指導員・会員の総括

水野愛子 オウム・アーレフの総括

『オウム・アーレフの総括』

 すでに人生の折り返し地点を過ぎているともいえる私が、今までの人生を振り返ると、さまざまな経験がありましたが、最終的に出家の道を選んだため、その中で経験した、95年のオウム事件の発覚や、その後のさまざまな変化は、自分自身の宗教性の崩壊という、大きな衝撃を与えるものでした。

 今、これまでの人生を振り返って、私に、どのような興味の対象、思考の傾向、経験があったなどを(宗教的に関連のあることを)順を追って書き進め、事件の反省と懺悔、今後の指針としていきたいと思います。


●幼少期から小学校時代・・・無常観と家族の死

 私の家族は5つ下の弟と両親、祖父母の6人家族でした。小さい頃の大きなできごととして、弟の誕生があげられます。皆が喜んでいるのに、「生まれたら死ぬんだ。弟もいつかは死ぬ。人は生まれた時から死に向かっているんだ。」という醒めた思いがありました。

 弟は成長するにつれ、かわいさも増して、その思いは少しずつ紛れてしまったようにも思われましたが、美しく咲く花を見ても、綺麗という意識と、散っていく花のイメージがダブり、生き物が一時も同じ状態をキープできず、最後は朽ちていくさまを思い浮かべたりしていることが多かったように思います。
 
 生死に関する幼少時の思い出としては、幼稚園の友達がお風呂で溺死したこと、小学2年の時に祖父がガンで亡くなったことがありましたが、特に祖父の死は私の人生に大きな示唆を与えました。

 病気が発覚してから入院していましたが、帰って来たときにはタンカに乗せられ、硬直して、顔はろう人形のようで、黄疸のためか黄色く、そのときのショックといったら、とても言葉には表せないほどでした。

 祖父母は、Sという宗教を熱心に信仰しており、信仰の結果、死んだら成仏できると信じていました。半眼半口という相がその証だということで、黄色くなった祖父の顔ではありましたが(怖かった)、半眼半口だといって祖母は泣き悲しみながらも喜んでいたのを覚えています。
 
 Sではこの世界は、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天、声聞、縁覚、菩薩、仏という段階があると説いていましたが、「病気で死んでも成仏はできるのだろうか、どの世界に行くのだろうか」などの疑問は膨らみました。

 その後も、「死後、人はどうなるのか」という難問が頭から離れず、時々、押入れに篭って真っ暗闇を経験したり、息を限界まで止めてみたりもしましたが、結論がでるわけでもなく、本を読み漁るようになりました。

 そんな折、エジプトの死生観を記した書籍を見つけ、読み進めるうちに、死後の世界があり、死んで終わりではなく、輪廻を続けていくということを知り、古代エジプトにたいへん惹かれるようになりました。
 
 また、祖父の死をきっかけに、病にたいして、また、弱い人に何ができるかを考えるようになり、医者の伝記をいくつか読みました。中でも最も感動したのは、小さい頃、掘りごたつに落ちて指がくっつくほどのやけどを負ったにも関わらず、手術で助けられ、後に黄熱病の研究に人生を捧げ、アフリカで亡くなった野口英世博士でした。そのため、中学生の頃、博士の故郷である福島県猪苗代に行ったときは、本当に嬉しかったことを覚えています。
 
 その頃までの私は、友人たちが興味を示すものにはあまり関心がなく、(自分にとっては)勉強よりもっと重要なこと(死に向かってどのように生きるか)に心の奥底は絞られていました。

 肉親の死 → 死生観の探求 → 医学への興味、苦しんでいる人のお手伝いや死後の研究によって、人々がどう生きるかの何かの手伝いになれば、という意識が芽生えたことで、私の人生はやっと明かりが見えてきたように思えました。


●高校時代・・・生物部の活動に没入、歴史探求への興味

 もともと自然や動物が大好きでしたので、高校時代は迷うことなく生物部に入部しました(動物の生体実験をしないという公約もあったため)。学生時代で自分自身が最も生き生きと輝いていたのは、生物部の活動に没頭した高校3年間だったといえます。

 生物の授業も楽しく、特に、この地球上にさまざまな形態の動植物が生きているという不思議と、食べたり食べられたりしながらも、生態系を支えるにはすべての生き物が必要でバランスされている、という循環の神秘に強く魅かれました。

 そして、これは今、ひかりの輪で説かれている、さまざまな「輪」、「循環」、「一元の教え」といった教えと通じるものがあると感じています。

 当時は、授業が終わると部室に直行し、飼育している熱帯魚の観察や世話、野外で湖のプランクトンや植生の調査、夏は清里や八ヶ岳での合宿、高山植物の観察などに没入していました。自然の中で自然と一体となるような感覚が好きでしたし、何より、さまざまな動植物を分け隔てなく育んでいる地球の恵みに感謝し、生きとし生けるものすべてを慈しみたいと思ったりもしました。

 一方では、古代エジプト文明への探求心から、歴史への興味も深くなっていました。

古代文明では神話の中の神々の物語なども興味深く、古代ギリシャで伝説となっていた黄金の仮面の物語を信じて、見事それを掘り当てた人物さえも存在したなどと知ると、たいへんなロマンを感じたものです。


●歴史の学習から宗教の問題に触れる

 歴史を紐解くと、古今東西、宗教がたいへん大きな影響力を持っていることがわかります。最初は異端として迫害されたキリスト教も、ローマ帝国で国教と認められると、ヨーロッパ全土に広がり、やがて世界を網羅するようになりました。

 宗教が国の存亡に関わったり、宗教戦争が繰り返される事実を知り、宗教の名の元に殺し合いが起きるのはなぜか、という大きな疑問にぶちあたりました。

 また、科学的な新しい発見や思想が、時には神への冒涜として受け入れられなかったり、処刑された者も数多く存在したという事実。究極の信条である宗教が権力と結びつくことでなされる過ち。これらを無視することができなくなりました。

 私の家族では、祖父母の信仰に両親は反対で、私はその狭間で身の縮む思いをしたことが何度もありました。幸福を謳う宗教が骨肉の争いや憎悪、殺し合いにまで発展するという矛盾。

 宗教に端を発する戦争は止んだことがなく、いつもどこかで争いが起きています。この大きな問題に(重いテーマなので嫌だと思う気持ちもありながら)少しづつ心は傾倒していきました。

 歴史を学ぶ中で特に印象に残ったのは、中世後期ヨーロッパでのキリスト教の堕落でした。財源確保のため、献金などの代償として、またローマ教皇の借金返済のために免罪符を発行し、免罪符を買うことで罪があがなえると説きました。真の悔い改めもなく、免罪符を買うだけで魂が救われることはなく、宗教的堕落を厳しく批判したのが、ドイツのマルティン・ルターでしたが、私もこの事実には、憤りさえ覚えました。


●大学で歴史と宗教を勉強

 大学の専攻は生物ではなく、歴史を選びました。生物は自分の大切なテーマだと感じていましたが、学問としての研究に自分の本意があるわけではない、との漠然とした思いがあったのと、人はなぜ生まれ死ぬのか、という最大の関心事と宗教の関係や、古代文明への憧れなどから、西洋史を選択したのです。

 一般教養を終えると自分の専攻をある程度決める際、当然、大好きだった古代エジプトやピラミッド文明の研究をしようと考えていたのですが、卒論のテーマを決める際にはとても迷い、意外なことに、心は嫌がっている(重いテーマなので)宗教改革を選んでしまいました。これには自分でも少々驚きました。

 家族間の宗教的不和を嫌というほど経験していた私は、宗教や聖職者、僧侶に対して、汚れなき崇高な存在でいてほしいという思いが人一倍強かったと思います。ある時期はシスターに憧れていましたが、彼女たちも煩悩をもったままの生身の存在であり、修道女となった後もいろいろな欲望に苦しむこともあると知って少しがっかりしたりもしました。

 宗教改革をテーマとして、キリスト教の問題を考えるうちに、古今東西で同じ問題が起きているという事実、形を変えて宗教が政治など国の深部にまで広く影響を与えていること、旧勢力が新勢力にとって変わられる状況などの類似性を見出し、人間の欲望や利益と信条(つきつめれば宗教)の問題を今後も考えていきたいと思うようになりました。


●結婚からオウム真理教入信の前まで・・・空しさから仙道の修行を始めるが・・。

 大学卒業後、ほどなくして結婚した私は、商家に嫁いだため、接客、経理、事務など一つ一つ覚えていきました。

 売り上げを伸ばすためにコンサルタントについて勉強を始めたり、簿記を習ったりと忙しかったのですが、徐々に売り上げも伸びてやる気もでていきました。しかし、仕事や人間関係などのストレスで徐々に体調に変化をきたし始めました。

 仕事や家事が大半の時間を占める毎日の生活が何となく空しく感じられ、気晴らしの旅行やおいしいものを食べに行くといったこともやりましたが、楽しみの後には益々仕事が嫌になるというありさまでした。

 本を読むのは好きでしたので、精神世界やヨガ、気功などの本を読み進めるうちに、ある仙道系の団体に興味を持ち、夫と共に入会することにしました。体と心の浄化を進めていくうちに、健康を取り戻しつつあり、何より修行が楽しく、講習会などにも積極的に参加し、指導員の資格も取りました。

 数々の仙人伝説などに触れると、自分も仙女になりたいと思ったものです。心身の健康、悟りの境地の体得という目的の他に、タオイズムという生き方にも共感しました。無為自然、我執をなくした生き方は、自分のみならず、多くの人々を苦しみから救うのではないかとも思えました。
 
 しかし、6年あまりの修行の過程で一つの疑問がわきました。団体の講座にはたくさんの人が集まりますが、いつも同じ質問を繰り返す人(アドバイスをもらっても変わりきれない)がいたり、自分自身も性格のコアな部分が今ひとつ変わりきれていないように思われたことです。


●オウム真理教への入信

 そんな折、書店でオウム真理教の月刊誌「マハーヤーナ」をみつけました。そこには松本智津夫死刑囚(以下、麻原と表記)の直弟子が「解脱」をとげたとする記事が大きく取り上げられていました。

 当時のさまざまな意味で未熟だった私にとっては、教団が宣伝する「解脱」という言葉はとても新鮮で、「これだ」と感じてしまい、早速本を買って貪るように読み始めてしまいました。

 そこでは、数々の修行が非常に効果があるものとして説明されており、仏教理論のカルマの法則や輪廻転生などの記述もあって、当時の私には、小さい時から求めてきた死に対してどうするのか、という答えが完璧に揃っているように感じられました。なぜなら、教団が説く「解脱」=「生死を越えること」とされていたからです。
 
 オウム真理教の修行や戒律は仙道のそれと違って大変厳しいものでした。私が師事した仙道の団体では、人が日々享受する楽しみや欲求を過度に制限することはなく、我執をとって楽しく生きるという教えでした。

 一方、オウム真理教は、在家者には比較的ゆるやかではありましたが、出家者は極限的な修行をなし、睡眠、食欲、性欲などの本能的な欲求も煩悩として捨断するものでした。
 
 しかし、人を超えて神になっていく過程では、釈迦牟尼がそうであったように、自己をぎりぎりまで追い詰める修行が必要なのではないかと感じ、それらの修行を行って自分も解脱・悟りにいたりたいという気持ちになりました。

 自分が仙道で今ひとつ変わりきれていないということについても、煩悩捨断の教えを実践し、物理的に煩悩を断ち切る行法や懺悔をすることで変われるのではないかという望みがでてきました。

 これは、教団の書籍などで、数々の修行者が煩悩を乗り越えているといった体験談が宣伝されていたこともあったと思います。そして、オウム真理教が中核の教えとして説いている仏教の四無量心の教えも、仙道での失望をカバーするに余りあるものに感じられました。

 また、麻原が最終解脱しているということにはとても驚きましたが、教団の書籍の中で、解脱までの数々の段階、障害、指導の内容が、当時の私には克明に記されていると感じられた、それを読んでは、自分も解脱したいという気持ちが、どんどん高まっていきました。麻原に対しては、(本の記述から)六神通を身につけ、人を超えたすごい人という印象がありました。

 そして、1989年12月21日、私はオウム真理教に入信しました。


●オウム真理教、在家信徒時代・・・自宅修行の日々から徐々に修行にのめりこんでいく

 私が入信した時期は、くしくも第一次オウムバッシングといわれた時期で、教祖である麻原の女性問題などが週刊誌をにぎわしていました。

 入信したことは夫に伝えましたが、騒がれている教団でしたので反対されました。仕事が忙しかったこともあり、通信講座でビデオを見ながら毎日30分の修行から始めました。

 解脱への修行として紹介されていた高度な行法は支部に行って直接指導を受けなければ習得できませんでしたが、実際、支部に行くことができたのは年に1,2回ほどで、ほとんど自宅修行で単位を貯めました。91年には初めて知子夫人のシャクティーパットを受けました。特別な体験はありませんでしたが、「順調に修行が進んでいる」といわれ、胸のチャクラに対応するマントラを伝授されました。

 また、「死と転生」というダンスオペレッタを見に行った時には、遠目ではありましたが初めてクルタ姿の麻原を見ました。第一印象はクルタと長髪という、写真では見慣れた姿でしたが、非日常の世界、オウムの世界に、一気に引き込まれたような感じがしました。

 それまで、本でしか触れられなかったことを現実に体験してみると、その場の雰囲気、生で感じられる感覚に独特なものがあって、当時の私は、神秘的なグルとのパイプの存在や業というものを信じるようになっていきました。
 
 これらの体験について、今冷静になって振り返ってみると、自分の中に高い理想や特別な人間になりたいという思いがあり、それらを満たしてくれるのではないかと感じられるものは積極的に取り入れていこうとする傾向があったのだと思います。つまり、信じていったというよりも、信じよう信じようとしていたように思います。

 俗世から離れた出家や、山に篭っての修行は、実際やってみれば苦しみがあるにも関わらず、現実逃避の傾向があることも確かです。また、ヒマラヤの修行者が実際は皆は聖者ではないのに、ヒマラヤで修行している者が皆、ステージが高いように錯覚してしまう類の思い込みが、多分にあったと思います。

 人は良い印象を持った対象の悪い部分は見ないようにしたり、良くとらえようとしたり、対象を信じ込むように、自分をしむけてしまう傾向があります。入信時の世間のバッシングに対しても、雑誌を開いたり、何らかの方法で団体自体を調べてみる努力は全く行いませんでした。

 これは、自分が信じたものを信じると決めたということですが、それは、冷静に考えれば、自分を疑うことをしないという「自己の絶対化」にも通じる考え方であって、麻原の傾向というだけでなく、信者に共通する潜在的傾向ではなかったかと感じます。

 また、入会した後は、教団を信じることで「解脱できる」という大きなインパクトがあったこともあって、教団の教えは、私の中では大きな心のよりどころとなっていき、その中で、教団が説いた「現世の情報を取り入れることが害になる」という教えもそのまま信じることになり、その悪影響も相当にあったと思います。


●オウムの修行を信じ込んでいく

 このようにしてオウムにはまっていってしまった私は、どうしても修行がしたい、という思いが抑えきれなくなりました。

 それまでは、夫との間に、波風を立てたくなかった私は、なるべく支部に行くことは控えていましたが、通信講座の内容では満足できなくなり、92年元旦には「今年はどんなことがあっても修行する」と決めました。
 
 ほどなく、2月にグルヨーガという秘儀伝授があるのを知り、早速、条件を満たすために支部のコースに通い始めました。休みの日をフルに使っても規定の単位をとるのにぎりぎりの状態だったため、家を放り出して、1日に6時間×3回の18時間のコースを受けたこともありました。

 6時間は、行法と瞑想のみだったため座りっぱなしで、しかもなるべく蓮華座を組むというものでしたので、それまで自宅でゆるゆるの修行に甘んじていた私には、とても辛いものでした。

 しかし、高度な観想は面白く、コース終了後は、心身ともに満たされた感じがしましたし、事実、疲れで寝込んだ夫に修行帰りの私が背中をなでると、夫の状態が急に楽になったということもありました。

 今から思えば、一定のヨーガの修行によって生命エネルギーが高まるのは、オウム真理教でなくてもあることなのですが、支部の師に聞くと、修行で培ったエネルギーが夫に良い影響を与えたのだと言われ、当時の未熟な私にとっては、オウムの修行への信を深める体験になっていきました。

 単位をため、いよいよグルヨーガを受けましたが、このヨーガはグルが直接相手に触れるエンパワーメント(秘儀伝授)だったため、期待と緊張でいっぱいでした。初めての富士総本部道場は、その特別な雰囲気に圧倒され、写真でしか見たことがなかった成就者や高弟、麻原の子息など、当時の私には、見るものが、すべてが新鮮で感動的にうつりました。

 しかし、その感動は、冷静に考えると、それまでの書籍その他の情報によって、想像と理想が膨らんでいたための過剰な反応ではないかとも思えます。例えるならば、テレビでしか見たことがない憧れのスターに実際あったときの興奮に似ているのではないかと思います。

 当時の私にとっては、麻原に付き添う高弟達は、てきぱきと信徒をさばき、一刻もグルの時間、エネルギーを無駄にすまいとしているように見えました。

 その当時、教団の宣伝を信じ込んでいた私は、これらの高弟達が、インドでも100年に1人出るかどうかといわれるほど難しい聖者である、と思いこんでおり、そういった人達が、まるで子供のように従っているところを見ては、麻原の偉大さや絶対性が印象づけられることになりました。

 今から思えば、こういった高弟たちの動きは、認められたいという欲求やグルへの依存を背景とした対応だとも考えられますし、絶対的な上下関係(帰依のようにもみえると後に説法で表現されたこともあった)が好きなのではないかとも考えられます。実際に、自分を振り返っても、そういう要素が確かにありました。

 そして、こうして、オウム神仙の会の頃のフランクな麻原ではなくて、弟子たちに祭り上げられた麻原像ができあがっていったのではないかと思います。

 そして、それは、麻原自身が、自分に対する(キリストになるという)予言として、説法の中で話していたことでしたし、後に、麻原の呼称を後に「真理の御魂 最聖 麻原彰晃尊師」と最高の敬称で呼ぶようになった事実からもわかります。


●思いがけぬ夫の入信

 一方、この伝授を受けるには、忙しい日曜日の仕事を休んで参加することになったため、夫との仲が一層悪くなりました。その後も修行したい私は、このまま続ければ、仕事を犠牲にして、ますます家族に迷惑がかかると思い、悩みに悩んだあげく離婚することを決心しました。

 夫は驚いてはいましたが、私の懇願(オウムへの誤解を解きたい)に一度だけ支部に行って実際の人、修行を見てくれることになりました。支部では師の人他、数人の人が対応してくれましたが、師の人柄が気に入ったようで、私にとっては意外なことに、その場で入信してしまったのです。

 その結果として、夫に気兼ねする必要がなくなった私は、それまでよりも、ずっと修行できるようになり、4月の秘儀伝授には、5つの秘儀瞑想をすべて受けるまでになりました。 

 そのため、オウムが説く修行や奉仕活動(教団で「救済活動のお手伝い」と言われていたもの)ができるようになった私は、5月にはスリランカツアーに参加、シャクティーパットが再開されると、受講のために足しげく支部に通ってコースに出ました(24時間体制で支部は開いているため)。

 11月には夫婦揃ってインド巡礼ツアーに参加するという予想だにしなかったことも実現するようになりました。これについては、教団の指導者に、修行に反対された時期にカルマを落とされ、その後、功徳が現証するという教義どおりの体験であるなどと言われたので、当時の未熟な私は、こういったことで、ますますオウムに対する信を深めていってしまったのです。

 しかし、私が参加したこの92年のインドツアーは、最後の海外ツアーとなりました。

 そして、それ以降のツアーが中止された理由が、ヴァジラヤーナ活動が本格化したからだったということを、アーレフの代表派の時代(2004年以降)になってから聞き、自分達の普段の修行の裏で、支部では大きなイベントである海外ツアーや在家成就者を出す修行も返上するほどに、ヴァジラヤーナ活動に力を注いでいたという事実を具体的に認識するに至って、大きな衝撃をうけました。


●ヨーガ・仏教の修行のため、オウムを信じ込んでいったこと

 さて、本格的に修行を始めると、一ヶ月で背骨のずれが治ったと感じた体験がありました。

 このずれは、自分では長年気づかなかったものですが、アーサナを行じている時に、教団で「師」と呼ばれる指導者(オウムで認定された成就者の階級をあらわす)から指摘を受けたもので、それが一ヶ月で綺麗に治ってしまったため、当時の私は、それが、ヨーガのアーサナ(=ヨーガの体操)効果ではなく、「師」の神秘的な力(ひいては麻原から送られるエネルギー)によるものだと思いこんでしまいました。

 今からよく考えれば、ヨーガのアーサナなどの修行には、背骨などの歪みを取り除く効能があるとされていますから、安易に神秘的な力によるものだと考えてしまったと言わざるを得ません。当時の私は、こういった感じで、オウム真理教を肯定していく思い込みを積み重ねていった面があると思います。

 また、教団が「シャクティーパット」と呼んでいた修行を行いました。これは、教団によれば、直接的に霊的エネルギーを移入するもので、そのエネルギーの大元はシヴァ大神だが、麻原がそのエネルギーを弟子に送って、それを弟子が信徒に移入する、というものでした。

 それを受けると、セキが止まらなくなったり、高熱が出たことがありましたが、当時の私は、教団が説くように、それは、胸のチャクラの引っかかりの浄化であるとか、右気道の浄化による高熱であると考えました。

 こういう場合は、普通は医者に行ったりしてしまうところですが、師の指導を受けると、ナーディー(エネルギーの通り道)の浄化だから医者に行かないほうが良いと言われたので、当時の私は、そのとおり従いました。その後、師によって、非常に浄化が進んだといわれました。

 また、「クリヤヨーガ」と呼ばれる身体の浄化法(ヨーガの修行法で、体を内側からきれいにする修行法)をはじめると、それまで疲れやすかった体がエネルギッシュになり、風邪を引きにくくなりまし。また、夫も少しずつ修行を始め、たいへん体が健康になり、修行の手ごたえを感じて喜んでいたように思います。

 こういった健康上の効果は、ヨーガ一般の修行の効果なのですが、私は、オウムを通して、浄化法を習ったために、オウムを信じる原因となっていきました。

 また、オウムの中で、仏教の教義を学ぶうちに、悩み苦しみの原因が、自分が過去になした行為の結果(業、カルマ)であるという教えに触れて、それを信じるようになったため、他人を責めるのではなく自省し、カルマを投影してくれた他人に感謝することができるようになり、その結果として、人間関係の悩みも解消されたということがありました。

 一般に、アーサナやクリヤヨーガを行じると、健康になったりゆがみを直したりするなどの他に、精神安定の効果や、「気」(エネルギー)の流れが良くなることで、いろいろな良い変化が現れると思います。また、仏教の因果応報の教えを生活にあてはめれば、謙虚になり自省を促し、善行の実践をしようという考えが出てくると思います。
 
 こうして、教団の教えの善悪に関していえば、一連の事件にいたる預言やヴァジラヤーナの教えは、大きな問題であったと深く反省していますが、その教えの中には、カルマの法則などの伝統的な仏教の教えなど、利益があったものあったと考えています。

 しかし、それは、麻原独自の教えではなく、仏教の伝統の教えであり、それによって、オウムを過大評価することは間違いだと思います。

 ましてや、そのような改善効果が、麻原や師との霊的パイプによるものだという考えは、検証のしようがないことであり、仏教の教えを説いている団体は他にもあるのにもかかわらず、安易に、「ここが絶対。麻原が絶対」だと考えてしまうのは、今になって思うと、思い込みの力も多分に働いた短絡的な思考だったと思います。


●布施の実践について 

 教団の教えでは、在家者にとって、布施は最も重要なサンガへの奉仕であると説かれ、自分自身、布施が好きだったため、機会あるごとに布施の実践をしていました。

 布施は修行の土台であるという教えを繰り返し学び、その中で、布施の使用目的を指定するのは、布施とは区別して献金であると説かれていたことや、当時の私は、布施が純粋に救済に使われると信じていましたので、何に使われるかを考えたり、調べようとすることがありませんでした。

 それどころか、布施する対象が解脱しているかいないか、利他の心があるかないか、などによって布施する側の功徳も違ってくるが、麻原は、最終解脱し、釈迦牟尼の次に降誕する未来仏マイトレーヤであるという教団の教えを信じ込んでいた当時の私は、そのような最高の魂に布施を受けてもらえるのは稀な機会であるととらえて、布施の実践をし続けていたのでした。

 しかし、後になって、92年頃にヴァジラヤーナ活動が活発化し、私を含めた信者がなした布施が、教団の「科学技術省」などの多額の経費に当てられたこと、そして、さらには、教団が起こしたさまざまな事件において、何も知らない信徒やサマナの布施が使われていた、という事実を知りました。

 自分自身は、教団の事件に対する関与はまったく知らず、それを知ったのは、かなり後になってからのことでした。しかし、実際に、自分達の多額の布施が、ヴァジラヤーナの活動に使われていたことは事実であって、その意味で、自分は事件に関わっていないから、事件には関係がないとはいえない立場であると思います。

 しかし、率直に言えば、このように思えるようになるまでには、まずは、事件を直視しなければならず、事件の事実を知った当初は、自分の信じた信仰を守るために、そこに触れないでいたいという気持ちが心の奥底にあって、自分の責任というものを自覚することはなかなかできないでいました。


●自己の分析=「麻原やオウムを絶対だ」と思い込むようになったプロセス

 こうして、私がオウム真理教の修行に没頭していく過程では、自己の精神的、肉体的な面での向上を実感したことは大きかったと思います。

 それとともに、麻原との面談や高弟のシャクティーパットなどで、直接の指導を受けた際に、当時の未熟な自分は、自分の内面をずばりと言い当てられたと思ったり、体験や、肉体の状態を霊視されたと思うなどして、そういった体験を過大視・絶対視していったという間違いを犯していったと思います。

 今から思えば、仙道でもヨーガでも気功でも、行じれば一定の効果はあるものですし、こういった修行をしている人の中で、少しエネルギーに敏感な人なら、相手の状態を言い当てることはできる場合が少なからずあります。

 その意味で、私の場合は、自分が信じたものが、素晴らしいと思い込みたいという気持ちがあって、それが膨らんでいって、麻原やオウムが絶対である、と信じ込んでいったのだと思います。これは、妄信、狂信につながる危険な傾向だと感じます。

 また、それに加えて、教団の書籍や、法友の麻原の神通などのエピソードをそのまま信じ込んでいったということがあると思います。

 その中には、麻原が、三界(仏教でいう欲界、色界、無色界)という異次元の世界までも自由に知る力を持っていたり、根源神であるシヴァ神とコンタクトできたり、閻魔大王を説得するなどの超人的な力を持っているすごい聖者である、という主張がなされていましたが、こういった、どうにも証明ができないことについても、当時の私は、安直に信じこんでしまったのです。


●自己存在意義の欲求や選民思想の問題

 また、師から「麻原があなたのことを気にかけている。」とか、(海外ツアー参加を躊躇していると)、「麻原が直々に私の参加を望んでいる」というメッセージをもらったことがあり、その結果、自分は特別な魂であると思い、プライドを増長させていきました。

 この点について、今分析すると、深層心理において、自分は、最高のグル麻原と特別な縁がある魂である、と思いたかったのだと思います。そして、こうして自分の存在意義が満たされると、そうしてくれた相手への好感・愛著が強まり、気づかないうちに、麻原を信じたいという気持ちが強まっていったのだと思います。この自己存在意義に関するこだわりについては、一つのエピソードがあります。

 それは、終末預言(ヨハネ黙示録)の解釈をした麻原の書籍の中で、オウムのことを指していると解釈されたものの中に、救済されるのは、額に印を押された 14万4千人だけである、とうものがあり、教団内では、この額に印とは、教団のシャクティーパットのことだろうと考えられており、小羊として描かれる救世主(=麻原)によって額に印を押された「選ばれた魂」が救われると説かれていました。

 しかし、こういった教団の教えをそのまま信じていた私は、麻原のシャクティーパットを受けていなかったために、それで自分は救われるのか(=選ばれるのか)ということで、大変悩んだ時期さえありました。これも、今から思えば、教団を絶対視した結果であり、滑稽なことですが、当時の私にとっては大きな問題でした。

 この悩み自体は、説法会で、麻原に質問した際に、「私と私の高弟達が君を救済するだろう」という答えがあり、麻原から直接シャクティーパットを受けていなくても、高弟から受けているから大丈夫だと考えて、終止符が打たれることになったのですが、こういった悩みの裏側には、救われる人々と救われない人々を分ける教団の教義がありました。

 その時は気づきませんでしたが、これは、自と他を区別する心の働き、人々を単純に善人と悪人を二分して差別する心の働きを生じさせてしまい、本来仏教の精神に反する、善悪二元論的な考え方になるという問題があります。


●グルに無思考に従う修行の問題

 また、もう一つの教団の問題としては、その当時の教団には、救済するのは、グルとグルに付き従う人々であり、そして、救済されるのが、まだ真理にめぐり会っていない人々という構図がありました。

 しかし、この点については、自分たちには汚れがあるとして、グルを絶対とするという修行法は、その後、グルとされた麻原の指示によって、救済のためには、人を殺すことまでも行なってしまう、という狂気に発展するものでした。この点は深く反省するべきことだと思います。

 この点に関連して、当時の教団では、オウム真理教医院などのエピソードが紹介される中で、麻原はポア(死んでいく魂を高い世界に引き上げること:輪廻転生を自在に操れる)ができるとされていました。

 そのため、事件で多くの人が殺されたことについても、亡くなった人は高い世界にポアされたのだ(だから良かったのだ)、という捉え方をしていた人も多く存在しました。私も、当時は、事件についてどう解釈して良いかわからなかったために、「グルには深いお考えがありそれは我々には理解できない導きである」とか、「高い世界に転生させたのだ」と考えた(そう思いたかった)時期がありました。

 今思えば、グルを絶対として、グルに委ねるという実践は、愛著と依存が強まり、帰依という名の元で、自分が自立して考えて行動する力が弱められる結果になっていったのではないかと思います。

 そうなった背景としては、自分の性格からは、この修行(他への依存、愛著を肯定できる修行)は、大変やりやすく、好きな修行だったことがわかります。特に女性の場合、この傾向が強いのではないかと感じます。


●帰依の実践の中での闘争

 また、麻原とどれだけ縁を強く結べるかは、どれくらい引き上げてもらえるかにつながるといわれていましたので、弟子たちは皆、グルの意思・指示の遂行や、グルを日夜意識して、修習するという実践をしていました。

 しかし、その背景には、他人より自分がより近づきたい気持ちや、評価されたい、という欲求があったように感じられたこともありました。支部活動では布施額や入信数というはっきりした数字で表れるため、成就者たちは、しのぎを削っていたようにも見うけられました。また、布施や入信数などの、いわば競争で、かなりのストレスがあったのも事実のようでした。

 私自身は、関西方面でのワークであっために、(麻原がいる)富士上九に行く機会も少なく、直接会うチャンスは殆どなかったため、実際にそういった欲求が増すことはそれほどありませんでした。

 しかし、もし、自分にそのような環境が整ったとしたら、必ず欲求は増大し、プライド、闘争の渦に巻きこまれていったと思います。信徒時代でも、麻原から少しでも気にかけてもらえると、大変嬉しかったですし、それが、自分と偉大なグルである麻原とのつながりを強めると思い込んできました。正確には思い込みたかった、信じたかったのだと思います。


●成就者の実態について

 私にとって、成就者とされる高弟についてのさまざまな情報は、書籍や法友からの伝聞からの情報によってが殆どでした。そして、その機関紙などに載る、成就者の紹介記事は、幾多の苦労を乗り越えた様子が詳しく書かれていましたし、何よりそれを乗り越えた、神秘体験、瞑想経験などが豊富で、私が決して経験しえないような高い境地に感じられました。

 しかし、私自身、在家で、教団で「ラージャヨーガ」(意志のヨーガと言われるヨーガ)の成就の認定を受けた時の修行の経験では、成就の認定を受けた時の状態をキープするのは非常に難しく、エネルギーの状態が落ちると意志力も低下してしまい、高い精神状態での安定はできないヨーガだということを経験しました。

 むしろ、成就認定後の方が、高いエネルギーと低いエネルギーの違いに敏感になっているためでしょうか、理由は定かではありませんが、成就前よりも、ずっと、エネルギーの落差に苦しむことになりました。

 その次に、成就認定をもらったクンダリニーヨーガの場合には(私の経験によると)、修行をすることで、エネルギーの状態が回復するものだと感じましたが、逆にいえば、日々修行して高みをキープしなければならないものなのです。

 また、接する他人とのカルマ(煩悩)の交換も激しくおこるように感じられ、成就認定後でも、煩悩に翻弄される場合もあります。教団で成就者とされる人たちは、このジレンマに、かなり苦しんだと聞きましたが、これについては、自分も経験することになりました。

 こうして、教団の成就者といわれる者は、冷静に見れば、成就の認定を得る際の肉体的に極限的な修行の中では、一定の状態を経験し、それが書籍などで紹介されますが、その後は、煩悩を十分にコントロールできるわけではなく、書籍が描くイメージと実際には違いがあったのです。


●マハームドラーの成就と絶対的帰依との関係

 ただし、教団においては、クンダリニーヨーガの上の「マハームドラー」というステージは、心のヨーガであるため、エネルギーの影響を受けないといわれていました。

 そして、教団によれば、マハームドラーの成就は、クンダリニーヨーガの100倍の難しさであり、弟子のカルマを見切るグルの力量と、弟子のグルへの100%の帰依がないとなされない偉業だとされており、マハームドラーの成就は、他の成就とは違って別格の扱いでした。

 当時の私たちから見れば、これは素晴らしいステージであり、しかも、この成就のために必要な帰依とは、100%の帰依であり、それは命をかけるくらいの帰依だと認識していました。

 そして、この帰依の考え方は、取り方によれば、グルの指示には絶対に従う、ということにもなります。そして、こういった考え方は、殆どの当時のサマナに見られたものであり、これが後に大きな問題になっていきました。

 実際、アーレフ時代にも、サマナ(出家者)の中には、「もし今麻原にサリンを撒けといわれたらどうしますか?」という問いに「断れない」といった人がいました。

 私も(今は全く変わりましたが)、1995、6年当時であったなら、実際に実行するかどうかは別にして、同じように答えていた可能性はあったと思います。


●帰依の実践の背景にあるプライドの問題

 しかし、こうしたマハー・ムドラーの成就のために、絶対的に帰依をするといった実践の背景には、弟子のプライドの問題があったと思われます。

 実際、サリン事件の実行犯の中には、選ばれた時には「興奮した」という人がいたそうです。これは、(高度な帰依の実践であるとされた)ヴァジラヤーナの実行に「選ばれた」というプライドだと思います。

 ヴァジラヤーナの修行は、段階としては、大乗の修行よりも上であり、最高の帰依が求められ、前生からの土台がないとできず、天界の法則であって、この人間界では、理解されないためにできない高度なヨーガだともされていました。

 そのため、ステージを上げたいとか、グルに認められたいと思う人ほど、ヴァジラヤーナに誘われれば、それが人を殺す行為であっても、従ってしまったのではないかと思います。

 この裏には、自分が、ヴァジラヤーナの実践ができる特別な存在でありたい、というプライドがあるのだと思います。さらに、その背景として、教団の信者全体が、オウムの教義を学ぶうちに、自分たちが特別であるというプライドを満たし、選民思想的な傾向を帯びるようになっていたこともあると感じます。

 その世界の中では、自分たちの世界と自分のグルが絶対になってしまい、第三者の人が客観的に見るならば、人を殺すという行為であるのに、それを肯定し、事件を引き起こしてしまったのではないかと感じます。

 また、前に書きましたが、弟子たちが、超人的なグル、すなわち、自分達の願望に都合の良いグルの理想を求めていたため、大きな団体の中で、その弟子達の願望が、集合的な意志となって、絶対的な存在としての麻原を現象化していった面もあるのではないでしょうか。

 エゴを背景とした思考によって、麻原さえも動かしてしまったのではないか、とも考えられます。
 

●女性の修行者の問題について
 
 次に、女性の修行者の問題について述べたいと思います。

 女性の特性として「依存性」があると思いますが、教団では、女性はグルにのみ愛著することが許され、グル以外の異性に心奪われることは修行の大きな障害だといわれていましたので、グルへの愛著と依存が深まっていきました。

 具体的には、完全な存在であるグルに愛著し、グルと合一することができれば、グルの汚れなき広大な空にとけこみ、自身の汚れは浄化されると説かれました。

 ですから、女性の弟子は、常にグルを観想(イメージ)し続けることが大切でした。具体的には、24時間観想し続けられれば成就するといわれていましたので、信徒といえども、皆、麻原を強く観想していました。

 そして、これと共に、私見をいれずに、グルの意思に従うのは修行の大きなポイントでした。

 しかし、この無思考にグルに従うというのが、自分で考えられない体質を作っていったと思います。

 自分を含めたサマナ(出家者)の傾向を見ますと、自分で考えないで上に聞いたり、最終的な責任を取りたがらなかったり、自分で考えて行動するのが下手(苦手)な傾向があると感じます。

 もともとそうだったというよりは、長年の修習によって(考えないで指示を待つのは)楽な面もあり、次第にそういう傾向が根付いてしまったのだと思います。

 グルの意思として、私見を入れないのは、帰依の名のもとに自分のプライドは満たしながら、他への依存を強め、思考の訓練ができない傾向を作ってしまいます。

 この傾向については、新団体となったひかりの輪の中でも、特に注意していこうと思います。



●狂気の集中修行への参加:特別な体験をして、ラージャヨーガの成就と認められたこと


 92年のインド巡礼ツアーの後、年末年始にかけて、狂気の集中修行が行われることが決まりました。

 当時の私は、教団が説く解脱・悟りを強く求めていましたので、この機会に参加したいと思いましたが、肉体的に非常に厳しいもので、躊躇していると、女性の正悟師(三段階目の成就ステージへの尊称)に進められたり、麻原からの異例の個人指導で、支部には通わず、自宅でツァンダリーの修行を毎日3時間やるようにといわれました。

 当時の私にとっては、このような特別な扱いが、自己のプライド・優位性を刺激していたように思います。

 参加に際しては、年末年始の最も店が忙しい時に10日間という長期間留守にするため、夫からは激しく批判され、何度も迷ったのですが、師の説得もあり、後ろ髪を引かれる思いで参加することになりました。

 修行は支部でのコースとは違い、格段に厳しく、蓮華座は経行(野外を修行しながら歩く修行)以外は外さないという指導でした。蓮華座の激痛に苦しみ、何度も外すのですが、そのたび竹刀で床を叩かれたり、叱咤の声が飛んできます。
 
 今思えば、この修行は、深く潜在意識に突っ込むため、人によっては幻覚を見たり、強い煩悩に振り回されてしまう場合もあって、危険な側面があります。

 私は、かなり苦しみましたが、瞑想中に、教団が説く「三グナ」と呼ばれるものを霊視したと思った体験や、「究竟」と呼ばれる、意識をぼーっと広げていく瞑想の時間には、ヨーガで「クンダリニーの本覚醒」と思われる体験して、座っていても体が後ろに飛ばされるほどの霊的なエネルギーの上昇を体験するなどしました。

 こうして、10日が終わり、体験を書いて提出すると、一部の人が麻原に呼ばれて状態を確認されました。私も呼ばれましたが、若干体験が足りないということで、他2名と共に、サマナの修行場である第二サティアンで、師と一緒に修行をすることになりました。

 そこでの修行はそれまでの10日間とは比べ物にならないほど厳しいものでした。それは、教団でいう成就ができるかどうかというものだからでしたが、蓮華座は一瞬も外すことができないほどの徹底した指導でした。そして、無理な蓮華座のために、立つこともやっとで、杖や手すりにつかまらないと歩けないようになってしまいました。

 延ばしの3日間の最終日、蓮華座の苦しみに泣いていた私は、グルに(自分の身体を)供養しよう(供養するつもりになろう)と思い、自分の意識・気持ちをチェンジさせたのですが、その瞬間に、蓮華座の痛みが消えるという、変化を体験しました。

 この時の体験が衝撃的だったので、当時の私は、この体験について、グルと意識を導通させることによって、別の世界に意識がいざなわれて、同時にカルマが落ちて痛みがなくなったものだと解釈しました。

 しかし、今思えば、客観的には、これが、麻原の力という証明はなく、供養と思うことで、自分の肉体に対する執着を放棄したことによって、状態が変化したという解釈ができますから、当時の私は、冷静さを失っていたとうことができると思います。

 そして、まさにその時、その修行は終わりになり、すぐに麻原に呼ばれて自分の体験を聞かれました。それに答えると、麻原に、「ラージャヨーガの成就である」と告げられました。

 この時の修行は、ラージャヨーガの成就者が8名も出た異例のことで、次の夏のセミナーではもっと多くの成就者が出ると期待されていました。しかし、狂気の集中修行は二度と行われることはありませんでした。それは92年から本格化したヴァジラヤーナ活動に集中するためだったようです。


●家族の反対の中で出家へ 

 成就後、念願だった出家の許可がでましたが、夫との仲はますます悪化しました。そこでは麻原から、これも異例な、今のままの生活スタイルのままでサマナとして認める、とまでいわれましたが、夫はそれを拒否し実現しませんでした。

 離婚して出家するか、在家のままでいるかの選択を迫られ、私は親族や知人の非難をあびつつ、出家の道を選びました。その際は、支部の師の介入もありましたが、当時の私は、私の出家が、麻原の意思であるなら、なんとしてでも出家しなければならないと考えてしまう意識状態でした。現に、私の両親とは口論になるなど、非常に険悪な状態になりました。
 
 家族の反対が激しかったため、私は出家までしなくても在家でいればよいかもしれない、と悩みました。しかし、教団では、出家を阻止すると悪しきカルマになり、出家して成就すれば、自分の親を含めて七代前までの先祖にその功徳が返ると説かれていましたので、成就をめざし出家を決めました。
 
 教団の出家にまつわる話はいくつも聞きましたが、麻原に出家といわれ、一日で家財道具を全部運び出して(教団への布施)出家したり、出家と告げずに姿を消してしまったり、周りをだまして未成年を出家させるということもあったと聞いています。

 それらは美談として語られていましたが、家族と納得するまで話し合わなかったり、強引なやり方や騙して出家させるのは、周りの理解を得られないだけでなく、社会問題として取り上げられるまでになりました。

 オウム真理教の被害者の会との激しい確執や子供を取り返そうとする親とのいさかいは良くあったようですし、教団は、現世捨断として親族等との連絡は一定の成就までは原則として一切禁止でしたから、周りの目を盗んで親に連絡を取るサマナもいました。
 

 私の双方の家族は、95年事件以降、嫌がらせをされたり、数々の中傷と苦痛を受けたと聞きました。このような方法では、皆に傷を残し、社会からは危険な団体として、ますます理解されない要因を作ります。自分たちも社会の一員であることを忘れることなく、周りとの融和、調和をとりつつ開かれた団体を作らなければならないと思います。



●出家後、理想が崩れつつあったこと

 93年4月末日に出家した私は、3日間の修行を経て、出身の横浜支部への配属が決まりました。
 
 そのうち、信徒として接していたときには見えなかった、師を含めたサマナの人たちの人間的な言動も、それなりに見聞きするようになりました。

 しかし、当時に私にとって、クンダリニーヨーガの成就者とされる「師」とよばれる人たちは、神の領域に足を踏み入れた人でありました。そして、自分の理想であって欲しい、という強い願望から、そのように良く解釈して、思いこんでいたところがありました。

 実際には、極厳修行を出れば、極厳修行の中で達成した状態がそのまま続くことがないことは前にも書きましたが、私は、それでも、良いように捉えようと努めて、信徒やサマナの煩悩を受けて、そうなっているのだと思い込むようにしていました。

 しかし、実際には、多くの出家者の中には、精神的な疾患を患う人もいました。その意味で、出家教団内部には、なかなか大変な面もあったと思います。



●麻原の神通を体験したと思ったこと
 
 さて、この頃に、私が再び麻原を信じ込むようになった体験がありました。

 麻原が私が病院にいるヴィジョンを見たことを伝えてきたことがあったのですが、その時、祖母がガンで入院していたので、私は、麻原がそれを神通で察知したのだと思いこみました(もしかすると、その事実を知っていた他のサマナから何かを聞いていたのかもしれませんが)。

 麻原は、自分が見たヴィジョンから、外道(他の宗教)を信仰していた祖母に何をさせたらよいか、という具体的な指示を与えました。その時の私には、具体的な根拠ある訳ではありませんが、麻原のヴィジョンは良くあたっているように感じられ、そのため、それを初めて体験する麻原の「神秘力だ」と思い込みました。

 今思えば、この私の体験は、それほどたいしたものではなかったと思いますし、世の中にこういった霊的な体験や不思議な一致というものは、少なからずあるものです。

 しかし、当時の私は、自分が、こういったことで麻原と直接の接点がもてたという喜びや、また数々の成就者による麻原の神通の体験談を見聞きしていたため、自分が直接体験したこと以上に、それを素晴らしく受け止めてしまいました。そしてこういった傾向は、これは教団や信徒の共通した傾向だと思います。
 
 また、半年ほど後に、私は麻原から突然修行に入るようにいわれましたが、その時も、その前日に、心が利他の思いでいっぱいになる、という体験があったので、麻原が、私の心の変化を察知した結果として修行入りになったのだと勝手に解釈していました。

 今思えば、こういった現象は、すべてがつながっていると説く仏教的なカルマの法則や、心理学上のシンクロ現象(意味のある偶然の一致)の存在を考えるならば、麻原による神通でなくても、いろいろなところで起こりうる現象でした。

 しかし当時は、教団の中で、グルと弟子の間には物質的な距離は一切関係なく、グルは、弟子の数だけ心眼があり、いつもその人を見ているので、変化があるとすぐにわかるのだといわれており、それをそのままに信じていた私は、自分が実際にそのような体験をしたと考えたくて、そのように考えたのだと思います。

 こうして、私は麻原が世界最高の聖者である、という思いこみを強めていったのでした。


●京都の教団運営のスーパー「M24」でのワーク


 そして一ヶ月後、心に変化が生じた数分後に麻原がやってきて、京都のM24という教団が経営するマハーポーシャ系スーパーの店長としてのワークを命じられました。

 これまでの書いたように、当時の私は、何度か麻原の不思議な力だと感じる(思いこむ)体験をしたり、高弟達の体験を聞いていましたので、麻原に心服し、畏敬の念を強めていきました。

 一方、麻原に近くなればなるほど厳しくされると聞いていましたが、私は一度も怒られたことや厳しい対応をされたことはありませんでした。しかし、常日頃、怒られつづけていたら、良い感情や良くとろうとはしなかったと思います。人が対象をどのように認識するかは、それを決定づける条件が大きく関係してきますので、その結果として、自分の麻原に対する思考が形成されていったのです。
 
 M24には、マハーポーシャ本部から送られてきた信徒さんもおり、サマナ、信徒一緒の体制でした。私が異動すると程なくして、師や多くのサマナが移動してしまい、実質的に私が仕切らなくてはならなくなりました。

 その中で、サマナの理想的ではない部分(悪い部分)を見た信徒さんの不満が高じたり、ワークのきつさから精神状態を崩す人も出て、私の店長業務は、サマナや信徒さんの精神的フォローや顧客からのクレーム処理、種々の外部対応に多くの時間を割かれました。また、(人手不足から)肉や野菜のパック詰め、ラーメン屋の皿洗い、レジ、仕入れ、業者対応など何でも手伝いました。


●お店のワークにおけるグルへの疑念、褒められたことによる愛著

 私が着任してから、20人以上いた従業員もかなり異動してしまいましたが、あるとき麻原から、あの広い店内をラーメン屋も含めて5人でまわせ、といわれたときは、正直耳を疑いました。

 「できるはずがない」という思いがわいて、とても返事ができる状態ではありませんでしたが、私の上長はすかさず「はい!」という返事を返していました。私は、「そうか、帰依とはこういうものか」と思いつつも、あまりに理不尽だという思いは抜けず、麻原への疑念がわきました。

 その後、24時間営業を18時間に減らしはしたものの、午前2時に閉店してからも、私は何台もあるレジ金の回収や売り上げの計算などで寝る時間もなかなか取れない状態でした。寮にも殆ど帰らず、在庫の陰に埋もれるようにして仮眠をとる生活でした。
 
 クンダリニーヨーガの成就者である師がいなくなったことも理解できませんでした。

 師ではないということで、皆の反応も違いましたし、何より、ワークのきつさからストレスが高じて精神的に荒れる人がいたり、サマナと信徒の間に亀裂があったりして、私の力ではとても収められない問題が次々と起こりました。いろいろな要因で自信をなくしつつあった私ですが、仕入れの統制と宣伝による効果も少しずづ現われ、94年には経営はほんの少し黒字になってきました。

 一方、失敗も多々あり、怒られるだろうな、と思っていると、麻原は失敗には触れず、黒字に転換しつつあることを巧みに誉め、私がやる気になるような言葉をかけました。

 こうして(失敗には触れられなかったことで)逆に強い慙愧の念がわいて、やる気がおきたりもしましたので、こういった点において、麻原は巧みだったのかもしれません(ないしは、私が勝手にそのように麻原に肯定的な考え方をしたのかもしれません)。


●好感を持った人への過剰の評価をする背景にあるエゴ

 人は、自分に好意的な人に好感を持ち、批判する人を敬遠しがちですが、好感を持った対象のことを良いように受け取ろうとしたり、その欠点を見ないようにする傾向があります。

 自分を分析してみても、自己の理想の宗教家、自分にとって都合の良い聖者であってほしいという強い願望から、情報を選択透過して都合が良い部分だけを見てしまうことがありました。

 そのようになる場合は、自分をわかってくれている、認めてくれている、という条件があってのことで、その人に、怒られ続けている場合にはそうは思えないものです。

 自己の称賛欲求や認めてもらいたいという欲求に合致した場合、心をつかまれたように心服してしまいますが、その根っこには、エゴを肯定する部分があると思います。


●マハー・ムドラーという技法への疑問と問題点

 さて、教義の中ではエゴなどの煩悩を否定していますが、グルは相手の煩悩を利用し、汚れを引き出すことにより、対象にその汚れを認識させ(本人は潜在意識では煩悩を欲していて断ち切れないため)そのデメリットを理解させて抜き取るマハームドラーという技法が用いられていました。

 それは煩悩を利用するため危険を伴い、導く側(グル)の力量と相手のグルに対する帰依の双方がなければ決して成功しないといわれていました。それができるのは相手の煩悩を完璧に見切る漏尽通や相手のカルマを知る死生智などの六神通が不可欠で、それらを兼ね備えたグルのみとされていました。

 麻原の六神通のエピソードは豊富で、人が決して知りえない異次元の世界での導きや死者の意識を高い世界に引き上げるポアの技法まであるとされていました。
 
 そして、マハームドラーは本人が最も引っかかっている煩悩を引き出すため、大変苦しく精神錯乱のような状態になる場合もあり、教団の中でマハームドラーをかけられるのはグルである麻原のみであるとされ、対象には、百ゼロの帰依が求められました。ゼロというのはエゴ、百は絶対的なグルへの帰依であり、自己の意志を入れず、完全にグルに委ねた時、グルが対象の煩悩を抜き取るとされていました。

 しかし、この「グルが抜き取る」という部分が、私には理解できず、何人かの成就者に質問してみましたが、明確な答えは得られませんでした。さらに、これは、グルへの愛著をもとにした他力の修行であり、今思えば、絶対的な帰依は、自己の思考を入れず従う行為につながって、多くの弟子たちが、一連の事件に関与していった背景になったと思います。


●女性の弟子の修行の特徴と問題

 また、教団では、男性の弟子と女性の弟子は到達点は同じだと説かれつつも、両性の特質が違うために、修行法も異なると説かれていました。

 一般医、女性は、グルに愛著し、石井氏のようにグルから言われたことを私見をはさまず行うタイプが圧倒的でした。よって、女性は徹底してグルに愛著しつつ、それでいて、他の同性の女性への嫉妬なき状態まで集中しきるべきである、という実践が説かれました。

 しかし、後になって、麻原の高弟の中でも、麻原の子供を生んだ複数の女性間において、嫉妬などによって、相当の確執があったという話を聞きました。

 また、前にも書きましたが、愛著を肯定する女性特有の修行には、グルに愛著している内に、自分で思考せずに、依存心が強くなってしまいます。

 そして、依存、愛著の対象がいなくなった場合に、多くは別の男性の対象に意識が移って、より煩悩的になる可能性があるという問題があると思います。


●マハー・ムドラーの成就者に対する幻想

 そして、男女を問わず、サマナにとって、グルは絶対的な存在であり、ある高弟は「グルが間違えたら一緒に間違うと気持ちがいい」と言っていた、と聞いたことがあります。

 また、このマハームドラーの修行に関連して、マハー・ムドラーの成就者が一人出るのは大変なことであり、教団がつぶれるくらいの激しいカルマ落としがあってしかるべきである、といわれていたこともありました。

 事実、95年の事件直後には、何人もの正悟師が誕生したため、事件という究極のカルマ落としがあっても当然かもしれないと噂されていました。その当時は、殆どのサマナが事件を知らず、フリーメーソンの陰謀や国家が教団を潰すためのでっち上げと信じられていたからです。

 しかし、私が後になって知ったことは、正悟師と認定された人の中には、成就の体験があったというのではなく、事件に関与した功績で正悟師になったといわれた人や、煩悩を止滅するというマハームドラー成就の状態ではなく、逮捕されたために内心は揺れていた人もいた、ということを聞きました。

 これを聞いたのは、2000年以降ですが、正悟師を理想化していた私としては大変ショックなことでした。

 また、一番弟子の石井久子氏については、彼女の逮捕後に、麻原が、(正大師よりも上のステージである)正報師に認定したことがあったにも関わらず、拘留中に心が揺れ麻原を批判するようになったため、その認定を取り下げたということがあったと聞きました。

 これも、2000年以降になって知りましたが、非常に高いステージの認定に関係するものですから、非常にショックであり、教団の成就の認定というものに対して、否定的な思いが生じました。

 事件が発覚した95年以降の成就というのは、純粋に宗教的な瞑想体験とか煩悩の破壊ということではなく、団体存続や組織固めのための恣意的なものになっていった面があるのではないかと感じました。


●94年・・・イニシエーションによる成就

 94年中ごろには突然上九に呼ばれ、イニシエーションを受けました。これはLSDを使用したものだったそうですが、私はその体験でクンダリニーヨーガの成就者として認定されました。

 液体を飲んだ後、個室でしばらく瞑想しましたが、周りの個室では暴れたり叫んだりして取り押さ縛られる人、大声を出す人などがおり、尋常ならざる状態でした。自分の体験も薬物による幻覚だったといわれてもしかたないのかもしれませんが、薬物を使用していたというのはずっと後になって知りました。
 
 師として認定されたものの、自分の状態がラージャヨーガのときのようにはっきりとした変化は感じられませんでした。この点について、正悟師に質問すると、過去世において、既にクンダリニーヨーガの成就をしているので、同じレベルの体験はあまりインパクトがないのだといわれました。そして、それは自分の瞑想体験とも合致していたため、受け入れていました。94年の成就者は大量成就といわれましたが、事件の発覚をなどを見越した、(高弟達が抜けた後の)組織作りの一端だったのかもしれません。

 この夏には富士上九の井戸に毒が投入されて飲み水が得られなくなったとの連絡を受け、大量の水、飲み物、食品を富士に送りました。この毒物投入の疑いで殺された法友がいたとは、その時は知るよしもありませんでした。


●95年のサリン事件の発生

 さて、M24に異動してからというもの、毎日、朝礼で売り上げ目標を確認し他店との競合と利益を上げることしか頭になかったため(与えられたワークを全力でこなすのがグルの意思にかなうため)、95年3月の地下鉄サリン事件が起こった時には、まさに晴天の霹靂でした。

 不殺生の戒律を守ってきた私たちの仲間がそのような事件を起こすなど、とても信じられませんでした。

 また、麻原自身も事件関与を否定し、国家の策略と訴え、「亡国日本の悲しみ」という本まで出して、聖者や真理を迫害した者の末路が悲惨を極めるとしていましたので、一般の信者にとってはとても受け入れがたい事実でした。

 それまでにも、警察等の宗教弾圧に耐えてきた(内部ではそれが通説でした)といわれていましたので、教団がやったこととは微塵も思いませんでした。

 また、弾圧を受けることは「ノストラダムスの大予言」に克明に記されていることであり、大弾圧される団体は予言された団体で、麻原は予言された救世主であると信じられていました。

 そんな中、5月15日、ついに麻原が逮捕されました。それは信者全体に大きなダメージを与えましたが、私は冤罪はほどなくして晴れ、帰って来ることを信じていました。
 
 教団内でも機関紙やビデオ、師の説法などで繰り返し陰謀説や、予言の救世主への試練であるとの理論が繰り広げられていましたし、海外から調査団を呼び、教団施設ではサリンを製造できないことを証明し、チラシにして配布したりもしていました。

 そして、上祐氏がロシアから緊急に帰国すると、広報担当として、事件関与を否定する活動を始めました。

 6月になると教団の資産が差し押さえられるかもしれないことを見越して、サマナで作る「神聖出家者の会」を立ち上げ、個人資産が差し押さえられないよう、また、今後の出家生活の保障のために活動していきました。

 しかし、「神聖出家者の会」の代表につくはずの師が急に逮捕されたため、私が繰り上がりで代表に就きました。社会、マスコミなどからは、資産隠しの詐欺ではないかと厳しく追求され(5回の記者会見を行った)、私自身も詐欺で逮捕されるのではないかとの噂もたちました。

 それから、少しの間、神聖出家者の会とM24の掛け持ちのワークになりましたが、M24は5回の強制捜査の結果、売り上げが激減し、8月には閉店を余儀なくされました。私は、後ろ髪引かれながらも、店じまいの作業は他の人に任せ、神聖出家者の会のワークや今後の対策のために、東京青山にあった本部に異動したのでした。


●95年~96年:事件の罪を認めてこなかった教団や私の過ち


 青山総本部に異動してからは、神聖出家者の会のワークと同時に、事件の影響で財政難となった教団を支えるために財施部(アルバイト等に出て給料を布施する)を立ち上げることになり、数人の師と一緒に阿佐ヶ谷道場を拠点に活動することになりました。

 しかし、その中の1人も拳銃製造の容疑で逮捕され、事件の混乱によるサマナの精神的不安定、疑念が増大し、私自身も先ゆきの不安が大いにかき立てられました。

 また、10月には上祐氏が偽証罪で逮捕され、大きな柱を失ったように、サマナ達は落胆しました。当時、広報副部長であった荒木氏は、はた目にもわかるほど動揺して「私はこれからどうしたらよいのですか」と、最後に上祐氏に問いかけていた姿が印象的でした。
 
 上祐氏の逮捕によって、正悟師の村岡達子氏が青山に移動し、代表代行の地位に就き、正悟師らが中心になって教団運営を行う体制になりました。しかし、それは表向きで、実際は獄中の麻原から弁護士を通して伝えられるメッセージに沿った教団運営がなされるようになりました。

 財施部のサマナは、社会に出ていろいろな情報に触れるため、テレビや雑誌、噂話で聞いた、教団の事件に関する報道の真意を確かめようと質問してきたり、宗教的な疑念がわいたりして、私たち師は日々、対応に追われました。当時、私は、事件は冤罪と決めつけていましたので、それら外部情報のほとんどはねじ曲げられたものなので信じず、できるだけ情報捨断して惑わされないようにと指導していました。

 実際、外に出ているサマナの方が働いていない私たち師よりずっといろいろな情報を仕入れてきます。にもかかわらず、私はそれらを見ない、聞かないようにして、真実を精査する努力もしませんでした。教団の指導としても、情報捨断のスタンスをとっていたため、それに疑問すらわきませんでした。

 事件後、あれだけの供述や事実確認があったにも関わらず、一切を切り捨てていたのはなんと愚かなことかと思います。事実を直視せず、自分の宗教性に傷がつくのが怖かったため、自分が選び、信じてきたグルや教団の悪い部分は見ないでおきたかったのです。

 しかし、それこそが、グル、真理、自分達の「絶対性」を貫き、狂気の大量ポア計画や教団武装化、数々の殺人に発展していった原因だと思います。集団的洗脳に陥っていたのですが、私を含めた(事件に関与しなかった)信者達に責任がないとは決していえません。このような団体、麻原を作りあげたのは、そのような団体、教祖を望んでいた信者ひとりひとり、ひいては私自身だったのです。
 
 教団の方針は、フリーメイソンの陰謀、警察や国家権力の教団潰し(宗教弾圧)というもので、ネット上にまで、堂々とそのような理論を展開していました。また、内部に配布される機関誌などでも取り上げられ、チラシを配って、広く冤罪を主張していました。

 逮捕前の上祐氏をはじめ、事実と知りつつも、麻原の指示で、罪を認めない活動に従事していた人や、事実を知らず、頭から冤罪と信じていた人とさまざまでしたが、事件に関わった人を含めて事実を知っていた人たちの多くが事実を隠して社会を欺き、何も知らなかった信者達をも騙してきたことは大きな罪だと感じます。

 もっと早く事件を認めていれば、教団として謝罪、賠償などの償いができたと思いますし、今後二度と同じ過ちを犯さないための努力や、世界のテロに影響を与えたといわれる教団の事件が、9・11のような悲惨なテロに影響を与えることもなかったと思います。


●事件の真相を知り変化した思考:しかし信仰の本質は変わらなかった


 最初は事件を冤罪と決めつけていた私は、96年以降もたくさんの供述が出てくるに及んで、教団がまったくの無実であるとはいえない、事件は教団がやったのだと考えざるをえない状況になりました。

 しかし、例えば坂本弁護士一家殺害事件については、あらゆる視点から教団関与を否定し、大々的にチラシで反論したり、教団が犯人ではない、というテレビ放映まであったため、事件関与を事実として捕らえたとき、いったい、教団の主張は何だったのかという大きな疑念にぶちあたりました。

 尊敬していた師、正悟師が殺人を行ったという事実、教団の欺瞞性、教義との整合性、布教の際に冤罪といって人を欺いた罪など、考えても到底答えはでないのでした。

 その頃、教団内で多くの人が信じ、私自身もそう考えるようになったのは、

①麻原には我々が知り得ない深い考えがあった。ステージの下の者が上の者を安易に判断してはいけない。我々(一般の人々も)にはヴァジラヤーナのことは理解できない。

②この世で悪業を積み続けるよりも、麻原によって、高い世界にポア(意識を高い世界に引き上げること)してもらった方が良い。亡くなられた方々は麻原がポアしている。

③ 「縁なき衆生は度しがたし」といわれるように、逆縁(互いに傷付けあう関係)でも縁ができた方が良い。被害にあわれた方々は麻原を憎むかもしれないが、それにより、今生深い縁ができ、来世ではその縁により救済される。来世、麻原の弟子になる人もいる。逆縁を順縁(互いに助け合うなどの良い関係)に変えられるのはヴァジラヤーナのグル(麻原)のみである。

④亡くなった方々、被害にあわれた方々には過去世での業(結果を引き起こす原因)があった。例えば、殺された場合、過去世で人を殺すなどしている。なしたことが返ってくる、因果応報。

⑤麻原が(捕まって)独房にいるのは、過去に一度経験した、完全最終解脱の状態に戻るためで、どの聖者もその過程では、必ず一人にならなければならない。
 ※麻原のメッセージの中には氏が自身の状態(例えば空中浮揚が少しづつ始まっているなど)に言与しているものがあった。

⑥預言の成就。麻原が救世主であり、教団が真理の団体だという証明である。

 といったものでした。

 これらは、麻原や教団を全面肯定する思考で、被害にあわれた方々にとっても、社会的にも到底受け入れられるものではありません。

 人が幸せになるには、対象が受け入れられるように、臨機応変に対応を変えて導くことこそ、慈悲の実践であり、人の気持ちを逆なでするような理論は用いるべきではないと思います。この点はひかりの輪でも厳しく諫めています。
 
  ①については、こう考えることは、教団の中ではグルに対して謙虚になるためとされていましたが、その内実は、こう考えることで、自分でこの重大な問題を精査、検証する必要がなくなり、自分が維持したい信仰を簡単に維持できるため、ある意味で非常に「楽」な行為であって、同時に、自分の信じたグルを絶対化することで、密かに自分を絶対化し、目的のためには手段を選ばないことを肯定する危険な思想です。

  ②のポアについては、ポアを行う資格がある者は、チベット密教などでは、ポア(殺す)しても、神通力で、生き返らせることができる場合のみであるといった教えがあります。これは、すなわち、実質上、ポワをすることを禁止しているとも解釈できる教えですが、麻原には、生き返らせる力などまったくなかったにもかかわらず、そうしてしまったのであり、これは、一般の殺人者と何ら違いはないものです。

 しかも、高い世界にポアされた(=生まれ変わらせた)という事実は証明することはできません。チベット密教では、ポアする条件として、神通力によって、高い世界に転生したことを証明できることという教えがあり、これも、事実上、そういった行為を禁止しているとも解釈できます。

  ③は、このオウムの考え方は、仏教において、「偉大な菩薩を傷つけても、菩薩はその人を憎むことなく、その逆縁を順縁に変えていくことができる。故に、法縁のない者は、菩薩に石を投げろ」といったような教えがあることに基づいた考え方から来ていると思いますが、正当な仏教では、菩薩の方が、一般の人々を傷つけることを想定したものではないと思います。

 そして、この考え方は自分達のグル(と自分達の教団)が、偉大な救世主であるという傲慢に基づいており、そうでなければ、こういった考えは生じないと思います。

 また、こういった輪廻転生と逆縁や順縁といった観念は、当然、当然科学的に証明できるものではないことに加えて、私が思うには、サリン事件のようなあまりにも激しい逆縁(この場合事件で相手を殺したり、深く傷つけた)の形成は、今生で、人と人の間に、強い憎悪、敵対を生み、決して肯定されるものではないと思います。

 ④に関しては、仏教の因果応報の考え方ですが、自分が他人に傷つけられた場合に用いるならば、恨み憎しみを乗り越える良い教えだと思いますが、そうではなく、逆に、自分が人に苦痛を与えた場合に用いることは過ちだと思います。

 なぜならば、苦痛を与えられた側は納得するはずはなく、逆に反発して、仏教の布教どころか、仏教の教えに疑念を持ち、その結果、法則の実践に入ることすらできなくなるという意味で、間違っていると思います。

 それまでにも、人に何か悪いことが起きた時に、「それはあなたのカルマでしょ」という言い方をすることがあり、一般の方々や一部のサマナから強い反発を買っていました。しかし、教団の中では、特にサマナがそういう反応をした時には、「法則が根付いていない」と言われていました。

 ⑤⑥は、独自の妄想的な別の世界の思考にはまりこんでいる状態です。独房に収容されていることを修行が進む環境ととらえています。被害にあわれた方々、遺族の方々の苦しみ、悲しみを思えば、到底受け入れられるものではありません。

 教団の教えの中核である四無量心という実践は、本来、自と他の区別をなくすための一元的実践であるのですが、実際にはたいへん選民的で善悪二元的なものでした。

 これは代表派になってから気づかされたことですが、これ以外にも教団独自の法の解釈が多々あり、それらは、現在、ひかりの輪で教本にまとめて、勉強しなおしています。
 

 私は上記のような、自分達を真理、善とし、社会や一般の方々を悪業多き魂、悪と考えたり、それをなすことによってどれだけ人が苦しむのかを理解できない思考にはまっていました。

 そして、麻原が事件に関与した可能性が大きいと考えるようになった後も、肝心の麻原が自身の事件関与を否定して、「弟子がやった」というスタンスをとっていたため、外部の人に意見を求められると、「まだ裁判は審議中ですから、まだ、完全に有罪とは限らないと思います」と答えたりしました。ですから、本質的には事件を反省せず、信仰のスタイルには変わりがなかったのです。

 このような考え方になったのは、自己の反省であると同時に、集団がなす罪、悪業がどれほど大きいかを痛感しています。


●破防法手続きの進行や麻原の子息の神格化など

 96年になると、破防法手続きが進み、破防法が適用された場合、事実上の教団解散となり、集団居住や上層部の指導体制や維持できなくなります。破防法適用の際は、6人1グループとなり、役割分担しながら生計を立てよ、との麻原からの指示もあり、国の生活補助などは一切受けず、たとえ乞食になっても信仰を貫くのだ、という教えも説かれました。

 また、3月には教団の破産が決定し、教団資産は破産管財人の管理下におかれ、施設等は次々と処分されることになりました。私がいた阿佐ヶ谷道場も退去が決まり、新たな居住地を捜さなければならなくなりました。

 移転地を埼玉県大宮市に定めたのですが、当然、一カ所に大きな施設を借りることはできず、いくつかのマンションに分散居住するしかありませんでした。また、オウム真理教の信者であることがわかると借りられないため、結婚すると偽って大きなマンションを借りたり、契約に反して複数の人が住んだりしたため、すぐに解約しなければならなくなったり、と居住環境は不安定でした。

 また、破防法弁明手続きにおいて、麻原が教祖を降りることを表明したため、麻原の長男、次男を新たな教祖としていくメッセージがありました。そのメッセージには麻原の子息を観想することで、麻原との霊的つながりが維持されるというものでしたので、まだ年端のいかぬ長男、次男を「リンポチェ猊下」と呼んで神格化していきました。

 長男は中国の唐の時代の仙道系の修行を極めた者の転生であり、次男は阿弥陀如来の化身とされたパンチェン・ラマであるということでした。

 しかし、パンチェン・ラマの転生者はすでにチベットで認定されており、実際は、教団の問い合わせに対して、ダライ・ラマ法王サイドからは、次男が転生者であることを否定する回答があったそうです(しかし、多くの信者がこのことを知らされませんでした)。

 また、子息を教祖としてはいましたが、実際には、三女と正悟師が作る長老部が教団運営をしていくことになりました。


●常軌を逸した観念崩壊セミナー:誰もが事件を起こす可能性があった 

 96年夏頃には三女が企画した「観念崩壊セミナー」が行われました。これは、破産手続きや破防法、施設の明け渡し、事件関与があらわになったり、外部で働くサマナの意識が低下したため、たまった業を落とし、帰依を深める目的でした。内容は、人の欠点を皆で指摘したり、最も苦手なことをさせたり、蓮華座という厳しい座法を縛って長時間組ませたり、断食の後で大量の食物を吐くまで食べさせる、吐いたらそれを食べさせる、野外に放置する、水を掛けつづける、警察の前まで行進して歌を歌う、危険な行法を長時間やらせる、などの大変苦痛を伴うものでした。

 中には入院するほどの大けがを負った人や、障害者としての認定を受けるほどの重篤な状態になった人、死にかけた人もおり、ショックで、セミナー中に還俗してしまう人もいたほどでした。また、私の友達だったサマナは、複数人から自己の欠点を指摘され続けたため、強い恨みを抱きつつ還俗し、いまでもずっと恨み続けています。

 三女の、恐怖を与える強硬なやり方や入院や障害者になるほどの過激な修行を無理矢理やらせたこと、また、それに反対する者も表だっていなかったこと、幸い死者はでなかったものの、一歩間違うと死人が出たり、リンチともとらえられるようなやり方を誰も阻止しなかったことなどは、事件の背景になった思想そのものだと思います。

 三女は麻原から、幼い頃から自身の後継者と名指しされ、前生から高いステージにあり、わずか5才にして大乗のヨーガという誰も到達していないステージに到達したとされたため、信者からは特別視されていました。麻原の次の救世主と予言されたため、(一般のサマナの中には)誰も彼女に逆らう人はいなかったように思います。

 しかし、責任は三女にだけあるとはいえず、このような過激な修行を三女と共に他に強要したり、人を傷つけたり、危ない修行を止めなかった者達は、誰もが事件を起こす可能性があったということになります。

 また、97年に入って、破防法が棄却になったのは、観念崩壊セミナーで、サマナの悪いカルマ(業)が落ちたからだといわれましたが、数々の事故、還俗者が出たセミナーを反省せず、肯定しているところは、事件を起こした教団の本質には、なんら変わりなかったということだと思います。

 その後、三女や指導の手伝いをした師は皆、調子を崩し(悪しきカルマを受けた)、当の三女は自殺未遂を繰り返すようになったと聞きました。
 


●97年~99年:支部への移動と低迷する支部活動

 97年1月、破防法が棄却されると、逼迫した状況がゆるんで、春には信徒対象の大規模な丹沢セミナーが行われたりしました。このセミナーにはいくつかのコースがあり、中でも一番激しかったのは、断続的に一日中、立位礼拝を繰り返すコースで、帰依の対象は麻原でした。

 麻原のエネルギーが込められたお供物や甘露水なども提供されました。また、施設を貸し切ってのセミナーだったため、マスコミ報道もなされ、依然として麻原への帰依の修行をしていると報道されました。

 夏には突然、大阪支部への異動が決まり、93年秋以降離れていた支部活動に従事することになりました。事件後、かなりの信徒さんが辞めてしまったと聞いていましたが、事実、日々の来道者も少なく、赴任して初めての土曜日勉強会の参加者が4,5人だったのには大変驚きました。

 東京に次ぐ大支部である大阪の落ち込みは予想以上でした。事件の影響であることは一目瞭然でしたので、この落ち込みを何とか盛り返すため、熱心な話し込みや電話掛け、出張勉強会など行っていきました。

 このような低迷の中でも、事件後、入信した信徒さんも数人見受けられました。彼らは現役信徒さんと親しく、事件等の疑問にも懇切丁寧に対応して理解を深めていたり、信徒さんが主催する小さなヨガ教室から導かれた人たちが多かったのです。

 しかし、基本的には麻原崇拝に導くわけですから、いろいろな心理的手法や、陰謀説などを使って徐々に思考を慣らし、人間関係を作ってからオウムであることを明かすことが多かったようです。

 98年には、一部の正悟師が、1999年までに大破局(天災など)が起こるというノストラダムスの予言に基づき、沖縄や九州が沈没する、などとして、それを聞いた信徒が本州に移住してきたということもあったそうです。
 
 また、大規模災害に備えてシェルターを持つ構想や、備蓄品を買い貯めるなども行われるようになりました。私自身も支部の勉強会で、サバイバル対策をとりあげたり、実際に信徒さんをキャンプ地に連れて行き、サバイバル訓練を行ったりもしました。サマナも災害時に備えた避難訓練の一環として、重いリュックを背負い、1日50キロを歩く訓練や野外テントの野宿まで行われました。

 年末、サマナには75Lのリュックに詰められたサバイバル品が配布されました。また、備蓄食糧として、大量の食物も配られました。中にはタイ米の買い占めなどもあり、これがタイ米原産国であるアジアの途上国の食糧事情を圧迫した、と後に聞きました。自分たちが助かるために、自分たちよりも貧しい国々の食料を搾取する行為になったとは、大変心が痛むことです。

 実際に99年以降、大災害は起こらず、2000年をこえてから、古くなる備蓄食をすこしずつ消費するようになりました。中では、傷んだ食品を食べた結果、腸の繊毛がまったくなくなってしまったサマナまで出ました。それは、仏教の教義によれば、(教団の)貪りのカルマの結果ということになります。また、これらサバイバル品の調達に要したお金はどれほどのものだったでしょうか。

 年末から99年はじめのセミナーは「ノアの方舟セミナー」と名付けられ、旧約聖書のノアの洪水伝説で、ノアと選ばれた種族だけが生き残ったというものをもじったものでした。それはまさに自分達が神に選ばれた魂で、悪業をなす魂は滅びに至るという選民思想そのものだったのです。


●麻原の公判の傍聴や心を安定させる東京拘置所めぐり

 麻原が97年に東京拘置所に移ってから、「拘置所の周りを回ると心が安定するだろう」という氏のメッセージに従って、多くのサマナが拘置所の周りと時計回りに回る(仏教で仏塔の周りを回る儀礼になぞらえて)巡礼を行ったため、その行為も麻原への帰依を強めるとして、危険視されました。

 また、麻原の公判の傍聴は皆に当たるようにと、順番で行くことになりました。私は2回入りましたが、以前よりずっと痩せて髪も短く(頭頂が少しはげ始めていた)、ジャージ姿の元教祖は、怯えているようにも見え、付き添いの警備員に早く歩けと押され、まるで子供のようによちよちと歩き、公判中に何度も居眠りをしてつつかれたり、と以前の面影はなっており、大変驚きました。

 しかし、自分の中では、変わり果てた教祖を認めたくないため、何とか整合性をみつけようとして、そのような教祖の状態を「修行が進み、意識は別の世界にあるのだ」と考えるようにしていました。
 
 傍聴の際、私には特別な体験などはありませんでしたが、サマナの中には、心の中で「こちらを向いて手を振ってください」と強く念じたら、すぐに自分を見て手を振ってくれた(やはり麻原の神通はすごい)、とか、大変エネルギーの上昇を感じた、などの感想もありました。

 しかし、特に何も感じなかった人もいるわけですから、これらは思い込みの結果ではないかとも思われます。それらが麻原の神通なのかは証明することはできません。そして、サマナの多くは麻原崇拝を続けていましたので、今生の別れかもしれない傍聴に多大な期待をしていた結果かもしれません(なにか起きるに違いないとの期待)。

 また、97年頃から麻原の不規則発言が始まりましたが、中には英語だったり「第三次世界大戦は既に起こった」「自分はエンタープライズの上にいる」などの意味不明のことが多かったのでした。

 第三次世界大戦は2003年に起こるという麻原の予言もありましたので、未来にトリップしてヴィジョンを見ているのかとも考えましたが、結果的に2003年に第三次世界大戦は起きず、予言は外れました。
 

●1999年:①ダミーサークルと疑われた新たな導き活動:次世代の獲得と問題点

 99年初頭、私は大阪支部の活動から、京都での新しい導き活動に参加し、大学生をターゲットにしたサークル導きを開始したのです。大学生といって年齢を偽り、学内でのサークル活動を実際に行いました。

 私たち師は、サークル活動に直接たずさわらないのですが、サークルを作っているサマナたちが、来た大学生と友達になり、ヨーガなどに興味を示した段階で、「良い先生がいるから会ってみないか」といって師に会わせます。気にいれば、ヨーガを定期的に教え、信頼関係と相手の興味を見ながら、オウムの修行であることを打ち明ける、という方法でした。

 また、導きの重要な下準備として、明かした時のオウムに対する悪いイメージを少なくするために、陰謀論やこの世の中が情報操作に満ちていることをあらかじめ説いておき、いざ明かした時にも、報道されているのは歪曲された情報で、真実はこうだ、と納得させるのです。

 99年2月から始めた導きは4月の入学時からサークル勧誘時期に、たくさんの人を集め、その中から良いと思われる人を選別したのですが、それが、マスコミの目にとまり、私たちのあるグループが、ダミーサークルによる導きだとして、広報部に問い合わせが来たのです。教団としての活動ではなかったため、団体としては否定しましたが、外部から見れば、欺瞞性を感じさせ、嫌悪感、反発を買うのは必至だったと思います。

 この下地は、98年から始まった全国の道場での「信徒10万人計画」で、99年以降の破局に向けて、また、資金確保の側面からも、多くの信徒を獲得する必要があったのです。しかし10万人というのは、あまりにも現実味がない計画でした。

 しかし、教団の生き残りのためにも、求道心、宗教心のある次世代の優秀な若者がどうしても必要だったのです。また若いということは事件発生当時、中学生頃の年頃で、事件を詳しく知らないため、素直で導き易いという一面もありました。
 
 この若い世代の獲得は、ヒトラーが行ったといわれる、精神的、肉体的に恵まれた、若い超エリート集団の構想に似ています。事実、麻原が紐解いた予言には、クンダリニー(背骨に沿って上る熱エネルギー、覚醒しないと成就はない)が覚醒し進化した人類があらわれ、彼らが次世代を担うというものがありました。

 その一端は、信徒さんの子供など、幼い修行者たちで、修行らしい修行をしなくても、教団でクンダリニーの覚醒と呼ばれる現象が起こったとか、霊眼によって普通は見えないものを透視したりすることができた、といった現象にあらわれていたように感じました。

 とはいえ、こういった霊的な現象に関する事実は、思い込みや過大視がつきもので、彼らは多いに期待されたわけですが、いま現在は、それらの子供達は教団をやめており、ヒトラーに似た麻原の構想も、いつしか消え去ってしまったのと同じです。

 また、教団の一部の者たちの傾向として、アニメなどの理想の世界に夢を追い求めることが好きだったのではないかとも感じます。麻原が作った曲に「救えオウム、ヤマトのように」がありますが、これはまさに、「宇宙戦艦ヤマト」をもじったものでしたし、ある正悟師が作った曲にも、アニメの盗作ではないかと思うほどよく似たものがありました。

 
●1999年9月:当たらなかったノストラダムスの大予言:選民思想の過ち

 あの有名なノストラダムス1999年、大破局の予言は、9月2,3日であると特定して、カウントダウンするまでに過熱していきました。正悟師が INS放送を通じて大々的に全国の信徒さんに呼びかけるまでになり、先に書いたように信徒さんを移住させたり、破局が来て、世界の金融は大混乱に陥り、借金もちゃらになるからといって、信徒さんにできるだけの借金をさせて、それを布施させたりしました。中には持ち家を売って全財産を布施した信徒さんまでいたということです。

 私の導き活動でも、この人はという人には、予言の話をして、わざわざ9月2日、3日にかけて安全な場所でセミナーを開いて、事実上の避難をさせたのです。予言の話には学生さんたちも神妙になり、普段は否定的な人まで、参加したのですが、両日を含めて、その前後にも、どこにも何も起こらなかったのです。この両日は私自身、いつ起こるのだろうかという不安と、起きて欲しいという、予言の成就を期待する気持ちもありました。

 しかし、自分は安全なところに避難して被害を避け、一部の助けたい人(自分を含めて)だけを助けるのは、慈悲に反するという心のやましさもありました。「自分だけ助かれば良いのか」という思いもあり、予言が外れた時、「起こらなくて良かった」というある種の安堵感があったことも事実です。もし、どこかで大災害が起こりたくさんの人が死に、自分達は無事だったとしたら、助かって良かったという気持ちどころか、後悔してもしきれない罪の意識が生じたと思います。

 麻原の家族が入るシェルターを作る計画があったということをずっと後で聞きましたが、「麻原の家族だけが助かれば良いのか」という同じ思いがわいたのを覚えています。この避難活動もシェルターも、かつての石垣セミナーで、選ばれた魂だけを避難させたのとまったく同じではないでしょうか。

 その後、石垣セミナーの真の目的を教えられた時、当時不活発信徒だった(選ばれなかった)私は、殺されても良い人の一人だったのだということになり、導く側と導かれる側の主従が逆転したとき、切り捨てられる人、殺される運命の人にとっては、麻原の説く選民思想は絶対に受け入れられるものではないと強く感じました。
 
 その後、集められた学生たちの中には、なにも起こらなかったことに落胆し、やめていった人もおり、逆に法則から遠ざける結果となり大変残念でした。なにも起きなかったという言い訳として、性懲りもなく「アストラル(現象に影響を与えるとされる世界)と現象界には時間のずれがある。まだ、成就していない予言もある。今後起きる現象が9月のそれだとはだれも断定しにくい」などと説明していました。

 大破局など、社会に大きな影響を与える予言を公表することは、大きな責任があります。過去に「富士山が○月○日大爆発する」といって外れてしまった予言者がいましたが、そういう場合、謝罪とその後の活動の自粛や、予言者としては事実上、失脚するのですが、オウムの場合、失敗を認めず、言い訳でかわしてしまいます。私もそうでした。しかし、このような責任をとれない妄想的思想で人々を煽動するのは大変危険で、やってはならないことだと強く反省しています。


●休眠宣言と導きの解散とその後の独立した経済活動

 施設確保などの教団活動が98年から活発化し、それにともない、全国的な反対運動が盛んになって来たため、国がオウム新法の検討に向けて動き出しました。このような状況や、予言が外れたことで、一端教団活動を停止して、今後の方針を検討することになり、9月末に休眠宣言を発表しました。

 12月に入ると、教団は、事件の関与を認めて謝罪し、被害者の方々への賠償を進めていく見解を発表しました。しかし、一部信者の関与は認めたものの、麻原の事件関与は認めておらず、テレビ出演した村岡代表代行ら上層部は、厳しい批判を受けました。教団内の多くのサマナは、麻原が事件関与を認めていないのだから、事件を認めるべきではない、とか、冤罪であると信じるサマナも多かったので、上層部も含めて、団体としては、まだまだ真摯な謝罪には到底及ばなかったと言えます。

 団体としては休眠し、活動を停止しましたが、私たちの活動は、突然やめてしまえる類の活動ではないため、私を含め少数のサマナがそのまま活動し、活動を停止しても差し支えないサマナは支部に戻って、修行中心の生活になりました。

 私たちは、それまでに、ある程度、導き対象を絞り切っていましたので、10月以降は少数の濃密な対応にし、また、新たに、教団からは資金的援助を受けなくても自活できる体制をいち早く整えることになりました。

 これは、新法や観察処分などの教団活動にマイナスになる要因が浮上していたためと、教団の苦しい財政に鑑み、まず経済的独立を達成しようというものでした。数人のサマナとホームページを作成する会社を立ち上げ、一般に宣伝して仕事を取ることにしましたが、初めてで慣れない分野でしたので、大変苦心しました。

 そんな中、12月29日、上祐氏が刑期を終えて出所し、教団に復帰しましたが、その2日前の27日、オウム新法が施行されました。これは上祐氏が復帰することで、活動が過激化することを見越した対策でしたが、上祐氏の活動は、それとは裏腹に、事件を認め賠償を進め、麻原の絶対化、教団の過ちを正していこうとするものでした。


●2000年~

 1月には教団に対し、初の観察処分適用が決定されました。2月には団体名を「宗教団体 アーレフ」と改め、上祐氏が主導する教団改革がはじまりました。

 年が明けてほどなく、私の属した二宮氏のグループは、教団から脱会して、ゆくゆくは、三女が主催する麻原をグルとしない団体「アー」の支援をするか、との話がありました(といっても、オウム真理教の教えにおいて、麻原をその三女の置き換えただけで、教えは変わらない団体なのですが)。

 そのため、あわや脱会かと沸き立ったのですが、その話はなくなり、教団のお手伝いをしていくことになりました。

 学生の教化活動が縮小したため、私は、会社をサマナに任せる形で、人手の足りない支部の手伝いに回ったりもしました。教化活動では、特定の学生を定期的に修行に呼び、行法や勉強会などを開きました。

 アーレフで教えている高度な行法や信徒と変わりない教学をさせて、私たちが彼らを囲う形での活動、教化になりました。また、彼らは現役の大学生だったため、サマナが作ったサークルを引き継いでもらいました。

 こうして、私の教室では、アーレフと同じく、麻原の素晴らしさや法則の実践、持戒の実践などを説き、オウム的な信仰に徐々に染めて行ったのです。事件という否定的な要素よりは、法則の素晴さを説き、教学はよく行いました。

 彼らは事件当時、中学生だったため、あまり事件を知らず、否定的なのは、親などからオウムに入らないように言われていたり、ワイドショーなどの影響が大きく、彼ら自身は、修行で得られる超人的な力や本に書かれている麻原自身の修行経験などに興味を示したり、仏教の教えなどに純粋に惹かれているようでした。

 教学で使っていたのはアーレフで使用していた教本でしたので、麻原の説法そのものでした。こうして、その当時、依然としてさまざまな意味で未熟であった私は、事件やヴァジラヤーナ的な教えを外せば、仏教の法則は、皆が幸せになる教えであると考え、オウムの教義や麻原を崇拝する教えを説き続けていました。


●2001年:新たに一般対象のヨーガ教室を開くがあっけなく終わる

 2001年になると、学生の教化は続けながら、サマナと二人で京都三条に一般対象のヨーガ教室を開きました。最初は宣伝することもなく、学生が連れてくる友達や、一般の導きをしているサマナからの紹介者を対象にしていましたが、オープンから2ヶ月ほど経って、突然、強制捜査が入ってしまいました。

 開店当時、外部からの収入がほとんどなかった私は、知り合いに物件の名義人になってもらったのですが、その人が、不正に失業保険をもらった容疑で逮捕されたためだったのです。そこで即刻解約し、最初のヨーガ教室はあっけなく幕を閉じました。



●二つ目のヨーガ教室立ち上げ:;麻原崇拝を保ちながら、麻原・オウムを隠した教室の運営をする

 落ち込む暇もなく、次のヨーガ教室の物件を探し、その際は、私の名義と知り合いの援助で、とんとん拍子に契約が決まり、以前の教室から少し離れたところに、広くて美しい空間を借りることができました。

 私のヨーガ教室は、私と縁のあった大学生の口コミや一般チラシや地方紙などに宣伝を出して人を集めるため、支部の信徒さんが人を連れてくるヨーガ教室とは異なるものでした。

 第一の特徴は、(その頃までにすでに教団からの資金援助を打ち切られていたため)、すべての経費を自分たちでまかなう完全自活型でした。

 第二に、アーレフの道場には導かないという方針を貫くこと。教室には、麻原やアーレフの姿形は一切なく、用語や教え方もひと工夫しました。

 しかし、教えの内容は、本質的に麻原やアーレフのものと違いがありませんでした。その点で、度重なる会議や総括作業を通して、麻原を根底から相対化・否定し、教義の内実もオウム・アーレフのものとは大きく違っている現在のひかりの輪とは、まったく違ったものでした。
 
 サマナのスタッフも3人に増え、チラシまきやおしゃれなミニコミ誌に広告を載せたりするうち、徐々に人が集まり始めました。

 こうして、私の教室では、麻原やオウムの姿形はなくして、ヨーガや仏教の教えを広めました。また、二宮氏の方針で、麻原・アーレフを表に出さない形の団体を大きくしていくことになりました。

 まずは会員を1000人集めて、そのうちに私が選挙にでも出て議員に当選し、徐々にシンパを集め力を蓄えていけば、影響力がつき、なにかができるようになる、と二宮氏から言われたりもしました。

 そのときは、彼の誇大妄想的な考えに笑ってしまいましたが、よくよく考えてみますと、オウム真理教でも、麻原以下複数の弟子たちが奇抜なパフォーマンスで選挙に打って出たことと同じではないかと気づきました。

 会員に教える内容は言い回しを変えてはいましたが、オウムで教えていた仏教思想がベースであり、これは麻原独自の法の解釈が含まれており、麻原を崇拝対象としては外しても、その内実はオウムの教義・思想だったのです。私もスタッフのサマナも、麻原への信仰は保ちながらこれらの活動をしなければならないと考えていたからです。

こういった点でも、その教室の内容は、現在のひかりの輪とは、まったく違った性質のものでした。
 
 また、私たちは、麻原自身にも、以前、教義はオウムと変わらないものの、その名前や用語を変えた別の団体を作るという構想があったと聞きました。ですから、こういった別団体も、グルの意思である、と聞いたことがありました。これは、アーレフ代表派の時代にも、一部の信者によって、一時的にいわれていたことです。

 なぜ、こういった話が出てくるかというと、当時の麻原から自立をしていない未熟な私たちにとっては、そうでなければ、グルの意思を外すという大悪業を犯すことになり、個人的に判断できるレベルではない、という恐怖があったからです。ですから、二宮氏も三女の指示を仰いでいたようです。

 この恐怖は、麻原への依存から来ていますが、オウム・アーレフを脱会して、ひかりの輪として独立するまでは、それが続いていきました(ひかりの輪のメンバーがどのように依存から脱却していったのかについては後で述べることにします)。

 さて、このようにして、始まった教室でしたが、事件の影響で、ヨガ=オウムという一般観念が植えついており、訪ねて来る人の中からは、時々「ここ、オウムじゃないですよね」と聞かれました。

 「違います」と答えていましたが(オウムとして運営しているわけではないので)、スタッフの中には、嘘をついていると悩んでしまった人もいました。

 オウムではないと安心できると、やっと心がほどけてきて、悩みを打ち明けたりするのですが、親身に相談に乗るうちに、口コミなどで人が集まってくるようになり、少しづづ会員は増えていきました。中には熱心に通って、チラシを手配りしたり、イラストをかいてくれたりというお手伝いをしてくれる会員も増えてきました。


●マスコミ潜入による教室閉鎖(2003年)と運営の限界

 東洋思想講座など精神面も重視する教室でしたので、求道心、宗教心がある人たちが集まってくるようになりました。しかし、私の一抹の不安は先ゆきが見えないことでした。オウムを伏線にした教化をしていましたが、アーレフとの格差をつけるため、高度な行法や思想は教えてならないとの指示があったため、行法はごく基本的なものに限られていました。

 そうなりますと、長年のうちには、新しい行法などを打ち出さない限り、会員さんも飽きてしまい、離れていってしまうかもしれません。アーレフと区別するため、一般的に教えられている瞑想やマントラをアレンジして伝授したり、チャクラ開発コースなども打ち出してバラエティーをつけましたが、一定の教化をした後は、どのように高度な実践に導くのか。

 自分の中ではこのとき、2年で頭打ちになるだろうという予想がありました(この予想は的中してしまい、マスコミ事件によりちょうど2年で教室を閉めることになってしまいましたが)。

 長期的展望は明確ではないが、短期的にはひとまず順調というところで、マスコミの潜入取材がありました。体験コースを申し込み、スタッフに事件を肯定するような発言を誘導する質問をして、そのやりとりを隠し撮られ、テレビ放映されたのです。また、マイクを持った記者が会員に、私の教室がオウムであるのを知っているか、などの質問を浴びせました。

 なにも知らない会員たちは驚いて、仲間の会員に次々と知らせたため、一時は大騒ぎになり、スタッフはその弁明をしなければならなくなりました。「オウムだったのか」「教室での収益をアーレフに流しているのか」という質問に事実を答えるしかありませんでしたが、あくまでも信仰は自分個人のもので、私たちは会員をオウムに導くつもりはないこと、お金は一切アーレフには流していないことなどを説明しました。
 
 信頼関係があり、スタッフを頼るようにして通ってきていた会員も多くいたのですが、「先生たちは好きだが、オウムに入っていること(=麻原を信仰していること)は受け入れられない」といって泣く泣くやめていった人たちもいました。この機に3分の1ほどの人はやめていったと思います。

 この事件をきっかけに、教室に傷がつきイメージが悪くなったという理由で、ほどなく、断腸の思いで教室をたたむことになりました。一つの教室をたたんだ後、新たに教室を運営する場合、名前から、やりかた、コンセプトまですべて一新してはじめますから、かなり大変なのですが、過去2回とも、オウム関係の原因でつぶれたため、このような教室はもうやりたくない、という気持ちがありました。
 
 団体に属している場合、公安調査庁に、名簿や住居、事業所の報告義務があり、定期的な立ち入り調査もあって、まわりから見たら、教団活動の一環としか見えないためです。

 ひかりの輪が立ち上がった折には、団体幹部などが行う一般を対象としたヨーガ教室などは、こうした不透明さと誤解を生じさせる可能性があったため、自粛するという規定がなされました。まわりから疑われるような活動形態を自粛することは、社会へ安心を施すためにも大変重要なことだと感じます。


●2003年3月に行われた上祐氏の教団改革とその後の頓挫


 2002年、上祐氏が教団の代表として正大師に復帰すると、改革は進んでいきました。しかし、以下のように、表面的な部分もあり、真摯な反省にまでにはいたっていませんでした。

① 麻原の扱い方:それまでの信仰はリンポチェ猊下体制下では表向き麻原の写真を掲げることを避けましたが、個人的に写真を持つことや教材を保持し、マントラなどのテープを使い、瞑想での観想は許されていました。また、麻原を教典の解釈者として崇拝対象からは外していましたが、裏では、ほとんどのサマナは麻原への強い信仰を保ち続けるという、裏表ある実践でした。 

② 事件を認め謝罪賠償を進める:2000年から謝罪、賠償を進める方針でしたが、麻原の事件関与は否定していたり、まったくの冤罪であると信じ続けているサマナも存在しました。これは教団の指導者が事件について明確に否定せず、事実を知らせなかったり、教団の刊行物以外読まない指導がなされていたため、また、本人が麻原の関与を認めたくない心から、指導があっても、聞かないようにしていたなどの理由が考えられます。また、心からの謝罪や積極的な賠償はできないが、社会にある程度融和していかないと、今後の布教が広がらないなどの、打算的な意識が一部にあったように感じられました。

 信者全体の意識をまとめるため、3月にすべてのサマナや主だった信徒さんたちを一堂に集めて、話し合う機会を設けました。その際、何人かの人から、教団の事件関与が事実かどうかの質問がでて、上祐氏が認めるということがありました。また、小グループになり、今後、麻原を全面にだす布教の是非について話しあわれ、麻原を全面に出した布教は受け入れ難いため、慈愛の実践として麻原色を出さない方針でいこう、というおおかたの合意が得られました。

 中でもとても印象的だったのは、事件から8年が経過しているにも関わらず、教団は事件に関与していないと信じ続けていたサマナがいたことでした。それまで、濃密さには欠けた部分もあったかもしれませんが、何度か部署ごとに集まって、事件でそのようなことが起こったかを学習させる勉強会があったのは事実なのです。

 私は彼女を本当にかわいそうだと思いました。しかし、事件当初の私も彼女のように、冤罪と固く信じて、疑わなかったのですから、同じだったのです。自分にとって理想の麻原、善である教団を壊したくなかったために、勉強会があったとしても、まったく受け付けなかったのだと思います。

 この、①自分達は真理を実践している善であり、肯定され、社会一般は悪業多き汚れた魂であるという善悪二元的思考や、②仏教や密教の教えを曲解した教団独自の解釈、 ③それにより、麻原はなにをやっても許されるステージ、という思想は信者に共通した要素でもありました。

 この会合では、正悟師たちを含め、麻原色を薄めていくという方針でほぼ満場一致したのですが、一部のサマナたちには反発があったようです。私自身は、ヨーガ教室などの導きに限界を感じていましたので、教団がそのような方向にいくことには大賛成でした。

 しかし、世間や公安調査庁からは、「麻原隠し」として批判されました。その一方で、後に反上祐派からは、「グル外し」として厳しく糾弾されるようになりました。

 しかし、麻原の家族を中心として、麻原への信仰が強い者たちが、麻原を外していく上祐氏の改革に強く反対するようになり、6月下旬、上祐氏は突然、長期修行入りという形を取った事実上の幽閉、失脚となってしまいました。

 それほどまでに、家族、特に妻と三女らの権力は強かったのです。私は、突然、二宮氏に呼び出され「マイトレーヤ正大師が大魔境です」と告げられ、一瞬言葉を失うほど驚きました。それまで、「上祐教でいいんだ」といっていたほどの改革派で、上祐氏のパートナーとして、麻原色をなくした導きを推奨してきた二宮氏の発言とはとうてい思えませんでした。


●魔境と言われ修行入り:家族の指示で信徒の信頼を失い、上層部を信じられなくなった大きなできごと

 その頃、他の師たちは三女に呼び出されて、知子夫人や複数の正悟師たちから、上祐氏が魔境である旨をこんこんと諭されたということでしたが、私は三女から一度だけ電話があり「グルとの縁を相当に傷つけている。懺悔した方がよい」と言われました。

 上祐氏はその後10月頃までは月に一度の支部説法会には出てきていましたが、そのほかは一切の連絡を絶たれ、パソコンも携帯電話も取り上げられ、警備と称しての監視が続けられたということでした。

 私は上祐氏に傾倒していて同じく魔境とされ、9月頃から京都道場での修行を命じられました。それまで担当していた経理やお金、携帯電話も部署のサマナの管理となり(私が上祐氏と連絡をとらないよう)、私の動向は監視されているのがわかりました。

 24時間なにをしたかの報告を、毎日二宮氏にファクスで送らなければならなかったのですが、なかなか心が向かず修行できないでいると、「なんで修行できないんだ」と怒られたり、抜き打ちで視察されることもあり、ますますやる気をなくしていきました。

 また、10月には正悟師と師が集まり、上祐氏への完全修行入りを促す決定がなされましたが、会議の進行自体が、正悟師全員と家族側の師で、あらかじめ発言を申し合わせた意図的なものだったのそうです。

 また、その会議は反対意見を言える雰囲気ではなく、元チッタカ正悟師の信徒との破戒行為も、上祐氏の対応が遅かったためとして、徹底して批判されました。しかし、そのような事実を知らなかった師も多く、コントロールされた一方的な会議で決着されました。

 これには、私も含め、納得できない師は何人もいたのですが、師の中でも完全に上祐派と見なされた師には、批判と湾曲した事実の公然の流布がなされ、名誉を傷つけられた師も少なからずいました。

 また、修行入りから一ヶ月ほどして、突然、信徒伝授用のプルシャ製品を作成することになり、約一ヶ月半、400個以上の製品をひたすら作り続けることになりました。12月になり、セミナーで伝授されるそれらのストーゥパ(仏塔型の置物)がほぼできあがった頃、突然の指示変更があったのです。そのストゥーパの形がおかしいので伝授できないということでした。

 しかし、作成前には十分な確認をしていたはずでした。この指示は二宮氏を通さず、師を通して来たために、二宮氏も激怒し、今後一切のプルシャ作成から(私を含めたチーム全体)撤退すると宣言しました。

 それは、村岡氏が知子夫人に上げたためだったことが後々わかりました。しかし、すでに、信徒さんには告知しており、注文も入っていました。私は到底納得できませんでしたが、300個以上のストゥーパを壊し破棄していきました。昼夜を問わず細かい作業をしてやっと作り上げたものを壊す時の気持ちは行き場のないものでした。

 作業から撤退したものの、ストゥーパを造る技術は教団の誰も持ち合わせていなかったため、困った村岡氏は私たちにもう一度作り直すように要請してきましたが、二宮氏と村岡氏の関係は、すでに険悪な状況になっていおり実現しませんでした。しかし、再々の懇願で、私たちはしぶしぶ、再びストゥーパを作成することになりました。

 私のチームのサマナはこの件で還俗しようとするほど揺れて、本当にたいへんな精神状態だったのを、説得して無理やり作業させたのでした。

 信徒さんに約束した期限はとっくに過ぎ、サマナの揺れで作業が思うに任せず、結局12月伝授は翌2004年5月までずれこみました。

 現場をわかっていない上長が無謀な指示を出すことがあったということは聞いたことがありましたが、この件も信徒さんとの約束がいかに重要かがわかっていないと思われた、知子夫人や村岡氏の勝手な判断だと思いこみ、私は怒りを持ち続けていました。

 直接、知子夫人にいきさつを聞いて、自分の意見を聞いて欲しかったのですが、家族と連絡を取る手段などありませんし、(すでに疑念を持ち始め、怒っている信徒さんもいたため)村岡氏に、せめて信徒に事情説明と謝罪をして欲しいと頼んだのですが、私が対応できないかと言われました。
これには、上は責任をとらないのかという思いが生じ、私の家族側の正悟師や家族に対する不信感は決定的なものとなりました。

 ワークをするようになって、上祐氏の修行入りの真の理由も耳に入るようになりました。家族にとって、麻原は絶対の存在で、麻原をその位置づけから外すことは許されないことでした。被害者やそのご遺族のことは念頭になく、自分たちの信仰を守ることが大切で、事件の反省もなかったことになります。

 上祐氏がいかにおかしかったかの理由づけは、事実と大きく湾曲され、ねじ曲げられていました。荒木氏が主催した「おはなし会」はそのような嘘を堂々と吹聴していました。

 密教の教典では、法友、特に上の者への批判は、地獄へ直結する大悪業であるとして厳しく諫められ、サマナもよく知っている事実なのですが、それに反する行為が肯定されていました。私は批判自体が法則に反している上、当の上祐氏や不信を持つサマナに本人への事実確認をさせず、一方的になされる行為に強い違和感を覚えました。

 なぜ師補(第一番目のヨーガの成就者)である荒木氏が自身よりはるかに高い成就をなした正大師を批判できるのかは、家族の指示だったからでした。二宮氏と家族の話し合いでは、上祐氏排除のために、過激なやり方も話題に出たと聞きました。

 そして、上祐氏排斥は「グルの意思」だとまで言われました。これらの強制的なやりかたは、教団上層部の本質が変わっていないと感じさせました。家族は形式上は脱会してはいましたが、教団の意思決定には大いに関わっていたことは、サマナなら誰でも知っていることでした。


●2004年 京都からの事実上の撤退、東京道場の手伝いと上祐氏が動き始めたことによる警戒

 ストゥーパの件が終わり、その後も修行を続けることになった私は、沖縄支部での修行を勧められましたが、沖縄行きというのは事実上の「左遷・島流し扱い」だったのです。二宮氏に反発した私は、東京道場の手伝いをするしか選択肢がなかったため(もう二度と京都には戻れないとわかっていましたので)、ヨーガ教室の運営はサマナに全面委譲し京都を後にしました。

 心身のバランスを崩していた私は、療養兼手伝いという名目で西荻窪の道場の一室に入りました。上祐派の師も近くにいたため、家族や正悟師たちの実態、反上祐派の動向などを知ることも多くなりました。

 そんな折、11月になって、烏山本部で師の会合の後、数人の師が上祐氏の居室に呼ばれ、直接話を聞く機会がありました。これは家族の許可を得ない勝手な行動に、蜂の巣をつつくようなおおごとになってしまいました。

 上祐氏は教団の様子を見て、そろそろ修行から出ないといけないと判断したと言われ、上祐派の師はますます警戒されるようになりました。

 私は、二宮氏の指示で、11月で京都の住居を解約し、サンサンマンションの一室を与えられました。また、上祐氏が完全修行入りした後は、二宮氏ら家族側だった正悟師の中にも、家族の方針について行けない人がではじめ、二宮氏と杉浦茂氏が、上祐氏に修行から出て教団をまとめて欲しい旨を要請にいったということでした。

 杉浦実氏は中間的スタイルをとって、私の相談にのってくれたりしていましたが、12月初め突然、長期修行に籠もってしまいました。彼も家族との狭間で悩んだあげくのことだったそうです。


●2005年  上祐派の活動開始;反上祐派との激しい争い

 2005年になると、謝罪賠償を進め、麻原信仰の間違いを正していこうとする上祐氏を支持するサマナが集まって、真実をつたえるべく集会を繰り返したり、上祐氏の活動を手伝ったりしていきました。

 二宮氏は、上祐氏に修行からでることを要請したということで、上祐氏の活動も活性化すると思われたのですが、彼はほどなくしてそれを撤回し、再び家族側につくことになり、私は事実上、二宮氏の元を離れ、上祐氏の活動に参加するようになりました。

 5月には上祐氏らが長野県戸隠山で修行をしたことを、外道に帰依する魔境の仕業と、サマナ、信徒さんに宣伝し、師の会合の席上、その件で、上祐派の師がつるし上げにされていた際、部屋から降りてきた上祐氏に二宮氏が罵倒を浴びせ口論になるということがありました。

 この頃から、信徒さんにも上祐氏の行為は「グル外し」の魔境であるから、話すことも禁止という異常な指示がだされるまでになり、信徒さんも派閥争いに巻き込まれることになっていきました。

 この後も上祐派と反上祐派間のさまざまなできごとがありましたが、宗教観の違いから話あいすらできず、平行線をたどりました。
 
 また、上祐派はM派、代表派とも呼ばれるようになり、外会場を借りて、事件の真実を正しく伝え、間違いを正していく勉強会などを繰り返すことで、理解者もすこしずつ増えていきました。


●2006年

 3月には、反代表派の筆頭だった村岡氏が含めた数人の正悟師が、反代表派から離脱し、中間派に転身。これにより、反代表派の正悟師は二宮氏のみとなりました。

 この頃から、反代表派のサマナが、代表派とは一緒に住みたくないとの意向をうけて、両派は経済問題と住み分けを話し合うことなり、6月一杯で、代表派の独立経済と住み分けを完了する合意がなされました。

 7月からは代表派はGSハイムに移住し、サンサンマンションには反代表派と中間派のサマナが居住することになりました。また、この頃、反代表派が松本家に資金援助を行ったり、相変わらず影響力を有しているとして、松本家周辺の元サマナの金銭関係の容疑で強制捜査に入りました。報道では、贅沢な生活をしていると非難されました。

 8月には麻原の四女が家出をし、江川紹子氏を後見人にする発表がなされた。この時点で、松本家内の家庭不和と三女の支配など、松本家の実態を四女が暴露するようになり、松本家が教団と関係があるのを隠している、などと発表し、少なからぬ衝撃を与えました。その後、反代表派は四女を魔境と批判。

 しかし、その後四女は江川氏の元から姿を消し、江川氏は後見人を降りることになりました。


●2007年  ひかりの輪を設立、宗教的見解と努力

 3月には代表派はアーレフを集団脱会し、5月に「ひかりの輪」を設立。外部からは相変わらずの麻原隠しの偽装脱会ではないか、と報道されたりもしましたが、私たちは2004年末以降、旧教団の過ちを認め、事件総括や麻原信仰の払拭に努めてきました。

 しかし、代表派初期のころには、社会に誤解を与えるような、麻原の神格化を認めるような発言や科学的に証明できない霊的できごとを重んじる、といった旧団体を抜け切れていない部分があったことを真摯に反省し、二度と事件が起こらないよう、主に以下の努力をしていく決意です。


① 麻原に代表される人を神としない:事件の過ちに鑑み、人は不完全な存在であり、過ちを犯す可能性があるため、釈迦牟尼が自分を崇拝することを諫めたように、聖者を完全に否定はしないが、絶対者としない。もちろん、ヴァジラヤーナの危険な思想は封印する。いかなる違法行為も肯定しない。

②贖罪と賠償の努力:③とも関連して、事件は自分の業でもあるとして、自己の過ちを正し、心からの贖罪と賠償努力を続けます。

③ 一元的思想:旧団体において、選民的思想が説かれるようになり、予言の解釈などをとおして、自分たちは救済する側で善、社会は悪業多き悪であるという二元的思想をやめ、仏教の縁起の法が説く、すべての事象は相互に関連しあって存在している、という一元の思想を実践し広める。
 事件を起こしたのは特定の信者ですが、深層心理では互いにつながっており、同じカルマを共有している。よって、自分も事件に無関係ではなく、集団の潜在的欲求により現象化したものととらえ、事件は麻原だけの責任ではない。言い換えれば、社会と教団、自分と他人もつながっており、独立して存在するのではない。互いに関連しあってしか存在できない考え、自他の区別をこえていく。

④ ①③に関連して、すべての人に仏陀となる種子である仏性を認め、特定の人物だけを崇拝するのではなく、すべての衆生に対して奉仕していく。すべて人の感謝と恩返しの実践をする。

⑤  ④から、地球環境問題に発展させ、地球の生きとし生けるものがさまざまな循環によって成り立っているのだから、すべてに感謝し慈しみ、自分さえ良ければ良いというエゴをやめ、後進国からの搾取や過度の開発、汚染による環境破壊をなくすお手伝いをする。ひかりの輪の特徴は循環の思想である。

⑥世界のテロ、戦争回避へのお手伝い
 事件がアメリカの9・11のテロやアルカイダなどに影響を与えているという事実がある。今後は贖罪の一環として、あらゆるテロが起きないよう、後進国で貧しいがゆえに満足な教育が受けられず、偏った宗教的実践にいたらないため、途上国支援などに協力していきたい。

⑦独自の宗教性の探求を進めていく:
 代表派時代から、各地の聖地や神社仏閣をめぐり、教団という狭い世界だけではなく、広く宗教を学び直し、良いところは取り入れ、他宗派からも学ぶ実践を進めていく。②とも関連し、大自然を神のあらわれとみて自然から学び、自然と融合する修行を行う。在家の会員さん、スタッフには定期的な聖地巡礼を行い、実際、自然に没入し、瞑想、教学を深めています。

⑧心身浄化の新しい試み:法具の充実、聖水などの活用、密教ヒーリング
  ※イニシエーションと呼ばれた直接の霊的エネルギーの移入は行わない。

 チベットなどで広く普及している修行道具のなかに、聖なる波動と音を奏でる「聖音法具」と呼ばれるものがあります。これらを使用すると、身体内の水と共鳴し、心身を落ち着かせたり、深い瞑想に導く効果があるといわれています。その音の波動を水に聞かせた聖音水や、聖音法具で体を取り巻きそれらの波動で心身を浄化する密教ヒーリングなどを行っています。
 また、旧団体のように、人に直接触れるイニシエーションは行わず、法具の聖なるエネルギーで浄化します。

⑨布教の注意点:かつての欺瞞的、反社会的、嘘をつくなど常識を逸脱する導きはしない。

 現在ひかりの輪では、直接道場に来ることにためらいがある方、また、遠方など諸事情のために来道できない方々のために、広く法を学び、ひかりの輪を知っていただくために、ネット道場というシステムをつくりました。これは、パソコンをお持ちのかたならどなたでもアクセスすることができるものです。


●自己の役割として

 私はひかりの輪設立時から、宗教芸術の担当になりました。一番の宗教的象徴である祭壇とそこに掲げる仏画を用意したり、神殿と呼ばれる神聖な修行空間に、ひかりの輪ゆかりの如来方、菩薩方の仏画を掲げるお手伝いをしてまいりました。

 宗教に興味を持った後、同時に、時代を色濃く反映する宗教美術にも心惹かれるものがありました。洋の東西を問わず、人の意識を神聖にする宗教画は大変尊いものです。

 ネパールなどの宗教芸術の宝庫を訪れる機会もいただきましたので、今後も法具の調達や宗教芸術の研究などで皆様の修行のお手伝いをさせていただこうと思っております。

 最後に、長々とお読みいただき、誠にありがとうございました。

 2008年9月2日
水野愛子

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