指導員・会員の総括

会員の総括

非専従(在家)会員陳述書 関東

1.S

 私は、ひかりの輪一般会員です。2006年後半頃に当時のアーレフ代表派の説法会に初めて行って、その後断続的に平均すると2ヶ月に1回程度、説法会等に出席しています。その意味で、比較的新しい会員です。

 また、2007年2月頃よりひかりの輪のホームページの制作を任意で手伝いをしている関係で、ホームページ制作スタッフ(=専従会員)と打ち合わせ等を数ヶ月に一回程度行うことがあり専従会員と話す機会があります。

 以下は、私が見聞したひかりの輪の実状について記述します。また、同文章は私個人で作成し、すべて私個人の見解になります。その点で、ひかりの輪の運営側の見解と異なることがあるかもしれませんが、ご了解下さい。

■要約:

●団体の麻原崇拝について
→麻原を明確に否定する言動が団体内に実際にある。

●私個人の麻原崇拝について
→私個人は過去も現在も麻原は崇拝していない。

●教義・思想における脱カルト・反カルト性および民主主義性について
→ひかりの輪の教義・思想および団体の性格は、学者が研究分析しているカルトの特徴とは異なり、反対のものだと言える。民主主義と本質は同質の教義を有しており反社会性はなく、仏教に依拠しているという点で日本文化への親和性が高い。

●後継者であるという件について
→麻原は後継者はアーチャリーと明言している。ひかりの輪代表上祐史浩ではない。

●麻原隠しについて1
→旧教団の問題点を二元思想だと分析・抽出し、その否定の基に一元思想が出てきているのがひかりの輪だと言える。思想的には問題点を克服・超克したのであり、分かりやすい表現をするなら、思想的には問題解決済みと私個人は判断している。社会の側から、脱カルトを内部から果たした社会学的な参考ケースとして受け入れたほうがテロ・カルト防止のために良いのではないか。

●麻原隠しについて2
→仏教由来の真言・詞章・儀式については、仏教の伝統的なものであるので似ているかもしれないが、本質的なものではない。日本や東洋のお寺はすべてオウム真理教と似ていることになる。

●麻原隠しについて3
→『亡国日本の悲しみ』に記載された二つのファウンデーションは、ひかりの輪はあてはまらない。


■内容:

●団体の麻原崇拝について

 ひかりの輪代表は、その説法会における言説において複数回に渡り、明確に麻原彰晃こと松本智津夫の宗教的な問題点を指摘し否定している。また現在まで、専従会員から麻原に関して肯定的な言動は聞いたことがありません。

●私個人の麻原崇拝について

 旧教団の書籍はすべて破棄したので正確な引用が出来ませんが、私がサリン事件以前に書店で購入した書籍『タターガタ・アビダンマ1』において、麻原は「真理勝者」(仏教の「如来(タターガタ)」のこと。オウム真理教独自の翻訳用語。)について解説しており、その中で修行者の能力として他心通を挙げ、そこに現代的なコメントをよせていましたが、私なりの表現で言えば、それは、シンセサイザーとサンプリングを混同して取り違えたようなコメントになっていました。
 真理勝者の能力としては、他に世間解(世間のあらゆることに通じていること)も記載されていますが、このコメントによって、彼は自ら真理勝者ではないことを逆に証明したのだと思います。つまり、真理勝者について書いた本で、真理勝者だったら(世間解があるから)間違えないところ、彼は間違ったので、彼は真理勝者ではない、というように考えています。

 よって、私にとっては、麻原は興味・関心の対象ではあったが、そもそも絶対的な存在でもなく、崇拝の対象でもなく、現在でももちろんありません。


●教義・思想における脱カルト・反カルト性および民主主義性について

 コロンビア大学法精神科医マイケル・ストーン博士によると(※)、人民寺院のジム・ジョーンズやチャールズマンソンなどの凶悪事件を起こしたカルト教団・集団に共通するのは

・リーダー(教祖)は、預言者であり絶対
・信者の自我の弱体化、個人的な意思や感情の否定
(ただし意思がないのではなく意思・思考・判断を操られてしまう)
・階級序列
・教団は擬似家族
・集団への帰属意識を使って"個"を捨てるよう信者に迫る
・カルト信者はリーダーを崇拝し思考を停止して服従する

 などだとしています。これについては、オウム真理教も一致すると思います。

 しかし、ひかりの輪においては、下記の実状があります。

・人間を絶対視しない、個人を崇拝しない、ということを明確に打ち出している。

・預言・予言の類はまったくない。ひとつあるのは、仏典にある56億7千万年後の弥勒降誕の話はあえて否定していませんが、それは人の一生の期間の話ではないどころか、地球自体の寿命さえを超える期間の話しであるから、実質的には永遠の未来まで起きないことと解釈できるとしているので、いわゆる終末カルト(終末思想を掲げるカルト団体)にならない。

・部長は修行の経験者・指導者・先達者として存在するが、崇拝対象ではなく、また支配階級でもない。すべての衆生を過去・現在・未来の仏陀として見て感謝・奉仕するという教義であるため、一般会員への上下関係的差別もない。

・一定の修行過程をこなすとなにかしらの(DVDやCDや数珠など)物が団体からもらえたりするが、特定の階級称号・位階などが与えられることはない。

・すべての衆生を自分の父母兄弟のように接すという仏教の伝統的な態度があるが、"すべての"というところがポイントであって、特定の人物を自分の父であるとか兄妹であるとか擬似家族的な執着を持ったりしない。

・一般会員は部長との個別面談の機会を頻繁に持っており、またそうでなくとも日頃から、部長等と一般会員は希望すれば連絡を取ることが出来、個人的相談や団体への意見・要望を言うことも出来る。

・参加・脱会は自由である。(実際、専従スタッフが脱会したケースを知っています)

 上記は、カルトの特徴とは異なり、正反対であると言えるでしょう。

 また、ローレンシア大学の神経解剖学者マイケル・パーシンガー博士によると(※)、人間の脳の認知のメカニズムは、あらゆる言葉をまずいったんはすべて真実として受け取り、その後言葉の内容を吟味し最終的に正しいか正しくないか真偽を判断するのだと言います。これを反証過程と呼びます。つまり、言葉をそのまま受信→反証過程→判断というプロセスが機械的に生じます。

 そして、この反証過程を邪魔されると、うそを真実と見なすことが増えるのだと言います。カルトリーダーはその言葉の使い方に、相手の反証過程を混乱させるような特徴があると言うのです。

  この点において

・ひかりの輪の上祐代表は、かつて釈迦が言ったとされる言葉で、私の言葉をただ受け取るのではなく吟味して受け取るように、と説法で述べている。

 つまり、反証過程を混乱させるのではなく、意識的に反証過程を行うよう述べているのであり、カルトの大きな特徴とは正反対であると言えるでしょう。

  なお、この反証過程を司るのが脳の側頭葉であり、被験者に脳に特定の周波数の磁気パルスをあてる装置(ヘッドギア)を装着し、反証過程の時に磁気パルスを流すという実験を行ったところ、被験者はうそを真実と見なしてしまうことが増えたそうです。同実験のヘッドギアはまさしくオウム真理教のPSI(マスコミ通称ヘッドギア)と同じ類のものです。

・ひかりの輪内で、現在までにこういったヘッドギア類の使用を見たことはありません。

(※参考:「殺人犯の心理学」という米ディスカバリーチャンネル制作のカルト教団を扱ったドキュメンタリー番組。人民寺院のジム・ジョーンズやチャールズ・マンソン、ジェフリー・ラングレンなどの凶悪事件を起こしたカルト教団について分析。)

 集団心理に巻き込まれる可能性は誰にでもあり、その時に防ぐよりどころとなるのは、個人の反証過程が機能するかどうか、個人の自由(と平等)が保証されるかどうかがポイントになると思われます。逆を言えば、それが保証されない集団はカルトに陥る可能性を秘めているということになるのではないかと思います。

 個人の自由・平等は民主主義の根幹であり、日本は民主主義国家です。ひかりの輪の教義・団体の性格であるすべての衆生・人を大切するということは、民主主義と本質は同質であり矛盾・競合しません。つまり、教義・団体の性格においてひかりの輪は、日本社会において反社会性を持っていません。

 ひかりの輪代表上祐史浩の記名による文章「新団体の名称「ひかりの輪」について」の中に以下のように述べられています。

「全ての人々、生き物の間には、一つの輪のような繋がりがあり、皆が助け合って生きることが、大切だ、という考え方を持っていることを「輪」という言葉で表現したのです。」

「新団体「ひかりの輪」は、21世紀の社会で、個々人の智恵と慈悲が増大して、人と人の和合・助け合いが進み、そして、宗教・宗派・科学の間の対立が解消され、人類の叡智が融合して進化し、さらには、人類と大自然・地球との調和が深まることを願っています。」

 反社会的ではなく、むしろ社会的な共生的な未来ヴィジョンを持っているのが同団体であり、すべての人の幸福を実現する道が仏教を21世紀的に展開する道だと信じているのが同団体だと言えます。

 かつて聖徳太子は仏教を重んじ、その仏教精神を国策の柱としたが、仏教を重んじるひかりの輪は、日本の社会的土壌に非常に親和性が高いと言うことが出来ます。


●後継者であるという件について

 オウム真理教の教材は持っていないので、出典が明記出来ませんが、説法等の資料の中で、麻原は、アーチャリー(三女)を自身のエネルギーと同質であるとし、後継者であると明確に言っているものを読んだことがあります。麻原を崇拝する者にとっては後継者はアーチャリーであり、それ以外はいないということになります。ひかりの輪代表上祐史浩が後継者だとする見解は、麻原を崇拝する者の見解ではないでしょう。


●麻原隠しについて1:ひかりの輪が麻原回帰することは考えられない

 オウム真理教の問題点を二元思想だと分析・抽出し、その否定の基に一元思想が出てきているのがひかりの輪だと言えます。思想的には問題点を克服・超克したのであり、分かりやすい表現をするなら、思想的には問題解決済みと私個人は判断しています。思想的退行(麻原回帰)を将来計画する愚を犯すとは思えません。

 かつてのカルト教団の内部からこのように自己分析を進め自ら脱却を図ったというのは社会学的にも珍しいケースと思われます。現在、テロの脅威がある世界においてテロ撲滅の方策の重要な参考になるのではないかと思います。日本国内でも若者による場当たり的な大量殺人が起きているが、本質はテロであり、一人で実行したにしてもカルト的な要素があると思われます。ひかりの輪は、こういったカルト・テロ予備軍の抑止・解消のための指針となるのではないかと考えています。

 また、社会の側からもカルト脱却の努力をしている者を受け入れサポートするような雰囲気があれば、より広範囲にカルトやテロの根本的・本質的問題の認知・問題解決が促進されるのではないだろうかと思います。

 なお、上祐代表および幹部が、一定期間はまったく別の教義で人を集めておいて、一定期間後に、宗旨替え(麻原回帰)を図るという計画をしたとしても、それが完全に彼らの脳内だけで計画されているとしたら、一般会員はまったく知る余地がありません。けれども、それまでに展開された教義は、全く反カルト性を持っているために、その後に、宗旨替えをしようとしても、一般会員は、宗旨替えに賛同せず強く反対することでしょう。

 それは、ひかりの輪は、オウム真理教の思想を乗り越えた、新しい思想・宗教を目指すことを打ち出していますから、麻原回帰を図るならば、それは、思想的な退行ということになってしまい、思想上の観点から、麻原回帰をしようとしたり、それを一般会員が受け入れようとすることは、全く考えられません。

 こうして、思想的には、ひかりの輪は、オウム真理教の問題点を克服・超克したものであって、分かりやすい表現をするならば、思想的には問題解決済み、と私個人は判断しています。


●麻原隠しについて2:同じ仏教のマントラを使っていても問題ではない

 ひかりの輪の真言(マントラ)・詞章・儀式には、仏教の伝統的なものが取り入れられています。そして、オウム真理教が、教義について仏教を拠り所としていた部分も大きかったため、結果かたちとしては似ているかもしれません。
 しかし、たとえば、全国の南伝系のお寺が書く卒塔婆には、必ず頭にオウムのマークと同じサンスクリット文字が書かれています。陰陽道のオン・アビラ・ウンケン・ソワカのオンはオウム真理教のオウムと同じであり、ソワカはオウム真理教のマントラにあるスワハーと同じであり、アビラはおそらく麻原が啓示を受けたというアビラケツノミコトと同じだろうと思います。南無阿弥陀仏の南無(ナム)はオウム真理教の帰依マントラのナムと同じです。

 結局のところ仏道修行などの東洋の修行体系における真言は、元を辿れば同じです。陰陽道も見ようによってはオウム真理教と似ているし、日本のお寺もすべてオウム真理教に似ていることになります。教義の本質的な部分で判断する必要があると思われます。


●麻原隠しについて3:ファウンデーションの話は当てはまらない

 「別団体」に関して、以下私の勘違いかもしれませんが、関連があるかもしれませんので私の知っている範囲で記しておきます。

 サリン事件後に出版された『亡国日本の悲しみ』において、SF作家アイザック・アシモフの著作作品『ファウンデーション』シリーズが言及されていました。
(麻原はこのSF作品をフリーメーソンの聖典だとしました)
(旧教団の書籍はすべて破棄したので文章引用が出来ません)

 このSF作品は、第一ファウンデーションと第二ファウンデーションという二つの組織が、文明的世界の再生を担うセルダン・プランという計画に従って設置されたという物語ですが、同作品中では両組織共に世間一般からは知られていない組織として描かれています。

 第一ファウンデーションは直接現実世界で行動するのですが、セルダン・プランは秘密にされており、もしそのプランが世間に知られたなら歴史行動心理力学が変わってしまうのでプランは実現しないということになっています。

 第二ファウンデーションは、他人の精神を操作することの出来る超能力集団で、いっさい世間には姿を現さずにその隠然たる能力で他人の意思を操作することによりプランが軌道からズレた場合にのみ補正をするという位置づけです。(人類の変異で精神能力を持った存在(ミュータント)があらわれた場合にプランが破綻する場合の補償)

 また、セルダン・プランとは計画に従って行動して実現するものではなく、それは歴史行動心理力学によって世界は一定の方向で動いていき自動的に達成されるものであるとされています。そして、同話中、第一ファウンデーションは第二ファウンデーションの存在を知らないことになっています。

 つまり、かつて麻原が『ファウンデーション』シリーズ同様の二つの組織の構成を意図していたとしても、現在のひかりの輪は、すでに社会に公開された形で活動していますので、少なくとも第二ファウンデーションには当てはまらないということになります。
 第一ファウンデーションに関しても、他世界より進んだ科学力によって現実社会・実体経済に国家的影響を与えていく存在として描かれていますので、そのような科学技術を持たず、また国家規模の影響力を行使出来るとは考えにくいひかりの輪は、やはり当てはまらないということになります。

 以上



2.H

 私は、主に東京道場に通う在家の会員ですが、公安調査庁が提出した観察処分更新請求の内容について、事実とは明らかに異なっている部分があるので陳述させていただきます。

 公安調査庁が行っている観察ということについて、物事を疑って掛かることは確かに大切なことだと思います。そして、時間を掛けないと分からないこともあります。仏教の開祖・仏陀釈迦牟尼すら自分の説く法ですら鵜呑みにせず、納得いくまで吟味せよと言っています。ですから、この観察を更新したいと考えるのは自然なことだと私は思います。

 しかしながら、その請求理由の内容が事実と異なる点については、それがもっともらしく世間に公表されたことによって、いたずらに世間を不安に陥れることになってしまったと思います。そして、一部新聞報道には、そのままの内容で掲載されました。このことは、私たちにとっても一般の人々にとっても良いことではありません。そこで、私なりに意見を述べさせていただきます。

 まず、ひかりの輪に至る経緯を自分なりに述べさせていただきます。今ではゆがめられた報道でオウムはカルト集団と捉えられていますが、自分ではそんな一つの言葉で括られる集団では無かったと思います。

 例のオウムの事件が起こったとき一般の信徒は最初「まさか、オウムが本当にやった」とは考えていませんでした。一般の信徒は純粋な人が多く、ヨーガ技法や仏教の技法で心と身体の健康を目指す人々の集団であったと思います。よって、あの事件が起きたときほとんどの人がそれを信じられなかった筈です。

 しかし、情報の閉ざされた中で本当にオウムがやったと分からなかった人たちも徐々にその全貌が明らかになり、本当にオウムがやったことを理解し、何もかも信じられなくて辞めてしまった人と、事件はいやだけれど、修行は続けて行きたいと考えた人に別れました。そして、修行は続けて行きたいと思った人は、精神性を高めていく修行をするところが、他に見いだせず後身のアーレフに残ったのです。

 でも、何故あんなことをオウムがやったのか残った人々は全く理解も出来なかったし、それに対する明快な解答を持っている人はいませんでした。本当に誰に聞いても納得出来る答えを出してくれた人はいなかったのです。そして、自分自身もこの精神を鍛える修行は続けなければならないと感じつつも、信仰を失った家族と共にアーレフを一旦去りました。

  しかし、上祐代表がアーレフに戻り教団を改革し始めたことを知り、自分一人アーレフに再入信したのです。ところが程なくして上祐代表がいなくなり、自分も以前のように幽霊会員のようになってしまいました。

 そうこうしているうちに、代表派M派とA派の対立が一般会員にも明らかになり、幽閉されていた上祐代表が戻ってきて代表派を立ち上げたのです。そこでは、私たちが何故修行を行うのか?アーレフとは隠してヨーガサークルをやっていてバレたときの虚しさや、その裏表のある二面性の問題。オウム事件の真相などが議論され。代表からも事件について何故このようなことになったのかが明確に述べられました。

 そして、代表派に参加したことによって、自分の中にもやもやしていた松本氏の功罪がはっきりしてきたのです。確かに、松本氏はヨーガ行者としては卓抜とした能力を持っていました。

 そのためか、私も、最初は、事件が何か歴史のなす大がかりな神事の出来事で一般凡夫には窺い知れない神のはかりごとであり、神のなす壮大な計画のために行われたのだなどと、理由の付けられない出来事に勝手に理由付けして自らを納得させていたのです。

 しかし、代表は私たちに、そして一般の人にも理解出来る形で松本氏の陥った修行上の罠を明らかにしました。つまり、自らを最終解脱者と称したその裏側にある、まるで自分が神そのものになった錯覚とそれによる傲慢さや強引さそしてそれに伴う被害妄想と誇大妄想を徐々に明らかにされて、私たちを松本氏からの呪縛から解いてくれました。

 そして、ひかりの輪設立に至り、オウムや一般の宗教に見られる二元論の不備を指摘し、すべては一体であるという一元の原理を説かれました。あなたと私、味方と敵、神と悪魔、と対立しているかのように見えるものも仏教本来の教えである縁起の法により考えれば二つに見えるものも相互に依存し、本来は一つであると...。

 そして、様々な角度からその縁起の法の精髄とその根幹となるものが説かれて、それから発展して、(仏教において)無智とは?苦とは?物事を正しく見るとは?空とは?といった教えが、現代に生きる私たちにも、分かり易い言葉で説かれています。

 そして、その一元の思想の説く私たちのこころの指針として「すべてが神(観音様)の表れであり、人の為す悪業を見て自分の中にある悪業を反省し、人の為す善業を見て自分もそのようになれるように賞賛する」といったカルマヨーガの法を行うことをします。また、「感謝と分かち合い」を常とし、「足るを知る」ことこそ現代の人々に必要なことだと説きます。

 このように、オウム時代の誇大妄想的な「私たちは選ばれし民で、一般の凡夫とは違う」とか「真理のためには何をやっても許される」とか被害妄想的な「真理の団体に対し、悪魔が攻撃している」などといった、本来の精神修行とかけ離れてしまった考えをひかりの輪は払拭してきました。

 そして、事件に対し「何故そうなってしまったか?」「これからどうすれば良いか?」などを考えた末、仏教の根本に戻った結果が「ひかりの輪」であり、そしてその「ひかりの輪」が提唱するものが「すべてが神(観音様)の表れである」「足るを知り、感謝と分かち合い」なのです。

 このように松本氏の呪縛から逃れた私たちが再び松本氏に立ち戻ることはありえません。オウム時代に松本氏に帰依していたのは解脱に導いてもらえると信じていたからであり、松本氏が称していた最終解脱が偽物であったことが理解出来た今、彼に帰依する意味合いは全くありません。

 公安調査庁の提出した更新請求書の概要からは、元はオウムから出た「アーレフ」と「ひかりの輪」が同じとしていますが、松本氏の呪縛から未だに逃れられない「アーレフ」とそこから脱却してすべてが一体である一元の思想をかざす「ひかりの輪」では明らかに違います。

 現在「ひかりの輪」は教えの内容から会計と事細かなところに至るまで全てオープンにしています。よって、全く違った団体となっていることは承知の上でこのような更新請求をしたことは、たぶんテクニックとして一緒に請求すれば「ひかりの輪」についても、もう少し観察していけると考えてのことだと思います。

 仮に、「ひかりの輪」についても更新請求をしたいのであれば、アーレフとは全く違った今現在の活動内容をもとにして、「更新請求理由書」を再提出していただくことを希望します。

 以上



3.M

 私は、東京道場に所属する、ひかりの輪の在家の会員です。今回の観察処分の更新請求に際して、以下のように陳述いたします。

 公安調査庁が、麻原の意思の実現として、ひかりの輪の活動が行われているという主張をしていると聞きました。

 そう言ったことは、ひかりの輪に入会した人が、仮に、その後、アレフに流れているという事実があるならば別ですが、そのような事実は全くないはずです。これは、ひかりの輪の活動が、その影で麻原の信仰を深めるような実態が全くないことの証明だと思います。

 ひかりの輪の教義は、特定の人しか信じない者が多い、他の宗教に対して、そういった信仰が広がっていくような抑止力になるものではあっても、麻原のような特定の存在しか信じない方向に向かわせるものではありません。

 そして、私を含め多くの人が、解脱悟りや、高い転生を求めて、かつてオウム真理教に入信しました。そして、一連のオウム真理教の事件の原因は、グルに帰依しなければ、信者は、解脱や悟りを得られないという教義を受け入れたことの延長上にあることだと私は考えています。

 しかし、今現在は、ひかりの輪において、グルなしでは、解脱悟りは得られないという教義は間違いであり、チベット密教が説くように、グルを絶対・完全と見なす修行法は、本来は、自分が謙虚になるための方便・手段に過ぎず、犯罪行為を肯定するものでは決してないことを理解しています。

 そして、過去のグルイズムについて、色んな角度から分析し反省しています。そのため、ひかりの輪の人達が、解脱悟りを求めて、以前のような過ちを犯すことはないと私は信じます。

 以上



4.O

 まず、わたくしは、2007年の10月に、ひかりの輪に入会致しました。それいらい、主に、東京本部や千葉道場に通っている在家の会員です。オウム・アーレフ時代からの会員ではなく、新団体として、ひかりの輪の発足した後に入会しました者です。

 そして、支部道場や連休のセミナーを含めた、わたくしの入会以来の様々な体験から言いまして、ひかりの輪には、いわゆる、師やグルといった存在がおらず、自分としては、時には、何を頼りにして良いか逆に判らないところがあったほどでした。

 何らかの修行をやった人ならば、弟子が、グルやラマの教えを捨てることがどんなにか大変なことかは、誰でもわかることだと思います。これは、よほどの覚悟がなければ出来ません。

 それをひかりの輪では、上祐代表を始め、出家者の方々が実践されてきました。そして、今のひかりの輪の現状があると思います。そして、自己のためではなく、仏陀が説いた真の菩提心を培う為に、上祐代表はじめ、ひかりの輪の皆さんは、継続されて努力されていると思います。

 例えば、その教えを例にとりましても、オウム真理教で説かれたという、タントラ・ヴァジラヤーナ的な教えは、ひかりの輪には一切ありません。代わりに、釈迦牟尼が、苦行の末に説いたとされる中庸(中道)の教え、縁起の法、大乗仏教の基本的な教えが説かれています。

 私は、現代では、盲信的に宗教にはまること自体が、ナンセンスなのではないかと思いますが、ひかりの輪では、そういった信仰実践は全く見られません。

 以上のことから、私は、ひかりの輪においては、麻原氏を隠しているといったことはないと信じます。

 以上



5.M

 私は、ひかりの輪の東京道場に所属する在家の会員ですが、このたび、公安審査委員会の観察処分の更新請求に関する通知書を読みましたので、私なりに、「ひかりの輪」について述べさせていただきます。

 まず、その通知書の中には、「タントラヴァジラヤーナの具体的な規範である、結果の為には手段を選ばない教え」が、ひかりの輪で実践されているとありますが、私は、ひかりの輪の勉強会や、説法会DVDなどでは、そういった教えは、一度も耳にしたことがありません。

 そして、松本智津夫氏の意思の実現として、ひかりの輪の活動を行っているといった類の話も、一度も耳にしたことはありません。

 ひかりの輪では、松本智津夫氏のことを、隠すこともなく、前面に出すこともなく、彼が、なぜ事件を起こしてしまったのが、そして、宗教的な実践者が、テロ事件や宗教戦争を起こさないようにするためには、どうあるべきかなどについて、深く分析して、反省をしています。

 私自身も、かつては、オウム真理教の信仰をしている自分と、社会の一般の人を区別するという心の傲慢さがあったことを今反省しております。

 そして、ひかりの輪が、オウム真理教から生まれた団体という悪いイメージがあることは仕方ないとは思いますが、今回の公安調査庁のような事実に反する主張に対しては、事実は事実として、明確に否定させていただきたいと思います。

 以上



6.N

 私は、主に東京道場に通うひかりの輪の在家の会員です。入会したのは去年で、新団体が出来た後です。

 私は、説法会、セミナー、聖地巡礼など、色々なひかりの輪の活動に参加しましたが、ひかりの輪は、麻原氏を教祖・創始者とするオウム真理教の教義を広め、これを実現することを目的としての活動などは全くしていません。

 公安調査庁の主張を見ましたが、そこには、すでにオウム(現Aleph)を脱会しているのに、オウムの内部組織と書かれていますが、それは、麻原が以前に自らの意思を社会に広める為に別団体を作る役割分担をし、活動することを求めていたから、ということですが、ひかりの輪は、実際に、麻原氏の意思・教義を社会に広めたりなどは全くしていません。

 また、無差別殺人行為を肯定する教義とされるタントラヴァジラヤーナの教えなどを背景などにした活動などはしていませんし、観察処分を免れる為に、いわゆるマハームドラーの修行の実践として、ひかりの輪の設立表明したのでは全くありません。

 「麻原を絶対的に帰依したり、教義を広めたり、意思を実現するのを目的としながら、麻原氏の影響力を払拭したかのように装う、麻原隠しを展開している」とありますが、麻原に帰依もしていなければ教義を広めたり、麻原氏の意思を実現するのを目的とはしていないのです。麻原は、我々の団体ひかりの輪とは、何の関係もありません。

 こうして、私が知る限りにおいて、私の個人な意見としては、ひかりの輪には、麻原信仰は全くないと確信しています。何故ならば、私は麻原が好きではないから、仮に、ひかりの輪が麻原に帰依していたならば、ひかりの輪には入会していないからです。

 私としては、麻原への帰依などと、どうして過去のことを今もやっているかのように、公安調査庁に書かれているのかが疑問です。

 オウム真理教の主神は、シヴァ神だったと聞いていますが、ひかりの輪は、実際に、釈迦、弥勒、観音を祭壇に掲げています。そして、私達は、大自然、大宇宙が、神・仏の現れであると認識するように努めている為、オウムのような絶対的な崇拝対象はありません。

 オウム真理教では、麻原はシヴァの化身と言われていたそうですが、ひかりの輪では、何の位置付けもありませんし、ましてや麻原を崇拝して、絶対的な存在なのでは全くありません。

 ひかりの輪には、確かに過去に逮捕歴のある者が数名はいますが、今は、皆が、過去の一連の事件を贖罪として、賠償責任を負い被害者賠償に全力を挙げています。こうして、ひかりの輪には全く危険性がなく、観察処分は必要ないと私は考えています。

 以上



7.S

 私は、昨年(2007年)の12月8日に「ひかりの輪」に入会し、丁度一年が経ちました。その後、千葉支部や、主に東京本部での説法会に参加したり、水曜日の勉強会や土、日のコースに参加したり、年末年始や連休中の数日間のセミナーにも参加したりしてきました。

 私が「ひかりの輪」に入会したきっかけは「ひかりの輪」のサイトで、上祐氏とその賛同者が「宗教団体アーレフ」を脱会して新たな理念、思想のもとで新しい団体を立ち上げたことを知って、その中の文章を通して、釈迦の正法に立ち返った真の仏教の深遠さに触れた(と感じた)ことでした。

 「ひかりの輪」のサイト上で、「地下鉄サリン事件」等オウム真理教が世間を騒がせた一連の事件に関して、また、オウム真理教に帰依していた当時の信仰のあり方や宗教観に於けるグルイズムや「タントラ・ヴァジラヤーナ」等、様々な問題点について、上祐代表をはじめ、役職者、指導員、その他出家者が、徹底的に総括した内容の文章を公開しています。

 わたしが「ひかりの輪」の各種イベントに頻繁に参加するなかで、彼らと接して感じることは、オウム真理教やアーレフに所属していた当時についての徹底的な総括にもとづいて当時の信仰や教義の誤りや様々な問題点、及びその根底にあった深層心理についても深く理解し、心底懺悔して悔い改め、その十字架を背負うことによって、真の宗教心に目覚め、新たな理念と十分に吟味した新たな教義のもとで、世間の風当たりは以前としてかなり強いなか、オウム真理教が様々な問題を引き起こした要因を(その関係者が社会に離散することによって逆に)潜在化させるのではなく、完全に根絶させようとする、悲壮な覚悟で、贖罪としての新たな教団活動を継続しているということです。

 私は、「ひかりの輪」設立当初から、上祐代表らが血の滲むような努力を継続して積み重ねてきているのを感じてきました。そして、この事実に気付き、理解し、先入観や思い込みや事実誤認にもとづいていると思われる、観察処分の更新請求について公安調査庁の方々が、よく実情を精査した上で、バランスのとれた適切な判断をすべきだと思います。

 世田谷本部の道場の前で信者の出入りや行われるイベントをチェックしたり「ひかりの輪」が公表する内容(旧教団の教材破棄状況に関する資料など)をチェックしたり、そういった外面的な観察だけでは真実はわからないと思います。

 実際に「ひかりの輪」の内部に出入りしている私は、そのことを認識しています。観察処分の「更新請求の概要」を読む限りでは(アーレフに関する主張はよく認識していませんが)「ひかりの輪」に関しては、事実と異なる記述ばかりで、よく確かめてもいないことについて決め付けている感があって、正直、お粗末というしかありません。

 まず、「ひかりの輪」は、(上祐氏を含め)特定の人を崇拝して帰依することなく、全ての人々、全ての存在を神の現れと見て奉仕し、感謝と懺悔と贖罪と分かち合いを実践する、という理念と教えを持っており、グルイズムを否定します。

 麻原崇拝(松本氏個人への帰依)からは完全に脱しており、それが入り込む余地はありません。「自らと、釈迦の説いた正法(縁起の法やカルマの法則など、宇宙の法則)を拠り所とせよ」と教えます。

 それから、「タントラ・ヴァジラヤーナ」についても、「真理の実践を行う者にとっては結果が第一であり、結果のためには手段を選ばない・・・・」(観察処分の「更新請求の概要」より抜粋)などという思想は、とんでもない誤りであると、ひかりの輪では教えています。

 これは、密教の経典の中の特別な意味が込められた記述を安直に文字通りに解釈した結果導き出された思想であって、そのような思想は全くその真意ではなく、おろか者がそのように解釈してしまったら本当に大変なことになります。それはメタファーであって文字通りに解釈するものではなく、密教の密意ゆえ、その真意はその経典に対する注釈書にて解き明かされているものです。

 無慈悲で醜悪な手段(行為)からは、それに相応の望ましくない、醜悪な結果しか生まれない故、崇高な目的のためであっても、愛のある正しい手段(行為)を選び、相互に依存し合っている「他」との調和のために規律を重んじ、非合法な手段(行為)を禁じます。

 こうして、麻原彰晃(松本氏)の洗脳からは完全に脱している「ひかりの輪」構成員、そして会員は真の仏教を自由に学び、「タントラ・ヴァジラヤーナ」として曲解されてしまった密教の密意の真意についても正しい見識を持っています。

 また、人知を超えた因果の流れの中で機が熟した時に人は救済されるのであり、強制や暴力や単なる政治活動では人の心を根本的に変容させて救済することは出来ないと「ひかりの輪」では教えています。社会の悪に対しては、社会に迎合することなく、かといって、社会に敵対して混乱をもたらすことなく、教えを示して働きかけつつ、信じて待つと、いう立場をとります。

 そして、「マハームドラー」についても、麻原彰晃(松本氏)の極端な解釈(特定の個人への崇拝と盲信に基づいて、彼から非合法で良心が痛むような行為の遂行を指示された場合でも、私心を捨ててその行為を遂行すべしという誤った解釈)ではなく、因果の流れのなかで身に降りかかってくる試練を通り抜けることで、心を条件ずけて混乱や葛藤や無秩序といった不自由さに縛り付けている捕らわれや観念を手放して解消し、空性の悟りを体現するという本来の意味を理解しております。

 こうした思想は、説法会の時に話されるだけでなく「ひかりの輪」のサイト上で公開されています。観察処分の「更新請求書の概要」の記述は、上記の理由により、悉く事実に反していると断言出来ます。

 少なくとも「ひかりの輪」のサイトにきちんと目を通せばそのような記述はあり得ない筈で、いままで一体何を「観察」してきたというのでしょう?確かな根拠も無しに決め付けているとしか思えません。皮相な「憶測」にもとづいているだけのような感があります。「公安」とはそんな底の浅い、信用と信頼に足らざるものだったのかと失望させられました。

 こうした「いい加減さ」が、地域住民の「ひかりの輪」に対する恐怖感、不安感に拍車をかけているのではないでしょうか?「ひかりの輪」は中東に向けて衣類等の物資をボランティアで援助したり、テロ抑止の働きかけをしたりして、世界への奉仕と過去の過ちに対する贖罪を実践しています。人は誰でも孤独な罪人であり、自分の罪深さに気付き、許し合うことが真の宗教心です。公安調査庁の方々にお願いしたいことがあります。

 上祐代表らの寝食を削るような並々ならぬ努力は報われてもいいはずです。彼らは過去にオウム真理教・・・・の教祖によって洗脳されていただけであり、本質はテロリスト」などではなく、真実を探求する「求道者」なのです。

 洗脳から完全に脱して真の宗教心に目覚めた上は、奉仕と贖罪の活動を温かく後押ししてあげるべきではないでしょうか?そのためにも公安調査庁の方々の誠意ある対応を望みます。

 事実をよく確かめ、公正な対応をしてもらいたいものです。事実を世間に正しく伝えることで、地域住民をはじめ世間の人々の不信感、恐怖感、不安感を早く解消して、上祐代表らの奉仕と贖罪の活動をし易くしてあげて欲しいと思います。

 以上



8.匿名 男性

 私は、ひかりの輪の在家の会員で、主に東京道場に通っていますが、今回の観察処分の更新請求に関して、以下の通り述べさせていただきます。

 病気が治りかけたとき、未練症状というものをおこす場合があります。病気に逃げて辛い労働や無能呼ばわりを逃れようという心の働きです。

 楽に仕事を確保する為に、その仕事の重要性を強調し、より面倒な仕事から逃れようとする心の働きはそれと似ています。報酬が同じなら楽な方を選ぶのは人情です。

 同じように、このひかりの輪という団体が、本当の意味で危険なものであることを望むものは少ないでしょうが、危険な団体であることにしておくことを望む者は、ある程度存在するでしょう。

 (麻原元教祖の)絶対視を続けて、そこから、いささかもぶれてはならない、と説かれることに、コンスタンツの宗教会議のような息ぐるしさを感じたものが、今のひかりの輪には集まっています。

 (危険な団体であることにしておきたいという)期待族の人達の気持ちはわかります。私もかっては一種の期待族だったからです。

 しかし、最後に人間が本当に望むものは安心なのではないでしょうか。

 オウム真理教にあった、一神教の排他性は、ボヘミアンの私には、そもそもなじまないものでした。しかし、自己開発の方法として、そのヨーガの修行は、有効なものにみえました。

 そのヨーガに関して、力のある指導者がついていなければ危険であるというのは多くの入門書に説かれています。そして、当時は、力のある指導者としてに、麻原元教祖は私の目に移っていました。

 球筋の読める相手では自分よりしたになってしまいますから、ある人のもつ「いかがわしさ」は、その人の頼もしさの一要素でもあると、野口式整体術の野口晴哉氏も説いています。

 だから、当時は、そう思っていましたが、一連の事件が発覚し、今となっては、「教育のあるものが、何故あんなものにひっかかるのか」との問いが多方面から上がってくるだけとなりました。しかし、それは、それで、人間心理に対する理解が浅いのではないか、と思います。

 以上のようなことを、意識に上がらせる人間=私が、引き続いて、何者かを狂信しているとしたらならば、それは(実際にはあり得ぬ)奇跡ではないでしょうか。

 以上



9.匿名 30代女性

 私は、オウム事件の発覚後に、アーレフ(現Aleph)に入会しましたが、その後、アーレフを脱会して、現在は、ひかりの輪に所属して、主に東京道場に通う在家の会員です。

 ひかりの輪では、一般の仏教・ヨーガの書籍や仏教辞典から引用して基本的な仏教・ヨーガを学んでいます。

 それは、麻原死刑因などの特定の人物への絶対的な帰依や、自分の存在意義をエゴイスティックに高めるものでは全くありません。

 現に、ひかりの輪では、麻原死刑因が否定をしていた日本の聖地・仏閣などを多く訪れますし、タントラ・ヴァジラヤーナの教えも全く説かれてはいません。

 その代わりに、釈迦牟尼が説いた原始仏教や大乗仏教の教えを学んでいます。

 そのため、団体から見せてもらった、通知(公審第2号 陳述書提出期限等通知書)に書かれている、団体に関する文章には、非常に違和感を覚えました。

 また、私は、麻原死刑因については、自分の起こした事件について何も語らず、真相を解明することなく、刑が確定したことに、いきどおりを感じています。

 一方、ひかりの輪では、事件に直接関与していなかったにもかかわらず、一人ひとりが、事件を自分の他人事とせずに反省して、同じことを繰り返さない為に、努力しています。

 そのことに、私も、共感しています。

 以 上



10.匿名 30代男性

 私は、ひかりの輪と関わりだしてから一年半位になります。

 団体として七つの基本スローガンを組織運営の根幹に置いている性質上、組織拡大を第一主義とせず、高い宗教性の質や社会性の追求、聖地巡礼にみられるような宗門・宗派を超えた探求を通して参加者の意識の向上に努めているようにみえます。さらに会員の入退会は自由で民主的で明るい開放的な在り方で貫かれております。

 また改革状況の総合的報告として、ひかりの輪及び関連団体の収入と支出の状況も自発的に公開していらっしゃいますが、このような姿勢の団体は極めて珍しいと思います。

 団体の基本理念や活動が常に社会良識に基づくものである以上、旧団体の延長線として考えつくような反社会的要素は全くございません。

 この為に私はひとつの判断基準といたしまして、消費者問題に関係する弁護士らが組織する、日本弁護士連合会消費者問題対策委員会で作成しています、「宗教的活動にかかわる人権侵害についての判断基準」を以下に掲載致します。これは宗教活動についての一定の厳しい審査基準です。宗教全体に対して大変厳しい基準なのですが、ひかりの輪は一項目も抵触しておりません。


 日本弁護士連合会による「宗教的活動にかかわる人権侵害についての判断基準」について

《日弁連基準》
『①』、献金等勧誘活動について
(1)献金等の勧誘にあたって、次の行為によって本人の自由意思を侵害していないか。
①先祖の因縁やたたり、あるいは病気・健康の不安を極度にあおって精神的混乱をもたらす。
②本人の意思に反して長時間にわたって勧誘する。
③多人数によりまたは閉鎖された場所で強く勧誘する 。
④相当の考慮期間を認めず、即断即決を求める。
『ひかりの輪の場合①~④のいずれも行われていません。団体の基本理念が広く行き渡っており、強制や詐欺的行為で布施や入会勧誘等を行う事は全くありません。「来るもの拒まず去る者追わず」の開放的な運営が』

(2)説得・勧誘の結果献金した場合、献金後間もない期間(たとえば一ヶ月)はその返金の要請に誠意をもって応じているか。

『ひかりの輪の場合説得・勧誘で布施を強要するという事自体がありませんし、旧教団のような数十万、数百万円といった高額の布施自体がないので、この項目は該当しません。』

(3)一生を左右するような献金などをして、その団体の施設内で生活してきた者が、その宗教団体等から離脱する場合においては、その団体は献金などをした者からの返金要請に出来る限り誠実に応じているか。

『ひかりの輪の場合一般社会との調和がとれた健全な生き方を追求するのが目標のひとつである為、在家会員は一生を左右するような献金、という多額の献金は、社会性を逸脱しないよう注意していらっしゃいます。専従会員が、脱会後に返金要請してきた例は、今のところありません。』

(4)一定以上の献金者に対しては、その宗教団体等の財政報告をして、使途について報告しているか。

『ひかりの輪の場合公安審査委員会だけでなく、一般の方々にも、収益状況の記者会見資料をホームページを通して公開しております。』

(5)お布施、献金、祈祷料等名目の如何を問わず、支払い額が一定金額以上の場合には、受け取りを証する書面を交付しているか。

『ひかりの輪の場合、本部・支部などでのお布施に対し、受け取り証の交付を希望された例がない為、現段階では実施された事がないようですが、その事について何の問題も発生しておりません。銀行振込み等の場合には、振込票が寄付者のお手元に残ります。』

『②』、信者(会員)の勧誘について
(1)勧誘にあたって、宗教団体等の名称、基本的な教義、信者(会員)としての基本的任務(特に献金等や実践活動等)を明らかにしているか。

『ひかりの輪の場合、ホームページにて広く一般に団体の理念、活動等を公表しています。また勧誘者の口頭による説明もプラスしており、万全を期すように設定されています。ひかりの輪では会員が「~をしなければならない」という強制は全くありません。』

(2)本人の自由意思を侵害する態様で不安感を極度にあおって、信者(会員)になるよう長時間勧めたり、宗教的活動を強いて行わせることがないか。

『ひかりの輪の場合、上記『①』(1)で記した通り、このような本人の自由意思を侵害するような布教・勧誘・宗教的活動自体については、神仏の意に沿わないものとして全く行われていません。』

『③』、信者(会員)及び職員の処遇
(1)献身や出家など施設に泊まり込む信者・職員について
①本人と外部の親族や友人、知人との面会、電話、郵便による連絡は保障されているか。
②宗教団体等の施設から離れることを希望する者の意思は最大限尊重されるべきであるが、これを妨げていないか。
③信者が健康を害した場合、宗教団体等は事由の如何にかかわらず、外部の親族に速やかに連絡をとっているか。

『ひかりの輪の場合、儀式やセミナーが夜になった場合でも、帰宅や外部への連絡が禁じられるようなケースは全く有り得ません。社会生活や家庭生活を損なわないように、社会の良識に則り、必要に応じて連絡を取って頂いています。ご家族や警察など、社会問題が起きないよう常に心掛けています。』

(2)宗教団体やその関連の団体・企業などで働く者については、労働基準法や社会保険等の諸法規が遵守されているか。

『ひかりの輪の場合、外で労働している者についての雇用環境では当然遵守されております。外で働いていない者については、国民健康保険に加入・支払をしております』

『4』、未成年者、子供への配慮
(1)宗教団体等は、親権者・法定保護者が反対している場合には、未成年者を長期間施設で共同生活させるような入信を差し控えているか。

『ひかりの輪の場合、未成年者による団体生活自体がありません。』

(2)親権者・法定保護者が、未成年者本人の意思に反して宗教団体等の施設内の
共同生活を強制することはないか。

『ひかりの輪の場合、上に同じです。』

(3)子供が宗教団体等の施設内で共同生活する場合、親権者及びその宗教団体等は、学校教育法上の小中学校で教育を受けさせているか。また、高等教育への就学の機会を妨げていないか。

『ひかりの輪の場合、上に同じです。』

(4)宗教団体等の施設内では、食事、衛生環境についてわが国の標準的な水準を確保し、本人にとって到達可能な、最高水準の身体及び精神の健康を確保するよう、配慮されているか。

『ひかりの輪の場合、寝場所や休憩場所が常に確保されており、医療経験者によるケアも行われています。』

 以上のように、ひかりの輪では、13細目に渡る日弁連基準を上回る厳格さで、本人の自由意思を尊重した活動が行われており、反社会的な宗教活動等が行われる余地が全くありません。

 旧団体に代表される宗教組織は、個々人の自由な行動や発想を抑圧するという機能を発揮してしまいました。宗教的権威が共同体の統合機能を担う事は、その権威が諸個人の意識を越え出たところに位置していることであり、そこから諸個人の意識に価値規範を植え付けていることになります。

 これは他方で、諸個人に共通の価値を提供し、諸個人間に無用な対立を起こさない心理的安定作用をもたらす面がありますが、一方では自己の自由を求める人々にとっては抑圧的に働きます。
それぞれの立場での自由をそれぞれが求めてはいても、宗教に関係する対立のほとんどは、政治的レベル、あるいは認識的レベルで究極的権威をどこに位置づけるかで起きると考えます。

 私達は宗教現象が一方で、何物にも代えがたい意味を隠し持ちながら、他方でその現象が客体レベルで認識されることによって、相対的側面を免れないということを常に意識する必要があります。でも一元にみられるような主張自体を一方的に相対化してしまうならば、結果的に宗教そのものを否定してしまうことになり、大変問題があると思います。

 個々の宗教の基本的な信仰が結局は誤りであったと分かる事は、誠実に信仰することだけでは何ら真実の保証にはならないということになります。同じように、大多数の意見は本来的にそれ自体では善悪の判断基準にはならないともいえるでしょう。天動説は現在では誤りとしてほぼ完全に否定されていますが、それは長い間定説として疑問の余地がないものでありました。

 諸宗教の間で対立しあう主張という問題を扱う方法のひとつは、中立的な、あるいは、文脈に依存しない何らかの基準があるかどうかを問いかけてみる事だと思います。つまりこの問い掛けは、そうした基準が個々の状況や世界観を越えており、尚且つ包含できるものであるか否か、を問われるものでなければなりません。言葉を変えれば、道徳的妥当性と合理的妥当性でしょうか。

 ここで多少注意が必要なのは、私達の認識が限られており、また宗教的伝統が複雑に渡ることが多いという理由から、道徳的妥当性だけでは判断基準としては不足し、合理的な分析のみでは、個々の宗教的伝統の中から由来する体系の評価には有効であっても、別々の宗教的世界観からみた場合、必ずしも適切な評価を得ない場合がある事です。

 しかしここに自他を越えた実用的基準という事を付け加えますと、自他を越えた新しい基準という意味で、方向付けが定まり、宗教的諸伝統全体に対して有効に適用できます。この基準を満たすことができる思想がひかりの輪で説く一元の思想であると思います。

 私はオウム真理教に所属していたわけではありませんので、一般論でしか意見を申し上げる事ができませんが、ネットで出ているオウム真理教の教義や活動を見る限り、ひかりの輪がAlephと役割分担して松本氏の意思を実現しようとしているという考えには、とても大きな無理があるように思いますし、ひかりの輪の教義の面でも不可能です。

 松本氏の思想の根底には常に社会に対する強い敵対思想がありましたし、Alephはその教義を受け継いでいますが、これでは教義の面でも、その自我一辺倒の状態では、社会の価値観とは矛盾し、広く受け入れられる事は全くないでしょう。

 社会に対する観点が全く違います。カルト団体の定義はいろいろあると思いますが、私はひかりの輪での様々なお話に現代社会を正していける光明のようなものを感じています。

 以上



11.匿名 30代女性

 私は、ひかりの輪に入会してはいませんが、東京や横浜の道場に行くことがある在家の者です

 オウム真理教やalephは、松本氏以外は全て穢れているというイメージで、非常に選民意識が強かったと思います。

 それは教団から、社会に対してだけでなく、教団の中でも、ステージ制というものが絶対で、出家者が在家会員を下に見ているということを感じていました。

 また、松本氏についていくしかないという、一つのやり方しか認められないことに対して、違和感を感じていました。

 人それぞれ、いろいろなやり方、道があるべきだと今は思っています。ごく最近あった出来事ですが、以前にお世話になったalephの成就者と言われる人に、事務的な用があり連絡したところ、開口一番「尊師をグルとしない限り話しません」、「あなた達の教えは違います」、「あなたは上祐さんについていくんですか」と、とりつくしまもない感じででした。

 ひかりの輪で、一元の思想を学ぶ中、世界を愛することや、個人的には周りの人に嫌悪しないことなどを考えてきました。

 ひかりの輪では、今までに得られなかったもの得ているような、狭まってしまった意識を広げていっているような気がします。そして、松本氏を崇拝する教えはまったく説かれていません。
今回の更新請求に対して、実情をよく見ていただき、良きご判断をお願いしたいと思います。

 以上



12.匿名 40代女性

 私は、千葉道場に所属するひかりの輪の在家の会員です。今回の観察処分の更新請求に際して、以下のように陳述いたします。

 1993年に、私は、オウム真理教に入信しました。しかし、入信当初は取り立てて活動もず、名前だけの会員でした。そんなわたしが熱心に活動を始めたのは 94年の秋のルドラチャクリンのイニシェーションがきっかけでした。

 その時は、薬物を利用した感動的ヴィジョンに興奮し、松本氏を真の救済者と信じて自分も活動に参加したいと強く思いました。

 そして、95年の年明けに出家し、3月にサリン事件が起きた時には、それが教団の起こしたものとは全く思えず。いずれ松本氏の無実が証明されて、教団が発展していくものと信じていました。

 子供がいたので出家生活こそ5ヶ月で家に戻りましたが、その後も教団から離れることなく活動を続けていました。

 その後、2000年を過ぎても松本氏が戻ることはありませんでしたが、教団は松本氏を信じて修行することだけを主張していました。この頃から、私は、なんとなく、本当にこれでいいのかと教団の指導体制に疑問を感じながら活動を続けていました。

 そんな中で2000年上祐氏が教団にもどりました。今までの指導者が話さなかった宗教的な話は新鮮で、これで教団も変わっていくと期待させるものでした。

 その後なぜか上祐氏が表にでることがなくなり、教団内で何が起こっているのかまったく知らされずに時間がたっていきました。

 次に上祐氏に再会した時には、上祐氏は教団から危険人物とされてと知って大変驚きました。私には上祐氏がいままでの教団のあり方を反省し、時代にあった活動をしていこうという考えは、大変まっとうな意見に思えましたので、当然教団全体が変わっていくと思っていました。

 すでにサリン事件は教団が起こしたものだと理解していましたし。当然、被害者遺族の賠償等を踏まえて新しい教団に生まれ変わっていくのがあたりまえだと思いました。しかし、教団内の出家者の大半は、松本氏の復活を信じて修行をつづけることを望んでいたようで、それに正直わたしは驚きました。

 こうして、結局上祐氏は新しい教団「ひかりの輪」を立ち上げることとなりました。そして、その後、「ひかりの輪」は、新団体として活動を始めたものの、まず自分達に染み付いたオウム真理教の体質を変えていくのは想像以上に大変なことでした。

 基本の教えが仏教であることは同じですが、オウム真理教が犯した過ちを二度と起こさない、新しい教団を目指すわけです。まず過ちを犯した原因をしっかりみつめ、反省することから始めました。

 しかし、これは思った以上に難しいことで、自分が一連の事件については全く知らなかったこともあって、自分のこととして、心の底から反省することはなかなかできず、自分達の反省の甘さを痛感したこともありました。この反省の不足は、今もって、ひきずっていることなので、今後とも努力を続けていきたいと思います。

 さて、反省の深まりと同時に、教団としての活動も少しづつ動きだしました。オウム真理教の教材を破棄し、修行体系も変わっていきました。

 新教団に変わったといっても当初は教材もなく、上祐代表が、試行錯誤しながら、新教団をつくっていくわけですから、もどかしさやじれったさがありました。目標は宗教の過ちを超えた新宗教であると漠然とわかっていましたが、それを形にしていくことは大変なことでした。

 その方法を自然から学ぶべく、聖地巡礼が何度も繰り返されました。私達の過ちの原因であった、人を宗教の崇拝者にしてはいけないということを自然を通してしっかり学び直しました。

 どんなに素晴らしい人も完璧ではない。人間は自然に逆らうことはできず、時の流れに身をまかせながら、1人1人が協力し努力していく以外に幸福になる術はない。あたり前のことですが、松本氏を救済者として崇めた私達がしっかり自覚しなおすポイントでした。

 上祐代表の講話も、始めは宗教の理想論でしたが、改めて仏教を学びなおし、最近はオウム真理教の仏教教義の解釈の偏りを明確にして、その偏りを補うように、学びなおすようなものになっています。

 また、被害者・遺族の方々に対する賠償に関する姿勢も、オウム真理教と「ひかりの輪」の大きな違いと感じています。

 恥ずかしながら、以前は、在家の者として、自分の毎日の生活のやりくりに精一杯で、賠償のことまでは関心がもてなかった私が、地下鉄サリン事件の被害者の遺族である高橋シズエさんに手紙を出すにいたったことも、「ひかりの輪」に変わってからの大きな心の変化の1つでした。

 新団体といっても、構成員のほとんどが旧団体の人間のため、以前の形を修正しながらの活動となるために、傍目には、どこが変わったかも、わかりにくいようです。そもそも宗教活動をやめて欲しいという世間の意見をよく聞きます。

 これは、私たちの活動が、誤解を招きやすく、また私たちの変化が、世間に認識されるまでのレベルに達していないということかもしれません。

 私は、団体内の会員として実践を続けている人間ですから、オウム真理教と「ひかりの輪」は全く別の団体として認識していますが、まだまだ世間に誤解を与えていることを反省したいと思います。

 一日もはやく「ひかりの輪」の目指す宗教の形を、もっと明確に打ち出せるように努力したいと思います。

 世間と交わりながら、多くの方と関わりあって成長できる団体を目指している私たちは、明らかにオウム真理教とは異なる存在です。

 その変化がまだ理解されていない事を知り、この陳述書を通して、少しでも理解していただければと望んでいます。

 以上



13.匿名 40代男性

 私は、千葉道場に所属する、ひかりの輪の在家の会員です。

 地下鉄サリン事件から10年後の2005年は、私にとって、オウム真理教の事件や自身の宗教活動について過去を振り返って見るひとつの節目の年でした。

 事件から10年たってもアーレフを取り巻く状況は改善されず、そのころ私はアーレフの活動に閉塞状態、行き詰まりを感じるようになっていました。そして、それまでのアーレフでの私の宗教実践について振り返って見て、「このままで本当にいいのだろうか?」という思いが次第に湧いてきました。

 私も含めて他の多くの法友たちは40歳代、50歳代となってきて、だんだんと自分の人生のゴールが近づいてきているということを感じ始めました。そして次第に、「あと10年たったら、ひとりふたりと次の世に旅立っていく法友も出てくるんだろうな。このままではジリ貧だ。」と思うようになりました。

 ちょうどその時期に、上祐代表が活動を密かに再開したという話しを聞きました。しかもその上祐代表の活動内容は、松本旧団体代表への依存から脱却し、本来の仏教の実践に立ち返るというものでした。

 松本氏からの脱却を主張する上祐代表は、松本氏を崇拝している旧教団の執行部から魔境扱いされていました。そして執行部からは、他のスタッフに対して、上祐代表と接触することを禁じる通達が出されました。

 当時、私は知りませんでしたが、2005年になる前から上祐代表は、近しいスタッフを集めて「脱・松本氏」の活動を始めていたようです。そしてこれにより、「脱・松本氏」を掲げる上祐代表のグループと「松本氏崇拝」を掲げるアーレフ執行部と軋轢が生じ始めていました。

 私が事件後はじめて上祐代表と直に合い、上祐代表の話を聞けたのは2005年の6月くらいだったと思います。船橋道場の道場長である細川部長は、密かに上祐派として活動していたので、船橋に上祐代表に来てもらうことができました。

 しかし、このときは船橋道場に公に上祐代表を呼ぶことが出来ないために、外部の場所が選ばれました。当時は今よりずっと「松本氏崇拝」グループ(=アーレフ幹部、執行部)のほうが圧倒的に力が強く、道場を使用して公に「脱・松本氏」の活動をすることができませんでした。もしそのようなことをしたら、たちまち船橋道場は潰されかねない状況でした。

 上祐代表の話を聞いて、私は目から鱗が落ちる感じがしました。自分の中にふつふつと湧いていた疑問が解消したように思いました。

 そのとき私は、仏教の中心的な教えの一つである「カルマの法則」と、松本氏に対して帰依をするという実践との間に整合性が取れない、相容れないものがあることを感じていました。

 仏教における「カルマの法則」とは、日本語では、因果応報とか、自業自得とかいうように、自分のなしたことが自分に返ってくるという法則です。つまり誰かを助ければ、いつか自分が助けられる。誰かを幸せにすれば、いつか自分も幸せになれるという法則のことです。このお釈迦様が説いた法則が正しければ、この法則は今生でも、来世でも有効なはずです。

 それに対して旧団体オウム真理教やアーレフでは松本氏に対する帰依、つまり松本氏を拝み、崇拝し、礼拝し、信じることが何より、どんな法則より優先されていました。

 それゆえ私の中に、「他に何も幸せを与えていないのに、松本氏を信じるだけで自分たちは本当に幸せになれるのだろうか?これはカルマの法則と矛盾しているのではないだろうか?」という疑問が生じていました。

 この会合での上祐代表の話は、「旧団体の実践は松本氏への依存であって、松本氏に強く依存しているがゆえに松本氏を信じる人と、松本氏を信じない人をはっきりと区別・差別している。これは選民思想で、お釈迦様の教えに反している。」ということと、そして「松本氏への依存から脱却し、自と他の区別をなくす実践こそお釈迦様の教えである。」ということ、さらに旧団体が起こした地下鉄サリン事件などの凶悪事件について、実際に松本氏や旧団体が行った事件であるという話があったと記憶しています。

 そして、このときの会合に参加したほとんどの人は、上祐代表の説明に納得したように思いました。

 しかし、この上祐代表との会合があってしばらくして、船橋道場において大騒動が発生しました。それは、2005年の8月だったと思います。

 船橋道場の道場長だった細川部長はアーレフ執行部からの、上祐代表のサイトを見ることを禁じた通達を無視したので、それを説得して止めさせるために旧団体代表代行の村岡さんが船橋道場に突然乗り込んできました。

 村岡さんは数時間、細川部長を説得しましたが、細川部長がなかなか納得しなかったので最終的に細川部長に対して道場長解任を言い渡したのでした。この出来事に船橋道場の多くの一般信徒(在家会員)は、村岡さんをはじめアーレフ執行部のやり方に猛反発し、船橋道場に集まって対応策を話し合いました。

 その結果、村岡さんに対して細川部長の道場長解任撤回要請と今回の騒動の説明を求める質問状を出すことになりました。このことはオウム真理教設立以来、恐らく初めての重大な出来事でした。

 旧団体では信者のステージは松本氏が認定し、そのステージは絶対でした。下の者が上の者に反発し、逆らうことなどあり得えませんでした。ましてや一般の在家信者が執行部に逆らうなんて前代未聞の出来事でした。このときの話し合いのときに、上祐さんも公に船橋道場に来てました。そして、このときから船橋道場は公然とアーレフ執行部と一線を隔していく姿勢を示しました。

 この二日後に、また騒動が勃発しました。この日、船橋道場では信徒に対して上祐派のスタッフから、今までの上祐さんの活動の経緯などの説明会が行われていました。そして、その最中に再び村岡さんが10数人の反上祐派のスタッフを引き連れて船橋道場に乗り込んできました。

 村岡さんが来た理由は、先日の船橋道場の信徒からの質問に答えるということでした。しかも大人数で押しかけて、力で反対派を押さえつけようとする姿勢が見て取れました。
この村岡さんの姿勢は、その場にいた多くの船橋道場の信者の、アーレフ執行部に対する反発を強める結果になりました。

 このときは、信徒の質問に、村岡さんの説明が答えるという形で進められました。その村岡さんの説明のほとんどは結局のところ「松本氏を信じていれば、必ず成功する。」というものでした。

 多くの信徒から、その回答の根拠の説明を求める質問がありましたが、村岡さんは「松本氏を信じていれば必ず成功するから、とにかく松本氏を信じなさい。」の一点張りでした。

 この説明を聞いて、私はアーレフに見切りをつけ、アーレフと完全に決別すること決意しました。その場にいたほとんどの信徒も、村岡さんの説明に、アーレフ執行部に対する不信感を強めたと思います。

 この出来事以降、船橋道場はアーレフ執行部と完全に決別し、上祐派の活動拠点のひとつとして、アーレフとは関係なく活動していくことになりました。

 上祐代表のグループに入って、その実践や根本とする教えは旧団体とはガラリと変わりました。まず、大きく変わったところは主に以下の通りです。


1.地下鉄サリン事件をはじめとした事件は松本氏やオウム信者が起こしたとこであると明確に認定する。

2.上祐派のスタッフ、会員は、たとえ地下鉄サリン事件に直接関与していなくても、自分に関係ある事件として受け止め深く反省し、賠償や謝罪を続けていく。

3.松本氏が説いた教え、教本、松本氏の写真などは破棄して、松本氏に関するものをすべて排除する。

4.特定の個人を崇拝することは絶対に行わない。

5.すべての事物、すべての人、自然や宇宙を神や仏の現れとして崇拝し、すべての魂に奉仕し、すべての魂の幸せを願う大乗の実践をする。


 この考え方や実践は、旧団体の実践とはまったく違う実践です。特に松本氏を否定することは、旧団体では絶対に認められない内容です。

 2005年、2006年と上祐派の道場や専属スタッフの持ち物から松本氏関連の物は徐々に破棄され、2007年の「ひかりの輪」発足時には、「ひかりの輪」の各道場からは完全に松本氏に関係したものはすべて排除されました。

 現在の「ひかりの輪」の実践は、簡単に言うと仏教本来の教えに立ち戻ったと言えると思います。かつて、お釈迦様も「私を拝んではいけない。」と言ったそうですが、先ほども記述しましたとおり、「ひかりの輪」ではすべての事物、宇宙全体、自然全体を崇拝対象にしています。

 その教えの中心には仏教の「縁起の法」や「カルマの法則」、「無常の法則」を置いています。例えば「縁起の法」では、私自身も含めてすべての物、現象は縁によってつながっていて独立して存在するものはなく、また固定された実体を持ったものは存在しないという考え方をします。

 そして、自分も他人も別々に存在しているのではなく、必ずつながった関係で一体となっていて、自分と他人は区別できないものであるという教えです。さらにその「縁起の法」によると、すべては一体となってつながっているのだから、本来の自分というのは結局は宇宙大に広がっているんだということになります。

 その宇宙そのものを仏とすると、自分が宇宙いっぱいに広がっているということを理解することが仏と合一することであり、ひとつの悟りであるということになります。「ひかりの輪」教えの一つの実践はこのようなことです。

 そして、もう一つ私が「ひかりの輪」の重要な教えと思っていることがあります。それは、私も含めてすべての魂は生きるために食物を取っているわけですが、その食物は他の魂の犠牲の産物です。

 つまり私たちは他の生命の犠牲の上に生命を維持させているのであって、生きているだけで罪を積み重ねている、罪深い存在であるということです。ですから、たとえば松本氏を信じて弟子入りしたからといって、決して即座に清らかな魂になるということはあり得ないということです。

 そしてこんな罪深い私たちを、宇宙は受容してくれています。宇宙が受容してくれているのだから、その恩恵をすべての他の魂に還元しなければならないとのが、神や仏の意思であると考え、そのように実践することが、「ひかりの輪」の主要な実践のひとつになっています。

 さらに、太陽は誰彼を区別せず平等に暖かい陽を降り注いでくれますし、山の木々も秋になれば誰も区別せずに平等に恵みを与えてくれます。このように誰に対しても区別せずに、平等に恩恵を与える自然や宇宙の姿こそが、本来の仏教の姿であり、これが「ひかりの輪」の重要な思想となっています。


 旧教団・アーレフでは、松本氏を絶対視し、松本氏を信じる人と信じない人を区別し、自分たちは偉大なる魂の弟子で、自分たちは聖なる魂であると考える実践をしていました。

 このようなオウム真理教やアーレフの実践と、「ひかりの輪」の実践は、前述してきたように、まったく正反対の教え・実践であると断言できます。以上のように、「ひかりの輪」と旧団体、現Alephとはまったく教義も信条も違う、まったく別の組織であるといことは明らかです。

 どうかここのところを再度、吟味し再調査していただけるようにお願い申し上げます。

 以上



14.匿名 40代男性

 私は、1993年にオウム真理教に入信し、現在はひかりの輪の在家信徒として在籍しています。
1995年の事件当時も、在家信徒でありましたが上九一色村などで共同生活をしていたこともあり、また多くの人達がそうであったように教団が事件を起こしたことに気づいたのは、ずいぶん後になってからでした。

 その頃には既に書店にはたくさんの事件に関連した書籍が並んでいました。教団では外部の情報は取り入れないように指導され、事件についてはあまり触れることはありませんでした。しかし、いつまでもあやふやにして真相をしらず信仰を続けることに疑問を感じ、その時一冊の本を手にしました。

 その本には法廷の様子が詳しく書かれ、その時はじめて教団が起こした事件だったのだと感じました。なぜ教団は事件を認めようとしないのか、償い切れないことであっても謝罪すべきで、社会と対立していては正しい信仰など続けることなどできないと感じました。

 現在、ひかりの輪の団体では旧教団の問題点、反省などが話し合われ、指導員達から当時の真相を聞くこともできました。当時残された指導的立場にある方達であっても事件の真相を理解できなかったのだと思います。

 上祐代表が教団に復帰後、徐々に教団の改革が進められ、2003年頃は、まだ松本氏の写真を飾らないといった程度で、「麻原隠し」と呼ばれてしまう様なものでした。その後改革が進むにつれ上祐代表の松本氏を否定する方針に教団内部では強い反発があり、教団運営から退くことになったようです。当時私たち在家信者には、体調の回復のために修行に入ると説明されていました。

 しばらくして村岡さんからお話があるということで在家信徒が道場に呼び出されことがありました。その内容は上祐代表の活動を手伝っているということで当時の船橋道場の道場長を解任するということでした。

 その時、教団内部で改革に対する反発により上祐代表が教団運営から退き修行入りになった真相を知ることになりました。その日は賛成派と反対派の人達の間で激しく意見が交わされましたが、村岡さんらの反対派の意見というものは納得できるような内容ではなかったと記憶しています。

 このような教団の実態を間近にみて、その後アーレフを脱会して新団体を立ち上げることになりますが、役割分担からの新団体の設立とはまったく考える事はできません。

 修行入りから約1年後に、上祐代表がまた私達の前に姿を見せ改革に賛同する人達が集まり外部の会場を借りての勉強会が行われる様になりました。勉強会では、教団運営から退き修行入りした経緯や教団内部での対立問題など真相が話されました。

 また、教団が関与したすべての事件について詳しく説明され、事件に直接関与された方々のお話も聞くことができました。教団の裏の活動について知らなかった私には、たいへんショックなことでした。しかし教団側から信者に対して事件の関与を認める話をされたのは初めてのことだったのではないかと思います。

 また松本氏に対しても神格化し絶対視することの間違いなど話されました。事件がグルを絶対視して違法行為が行われたことは、事件の結果を見てもたいへんな間違いだったと私も感じます。

 教義に関しては、この時期から既にオウム真理教やアーレフの教材は使われることはなかったと思います。特定の人物を神格化せず、善と悪や自と他を区別する二元的なものの考え方からすべての現象は自分自身の行為や心の働きの結果の現れであると見る一元的な対象のとらえ方をする教えが重点的に説かれるようになりました。

 オウム真理教では信仰している者としていない者を区別し、社会を悪と見てきた考え方は閉鎖的になってしまう原因であったと思います。現在では他の宗派の神社、仏閣を訪れたり自然のなかから仏教の教えを体得していこうとすることも多く行われています。もちろんタントラ・ヴァジラヤーナなどの教義が説かれることはありません。

 公安調査庁が主張する内容は4、5年以上前の教団の状況に当てはまるのではないかと感じます。事件を直視し事件を認め信者らに説明があったことは、私にとってはアーレフの時期と比べて大きな変化であり、特定の人物を神格化し絶対視しないことなど教義においても、まったく違ったものだと感じています。

 以前の教団においての過ちについて払拭出来ていないことは、これからも努力していけばいいことですし、また賠償に関しても当然のことながら信仰してきた者の義務として努力していく考えです。

 以 上 


(2010/02/25 上記は、オウムの教訓ウェブサイトへの掲載にあたり、改行調整、誤字脱字修正をしています。※提出時文章からの内容・意味の変更はございません。)

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