専従(出家)会員陳述書 3
1.40代男性公安調査庁の更新請求の内容に、ひかりの輪がマハームドラーの修行の実践として、ひかりの輪を設立し、麻原隠しを行っているということや、私たちいずれの構成員も麻原に対して帰依し、麻原の意思の実現のための活動をしていると書かれているのを見ましたが、全く事実に反するため、以下の通り申し添えます。
私は、麻原に帰依もしていなければ、麻原の意思の実現など、考えていません。麻原のことなどどうでもよく、それよりも、自分自身の心や宗教自体の是非について追求しています。
私は、2002年の3月、まだアーレフ教団に属していた頃に、母の死と対峙し、大きな衝撃を受けました。母は、死に際に感謝の心を持って旅立っていったのです。母は生前、ひたすら人に対して、安心を与える生き方をした人でした。
その時、出家までして人生をかけて宗教を実践してきたのにもかかわらず、今の自分には母のような死に方はできないと悟り、同時に、今までの自分の宗教実践が崩壊しました。
そこから、私の今までのオウム真理教・アーレフでの宗教実践をやめ、これまでの宗教実践の総括作業が始まったのです。人間にとっての「宗教」とは何なのかと今でも思い悩み、今でも追求・総括し続けており、「宗教」そのものについての是非を追求しています。そのような心中ですので、実際に、ひかりの輪の宗教的な修行にさえも、参加しておりません。
そして、私がひかりの輪にいる大きな理由は、上記の自分自身の総括を行うことができるということと、賠償を行うことができるという理由です。アルバイトを行い、そこから生活費と総括に必要なお金を引いた分を、賠償に回させていただいています。
公安審査委員会におかれましては、どうか事実に基づく適切なご判断をお願いしたく申し上げます。
以上
2.40代男性
今回の観察処分更新請求で、公安調査庁は、ひかりの輪が麻原に絶対的に帰依しているとか、過去に事件に関与してしまった私が周囲の構成員を感化して犯罪に走らせる恐れがあるとか、真実ではない主張をされていますので、ここに真実を記させていただきます。
(1)はじめに
最初に、私は過去、落田耕太郎さん殺害事件や第7サティアンプラント建設事件に関与してしまったことを後悔しており、取り返しの付かない被害を被った犠牲者やご遺族の方、ご迷惑を及ぼした関係者の方に対して、心からお詫び申し上げます。
私のために余計なご心配を公安関係の方にもおかけしているかと思うと、それも申し訳なく思います。
そのお詫びもかねて、以下に真実を書かせていただきます。
(2)オウムの入信まで
私は、子どもの頃から病弱だったので、強くなりたいとずっと思っていました。そして国家や社会に貢献したいという気持ちがありました。そこで、18歳のころ、陸上自衛隊に入りました。
自衛隊に在籍している当時も、私は真理を探究したいと熱望していました。宇宙の真理とは何か? 全ての真実を知りたいという気持ちを持っていました。
やがて自衛隊を退職した私は、書店で麻原の書籍を見て感銘を受けました。そこでオウム真理教の道場を訪ねました。1987年のことでした。
その当時、つまり最初期の教団は、その後の事件を起こした教団とは違って、雰囲気がよかったのです。屈託のない明るい雰囲気でした。信者の皆がそんな感じでした。極端に偏った変な感じは全然しませんでした。
私は子どもの頃、いじめられっ子でしたので、ここなら自分を変えられるかもしれないという期待感もあって、オウム真理教に入信し、その後、出家もしました。
(3)殺人事件に関与してしまったこと
教団の雰囲気が変化しだしたのは、1990年の選挙(麻原が衆院議員に立候補した選挙)が終わってからだったと思います。
選挙に惨敗してからの麻原や教団は、徐々に感じが変わっていきました。言っていることとやっていることが違うのではないか? そう感じられる場面がいろいろとありました。
その思いが確実になったのは、はからずも私が教団内の殺人事件に関与してしまった時でした。
それは1994年の落田さん殺人事件です。
落田耕太郎さんは、もともと出家信者でしたが、脱会した後、以前に親しかった女性信者を上九一色村の第6サティアンビルから連れて出ようと思って、その女性信者の子息であるYさんをともなって、同ビルに侵入してきました。しかし、Yさんともども出家信者らに捕まりました。
私もそのとき第6サティアンの3階にいたため、騒ぎを聞いて1階まで降りていったところ、そこで落田さんとYさんが出家信者らに取り押さえられていました。落田さんは麻原の部屋に連れて行かれ、私は後から呼ばれて、Yさんと一緒に麻原の部屋に入っていきました。
そこで私は命じられて、Yさんをゆるめに押さえていました。
麻原はYさんに対して「お前は何をやったかわかるか?」「お前の手で落田を殺せ」と言いました。それを聞いた私は驚きましたが、そのやりとりを落田さんに聞かせることによって、落田さんを改心させようと、麻原が一種の脅しをしているのだと思いました。首を絞めろという指示だったので、首をある程度絞めて、落田さんが反省したら途中でゆるめて赦してやるつもりなのだろうと思っていたのです。
いやいやながらYさんが落田さんの首を絞めたり、信者の中川医師が柔道の絞め技を掛けたりしているうちに、落田さんは失神してしまいました。中川医師が「まだ脈があります」と言うと、麻原は「まだ絞め続けろ」と指示したので、中川医師がさらに絞め続けました。
その間、私は、どうしてよいやらわからず、暴れる落田さんを無我夢中に押さえていました。
やがて落田さんは死亡してしまいました。
この間、私は内心、大混乱していました。私が殺人の現場に立ち会ったのは初めてでしたし、それまで教団が殺人をしていたということも全然知らなかったので、心が大揺れしました。
「絶対にありえないことが起きてしまった」
「これは何だ!」
という気持ちでした。
命じられて落田さんの死体を運び、処理をした私は、作業を終えると第6サティアンの自室に戻りました。
「あれは一体何だったのか?」
「不殺生の教えは、いったい何だったのか?」
精神の混乱は続きました。
(4)オウム教団にとどまった理由
初めて殺人に関与してしまった私は、
「今まで信じていたのに、どうして?」
「このまま教団にいてよいのか? もう離れようか?」
と、さんざん悩みました。
しかし、結局私は教団にとどまりました。今さら行く場所がなかったということもありますが、最大の理由は、もし逃げても信者が追跡してきてひどい目にあわされるかもしれないという恐怖があったからでした。
当時の教団の中は、相互監視の状態でした。事件の秘密を知る私が急にいなくなったら、きっと疑われて追跡されるに違いないと思いました。
現に、こういうことがありました。
Yさんは、落田さん殺害を終えた後、「毎週一度は道場に通うこと」を条件として、麻原に釈放され、秋田県の家に帰りました。しかし、Yさんは約束を守らず(当然だと思いますが)、一度も道場に来ませんでした。
麻原は私たち出家信者に「Yを連れてこい」と命じたので、私たちは10人ほどでワゴン車2台に分乗して、はるばる秋田まで行き、真夜中にYさんの家を訪ねました。Yさんが警察を呼んだため、私は秋田警察署に連れて行かれ、その後、釈放されました。
こういうことを私自身がやっていたため、私が逃げてもきっと同じような目にあうだろうと思ったのです。
そこで、私は教団にとどまり、麻原の警備をするワークを続けたのですが、その葛藤たるや大変なものでした。麻原は弟子の心を超能力で見抜くと信じていましたから、私が殺人事件に動揺して逃げようと思っているということを見抜かれては困ると思い、努めて平静を装うようにしていたからです。そのため、常に緊張を強いられ、極度にビクビクしていました。
(5)第7サティアン建設に関わったこと
また、私はサリンプラントである第7サティアンの建設に関わりました。私は、それがサリンプラントとは知りませんでした。
ただし、作ろうとしているものを「最終製品」と呼んだり、ウエットスーツを着て作業をしたり、皮膚についてはいけないと言われていたりしたことから、これは普通ではない、何か危険なものを作ろうとしているのだろうという認識はありました。
もちろん、これも麻原の指示だから断ることはできないという気持ちでした。
(6)逮捕・勾留・受刑・釈放
これだけのことに関与した私ですが、それまでの教団内での洗脳もあったせいか、松本サリン事件は教団を陥れるための何者かが仕組んだ謀略だと思いましたし、地下鉄サリン事件も教団が関与しているとは思えませんでした。
しかし、私が落田さん事件(殺人・死体損壊)と第7サティアン建設事件(殺人予備)の容疑で逮捕された後、捜査員から教えられて、はじめてサリン事件はオウムの犯行だと確信するに至りました。
私は、「もうダメだ。これまで信じてきたものが崩れてしまった。こんなことをやるわけがないと思っていたのに......」と思い、勾留中に教団へ脱会届を出しました。私自身勾留されているから、もう追跡される心配はないと思い、安心して脱会届を出せたのです。
裁判では、有罪となり、懲役7年の判決が出ました。
上記のように、逮捕される前から精神不安定になっていたことに加えて、刑務所内では常に監視されているという圧迫感を感じ、十分な食べ物もなかったので、何度も倒れてしまいました。手の震えが止まらず、まっすぐ歩けないこともありました。刑務所内にも捜査員がやってきて、事情聴取を繰り返されました。警察庁長官銃撃事件の犯人扱いをされたのです。
こうしたことが積み重なって、今でも拘禁症状が残って、苦しんでいます。
私は、服役態度が真面目でしたので、6年あまりが経った2002年に仮釈放されて、まず親元に戻りました。釈放されたとはいえ、長い刑務所暮らしだったため、鬱病になってしまい、死のうとしたこともありました。
両親は物質的な援助はしてくれましたが、残念ながら、精神的な力には全然なってくれませんでした。精神的にはまさにボロボロでした。
(7)アレフ教団に入る
その後、刑期が満了した2002年の11月を過ぎてから、私はアレフ教団に入りました。
なぜかというと、心身ともに弱っていた一方、だからこそ精神的なものを探究したいという気持ちも依然強くあって、しかも当時のアレフでは麻原を絶対的存在と位置づけず、タントラ・ヴァジラヤーナは破棄したと聞いていたからです。それなら二度とあんな事件は起きないだろうと思いましたし、また私は、自分が体験して知っている事件などの事実を、いまだに知らない信者らに教えなければならないという使命感も持っていました。
1995年以降、事件に関する情報を全然知らない出家信者もいるという話を聞いていましたので、頑なにしがみつくように、かつての麻原やオウムを信じている人もいるだろう、それはまずいのではないかと思ったのです。
私は、アレフに入ってから、周辺の出家信者に、個人的に、様子を見ながら少しずつ、教団は事件に関与していたという話をしていきました。
しかし、なかなか受け入れられませんでした。「実際に事件はあったんだ」と言っても、「勾留中に薬物を飲まされてそう思わされたのだろう」という信者までいたのです。そういう信者に対しては、麻原に絶対的に帰依していて頭が固くなっているので、自発的に考えるように、疑問を持つようにと話を持っていきましたが。全然だめでした。冷ややかに見られてしまいました。
(8)麻原への絶対的帰依を説いていないこと(「証6-27」について)
なお、公安調査庁は、私がアレフに入ってから、麻原への絶対的帰依を説く説法を行っていたと述べていて、その証拠として「証6-27」を提出しています。しかし、これは、私の中継説法を聴いたという信徒から話を聴いたという公安調査官が一方的にまとめたものにすぎず、全体として見た場合、明確に事実に反する記載や、私が話したにしては違和感を覚える記載があちこちにあります。
もっとも、私がこのようにして在家信徒に向けて公に話をする際に、麻原を完全否定するような話をしていたわけでもありません。いきなりそんな話をしても受け入れられないばかりか、今後は二度と信徒に接触しないでくれと言われて隔離されるのがオチですから、こういう場面の私は、当時の教団の中で当たり障りのない表現を使って麻原のことを話していました。
そもそも、こうして在家信徒に向けて話をする際は、事前に、在家信徒担当の幹部から、「これこれこういう趣旨で話をしてください」という指導があるので、在家信徒と今後も関係をつくっていこうと思えば、それに大筋で従うしかありませんでした。
特に、このときの私の説法は、証拠を見てもわかるとおり、自己紹介やプロフィールから話し始めており、全く初めての人たちに話す前提で話をしています。当然、段階的に話をしていかねばならない状況だったわけです。遠方の顔の見えない初めての人たちに対して、いきなり、「実は事件は......麻原は......」と話し出すわけにもいきません。
ただ、私がこのような感じで在家信徒に向けて話をした機会は、このときを含めてほんのわずかしかなかったので、こういう趣旨の話をしたこと自体が、ほとんどなかったはずです。公安調査庁が今回私について出してきている証拠が、この程度のものであることを見ても、それはわかっていただけると思います。
(9)代表派で事件の真相を語る
私は、アレフの中では、主に上祐代表の警備を担当しました。そのため、上祐代表に接する機会が多く、上祐代表の改革思想に触れることも多かったのです。
上祐代表は、私がアレフに来たとき、すでに麻原のことを絶対的な存在とは見ていないのが明らかにわかりました。現に、麻原が禁じていた神社を巡ったり、独自の研究をしたり、独自の教学を展開したりしていました。私は、それを見て新鮮な驚きを持つとともに、上祐代表とならやっていけるという思いを持ちました。
ですから、アレフの中で、麻原や事件に対する見方で意見対立が起き始め、上祐代表がグループ(代表派・M派)を作り始めたとき、私は必然的に代表派に参加しました。
代表派に集まった人たちは、麻原の現実や事件を直視しようとしていました。それらをテーマにした勉強会を何度も開いていました。
私も、落田さん殺害事件に関わった者として、せめてもの罪滅ぼしとなればという思いで、事件の全貌をリアルに、皆の前で話しました。多くの信者の前で公然と事件の話ができたのは、代表派の勉強会が初めてでした。私は、落田さん殺害の際の麻原の指示や、事件の詳しい経緯を何度も繰り返し話しました。
当初は、あまりの話のリアルさに不愉快さをあらわにする人もいて、私も話し方に苦労しました。しかし、そうした人も、後から理解してくれるようになり、麻原崇拝から離れていきました。皆が自分で考えてくれるようになっていきました。
こうして私は、麻原やオウムが間違っていたと皆に伝えていきました。私のこうした話が、代表派の成立や、ひかりの輪の成立にあたって、大きな力になったものと思っています。
(10)麻原についての思いと総括
なぜ麻原は、あのような凶悪な存在になってしまったのでしょうか。麻原には極端な二面性があり、初期のころは良い面が出ていたものの、後期になると悪い面が強く出てきたのかもしれません。
人間なら誰もが内側に持っている光と闇の側面が、麻原という人間に極めて極端に現れ出たとも考えられます。
ですから、人間を絶対視することは、してはいけないと思います。
宗教における人間の教祖の絶対性は、なくさなければならないと思います。
もちろん責任は麻原だけにあるのではなく、麻原をつくり出した私たち信者・元信者みんなにあります。
この私も、子どものころ弱くて、いじめられっ子だったため、強くて明るい人間になりたいと思ってオウムに入りました。麻原に頼れば、すぐに強い人間になれるという妄想や安直な依存心があったのは否定できません。こういう私の弱さも、麻原という人間をつくり出した要因の1つなのは間違いありません。
そして、そうした弱さが、殺人に加担するという重大な過ちを私にもたらしたことを思うと、悔やんでも悔やみきれません。あらためて、落田さんやご遺族の方にお詫びしたいと思います。
(11)今後の私
先にも書きましたが、私は今でも時折、拘禁症状が出てきて、苦しみに悩まされます。これは、もはや一生ものの私のキズです(なお、公安調査庁の証拠「証2-133」には、私が「健康上の理由」で活動できないとか、「証2」の108ページには、私が「病気療養中」などと記されていますが、活動できないほどの健康上の問題があるとか療養中だとかいうことはありません。現実に私は、平日朝から夕方まで毎日電車通勤して一般企業で働いているのですから)。
しかし、こうして時折生じてくる身心の苦しみも、私自身が事件に関与し、落田さんをはじめとする事件の犠牲者や、一般市民の皆さんを苦しめてしまった報いだと思って、甘受することにしています。
そして、こうして自分が苦しめば苦しむほど、自分が苦しめてしまった人たちのことを思い、二度と同じ過ちが起きないようにお手伝いしたいという気持ちを強めることにしています。
そのために私は、再び事件を起こさず、人殺しをする宗教を生み出さないための活動をしているひかりの輪のお手伝いをしたいと考えています。具体的には、あらゆる機会を通じて、私が知っている事件の真相を語ったり、日本の社会と融和して本当に日本のためになれる思想の探究などをしたりしていこうと考えています。
私は、麻原に対しては、事件の全ての真実を話してもらいたいと思っていました。しかし、彼はもう廃人ですから、無理でしょう。私も麻原裁判の証人として法廷に呼ばれた際、間近で麻原を見ましたが、もう廃人でした。もう何を言ってもダメでしょう。
ですから、私はもはや麻原には期待していません。微力ではありますが、私自身ができるだけの貢献をして、償いをしていくつもりです。
私は、そのためにひかりの輪にいますし、公安調査庁が言うような「グルの意思」を実践するためにいるのではありません。もし、そんな話がひかりの輪の中に出てきたら、私が真っ先に反対し、世間に向けて告発します。
公安調査庁は、「過去に1回でも悪いことをした人間は、一生悪人のままだ」と言っているかのようです。まるで、私のことも、そのように見ているようです。私が周囲の構成員を感化してまた犯罪を起こさせるかもしれないと公安調査庁が書いているのを見て、強いショックを受けました。
もちろん、これも私自身の悪業が招いてしまったことですから、そう思われても仕方ありません。でも、どんな人間でも必ず変わります。人間は本当に死ぬほど苦しい思いをすれば、それを糧にして反省し、生まれ変わることができると私は信じています。現に私がそのプロセスを歩いてきましたし、今も歩いています。そして、そうした苦しみを経たからこそ、気づくことがあり、人々の力になれることもあるのです。私は今後それをしたいのです。
ですから、公安審査委員会の皆さまは、私たちについて正確なご判断をしていただきたく、ぜひともお願いいたします。
以上
3.60代女性
私は、ひかりの輪の専従スタッフの1人ですが、今回の観察処分の審議のために、以下の通り陳述します。
オウム真理教並びにアーレフにいた頃に、オウム真理教の起こした一連の事件について知らなかったのは、自分が無智だったと思います。
これについては、2000年に、上祐代表が出所したときに、上祐代表から、松本氏の起こした一連の事件の真相を聞いて、初めて知りました。といっても、聞いてもすぐには信じられませんでした。
しかし、事件の裁判の傍聴などに通って、逮捕された人たちの供述を聞いたりしているうちに、事件は、本当にオウム真理教がやったのだと思うようになっていきました。
今では、事件については、青天の霹靂、とんでもないことだったと思っています。
私は、事件はやっていないと思っていたにも関わらず、実際にはやっていたとわかった時には、本当にショックでした。
でも、その当時は、既に高齢であり、帰るところもなくて、教団から出て行くこともできませんでした。
今現在、ひかりの輪で、友人たちとともに、オウム真理教時代の自分の心理学的な分析を勉強しました。そして、少しずつ、自分と社会との関係などについて、よく考えるようになりました。
今は、松本氏に対しての信仰はありません。松本氏とは、もう二度と関わりたくないと思っています。
そして、被害者の方に対しては、自分が知らなかったにもかかわらず、自分の所属する団体が起こしたことなので、そこにいた人間としての責任を自覚して、賠償をしていかなくてはならないと思っています。
以上
4.40代男性
今回、公安調査庁のほうから、ひかりの輪に対しての観察処分の更新の理由についての文章を読ませていただきまして、アーレフからひかりの輪に移行し、はじめからの経緯を経験した専従スタッフの立場から見ても、この内容はかなり誤解されている、と思いました。
私が、2004年頃、アーレフから代表派が発足した当初は、確かに松本氏の教材を用いた形で運営していく方針だったことは確かです。そして、当時、松本氏によってしか自分自身は救われない、と思い込んでいた私が、アーレフからスムーズに離れ、代表派に移行することが出来たのも、このような方針からでした。当時、松本氏の教材はそれほどにまで必要不可欠で、また、松本氏の存在は、世界で唯一の自分を救っていただける存在でした。
しかし、代表派に入り、日本の伝統的な仏教、修験道などについての知識が入り、聖地修行などを行っていくにつれて、徐々に、自分が救済される道は、松本氏だけではないんだ、ということが分かってきたのです。過去に、日本の修験道などの中にも、かなりの悟りを深め、また神通力を発揮したという人もいたようです。
また、霊的なイニシエーションなども、実は法具などで、同等、またはそれ以上の効果を発揮する聖音水も発見されたりと、オウム・アーレフを超える様々な修行のツール、手段が出来たりしてきました。こうした環境にいるにつれ、私の代表派に移行した当時の心配は徐々になくなってきました。
また、オウム・アーレフを、教義面、修行面で客観的に見れるようになってくるにつれて、オウム真理教がお釈迦様が説かれた法則と違った点なども指摘されるようになって来ました。以前、私は、オウム真理教こそ、仏教を正統に伝える唯一の教団であると思っていましたが、それは、私の無知であることがわかりました。
また、私は代表派に入る前は、松本氏を普通の人間とは違い、人間の形をしていながら神のような存在であると信じていましたし、過去の歴史を振り返っても、いろんな偉大な人物に生まれ変わっている人だと思っていましたが、教団内に存在する松本氏や、それを取り巻く松本氏の家族の前世にまつわる話には、いろいろな情報操作があったという話も教えていただきました。
つまり、アーレフ、オウム真理教時代に流れていた情報は、松本氏を神格化させるためにかなり情報操作されていた、という話も聞いています。そのようなことを知るにつれて、オウム・アーレフに対する執着は、どんどん薄れていきました。
こうした経緯をみてもわかるように、公安調査庁の今でも松本氏の意思を実践しているという主張は全く嘘であると断言することができます。
5.60代男性
私は、宗教団体「ひかりの輪」に出家しているものですが、この度公安調査庁から提出された陳述書の記載内容について意見を述べさせていただきます。
公安調査庁はひかりの輪があたかも麻原彰晃の過去の意思(それも10数年昔の)によって設立運営されている如くに申し立てていますが、まことに根拠のない客観的理解の無い話であると思います。
ひかりの輪は、凶悪なる数々の事件を真摯に反省し、二度と再びあのような過ちを犯さないという決意の元、その志を共有するものが、互いに自由な意志によって集まったものです。自分たちは何も知らされていなかった、事件とは関りも薄い存在であった、グルの言葉は絶対だ、というような諸々の過去を、その組織の中にいた自分というものとどのように決着させるか。
人生の大切な一時期を一心に集中した人物や教義のことごとくが短時日のうちに粉砕され解消されるものではありませんでした。また、私自身が何時でも直接的加害者の立場になり得たのではないか。閉鎖された空間にいて、カリスマ的存在と自分がもう少し近いところで接触すれば、恐ろしい指示を受けていたかも知れない。したがって犯罪を犯した人たち、それは私自身である、という視点もあります。
このように、過去の教団と教義、開祖麻原、事件と実行した人たち等など、すべては反省のための糧として活用しているものであって、現実の活動とは無縁のものです。
繰り返しますが、ひかりの輪は、だれの指図でもなく、自由な自分の意志に基づいて集った者がつくっている団体なのです。
上祐代表と開祖麻原を結び付け、再び過ちを繰り返すがごとき論理も、非常に問題があります。
何も知らない人が読めば、そのまま信じてしまう恐れがあり、いたずらに世情の不安を掻き立てることになりかねません。それは公安調査庁も望むところではないと、思うのですが。
わたしたちは、被害者の方、社会の人たちが抱く、ひかりの輪に対する不安、恐怖、怒りの感情、想いを何とか和らげて、共存できる関係を築きたいと希望し努力しています。
6.40代女性
事件を初めて知った時は驚きましたが、報道や団体からの事件に関する詳しい情報などに触れて、オウム真理教は大変なことをしてしまったのだと思うようになりました。
知らなかったこととはいえ、大きな事件を起こしてしまった教団に所属していたことは、自分も事件に対して何らかの責任はあると思っています。
あのような事件が二度と起きないように、ひかりの輪では松本氏からの自立、そして、教義における軌道修正をしてきました。
そして、被害者の方への賠償をすることで、事件と直面し、反省を深めていこうとしています。
私もひかりの輪とともに軌道修正をしていく中で、松本氏への崇拝は、人を神とすることであのような大きな事件が起きてしまったことへの反省として、釈迦・観音・弥勒などの神仏への崇拝へと変わり、全ての人を神として、社会とつながっていく教義への信仰へと変わっていきました。
被害者の方たちへの賠償も、事件を起こした団体にいた人間として、できる限り行っていきたいと思っています。
そして、私は今、個人的な活動として、事件を起こした人について、事件を起こしたことを反省し、人としての生き方を取り戻してもらえるように、お手伝いをしています。
社会の人たちに、真のひかりの輪の姿を理解し、オウム真理教とは大きく変わったことを、理解してもらえることを願っています。
7.40代男性
私は、ひかりの輪の専従スタッフですが、1992年以来10年以上に渡り、オウム真理教の教義を勉強し、実践していため、4年ほど前までは松本死刑囚を聖者(解脱者)と考え、尊敬し、オウム真理教を肯定していました。
その後、その教義や起こした事件、数々の犯罪行為に疑問を持ち始め、自ら他の仏教書や、事件に関する本・報道等に触れるなどして、徐々にオウム真理教による洗脳が解け始めることとなりました。代表派(上祐氏のグループ)の勉強会にも参加し、それまで知ることのなかったオウム真理教の実態を学びました。
今では、オウム真理教と松本死刑囚による反社会的な誤った行い、教義に対して、完全に間違いであった、ということが理解でき、松本死刑囚に対しては、以前持っていた信や尊敬の念といったものは全くありません。彼の犯した罪に関しては、彼自身によって速やかに償われるべきだ、と考えています。
また、私自身に関しても、一般の会社で働き得た給料を、ひかりの輪を通して事件の被害者の賠償に充てることにより、過去にオウム真理教に参加し、間接的にせよ事件に関わった罪を償っています。
また、ひかりの輪とアーレフと同一の団体であるとされていると聞きましたが、私の目から見ると、そのようなことは一切ありません。
私は平成19年3月にアーレフを脱会したのですが、その1年ほど前、代表派に参加する旨を当時の上長に表明してから、その上長との関係は非常に険悪なものとなりました。
最終的には、アーレフから追い出される形になって、上長にはあいさつすらできずに、ひかりの輪に参加することとなりました。その後、アーレフとは一切交流はなく、連絡すら取っていません。
8.40代男性
私は、ひかりの輪の大阪道場に所属する専従スタッフの1人ですが、今回の観察処分の更新請求について、以下の通り陳述します。
私がかつて所属していたオウム・アーレフは、「自分達の教えが最も正しく、他の魂をこの教えに導かなければならない」という誤った考えにとらわれて、そのためには手段も選ばないという考えにも至りました。
しかし、ヒかりの輪では、そうではなく、全ての魂・事物は相互に依存しあって存在しているという、仏教の「縁起の法」が説かれています。
そして、自分が対象に見る要素は全て自己の心の現われであり、全ての魂は、自分にとって、反面教師である場合を含めて、学び、感謝、奉仕の対象と考えます。また、全ての魂に、仏性(将来仏陀になる可能性)があることを認めます。
そして、自分達をオウム真理教のように「神の御使い」と考えるのではなくて、全ての魂について、自分の鏡としての「神・仏の現れ」と考えるような教えになったことは、オウム・アーレフ時代からの大きな変化といえると思います。
また、これとは、逆に、いかなる人間においても、絶対神のような完全無欠の人格があるとは認めません。そして、完全を目指すことは必要でしょうが、これによって特定の人間を神のように崇拝し、オウムのようなカルトに陥ることを否定しています。
また、オウム真理教の幹部が確かにひかりの輪には存在しますが、それは、オウム真理教の失敗を十分に反省・総括して、それから脱却し、再び過ちを犯さないようにしており、それは教義にも現れています。
また、今現在、ひかりの輪の構成員になっているメンバーは、オウムの教義だけという世界から脱却して、他の教えにも目を向けるようになったために、その過程で、アーレフ教団から批判・排斥も受けました。
公安調査庁は、ひかりの輪を松本氏が意思した別団体であると主張しているようですが、
その別団体とは、オウム・アーレフでよくやっていた、表面だけオウム真理教であることを隠して、中身の教義は変わらない、ヨーガ教室等を意味するものだと思います。
ひかりの輪では、実際に、松本氏のやり方を徹底的に否定し、全く違う教義になっていることが、上祐代表の説法を聞けば分かることだと思います。そしてこの教義は、タントラヴァジラヤーナではなく、一元論的な大乗仏教の教えです。
このような教えが日々説かれ、それにのっとって精進しようとしている私達の団体に
公安調査庁の主張するような危険性があるとは到底思えません。
公安調査庁は「麻原隠し」といいたいようですが、どこに隠してあるというのか、現実の団体を知るものとしては、全く不思議だと言わざるを得ません。
9.40代女性
私が事件のことを真剣に考え始めたのは、おそらく、99年頃です。
それまでは、全部やったと思っていましたが、それは置いといて自分の修行をしたかったので、それに関しては思考停止状態にしておいた面があったのと、95年以降2002年ごろまでは、自分自身が、半分精神病の状態、定期的に、エクソシスト的な状態、酒鬼薔薇的な状態になっていたため、それどころではなかったというのが、正しいかも知れません。
99年に現アーレフ野田代表が、「2007年頃には判決で死刑が出る可能性が高い」ということを明言されたときに、現実を見たような気がしました。この時の心境は「このままでは、自分は、魂が抜かれてしまう。」という感じでした。
とにかく、この状況から抜け出さなければならないと思いました。どうして、魂が抜かれてしまうのか、というと、95年くらいに「我々は麻原尊師がいなくなったら抜け殻なんだよ。」とある幹部に言われたことがあり、その時に納得していたからです。そのくらいに自分に浸透していたのだと思います。
私が思ったのは、とにかく麻原が死刑で死んだとしても、自分は正常に生きていこう、ということでした。その後は、そのためのリハビリのように感じていました。
具体的に何をしていったのか、その頃のことは覚えていませんが、まだ事件に関して調べたりすることはしていませんでした。ただ、賠償はしたいと思っていたので、2000年になって賠償をすることが決まったときには、とても嬉しく思いました。
ただ私は一人一人がきちんと自分で振込みができるようにして欲しかったのですが、便宜上の問題でまとまった形式で払うことになり、ちょっとガッカリしていました。
また、私は、「それでも生きていく」という書籍をその頃に読みました。サリン事件で家族を失った方々の手記です。周囲には、これを手に取ることも拒否している人が結構いて、そんなにも事件を起こしたという事実を否定したいのだということをあらためて実感しました。
自分もまだその頃は、事件は事件として、被害者の方々には成仏していただきたいと思いながらも、自分との関係性に関しては蓋をしたままでしたし、捕まっている人たちとの交流もなかったので、それ以上のことを考えることはなく、まだ、エクソシスト的な状態に自分がいたために、自分の精神病理との葛藤に時間を費やすことの方が多くありました。
その病理がほぼ完全に抜けたのが2003年で、2004年からは外で仕事をすることになり、今までのような閉鎖的な環境から一歩抜けることになりました。その場合にネックになったのが、社会生活におけるブランクとオウム真理教の事件です。
外で仕事をするためには、オウムであることがわからないようにするために、神経を注がなければならないために、自然とオウムの事件を意識するようになり、かつ、集団、というものが、一般社会に及ぼす脅威というものも感じざるを得ませんでした。
そのおかげで、それまでは近隣の住民の方々の気持が、あまりよく理解できなかったのですが、かなり実感できたような気がしました。
この頃から教団内部には、分裂状態があり、いろんな噂を聞きました。荒木氏のお話会に呼ばれたりもしました。基本的に私は興味がなかったのですが、ある時に「これは何かおかしい」と思うところがあり、荒木氏に話を聞くことになりました。
このときの話は「上祐氏は麻原尊師の意思に反している。」という内容でした。私は、つまらない話だとしか思えませんでした。逆に、いまだにこんなに古い言葉に重きを置く人がいるのだと思い、びっくりしたくらいです。
上祐派に誘われたのは、この時から半年後くらいだったと思います。上祐氏や周囲にもA派とは負けず劣らず違和感を感じていたし、外で仕事している身としては、こういった内部のゴタゴタは面白いネタ程度で、どうでもよかったことでした。
ただ自分としては、事件が何だったのかを考えたかったという気持ちも当時強かったので、上祐派に入るのは、選択としては自然だったと思います。その後は上祐派の会合で事件の詳細を知ることになりました。
会合だけでなく、実際に事件の当事者になった人から、直接、その状況を聞いたこともあります。また書籍もいろいろと読みました。ビデオやテレビ報道も観ました。自分にとって一番重かったのは、林郁夫氏の「私とオウム」という本でした。
そこで感じたことは、自分が今まで善として来たものが実は裏で悪に結びついていたという事実、そして、いま善だと思っていること全てが実は悪に帰結する部分があるということでした。
自分にとっての善(つまり宗教性)を捨てない限り、悪(事件)を反省したことにはならないだろうと思います。しかしまた、善だと思えることがなければ、悪は生じないのですが、善という意識がないと、また人間は生きていけないものです。
それから、サリンを撒け(常軌を逸脱した行為)と言われても絶対に撒かないことができるかどうか、自問自答してきました。今の結論から言うと、言われてもサリンは撒かないが、気が付かなくて毒物を撒く可能性はあるし、善業だと思って消毒液を撒き散らすという迷惑をかける可能性は十分にあると思っています。
一番大事なことは、人間は必ず悪事を犯すものであること、それを極力少なくするには、3権分立、つまり、お互いにチェックしあえるような組織的なシステムが必要であるということ、それが地域社会であり、国家間であり、組織の監査であり、今の私たちの環境であれば公安調査庁や警察の方々であるということが理解できてきました。それまではあまりそういうことを考えていませんでした。
2006年になってA派と代表派との資産を分割する流れになり、ここで経済を完全に分けることになりました。この頃、とある禅のお寺に座禅を組みに行きました。そこで和尚さんにいろんな話をしていただきました。その人には私がオウムであることは言ってませんでしたから、関係なく話をされたのですが、オウムの仏教と根本的に違う部分があり、目からウロコが落ちました。
その後、9月だったと思いますが、松本氏に死刑判決が確定する日の前日、なぜか今まで所有していたオウムの教材を自分で勝手に破棄し始めました。その日に全部終わらせることはなかったですが、夜中までずっと破棄作業をしていて、そのうちに同室の人もやりだして、結局朝になっても終わらず、気が付いたら公安調査庁の方々が横に立っていました。
「何かあったの?」と聞いたら今日が判決の日だということで、「何もなさそうだね。」と言って安心して帰って行きました。自殺者が出るのではないかと心配して来られたそうです。
そんなことする雰囲気はアーレフ時代も感じていませんでしたが、世間から見るとそうでないのだな、と思い、今更ながら、マスコミが伝えるものと現実とのギャップを実感しました。
そして、その後、別の人にいただいたヴィパッサナー冥想が今の私の仏教観を大きく変えることになりました。ひかりの輪になって、それ以前から、上祐氏の言うところの聖地へ行くことも度々ありました。
それはそれで糧にはなっていますが、最も私の今までの仏教観を覆したのは、このヴィパッサナー冥想と臨済宗のお坊さんの話でした。初めて教団を離れることを真剣に考慮し始めました。
最近では、自分を内観するという意味がまるっきり違っていたことに気づき、仏教の冥想というものは「自分の悩み」や「いわゆるマインドコントロール」を他人に対峙して解くものではなく、日々の生活の中から勝手に自ら気づくことであるということが理解できてきました。
ただそれでも、ひかりの輪を離れる流れにはなっていません。それは、実務的にやらなければならないことがあるということと、賠償を離れてもやっていけるだけの反省が完全には自分にないためです。
2007年になって、ひかりの輪になりました。何度か立入検査を経験するたびに言われることは、「A派とは全然違うね。」「あっちはすごい意地悪なんだもの。」という言葉です。別段、こちらで優しく対応している訳ではないですが、特に私はフランクなのでそう思えるのかも知れませんが、何も守る必要を感じないせいか、緊張感がないのだと思います。
公安調査庁の見解だと、今もAlephとひかりの輪は同じ、とみなされていますが、立入に入ってきた調査官が全然違うことを実感されているのに、なぜ、同じという判断が下されるのか理解できません。
麻原隠しはなくても、頭が上祐氏に変わっただけ、という批判であれば、納得します。
これはマインドコントロールを解く場合とおなじ現象だと思います。公安調査庁の方にも指摘されたことです。マインドコントロールを解く場合、その解いた人にまたマインドコントロールされる訳です。
正直言って、この短期間でよくここまで変われたと思うくらいに雰囲気は変わったと思います。
とはいえ、外部の人から見れば、上が変わったら短期間で変貌するんだということが立証されたことになるのかもしれませんし、何らかの外部の干渉は必要であって、観察処分が必要であるという考えとなるならば、個人的には、そのような心情が理解できないわけではありません、
しかし、賠償をしている加害者側の立場にあって、このようなことを言うのは、失礼と感じられるとは思いますが、個人の荷物を含めて、全部ひっくり返してみるといったことが中心である立ち入り調査を中心とした観察処分を今後も続けていったとしても、結果としては、膨大な人件費を含めた経費がかかるだけで、いかなる意味でも有効・有意義な干渉になるとは思えず、国民の税金の無駄使いになってしまうのではないかなどと思ってしまうのが、今の率直な心境です。
なお、ひかりの輪でも集団居住は続いていますが、しかし、ほとんどが今は外で働いているので、個々の社会とのつながりが以前よりも多くなっているため、かなり閉鎖的ではなくなっていると思います。
飲み会にも行くし、カラオケにも行きます(Alephの人もこの部分は同じです)。その状態の中では、このような集団生活だとかなり違和感が出てくることも確かです。それが故に内部で軋轢が生じることも多少ありますが、それだけ外部との接点が多くなっている証拠だと思います。
段々と人数も減っていて、東京で25名くらい、あとは5-6人以下です。今後はもう少し一つの場所で住む人数は減っていくのではないかと推測します。いろいろと都合でそうなるという気がします。
集団で住むのは経済的でもありますが、非経済的な側面もあります。(多く料理を作ると余る量も多いなど。)。経済的なことを考えても、家族に毛のはえた程度(昔の大家族程度)の規模になるのが自然だと思いますし、段々流れでそうなっていくと思っています。
また、ひかりの輪は、事件を直視して、それを否定する人しか入れません。ひかりの輪は、事件を反省しようとする人しか入れません。ひかりの輪は、麻原の教えを否定し、考えを改める活動をずっと続けてきたことは確かです。
それがまだまだ不十分であることは確かですし否定しませんが、隠して温存しているかのごとくに言われるのは、明らかに事実に反しています。
以上
10.60代男性
私は、ひかりの輪の出家者ですが、以下の通り、陳述します。
2008年12月1日付で、公安調査庁が、ひかりの輪が、アーレフと同一の団体であって、つまり麻原の意思として、麻原隠しのために展開しているという発表がありましたが、実際の所は決してそのようなことはありません。
まず、栂尾明恵の言葉を借りて、今の自分の心境を現せば、
「自分たちは、人は常に浄玻璃に日夜の振る舞いの映ることを、人は常に全ての行為が地獄にある浄玻璃という鏡に映っていることを思って生活すべきであると、陰日向のない生き方をすべきだと。地獄の鏡に映るのは、日々の行為ばかりではない。誰も見ていないからといって行ったとしても、あるいは自分の心の中で密かに思うことでも、人々には決して知られないだろうと思っても、すべて鏡に映し出されるものである。」
自分たち、ひかりの輪の者は、これを心にとめて、裏表のない、本当の道を歩き出しています。もう一つ、言葉を引用しますと、
「宗旨がたまりは、地獄に堕するの種子、祖師びいきは慧眼を害する毒薬」
「宗旨がたまり」とは、ある宗派の教えだけを絶対的に信じて他のものを一切排除することであり、同じように、「祖師びいき」とは、その宗派を開いた人を他にはない救済者と考えて心服しきることですが、これがまさに、アーレフの頃の時代だったと思います。
オウム・アーレフでは、教団の教えや教祖を信じ切ることが、本当の信仰だといわれていました。そして、それが、教祖から要求された絶対的な帰依であるとしていました。
しかし、その教えは首をかしげざるを得ません。本当の信仰は、強要されるものではなく、あくまで個人の心の内にゆだねられ、育まれるものであると思います。
信仰心を狭めることが信仰を深めることではなく、心を広く持ち、多くのものをとらえる土壌を作ることが大事であると思います。自分は、これらに目覚めて、麻原から離れました。
ですから、麻原の意思のための別団体とか、アーレフとの役割分担であるとかはありえないことです。
以前、教団の中で分裂が始まったときに、自分は、代表派の会合に出ましたが、その翌日から、アーレフの人からは、「代表派の悪いエネルギーが入っている」、「もう食事は今日から作らなくてよい(それまで食事作り当番だったので)」「悪魔に取り憑かれている」、「魔境だ」などと言われて、いろいろ邪魔者扱いされました。
それで、アーレフを出ることになって、外で働くことになり、その後、3カ月くらい働いて、代表派に来て、今はひかりの輪の中にいます。こういった次第ですから、麻原の意思のための別団体とか、アーレフとの役割分担であるとかは、ありえないことです。
以上
11.60代女性
私は、仙台道場の専従スタッフですが、松本氏が以前意思していたという別団体を作るということと、今のひかりの輪とは、全く別のものです。
私達は、過去のオウム真理教や、アーレフを総て捨てて、新しく出発しました。そして、その過程において、依存の信仰生活から抜けだし、精神的な自立に移っていくのは、簡単ではありませんでした。
少しの努力と、教祖にすがっていれば何とかなる・・・、と思って、楽な生活をしていた私にとって、ひかりの輪になる中で、180度意識を変えることは、それに慣れるまで、色々な抵抗がありました。
松本氏の教学は全て捨てたので、松本が意思していた別団体というのとは、まるで違います。ひかりの輪は、上祐代表が、一人歩きするものではなく、役員の人達の意見を聞いて、みんなで吟味しながら、いろんな話や、色んな仏教の勉強をしながら、教学もできあがっていきます。
新しい現代の人が理解しやすいように、科学的な内容も色々含まれていて、オウム真理教の教義とは、全然異なっています。そして、松本氏の教義を真っ向から否定しているのが「ひかりの輪」です。
そして、仏教の真髄に向かうために努力し、具体的には、二元の教えから、一元の教えに移行し始めています。こうして、ひかりの輪の人達は真剣に松本氏を否定しています。
また、ひかりの輪は、アーレフやオウム真理教の時代の組織のやり方を変えて、役割分担も変えています。当然のこととして、アーレフ(現在Aleph)とは裏でつながってなどはいません。
今現在も、実際に、毎日、オウム真理教の教義を否定する教義を広めています。よってオウム真理教の教義を目的とするという団体には該当しないと信じます。
以上
(2010/02/25 上記は、オウムの教訓ウェブサイトへの掲載にあたり、改行調整、誤字脱字修正をしています。※提出時文章からの内容・意味の変更はありません。)