指導員・会員の総括

宗形真紀子 麻原彰晃とわたしの魔境

■3 サリン事件までの出家生活を振り返って

 ここからは、89年に出家してからサリン事件が起こるまでのオウムでの出家生活を振り返りながら、サリン事件後12年もの間、私がオウム信仰を続けてしまった原因を探っていきたいと思います。

 抜け出すまでに最後まで残り、私を呪縛し続けたものは、「麻原グルイズム」と「マハームドラー」という考え方でした。それが、私の中でどのように形成され、深くはまり込んでいき、こだわりとなり、脱却までに12年の期間を要してしまったのかを、明らかにしてみたいと思います。

 サリン事件までの間の出家生活において、私が仕事や修行として経験したものは、おおよそ以下のものでした。

 出家した年である89年には、オウムが選挙に出たために選挙活動を行い、その後95年までは、総務部などを経て、ほとんどは在家信徒対応の支部活動を行っていました。93年からは、オウム内で「秘密ワーク」と言われていたものにも携わることもありました。

 集中的な修行として経験したものは、89年に、出家時の1ヶ月間の立位礼拝(五体投地)という1日18時間の修行と、数日間の、ほとんど睡眠を取らず、限界まで息を止める呼吸法の修行、90年には、10日間、不眠不休で「懺悔の詞章」を唱え続ける修行、93年には、3日間、24時間の極限の蓮華座(結跏趺坐)を組んで座り続ける修行などを行いました。

 そして教団が過激化していった、93年後半からは、麻原のデータを入れ続けるさまざまな「イニシエーション」と称したものを経験しました。例えば、ヘッドギアで麻原の脳波を入れたり、知らなかったといえ、LSDを飲まされ神秘体験をするような違法行為のものなどです。

 これらの期間は、実際は、ヴァジラヤーナという名の犯罪行為が行われていたわけですが、多くの信者がそうだったように、私自身はまったくそのことを知らなかったため、能天気にも、嘘で固められた麻原の言動を信じ、麻原グルイズムに加速的にはまっていった期間となってしまいました。


(1)出家から、オウムの知名度が高まった時期まで(1989~1992)
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●「地球を救う解脱者」という高い自己存在価値

 89年3月30日、20歳のときオウムに出家しました。出家した当時の心境を振り返ると、「修行に励み、少しでも早く解脱して救済のお手伝いがしたい」というものでした。出家までに、特に「真理の道場地球を守れ!」という麻原のメッセージにたいへんな感銘を受けている状態でした。

 そのメッセージとは、「地球は真理の道場、魂の成長の場なんだ。その地球が世界最終戦争で大変なことになる。でも、3万人の成就者が出て、世界に散らばれば、その光のヴァイブレーションで、ハルマゲドン=地球の滅亡を救うことができる。だから早く成就して地球を救ってほしい」というようなものでした。

 私は自分もその1人となって地球を救いたいと真剣に考え、それが子どものころから苦しんできた自分の使命だと思い込んでしまっていました。

 私は生い立ちから「できれば人のためになる生き方がしたい」という思いを持っていましたが、「地球を守る」という視点は私の目に斬新に映りました。

 今日では地球温暖化や環境問題から、「地球のために」という発想がありますが、89年当時には、そういう発想を耳にすることははじめてで、素直に「大切な地球を守りたい」と思っていました。

 しかし、振り返ってみると、「こんな自分でもできれば人のためになる生き方がしたい」という切実な思いを持つようになった私にとって、「できれば人のためになる生き方」という消極的なものではなく、「成就者となって地球を救う生き方」というあまりに極端に積極的な生き方は、私の「野心」にとっても、激しく魅力的に映った面がありました。

 絶望している「無価値な自分」がいきなり「地球を救う成就者=地球規模に価値のある自分」になることができるのですから、急激に「自分の価値が高まり」ます。生きる意味を、激しく求めていた私は、安直にそれをオウムの救済活動に当てはめてしまったのだと思います。

 これらはこうして文章化すると、まるで宇宙戦艦ヤマトや、銀河鉄道999などのアニメのノリで、幼稚に映りますが、私はアニメ世代で、小さな頃からほとんどのアニメを見ており、確かに「銀河鉄道999」「宇宙戦艦ヤマト」「起動戦士ガンダム」などが大好きで、そういったイメージと重ね合わせていた部分があったことは間違いないと思います。


●安直に、夢や神秘体験を信じ込み、自己存在価値を高めていく

 出家するとすぐ、「千尋の谷の修行」と言われていた、立位礼拝600時間という激しい集中修行が始まりました。それは、グルとシヴァ神に帰依するための詞章を、大声を出して唱え、チベットの五体投地の行をもっと激しくしたような姿勢の行を、1日18時間繰り返すもので、4時間の睡眠と1日1回の食事時間以外の時間、行い続けるというものでした。

 修行に慣れていない私にはたいへんに厳しいものでしたが、それを行っていると、祭壇のシヴァ神が眼前まで飛び出してくるのが見えたり、眠ると「グルとの前世」「修行者の生」と思われるようなリアルな夢をたくさん見るという「神秘体験」が起こりました。

 今、冷静に考えると、「神秘体験」というよりは、幻想を見たと言うことですが、この体験によって、いつものおきまりのパターンで、あまりに安直に、「自分は過去世から修行をしてきた修行者」で、「グルと縁が深い魂だ」と自分の中で思い込んでいくようになりました。

 そういう思い込みを強めた背景として、当時毎日行われていた麻原の説法では、在家の時に聴いた説法と違い、麻原が体験した麻原や弟子の前世の話が引き合いに出されて、解脱のためには「グルとの縁」を深めることが大切、という内容が増えていたため、それも強く影響しています。

 私の場合、もともと霊体験・夢体験が多く、14歳から霊体験にあれほど苦しめられていたのにもかかわらず、「夢によりオウムに導かれた」と思い込んでいたために、「夢とかヴィジョン」というものを、特に重要視・神聖視して、示唆的にとらえる傾向がすっかりできあがっていってしまっていました。


●グルイズムとマハームドラーという「修行の早道」が推奨される

 その頃説かれていた麻原の説法の内容は、仏教的な話が中心でしたが、チベット密教的な「グルイズム」と「マハームドラー」の教えが加わっていました。

 その、オウムで説かれていた、グルイズムとマハームドラーの教えは、簡単に言うと、シヴァ神の化身であるグルに帰依するというグルイズムを土台として、弟子を成長させるためのグルからの課題や指示をエゴを乗り越えてこなし、その課題をクリアしたときに、マハームドラーという悟りに至り心が止滅するというものです。

 そこから、オウムでは独自の解釈で、マハームドラー=グルからの試練ととらえられていました。

 当時の私は即座に「心の止滅・寂静に至るためには密教のマハームドラーの教えが早道」ということに強く惹かれました。また、「自分を導いてくれる翁のような導師」と麻原を位置付けていたために、「グルイズム」の考えを即受け入れていました。

 そして、この、最初から惹かれていた「グルイズム」と「マハームドラー」の考え方こそが、事件後、私がオウムから脱却するのに最期まで抜け出せなかった考え方としてずっと残り続けることになった考え方です。

 その修行期間に、心理的な変化としては、出家当初からの「修行に励み、少しでも早く解脱して救済のお手伝いがしたい」というものに加え、「グルとの縁を深め、早くマハームドラーの成就をしたい」という目標が加わっていきました。


●マハームドラーととらえてしまった選挙活動

 89年の夏、突然、オウムが選挙に出るという話が出、すぐに麻原と多数の出家者との話し合いとなりました。出家生活とは、修行して解脱を目指すという「宗教」の分野ですから、「政治」に出るということは、思いもよらない話でした。

 当時の麻原の主張としては、「救済」のためには現実の生活で力をもたないとどうにもならないというものでした。当時オウムが掲げていた「ロータスヴィレッジ構想」という理想社会の建設計画があったのですが、その中に老人ホームや学校の建設など、人々や社会のための活動があったので、そういう活動のためなのかと受け止めました。

 しかし、いくらなんでも選挙で勝つというのは現実離れした、無謀なことに思えました。しかし出馬に賛成したのです。なぜ賛成したのかというと、意味合いや勝てるかどうかということを真剣に考えてのことではなく、「結果はどうあれ、これは、グルからの一見無謀にみえる課題をこなすというマハームドラーだ」ととらえてしまったからでした。

 麻原は、実際は、「本気で政治の世界に出ようとしているのではなく、弟子の観念やカルマを落とすために、わざと弟子に理不尽で大変なことをさせて、それができるかどうか帰依を試すというオウム流マハームドラーをかけている」のだろうと考えていました。

 しかし麻原が実は本気だったことが後にわかることになりました。それは後に述べたいと思います。

 選挙の活動は、「彰晃マーチ」の歌を流して踊ったり、象の形の帽子を被って踊ったり、白いサテンのサマナ服を着てのパフォーマンスなどもある奇異なもので、当時の私の感覚では、あまりにダサく、幼稚で、恥ずかしいことでした。

 しかし、「ダサく、幼稚で、恥ずかしい」自分の嫌なことを、その嫌だと思うエゴを超えて行うことこそが、グルが、自己の「プライド」や「美的感覚のとらわれ」を落とすために与えた、マハームドラーという課題であり、必要な修行なのだ、ととらえて、行なったのです。

 逆に、自分の感性で「好きなこと、好むこと、いいと思うこと」をやることは、「煩悩を満たすこと」だから捨断しなければならないと考えて、意図的に行わないようにしていったので、自然な感性は、ゆがまざるをえなかったと思います。

 このような考え方をしていくと、自分の中では、何がいいことで、何が悪いことなのかという、善悪の基準などは混乱し、矛盾し、自分で考えても普通にはわからなくなっていきます。言い方を変えれば、何でもあり、何とでもいえるということになります。

 そのため、次第に「自分で考える」ということをやめていき、手っ取り早く単純に答えの出る「グルに委ねる」という、依存・服従する状態に徐々に徐々に蝕まれていったプロセスが進んでいくことになっていきました。
●「グルからの特別扱い」に浮かれ、どんどんおかしくなり始める


 また選挙活動中に、麻原から特別扱いされるということが起こり、私はどんどんおかしくなっていきました。

 あるとき、側近の飯田氏が「お下がり」の食べ物を麻原からもらって帰ってきました。その時は真夏で、空けてみたらすでにそれは腐っていたのですが、当時、「最終解脱者であるグルからのもらいものは、どんなものも修行を進めるものだ」と考えていたので、味覚を無視して喜んでそれを食べたということがありました。

 そのことを飯田氏から聞いた麻原は「そのような態度は弟子としてすばらしい」と言って私の行為をものすごく気に入ったということで、麻原から「いつでも直接の電話や訪問をしてもいい」という許可を与えられ、個人的に直通の電話番号を教えられました。

 当時、側近の高弟だけに許されていた許可が、異例に与えられたことで、上司の飯田さんは私を誉め、私はこの「グルと近くなれた」と喜び、「修行が進んだ」と受け止めました。

 そして、このことをきっかけに「麻原に誉められることは、修行が進んだことであり、よいことだ」という価値観が積み重なっていきました。徐々に徐々に、仏教の法則や自身の感性・判断力ではなく「麻原がどう思うか」ということが、最重要な基準にすり変わっていってしまったのです。

 しかし真実は、これも今までと同じパターンなのですが、「修行が進んだ」のではなく、まったく逆で、ここでも「自分は特別」という「自己の価値を高める」思考をし、自我を増大させていっただけでした。

 仏教を学んで仏道修行をしているつもりでいても、実際は、自我を滅する仏教の修行とは正反対の思考を増大させているのです。愚かで幼稚だったと思いますが、当時はそんなことにまったく気づきもしませんでした。


●最後の呪縛となった「グルイズム」と「マハームドラー」

 この選挙活動の最中に行なわれた麻原の説法の後で、私が個人的に質問したときの答えに、以下のようなものがありました。

 「これは難しい話になる」と前置きした上で、「人には仏性とか如来蔵というものがあり、修行することでそれに目覚めることができる。そのとき私(麻原)と同じになる。そういう意味ではグルも幻影。」というものでした。

 当時の私はそれまでの麻原の説法から考えても、「グルと弟子には雲泥の差があり、麻原の魂の質と自分の質は違う」と思っていたため、「グルと同じ」とか「グルも幻影」ということは思ってもみないことだったので、大変驚きました。他の人もそう感じたのではないかと思います。
 事件後に、麻原の教え以外の仏教書などを読み進めていった過程で、仏教の「仏性」についての考え方を学んでいくうちに、ふと昔麻原にこう言われたことを思い出したのですが、この頃の麻原にはそういう考えもあったのかとたいへん意外に思いました。

 2003年から始まった私の本格的な麻原脱却への流れの中で、事件の事実を直視し、多くのオウム批判本や思想・宗教書などを読み、日本の聖地や他宗教の神社仏閣などを巡礼しながら、麻原の過去の説法を読み返して思索していた時期のことです。

 そのときの私の素直な心や感性は、すでに、麻原グルイズムよりも、日本的な、自然の中に神を見るという考え方や、すべての人の中に仏を見るという考え方などに強く惹かれるように変化していました。

 また、場所や修行法としても、麻原の写真を拝みながら自然から切り離された道場の中に閉じこもって、麻原を観想する瞑想よりも、旧石器時代の痕跡さえ残る日本の聖地や、さまざまな神社仏閣、大自然の中に行って大自然を感じるほうが、はるかに意識が広がり、心身によく修行になると実感していたのは冒頭で述べたとおりです。

 ですので、2002年以降の、実際の私の行動は、麻原を観想して瞑想するような修行をするのではなく、聖地や自然の中に行くことを選択していました。

 しかし、意識のどこかに、10年も培った思い込みとして、「密教の教えにあるように、一度自分が帰依すると決めたからには最後まで帰依し続けなければならないのではないか」というものと、「もし麻原が計り知れないレベルの特別な魂であるのなら、麻原への帰依をやめることは、グルとの縁が重視されるといわれる密教の教えでは、グルとの縁を傷つけることになり大きな修行上の不利益となるのではないか」という危惧が、どこかに残像現象のようにこびりついて残っているのが感じられました。

 これは、出家当時から重要視して、ずっと修習していた「グルイズム」と「マハームドラー」の考え方の影響です。

 すでに、実際の行動はすっかり変化しており、現実の行動に影響を与えていないにもかかわらず、そういった思い込みだけが、観念世界のどこか隅のほうに、残像現象のように残って呪縛されているような感じがありました。それをよいことと思っているのではなく、呪縛されてこびりついているような感覚です。呪われているような感覚でさえありました。それほどに、根深く最後まで残っていた、私のオウム時代を象徴するキーワードだったのだと思います。

 ちょうどその時期に、その出家したばかりの頃の、麻原自身が私に対し「人には仏性がある」「グルも幻影」と語ったことを思い出したことは、麻原グルイズムを完全に吹っ切る、一つの後押しとなるというパラドキシカルなことになったのでした。

 それをあえて表現すれば、麻原もグルは幻影と語ったことがあるのだから、「麻原グルイズム」をやめても、麻原に呪われることは、もうないだろう、というような感覚です。

 そして、麻原グルイズムの呪縛の残像がわずかに脳裏に残りながらも、自分の素直な心がそうだと思う、「麻原だけが特別な魂だというのは不自然な考え方で、麻原だけのことを考えて、麻原との縁にこだわるよりも、すべての人に仏性があると考え、すべての人から学ぶことの方が大切で、人間的に成長できる道であることは間違いない」と、確信することができ、やっとそのわずかな残像幻想の呪縛もなくなり、完全に吹っ切ることができたのです。

 今思えば、私と麻原とのこの会話は、「麻原の弟子の私」ではなく、当時は気づくことのなかった、「麻原グルイズムを望まない、本来の私の本質のようなもの」が、望む心の現れ、私の潜在的にあった要素が、麻原の言葉に投影される形でなされた会話だったのではないかと思いました。

 というのは、当時の麻原の説法は「グルである自分に帰依せよ」というグルイズムを強調するものがほとんどだったため、「グルも幻影」とか、「君と私は(仏性に目覚めれば)同じ」というようなものは、それと逆行する考えでもあり、当時の麻原がそう話すとは思われない話だったからです。

 実際「如来蔵」とか「仏性」という言葉が説法の中に出てきたことも、当時は大変めずらしいことでした。もちろん、これらの教えは、オウム以外の、仏教や密教の教えには普通に基本的に存在する教えであることは後に知りましたが、麻原やオウムには、89年の時点で、そういう考え方は基本的にはなかったのでした。


●信者と外部の両方に向けられた、麻原の平気で嘘をつくやり方

 選挙活動の期間中、89年10月から『サンデー毎日』によるオウムへの批判キャンペーンが始まり、そして11月4日には坂本弁護士一家殺害事件が起こっていきました。

 当時、麻原はこれらについて、「オウムへの弾圧」と激しく批判し、激怒していたので、この事件のことを全く知らなかった私は、それを聞いて、大半の信者がそうであったように、この激しいバッシングを「弾圧」と思うようになっていってしまいました。

 麻原は、オウムは煩悩を否定するという「反社会性」があるために、国家にとって脅威であるから、オウムが選挙活動を始めたことに脅威を感じ、これ以上力をもたせないように、今のうちに潰そうと、創価学会と癒着のある『サンデー毎日』がバッシングをはじめた、これは宗教弾圧だと強く主張していました。

 そして、今から日付を数えると、坂本弁護士一家殺害事件から約10日後の頃のことになりますが、麻原は突然「大量の成就者を出す」と宣言し、100人規模の「成就のための極限修行」を始めました。

 その修行にあたって、麻原は、「弾圧されている今こそ、耐えることで、カルマが落ち修行が進む」「この問題に動揺しない弟子に体験させるから自らの体験を信じろ」と強く信者を鼓舞し、自らが修行指導を行い、このとき結果的に100人以上の成就者(=規定の霊的体験を得た者)が麻原により認定されました。

 私もこのときに極限修行に入り、5日間、立位礼拝と、限界まで息を止める激しい呼吸法の行(アパンクリアとヴァヤヴィヤ・クンバカプラーナーヤーマ)を、四念処の思索で肉体のとらわれをなくすという観想をしながら、1日19時間行い、その修行の最中、意識が肉体を離脱し、無重力の宇宙空間へ飛んで行ったり、3グナといわれる光を見たりして、麻原より「ラージャ・ヨーガの成就」と認定されました。

 このとき、100人以上もの成就者が出たということと、年末にマハームドラーの成就者が出たことで、内部的にかなり盛り上がっていき、12月下旬に、マイトレーヤ正大師こと上祐史浩氏(現在の、ひかりの輪の上祐代表)がマハームドラーの成就者(=悟った者)と認定された際は、その認定のポイントは、バッシングに耐えて広報活動をしたことで修行が進んだからと発表されました。

 これらのことから、当時の信者の間には「叩かれることに耐えることで、カルマが落ちて修行が進む」ということが、現象から真実であるように理解され、皆の信仰が強まっていく形になり、私自身もまさかそんな事実があるとは知らなかったので、麻原の言葉をうのみにし、「逆境時こそ修行者の真価が問われる」などと思い、いっそう熱意を燃やしていくようになっていってしまいました。

 しかし、麻原の本意は、坂本弁護士一家殺害事件をカモフラージュし、オウムバッシングに揺れる信者の結束を固めるという明確な意図にあったわけです。

 このように、麻原は、さまざまな事件を知らない信者に対して、それを隠し、隠すために平気で嘘をついてだまし、逆のことを思い込ませるといったことを行なっていたわけです。このやり方は、今思えば、信者に対してと、外部に対して、両方に向けて同じやり方だったことがわかります。

 しかし、当時の私は、まさかそんなこととは思わず、その麻原の嘘の現状説明を真実と思って生きていたのでした。


●選挙は本気だったらしいと知る

 衆議院選挙は惨敗となり、麻原は「実際は当選していたはずだが、国家権力による投票操作が行われた陰謀だ」と信者に語りました。

 このとき私は、麻原のその言葉をあまり真剣にとらえていず、「そんなことはおかしいし、もともと当選するわけがないので、やはりマハームドラーだったんだ。」と即座に思っていました。

 このマハームドラーという意味は、「麻原は、本気で選挙に勝とうとしていたのではなく、無理なことをさせて弟子のカルマを落とし、観念を崩し修行を進めるという弟子への訓練を目的とする形だけの選挙活動を行なっていた。投票操作されたというのも、それの延長上のおまけのようなもの本気で言っているのではない」という解釈のことです。

 私には、選挙のやり方も、幹部の選挙演説も、なにもかも間抜けな感じで、冗談のように見えていました。それを「わざとそのような変なことをさせ、はずかしい思いを幹部にさせることでカルマを落とし解脱に導いている。弟子の修行を進めるためだけに、これほど大規模なことをするとは、麻原のやることは計り知れない、スケールが大きい」とさえ解釈して、逆の意味で感心していたのです。

 今思うと、かなり自己中心的な都合のよいとらえ方だと驚きさえ覚えますが、当時の私は、どこまでも「麻原は力量のある高いレベルのグル」であることにしたかったようです。

 そのようなとらえ方をしていたため、95年以降に、この選挙が「マハーヤーナ(=合法的な活動)のテスト」であり、この敗北が「ヴァジラヤーナ(=違法活動)へ入る」直接の大きなきっかけとなり、このときを境に違法活動が大々的に裏で始まったということを知り、大変驚きました。

 このような重大な転換をしたということは、麻原は、選挙について、マハーヤーナのテストとして本気だったと考えられるからです。

 さらに、2004年以降、当時選挙をするかどうかの幹部の話し合いで異を唱えた上祐代表からも、そのときの状況を聞きましたが、その話からも、麻原はどうも本気だったらしいと感じました。

 このようなことからも、麻原は「高度なことを考えてひねった形で弟子を解脱に導こうとしていた」わけではまったくなく、かなり突飛な非現実的なことを本気で思い込んでいただけという、病理的なほどの誇大妄想の持ち主という人格だという理解をするようになっていき、「麻原グルイズム」「高度なマハームドラー」という思い込みがなくなっていくことになりました。


●麻原の陰謀論と被害妄想の関係

 その後、麻原の説法では、フリーメーソンという組織が世界を牛耳っていて、オウムはそれらや国家に弾圧されているというような話が何度も出るようになり、当時、私は「そういうこともあるのかもしれない」と思うようになっていったのですが、今思うと、この時点で麻原は、坂本弁護士一家殺害事件や田口氏殺害事件など、何人もの殺人を犯しているために、普通に考えても、警戒心が強くなっていたのだと思います。

 そして、その犯罪を正当化するのと同時に、被害妄想も増大していき、そこで自分の中での整合性を取るために「弾圧されている」と真剣に思うようになったのではないかと思いました。

 また、当時麻原は、ヨハネの黙示録などからの影響で、「予言された真理の団体は弾圧される」という内容を重視していたので、自分たちが予言にある真理の団体だと思うなら、弾圧されていることが、予言された団体である証明になるので、「弾圧されている」と本気で思うようになっていったことも影響していると思えます。


●ヴァジラヤーナという名の、犯罪行為の開始

 選挙の直後の3月のはじめに、「教育システム」という新しい修行制度が導入されました。その内容は、教学、論議、行からなる「マハーヤーナコース」と「ヴァジラヤーナコース」の2種類のどちらかを自分で選択し、10日間集中修行するというものでした。

 麻原の説法では、ヴァジラヤーナ、金剛乗が、小乗、大乗の上に立つ、最も優れた教えであるという話がさかんになされていたため、ほとんどの出家者が「ヴァジラヤーナコース」の修行を選択しており、私もそうしました。

 そこで、10日間、一日一回の食事以外は、不眠不休で、「ヴァジラヤーナの懺悔」という「金剛の心を持って、グルに帰依し懺悔する」という内容の詞章を唱え続けるという極限的な修行を経験しました。当時は、「密教の懺悔の修行」という説明しかなかったので、密教の加行の懺悔の段階の修行だとしかとらえていませんでしたが、今振り返ると、時期的に、潜在意識に「ヴァジラヤーナ」というものを植えつけるためのものだったと思われます。

 さすがに10日間不眠不休というのは初めての経験で、厳しい修行で、潜在意識に深く入り、同じはずの詞章がまったく別の「森の物語」になったり、白いはずの紙が真っ青に輝きだしたりというような状態となっていました。

 しかし、2000年以降に上祐代表から、その修行の裏で、幹部信者たちは「マハーヤーナ」と「ヴァジラヤーナ」のどちらを選ぶのか選択を迫られ、ヴァジラヤーナを選んだ者の活動として、ボツリヌス菌の培養実験が行われ始めていたと聞き、たいへん驚くことになりました。

 しかし、それはよく思い出してみると、当時一般信者向けに麻原が説いていたことと合致していて納得できることでした。

 その麻原が作った「ヴァジラヤーナコース」の詞章の内容は、裏活動を知らない者たちは、単に仏教法則としての金剛乗の教えと修行体系、ととらえていたのですが、その本意は、裏活動に従事する者たちが、「金剛心を持ってグルに帰依する裏活動の実践」に向けての、教えだったわけです。

 その1月後の4月中旬ころ、突然麻原が出家者を呼び集め、「オースチン彗星が地球に接近していて、それが衝突しハルマゲドンが起こるかもしれない、その場合人類の4分の3は滅んでしまう。そのためにすぐに全員で避難する」という話をし始めたことがありました。

 当時私は大変驚くとともに、最初はまたいつものことかと思い、そのことには半信半疑でした。しかし、「助けたいのなら、できる限りの親族・知人に、石垣島に行き、一緒に避難するよう働きかけてください」という具体的な話までがあったため、具体性があるように感じ、それを信じてしまったのでした。

 そこで、大変なことが起きると知人に電話して一生懸命避難するように誘いましたが、誰も信じてくれず、救えなかったと大変落胆したのを覚えています。これが「石垣島セミナー」だったのですが、2000年以降、上祐代表からこの裏の真実、つまりボツリヌス菌を日本全国に噴霧して、大量殺戮を企てていたという話を詳しく聞き、大変なショックを受けました。

 それは、自分が真理の実践、出家生活、救済活動などと思って行なっていたことが、本当は、裏のヴァジラヤーナという名の違法活動をカモフラージュし、支えるためのものにすぎなかったということを知ったからです。
 
 このように、一般信者は、麻原の嘘の話を聞き、それを信じ込み思い込んでいた幻想の中にいただけだったわけです。

 結局その時は、ボツリヌス菌が完成しなかったおかげで、噴霧は断念され、何も起こらなかったということが真相だったのです。

 当時の石垣島セミナーでは、「オースチン彗星は衝突せず、ハルマゲドンは回避できた」と発表され、皆ほっとしていました。そして何もしないわけにいかないからか、信じて参加した多くの在家信者を出家させるセミナーとへ変わり、「大量出家者」を出したセミナーとして終わることになりました。

 このあたりの当時の心境を振り返ると、教えの中で解脱の早道とされる「高度な教え」を自分は実践したいという理由で「ヴァジラヤーナコースの修行体系」を選んでいます。私の傾向として、他の信者の大半もそうですが、「救済が進む」「解脱の早道」「高度な教え」などと言われると、安直に即座にそれを選ぶという、あまりに浅はかな状態に陥っていることがわかります。

 この時点のこの状態は、出家した当時「自分の価値が高まるもの」を選ぶという傾向に加え、「自分が価値を置いているグルが価値を置いているもの」を迷わず選ぶ、という価値観が完全にできあがってしまっている状態になってしまっていることがよくわかります。

 だとすれば、この延長上で、自分が当時最も価値を置いているグルから、「救済や修行が進む高度な教えの実践」だと言われさえすれば、できる限りそれを実行しようとする心理状態に、すでにこの90年の時点でなっていたといえます。

 オウム信者たちが、あまりに安易に、とても短い期間にそのようになってしまっているという事実が見受けられますが、私自身は、出家してまだ一年程度しか経っていない状態です。このスピードには恐るべきものがあると思い、改めて、とんでもないことが起きていたと驚くばかりです。


●カルマ落としの結果、布教が成功したと思い込んでいた時期

 90年後半~93年までは、私は、大阪支部や、東京本部などの、支部活動に配属され、ヨーガなどの信者へのヨーガなどの修行指導をしていました。

 その時期、91年には、教団の波野村進出、そしてそれに伴い大量の信者が住民票不受理となり、その後、国土法違反事件の強制捜査・逮捕ということが相次ぎ、89年以来、再度、教団と社会の大きな摩擦へと発展していきました。

 実際に、その裏ではヴァジラヤーナという名の違法活動が行われていたわけですが、私を含む一般信者はそれらをまったく知らなかったために、この社会との摩擦も、麻原がずっと主張するように、「不当逮捕、違法な弾圧」だと思っている状態でした。

 出家生活においては、基本的に、世間のニュースさえも情報を入れないという生活をしていたため、これらの事件が、一般にどのように報道されているのかさえも知らなかったことも、麻原の話をすんなり信じた大きな要因となっています。

 そして、逮捕された青山氏などが、獄中で「マハームドラーの成就」を達成し、石井氏、早川氏なども、カルマが落ちて大きく修行を進めたという麻原の説法が行なわれた際は、89年の「オウム・バッシング」と言われていたときと同じように、私は、「国家に弾圧され、不当に逮捕され、カルマが落ちて修行が進む」という麻原の話は「本当なのだなあ」と、現象から納得しているという状態でした。

 真実を知らず、このような嘘の話をうのみにし、それを信じ込み、思い込んできたことにより、後に、95年のサリン事件による教団の事件・強制捜査・逮捕においても、当初は「不当逮捕、国家の弾圧により、カルマが落ちて修行が進む機会がやってきた」と、あまりにおろかなのですが、とらえてしまうことにつながっていったのです。

 そして、その後、教団の布教活動がたいへん活性化していくことになったのですが、後に、「本当の事情としては、警察の介入によりヴァジラヤーナ活動ができなったために、通常の宗教活動である、マハーヤーナの活動に切り替わっていた」と知り、すべてが嘘で作られていた話だという現実理解を積み重ねていきました。

 その「切り替わり」では、音楽と舞踏の「死と転生」「創世期」、麻原の説法祭などのイベントが大々的に行われ、私は支部で、その勧誘に忙しくしていました。また、麻原の多くの書籍が出版され、多数の仏典の翻訳が公開され、特に仏教的な教えが多く出版されていきました。

 また麻原は『朝まで生テレビ』『ビートたけしのテレビタックル』『とんねるずの生でだらだらいかせて』などのテレビ出演や、ビートたけし氏、中沢新一氏、荒俣宏氏、栗本慎一郎氏、山折哲雄氏などとの雑誌での対談を行い、島田裕己氏、吉本隆明氏などの評価を受けるようになっていったのでした。

 当時の評価を並べてみますと、麻原とオウムが多くの方に絶賛されているいることが改めてわかりますが、もちろんこれらはすべて「裏の犯罪行為の真実」を知らずに、当然麻原にそれを隠され、嘘をつかれ、表の宗教活動だけを見ての評価です。

 教団は、以下のような発言を宣伝に利用して、布教を拡大していきました。

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◎ 中沢新一氏「僕は彼が顔に似合わずとても高度なことを考えている人で高い意識状態を体験している人だと認めています。日本のいまいるいろいろな宗教家の中でも知性においてかなり上等なレベルにいる人だと思いました」「僕が実際に麻原さんに会った印象でも彼はウソをついている人じゃないと思った。むしろ今の日本で宗教をやっている人の中で、まれにみる素直な人なんじゃないかな。」(『週間ポスト』89年12月号)

◎ 荒俣宏氏「私は麻原尊師に限りない好感を抱いた。恐らく解脱した者は幼児のように他愛もないか、あるいは阿修羅のように熱狂的であるかの、どちらかだろう。麻原彰晃がほんものの解脱者として、彼が示す寛大な姿勢は、明らかに前者の例と言えるだろう(『ゼロサン』1991年6月号)」と述べている。

◎栗本慎一郎氏「麻原さんのように煩悩を越えられた方は非常に素晴らしいし、そこからの教えを説いていっていただきたいと思います。(『サンサーラ』1992年1月号)」

◎島田裕己氏「オウムは特異な集団に見えるが、むしろ仏教の伝統を正しく受け継いでいる(『週刊朝日』1991年10月11日号)」

◎ 吉本隆明氏「この本(「生死を超える」)を読んでいるとヨーガの肉体的な修練が、なぜ仏教的な世界観である生死を超える理念をつくるところにたどりつくかが、一個のヨーガ修熟者の記述を介して『普通の人間』にも実感的にわからせるところがある。この記述は貴重なものというべきだ(『CUT』1992年5月号)」
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 当時私自身も、その対談の場に立ち会ったこともありましたが、多くの方々が麻原を前に対談して絶賛しているのを見て、「激しい弾圧の末、自分のグルと教団がやっと社会的評価を受けるようになった」と信じて疑うことはありませんでした。
 
 それらは、誇らしく、うれしく感じられ「弾圧のカルマ落とし」に耐えたおかげで「悪いカルマが落ちて発展に向かった」と、麻原が言う嘘の話をうのみにした理解をして、能天気にも「救済が成功してきたんだ」と思っている状態でした。

 事件後、これらの事実を知り、麻原・オウムが、対談した方々を激しく傷つけ、裏切り、バッシングにあわせることになってしまったことについては、まったく知らなかったとはいえ、オウムの活動を支えた信者の一人として、心が痛みます。

 そして教団は、インド、スリランカ、ロシア、ブータンなどの海外を積極的に訪問し、各国で、高僧や国王、政府高官との交流が成功し、評価されていきました。また、ザイールへの注射器や食料の寄付などの慈善活動も始まりました。

 そしてロシアでの布教も成功し、ロシア支部が解説され、何万人もの人が入信し、ロシアからのラジオ放送も始まるという、予想だにしなかった成功が次々と起こることが起きていきました。

 2000年以降、上祐代表から、これらの評価を得た背景には、お金のやりとりがあり、お金を積んで評価を買っていたということを聞き、唖然としました。

しかし、当時何も知らなかった私は、麻原の予言どおり、本当に世界的な活動になってきたと驚き、あまり予言に興味がなかった私でも、予言を一定限度信じるようになり、さらに麻原への信を深め、「救済は成功する」と確信していくようになっていったのでした。


●「学生班」ダミーサークルでの勧誘の反省

 また、その頃、大学・学園祭での布教活動も活発化しており、当時、麻原は、東京大学、京都大学、大阪大学、信州大学、千葉大学、横浜国立大学、東京工業大学などの名だたる大学で講演会を行い、学生たちにも人気が出て、多くの大学生が入信するに至りました。

 私は、当時、麻原の指示で、オウムを隠したダミーサークルを使った勧誘活動を大学で行う「学生班」の活動を行っており、裏の違法行為はまったく知らずに能天気にも、「グル、真理に巡り会うことが最も幸福なこと」という価値観を持ち、できる限りオウムに導こうという考えで動いていたのでした。

 そのやり方ですが、当時まだ24歳だった私は、入学式などで学生のふりをしてサークル勧誘をしたり、ビラを配って人を集め、個人的に親しくなり、私がオウムの出家者だということを隠した上で、徐々にオウムのことを切り出し、オウムに興味を持つ一般人という設定のサクラとなり、一緒に入信するという手口を採っていました。

 そういう人の中には、オウムの話をすると、麻原に海外旅行中のスリランカで会ったことがあるという人もいて、麻原と縁のある人は導かれているんだと感じ、自分は人のためになることをしていると信じて疑わない状態でした。

 しかし、今さらどうしようもないとはいえ、現在も申し訳なく思っていることは、当時そのようにして導いた人の中に、まだ現アーレフにいて麻原信仰にはまり込んでいる人がいることです。もし私がその人を勧誘していなければ違った人生を送っただろうと考えると、申し訳なかったと思う気持ちでいっぱいです。

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