指導員・会員の総括

宗形真紀子 麻原彰晃とわたしの魔境

■2 オウムに入った背景――20歳でオウムに入るまでの私(~1989)

 私の場合は、上記のような長い試行錯誤のプロセスをたどり、やっとオウム・麻原信仰から脱却することができ、脱会し、「ひかりの輪」という小団体として、新たな生き方の第一歩を踏み出すことができたのですが、気づいてみれば、出家してから脱会まで18年、サリン事件から数えると12年ものあまりに長い期間が経ってしまっていました。20歳で出家してしまった私は、もう38歳となっていました。

 この、事件後12年もの間、オウムを続けてきてしまった理由を、オウムに入るまでと、オウムに入信してからはまりこんだプロセスを、内省し、振り返りながら明らかにしていきたいと思います。


●幼少時の経験が、麻原グルイズムへの安直な追随につながっていった

 なぜオウムに入ったのかを、生い立ちから考えてみたいと思います。

 振り返ると、私の場合は子どもの頃から、もともと極度に感受性の強い性質を持っていました。子どもの頃から霊や異界のようなものが見えるなどの、一般的に見ると特殊な性質があったことも、私の人生に影響を与えているので、私の書くものは、少し特殊な例になるのかもしれません。

 幼少時の経験が、わたしの性格的傾向、オウムへの出家の選択を形作っているという点から考えると、例えば以下のようなことが影響していたと思います。

 例えば、まだハイハイしていた0歳の頃に、わたしがいとこのお父さん(叔父)にだっこしてもらおうとした際、いとこが泣いて全身で嫌がったことに、赤ん坊ながら、強い衝撃を受け、「自分が考えることをそのまま表現したら、人を傷つけてしまうからだめなんだ」という自分なりの理解をしたということがありました。

 そのような経験を幼少時に多々積み重ねたことにより、「自分の素直な気持ちは表現せず、周りの人の反応や欲求に合わせて生きる」ことが、わたしの中で価値のあることになっていき、その後の性格の土台を作っていき、しまいには、「麻原グルイズムへの安直な追随」につながった面があったと考えています。


●幼少時を自然の中で過ごしたことが、麻原グルイズムからの脱却の大きな救いとなった

 その一方、幼少期を山梨の田舎の自然の中で育ったことは、その後、大自然・聖地を巡礼し始めることをきっかけとして、麻原を神とする信仰から脱却していけたことへの、大きな救いにつながっていったと感じています。

 現在私は、大自然の中に神を見るような古来の原初的な信仰にたいへん惹かれており、オウムの麻原グルイズムと違って、それこそが人間という存在の身の程に合った、真の信仰なのではないかと思っているのですが、そのように思うようになれた背景に、18歳まで過ごした、大自然があったことに気づいた時、人生の不思議・大自然の中にある大いなる神のような存在への感謝・信仰が生まれました。

 家は葡萄の農家で、養蚕も営み、山羊・鶏・犬・猫・小鳥などの動物がそばにいて、季節の花々が咲き乱れる野原や、美しい山や川、季節の恵みを与えてくれる畑に囲まれて暮らしていました。

 2003年に、オウム幻想が崩壊していく中で、一般の方より、初心に帰るには、一度実家をたずねてみてはというアドバイスをいただき、実家をたずねたことがありました。

 そこでは、自然と共に畑仕事をしながら暮らす祖母の、素朴なあり方、考え方に、大きな衝撃を受けました。祖母は、太陽が照れば「おてんとさんが出て、暖かくてありがたいよう」。なにかほしいものはないかと聞いても、「ほしいものはなにもない。十分幸せだよ」と言って生きていたのでした。

 もちろん祖母にはいろいろな面がありますが、このような姿に、オウムの自己中心的な教えとまったく逆のもののような、歳を重ねた老婆の、無欲な悟りの境地と似たようなものを感じました。

 実家に行ってみて、そこで育った私が、実はとても恵まれていたことに気づき、唖然となりました。そこでは、美しく雄大な自然からの恵み、畑からの食物の恵み、山からの季節の山菜などの恵み、お蚕さんからの恵み、川魚の恵み、家畜からの乳や卵の恵みなどにはぐくまれていたのです。

 子どものとき、一人でいることが多かったものの、たくさんの野の花と遊ぶことができました。また、家の真向かいの山の中に、自分で「おにぎり岩」と名付けた大きな岩があり、一人で山に入ってその岩の上に登って過ごすのが好きだったのですが、悩んだり苦しんだりしたときには、いつもその巨石がともにいてくれたことを思い出しました。

 そう気づいた時、私が子どものころから持ち続け、オウムに入信・出家することにもつながった、環境や家族への不満や苦しみといったものが、思い込みにすぎず、実は満たされて幸せだったという側面に気づき、唖然となりました。そのような経験も、社会を悪として否定し、オウム・麻原信仰ののめり込みから脱却する大きな救いとなりました。


●幼少時~思春期に培っていった、家族・環境・社会と自分への不満・嫌悪

 幼少時から中学生までの時期、特にこの世界のしくみについて、さまざな疑問を持っていたのですが、それが、家族や学校で解決されないことに大きな不満を持つようになっていきました。

 例えば、なぜ1つ1つのモノすべてに名前がついていて違うものとして区別されているのか、それは一体誰がなんのためにつけたのとか、山と山の麓の境は実際どこなのかわからないのに、そう呼ぶのはなぜなのか、この世界は一体どういうつくりになっているのか、などについての答えは得られませんでした。

 意気揚揚と小学校に入っても、勉強をして知識を入れるだけで、たまたま記憶したテストの点がよいことで、先生や大人たちに誉められても、もっと重要だと思われた心のことや世界のしくみの謎などについては言及しない小学校は、価値のないものとなってしまいました。また、心の問題や事実関係を無視するかのように、規則と罰でその場を済ませるだけの先生の指導に不信感を抱くようになり、反発心も育っていきました。

 それに加え小学校1年生のときのある出来事から、自分の中に友だちが困っているのを見て喜ぶ残酷な心があることに気づき衝撃を受けてから、「私は悪い心を持った人だ」と自己嫌悪の念を強く持つようになっていきました。


●14歳の霊体験により苦しむ

 中学校に入ると、学校の成績上は順調だったものの、14歳のときに、この世のものではない何か、とりあえず「霊」としますが、その霊のようなものを見たり感じたりするという変わった出来事が毎晩のように起こるという状態になり、毎日は、苦しみでしかないように感じるように変わっていってしまいました。

 このことはいったいどういうことなのか、いまだに自分の中では未解決な面がありますが、夜寝ていると、何か半透明な子どもが空中にいて微笑んでいたり、物理的に何かが体に乗っかっているような感覚があったり、体が動かなくなったり、金縛りにあったり、UFOのような複数のオレンジ色に光る物体を目撃したりという、私にとってわけのわからない出来事が、毎晩のように起こるようになりました。

 それらがたとえ幻聴・幻覚だったとしても、確実に現実のこととしては、朝起きると、その夜経験した感覚や感触は身体に残っていて、痛みがあり、極度な疲労感とともに日に日にやつれていくという状態になっていました。

 家族には「そんなわけがない」と言われ、友だちには、ウソか冗談のようにしか信じてもらえず、自分はおかしいのではないか?という悩みと苦しみが増大していきました。

 その時に、実際に、現実にやつれていく私を心配した母は、近所の神社の神主さんにお払いを頼んでくれ、神主さんからお払いを受け、言われたとおりに、神さまのお札を枕に入れて寝るようにしてみましたが、まったく直ることはありませんでした。

 そのような状態をすごしていくうちに、苦しみながらも、この現実に見て感じる世界と別の、異界のようなものが世界の中にはあるらしいこと、世界は目に見えるこの世界だけではないらしいと考えるようになりました。しかし、その異界の生き物のような存在が、なぜ自分を苦しめたりし、なぜ他の人に見えないものが自分に見えたりするのかは、わからないままとなりました。

 このような経験により、この世界は一体どうなっているのかよくわからなくなってしまったことと、その、わけのわからない出来事や心身の疲労の苦しみが常にあるために、学校生活や友だちとの付き合いや遊びや、家族団らんを楽しむ余裕を失っていってしまいました。

 しかし、表面上は合わせて過ごさないと学校生活も家庭生活も成り立たないと自分なりに考え、家族や友人や接する人すべてに対して、演技した人格を作って生きていくようになってしまいました。

 この時期から経験した、未知の経験や世界への謎を解決したいという悩みが、後に、オウムに入信・出家するという判断をすることにつながっていきました。


●16歳 父の死により人生の意味に悩む

 高校に入ってすぐに、父がガンの末期であることがわかり、なすすべもなく、父は、4ヶ月後に死んでしまうという出来事が起こりました。

 父は、日々死の不安におびえ、見る見るうちに、体は痩せ細り、下血し、極度に苦しんで死んでしまいました。母は、ショックのあまり、お葬式の日に墓場で倒れてしまいました。

 この時、父が突然死んでいなくなってしまったことの悲しみとショック、父の断末魔の苦しみの前になすすべもなかったという無力感や苦しみとともに、死について、はじめて真剣に考えさせられることとなりました。

 「死ぬ」ということはどういうことなのか? 人は死んだらどうなるのか? 死んで父はどうなったのか? 49歳の若さで激しく苦しんで死んだ父の人生はとうてい幸福だったとは思えないが、父の人生とは一体なんだったのか? 父だけでなく、どうせ死ぬのなら、人は何のために生きているのか?という、人生の意味について、考え込むようになっていきました。

 さらに、父の死後、少し異常な大人からの性的虐待が起こり、この世の中は苦しみだとしか思えなくなっていき、人生に対する無力感や絶望感といった気持ちが強くなっていきました。


●16歳 演技の限界 ノイローゼ・登校拒否と自殺衝動

 それでも、私には高校という世界しかなかったので、「優等生で明るい剣道部のマネージャー」という表面上の人格を作り、精一杯演技して、学校生活を無難に送るようにしていたのですが、相手に合わせた自分の言動を作り出して演技するということにも疲れ、次第にうまくできなくなっていきました。

 今で言うと、完全にノイローゼとか自律神経失調症とかうつ病だったと思いますが、当時はあまりそういう概念もなく、とにかく気が狂いそうで死にたいくらい絶望しているので、卒業できる最低日数を計算し、それ以外はすべて学校を休むことで、かろうじて生きていこうとしました。

 その頃周りには「登校拒否」という言葉も事例もなかった時代で、高校の先生は、トップだった成績が急落下していくことに、怠けて不良になったというような認識をするのみで、首をかしげるばかりでした。家族も同じような認識で、私の悩みには気づかないために、自分からも、内面のおかしさを気づかれてしまってはこの世界で生きていられなくなってしまうという思い込み・脅迫観念により、わざと「普通」に見えるように精一杯ふるまうようにしていました。

 今思えば、この時だれかに相談するなりという、自発的な行動ができていれば、ましだったと思うのですが、その時の私は子どもであったのと、自分で強い思い込みを持ってしまっていたために、「大人や先生がわかってくれず、気づいてくれないなら、自分からはとても言えない」という判断しかできない状態でした。

 学校をかなり休んだので、よくベッドで眠っていたのですが、そこで見る夢は、この世の絶望的な苦しみよりもずっとましだと感じられました。また、夢を見ている間は、気が狂いそうな苦しみを忘れることができたので、夢の世界で生きていけたらいいのになどと思うこともよくありました。

 この現実逃避的傾向も、オウムや麻原の大きな特徴なので、オウムを肯定する土壌となったと思います。

 そのうち、同じような人が周りのどこにもいないらしいことに悲観し、「この世界に自分は何かの間違いで生まれてきた、宇宙人なのかもしれない」などと美しい夜空を眺めながら真剣に考えることもよくありました。

 学校を休んで家にあった『日本文学全集』を読みふける中で、太宰治や芥川龍之介をはじめて読んだ時は、「私と同じようなおかしい人が、この世の中に他にもいた!」と驚き、「生まれてはじめて同類と出会うことができた、私は宇宙人ではなかった」と真剣に思い、絶望の中にも救われた思いさえしたものでした。

 それと同時に、私も彼らと同じように自殺するしかない人生なのだろうかという思いもよぎり、実際に、自殺衝動に駆られるようになっていってしまいました。限界いっぱいまで演技し続けたことにも限界が来、心身ともども切迫していくと、自殺を考えはじめ、具体的に死ぬ方法を考えたりするようになっていってしまいました。どうしようもなくガラスを割って怪我をしたりすることもありました。


●17歳 自殺を救った湧き上がる強い声

 そのような状況に追い込まれてしまったものの、なぜかその時、心の中から自然と湧き起こる強い思いか声のようなものに、救われていきました。

 それは、「死んではいけない。人が生まれて生きているのには、何か意味があるはずだ。人にはそれぞれ何か生まれてきてやらなければならないことがあるはずだ。」という根拠のない一つの強い思いのようなものでした。

 それがなければ、とても耐えることはできなかったと思いますが、その強い思いは、根拠はないにもかかわらず、なぜか確信に満ちたものでした。今思うと、それはもしかして、この世界の大自然を包み込んでいるような「神」とか「大いなる存在」と呼ばれるような根源的な何かの存在だったのかもしれないと今は思っています。


●自分を教え導く翁のような導師への切望は、「理想化された親のイマーゴ」でもあった

 この頃までのこのような経験から、自分の苦しみから救われたい、生きる意味を知りたいという思いに支配されていた私は、「人生の意味や世界の謎を教え、苦しみから救ってくれる翁のような導師」を、次第に強く求めるようになっていきました。

 「東京に出れば巡り合えるのではないか」いう一縷の希望をもち、受験をして東京へと旅立ちました。それは、当時の私にとっては、死なずに生きるためにどうしても必要な行動で、しかし、ここから、麻原をグルとする、麻原グルイズムへの傾倒になっていってしまうこととなってしまいました。

 脱会後、ひかりの輪の活動の中で、2008年になってから心理学的視点から、麻原や私たち信者の人格分析を行ったのですが、そこで、私のはまりこんだ理由を、わかりやすく説明する概念として、「理想化された親のイマーゴ」という概念が出てきました。

 その概念を学び分析してみると、なぜ私が、あんなにも麻原グルイズムにのめり込んでしまったかのしくみと原因がよくわかる気がしました。

 それに照らし合せて、どういうしくみでのめり込んでしまったのかを考えると、まず、子どもが大人になる過程で、人間が誰しも持っている「自己愛」が発達・成熟していく過程が、なんらかの理由により、健全に発達・成熟できなかったケースに当てはまると思いました。

 その「自己愛」は、健全に発達すると、現実に立脚した、「現実の自分に基づいた」自己愛として、現実の中で、他人に役立つ良い自分を作ろうという「健全な自尊心や自信」という方向に向かうのですが、健全に発達できない場合、現実に基づかない、「虚栄心」や「誇大妄想的なもの」に育ってしまい、現実と他人との関係を無視し、自分の「独りよがりな妄想」の世界の中で、現実の他人に迷惑をかけながら、自分を大切にしようとしていくのだそうです。

 こうして書いてみると、まさに後者は、オウムそのものといえます。

 その過程で、子どもは、「理想化された親のイマーゴ」といったものを発達させていくそうなのですが、これは、自分を支配し、願望をかなえてくれる「神」のような親の理想像とされており、私の場合は、これを「麻原というグル」という存在に、安直に当てはめてしまい、その解消に失敗したケースともいえます。

 心理学上の考え方では、この「理想化された親のイマーゴ」が生じることは、子どもの健全な成長にとって欠くことのできないものといわれており、子どもがある時期、親や身近な大人を、「理想化したもの」として尊敬し、「手本」として取り込むことが、その後の人生において、自らを律し、理想に向かって努力し、他者を尊重し、適切な愛情を結ぶ土台を築くために必要だとされているのだそうです。

 その、「理想化された親のイマーゴ」は、子どもが成長する中で、現実の、親や大人の「理想的ではない部分」を徐々に認識する中で、徐々に解消されていき、その結果、「理想」ではなく、「現実に基づいた、親や他者への尊敬・尊重」に変わっていくのだそうです。

 ところが、何か不幸な事情で、親や周囲の大人が、「理想化されたイマーゴ」としての役割を果たせず、本人の期待をひどく裏切ったり、本人に対して支配的すぎたりすると、本来の育むべき理想や自立心が育たないままに、親のイマーゴばかりが、「過度に膨らんだもの」として、本人の心の中に、居座り続けることになるとされています。

 詳細は省きますが、私の場合は、このケースに当てはまっています。

 この、「理想化された親のイマーゴ」の形成につまずくと、何かに「過度な服従」をとる場合と、「強い反抗」をする、という二つの形であらわれるといわれるいのですが、この「過度な服従」という表現は、「麻原への絶対的な帰依」をしたオウム信者によく当てはまっていると思いました。


●カフェバーとはじめての宗教

 そして、東京に出て、赤坂の短大に通うことになったのですが、そこで出会った友人から、「坂本龍一が来る店だから」と頼み込まれて、西麻布にある「S」というカフェバーでアルバイトをすることになりました。

 その頃カフェバーという種類のお店ができ始めた頃で、その店ははやっており、そこで思いもよらず、「宗教」というものの接点が生まれることとなりました。

 まず、その店の店長が神主で、その奥さんも自分はアマテラスだと語る変わった人で、店に祀ってある神棚の水やお供え物を供えたりすることもアルバイトの内容に含まれていました。そしてそこへは、霊能者や学者や芸能人など、さまざまな珍しい人々が出入りしていました。

 その頃は87年で、東京では新宗教ブームが起こっている時でした。霊能者、修験道の行者、僧侶などの宗教者、細野晴臣、越美晴、坂本龍一、ユーミンなどの芸能人、少年隊などのアイドル、中沢新一などの学者、などと多彩な人たちが出入りしており、その人たちが宗教について語るのを眺めることとなりました。その芸能人たちも、富士山や吉野・天河弁才天社などに、よく行や参拝に行きながら、芸能活動をしているということを知りました。

 店員全員で、定期的に神や霊への供養として、供物を捧げ、祝詞や般若心経を唱えることも大切な行事として行ないました。夜中に車を飛ばして皆で神社にお参りに行ったり、休みの日に富士山の登山に行ったり、身延山に登ったり、大山へ登ったりしました。


●女霊能者の先祖供養と人助け

 そこで出会った「霊能者」のS氏に、悩みを相談してみると、「それはあなたの先祖が成仏しないで苦しんでいることが原因です。先祖供養が必要です。」「あなたは前世で貝の神様だった。だから人と話せなくなった」「オリオン座と関係があります」などと言われました。

 「前世は貝」とか「オリオン座」ということはよくわかりませんでしたが、「私の普通と違うわけのわからない苦しみには原因があった」ということだけでも、わけがわからない苦しみの中にいた私にとっては救いとなり、苦しんでいる先祖のために、部屋にお札を祀り、供物を捧げ、一生懸命、祝詞や般若心経を唱え続けました。また、浄化には水行の禊がいいと聞き、毎日お風呂で水をかぶり、水行をしたり、11月の寒い時期に、富士山の近くの滝で滝行をしたりもしました。

 高校時代の心身の切迫感は変わっていず、相変わらずいろいろなモノが見えたりしていましたが、わけがわからず苦しんでいた高校時代に比べると、苦しみには原因があると知り、それを滅するための行をしているというだけでも、意味があることのように感じられ、喜びと充実感がありました。

 また、その霊能者は、他の苦しみを滅するためのお手伝いをして生きているように見え、すばらしい職業だと思いました。霊媒体質なので霊能者に向いていると言われました。

 山梨の田舎と違い、東京の大書店には、精神世界の本もたくさんあったので、そういった本を読み始めるうち、まずは自分の苦しみを解決して、できるなら人のためになるような生き方がしたいと思うようになりました。しだいに、この店の霊能者やお坊さんや神主さんたちと一緒に、行をしながら聖地巡礼をしたりして、いずれ人のためになるようなことができたらいいのかもしれないと思うようになっていきました。

 また、その店を通じて、私の精神状態を共感し理解してくれ、演技しなくてもなんでも話せるという意味では、生まれてはじめての友人との出会いがあり、大変救われました。後日、この友人と一緒にオウムに入信・出家することとなりますが、今思うと、その友人の存在は、大変大切なものだったと思っています。(彼女は後に一緒に入信・出家しましたが、すぐやめて、一般の生活を送っている)しかしその後、88年になって、人間関係の悪化によりそのアルバイトは辞めることになりました。


●3日3晩続いたヴィジョン(夢)体験と、オウムへの入信の関連と問題

 その1ヵ月後、就職活動よりも、霊的・精神的な問題解決に迫られていた20歳の秋に、3日3晩同じ夢を見続けるという変わった状態になりました。眠ると毎日必ず同じ夢、それも強烈で鮮明な夢を見続けるという状態でした。

 それは強烈で不思議なヴィジョン(夢)体験だったのですが、その後、そのヴィジョンと現実のシンクロニシティが起こり、それがきっかけでオウムに入信することになってしまいました。当時の私は、それを(オウム真理教に導くという)「祝福された神の導き」と解釈していました。

 私の場合は、もしもこの夢を見ていなければ、オウムに入らなかったかもしれないとも思われる部分もあるので、私にとってオウムに入信したことと、ヴィジョン(夢)体験や霊体験は、切り離せない「問題」でもあります。

そして、このときの夢が(オウム真理教に導いてくれた)「祝福された神の導き」であるという当時の解釈は、2年前の2006年になって、大きく、正反対の解釈に、変わることとなりました。

 私が、オウムの総括をしようと真剣に考え始め、やり始めたのは、4年前の2004年ころからなのですが、オウムの総括を進めていた2年後の2006年に、偶然この「祝福された神の導き」と思い込んでいたヴィジョンと全く同じ絵を目にし、大きな衝撃を受けるということが起こりました。

 それは、『ダンテの神曲』の挿絵にある「煉獄」の絵でした。それが、私の解釈を変えるきっかけになったのです。

その解釈の変化についてお話しする前に、まずは、最初の体験とその解釈、つまり、88年当時に、私が見たヴィジョン・夢とそのシンクロ現象について、お話ししたいと思います。それは次のようなものでした。

 高い山が目の前にそびえていて、ある男の子が私の手を引いて、その山を登らせます。その山はジャングルのように険しいため、わたしは死にそうな大変な目にあいながら、必死で山頂に辿り着きました。山頂に着くと、天から何人もの翼の生えた天使が光とともに降りてきて、「よかったね、やっと辿り着いたね」「よかったね、やっと巡り会ったね」と大合唱して祝福する、という夢でした。

 このビジョンを見続ける状態が、3日3晩続いたため、私はその夢についてよく考えていました。

 その夢に出てきた男の子は、私の小中学校の同級生で、高校が別になってから、「東大」に入ったということしか知らず疎遠になっていたのですが、その夢を3日間見続けた翌日学校に行くと、友人が開口一番、「明日、東大の学園祭だから行かない?」と私を誘いました。

 私の中では、その夢が3日間頭にこびりついていたために、「東大」というワードと夢の中の人物が結びつく状態になっており「もしかして彼に会えるかもしれない」という連想が起こり、東大の学園祭に足を運びました。

 東大に行くと、彼とは出会いませんでしたが、門の前には「麻原彰晃講演会」という巨大な看板があり、そこで初めてオウムと出合い、1ヶ月後に入信することになりました。

 そこでもらった『生死を超える』と『マハーヤーナ』の本には、釈迦牟尼の「十二縁起の法」とヨーガの「クンダリニーのプロセス」が絡めて説明されていたのですが、その内容に、当時の私は大きな衝撃と興味を覚えました。

 その本での、麻原の「十二縁起の法」の解釈は、仏教をヨーガのプロセスと絡めて「最終解脱者」である著者が、はじめて解き明かしたと宣伝されており、人は苦しみを感じ、修行の道に入り、クンダリニーが覚醒し、修行を続けると、釈迦牟尼のように解脱・悟りに至ることができるという内容でした。
 
 なお、この「縁起の法」の解釈が、本来の仏教のものとは、まったく違っていることは、後に一般的な仏教書を読むようになって知ったのですが、麻原の解釈は、まったくの独自なものであるだけではなく、仏教と正反対のことをいっているという、たいへん大きな過ちに気づくことになりました。麻原の独自の解釈は、真の我、である「真我」を目指すというもので、「我」は存在しないと説く、仏教の立場とは、正反対なのです。

 これが、オウムの魔境を作るたいへん大きな問題の中核でもあったということに思い至ったのですが、そのことは後に述べたいと思います。

 また、その本には、魔境に入り苦しみぬいて修行の道に入りヒマラヤで「最終解脱」したという著者の実体験が紹介されていたのですが、当時の私の印象としては、自分が魔境のようになって苦しんでいたために、「魔境に苦しんで解脱したという」著者に共感を覚え、また、「解脱」というはじめて聞く概念に興味を覚えました。

 そして、その書籍には、麻原が「最終解脱した」ということに加え、弟子も同じように修行して解脱しているということが書いてあり、弟子を適切に導くグルとしての麻原の具体的な指導のストーリーが、ドラマチックに大きく宣伝されていました。

 特に、「そのとき私は光だった」という元ケイマ大師こと石井久子氏の独房修行と、成就体験談の特集を見て、当時の私は「このような人たちがこんなにたくさん日本にいたのか」ということに驚き、頭上から光が降り注がれるような気さえし、長年探し求めていた「真理」と「翁のような導師」に「やっと巡り会えた」と、当時の私は興奮していたことを記憶しています。

しかし、今思えば、このような教団の書籍は、誇大宣伝に満ちていました。実際のところは、「最終解脱者」と宣言したのは、麻原自身の、自画自賛の自分勝手な宣言にすぎませんし、「十二縁起の法」の解釈もでたらめです。当時「解脱した」はずの石井久子さんは、逮捕後は精神病になったとも聞きます。麻原自身も、あのような精神が破綻した状態になっています。それが現実です。

 しかし、私を含め、若さもあり未熟だった、多くの信者は、私と同じようにこういった教団の誇大宣伝を、そのままうのみにして信じ込み、真に受けて、教団にはまっていったのだと思います。


●神の祝福は「煉獄」だった

 この、3日3晩の神聖に思われたリアルなビジョン・夢体験と現実のシンクロ現象は、当時の私にとって、以下のようなプロセスをたどって心の中で解釈され、入信を決めるに至ってしまいました。

①夢から連想した場所(=東大)に、夢を見た直後に現実に誘われた。

②現実にそこへ行くと「苦しみ抜いた末修行の道に入った」という経験を持つ麻原彰晃の講演会があり、そこでは「苦しみからの脱却と解脱」が説かれていた。

③それは、「苦しみ抜いた末、やっと山頂にたどり着き巡り会い天使が祝福する」という夢のシンクロ現象のように見え、そこから、このヴィジョンを、「苦しみ抜いた末、やっと真理とグルに巡り会う自分への神の祝福」のように見え、解釈してしまった。

④これは、当時の私にとっては、あまりに絶妙なタイミングの出来事だと感じられたために「特別なもの」と価値をおいてしまった。

⑤そこから、「なにか人智を超えた、神の祝福・導き」と解釈するに至ってしまったのです。

今思えば、これが「神の導き」であるという証拠などはまったくないことがわかります。これは、「私だけが見た夢」であり、この夢を解釈するのも判断するのも「私次第」です。

 実際のところは、こういった夢と現実のシンクロ現象は、「正夢」といわれるものとして、心理学者のユングが報告しているように、人間が誰しも時々体験することだと今は知っています。

 また、こういった自分の体験と書籍だけで、安直に麻原を救い主であると思い込んだのは、今思えば、人や団体の性質を適切に判断するには、あまりに未熟なものとしか言いようがありません。当時、自殺を考えるほど精神的に切迫していた私の、「苦しみから救われたい」というたいへん強い欲求と状況に基づいた 拙速な、「間違った判断」といえるでしょう。

このような出来事が、私が入信したきっかけでした。それは、わたしにとって、オウム幻想が崩れるまでは、「神の祝福」でしたが、崩れてからは、「当時の私の未熟さと状況の故に、避けることができなかった運命=業」だと感じるようになりました。

そのような認識に変わったのは、その夢を見てから18年も後の、2006年のこととなりました。あまりにも長い間の思い込み・幻想でした。

 その時に、はじめて目にしたダンテの『神曲』の「煉獄」の絵に、その「オウムに導かれた祝福」の夢のヴィジョンとそっくりなものが絵が描かれていたのですが、それが引用されていた『三位一体モデル』という本には、その「煉獄」とは、真の祝福ではなく「その煉獄があれば救済されるという都合のよい大発明だった」と書いてあったのです。

 私も「オウムの修行をやれば救済される」と思って入ったわけですが、それを読んだ時、「過去の歴史の中で人類が生み出した煉獄」と「私が生み出したオウム」が重なって感じられ、「オウムとは、実は、私が生み出した都合のよい大発明=煉獄だったのか」と感じられ、なんともいえない気持ちになりました。

ただ、この煉獄の話を1988年の時点で知ったとしても、私がオウムに入会しなかったという保証はなかったと思います。というのは、このことに気づいた2006年の時点では、先ほども書きましたが、私は、オウムの総括を徐々に進めており、すでに麻原やオウムを絶対視することはなくなっていました。そのため、オウムを客観的に見ることができるようになっていたという状態でした。

 その視点でオウムを見ると、私を含めたオウムの信者は、麻原と自分たちの教団を、あまりに安直に、妄想的なまでに絶対視することで、自分が、「解脱した・進化した・救われた・救済している」と思いこんで喜んでいるという構図が見えてきました。

 そしてこの構図は、「妄想的な救済」という点で、「都合の良い大発明」だったという「煉獄」のイメージとぴったり重なるものでした。

 どちらも「自分に都合の良い妄想」といえます。それを、現在、ひかりの輪でも紹介し、実践していこうとしている、「こつこつとした地道な修行を通して、自我執着を止滅することで救済される」とした、釈迦牟尼の説く、正当な仏道修行の教えなどと比較するならば、「あまりに都合の良い妄想」と言わざるをえません。

 こうして私は、結局は、「自分で都合のよいいろいろなものを作り出して」生きてきただけなのか、という気がして愕然としました。

 救われたいがあまりに、自分でそのような夢を見続ける霊的体験を作り出したのか、それとも、その私の心の隙につけこんだ「神」か「悪魔」のような何者かに見せられたのか、それとも、未熟な私にとっては避けられない運命だったのでしょうか。今の私は、私の心の隙をついて、自らが作り出した妄想的なヴィジョンだったと考えています。


●オウム真理教への入信

 こうして、入信前までの出来事を長々と書き連ねてしまいましたが、簡単にまとめるならば、なぜオウムに入信したのかというと、気が狂って自殺しかねない切迫した精神状態の時だったからこそ、その夢と自分の境遇とオウムとの出合いを安直に、「運命的なもの」と思いこみ、そうした、ということになります。

 その後、89年11月、入会金をすぐに用意して入信しました。

 オウムで私の状態を相談すると、「霊を見るのは、霊性が高いが功徳が足りないからで、低位のアストラル世界=色界とつながっているから。功徳を積めば、低い世界とつながらなくなる。ノイローゼも、功徳を積み心を浄化すれば治る。功徳とは人のためになる行いをすること。心の浄化は自己のけがれを懺悔し、他に対する愛の実践をすれば浄化される。それらをやらずに、霊能者のように先祖供養をして念仏を唱えて神頼みのように拝むだけでは解決にはならない。霊能者は霊性は高いが、功徳が足りず、低級霊の世界を見てその世界の話をしているということ。修行のプロセスは、「苦ありて信あり」だから、苦しみが多かったのは修行者のカルマ。時期が来て真理に導かれた。」という答えが返ってきました。

 これらの答えは、当時の二十歳そこそこの私にとっては、今まで出会った人の中では、最も納得のいくと感じた話でしたが、今思うと、オウムの特徴である、あまりに単純で、いろいろなことを妙にはっきりと断定する答えだったといえます。

 先のことについて、こうすれば必ずこうなるとか、見えない世界の世界観について、はっきりと言い切るところ、その姿勢が、麻原が信者を集めた理由でもありますが、言い方を変えれば、確証もないことを断定して安心させるという意味で詐欺的でもあります。

 私は、不安定で、確たるものの感じられない世の中で、はっきりと断言されることで、あまりに安直に答えを出し安心しようとする、依存的な心の働きがあり、先に述べた「煉獄」のように「これで救われた」と思いたかったのだと思います。

 「四諦・八正道・六派羅蜜・四無量心」などの仏教の教えは、仏教の勉強などろくにしたことがなかった当時の私にとっては、オウムの書籍の中で、生まれて初めて目にするものだったために、他の教えを精査することもなく、麻原の説く教えを、人の心のためになるよい教えだと感じました。

 子どもの頃から、学校や親から教えられることのなかった「心」の教えを求め、わけのわからない霊的魔境的状態に悩まされていた私は、生まれてはじめて、「心」についての教えを受けることができたと興奮し、当時の私はすぐにはまり込んでいきました。

 そして、それらの仏教の教えを学び、大乗の発願とか、回向文といった、他の幸福を考える詞章や瞑想などを行っていくうちに、ノイローゼ状態や霊的魔境状態が改善されて、たいへん楽になっていきました。

 これは、オウム・麻原信仰を脱却するまでは、「麻原とオウムによって救われた」と思い込んできましたが、その後、基本的な仏教の教えを学ぶにつれ、その思い込みが、思い込みだったことに気づきました。

 冷静に考えれば、これは、それまでの自己中心的な、自己の苦しみに没入していただけの私の性格が、「仏教の利他の教え」で、他の幸福を考える方向に修正されたことが原因であり、「麻原とオウム独自の教え」に救われたというわけではありません。

 人は、誰か権威のあるような人や、その団体によって救われるのではなく、「私」にこだわらないことによって救われるというのが、仏教の教えであることに、やっと気づいていきました。

 また、入信したての頃の私は、この、自分が楽になった経緯について、「オウムの教祖」や「オウム」のおかげ、とは思ってはいず、なんらかの神が、私に苦しみも含めて与え、見守り、「苦ありて信あり」のプロセスに自分を導いてくれたのだと感じ、修行の道に導いてくれた何者かわからない「神」への感謝が生じるという状態にありました。

 よくよく思い出してみると、その「神と感じたもの」には、特に、名前も、姿もなかったのですが、当時オウムではシヴァ神を主宰神としていると聞いたために、安直に「オウムのシヴァ神の導きだったのだ」と思い込み、「あれはシヴァ神だ」と結びつけ、「自分はオウムと縁があり、オウムのシヴァ神に導かれている」と思い込んでしまったのですが、今になってよくよく考えてみると、その「神のようなもの」は、「オウム」でも「シヴァ神」でも「麻原」でもありませんでした。

 今では、そのような存在は、「麻原」でも「シヴァ神」でも「なんとか神」でもなく、大自然に遍在する、古代人が感じてきた、何らかの「大いなる存在・神」とでもいうようなものなのではないかと思っています。

 こういった経緯で入信したのですが、後に私がどんどんはまりこんでいったあとの状態と比較すると、このあたりまでは、「苦しみから救われたい一心」で道を求めていた部分が大きかったと思いますが、苦しみが少し楽になると、人の心というものは恐ろしいもので、さらに欲が生じていき、それまで隠されていた野心が、どんどん湧き出していくことになってしまいました。


●既存仏教への幻滅

 オウムに入信した当時は、時期的に、卒業間近だったため、進路を決める時期が迫っていた時期で、進路については、オウムに入信する前から、どこかのお寺に出家することも考えていたこともあり、お寺に行き、お坊さんの話を聞いたり、行を行ったりしていました。

 しかし、寝泊りして禊の水行に参加していたあるお寺で、夜中に僧侶が部屋に忍び込んで来るということが起きてしまい、大きなショックと幻滅を経験することになりました。

 小さい頃から感じていた「自分は悪い人だ」という思いもあり、悲惨なことしか起こらないのは自分がよほど業が深いのだろう、最後の頼みの綱のお寺への出家ということさえも断ち切られてしまった、とさらに落ち込み、絶望し「とにかくこんなに業の深い自分は、自分の業を誰かに懺悔して、修行し、清らかになり、いつか苦しんでいる人のために生きられたら」と切実に思うようになりました。

 「修行の道としては仏教」と思っていたので、既存のお寺への出家の道がこのような形で断たれたことはたいへんなショックと幻滅を味わいましたが、このことが既存仏教への出家ではなく、オウムへの出家を決断する一因ともなる面もありました。


●麻原との初対面と、私の中でのオウム的思考のはじまり

 入信した翌月の89年12月、通っていた世田谷道場の説法会で、はじめて教祖の麻原と対面しました。

 説法後「シークレットヨーガ」という一対一の面談を受けたのですが、はじめて会う教祖は、気の力が強く、大きな身体に反して、宙にそのまま浮いてしまいそうな上昇した気を持っている印象と、厳しいグルという印象を受けました。

 その対面直後から、声がほとんど出なくなるという症状になってしまったのですが、驚いて困ってしまい、弟子の一人に相談すると、「グルと会ったから、気が上がって喉の浄化が起きたんですよ。喉でエネルギーが詰まっているからですね。しかし、初対面で直後にそうなるということは教祖と縁が深いのですね」と言われました。

 そして、面談で、教祖から個別のマントラ伝授を受けた際にもらった「スーパーグルヨーガ」というマントラは、「特に縁が深い人に」与えられるマントラだと言われ、「自分は教祖と特に縁が深い」と誉められてうれしくなり、あまりに単純だと思いますが、すっかりその気になってしまったのでした。

 これは、今までオウムの問題を見つめてきてはっきりしていることですが、「勧誘のパターン」なのです。このパターンでは、自殺も考えたほど悩み、何もかもうまくいかない自分が、その一言で、一瞬にして「教祖と縁の深い特別な人間」になり、人から称賛される存在となります。

 この、あまりに安直なパターンで、多くのオウム信者は、のめり込んでいきました。若さゆえに未熟だった面も大きいと思いますが、単純で無智としか言いようがないということと、オウム・麻原の悪魔的魅力ということもいえます。

 それはまた後に述べますが、麻原の特徴として、「相手のプライド・自尊心・虚栄心を満たすことで、自己に帰依させていく」というものがあり、それが巧みでうまかったと思います。
 今思うと、この教祖とはじめて会った後に感じた、一見何気ない喜びが、後に「特別な教祖と縁が深い自分は特別な存在だ」という「自己特別化」のはじまりであり「自我」を増大・肥大させるはじまりであるし、突き詰めると、良心に反していても教祖の指示であれば犯罪を犯すような、オウム的思考の、私の中でのはじまりだったと思います。


●オウムが若者を惹きつけた理由と、その過ち

 在家信者として、麻原の本を読み進めてうちに、私はどんどんオウムにはまっていきました。
 どういう点にはまっていったか書き出すと、だいたい以下の内容になります。

①当時の私には、物質的な価値観に偏った現代社会の中で、学校や家庭では学ぶことのできない、心の教え、人生の目的や、生死の意味などについて、仏教・ヨーガの概念を使いながらわかりやすく説いていたと感じさせた点。

②当時の私には、自分が既存仏教が葬式仏教・破戒坊主などで形骸化・堕落していることを実体験したため、比較し厳しい修行を真面目に行なっていると感じさせた点。

③当時の私には、それらの教えを直接説き指導する「最終解脱した」とされるグルがいて、精神の目標を知らずに生きてきた自分にとって、「最終解脱」という、人の精神の最高点とされるモデルが具体的に示されたと感じさせた点。

④当時の私には、「教えだけ」でなく、ヨーガ・仏教を元にした具体的な実践的な修行体系があったと感じさせた点。

⑤当時の私には、その修行に参入し、成長していくための「イニシエーション」という通過儀礼が重要なものとして位置付けられ、存在していたと感じさせた点。

⑥当時の私には、教祖だけではなく、実際にその教えや修行法を実践して「成就した」とされる弟子が多数いて、具体的な目標への道しるべが証明されていたと感じさせた点。

⑦当時の私には、人々のためになるような具体的な利他行である「救済活動」を展開していると感じさせた点。

 よく、イニシエーションなき時代の隙間に、麻原彰晃が登場し「最終解脱者」であると名乗りを挙げ、多数の若者を惹きつけた、と言われますが、まさにそのとおりだったと思います。しかし、その結果が、「オウム事件」なのです。

  ①の、家庭や学校で説かれることのなかった人生の目的や生死の意味について、強く説かれたこと自体は、画期的でしたが、残念ながら、その内容は、大きく間違っており、実に、仏教とは正反対の教えでした。結果として、その教えを実践することにより、自己中心的で傲慢な人格が育ち、オウム事件にまで発展していってしましました。

 ②の、厳しい修行を真面目に行っていたという点については、その修行の一部には、あらっぽく厳しすぎる修行があり、そのため、心身の状態を崩し、狂ったり、実際に死に至った者も少なからず出てしまいました。麻原自体や、高弟と呼ばれた多数の人が精神病院に入院したりと精神を破綻させています。また、その修行ができない人に対し、罰が与えられ、できる人は「自分はできるんだ」と愚かな傲慢を増大させました。

  ③については、心の問題が軽視されていた事態に、人の精神の目標のモデルが示されたこと自体は必要なことだったと思いますが、それが正しい示され方ではありませんでした。「最終解脱者」という概念は、どこにも存在しませんので、嘘・ハッタリで、人を騙したということになります。

  ④の、教えだけでなく、ヨーガ・仏教を元にした具体的な実践的な修行体系があった点については、実践的であったこと自体は、若者を中心にして好感を得たものの、その修行法は極端で独自なものだったために、上記に述べたような心身を痛める者を相当に出すことになってしまいました。

 ⑤の、その修行に参入し、成長していくための「イニシエーション」という、通過儀礼が重要なものとして位置付けられ、存在していた点は、現代の「イニシエーションなき時代」には、本来望ましいことだったかもしれません。

 しかし、イニシエーションとは、例えば昔の日本で言えば、元服の儀式のように、人が子供から大人に成長していくための通過儀礼であるところ、オウム真理教のイニシエーションは、まったく逆に、弟子を教祖のロボット・クローンのようにさせ、その世界の中にいれば、永久に自立できない人間となるような内容を持っていました。

 違法の薬物などを使用し、その「イニシエーション」によって、信者を「支配」する意図が隠されており、本当の「成長のための通過儀礼」の意味をなしませんでした。信者は「成長」するのではなく、「依存」を強めていくこととなってしまいました。

  ⑥の、教祖だけではなく、実際にその教えや修行法を実践して「成就した」とされる弟子が多数いて、具体的な目標への道しるべが証明されていた点については、「多数の人が、実践した」という意味では、実のあることだったかもしれませんが、その「成就」は、本当の成就ではなく、霊的体験に偏り、人格の成熟を伴わないものだった点が大きな問題です。実際、「一番弟子」といわれた石井久子さんは、精神を病んだと聞いています。

  ⑦の、人々のためになるような具体的な利他行である「救済活動」を展開している点については、「利他行」を目指したところはよかったのですが、実際のその「救済活動」は「無差別大量殺人」に帰結し、人のためになるどころか、多くの人の命を奪い、取り返しのつかない苦しみにおとしめることとなってしまいました。

 このような形で、振り返ってみると、その目指すところはよかったのかもしれませんが、実践・手段がすべて、まったく間違っており、どうしようもない悲惨な結果となってしまったことは言うまでもありません。



●神秘体験により、安直に麻原の弟子だと思い込み、出家を決意する

 入信して2ヶ月で、出家したいと思うほどのめり込んでいきました。そして、3回目の教祖との対面の際、神秘体験が起こり、「自分はこの人の弟子なのだ」と思い込んだことが、出家の決め手となりました。その体験は以下のようなものでした。

 世田谷道場2階で説法会が行われた際、説法会場の部屋がいっぱいになり、入れなかったため、それを悲しんでいたときのことです。説法が終わって散会し、やっと入れるようになったとき、私は、「会いたい。教えを聞きたい」という強い思いを抱いて2階に入りました。

 すると、弱視の教祖が遠くからじっと私を見つめていると感じました。正確に言えば、私の方を見つめていると、私が思い込んだのだと思います。

 それと同時に、私には、教祖から発された白い光の帯のようなものが、10メートルくらい離れた私の頭頂からどーっと流れ込んで、それと同時に実際に身体が暖かくなり、涙が滝のように流れ出し、気の流れが通っていき、何かのイニシエーションを受けているという感覚が起こりました。

 その光はたいへん心地よく、心身を急激に浄化する暖かく優しいと感じる光で、「話さずとも私の求道心をわかっており、エネルギーを送ってくれたんだ。グルと弟子というものは離れていてもエネルギー的につながっているのか」と、とっさに感じ、つながっているということで安心感が生じました。

 今から思うと、私が普段の苦しみを背景として、強く教祖の救いを求める中で、教祖が私の方を見ていると思いこんだ結果として、教祖が私を救うという幻想的な体験をした可能性もあります。

 しかし、その当時の私は、この体験による安心感が生じたことで、すっかりはまってしまい、その1月後にすぐに出家をしました。この時のことを振り返ると、あまりに単純な決断だと思いますが、人は、こういった体験にとても弱く、ここに落とし穴が隠されているように思います。

 私の場合は、生い立ちや、16歳で父を亡くした喪失感、不安感や、心の教えを説く尊敬できる教師のような大人と感じる人と出会えなかったという不安感・不満足感から、心理学的な視点から先に述べた「理想化された親のイマーゴ」というべき「理想像」への渇望を強く残してしまっている状態にありました。

 そのため、父と教師が一体となったような理想像を、「グル」という概念に結びつけて、「グル幻想」とでもいえる幻想を生み出してしまったと思います。それは、グル幻想・オウム幻想・救済幻想・最終解脱幻想というようなものすべてに当たると思いますが...。

 とにかく、即座に、先に述べたようなさまざまな安直な意味付けをし、その対象が「麻原に違いない。麻原であってほしい」と、たいへん強く思い込んでしまっていた状態だったと思います。しかし、当時はそんなこととはまったく気づくことができませんでした。

●「救済」のためと思い込んだ出家

 当時、89年の初頭、オウムでは仏教・ヨーガをベースにした麻原独自の教えに加え、『滅亡の日』というハルマゲドン思想の書籍が発売されました。そこで、麻原は「ヨハネの黙示録」を解釈し、世紀末に起こるハルマゲドンの際に救世主と真理の宗教が現れ、救済することになっていて、それがオウム。そして、そのハルマゲドンを回避するためには、修行して解脱した3万人の成就者が必要だと説き始めました。

 そして、麻原の弟子が鎌で作物を刈り取るヴィジョンを見たということで、当時出家者を刈り取るということで、それは「シッシャ(出家者)狩り」と呼ばれていましたが、そのハルマゲドン回避のために1人でも多くの人が出家して、修行に励み、成就する必要があるという話がありました。また、出家することは徳がないとできないことであり、出家のカルマのある人は、「最高の功徳」のある人であると説かれていました。

 私は当時、上記のように、安直に麻原とオウムに自身の魔境状態から救ってもらったと思い込んでしまっており、「グルとの縁が特別に深い」と思い込んでしまっていましたが、さらに「救済」という理念が、とても意義のあるように感じられ、すぐに出家を決め、短大卒業直後の89年3月30日に出家をしました。このときまだ20歳で、入信してから4ヶ月もたっていませんでした。

 しかし、今、当時の自分の心理を見つめてみると、その「救済」という理念に感応した自分には、人を助けたいという純粋な心だけではなく「野心」の割合が大きくあったと思っています。

 この「救済」という理念についてですが、当時の私にとっての「救済」という意味は、出家して自己を浄化し、悟って、人々を救済する=人助けをするという概念です。

 しかしこの「救済」という理念に賛同することで、一瞬にして、自分を「世界を救済する者」の一員にし、虚栄心を高めることになるという構図がありました。

 悲惨で苦しみの人生を歩んできた「価値のない」自分が、「徳のある、救世主と縁の深い特別な存在」となり、「人類滅亡を防ぐための3万人の成就者の1人となり、人々を救済する側に回る、価値のある優れた存在」となり、「物質主義で煩悩的な人々と違い、精神性を重視するレベルの高い存在」となるわけですから、当時の私にとっては、夢のようなたいへん魅力的な話だったのだと思います。

 今思うと、単純な、アニメの世界のようなヒーロー願望のようです。

 しかしそれは、そもそも釈迦牟尼が説かれている「自分へのとらわれを滅し、煩悩を滅する」という本来の仏教の教えからすれば、「自分の存在価値の高まりに喜び、自分が救済者になり人々の上に立つという願望を強めた」という意味ではまったく180度逆の志向でした。

 しかしそれらは、当時オウムで強く説かれ、自身でも目標としていた「修行」「解脱」「悟り」「救済」「煩悩捨断」といったような理想とそれらに巡り会えたという興奮状態の影に隠れ、そのような自己の暗部・野心には気づくことさえありませんでした。
●20歳 「出家」という家出

 母には反対されましたが、自分の子どものころからの悩みと霊的状態などを、初めて話しました。「それらを理解し導いてくれたのは、麻原とオウムが生まれてはじめてのことだった。私はそういう先生を求めていた。学校の先生にもお母さんにも気づいてもらえず、おかしいと言われ、話すこともできなかった。」と言うと、母はショックを受けて泣いてしまい、泣き泣き出家を許してくれました。

 それは私を育ててくれた母にとってとてもきつい言い方で、母が悪いと言わんばかりに大変に傷つけてしまったと思っていますが、当時の私は、自分の苦しみで精一杯で、母を思いやることができず、そのように話すことしかできませんでした。急激に家を出、すべての関係を断ち、去るという自分勝手な行動は、今思えば「出家」というよりも「家出」だったと思っています。


●現代の霊性と心の問題

 オウムに出家した選択の背景に、もう一つの重要な理由がありました。それは今の時代も解決できていないことだと思いますが、「霊性」「心」の問題です。

 生い立ちの中で周りの人たちと共有できず否定・奇異に見られていた、自身の「霊的体験」などについて、オウムでは、まず正面から話が通じ、理解してもらえるということがありました。そしてそのしくみや解決法が具体的に示されていたという点が、私のようなタイプの者には、最も重要なことでした。

 もし、麻原以外に、霊的体験や心の教えについての、正しい知識と対処法を教えてくれるような先生と出会っていたら、自殺を考えてしまったほどの悩みも解決し、オウムには入らなかったのかもしれませんが、私の場合、そのような出会いは、それまでにありませんでした。

 現代の自殺者の増加や犯罪の低年齢化などを見ると、私と同じようなタイプの子どもたちが、そのような教えや先生に出会うこともなく、奇異な目で見られて、生きる場所を失っていないかと心が痛みます。

 この点は、オウムや麻原のような宗教でない、霊性や心についての、正しい知識を対処法を学べる、人や団体がたくさんできていくことを、心から望んでいます。また、私自身も、今後の人生において、かつての自分のようなそういった人たちの問題解決のお手伝いができたらと思っています。


●89年初頭 「救済」の裏の麻原の「野心」

 この当時、89年3月までに、すでに教団内での殺人事件が起きていることを後に(2000年以降)知り、大きなショックを受けました。

 このことを知るまでは、オウムは93年頃から「暴走した」のであり、最初は正統的な修行教団だったと考えていましたが、このような初期の時代から、殺人が行われていたということは、最初から正統的な修行教団ではなく、そういう体質だったということが明らかになったのでした。

 特に、まだオウムから完全には脱却しきれていない2005年ころに、当時出版された早川紀代秀氏の著書『私にとってオウムとは何だったのか』には、内部から見た詳細な事実が、同じ元信者としての認識から書かれていて、理解が深まり、たいへん現実を受け止める手助けとなりました。

 さて、その事件ですが、当時は知る由もありませんでしたが、麻原の裁判の判決によると、すでに88年9月22日に、「真島事件」が起こっています。

 麻原の裁判判決には、「在家信徒である真島照之が奇声を発するなど異常な行動に及んだことから,被告人の指示に基づき,真島に水を掛けるなどしていたところ,誤って同人を死亡させてしまった。被告人は,この件を公にすると教団による救済活動がストップしてしまうことを恐れ,警察等に連絡しないこととし,岡﨑らに命じ,ドラム缶に真島の遺体を入れ護摩壇で焼却した。」とあります。

 このことから、この時点で、麻原は、人1人の死よりも、自分と教団の救済活動の方が価値があることだと考えていたことがわかります。それらに「価値を置くがあまり」、人としての良心や正常な判断力を失ってしまったのでしょう。このことは、一連のオウム事件、ヴァジラヤーナ活動という名の犯罪行為を起こした背景と共通していることだといえます。

 ですので、ヴァジラヤーナ活動という名の犯罪行為が本格化したといわれる93年以前に、表面上には隠されていても、この性質はオウムの中に内在されながら、教団は拡大していったということになります。

 そしてさらに、私が出家する1ヶ月前になる89年2月に、「田口事件」というはじめての殺人事件が起きています。

 裁判の判決では、故真島氏の遺体焼却に関与していた故田口氏が、89年1月頃から脱会を希望し「脱会させないなら、麻原を殺す」と言い出したため、麻原は、故田口氏が脱会して故真島氏の件を表沙汰にすると教団維持や宗教法人化の障害になると考え、早川氏、村井氏、岡崎氏、新實氏に命じて、脱会を留まるように説得させ、もし説得に応じないのであれば殺害するように指示し、田口氏は説得に応じなかったために、頸部をロープでしめられて死亡したとされています。この辺りは当事者である早川氏の著著に詳細が書いてありました。

 これは、先の故真島氏の事件と異なり、明確な意図的な「殺人事件」です。この背景には「世界を救う教団の邪魔となる者は殺した方が世界のためになる」という独善的な考えがあり、真島事件のときと同じように、「自己と教団の価値を高めた」ことにより、起こってしまったといえます。

 これらは、麻原の救済の名の裏に隠されていた「野心」です。
 そして私の心理と絡めて考えると、私の出家の動機である「救済の理念」の選択も、「自己の価値を高めた」という意味では、根底には麻原と同じ「野心」が働いていたことに気づき、改めて恐ろしくなりました。

 暴走すれば犯罪を犯しかねない、麻原と共通した野心という心の過ちを、実は私も出家を決めたときから持っていたということになるからです。

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