったのですが、反抗もできなく、言われるままに、親に連れられて再び道場に行きました。

 そして、入会を勧められた際も、「私、修行する気ありません。それでもよければ入信します」と言い、なんとか入信を避けよう、と思いましたが、スタッフの方が、「それで良いです」と言われたので、私としては、抵抗する理由がなくなり、結果的には、ヨーガタントラコースと呼ばれるコースを選択する形で、オウム真理教に入信をしたのでした。88年、6月15日のことでした。

 やる気がある状態で入信していませんし、松本智津夫死刑囚(以下、麻原と表記)に対してもまったく信頼がありませんでしたから、修行はほとんどしませんでした。本もほとんど読みませんでした。

 母が自宅に麻原の大きなポスターを張り、それに向かって拝んでいる姿を見るにつけ、私はその行為が理解出来ず、悩んだものでした。なんで、こんな人が良いのかな、と。

●転機が訪れて、教団の活動に参加し始める

 しかし、こうした私に、あるとき、転機が訪れました。それは何かというと、失恋でした。その失恋をきっかけに、少しずつですが、オウムの修行、活動を行っていくようになりました。

 まずは何か目標を持つ必要性がある、と思い、石井さんが行なう、教団が「シャクティーパット」と呼んでいる密教的な儀式を受けることを目標としました。

 その後、89年初冬に行われた10日間の合宿となる「狂気の集中セミナー」に参加。当時、その宣伝文句は、「狂うか、悟るか、解脱するか」という、激しいものでした。

 私自身は、まったく参加する意思はありませんでしたが、ある時、母と共に道場に呼ばれて行ってみると、都沢さんに道場の祭壇の前に座るよう促されました。そして、私たち二人にたいして、このように言われたのです。

 「解脱するか、天界にいくか、どちらか選んでください」と。それを聞き、母はすぐに「解脱します」と答えたのですが、私はと言えば、ひどく悩み、どうしようと思い、「家で考えてはだめですか?」と聞きました。しかし、「どこで考えても同じ。ここで結果がでないものは、家でも結果はでません。だから、答えるまで、今日は帰れません。」と言われたのです。

 私は観念して、しばらく考えた末、「どちらも極限で行わないといけないという点では同じある。それであれば自分にとって、より得になる方が良い」と思い、私は「解脱します」と答えたのでした。

 そしたら、都沢さんはにっこり笑って「それでは麻原からのマハームドラーです。お二人とも狂気の集中修行にでるように」と言われ、「え?なんでこうなってしまうのだろう」と思いながらも、その言葉に逆らうことが出来ず、積極的ではないにしろ参加することになりました。

 自宅に戻ってから、この日、起きた出来事を考えてみましたが、「もう、後戻りできない」という、なんともいえない気持ちだけが心から湧いてきて、しばらく気持ちが落ち着きませんでした。

 10日間の狂気の集中セミナーを無事終えた後は、セミナーで燃え尽きたこともあり、脱力感が強く、しばらくは道場に通いませんでした。

 3ヶ月後くらいに道場に行くと、都沢さんが、「美香ちゃん、すごい本が出るわよ、その本を読んだら出家しかないから!」と言われたのでした。私は「そんなにすごい本が出るんだ」と思い、多少の期待を抱いていました。

 そして、その本とは「滅亡の日」だったのです。いわゆる、予言本でした。私は、その本を読んだのですが、あまりインパクトがなく、「なんだ、預言の本ね」という程度の印象で、当然の事ながら、出家には至りませんでした。


●選挙活動でバクティ(奉仕)をする

 その後、また、道場に通わない日々が続いていたある日のこと、先に入信していた私の弟が、都沢さんから道場に呼ばれる、ということがあり、そろそろ私も道場に顔を出さないといけないな、と思っていましたので、一緒に行ったところ、道場で話をされた内容は、選挙活動のバクティのお話でした。

 麻原が選挙に立候補するということで、それにともない選挙活動を行うから、その活動のための奉仕活動のお誘いでした。そして、奉仕活動に参加をしつつ、そのまま出家をする、という話でもありました。

 私には関係がない話しだと、他人事のように聞いていましたが、私にも矛先は向けられ、会社をやめ、奉仕活動の参加、そして、出家を勧められました。その場では決めることができず、家で考えたのですが、結論としては、会社を退職せず長期休暇を取り、奉仕活動への参加のみということにし、それを伝えました。

 89年10月ころ、弟と共に東京に行き、奉仕活動に参加しました。しかし、あまりのハードさと、冬の寒さに耐えられず、結局、最後までやり遂げず、12月の終わりに自宅に戻りました。


●麻原が選挙に落選する夢を見た

 その後、年があけ選挙が近づく中で、もう一度東京に出向き、奉仕活動を行いました。そして、教団の中では、麻原が当選する、ということが言われていました。多くの人がそれを信じているようでした。

 ところで、私は、その選挙結果が発表される朝に、麻原が落選する非常に鮮明な夢を見ていたのでした。今もそうなのですが、私は、非常に鮮明な夢を見て、それが現実になることがよくあります。それほど多くはないのですが、いわゆる正夢、予知夢と言われるものだと思います。

 しかし、当然ながら、そんな夢を見たことは、教団の中では、口に出せるわけがありませんでしたから、しばらく、その事実は言わずに、それから20年近くたった、新団体ひかりの輪で開かれた総括会合で、ようやく口にしたことを覚えています。

 今、思えば、私は、その選挙のころから、麻原のことを否定するようなことを言うのは、「してはいけないこと」、というただならぬ雰囲気を教団の中に感じていたのだな、と思います。

 さて、この選挙活動を通じて、多くの人が出家をしていきましたが、私自身は、選挙活動が終わり、しばらくまた、道場に通わない日々が続いていました。

 そして、90年の4月に、名古屋道場長から母と一緒に道場に来るように言われました。これが、私にとっての大きな転機、つまり、出家する流れを作っていきます。

●石垣島セミナー

 道場に行き、道場長の部屋に呼ばれて入ると、神妙な顔で「鍵をかけてください」と言われました。そして、次に言われたことは、「何も聞かずに、一週間仕事を休んでください」とだけ言われました。
 
 私は内心、「そんなことできるか、理由もわからず、突然、一週間休みを取れって言われても」と思っていました。理由を聞いてみましたが、「理由は言えないから、聞かないで欲しい」と言われました。

 そして、「家族や縁のある人で、信徒でなくても一緒に参加できるなら、そうして欲しい」と言われました。ただならぬ雰囲気を感じたので、理由はわからなかったのですが、一週間仕事をお休みして、そのセミナーに参加しました。

 私の家族は父、母、弟2人の5人家族でしたが、父以外はみんなオウム真理教に入信していましたので、4人でそのセミナーに参加しました。できる限り多くの人を誘ってということでしたので、父にも話しはしてみましたが、当然のことながら、参加はしませんでした。

 いわゆる、それが、オウム真理教の「石垣島セミナー」だったのです。大阪道場に集まり、その後、いくつかのグループ編成がされ、そのグループで行動をすることになり、まずは、大阪港まで行き、そこからフェリーに乗りました。そして着いたところが石垣島だったのです。

 麻原はもちろんのこと、その家族、そして、馬や犬まで、フェリーから出てくるのを見ました。一体何が起こっているのか、訳がわからない状況でした。そんな状況でしたから、ひどい船酔いだったこともあり、自分が連れて行かれた所が、石垣島だったことさえその時はわからず、後に知ることになるのです。

●出家を勧められる

 石垣島では、まずは浜辺で修行をおこない、夜はテントを張り、そこで寝ました。次の日は何をやったのか、あまり覚えていませんが、急に集合がかかり、一人ずつ呼ばれ、出家を勧められました。

 私自身は自分を変えていきたい、そして、できれば人の為になりたい、という思いはあったものの、現世的に幸せになりたい、いわゆる、いい人に巡り会って、結婚をし、幸せになる、というごく普通の希望がありましたので、出家に対しては消極的でした。

 しかし、オウムの教義を学ぶにつれ、仏教が説くカルマの法則(自分がなした事が自分に返ってくるという教え)を徐々に信じる中で、私は、自分が本当の意味で幸せになるには、今の自分の持っているカルマを乗り越えないと、本当の意味での幸せにはなれないんだな、というように、物事を考えるようになっていました。

 そして、私のような怠け者は在家では無理だろうなと。やはり、出家して修行するしかないのかな、とまでは思ってはいましたが、出家するだけの強い動機には結びついていませんでした。

 その面談の前には、2つの選択肢の話がありました。一つは在家の道、これを選んだ人は、今日そのまま石垣から自宅に戻る。もう一つは出家の道、これを選んだ人は、そのままサマナと石垣に残る、という説明の話がありました。

 その話を聞くだけでしたら、どちらかを選べば良い、という話になるわけですが、単純にそれでは済まない内容でした。というのは、出家の道を選んだ人の方が徳がある、(神に)選ばれた魂である、といった話の内容があり、出家の道を選ばないと、優秀な信徒、選ばれた信徒にはなれない、といったような印象を受ける話だったからです。

 と言っても、自分にその気がないのであれば、断ればいいのですが、私は性格的に、人に良く思われたい、という傾向が強くありましたので、見栄もあって、本当は在家希望であるものの、出家と言わないと格好悪いな、という心が働いて、「どうせこの場をやり過ごせば良いのだから、適当に言っておこう。また、その時期が来たら、何か理由をつけて断ればいいのだから。」くらいの思いで、「では、8月頃をめどに出家したいと思う」ということを言ったのでした。

 しかし、直ちに出家することを選んだ人も、結局のところ、皆で石垣島から帰ることになりました。このセミナー期間は、2日間ほどだったと思います。帰りも行きと同じくフェリーでしたが、途中で、みんなが、船の一番下層の客席ではない場所に集められ、そこでイニシエーション(秘技伝授)が行われたのです。

 それは液体を飲む、というイニシエーションでしたが、多くの人が船酔いにかかっており、吐きそうになりました。しかし、出家者の人たちが、吐くと悪業になる、と叱咤していました。

 そして、これは、後で、わかったことなのですが、その液体は、本当は、純粋な宗教的なイニシエーションではなく、実際には、教団が製造研究をしていた、ボツリヌス菌に感染しないための物質(抗生剤とかワクチンのようなもの)に違いない、と思います。

 その後は、また何事もなかったかのように、時は過ぎていくかのように思えたのですが、実際には、大きな転換期が近づいていました。

●オースチン彗星の話がきっかけとなり、出家に至る

 そして、90年5月。

 道場に行った私と母親は、オースチン彗星の話を聞くことになるのです。その当時、実際に、オースチン彗星が地球に近づいていたのですが、教団の話では、オースチン彗星とは、麻原の変化身であり、それが地球を一周する、というのです。

 そして、それはシャクティーパットと同じ効果がある、と言われて、その効果を得るには、出家しないといけない、とも言われたのです。そして、5月20日がそのタイムリミットであると。

 それを聞き、母はすぐさま「出家します」と言いました。横でそれを聞きながら、「なんで、そんなに簡単に出家と言えるのかな」と内心思い、普通に仕事もしていましたし、すぐに出家という選択をすることは、難しく思え、答えかねていました。

 しかし、悩んでいる時に、スタッフの人に、「じゃ、先にお母さんが成就をし、美香さんはお母さんのことを、○○師と呼ぶんだね」と言われると、それを聞いた私の心に、「それは悔しいし、嫌だ」という思いが沸き上がり、「じゃ、私も出家します」と、いとも簡単に言ってしまい、そのため、5月20日に出家をすることが決められました。

 私自体は解脱、悟りを求めていたわけでもなく(当時はそう思っていた)、麻原に信や帰依があったかといえば、それほどでもなく、真面目に救済を考えている人からみれば、私のこのときの出家の動機は、母親に負けたくない、という思いや、オースチン彗星の話に流されたりといった、ある意味で、衝動的な面があったわけですが、その当時の自分としては、自分なりにまじめに真剣に考えていました。

 後に、この石垣島セミナー、オースチン彗星の話の裏には、教団によるボツリヌス菌の散布計画が背景にあったことを、アーレフ代表派の時代に知ることになりました。

 つまり、教団がボツリヌス菌を製造して、それを散布するので、信徒を避難させるために石垣島セミナーを行ったり、フェリーの中で感染しないような物質を与えたりしたものの、実際にはボツリヌス菌は製造されず、何事も起きなかった、ということです。

 また、オースチン彗星が麻原のシャクティーパットである、という話は、ボツリヌス菌を散布することが、いわゆる麻原のポアの形を取ったイニシエーションである、という意味だったのです(とはいえ、私に直に話をしていた名古屋道場の担当者は、そのことを知っていたのではないようです)。地球を一周する、というのは、教団は、ボツリヌス菌を、太平洋を渡る風船爆弾で運んで海外にも散布しようとしていたからのようです。

 この真実の話を知った時、私は、率直に言って、「騙された」という思いになりました。だからといって、恨み節になったわけでもないのですが。このことについては後でもお話ししたいと思います。

 今から思えば、確かに、オースチン彗星の話などは、冷静に考えればあり得ない話なのですが、すでにそれまでに読んだ教団の機関誌の影響や、預言の話もありましたから、あたかもそれが真実のように思ってしまい、おかしなことだと疑わないのですから、データとは怖いものだと思いました。

●90年5月20日 出家をして、ビニール張りの建物で修行する

 無事に出家を果たし、初めは自分の出身支部である、名古屋支部に配属となりました。すでに出家をしていた仲間が何人もいて、心強いスタートになりました。

 そこではビラ配りを行ったのですが、すぐに大予言セミナー第2弾が山梨県にある建物(後に清流精舎と呼ばれる)で行われるため、信徒の方と一緒にバスで移動しました。

 その建物は変わった建物で、壁から天上からすべてビニールが張られていました。私はそのままそこに残り、2,3ヶ月修行を行いました。そこでは、寝るときは蜂の巣ベッドと言って、硬い板で作られ、人が一人寝られるくらいの洞穴のようなベッドでした。慣れるまでは、寝付くことができなくて、大変でした。

 そこではともかく、ひらすら修行でしたが、不思議なことに、一歩も外に出てはいけない、と言われていたのです。 ですから、2ヶ月くらい滞在した清流精舎でしたが、外に出たのは一度くらいしかなかったと思います。

 ここでも建物内になぜビニールが全面に張られていたのかについては、後から知ったことですが、やはり、教団は石垣島セミナー以降もボツリヌス菌の製造散布実験を行っており、細菌の侵入を防ぐことができるシェルターにするために、特殊なビニールを使用していたのでした。

 その後は一度名古屋支部に戻るのですが、1ヶ月くらいビラ配りを行った後、阿蘇に行くように言われ、そこでは建築班のワークを行いました。阿蘇でのワークを3ヶ月くらい行った後、90年の11月ころに富士山総本部の事務に配属されることが決まり、阿蘇から移動していきました。

●富士山総本部でのワーク、麻原との接点が急に増える

 富士に移動してのワークは、事務全般、経理などでした。そして、このころを境に、麻原との接点が急激に増えていきます。そのころ麻原は、富士山総本部道場に隣接している、第1サティアンと言われるところに住んでいました。

 麻原は何か用事があるときには、事務の内線に直接電話をかけてこられ、用事を頼むことが多かったので、ワーク上必然的に麻原の電話に対応する機会が増えていきました。

 初めての電話対応は、ワーク上において行き違いが生じた件について、石井さんから電話があったというものでしたが、その途中で、急に麻原が電話に出て、ワークの行き違いの事について聞いてきました。その時の私は、緊張のあまり、何を言っていいのかわからず、まず、自分の名前を伝え、今日、初めて富士に配属されたことを伝えたのでした。

 私と麻原のやりとりは、最初の頃は、事務的な連絡のみに終わっていましたが、何度かやりとりをしているうちに、私自身の性格的な欠点について指摘されて、それを克服していくための修行法などを教えられました。

●最初は、麻原に対してがっかりしたこと

 その時、指摘されていたのは、「嫌悪」と言うことでした。それを乗り越えるためには、教学と欲如意足(よくにょいそく)という修行を行うと良い、と助言をされました。

 私は、「嫌悪」について指摘されたとき、まず、「嫌悪」という意味がわからず、辞書を引きました。そこには、「人を大変嫌うこと」と書かれてあったのですが、それを読み、私は、「おかしいなぁ、私に人を大変嫌うという気持ちってあるのかなぁ。どちらかと言えば、誰にたいしても分け隔てなく付き合ってきたつもりだったけれど。」と思いました。

 嫌悪についての指摘された会話の中には、「嫌悪があるということは、裏に愛着があるということだけど、細川さんは誰か好きな人がいるのか?」と聞かれたのです。

 当然、「好きな人はいません」と答えましたが、それに対して麻原は、「そうか、おかしいなぁ。本当にいないのか」と言われたのです。そして、この質問と回答が何度も繰り返されました。その時の私は、こちらは必死の思いで出家まで果たして、なんとか毎日の生活を送っている状況の中で、何度も同じことを聞かれたので、「そんなこともわからないのかな」とがっかりしたのを覚えています。

●麻原に信を抱いていったプロセス

 ある時、麻原からの電話に出て、私は「はい、事務です。」と言ったのですが、その一言を聞いて、麻原は、「嫌悪丸出しじゃないか、修行不足だ」と言い、私が怒られるということがありました。

 この体験で、私は、「麻原は一言声を聞いただけで、その人の状態がわかるんだ。やはり本に書かれている神通力があるんだな」と感心したのです。

 ただ、今思えば、私自身は、自分としては嫌悪が出ているという自覚はなかったのです。それなのに私が感心した理由は、単に一言話した後に、麻原が断定的な表現で話しをしたためか、麻原は、私自身が気づいていない自分の真の状態を理解しているのだ、と思った(ある意味では、思いこんだ)のでした。
 
 そんな経験を繰り返しながら、その後、私が、麻原に対して、深い信を持つきっかけになる体験をしました。

 その時、私は、精神的状態が良くなく、とても明るく対応できる状態ではなかったのですが、人前では、明るく振る舞おうと意識して過ごしていましたので、周りの人に、そのことを話したり、相談することはなく、自分のその心を押し隠して、ワークを行っていました。

 そんな状況の時、事務の内線電話がなったので対応したところ、麻原からでした。
麻原は私の「はい、事務です。」と一言を聞いた後すぐに、「無理に明るくしようとしているんじゃないのか」と言われたのです。

 私は、「え?なんで?? 誰にもこのこと言ってないのに、なんで電話の声だけでわかるんだろう」と思い、心は感動していました。それに対して私は「そうなんです。辛いんです」と言ったことを覚えています。ただ、その後、それに対してどんな返事が戻ってきたかは、あまりに感動が強すぎで、覚えていないのですが......。

 しかし、今になって冷静に考えてみるならば、こういった出来事は麻原が自称していた最終解脱者とか神の化身でなくても、ある程度他人に対する感受性が高い人であれば、よくあることであり、当時の私の反応が過剰だったのだと思います。

●なぜ、麻原の言葉に深く感動した(してしまった)のか

 しかし、この時の私は、大変感動しました。それはなぜか。その理由を考えてみると、2つの要因があった、と思います。

 まず、1つ目は、麻原の神通力について、教団では、大量の宣伝がなされていたことがあります。だから、私には、実際の麻原を経験する前から、麻原はすごい人だ、という先入観が相当にできていたのです。

 次に、その根本的な原因として、なぜ、そういった教団の宣伝を疑わずに信じたのか、と考えてみると、そもそも、私自身が、ムーとか、トワイライトゾーンといった雑誌を読んでいて、超能力や神秘・不思議の世界が好きで、そういったものを受け入れやすい、という傾向があったことに気付きます。

 実際に、オウムに入会するときも、先ほど書いた、ヨーガタントラコースではなく、実は、超能力を身に着けられるシッディコースや、現世幸福のポアコースに入りたい、と思っていたのでした(しかし、実際には、周りの人の誘導で、ヨーガタントラコースになっていました)。

●アニメーションで形成されていた私の潜在的な願望

 そして、この私の傾向に関連して、非常に大きなポイントだと思うことが、私は、あるアニメの世界がとても好きで、そのために、超能力がある人がいて欲しい、という強い欲求があった、ということです。

 具体的に言うと、それは、機動戦士ガンダムというアニメで、そのころ、銀河鉄道999や宇宙戦艦ヤマトなどもありましたが、それよりなにより、ガンダム派だったのです。

 ガンダムのどこが好きだったのかと言うと、ニュータイプ同士(ある意味超能力者と言ってもいいかもしれませんが)が、場所は離れていても、相手の心を感じ、通じ合わせるという場面があるのですが、私はこの場面が非常に好きで、憧れている世界でもありました。

 私もいつかこのようになりたい、こういう人と巡り会いたい、という思いを募らせていました。しかし、残念ながら現実生活では、そのような人とは巡り会えず、落胆していました。

 そのような思いを潜在的に抱えながら出家したのですが、その私の前に、すごい超能力を持っていると宣伝されていた麻原が現れました。そのために、先ほど書いたような心理状態になったのだ、と思います。つまり、私が、そう思いたかったから、(そのような人がいて欲しかったから)、そのように解釈した、と言ったら良いのかもしれません。

 今、冷静になって考えると、私が体験した事実自体は、客観的に見るならば、それほどたいしたことではない(奇跡的なことではない)と思います。しかし、私の潜在的な欲求によって、その現象が、とても大きく、大切なものになっていき、結果として、麻原に信を深めて、愛着をしていった、ということだ、と思います。

 その意味で、自分の心の欲求とは恐ろしいものだと思うのです。というのは、その後、約十年間にわたり、この時の出来事がポイントとなり、麻原の愛着からなかなか抜け出すことができなかったのですから。

● 麻原に対する信を更に深めてしまった出来事

 富士でのワークは半年間続いたのですが、次のワーク場所は世田谷にある東京本部でした。そこでも、変わらず麻原からの電話があり、対応する時などは、いろんな言葉をかけてもらっていました。そして、ここでも、さらに麻原に対して安直に信を深めてしまう出来事が起こりました。

 それは、運転手で長野、新潟出張にでかけた時ですが、あまりのハードなスケジュールだったため、新潟からの帰り道に、高速道路での居眠り運転のために、車を中央分離帯にぶつけて、廃車にしてしまう、ということがあったのです。

 信徒さんからのお布施である車を廃車にしてしまったことについて、非常に落胆してしまい、なんとか麻原に懺悔したいと思っていたのです。しかし、自分から麻原に電話をかけることはできませんので、麻原からかかってくる電話をとることが、唯一の話をする手段だったので、かかってきた電話をとることができるよう、思念したのでした。

 そしたら、まもなく、電話がかかってきて出たら、なんと麻原だったのです。このときがチャンス、だと思い、車を廃車にしてしまったことを懺悔しよう、と思ったのですが、私が言うより先に、麻原が「事故を起こしたそうだな」と言われたので、私は、ビックリしたのです。なぜかというと、私が言いたかったことを、私より先に言われるなんて、と、またまた、感動するのです。

 このことも今よく考えて見えれば、「事故を起こしたそうだね」という言葉をそのまま受け取れば、麻原が誰かから事故の報告を受けて、そのために、私に電話してきたことは明らかなのです。

 しかし、その時の私の思考は、麻原が神通力によって、事故が起きたことや、私の願いを察知した、と思いこんでしまい、ただただ、麻原の神通力はすごい、という、信を深めていったのです。

 これも、よく考えてみると、私が、そう思いたかったから、そう解釈したのだ、と思います。

●今から考えれば、絶対的ではない麻原の超能力

 思い起こしてみると、麻原が言われたことで、当たらなかったこともありました。麻原と電話でのやりとりだったのですが、麻原が「細川さんはA型だろ」と言われたので、事実のままに、「いえ、O型です。」と答えました。

 それに対して、麻原は、「好きな人がいるか」という質問に答えたときと同じように、「おかしいなぁ、A型だと思うんだけど」と、繰り返し言われました。それに対して、私は、繰り返し「いえ、O型です」と答えました。

 しかし、すでに、私の中では、「麻原の神通力はすごい」と思っていましたから、こういったことがあっても、麻原に対する不信感が生じることはありませんでした。しかし、今になって、冷静に考えれば、麻原の神通力が当たらなかったわけで、それが絶対ではない、ということがわかる事例だと思います。

 ともかく、こういったプロセスで、私は、「麻原は、本に書かれているとおり、すごい人だなあ」という見方を深めていったのです。

●初めて集中修行に入る

 その後、東京でのワークは4ヶ月ほど続き、その後、富士山総本部で2ヶ月ほど、経行教学修行と呼ばれる集中的な修行に入りました。

 この経行教学修行とは、歩きながら麻原の説法テープを聞いて、試験を受けるというものでした。

 このときの服装は、今思えば異常でした。上下真っ白いサマナ服。そして、頭からは目と口と鼻だけが空いている白い布をかぶり、大勢で富士山総本部道場から上九に行く途中まで歩いていくのです。

 この光景を見た人は、一体どう思っていたのだろうと。頭がおかしい集団が歩いている、と思われていたのかもしれません。でも、その時の私は、それをやることが普通であり、当たり前でしたから、周りの評価など、まったく気にしていませんでした。井の中の蛙、状態でした。

●麻原との初めて個人面談を行う

 そして、2ヶ月後に修行からでて、東京に戻りましたが、手が余っているということで、仙台道場に配属替えになりました。

 常に大きな部署にいた私にとって、この仙台道場への移動は、辛いことでした。心が卑屈になり、暗くなっていったのです。

 そんな状態の中で、道場活動のワークを続けていました。そのころ、麻原はイニシエーションツアーということで、全国の道場を回っていたのです。当然、仙台にも来ることになっています。

 私はその日が来ることを心待ちにしていました。というのは、この苦しい胸の内を麻原にわかって欲しい、わかってくれる、という思いがあったからなのです。

 イニシエーション当日は、朝から、「どうか、私の苦しい胸の内をわかってください」と懇願していました。そして、懇願しながら、上記に書いた経験の蓄積によって、必ず気持ちが通じると思っていました。

 そして、私たち出家修行者も在家信徒と同じようにイニシエーションを受けることができました。そして、私の順番になったとき、一言、麻原が「頑張れよ」と言われたのです。

 私はその一言で「ああ、私の気持ちは通じてるんだ」と、またも単純に思うのです。この段階では、麻原に対しての信頼が強くなっているので、どういう意味で「頑張れよ」と言われたかなどとは考えず、ともかく、私の懇願が通じたのだ、と思い込み、心が満たされていくのを感じていました。

 イニシエーションが終わり、麻原は宿泊するホテルに戻りました。しばらくして、麻原から私に電話がかかってきました。いくつかの対話をしたあと、宿泊しているホテルに来るように言われ、私は出向いて行きました。

 そこで、私の家族の話などを聞かれ、幾分話をした後、麻原が「出家してどれくらい経つのか」と聞かれたので、「1年半です」と答えたところ、「じゃ、そろそろ功徳も積んだし、解脱するか」と、いとも簡単に言われたのでした。 「え?解脱??」
 
 一生懸命修行、活動をしていた出家修行者の方には申し訳ない話になるかもしれませんが、その時、私はあまり解脱をする、ということを考えていなかったので、解脱する話になり、ビックリしたのでした。
 
 私は「今、解脱できなければどうなるのでしょうか?」と尋ねたところ、「それは、君と一緒に出家をした人と同じ時期に修行に入ることになる。こういう星の巡り合わせはいつ来るかわからないから、今の機会を逃せば、今度いつ修行に入れるのかわからない」と言われたのです。

 それを聞いて私は、また、出家の時と同じように「同じ仲間に負けたくない」という思いが生じ、「では、解脱します」と答えたのです。麻原は「君はおかしな子だな」と言われていました。

 その後、極限修行の話と共に、私は、麻原から、個人的にイニシエーションを受けました。そして、この時が、私が、麻原と初めて個人的に面談した時でした。

 こうした個人的な対応を受けた結果、それまでの信仰に加えて、麻原は私を大切にしてくれている、という意味で、自分のプライドも満たされることになり、麻原に対する愛着はさらに深まっていきました。

●そして、極厳修行に入り、霊的な体験をする

 そして、91年12月中旬より、上九一色村にあった第2サティアンで極厳修行に入ることになります。

 その時の極厳修行は、「小乗のツァンダリー」から始まり、「グルヨーガ・マイトレーヤイニシエーション」、「大乗のツァンダリー」、「グルヨーガ」と呼ばれる、4つの瞑想法を順番にこなしていきました。600時間の立位礼拝が終わってない人は、それも行いました。

 そして、これらの瞑想法を行いながら、次の四つの霊的な体験を得ることが、成就者として認められるに必要でした。

 1.ダルドリーシッディ:霊的エネルギーで体が持ち上がる(跳ねる)体験
 2.光を見る:実際の物理的な光ではなく、瞑想で内側の光を見る体験
 3.変化身の体験:いわゆる体外離脱体験(脱魂状態・幽体離脱)と言われている体験 
 4.意識の連続:一定の期間、意識が眠りによってとぎれることなく鮮明に続く状態

 私は、修行にはいると、思ったよりも早く、これらの霊的な体験をしました。自分は、そういった霊的体験をするタイプではない、と思っていたのですが、ダルドリーシッディや化身の体験などは、特に早く起こりました。

●アンダーグラウンドサマディを経験する
 
 その体験を麻原に申告すると、それを読んだ麻原の許可で、最後の仕上げの修行である、4日間のアンダーグランドサマディに入りました。そして、その結果として、私について、成就の認定がなされました。そこで、私が成就してステージとされたのは、「正師(せいし)」と呼ばれるステージでした。

 なお、アンダーグラウンドサマディとは、土の中に埋められた部屋の中で瞑想をするものです。部屋の中には、食べ物はなく、部屋自体が土の中に埋められており、ヨーガでサマディと呼ばれる深い瞑想状態に入って、心身の動きが静止し、酸素の消費量を減少しなければ、長く居続けることはできない、とされていました。

私は、他の正師と認定された人と共に、4日間のアンダーグラウンドサマディに入りましたが、私は、そこで、ずっと座って瞑想することはできず、横になって、寝てしまうことがありました。

4日後にそこから出て、通常の修行場に戻り、麻原から呼ばれるまで、修行をして待っていました。麻原に呼ばれたときには、横になって寝てしまったことを懺悔しましたが。

 ところが、その時に、「何が起こっていたのか知っているか」と聞かれました。当然、何も知らない私は、「わかりません」と答えました。それに対して、麻原は、「寝ている間に呼吸(酸素消費)が3時間止まっていたんだ」と言いました。

 実は、教団では、アンダーグラウンドサマディを行う部屋の酸素消費を機械で計測していましていました。そして、私がいた部屋の酸素の量が、3時間の間は、全く減少していなかったことを示すグラフを見せてもらいました。

 こうしたこともあって、その後、教団の出版物に、私の体験談がすばらしい結果として掲載されていきます。しかし、私としては、内心、恥ずかしい思いで一杯でした。というのは、私としては、寝てしまった、という印象が強く、みんなの前で、こんな体験談は言えないな、と思っていたからです。

 しかしながら、教団の中では、正師として大変もてはやされました。そして、体験談も話さないわけにはいかない状況に囲まれました。そのため、なんとか、自分の気持ちをごまかしつつ、話をしたのを今でも覚えています。

 そして、成就後、麻原から「個人的イニシエーションのおかげで成就できたのかもな」と言われました。それを聞いた私は、「そうかもしれないな、そうなんだなあ」と思いました。この成就の体験は、92年4月のことでした。

●成就後

 成就後、世田谷の道場の経理として配属されました。

 世田谷道場の近くに出家者の住居があったのですが、そこに突然、麻原が来ることになりました。私も呼ばれたので、行きました。そこで、麻原が私の過去世についての話を唐突にされたのです。

 私の過去世は、麻原の奥さんだったという生、他にもいつくか教えてもらったのですが、その過去世の話を聞いたとき、周りに一緒にいた法友が「おおー!それは、すごい。」と声を上げていたのです。私は自分では過去世は見ていないものの、麻原の奥さんであった生がある、と聞いて、さらにプライドが満たされていきました。

 しかし、今思えば、こういった過去世の話は、本当に過去世であるかはわかりません。場合によっては、そういったヴィジョンを見る人自身の潜在的な欲求の投影であると考えることもできると思います。これは、心理学や退行催眠などでよく言われていることですね。

 それはともかく、それまでは電話だけの接点だったのが、東京の経理担当になったこともあり、麻原との直接的な接点が、かなり増えていきました。

 その中では、何かにつけ私のことを誉めてくれたり、優しい言葉をかけてくれたりと、プライドと愛着が増大していく方向性に現象が動いていきました。そして、周りのみんなからは、うらやましがられ、自分も優越感を抱き、何かあると、すぐに麻原に伝えたりしていました。

 その後、青山総本部道場ができたのに伴い、私は、そちらに移動することになりました。


● 麻原に怒鳴られる

 その中でこんなことが起こりました。

 ある時に、麻原から電話があり、ワークの指示を受けました。ワークの内容は、1000万円ほどの現金をドルに替え、それを富士まで届けて欲しい、ということでした。

 このとき、麻原はドルに換金した後、すぐに富士に届けるように、言われたようですが、私は「すぐに」と言う言葉をすっかり忘れしまっていました。

 お金の準備ができ、富士に向かおうとしていたところに、井上さんが来て、どこに出かけるのか聞かれたので、富士に麻原に会いに行く、と伝えたところ、「自分も行くからその時に一緒に行こう」と言われたので、「確かに、一緒に行った方が効率も良いし、そうしよう」と思ったのでした。

 そのまま青山の自分の部屋で待機していたところに、中村さんが血相を変え、携帯電話を持って私の部屋に飛んできました。「麻原から」と言われたので、電話にでたところ、非常に低く、ドスの聞いた声で、「今、どこにいるんだ」と言われました。

 私は、「青山にいます」と答えたところ、「すぐに来るように言わなかったか」と聞かれたのですが、すっかり忘れてしまっており、そして、「そんなこと言っていたかな」とも思ったのですが、そのまま正直に答えられるわけありません。

 そこで、私が、「はい」と答えたら、「なぜ、すぐに来なかったんだ」と聞かれたので、私は「井上さんに一緒に行こう、と言われたから、そうしようと思った」ということを伝えました。

 この話を聞いた麻原の怒りは頂点に達し、非常に大きな声で「「もういい、お前は来なくて良い、中村に渡せ」と言われ、電話を切られてしまったのでした。このときは、電話を耳元から離しても、怒鳴り声が聞こえていました。

 どうしよう、と私は泣きそうになりました。そして、あの怒りは収まらないだろうな、と思いつつ、このままの状態もよくないと思い、中村さんと一緒にすぐに富士に出かけました。

 しかし、案の定、会ってもらうことはできす、中村さんから、麻原が、「顔をみたくない、わかるな、中村」と言っていたことを聞いて、どうしようもないな、と思い、私は、諦めて帰りました。これは、非常にショックな出来事でした。

 あの時の恐怖は、今でも忘れる事ができません。普段でも怒ることはありますし、他人が怒られているのを見たことがありました。しかし、私自身は、それまでに怒られる、ということが、ほとんどありませんでした。そして、初めて聞く、麻原の怒りの声に対して、びっくりして、恐ろしいな、と思ったのです。

 そして、それ以後、麻原は、私に対して徐々に距離を置くようになっていきました。そして、以前のように、優しく接してくることはなくなり、私は常に怒られる対象に変わっていくのです。

 この変化に対して、私は非常に戸惑いました。というのは、今までとはまったく違う接し方になっていったからです。

● さまざまなイニシエーション

 94年の初冬から私は、PSIと呼ばれる、パーフェクトサーヴェーションイニシエーションを受けることになりました。

 簡単に説明しますと、麻原の脳派のデータを、電極を通して相手にデータを移入していくものが、PSIと呼ばれました。「完全他力本願」というサブタイトルが付き、後に本も出版されました。

 これができる少し前に、麻原と会い、話をする機会がありました。その時に「喜べ、お前を救済するものができるぞ。それができたら一番初めに入れてやるから」と言われました。それが何なのか、もちろん、わかりませんでした。

 94年の1月の中頃、上九の第六サティアンに行き、そこの3階にある、シールドルームに入り、2ヶ月くらいの3月の中旬まで入っていました。これは、今までの修行と違い、寝て良いという修行でした。そして、考えてはいけない、修行してはいけない、と言われていたのです。ともかく、純粋に、麻原のデータを移入したかったようです。

 初めのうちは、よく眠れていたのですが、日数が経つにつれ、眠れなくなり、こっそり、本を持ち込んで、読むこともありました。

 最初は頭皮に、線を直づけをしていました。次は、帽子を食塩水につけ、濡れたままの状態で帽子をかぶる、というものでした。食塩水を使うことで、より電流を流しやすくしたのです。最後はジェル(ゲル)というゼリー状のものをスポンジに染みこませ、そこから電流を流す、というシステムに変化していきました。

 さて、その年の5月くらいには、「キリストのイニシエーション」と呼ばれるものが行われ、その後、教団には、大量の成就者が誕生し、さらには、いわゆる省庁制度(教団の各部署を国家の省庁のように見立てた体制)が発足しました。

●大蔵省から東信徒庁へ

 省庁制度によって、完全なる縦割り制度になっていきました。他の省庁の人には、自分たちが何をやっているのかを話をしてはいけない、と強く言われていましたので、他の部署の人との交流はほとんどありませんでした。

 こういった秘密体制の背景として、今思えば、このときには、すでに、教団の武装化が相当進んでいた、と思われます。

 省庁制度後、私は大蔵省所属として青山にいましたが、あるとき、突然、東信徒庁に所属が変わり、その後、今に至るまで信徒活動に従事していくことになります。

 なぜ、突然、部署移動したのか、については、はっきりとした理由はわかりませんが、私なりに突然の部署移動の理由を推察すると以下のようになります。

 そのころ、青山には東京総本部という在家信徒を担当する部署と、マハーポーシャという部署の2つがありました。マハーポーシャの中にも、パソコン部門と、「うまかろうやすかろう亭」という、飲食店事業部の2つがありました。
 
 そのころ麻原は、東京方面で何かイベントがあったときは、終わった後に出家修行者をひきつれ、うまかろう亭で食事をすることがありました。私も何度か一緒に食事をしたことがありました。

 ある時、そこで食事をしながら、麻原があるサマナに、「どんな女性が好きか」、ということを質問したそうですが、それに対して、「徳があって、優しい人です」と、そのサマナが答えたそうです。さらに、麻原は、「それは誰のことなんだ」、とそのサマナに質問をし、それに対して私の名前を言ったとのことでした。このことは、私が、仲の良かった人から聞いたことです。

 さらに、その後、「あいつ(私)が優しいときは、調子が悪いときなんだ」と麻原が話をしていたことも同時に聞きました。その話を聞いて、「私が優しくて、なぜ悪いの?」と思い、麻原の言うことに、納得できないものを感じていました。

 そして、その話を聞いた直後に、石井さんから電話があり、「今日から東信徒庁に異動することになりました。後は飯田さんの指示を受けてください」と、あっさりと部署異動をすることになったのでした。

 私は、先ほどの麻原と男性信者の会話が理由となって、移動になったのだ、と直感的に思いました。こんなこと理不尽だ、と思いながらも、体制に逆らうことはできませんから、後から配属された人に引き継ぎをおこない、杉並道場に異動しました。

 理不尽だと言えば、こんなこともありました。数名の師と第六サティアンで、麻原と会ったときのことです。

 どんな会話から、あのようなことを言われたかについては、はっきりしていませんが、話の中で麻原が急に「お前(私)みたいやつがいるから、東京本部が伸びないんだ」と怒ったことがありました。

 そして、他の弟子達に対して、どう思うかを聞いて、聞かれた弟子達が、同意するということが繰り返されました。例えば、「なあ、どう思う、メッタジ」、「はい、そう思います」、「マンジュシュリー、どうだ」、「はい、そう思います。」、「メーギヤ、どうだ」「はい、そう思います」と。

 みんな、言葉を揃えて同じことを言うのです。私は一体、何が起こったのか、わかりませんでした。そんなに私は悪いことを言ったのかと考え、ここでもまた、理不尽だと思ったのです。

 麻原を絶対とする体制の中では、麻原が言った言葉も絶対で、誰も反論する人などいませんでした。(内心はわかりません)ロボットのように、みんな同じことを言うのです。

●94年後半からの活動

 このころの信徒活動を振り返ると、真理の為には何をしても良い、という法則がほとんどの活動の中心を占めていました。相手のことを考えている、と言いながら、後から考えると、相手のことはまったく考えていない結果になっていました。

 信徒、凡夫はこのままでは救われない魂だから、ということで、救済という名のもと、相手を馬鹿にして、自分の方が偉いんだ、というプライドを満足させ、支配することによっての道場活動だったと思います。

 私たちの言うことを聞いて当たり前、言うこと聞かない信徒は、相手にしない、もしくは魔境(頭がおかしくなった)扱い、麻原に帰依が足りない、とレッテルを貼り、私たちが支配しやすい状況をつくっていたと思います。

 麻原はこのときにはすでに、絶対的な存在になっていましたから、信徒への教化活動といえば、いかに麻原に帰依をさせるか、がポイントで、それが出来ている人ほど、優秀な信徒として認めていました。

 お布施も剥ぎ取るようなことが肯定されていました。信徒庁決意の内容には、まさにこの「剥ぎ取る」という言葉が入っていたのを、今でも覚えています。

 私自身もこの信徒活動の中で、理不尽なお布施の集め方をしたことについては、その対象となった方々には、申し訳ないと思っています。

 この杉並道場の近くには、CHS(その時は、どのようなことを行う部署かは知りませんでした )という部署があり、よく道場に来ていました。

 そのため、簡単なワークを頼まれたりすることがありました。時折、依頼されるワークの内容に怪しさを感じてはいたものの、「特別ワーク」という言葉に魅せられ、不謹慎な話ですが、楽しみながらやっていました。

 このころは教団の施設以外にも、導きという名目や、特別ワークという名目で借りていた施設がいくつかありました。私もその施設に行ったりすることがありましたが、道場とまったく違う施設であるため、珍しさと、また、その場所は、例によって、誰にも言うな、秘密、と言われていた場所でしたので、そこに出入りできる自分に対して、優越感を感じていました。

 ある時、CHSのサマナが免許証を忘れたといい、私に電話をかけてきました。そのサマナは、免許証の中身を見られるとまずいから、私に預かっていて欲しい、ということを伝えてきました。

 そのようなことを言われると、人間、中身を見たくなるもので、中を見てみたところ、偽造された免許だったのです。「なんでこんなものを作っているかな」と思いながら、薄々、CHSのワークが特殊であるということは感じていましたので、そのまま何も言わず、本人に戻した、ということがありました。

 ここまで振り返ると、人はやはりこの「特別」という言葉に弱く、特別という言葉で、あたかも自分が特別な人間になった、選ばれた人間なのだという、錯覚に陥り、非常にプライドを満足させていたのだと思います。同時に「秘密だから」という言葉もよく使われていましたが、これも特別と同じだけの、人の欲望を増大させる力を持っていると思います。

 人は常に自己の存在意義を見いだそうとしていますから、この言葉を言われることにより、そこに対象との間で自己の存在意義を見いだし、それを失わないように、一生懸命ワークを行っていたのだと思います。

 そして、この特別・秘密という言葉によって、どんどんとオウムのヴァジラヤーナの世界が形成されていったのだと思います。

●ニューナルコ(記憶消去の措置)を受ける

 95年の2月くらいまでは、杉並道場で信徒活動をしていましが、2月中旬くらいから世田谷道場に移動しました。

 そして、はっきりとは覚えていませんが、太陽寂静グループというのがあり、そのミーティングのために、週に1回か第六サティアンに集まっていました。私は、その集まりの時にみんなの前で、「お前はメスブタだ」と言うことを、散々言われていました。

 なぜここで、はっきりとは覚えていないかというと、その後、私は、いわゆる「ニューナルコ」という記憶を消す処置を教団から受けたために、この辺りの記憶が全く欠落してしまっているからです。

 よって、メスブダだと言われたことも、正確に言えば、そう言われていたことを後から他の人から聞いたのであり、自分ではよく覚えていません。その時、そこに同席していた人に話を聞くと、「よくあんなことを言われ、我慢していたね」と言われました。私は、そんなに酷いこと言われてましたか?」と聞くと、「言われてた」という返事でした。

 この記憶を消す処置であるニューナルコは、教団の中では、イニシエーションとされていたそうです。しかし、当時の私は、このニューナルコという名前さえも知りませんでした。私がこの名前を知ったのは、事件後の警察の取り調べの時です。

 警察の人は、まず、まっ先に私の額の傷を見て、「細川さん、その傷、最初からあったの」と聞いてきました。「いえ、ないと思います」という、会話を何度か繰り返したと、「細川さんは、ニューナルコを受けたんだよ。記憶を消されたんだよ」と言われたのです。

 私が、今覚えていることを書くならば、(推察するにそのニューナルコを受けた後)目が覚めて、気が付くと、私は、第6サティアンのシールドルームにいました。

 なぜ、私はこんなところにいるのだろうか、と思いながら、自分のそばにある荷物を見て、確かにこれは私のカバンである、と思いました。非常に不思議な感覚でした。シールドルームは外から鍵がかけられており、自由に出入りができず、トイレは、中に簡易トイレが入っていたので、そこで行いました。

 食事はニューナルコを受ける前日は断食で、それ以外は、すごく少ない量の食事が出ていました。
 
 ニューナルコを受ける当日は、部屋を移り、大きなシールドルームに移り、そこで横になり、点滴を受けました。その時に、タントラヴァジラヤーナの帰依マントラを唱えるように言われ、唱えましたが、次第に意識が朦朧としてきて、その後のことは、もう何も覚えていませんでした。

 ふっと気が付くと、2人の女性に両脇を抱えられながら、廊下を歩いていましたが、またすぐに意識がなくなり、気が付くと、自分のシールドルームに戻っている、という状況でした。

 ニューナルコの修行が終わり、第六サティアンの2階を歩いていると、井上さんが私に「誰だかわかる?」と言われ、「アーナンダ師でしょ。何いってるんですか。」と答えたことを覚えています。その時、なぜ、こんな質問をしてくるんだろう、と思いましたが、そのまま深くは考えませんでした。

 質問の意図は、後で、私が、教団の起こした事件に関して、警察署に呼ばれて、取り調べを受けた際にわかりました。取調官から、井上さんが、私がニューナルコを受けたこと、そして、それによって、(井上さんが関与した)事件に関連した私の記憶が消されたことを知っていたのだ、と聞きました。すなわち、証拠の隠滅が目的だったのです。

 このニューナルコが終わり、世田谷道場に戻ったのが、22日の強制捜査の少し前だったと思います。
 
 ニューナルコを受けた後は、大変でした。何しろ、人の名前から、自分の持ち物まで忘れてしまっており、何がなんだかわからない状況の中で強制捜査が続き、道場活動を行わなければならず、非常に苦労をしたことを覚えています。

 例えば、説法をしていても、自分の記憶がいきなり断絶してしまい、それまで自分が何を言っていたのかを忘れてしまう、ということがあったり、あまり親交の深くなかった信徒さんの名前や、それまでの経緯を忘れてしまうなど、ワークにいろいろな支障が出ていました。

 しばらくは、記憶力も低下して、物覚えも悪くなり、日常生活を行うことが大変でした。

●強制捜査

 そして、3月22日の強制捜査の日。

 朝から大勢の警察官がやってきました。

 警察に対して教団の中では、国家権力と言われており、オウムは反国家であるため、気に入らないから、国家権力によって、オウム真理教は宗教弾圧をされている、というデータが入れられていました。故に、私たちの中では、警察官は敵対者になっていました。まして、假谷拉致事件など、事件についてまったく知りませんでしたから、敵対心以外、何もありませんでした。

 自分たちは正義であり、警察は宗教弾圧をしようとしていると、本当に思いこんでいました。今、思うと、これもおかしなことなのですが、当時はそう思いこみ、警察官と闘っていました。国家権力に負けるなと。

 私たちのように教団が裏で何をしていたのか、まったく知らされていなかった者は、なぜ教団に対して強制捜査が行われるかわかりませんでした。混乱の日々を毎日過ごしていました。

 そんな日々が繰り返される中、どんどん逮捕者が続出していきました。サリン事件で逮捕される人、微罪逮捕される人、本当にいろんな人が逮捕されていきました。
 
 逮捕された人の中には、私の2人の弟もいました。一人はサリン関係、もう一人は住居侵入により逮捕されました。

 そして、これは逮捕ではありませんが、村井氏が青山で刺殺される、ということが起きました。世田谷道場に村井氏が訪問した後の刺殺事件でしたので、何とも言えない思いでした。

 そして、5月16日 麻原逮捕となりました。

 このときはショックだったものの、麻原の無罪を信じていた、というより、信じたいと言ったほうが良いかもしれません。取り調べ後の処分保留により、すぐに釈放されると思っていました。

 こうした混乱の中、私自身も假谷拉致事件について特捜本部から出頭の要請があり、大崎署に出向いて行きました。大崎署で数回取り調べ、検察庁では2回の取り調べを受けました。

 そこで、初めて先ほど書いた、ニューナルコ・記憶を消す処置を受けたことがわかり、さらには、なぜ私がそれを(記憶を消すために)受けなければならなかったのか、という理由も言われました。

 その理由は、本当に事実かどうかはわかりませんが、私が、「假谷さん拉致事件はオウムがやったのだ」と口走ったために、事件に関与していた上長が、事件の発覚を恐れて、私の記憶を消すために、ニューナルコを受けさせた、ということでした。

 こうして、私の場合、ニューナルコのために、特に、95年2月後半から3月20前後までの記憶が抜け落ちている部分があり、そのために、今でも、正確なことはわからないところがあります。

●井上さんからの手紙

 95年の9月ころだったと思いますが、井上さんの弁護士から電話があり、私宛に書いた手紙が裁判所で許可がおりたから、読んで欲しい、という旨の電話を受けました。私は弁護士会館に赴き、手紙を読みました。

 内容ははっきりとは覚えていませんが、A4サイズのコピー用紙に、1~3まで手紙の種類がわかれており、それを順番に読んでいきました。

 そこには、井上さんが事件に関わっていくまでの経緯、そして、その後の心情が吐露してありました。表現は忘れましたが、苦しんでる様子がわかりました。事件を起こしたくなかったことも書かれていました。そして、麻原に反抗することができなかったことも。

 私にとって、その内容は以外なものでした。なぜなら、井上さんは積極的に麻原からの指示を実践しているように、私の目には映っていたからです。

 言い方は悪いですが、他の誰を差し置いても、まず、自分が先に麻原の元に、という印象が強かったので、麻原に対して不信を持っていたこと、本当は苦しかったこと、など、まったく想像もしていないことでした。

 私はそれをどのように受け止めて良いのか、わかりませんでした。そのことについて相談する人もいなかったので、この手紙の内容については、自分の心の中にしまい込みました。

●船橋道場に異動する

 96年1月からは世田谷道場から船橋道場に配属替えになり、初めて一人で道場活動を行うことになりました。

 船橋道場に異動してすぐに、印象的な出来事がありました。事件に関連して、よく一般の人から非難の電話がかかってきていました。

 ある時、たまたま、その電話に私が出たことがあったのですが、その時に私がその人に対して、「すみませんでした」と言いました。

 そしたら、その人はびっくりされ「今まで何度も電話をしてきたけれど、謝ったのはあなただけだ。他の人は、事件のことはよくわからない、聞いていないからわからない、私では答えられない、という返答ばかりだった」と。そして、最後には励ましてくれたということがありました。

 確かに、このときの教団の体制下では、上記のような返答になってしまうのは、無理がないことだったと思います。
 
 グルイズムという思想統制の中では、教団以外の本を読んではいけない、と言われていましたし、まして、新聞、ラジオ、テレビから情報を入れるという行為は、その当時のサマナにとっては戒律を破る、いわゆる地獄に堕ちる、グルとの縁が傷つく、という思考によって、身動きを取ることができなかったと思われるからです。

 そして、何より無思考にグルに従うことが、最高の修行の実践とされてきましたから、自分で何かを考え、実行していくという点では、非常に乏しかったと思います。
 
私自身、事件の混乱のさなかで、いろいろと考えていくようになり、いろんな気づきがありました。その中で特に印象に残った気づきは、「自分は何も考えてこなかった」そして、「何も考えられなくなっている」、と言うことでした。ある意味でのショックを受けましたが、このことに気付いてから、まずは自分で考える訓練をしよう、と思いました。

 麻原に依存することによって、そこで自分の存在を肯定して、プライドを満足させてきた反面には、上記のような、「何も考えられない」という自分ができあがっていたのです。

 これは今でも苦労しているところになっています。自分で考え、自分で行動するという、ある意味当たり前のことができない自分がいる。これは現状、努めて努力しているところです。
 
●事件は教団が関与していた、と思っていた

 私は、95年当初から、教団が事件に関与していた、と思っていました。

 それは、假谷拉致事件に関する警察での取調べを受けたことや、弟も逮捕されたこと、さらには、井上さんが所属していた教団のCHSと呼ばれる秘密活動を行っていた部署の活動を上長から指示されて調査したことなどによります。

 ただ、そのことについては、具体的に話しをする人もいませんでしたし、その話をすること自体、教団内ではタブーのような印象を受けてもいました。
 
 そして、グルイズム信仰の中で、麻原を神として拝め、麻原の行うことは何でも許されることであり、指示に対しては逆らわず、実践することが帰依とされてきた教団の体制の中で過ごした数年で、私自身も教団の体制に染まっていました。

 また、麻原に対しての愛着もありましたから、事件を教団がやったことだとは思っていても、そのことで麻原を否定したりすることはできませんでした。

 教団の中では、麻原が行うことには、常に意味がある、とされてきました。その思考と同じ方法で、事件は意味があったことだと、思いました。いえ、思いたかったのです。そのように思うことによって、麻原を否定することを、避けようと思っていたのです。

 そのような思考に変化が生じてきたのが、97年10月に刑期を終え出所してきた弟の存在でした。

●弟とのやりとによって、思考に変化が生じはじめる

 彼は事件により傷ついており、麻原のことを「ペテン師だ、俺は騙された」とよく言っていました。そして、私たちから見れば、麻原に対して、否定的なことをよく言っていました。今までの教団の中では、考えづらい発言でした。

 当初はそんな考え方にはついていくことができず、一ヶ月に一度面会に行ったときにでも、麻原や教団のことで口論し、刑務官の方に諫められることも、たびたびあったのです。

 出所してからも、事件について、そして、麻原について、弟とはよく話しました。話したというと、冷静な話し合いのかのように思われますが、そうではなく、口論にもよくなっていました。しかし、その都度、私の考えにも変化が生じていきました。

 97年以降、麻原が不規則発言を始め、精神的に病んでいるのではないか、と言われていたことについて、弟と話をしたことがあります。
  
 弟が「不規則発言について、お前たちは意味がある言葉だと思いたいと思うだろうけど、本当に頭がおかしくなっていたらどうするんだ?」と聞かれました。

 私が、それについて、しばらく考えていると、弟は、「頭がおかしくてもいいと思えれば、良いと思うんだよ。でも、そう思いたくない、現実を受け入れたくない、という思いで、いつも麻原の良いことばかりしか言わない。俺はそんな人とは話をしたくないし、心がさめていくんだよ」と言いました。

 また、このようなやりとりもありました。

 弟が「お前はサリンを撒けと言われたら、撒くのかよ!」と聞かれ、私は、それに対して、すぐに答えることができず、黙っていました。

 その時、私は、心の中で、「撒けるわけない、でも、そんなこと言ったら帰依ができていない弟子だと思われてしまう、どう、答えたら良いんだろう」と思って、答え方を考えていました。

 そうしたら弟が、「お前たちは、撒けもしないのに撒けます、というから駄目なんだよ。見栄ばかり張って。撒けないなら撒けないって言えば良いんだよ」と。それを聞いた私は、心の中で、「そうか、そうだよね、簡単なことなんだよね」と思いました。

 ここでは、「簡単なことだ」と書きましたが、麻原や教団を否定する言葉を使うことは、当時の私には、なかなか容易なことではありませんでした。なぜなら、常に、麻原を、教団を、自分たちを、肯定しかしてこなかったからです。否定すること自体が悪業になる、そして、帰依がないと評価されてもいたからです。

 このような話しを弟と続けながら、私の考えは、少しずつ変化を見せていきました。しかし、長年積み重ねてきたオウム思考を変えていくことは、高い壁を越え行くようなものでした。

 その当時、信徒の教化活動をしていた私にとっては、弟も教化対象と位置づけていました。事件で傷つき、信や帰依を失っている弟を、もう一度、(その信仰において)復活させなくてはいけない、と常に力んでいました。そのため、当初は、ひたすらこちらの言い分だけを、押しつけていたのです。

 こうして、弟に対して、いろいろとイベントに誘ったり、お布施を促したりしていましたが、うまくいかないことが多く、言い合いになり、喧嘩になることがよくありました。弟を泣かしてしまったこともありました。事件に関わっていない信徒さんを教化するのとは、まったく勝手が違っていました。

 私は、弟の対話において、何度も同じ事が繰り返されるので、さすがに何がいけないのか、と考えるようになっていきました。しかし、自分側(教団側)が正当だ、という強い思いがあるために、すぐには理解できませんでした。

 当初の私は、真理がわからない弟が悪いのだ、と考えていたくらいですから。なんで、真理の話しているのに理解出来ないんだろうと。

 私は、相手の苦しみなど、まるで考えず、自分が正しいと思い込んでいましたし、私は真理を知っているんだ、私の言うことを聞いて当たり前だ、という傲慢な意識で対応していました。だから、当然、相手は納得せず、口論ばかりが続いたのです。

 その中で、ようやく、自分が正しいのだから、相手は言うことを聞いて当たり前だ、という考え方が間違っていることに気付きました。そして、どうしたら相手に理解してもらえるか、を考えるようになりました。

 そして、自分が正しいと思い、そのことだけを主張しても、相手も自分の苦しみをわかって欲しい、という気持ちがある以上、まずは相手の立場にたち、尊重をしたうえで、話を進めていかなければ、相手も納得しないということがわかってきました。

 単純に、これが真理だからと思い、ストレートに話しをしても、駄目なんだな、と思いました。まずは、自分が変わっていかないと、相手を変える事はできない、ということもわかっていきました。

 そして、自分の変化とともに、弟への対応も変わっていきました。ある時、弟から、「変わってきたね。努力しているのがわかるから、下心は見え見えだけど、(お布施とかの誘いに)乗ってみようかな、と思うんだよね」と言われたのでした。

●99年休眠宣言、そして、上祐氏が出所する。

 このような中で、99年を迎えていきました。この年の最大の関心事は、ハルマゲドン予言が成就するか、ということでした。しかし、99年7の月には何も起こらず、9月に道場は突然休眠宣言をおこない、道場をしばらく閉めることになりました。

 道場活動のサマナは一同に名古屋支部に集まり、しばらくは修行をしていましたが、また、支部活動を再開すると言うことになりました。東京は道場がなくなっていましたので、道場物件確保のため、数名のサマナを連れ、東京に戻りました。そして、いくつかの物件を確保し、道場活動を再開し始めました。

 99年12月終わり、上祐氏が刑務所から出所し、教団に戻ってきました。上祐氏が戻ってきてからは、体制が目まぐるしく変化していきました。

 印象的なこととして、結局は、実現しなかったのですが、一時期、教団をアーレフとアーという2つに分けるという構想が持ち上がったことがあり、道場活動に携わっている成就者の人が集まり、話合いが行われました。

 アーレフは今までと同じで麻原を教祖とする団体であり、逆にアーとは、麻原ではなく、三女が代表である団体ということでした。

 とはいえ、このとき、三女が代表であるという団体は、教えの内容がアーレフと違うわけではなく、教えはまったく同じで、麻原個人の部分がそっくり三女に入れ替わる、というだけの内容でした。

 それを団体の中では、「一切麻原の色がない団体」と位置づけて、社会に受け入れられやすいと考えていたのですが、一般の人から見れば、麻原の変わり身として麻原の三女が立っただけの、まったく同じ団体と見て取られたと思います。

 実際に、この話が報道されるに及んで、一般の人の見方を理解した教団は、この構想をすぐに断念することになりました。

 その意味で、このときの構想は、崇拝対象のとらえ方から教義までまったく違っている現在のひかりの輪とは、まったく違っていますし、それは、単に世間の批判を安易にかわそうとした、とても幼稚な構想だったと思います。
  
 そして、この話合いは1日以上かかりました。私は団体を2つにわける話合いの中で、初めは良かったのですが、途中からだんだんと暗く沈んでいく自分の心を認識したのです。

 上祐氏が、集まっている成就者に、この方針でいくことに賛同するか、どうかを順番に聞いていきました。みんな、「良いと思います」と答えていました。私は内心では、「良いと思います」とは言いづらい状況でしたが、みんなと違う意見は言いづらかったため、私に順番が回ってきたとき、「良いと思います」と答えたのです。

 それに対して上祐氏は、「ごまかすんじゃない、本当のことを言ったらどうだ」と言われました。上祐氏は、私の曇った表情を見て取ったのでしょう。見透かされてる、ごまかせないな、と思った私は、「麻原を否定することによって、自分も否定されているように感じます」と答えました。

 それについて上祐氏からは「あなたを否定しているわけではないんだよ」と言われましたが、すぐさま、納得できませんでした。この話合いの後、上祐氏に呼ばれ、心情を聞かれました。

 そのとき私は、「よく考えてみると、麻原に対して、自分の受け入れたい部分だけを受け入れ、受け入れたくないことについては見ないように、考えないようにしてきたのだとわかりました。例えば、それは事件のことだったり、他にもありますが・・・。帰依でも何でもなかったことがわかりました。勝手な思いこみの、自分本位の帰依だったのだと思います。私は何もわかっていなかったんだなと、もう一度、いろんなことを考え直してみます。」ということを話しました。

 この気づきは、私にとっては大きな心の変化のきっかけとなる出来事だったと思います。

 そして、上祐氏が教団に戻ってきて、初めてオウムが事件に関与していたということを、公に話をし、みんなが聞くことになりました。私自身は、ようやく普通に事件の話をすることができる体制になり、心が解放される思いになりました。

 今までは、「麻原が自白していないのだから、事件はよくわからない、やっていないと思う」という話は出ても、麻原がやった、教団が事件をやったと、という話はなかなかすることができませんでした。

 でも、みんなもよくわかっていた、と思うのです。麻原を絶対とする教団の体制の中で、麻原の指示なしに、何もできないということを。ただ、現実からみんなが逃げたいだけだったのだと。

●自分が麻原に愛著した理由

 私が麻原に対しての愛著から離れらなかった理由は、いくつかあるのですが、それは麻原と自分の関係にありました。

 自分の認識として、相対的にですが、同じくらいに出家した人や、自分の周りにいる人たちと比べて、麻原との個人的な接点、距離が近かったと、思っていました。個人的に会い、会話する機会も比較的多かったですし、経理というワーク上も、接点が多くありました。

 その中には、女性が喜ぶような言葉を言われたり、過去世の話もその一つになる、と思いますが、私のプライドは満たされていき、それに伴い、愛著も増大していったのです。

 考えるに、女性が喜ぶような言葉は、私だけではなく、多くの人に対して行っていたことだ、と思うのですが、自分の世界の中では、「私にだけ、それをいってくれている」と、そう思いたい心が、自分の中で虚構の世界を作り上げていったのだと、今になって思います。

 そして、いつしか、自分の中には、自分は特別な存在である、という意識が芽生えていて、それがまた自己のアイデンティティーにもつながっていき、オウム真理教で活動する意義をそこに見いだしていたのでした。

 実際には、前に書いたように、後に、私が麻原にだけ意識を向けていられなくなるころから、麻原との良好な関係は徐々に変化し、破綻していったわけですが、それでも、なお、私は、その過去の関係に、執着をしていたのでした。

●麻原への愛著の背景にあった自己のアイデンティティーが崩壊する

 しかし、そのアイデンティティーが崩壊してしまう出来事がありました。それは2002年の初めの頃だったと思います。そのころ、よく法友と自分の心を探究する、ということをおこなっていました。どのような内容の話をしていたのか、はっきりと覚えていませんが、麻原に関連して、自分自身の心についての話をしていたのだと思います。

 皆さんもご存知のように、麻原には奥さんである知子さん以外にも、何人も女性がいました。その女性たちとの間に子供が何人もいました。当初、それを知ったときは、びっくりしはしましたが、それ以上には何も思いませんでした。
 
 確か、その時は、その話である意味、盛り上がっていたと思います。こんなこともあった、あんなこともしてたんだ、と。その話が進むにつれ、突然、自分の中で、このような思いがわき上がってきました。

「今まで、自分は、他の人に比べて麻原に近く、自分は特別だ、と思っていたけれど、よくよく考えてみると、特別でも何でもなかったんだ。単に私が自分のプライドの為に、そう思いたかっただけで、そこに実態があるわけでもなんでもなくて、自分の思いこみに過ぎなかったんだ。私が自分で勝手に作り出した世界に過ぎなかったんだ。」と思ったのです。

 その瞬間、何かが音を立てて、崩れていくのがわかりました。今まで私を支えていたもの(自己存在意義)が、崩れ落ちてしまったのです。

 その時、私は大泣きしました。これからどうして良いのかわからない、自分をどう立て直していったら良いのかわからないと、私には何もなくなってしまったんだ、と途方にくれていました。

 ちょうどその時、上祐代表から電話があり、「最近、どう?」と聞かれたので、「落城しました」と話をし、事の経緯を話したことがありました。それを聞いた上祐代表は、「やっと多くのメス猿から、一人の人間になれたんじゃないのか?」と言われていました。

 このことがきっかけで、さらに私の麻原への幻影が崩壊していきました。そして、今までに誰にも話をしたことがなかった、麻原に関する、自分の経験・心情を上祐代表に吐露したのでした。

 その時は、私は、何かに突き動かされるように、「今、これを話さないといけない、これをしないと前に進むことができない」という思いに駆られ、それを話すために、上祐代表に面談を申し込んだことを覚えています。

 こうして、麻原にまつわって、自分の虚構の世界が崩れていき、自分の現実を認識する上で、上祐代表との対話が深まっていきました。

●上祐代表の改革の頓挫と、松本家の人たちへの失望

 2003年に入ると、今までのアーレフのやり方では、よくないのではないかということにより、改革がスタートしてきました。これは麻原色をなくしていく、というものでした。

 この改革は、初めこそ、勢いに乗っていましたが、改革への反発が生じはじめ、徐々に動きが鈍くなっていき、ついには、頓挫することになりました。そして、私にとっては、その頓挫は、突然に起こったのです。2003年の6月の下旬のことです。

 その日は、烏山本部に道場のリーダー格の人が集まり、上祐代表とミーティングを行っていました。ミーティングが終わり、その帰り道に仲間の一人と喫茶店に入り、法則の話など、いろんな話をしていたところ、携帯電話が鳴りました。

 その電話に出てみると、聞き慣れない声で、「お姉さん、誰だかわかる?」と言われました。初めはわからなかったので、「誰でしょう、よくわかりません。」と答えました。そして、沈黙何十秒後に、「もしかして、アーチャリー正大師ですか?」といったところ、「忘れてしまうなんて、お姉さんひどいね」と言われたので、「そんなの無理ないですよ、7年以上話をしていないわけですから」と言いました。

 アーチャリー正大師とは、麻原の三女で、松本麗華さんのことです。彼女はなにか周りをひどく警戒しているようで、周りに誰かいないかを確認してから、話を始めました。

 その内容は、まずは、私の個人的な話から始まり、そのことについて、「お姉さんは、尊師(麻原)との縁を傷つけた。このままだと地獄に堕ちるから、このマントラを唱えたほうが良い」と言われました。

 それは、脅しと同じような感じでした。その後、「シャクティーパットの影響で、上祐代表の調子が悪い、おかしい」という話になり、「上祐代表を修行に入れたい」と言うに話になりました。そして、そのために協力して欲しいことがある、ということでした。できれば、直接会って話をしたいということでしたので、指定された場所に向かいました。

 その時、一緒にいた仲間は、同じころ二宮さんから電話をもらっており、お互いに話の内容については触れず、これから何が起こるのかな、という思いを抱きつつ、一緒に電車に乗ったのです。

 駅に着いて、アーチャリー正大師を待っている間、生きた心地がしませんでした。なぜなら、この6月には、私のとって大きな変化の出来事がありましたが、それについても悩んでいる時期でもあり、アーチャリー正大師の話次第では、どうなるかわからない、と思ったからなのです。

 「ああ、私はなんてカルマが悪いんだろう」と、半分、泣きそうになる気持ちを抑え、緊張しながら、彼女が来るのを待っていました。

●松本家の人々に再会する

 そして、約7年ぶりにアーチャリー正大師と再会しました。彼女は背が伸びており、女性らしくなっていました。駅の改札を出て、あまり人目につかないところで、立ち話で2時間くらいだったでしょうか、話を聞きました。
 
 その内容は、ひたすら上祐代表の悪口(と思えた)でした。

 彼女の話は、私が腑に落ちない点がいくつかあったのですが、ここで逆らっても仕方がない、と思い、ひたすら話を聞いていました。幾分、話をしているうちに、私の緊張も取れていき、十分、話を伝えきれたと思った彼女は、「お姉さん、だいぶ理解したみたいだね。」と言い、「次は、もっとびっくりさせてあげる」と言われ、私を次の場所に連れて行きました。

 再び電車に乗り、とある駅で降り、そこからしばらく歩いて着いた場所は、カラオケボックスでした。そのまま促され、部屋に入ると、そこには、なんと、次女であるカーリー、麻原の奥さんである、知子さんがいたのです。そして、二宮さん、その時、一緒にいた仲間も、すでにその部屋にいました。

 私たちは久し振りの再会に、多少の世間話や、昔話をしました。その後、現状の話を少しされました。 そして、まだ、今から人がここに来るから、呼ぶまで、違う部屋で待機しているように言われました。

 違う部屋に行き、もう一人の仲間と待っていたら、村岡さんが来ました。彼女はこの成り行きを知っているようで、余裕な感じを受けました。呼ばれるまで、カラオケを歌ったり、話しをしていました。

 しばらくすると、先ほどの部屋に呼ばれましたので、行ってみると、そこには数名の道場活動の師の人達がいました。そして、三女が、上祐代表の問題点をいくつか話をし、最後に、「今日、ここで話をしたことは、決して誰にも言わないように。この場所に集まった人達同士でも話をしないように。上祐代表にも、もちろん言わないように」と、きつく言われたのです。
 
 さらに、「せっかくだから、長男、次男に対して、お布施ができる良い機会だから、みんなお布施したらどう」と言われました。私はそれについては、抵抗があったものの、他のみんなが素直にお布施するのを見て、「ここでしないのも、今後、活動がしづらくなるから、形だけでもしておこう」と思い、お布施をしました。

 話し合いが終わった時間は、深夜になっていましたので、カラオケボックスで始発が来るまで待ちました。

 その間、もう一人の仲間と、「どうしよう、大変なことになったね」と、お互いに言い、今は気分を変えるしかない、ということになり、時間になるまでカラオケを歌い、なんとか自分の気持ちを紛らわしたのです。

●上祐代表にも呼ばれる

 しかし、そこで待っている間に、上祐代表の秘書から電話が入ってきたのです。緊張しながら電話にでたところ、明日の朝7時から東京道場で代表がミーティングをしたい、と言っているが、来れるか、ということでした。

 私は、「大丈夫です」と、返事をしたものの、「どうしよう、明日、上祐代表に会わないといけない。でも、今日の出来事を気付かれてはいけないから。困ったな」と思っていたのです。

 そして、次の日の朝、ミーティングで上祐代表に会いましたが、昨日の事がバレたら困ると思い、まともに、顔を見ることができませんでした。

 ミーティングを進めているうちに、昨日ミーティングに参加した師の人たちを乗せた車が、東名高速で事故を起こしたという知らせが入ってきました。

 私は即座に、「昨日の人たちだ。やっぱり、あの出来事は、良くなかったんだ」と思い、ますます、どうして良いかわからず、考え込んでしまいました。

 なんとかその場をやり過ごし、船橋道場に戻りました。しかし、昨日の出来事が、そして、事故のことが頭をぐるぐる周り、ワークどころではありませんでした。そんな中でも、上祐代表が出した指示に反発するかのように、違う指示が回ってくるのです。私は頭が混乱し、苦しみもピークに達していました。

 もう、こんな状態では、ワークもできない。そして、正大師同士で争っている。こんな教団で今後、続けていくこともできないと思い、出家して以来、初めて教団を出ることを考えました。

 そんな状況に陥っているとき、先に麻原の三女に会ったある師の人から、私の様子がおかしいことを聞いた上祐代表が、心配して電話をしてきたのです。

 だからと言って、本当のことを話をすることはできませんから、最初は聞かれたことに対して、お話しできません、と答えました。

 しかし、代表は「もう、知っているから、話をしなさい」と言いましたので、私は、泣きながら、「もう、こんな教団ではやっていくことはできません。代表に対しても疑念があります。」と叫びました。

 それに対して代表は、話を聞くから、すぐに烏山に来るように言われたので、準備をし、私は烏山に行きました。烏山に着き、上祐代表に会い、私は自分の体験したこと、そこから出た疑念について、質問しました。そして、しばらく話しをした後、違う部屋で待機しているように言われ、待っていました。

 そこで待っているとき、三女から何度も携帯に電話が入りましたが、一度も出ませんでした。そして、その日のお昼過ぎ、二宮氏が電話を私に持ってきて、出るように言われたので、出てみたところ、三女からでした。

 三女は、私に、「なぜ電話にでなかったか」を聞き、次に、三女に会った人たちがその直後に事故を起こした件について、「上祐代表にその話をしたのは私なのか」と聞かれたので、「そうです」と答えました。

 そして、なぜ、正大師同士で争わないといけないのか、そして、私にとっては、どちらも同じ正大師であり、どちらかを区別する気持ちがないこと、それは、正悟師に対しても同じである、ということを伝えました。

●混乱する教団の中で麻原や事件のことを考える
 
 この2003年の6月の後、10月に至って、上祐代表は、完全に修行に籠もる、すなわち、教団の活動から離れることになりました(離されました)。

 そして、教団は混乱をきわめていました。反上祐派と言われる人たちが、いろんなところで、上祐代表の改革は失敗だった、という話をするための「お話会」と呼ばれる会合が続けられていました。

 私も一度、誘われたので、参加して話を聞いてみました。話の内容は、上祐代表がおかしくなっていく過程、それに伴い、おかしな出来事が起きた、という話しの展開でした。

 しかし、私がその話を聞いて思ったことは、話の内容はこじつけが多く、無理な論理展開をしており、私には納得できない事が多くありました。疑問に感じたこと、納得できないことを、お話会が終わった後に、いくつか質問をしました。当然、明確な回答はもらえませんでした。

 こんなお話会に出ても仕方ないな、と思い、今度誘われた時は、断ろうと思いました。そんな心配をしなくても、その後は、一度も、お話会には誘われませんでした。

 その一方で、私は、2003年の終わりから2004年の初冬にかけて、麻原のこと、そして、自分の今後の信仰形態、教団のあり方について、深く考えるようになっていきました。

 今まで自分が思い描いていた麻原、そして、事件を犯した麻原、どちらも麻原であることには変わりがない。麻原とは一体、なんなんだろうと。それについて、考えていましたが、一定の思考まで進むと、それ以上進まなくなってしまいました。

 潜在的には、それを理解してしまうと、さらに麻原に対して、崩壊が進むと感じていた、というより、自分自身の今までが崩壊してしまうとわかっていたから、ある一定までくると、あえて、思考をやめていたのだと思います。

 そして、教団について言えば、このままではよくない、このままでは、この教団崩壊してしまう、ということについて、よく思っていました。どうしたら良いんだろう、と思い、そのため、当時から麻原絶対ではなかった野田成人さんに、よく相談をしていました。

 自分の信仰形態に関して言えば、苦しんでいる人を助けたいとは思う。しかし、事件を起こした教団に入って来る人はほとんどいない。まして、麻原を前面に出すやり方では、限界がある。では、どうしたら良いのか。私の結論としては、麻原に頼ることなく、自分がともかく力をつけ、人を助ける活動をしていかなくてはいけない、と思いました。

●麻原からの自立のための闘い

 そうしているうちに、11月になり、上祐代表が活動を再開しました。とはいっても、教団全体に認められての復帰ではなく、復帰に反対する人たちの反発を押しての活動の再開でした。

 上祐代表は、自分の考えの近い幹部信者を集めて、徐々に活動を拡大していきました。最初の頃は、こそこそと集まったりしていました。私も、それに参加しましたが、その一方で、反上祐派の人たちの影響力が強い、道場活動を行っていましたので、堂々と活動をすることはできませんでした。

 そんなある日、ある女性の幹部信者から諏訪に来て欲しい、との連絡がありました。多少疑問に思いましたが、普段から仲のよかった彼女からの連絡だったので、定期修行に行く予定だったのを変更して、連絡のあった諏訪のとある場所に行ってみることにしました。

 そして、現地に行ってみると、そこに上祐代表をはじめとする、後に代表派と呼ばれることになるグループの中心メンバーが、勢ぞろいしていて、びっくりしたのを覚えています。

 そこで上祐代表から今のアーレフ(現アレフ)の問題点、そして自分たちが進むべき道についてのお話を聞き、その過程の中で、自然に代表派の活動に入っていきました。

 段々と上祐派の地下活動も活発になってきて、外部の一般会場を借りての集会がたびたび開かれるようになってきました。その活動は、在家信徒にも及び始めました。

 そして、上祐代表が自身のブログ「真実を見る」を立ち上げたことがきっかけとなって、アーレフ内部での上祐派と反上祐派の対立が表面化して来ました。「真実を見る」の中には、麻原を含めて、教団が、一連の事件に関与していることが明確にされていました。

●いわゆる「船橋道場騒動」が起こる

 それに対して、反上祐派が支配している当時の教団の中では、「真実を見る」にアクセスすることを禁じる通達が出ました。

 そして、私が、その通達を無視したことによって、その後に、教団の中で「船橋道場騒動」として知られるようになった出来事が起きることになります。

 それは突然やって来ました。忘れもしません。2005年8月8日の深夜、アーレフスタッフのTさんとNさん(ともに師)が突然、船橋道場を訪ねて来ました。

 どうやら二人は村岡さんの指示で、「真実を見る」にアクセスすることを禁じる通達に対して、私が明確な同意を示さなかったことに対しての真意を探りに来たようでした。

 そして通達に同意しなかった場合には、説得・懐柔するという指示を受けてきたようでした。私は態度を明らかにしなければならない状況になってしまったので、開き直って、納得できる理由を示してもらえなければ通達には従えない、とキッパリと宣言しました。

 それを受けて、二人の必死の説得が数時間続いたのですが、私がいつまでたっても納得しなかったので、その日は私の説得を諦めたようでした。しかし、翌9日の早朝、村岡さん自身が船橋道場にやって来たのです。

 そして村岡さん自身が説得をし始めましたが、私はそれでも考えを変えませんでした。
なぜなら村岡さんの説明には、教団が現状抱えている問題に対する具体的な解決策が示されなかったからです。

 村岡さんの説明は今までの方法で活動を続けていれば、いつか必ず事態は好転するはずだ、という根拠のない説明ばかりでした。この説明を聞いて自分の中で、上祐代表の考え方と、反代表派の考え方との違いがより明確になり、上祐代表の考え方のほうが理にかなっているということが、はっきりとしてきました。

 数時間の説得が続いたのですが、最終的には私は村岡さんの希望に添えなかったので、「代表派の活動はやめません」と宣言したのです。その直後、「では、今日から船橋道場長解任です。今日からここは東京本部管轄です」と言われました。

 私は、「話は聞いておきますが、指示を聞くとは言っていませんから、間違えないでください」と伝えました。そして、「もう今日はこれ以上、話をすることはないと思いますから、帰ってください」と村岡さんに伝え、2人のスタッフと共に帰ってもらいました。

 ある意味、このときオウムに出家して、初めて上長に明確に逆らうということにもなりました。このときより、船橋道場は公然とアーレフ主流派(いわゆるA派)と決別し、代表派の拠点として活動することになりました。格好よく言えばA派に対して反旗を翻したということになります。

 そしてその日の夜に、上祐代表ほか代表派の主要メンバーと船橋道場の信徒が、船橋道場に集まり、今までの経緯の説明、上祐代表の考え方、目指すところ、理念の説明がされました。このとき上祐代表は1年ぶりに緑のクルタを着て信徒の前に登場ました。

 まるで上祐派の決起集会みたいな雰囲気でした。信徒の大半も上祐代表の考えに賛同し、協力してくれることになりました。これには本当にありがたく思いました。

 でも騒動はまだ続きました。道場長解任が言い渡された数日後、上祐派の勉強会をしている最中に、またまた村岡さん一行がやって来ました。

 しかも今度は総勢、9人で、師その他のA派主要メンバーを引き連れて来ました。 まるで数で圧倒しようとするかのような印象を受けました。村岡さんが再び船橋道場に来た理由は、船橋道場の信徒に道場長解任のいきさつを説明したいということでした。

 代表派も道場スタッフ以外に3人のメンバーが来ていたので、熱い論戦が繰り広げられました。しかしここでも、簡単に言ってしまうと村岡さんの説明は「麻原を信じる者は救われる」というものでした。

 そして例えば信徒からの質問にあった、教団の将来に対する具体的なヴィジョンについて何も示すこともできず、その他の質問にも明確に答えられませんでした。逆に村岡さんたちが強引な手段を取ったことによって、信徒側の反代表派に対する不信が増大したように思います。

 結局、お互いの主張は平行線のまま時間切れとなって幕となりましたが、この出来事により船橋道場の信徒も代表派へ参加する意思がより深まったように思います。そして、その流れのままに、船橋道場は今日に至っているわけです。

●激しく対立した村岡さんが転向したことに驚く

 一方、このとき反対派の中心となっていた村岡氏は、その半年ほど後に、考え方を大きく転換して、反上祐派(いわゆるA派、アーチャリー派)を抜けることになりました。いわゆる中間派に転じて、上祐代表にも一定の理解を示して、連絡をとるようになったのです。

 この変化には、私も当初は非常に驚き、一体あのときは何だったのか、と思いましたが(A派の人自体が驚いていました)。

 それはともかく、船橋騒動から一年後くらい後には、村岡さんに、騒動において、図らずも、自分が無礼な対応をする結果となった点については、謝罪を含めて、メールを送ったことを覚えています。村岡さんからも、当時を反省する内容のメールが送られてきました。

●代表派の活動を通して、教団の実態を悟る

 代表派に入ってからは、一連の事件の話を含めて、麻原や旧教団の実態について克明に聞いていくことになりました。それは、ほとんど知らないことがばかりで、それを聞いて、私は一体教団のどこを、麻原の何を見てきたのだろう、と思うほどでした。

 例えば、オースチン彗星と石垣島セミナー、ニューナルコと。そういった不可解な教団の動きの裏には、すべて教団武装化が関わり、事件との関わりがあったのです。何も知らずに活動を行ってきたとはいえ、知らないではすまされないことばかりです。

 上祐代表を含めた代表派の複数の男性の幹部信者によれば、先ほども書きましたが、オースチン彗星に関連した石垣島セミナーの真相とは、教団が、麻原のハルマゲドンの予言を自作自演するために、ボツリヌス菌の研究をしていたところ、その散布を行う際に、信徒を遠方の地に避難させるために企画されたものでした。
 
 なぜオースチン彗星だったのかというと、まず、その当時、アメリカのある宗教団体の教祖がオースチン彗星によってハルマゲドンが起こる、という予言をしたことがあると夕刊誌に掲載されていたのですが、そのハルマゲドンの予言の日が、麻原が指示していた教団のボツリヌス菌の散布の予定日(期限日)と全く同じだった、ということがありました。

 そして、それを知った麻原は、その宗教団体の教祖も、「(麻原が信じる神の)示唆を受けているね」と弟子達に語り、教団のボツリヌス菌によるハルマゲドンの自作自演をカモフラージュするために、オースチン彗星による大破局・ハルマゲドンという話を使ったのでした。要するに、教団のテロ行為を隠すためには都合のいい話だったというわけです。

 しかし、実際には、有毒な菌は製造されず、何も起こらずに終わったのですが、その前後に、どのような研究実験が行われたかを男性の幹部信者が説明しました。

 ともかく、要点としては、オースチン彗星が来て、何か大変なことが起こる、という純粋な予言だったのではなく、教団が、ボツリヌス菌を撒いて、いわゆるハルマゲドンを起こす、という、予言を自作自演で成就させる計画があり、それが失敗に終わった、ということだったのでした。

 こうして、自分の出家に関連した話が全くの嘘だったことを知った私は、先ほども書きましたが、自らが教団の幹部になっていたにもかかわらず、思わず、「私は騙されてたんですね」と言いました。

●自分が乗り越えなければならないものを悟ったこと

 こうして、代表派の活動を行いながら、私の中には、麻原が作り上げた何かを超えていかなければいけない、壊していかなければいけない、という思いに駆られるようになり、その思いは、どんどん膨らんでいきました。

 最初の頃は、それが何であるのか、わかりませんでしたが、今では、このようなことである、と考えています。

 それは、オウム真理教の教えは、麻原を神として絶対視し、私たちこそは選ばれた魂であって、それ以外は凡夫・外道という選民思想。オウムが善であり、それ以外は悪であるという、究極の善悪二元論でした。故に、事件が起こっていくのです。

 今から思えば、これは、非常に傲慢であり、おかしなことだ、と思えることばかりです。

 しかし、その世界に浸っていると、それが普通になってしまい、罪悪感すら湧かなくなってしまうのですから、非常に怖いことだと思います。

 それに対して、それを超えて、今私が実践しているひかりの輪の教えは、二元論ではなく、すべては自分の心の表れであり繋がっているんだという、一元思想に基づいています。

 それは、すべてに仏性が宿っており、特定の魂だけに仏性があるものではない、という教えが中核になっており、善悪二元論ではありません。

 二元の世界は、まさしくオウム真理教の特徴でした。そして、これを乗り越えていくことが、私が、麻原が作りあげた世界を壊して、それを乗り越えていくことだと思います。
 
 それは、私が、代表派の活動に関わり始めた2005年の夏くらいから、ずっと考えていた自分に必要なことの答えだ、と今は思います。

●アーレフ代表派時代

 船橋道場事件後も船橋道場や東京で一般会場を借りて、信徒を対象に、または、出家修行者を対象に、会合はたびたび行われ、そこでは一連の事件についての見解が話されました。

 実際の事件関係者からの真実の事件の報告、そして事件を認めて謝罪すべきこと、今後教団が目指すべき方向などの話がされました。

 そして自分たちと多くの人たちを幸福に導く法則、例えば、無常の法則とカルマの法則の重要性、自と他の区別をなくすこと、カルマヨーガ的に見ることの大切さ、すべての魂に仏性を見る、ことなどが説かれました。

 また、旧教団では麻原にあまりに依存しすぎていて、修行者として自立できていなかった、という話がありました。

 しかし、このアーレフを正式に脱会する前の時期、いわゆる、アーレフ代表派の時代の活動にも様々な反省点があります。

 例えば、方向性としては、麻原を絶対視しないようにしていましたが、依然として、いろいろ麻原に依存している面がありました。

 例えば、麻原の教材は破棄していませんでしたし、麻原の言葉を使って代表派に勧誘したこともありますし、さらには、麻原の物品を集めて、それを信徒に販売するなどして、お布施を集めたということもありました。

 こういったことは、アーレフを正式に脱会するに伴い、無くなっていきましたが、それ以前のアーレフ代表派時代においては、麻原を絶対視はしなくなり、事件を明確に反省し始めたものの、いろいろな意味で、麻原からの自立・独立という視点では不完全だったと思います。

 今思えば、この自立が遅れたという点は、反省する必要がある、と思っています。

●聖地巡礼セミナーで、昔の自分の求道心を思い出す

 2006年の夏には、初めて聖地巡礼セミナーを行いました。この聖地巡礼とは神社仏閣や大自然を訪れて、そこにある仏像、神社、自然の川の流れ、木々、風、太陽の光などに慈悲の心を感じ、すべてから神を感じて学び、すべてと一体となる実践をする修行のことです。

 このときは、在家の会員さんが対象に行われましたが、初めて行うセミナーの形態でもあり、それぞれがいろんなことを思ったようでした。これ以降、聖地巡礼は、ひかりの輪の活動の中心の一つとして、今でも行われています。

 この聖地巡礼は、麻原を絶対視し、(聖地を含めて)日本の宗教・宗派や社会を強く否定していた旧教団時代であれば、あり得ない話ですし、考えもしなかったことでした。旧団体が行った聖地巡礼は、インドの釈迦牟尼ゆかりの場所だけで、日本の宗教・社会・聖地は「外道・魔境」という考えでした。

 さて、私自身は、この聖地巡礼を行いながら、過去において自分がいくつか訪問した場所であったことを思いだしました。

 もちろん、その時は、自分が今のような状況になることは、まったく考えていませんでしたし、オウムに入ってからは、このような話をする機会がなかったこともあり、ながらく忘れていたことでした。

 しかし、各地での聖地巡礼を重ねていくうちに、私は、自分が仏像が好きだったこと、自然が好きだったことなどを思いだしていき、改めて、自分の仏性、自分なりの仏陀に近づく道といったもの理解していくきっかけとなっています。

●代表派を取り巻く環境が少しずつ変化をする

 2006年になっても、代表派と反代表派の摩擦は依然として続いていました。代表派は、反代表派の継続的な圧力にさらされつつも、少しずつ、その活動を拡大していきました。

 その中で、結果としては、物別れに終わりましたが、両者の話し合いの場が持たれたこともありました。それ以前には、反代表派は代表派というグループの存在自体を認めない姿勢を取っていましたが、この時期になると、グループの存在を受け入れざるを得なくなってきました。

 そして、2006年の3月頃には、松本家の四女が、家出をしたという情報が入ってきました。四女は、知子さんや三女のやり方に反発をし、家出をしたようで、反代表派(反上祐派)よりも、代表派(上祐派)の方に理解があったようです。

 さらに、それから、しばらくすると、A派の急先鋒だった、村岡氏が中間派に転じる、ということが起きました。それに連動した何人かの幹部信者が、中間的な立場に変わっていきました。

 こうして、代表派の活動が徐々に拡大する中で、松本家と反代表派のお膝元から複数の造反者が出たこともあって、代表派を取り巻く環境も、少しずつ変化していきました。

●2007年、麻原の教材を破棄し、アーレフを正式に脱会

 その後、2006年の後半になると、代表派は全体の会合を開いて、麻原から自立すべく、まずは、出家者から旧団体の教材破棄を行なうことを取り決めました。

 もちろん、これについても、すんなり行ったわけではありませんでしたが、何度も話し合いがもたれた末に、麻原に対する依存を払拭するためには必要である、ということで皆の意見の一致を見て、決められたことでした。

 そして、翌年2007年までには、おおむね旧団体の教材の破棄が実行されて、それに伴い、2007年3月7日に、オウム・アーレフを正式に脱会することになりました。

 なお、旧団体の教材の破棄については、2008年現在、まだ在家信徒の破棄が十分には進んでいないために、その推進に努めています。また、出家者については、破棄漏れがないかのチェックが徹底されました。

●2007年5月、新団体ひかりの輪が発足
 
 2007年5月に、いよいよ、新団体「ひかりの輪」が発足し、今日に至ります。

 私自身について言えば、新団体の中で、水野さん、広末さんと共に、三人の副代表の一人として上祐代表を補佐しています。

 また、日々の業務・活動としては、会員教化活動の部門の責任者として、主に、関東を中心とした地域の会員の皆さんに対応する業務に従事させていただいております。

●自分たちの心を投影した存在として麻原を見る

 最初、総括を書くにあって、一体、どんなふうに自分の考えや気持ちを表現すればいいのだろうか、と思いました。

 今、書き終わって見て、感じることは、自分が傲慢であったこと。主体性のない生き方をしていたこと。そして、不謹慎な言葉ではありますが、自分が作り出した世界を楽しんでいた、ということです。
 
 仏陀は、「すべて事物は心の現れであり、現象は相互依存し合って、つながって存在している」といった法則を説きました(縁起の法、唯識の教えなど)。
 
 こういった仏陀の叡智に即して考えると、麻原や教団は、決して私の心の働きと別の存在ではなく、私の中の、「依存する対象が欲しい」という心の現われや、「神通力を持っている人と巡り会いたい」という心の現われ、そして、「自分がヒーロー・ヒロインになり、すべてを支配したい」という心の現われだったのではないか、と思います。

 言い換えれば、私は、麻原や教団の現実を客観的に見るのではなく、自分の中の欲求を背景として、自分の中での麻原、自分の中でのオウムの世界を作り出していったのだ、と思います。

 そのように考えれば、事件は麻原が起こしたことであり、それを知らされていなかった私たちにはまったく責任がない、まったく関係がない、と単純に言うことはできません。事件を起こした麻原が抱いた妄想や狂気は、私たちの中にも存在している要素であって、麻原は、そういった信者たちの心の投影ではないか、と思います。

 その意味で、実際には、麻原らが指示して実行したものが事件であっても、ある意味で、自分たち自身が起こしたことと同じように受け止める必要があるものだ、と思います。

 麻原はキリスト、神、絶対者になっていったわけですが、それは麻原の誇大妄想からの願望でもあったと思いますが、私たちの中にも誇大妄想、そして、自分が特別になりたいという思いから、麻原を絶対者に作りあげていった、作りあげてしまったのではないかと思います。

 そのような麻原に依存することによって、私に何の力があるわけではないのに、私自身までもが特別になり、力があるような錯覚に陥り、何でもできると思い込み、他の人に対して偉そうに振る舞って、支配して、プライドを満足させていたかと思うと、いまさらながら、恥ずかしくて仕方ありません。

 しかし、長い間、自分の無智によって、麻原とつながっている自分の暗部を見たくないがために、自分と麻原は違う、といった意識を持ち、ごまかしてきたことが、ようやくわかりました。

 そのような自分に気付いてからは、コツコツと努力すること、支配するのではなく、お互いに学んでいく、ということを意識して、日々を送るように心がけています。

 そして、その自分の無智のために、多くの人に不快な思いをさせたり、嫌な思いをさせてきたことについては、本当に申し訳ないことだと思います。

●ひかりの輪を通して、21世紀の新しい宗教を

 私たちは、オウム真理教において、究極の二元の世界を経験しました。自分たちこそが救済者であり、救われた魂であり、それ以外は救われない魂である、善と悪がはっきりとした世界観でした。そして、その中で各人がプライドという煩悩を満足させ、麻原を神として依存して、支配しようとして事件まで起こしました。

 そして、今、ひかりの輪では、その経験を元にして、自分たちを深く反省し、新たに、21世紀の宗教・思想を作り出そうとしています。

 ひかりの輪では、「すべてのものはそのもの自体で独立して存在しているのではなく、他との関わりあいのなかで、相互依存によって生起している」という、お釈迦様が説いた縁起の法を基本にしています。それは、自分と他人はつながっており、自分だけが独立して存在しているわけではない、物事はつながっているのだということです。

 そして、「すべてが神仏の現れ」とみて、すべての人々、生き物、万物に神仏や法の現れと見て、学び、感謝し奉仕するヨーガ「カルマ・ヨーガ」、神仏としての大宇宙、大自然との融合ということで、聖地巡礼を行っています。

 それは、すべての人が、自然が学びの対象となることにより、人間を神にして、特別な存在にしないことにより、自分が傲慢にならないことにもつながっていきます。

 支配するのではなく、お互いを尊重し、良い部分を学び、悪いところは反面教師としていくことを心がけています。

 この新たなものを作り上げていく過程の中では、古いものからの脱皮が必須であって、その教えを実践することによって、新たな自分が生まれてくると思いますし、生まれ変われるのだと思います。

 この総括をきっかけとし、まだまだ未熟ではありますが、自己をより反省し、謙虚になることができるように努めたいと思います。

 そして、仏陀が説いたように、自他の区別をなくして、すべてに仏性があることを理解し、感謝をし、日々、邁進していきたい、と思います。

                          2008年9月2日
細川美香

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