指導員・会員の総括

宗形真紀子 麻原彰晃とわたしの魔境

■4 サリン事件後5年間を振り返って(1995~2000)

 サリン事件発生までに、上記のように、麻原グルイズムとマハームドラーへの傾倒を強め、しだいに陰謀論までも信じるようになっていった私は、サリン事件を境に、オウムの実体を知ることになっていきました。

 しかし、その後、12年もの長い間、2007年に脱会するまで、オウム・麻原信仰を続けてきてしまいました。以下に、サリン事件発生から、2000年に上祐代表が教団に復帰し、事件を直視する活動をはじめる前までの、5年間の私の状態を振り返りながら、なぜ続けてしまったかについて、内省していきたいと思います。


●地下鉄サリン事件と強制捜査

3 月20日に地下鉄サリン事件が起こった日は、上九の第6サティアンでお供物を分ける仕事をし、ニュースや新聞を見ていなかったため、能天気にも、それを知ることさえありませんでした。

 もともとオウムでは出家したら「情報遮断」ということで、麻原の教え以外の情報は、ニュースさえも何一つ入れないという戒律が定められていました。それに加え、この頃は「外部の情報はフリーメーソンに牛耳られたものだから、遮断しないと煩悩的な方向にマインドコントロールされる」とされ、情報遮断が強められていました。

 さらに、外には毒ガスがあるからと、基本的に外に出ず、窓も開けない生活をしており、信者だけで暮らしていたために外部の情報は全く入ってきていませんでした。

 3月22日の早朝、強制捜査が行われました。その時私は第六サティアンにおり、突然の出来事に驚きながらも、「いよいよ本格的な弾圧が始まったんだ」と思っていました。「いよいよ」というのは、それまでに「徹底的に弾圧される」というノストラダムスの予言を根拠にした陰謀論が説かれていたためです。

 サティアン入り口の鍵が閉まっていたので、最終的にはチェンソーで鉄の扉が壊され、迷彩服を着た警察官がなだれ込んできました。捜査は厳しいもので、警察官は緊張して殺気立っていました。後にその理由を知りましたが、当時は、救済を説き、不殺生の戒律によりゴキブリさえ殺さないオウムがそんなことをするわけがないと思い込んでいたので、「宗教弾圧だ」と本気で思っていました。

 強制捜査の最中に、麻原から「支配流転双生児天(=閻魔大王)の裁きによって地獄に堕ちるぞ!」というシュプレヒコールを行えという指示が来たため、皆であらん限りの大きな声でずっと叫び続けました。これは、出家修行者を持つ真理の団体への弾圧は、地獄行きだという意味です。

 ずっと行い続けていると、先導するはずの当時の高弟の1人が「そんなこともうしなくていいよ」と投げやりに言ったので、「あれ?なんでそんなグルの指示に反したことを言うのだろう」と思いましたが、今思うとその人は、教団の違法行為への関与を知っていたがために、知らずに一生懸命叫び続けている私たちを不憫に思ったのだろうと思います。

 その翌日すぐに、麻原の強制捜査に関して信者に対するメッセージが全国放送されました。そのときの内容は「強制捜査は、激しい弾圧が来るというノストラダムスの予言の成就で、オウムが大きくなる要素があるため国家が恐れているからで、キリストや釈迦のように解脱の前には必ず大きな試練があるように、今こそが大きな試練だ。マスコミに惑わされずにグルに確信を持て」といったような内容でした。

 それを聞いたみなと共に、私も感動し、弾圧に耐えてグルを信じる決意をし、その後のしばらくの時期をこのときの説法を支えに過ごしていました。


●誇らしいと思いこんだ逮捕

 強制捜査の当日、施設の責任者であるというだけで、出家信者の子どもの教育係で、温厚な杉浦氏らが逮捕されたことも、大きく弾圧だと思うに足る理由でした。また、この時期『亡国日本の悲しみ』という麻原最後の著書が出、それには出家信者を有するオウムへの不当な弾圧は日本を滅ぼす結果になるだろうと書かれていたので、それをうのみにして「日本は大変な悪業を積んでしまった」と能天気にも日本を憂慮さえしていたのです。

 強制捜査から何日か経つと、「特別ワーク」ということで、麻原から「占い師になって布教しろ」という指示が人づてに来たため、第10サティアンの一角にあった占星学チームに移動することになりました。これは、弾圧が強まったために、オウムと別の形で行う布教計画の一つでした。

 その第10サティアンにはパソコンがあったため、事件後初めてニュースを知ることができ、大量の住居不法侵入などの微罪逮捕者が出る中、4月には次々と高弟たちが逮捕されていくのを知りました。8日には「治療省」の林郁夫氏、12日には「自治省」の新実智光氏、20日には「建設省」の早川紀代秀氏が逮捕されていきました。

 その占いの仕事の準備のために東京へ行ったときに、村井氏の刺殺をテレビで知ったときは、村井氏が宗教弾圧の一環で殺されたのだと思い、「弾圧はここまできたのか」と驚き、恐怖しました。当時オウムで一番高いステージの1人だった村井氏の死を悲しみ、不安になりましたが、当時の私は、その不安の気持ちを打ち消し、とにかく麻原からの指示である占い師になる勉強にできるだけ集中しようと考えました。

 その後も、26日には「厚生省」遠藤誠一氏、「化学班」土谷正実氏などの高弟といわれる人たちが続々と逮捕されていき、占いチームの皆で毎日、今日は誰々が逮捕されたというような話をしてすごしていくなか、暗いムードが漂い、皆がだんだん落ち込んでいくのがわかりました。私も同じ気持ちでした。

 そしてある日、私に逮捕状が出ていることをネットのニュースで知り、動揺しましたが、身に覚えのない罪状に、「やはり不当逮捕の弾圧なんだ」と感じ、「いよいよ私にも耐えるときがきた。カルマを落として修行を進めるチャンスだ」とある意味誇らしい気持ちで警察に出頭したのです。

この辺りを振り返ると、現実には、動揺し、不安感が出だしているのにもかかわらず「弾圧だと思いたい」という強い願いが、さまざまなきっかけを見つけてはネガティブな思いを打ち消し、現実離れした思い込みをすることで自分を安心させていたと思います。


●教祖の逮捕

 取調べは厳しく、激しく罵倒されたため、当初は、これはやはり弾圧なんだと感じました。弁護士として、青山弁護士を依頼しましたが、私が逮捕された翌日に青山氏も逮捕されてしまったために、教団側からの指示を仰ぐことができなくなり、1人きりでの逮捕という初めての事態に大きな不安に陥りました。
 一般の弁護士と接見できるようになると、弁護士から、「同じ罪状で逮捕された越川氏が落田氏殺害事件の実行犯だという情報があったため、まずは微罪で越川氏を逮捕するために、あなたも巻き添えになったのでしょう、普通はこのような件でまず起訴されませんよ」と言われました。

 それを聞いて、よく知っている越川氏が「殺人の実行犯」ということに仰天し、「あの優しい越川さんがそんなことをするわけがない」「弾圧はこのようなひどいでっち上げをするのか」と怒りを持ちました。私と接していた越川氏はいつも優しく、頼りになる尊敬できる先輩だったのです。

 その翌日の5日には、ついに麻原が逮捕されました。「ついにグルが逮捕されてしまった。どうしよう」という思いと、以前麻原が「まだ成就していないノストラダムスの予言は教祖の逮捕だ。あとは教祖の逮捕だけだ」と語っていたのを思い出し、不安を打ち消して、「教祖の逮捕という予言の成就」と考えることにしました。

 隠し部屋に隠れて周りに札束が置いてあったりとさまざまに情けない姿の逮捕時の出来事については、あまりに情けない姿に対し、今までずっとそうしてきたように、「麻原はわざとこのような情けなく見える状況を作り、それでも付いてこられるか弟子を試すマハームドラーをかけているに違いない」と、これも「弟子を解脱させるための、深遠なグルのマハームドラー」の修行なのだと考え、帰依を続ける決意をしていました。


●高弟の逮捕や自供

 しかし、その翌日の6日には、林郁夫氏がサリン事件を全面自供したというニュースを聞きました。そして、逮捕されてから毎日入る新聞やテレビ・ラジオ・週間誌の情報にどんどん接するうちに、ただごとではないことが起きていることがだんだんとわかってきました。そして、「これは陰謀なのではなく、もしかして本当にオウムがやったのかもしれない」という思いが生じ出しました。

 「だとしたら、サリン事件は高度なヴァジラヤーナの教えの現実の実践ということなのだろうか。本当にこのようなことが実際に裏で行われていたということなのだろうか。でも全く知らなかった。本当なんだろうか。そんなわけがない。じゃあほんとうにそういう実践があったのなら、なぜ私はそれに選ばれなかったのだろう。私に声がかかっていないのだから、やっていないに違いない。でも本当だとしたら、林氏は自供したなんて帰依がない情けない人だ。でもそんなはずはない。オウムがやっているわけがない。」などと、動揺して、現実離れした、虚栄心に満ちた、不謹慎な、支離滅裂なさまざまな想像が頭をぐるぐると回りはじめました。

 取調べ官には、「オウムがそんなことするわけがありません。脅迫も身に覚えがありません。私たちが学んできた教義は虫一匹殺さないもので、そのように実践しています!」と一生懸命話しました。

 取調べ官の2人は、最初私を殺人の実行犯と一緒に行動していた私を凶悪犯人のように扱っていましたが、だんだん私がさまざまな事件を本当に知らず、凶悪犯人ではないと理解してくれ、しだいに強硬な態度が和らいでいきました。

 私は、縁のあった取調官に、この機会に真理を伝えよう、安心してもらおうとして、一生懸命話をしました。取調官は二人とも情に厚いよい人で、今度は逆に私に現実を伝え、「あなたのような真面目な普通の女性は、そんな違法行為をしている狂った団体から一刻も早く脱会したほうがいい」と親身になって脱会を勧めてくれました。

 そして4月15日には、CHS(諜報省)の井上嘉浩氏が逮捕されました。そのニュースを見て、はつらつとしていた井上氏がチンピラのような風貌で変わり果てた姿で逮捕されたことにショックを受けました。井上氏とは同世代ということもあって親しく、93年まで3年ほど共に支部活動の仕事をしていました。そのときに、ある時点から井上氏は支部活動を外れ、CHSという「秘密ワーク」と言われる部署となっていたことを思い出しました。

 それをきっかけに次々と、何か井上氏が悩み葛藤しているように見えた様子や、落ち着きのない様子や、おびえた様子などが思い出され、井上氏の仕事は「秘密ワーク」と呼ばれていて何の仕事をしているか知らなかったものの、「もしかして本当にヴァジラヤーナの実践としてサリン事件を起こしたのかもしれない」という考えが頭をよぎりました。

 すると次々と、さまざまな、わりと親しかった友人たちのことが思い出されました。明るかった新実氏が94年に高知支部に来たとき、自分は修行を一からやりなおしの身だと言って、ひどく暗く卑屈で落ち込んでいたときの様子や、明るく元気だった平田悟氏が、井上氏と同じCHSに移動となってから、偶然第6サティアンで会ったときの、暗く、思いつめて何か言いたげに寂しそうにしていた様子などが思い出され、彼らが皆逮捕されていることから、彼らは本当にそういうことをしていたということなのかと、驚愕しました。


●坂本弁護士一家の遺体発掘の衝撃

 それでもそのように信じたくなく、しかしさまざまな状況に追い詰められ、動揺して、「あんな残酷な坂本弁護士一家殺害事件がオウムの犯行のわけがありません。もし坂本弁護士事件がオウムの仕業だったらオウムをやめます!」と叫んでいました。

 そして独居房では、帰依を保つためにマントラをたくさん唱え、麻原を観想し、できるだけ修行しようとしました。現実を受け入れたくないという気持ちや、一体どういうことなのかという疑念や不安、そういったことを打ち消すために、マントラを唱えて帰依を保とうとしました。

 9月になったある日、血相を変えた取調官がやってきて、「大変だ!坂本弁護士一家の遺体が発掘されたぞ!」とテレビを見せてくれました。信じられない思いで、頭の中で何かがガラガラと崩れていく気がしました。「そんなはずがない」「でも遺体があった」「オウムがやった」「嘘だ」「それなら私はオウムをやめなければならない」「オウムはやめたくない」そういう思いがぐるぐると頭を駆け巡り、涙が出ました。

そして結局やめなければならないと考え、「脱会届」を書きました。その日は殺人事件の衝撃と、すべてが壊れてしまうショックと悲しみとつらさで泣いていたのを覚えています。
 脱会届けを教団に送ったことをきっかけとして、悶々と過ごしていたある日、私にとっての大きな出来事が起こりました。逮捕直後、警察官が極悪人扱いする中、ただ1人私に優しくしてくれた婦人警官がいたのですが、その人が海に遊びに行った際、鳴門の渦潮に飲まれて死んだという話が入ってきて、衝撃を受けました。

「あんなに優しかった人があんなに若くして死ぬなんて」と、死の恐怖が身近に襲ってきました。それをきっかけに、麻原が常に説いていた「人は死ぬ。必ず死ぬ。絶対死ぬ。死は避けられない。死の前に有効なものは修行とグルとの縁しかない」という言葉が思い出され、現世ではなく、死や来世に有効なものこそ最も価値があるんだというオウムの教義が思い出され、私が脱会しようとしたときに、身近に起きたこの現象もまた、「グルのマハームドラー」と思えてきました。

 これは、「オウムをやめて修行を挫折しようとした自分に死を見せて何が価値があるのか考えろ、とグルが教えている現象なんだ」と思い、「いつ死ぬかわからないのだから修行しかない」と思い直しました。

「これは、大きな観念を超える試練についていけるかどうかのグルのしかけなんだ、あれだけ救済を説いてゴキブリ一匹殺さない指導をしていたグルが、もしも事件を起こしたとしたらなら、それは何か未来を見越した深いお考えがあってのことに違いない」

「そうだ。そもそも直接麻原から話を聞かないとわからない。そうだ。裁判が始まってからでないと真相はわからない。陰謀かもしれない。あれだけお世話になった生まれて初めての師なのだから、師と話さないでやめることを考えるとは浅はかだ。マスコミの情報をうのみにしてはならない。これは試練なのだから。」

などと思い直し、帰依を培う思考訓練をし続けていったのです。

 そして、出所する日が近づき、これからどうするのか考えていましたが、この厳しい状況下で同じように帰依を培おうとしているだろう仲間のことも気になり、教団に戻ることを決めました。


●「地獄に堕ちる」という教え

 判決は、懲役6か月執行猶予3年で、実刑は猶予されました。6ヶ月間徳島警察署と徳島刑務所内の拘置所にいて、95年の10月末に出所しました。

 この脅迫罪の罪については、弁護士からは「起訴されるはずはない」と言われていましたが、予想に反して起訴されることになり、その際弁護士から「落田事件の殺人に関与した越川氏を逮捕するための微罪逮捕で、オウムでなければ普通決して起訴されるような内容ではない。オウムだからそうなったのだろう。残念だった。」と言われました。

 私は越川氏が殺人に関与しているとは夢にも思っていなかったため、当時はわからなかったのですが、実際は、殺人犯と一緒に行動していたのですから、疑惑の目が向けられてもしかたがなかったということがわかりました。

 その概要は、私が越川氏の運転手として信者宅に訪問した際、越川氏が「地獄に堕ちますよ」と語ったことが信者に対する脅迫罪にあたり、その際、私は一言も話していないのですが、もともと越川氏をそのように言わせた首謀者だからという罪でした。

 そのように言わせた首謀者という事実はありませんでしたが、「悪業を積んだ魂は地獄に堕ちる」といって、結果的に相手を恐怖させるような、仏教を歪めた形の教えがオウムにあったのは事実です。事件後、そのようなオウムの教えの過ちに気づいた現在のは、このことを肝に命じ、そのような誤った教えの活用を決して今後しないと自分の中で誓っています。


●95年 退廃的な教団に戻る

 10月末に、富士に戻ると、既に上祐代表が逮捕された後で、弟子の中で一番ステージの高い「正大師」がいなくなり、その次のステージである「正悟師」の故山本まゆみ氏が富士の修行班をまとめていました。半年ぶりに見る道場は、懐かしいと同時に、独特の別世界にも見えました。

 私がいなかった半年の間に、予想以上にかなり多くの人が既に脱会しており、皆がやる気を失っている様子で、退廃的な空気が流れていました。そこでしばらくの間修行をしていましたが、11月末には故山本氏も逮捕され、教団内に、古参の高弟は誰もいなくなりました。

 さらに12月には、宗教法人の解散命令の確定、破防法適用手続きの開始などにより、教団がなくなってしまうのではないかという不安感が出家信者を覆っていました。

 この頃の私は、「少なくとも麻原から直接真相を聞くまでは、麻原への帰依を継続し続けよう。」と心を決めていましたので、やる気を失った他の信者を励まし続けました。富士を出て、教団を経済的に支えるために、東京でアルバイトを始めた出家者の多くは、慣れない都会で遮断が崩れ、押さえていた煩悩に振り回される状態になっていました。

 上祐代表逮捕後は、上層部は「正悟師」の中の4人だけとなり、彼らが話し合って運営する体制となっていました。彼らは全く事件に関与していなかったがために、人によっては初めて知る事件のニュースなどに戸惑っていました。しかも事件前後に「正悟師」と認定されたばかりだったため、教団全体のリーダーシップを取ることは難しかったと思われ、教団は混乱状態となっていました。

 オウムでは、後輩の弟子を解脱に導くことのできるステージは「正大師以上」とされていたので、この現象も麻原の教えどおりだと納得し、皆が正大師不在の教団の痛手を感じていました。


●「後継者・アーチャリー」への懇願の手紙

 私はオウムの中では「正悟師」に次ぐ「師」という成就者とされる指導的な立場にあったため、「尊師」や「正大師」不在の、よりどころなく崩れていく修行者たちや退廃的な空気をなんとかしなければならないと思い、この状態で、皆のよりどころとなれるのは麻原が「後継者」としていた麻原の三女(アーチャリー正大師)しかいないと考えました。

 94年に「省庁制」の発足時に、「法皇」とされた麻原の子女は皆「皇子(こうし)」とされ、麻原より「皇子をすべてのステージの上に置く」と通達されたため、麻原に次いで神格化されていた存在でした。特に三女は昔から麻原より「後継者」と言われ、さまざまな神秘力を発揮すると宣伝されており、信者の間で神格化されていた存在でした。

 しかし、父である麻原が逮捕されたショックで、子女たちは皆自宅に籠り、信者たちの前に姿を現さなくなったと聞いていたため、私は三女とほとんど面識はありませんでしたが、思い切って手紙を出しました。三女に「グルがいない今、信者を導き救うのはアーチャリー正大師しかいません。姿を現してください」というような懇願の手紙を送ると、驚いたことに、しばらくして三女が皆の前に姿を現すこととなり、皆は大いに活気付きました。

 私は、そのことをきっかけに三女と話すようになり、信者の状況を伝えたり、信者たちと三女の面会を手配したりと、三女の下で仕事をするようになっていきました。

 三女は皆を励まし続け、皆はやる気を取り戻し、教団内部は持ち直していきました。皆「麻原が認めていただけあって、やはり三女はすごい」と喜び安心し、三女自身も持ち前の女王性・カリスマ性を発揮して強く皆を指導していったため、私はとりあえず教団の精神的崩壊は防げるだろうと安堵したのでした。しかし、そのことがまた新たな大問題を生み、大きく後悔することになるとは、そのときには気づきもしなかったのです。


●「尊師メッセージ」という麻原からの獄中メッセージ

 その頃、「尊師メッセージ」といわれるものが回ってきていました。これは、獄中の麻原から私選弁護人を通して回ってきた麻原のメッセージで、麻原の公の発言のない中、信者たちにとって「グルの意思」を知ることのできる唯一のものでした。教団に戻り、このようなものがあると知り、私は安心し、そのメッセージ通り修行をし続けようとしました。

 その中で、揺れる信者に対して「(麻原が勾留されている)警視庁の周りを回れば心が落ち着くだろう」というものがあり、多くの信者と同じように私も何度も警視庁の周りをぐるぐると歩き礼拝していました。例えるなら仏塔を礼拝しながら周るような感覚です。

 96年になり、破防法の手続きを迅速に終わらせ、教団を解散させようという流れが見えてくると、麻原から、破防法が適用された場合の指示が届きました。それは「破防法が適用されたら、徹底的に戦うグループを作り、それ以外の人は6人一組となって10万円ずつアルバイトをして生活せよ」というかなり具体的なものでした。

 その他にも、新しい瞑想法、高度な修行のプロセスと説明されたもの、新しい高度な教えといわれたものなどのメッセージがたくさん来ていました。「尊師メッセージ」は「高弟に伝えよ」というものが多かったために、「正悟師」や「師」という教団の指導層のほとんどには行き渡り、それ以外には知らされていないものも多くあったという形でしたので、指導層であった私は、その教えを元に、瞑想修行を進めようとしました。
 この頃の私は、事件の衝撃に悩んでいた数ヶ月の時期があったのにもかかわらず、「自分が帰依したグルに直接聞くまでは帰依を続ける」と決めたのに加え、教団に戻ったことで、麻原直接のメッセージの存在を知り、「この状況にあっても麻原の意思を直接に知ることができるのなら、麻原の意思を実践しよう」と気持ちが固まっていってしまいました。

 さらに、直接接することのできる「正大師以上のステージ」として麻原の三女の存在があったため、「これなら教団も修行も大丈夫だ」と安直に自分を安心させていきました。

 その背景には、事件に対する衝撃と不安があまりに大きすぎるがために、自己の内面で処理することができず、現実を直視するよりも、何か安心できるものにすがりたいという気持ちがあまりに大きかったことがあったと思います。


●麻原初公判と公判傍聴

 96年の4月24日に、麻原の初公判が開かれました。罪状認否では何も答えることがなかったものの、人定質問で「名前は麻原彰晃。松本智津夫の名前は捨てた。職業はオウム真理教の主宰者」という答えがあったため、麻原が逮捕されても自分たちのグルなのだと認識を新たにしました。

 とにかく逮捕後はじめて公の場に姿を現すこととなったために、麻原の姿を一目みたいということに信者の関心は集中しており、その後は、事件の真相を知るためというよりも、公判の傍聴席で、麻原の近くに行き、その姿を見てエネルギーを受け、同じ場所で修行して帰依を培うための、「尊師公判傍聴」が行われ続けることになってしまいました。

 私は後には公判記録係をしたこともあったのですが、公判記録を取るだけでなく、その場を麻原に対して「懺悔、懇願」などの修行をする場ともしていました。皆で公判傍聴に行っては、その結果向上した心身のエネルギーの変化などを、話し合い盛り上がっているという不謹慎な状態でした。

 まだ麻原と一度も会ったことのない新人の出家者が「グルに懇願して一度でいいからこっちを見てくださいと願ったら、振り向いてくれた!」といった感動体験(まさに思い込みの産物)などを皆が興奮して語り合い、「グルはやはりわかってくれている」「エネルギーが上がった」などと口々に言い合って慰めあっていました。また、「グルへの供養」として、出家者の間では、拘置所に順番に麻原に食べ物などを差し入れることを行っていました。

 これらの信者の状況は、教団外の方から見れば、信じられない光景に映ると思いますが、当時の私たちは、湧き起こる不安や疑念を消し、自分たちの帰依を続けるための何かを必死で探しているような普通でない状態だったと思います。そして、「信じたい」と強く思っていたがために、それらのことを現実以上に「よく見ようとした」り、「そう感じたと思い込んで」いたのだと思います。




●破防法弁明手続き意見陳述

 5月には、破防法の弁明手続きに麻原が出席し、長い意見陳述を行いました。その中で麻原は、将来において教団が法の規制に背いて破壊活動をしたり、麻原が指示するつもりはないと述べ、逃走中の信者出頭の呼びかけを行い、破防法が適用されないなら教団代表を退く意向を述べました。

 当時私は松本家三女の下で、信者を励ます壁新聞のようなものを編集していたのですが、それにその意見陳述を載せたいと考えた際、三女の指示で「麻原が俗物に見える部分」の発言を削除して編集して出家信者に流しました。

 その結果、自らの身を投げ打ってでも弟子の修行の場を守ろうとする愛のある教祖という部分が強調され、皆その愛に(自分勝手に)感動し酔いしれ、帰依を続けようとする心を強めたのでした。

 この頃も教団内では情報遮断の規則はあいかわらず続いており、内部から出家信者に流すものは意図的に編集されていました。当時私が三女の、このような真実を捻じ曲げるような指示に進んで従ったとき、信者の帰依を続けさせるためには教祖を俗物に見せてはならないと思っていましたが、本当は、私自身を納得させるためにも、そうしたかったのだと思います。

 特にこの頃から、私は、自ら無意識的に、現実をよく見ようとするための操作を加えていったのだと思います。信者たちは見ようと思えばいつでも真実を見ることができた環境にありましたが、現実を見ないために、帰依を続けるために、自ら情報遮断を続けていたという状況にあったと思います。


●アーチャリーと自己の神格化

 またそれに従ったもう一つの重大な心の背景に、虚栄心と自己存在意義というものがありました。三女は上記に述べたように「麻原の後継者」「皇子」として神格化されていたために、その直属の仕事をする私は、しだいに羨望のまなざしを向けられるようになってきました。

 麻原が逮捕される前は、三女らの子女は「法皇」の「皇子」として、麻原の家族として麻原と共に住む別格の存在で、普段は出家信者はほとんど接する機会のない存在でした。

 唯一、三女らの「お付き」「お世話係」「教育係」となった者だけが、身近に接することができたため、それらの仕事は、麻原の住む家に出入りでき、麻原とも身近に接することのできる仕事として、羨望を集める仕事でした。

 私も、身近に接したいがために、「お付き」の仕事をうらやましく思っていましたが、そのような機会はないままとなっていました。それが、このころに三女直属の仕事をするようになったために、過去において望んでいたことがかなったということで、自己存在意義は満足され、虚栄心が増大していきました。

 例えば、「三女の下で仕事ができるなんて徳がありますね」「三女と縁が深くてうらやましいです」と、それだけで「徳がある」と誉められ、「縁が深い」とうらやましがられるという感じです。私に取り入って、三女と近くなろうとする人もいて、あまりに浅はかさだと思いますが、それにより、麻原のときに陥った「偉大なグルの弟子である私は偉大」という思考そのままに、「偉大な三女の側近の私は偉大」というような、愚かで単純な虚栄心に喜び、舞い上がっていったのです。

 このようになると、三女のためとか他の信者のためというよりも、自己存在価値を高めるために三女を利用している状態だといえます。

 言われたことに従い、評価されることが、さらに自己存在価値を高めるということになるため、悪循環となり、三女の顔色を伺い、媚びへつらうようになり、できる限りの指示に従おうとするようになっていました。

 事件前までに、「麻原にどう思われるか」という基準で動くようになっていた私は、今度は対象をすり替えて同じことを行い続けていたのです。しかも、それが自我を増大させる「解脱・悟り」と逆の方向であるのにもかかわらず、そのような洞察はできず、当時は「解脱・悟りの早道」だと勘違いしているのでどうしようもありませんでした。


●麻原の息子である幼児による猊下体制

 麻原から、破防法弁明手続き意見陳述に加え、裏のメッセージとしてまだ2、3歳の幼児である麻原の長男・次男の2人を教祖にし、運営を三女を中心とした子女らと正悟師による「長老部」によって行うようにという指示が教団に来たために、6月には急遽「長老部体制」が整えられました。この体制は2000年まで続くこととなります。

 この体制による大きな変化は、「グル」の交代でした。グルイズム中心の教義を持ち、グルは麻原1人とされてきた教団の中で、いくら息子とはいえ、別の人がグルになるのですから、信者の間には動揺が走り、「グルを変えたくありません」「破防法逃れの表向きだけなのではないか」「本当なのか」といったさまざまな不安や不満の声が上がりました。

 そこを三女が「今後はグルは2人の猊下となり、グルからのエネルギーは2人から来る」「グルの観想は麻原ではなく2人の猊下としなければならない」などと強い態度で説明を行い、皆を納得させました。私も、「グルの意思だから」と観想の対象2人に変えて、一生懸命思い込む訓練を行いました。

 2人の幼児は、もともと麻原から「生まれながらの最終解脱者」とされていたのに加え、「リンポチェ猊下」という称号となったことで、もはや生き仏となったのでした。教団内では、幼児2人の写真が新たな「御尊像」として信者に配られ、「新生!我らがグル」というキャッチフレーズのポスターがいたるところに貼られ、いかに2人が偉大かという大々的な宣伝がなされました。

 次男については、かつてダライ・ラマ当局がその事実を否定しているのにもかかわらず、それを公表せずに、教団では、麻原の主張どおりチベットのパンチェン・ラマの生まれ変わりであるという宣伝をし、神格化が強化されていました。

 今まで姿を現すことのなかった2人が信者の前に姿を現したことで、獄中にいる麻原の代わりに、直接会うことのできるグルを得て、信者はさらに活気付いていきました。私はその後、富士・上九を退去して、埼玉県に10人ほどの女性信者と分散居住したときは、「猊下への供養」ということで、皆で幼児たちへのプレゼントとして絵本やすごろくなどを作って贈ったりしていました。


●三女による観念崩壊セミナー

 96年中ごろ、富士・上九の教団施設の明け渡しが決定した後、三女による「観念崩壊セミナー」が行われました。その際、私は三女直属の部下だったので、最初はこのセミナーの10人ほどの「監督」の1人となって、主催者側にいました。

 はじまりは、ある意味子どもの思いつから始まったようなもので、三女の「大きな施設があるうちに、信者が都会で煩悩的になって修行できなくなる前にみんなを引き上る手助けをしたい」という思いに、一般の「自己啓発セミナー」の体験者の経験が合わさって、効果がありそうなのでと試しに企画されたセミナーでした。

 最初はけが人などが出る内容ではありませんでしたが、参加した人の話を後から聞くと、どんどんエスカレートしていき、負傷者や、意識を失いかけ死にかける者などが出、その結果、脱会者も多数出るという悲惨な結果のものとなったのでした。

 私が監督としてかかわった初期の頃は、「解脱のために観念を崩壊する」ということで、まずは監督自らがそのようにしなければならないという三女の指示に基づき、皆の前で例えば次のようなことを行いました。顔を醜く歪ませて、うめき声や叫び声を上げながら狂人として振舞ったり、当時は一見しとやかな女性に見えた私は、女を捨てる必要があると言われ、口汚い言葉で罵声を発し、ヤクザのような振る舞いをしたりしました。

 このように自らが勝手におかしな振る舞いをすることは別にどうということはありませんが、問題なのは、他人に対しそれを向けた場合です。残念ながら、観念崩壊セミナーでは後者のことが行われました。

 例えば私も一緒になって行った「突っ込み」と呼ばれたものでは、数人で1人の人を取り囲み、罵声を浴びせ、対象となった人の弱点や問題点などのネガティブな面を責め続け、本人の悪行についてすべて告白させ、本人が涙を流して懺悔するなど、三女が許可を出すまで続けるということを行いました。大の大人の男性が涙を流すまでですから、かなり深層心理をえぐるような厳しい内容や、人格の尊厳を傷つける恥などについて責め続けていました。

 これは、はっきり言って言葉の暴力であったと思います。肉体への暴力なきリンチといったところでしょうか。後に、私がそれを行った時対象となった友人から「恐ろしくてトラウマになった」と言われたときは、なんとも答えることができませんでした。

 ところが数日経ったとき、その矛先が今度は参加者でなく、監督の1人である私に向けられ、三女の指示のもと、三女と他の監督たちから、罵声・軽蔑・無視されるなどのことが行われ、「お前はどうしようもないヤツだ」ということで、監督から排除されることになりました。

 そのころ「三女にどう思われるか」ということが重要な価値観となってしまっていた私は、どうしてよいかわからないほど落ち込みました。しかしこれは一言で言えば幼稚ないじめのようなものにすぎませんでした。

 しかしそのおかげで、その後過激さを増していったセミナーに関わらずに済んだことは、私にとって大きな救いとなりました。もしその時外されていなければ、集団心理が働き、三女に言われるがままに、皆と同じように他者に対する過激な行動を取っていたに違いないと思うからです。

 このセミナーで三女は出家信者たちから、恐怖を伴う神格化をされました。セミナーの課題は三女が出し、その課題をこなせたかどうかの判定も三女の独断です。三女がOKしなければ苦痛と恐怖の伴う尋常でない修行と呼ばれるものを続けなければなりません。三女に気に入られなければならないのです。

 三女を「三女のグルとしての力量を知った」「マハームドラーをかけて後輩弟子を導くことのできるステージ」と言って賞賛し、さらに神格化する人がたくさん出ました。一方、脱会させないために行ったセミナーであったはずなのに、三女に恐怖してそのまま脱会した人もたくさん出る結果となりました。

 しかし、その後しばらくして、破防法が棄却されるという奇跡のような出来事が起きた際、これも観念崩壊セミナーでカルマが落とされ全体が浄化されたからだと、正当化されることとなりました。


●「グルの指示」を断れない背景にあるもの

 こうやってみると、この「観念崩壊セミナー」の構造は、麻原の指示のもとサリンを撒いたという事件の構造や、実行犯になってしまった信者の心情と酷似していることがわかります。当時は皆がはまっていたために指摘されることもなく、自分でも全く気づくことはできませんでしたが、そこで監督をやり三女の指示に従っていた自分は、麻原に違法行為を指示された実行犯たちとかなり接近してきます。

 『私にとってオウムとは何だったのか』の著者、早川紀代秀氏の分析(204P)と自分を照らし合わせてみます。

----------------------------
【早川氏の問い】なぜグル麻原のポアの指示に逆らえなかったのか?
【私の問い】なぜ三女の残酷な指示(リンチ)に逆らえなかったのか?

早川氏:ブッダ、絶対的グルとして、「自分が自ら認めた絶対的権威」だったから。
 私 :グルの「後継者」「皇子」として、「自らが認めたグルが認めた権威」だったから。

早川氏:絶対的権威から、殺害による救済(ポワ)が説かれたから。
 私 :グルが認めた権威から、リンチによる救済が説かれたから。

早川氏:やりたくないという自分の気持ちは、「修行不足、自分の心が弱い」として抑え込む訓練ができあがっていたから。
 私 :同上

早川氏:ハルマゲドンを防ぐにはやむを得ない方法と思ったから。
 私 :出家者が現世に落ちるのを防ぐにはやむを得ない方法と思ったから

早川氏:逆らったら自分がポワされるという恐怖があったから。
 私 :逆らったら自分がリンチをされるという恐怖があったから。
---------------------------

 このように、早川氏と思考パターンがほぼ同じです。
 さらにそれに加え、以下の点があったと思っています。

・三女は多くの人にとって、「グルが認めた権威」を持っているという集団心理が働いていた。
・そのグルが認めた権威(三女)に従うことが正しい、という集団心理が働いていた。
・三女は、私の存在意義や自負心を満たすに足る存在だった。

 実行犯となったかどうかの違いは別として、そのように見れば、この思考パターンの根を断たない限り、オウム事件は繰り返されるということになります。現在私はオウム・アーレフを脱会しましたが、脱会しても、オウムの総括作業を続けていなかったとしたら、このことに気づかなかったかもしれません。たとえオウム・アーレフを脱会したとしても、その根が存在する限りは、オウム事件の根は残ることになるでしょう。

 また、たとえオウムでなくとも、このような心の病根は、人間が陥りやすい一つの問題として、多くの事件や戦争を引き起こしてきたものでもあります。その意味で、この根が何なのかをできる限り明確にし、一人一人の心の内部にあるこの同根を断っていく以外に、さらなるオウム問題の解決はないと思っています。


●アーチャリーへの幻滅

 その後富士・上九からの退去を余儀なくされ、皆各地に分散居住していき、私もそのようにしたある日、観念崩壊セミナーの最中からずっと三女から完全無視をされていた私は、突然三女から呼ばれました。「やっと口を利いてもらえる」と喜んで指定された場所に行くと、そこはウィークリーマンションで、3、4人のお付きの信者と共に三女はいました。ですが様子が尋常ではなく、お付きの信者から、「観念崩壊セミナー後、信者を激しく導いたから、信者のカルマを受けて、かなり三女が不安定になっている」と聞きました。

 オウムでは、ステージの高い者は浄化されているため、ステージの低い者の修行指導をすると、低い者の悪いカルマが移ってきて「カルマ交換」するため、気の流れが阻害され、調子を崩す、という「カルマを受ける」という理論がありました。

 三女はかなり不安定になっていて、尋常でない言動がありました。そのうち「お姉さん、私と一緒に死のう」と自殺を勧められたので、断ると、「あっちへ行け!」と排除され、他のお付きの人と一緒に部屋を追い出されて無視される生活に入りました。

 この経験から、三女を神格化していた私は、女神とは思えなくなり、霊的能力はあっても年相応のまだ未成熟のわがままな子どもの部分や、病理的な面のある人なのではという見方をするようになっていきました。


●ノリについていけない

 97年になり、パソコンショップCMPが収益を上げて成功していた頃、観念崩壊セミナーのノリが続いていた一部の師の指導で、麻原のいる東京拘置所近くの荒川の土手で水をかぶり帰依を表明することが、一部の間で盛り上がっていたことがありました。

 ある時そのリーダーの師とその師に感化された師数名の一群が、いきなり私の住んでいた家にやってきて、そこの担当者である私に相談なく、そこでアジテーションのような説法を始めました。そのリーダーの師はノリノリになっており、普段大人しい女性の1人もアジテーションをしたので大変驚きました。それを聞いた信者は盛り上がっていき、一緒に川で水をかぶりに行こうというノリとなっていました。

 そして彼女たちは最後に私を取り囲み、私に荒川の土手に水をかぶりに行く説得を始めましたが、「冬に水をかぶればショック死する場合もある、みんなにそんなことをさせて大丈夫なのか。そんなことをするのはおかしい。私は行かない。」と言って一切説得に乗らずにいると、「頑固だからどうしようもないね」ということである意味帰依がないと馬鹿にしたように帰って行くということがありました。

 当時私は、その人たちが傲慢でおかしいと自己と区別して怒っていましたが、今思うと、この人たちの姿は、かつて私が観念崩壊セミナーの時や、その前までの自分の姿と全く同じだったと思います。自己がよいと思った観念を人に強要し、それを受け入れない人を低く見て馬鹿にするというオウム的態度です。

 自己本位で傲慢この上ない態度だと今は思いますが、自らがはまっていると人はなかなか気づかないものだなと思います。もし当時これが自らの姿だと気づけば、次に待ち受ける過ちも犯さずに済んだと思いますが、私は愚かにも、前述したように、懲りずに2000年以降、再度心の過ちに陥っていったのでした。


●1997年真理元年の予言の年、不規則発言始まる

 97年に入り、信じられないことに、破防法棄却が決定されました。信者にとっても驚くべき奇跡的と思われる決定に思えました。しかし、私たちは愚かにも、この現象を、さらなる麻原と自分たちの神格化と捉えていったのでした。グルの祝福、観念崩壊セミナーでのカルマ落としのおかげ、自分たちの功徳、予言された団体などと、あまりに自己優位ですが、自らの正当性の証明のように捉えただけでした。どんどん妄想的思考が増大していく状況となっていました。

 それだけではなく、私たちは、96年の破防法弁明手続きの際の麻原の意見陳述で、この「1997年は真理元年」として、「麻原の波動が日本を包み、善悪がはっきり示される、自分にとって重要な年」と予言されていたので、何か麻原が神秘力を発揮するなどよいことが起こるのではないかと期待していたのです。そのため、破防法棄却もそのよいことの一つだと捉えていました。

 しかし、その年には、麻原の裁判での不規則発言が始まり、拘置所内での不可解な言動が報道されました。裁判では師弟対決が起こりました。それでも私たちはその不規則発言にも何か意味があるのではないか、もしくは、そのような不可解な言動の背景には、何か常人には計り知れない智慧による深い意味があるではないかと考えていました。

 私は、公判記録の筆記のために入った際、英語の不規則発言もすべてメモし、麻原の一挙手一投足を凝視して、どこかに何か意味あることを見つけようとしました。そして、麻原が不可解な行動を取っている姿を見ながら、心の中で「これはどういうことなのですか。私はここにいます」と語りかけ強く念じたりしましたが、現実には何もわかりませんでした。

 何もわからなくても私は、何かにすがり、信じ続けていました。


●98年 長老部の不和と反対運動の激化

 もともと96年に成立した長老部体制は、皆の見解が違うのと、三女が上述したような状態でもあったため、まとまりを欠いたまま、各正悟師(最高幹部)の部署別独立体制のような形で進んでいました。私はこの時期、教団の社会融和を推進していた杉浦兄の部署にいたため、麻原への信仰とは別に、事件を引き起こした教団が社会に融和する必要性を認識するようになっていました。

 支部では二ノ宮氏が信徒倍増10万人計画などと非常識な計画を推進したり、予言に基づいた避難行動などをすることに、杉浦兄は非常識だと怒っており、その部署では皆が同意していました。

 また、通称、北御牧村事件という長野県北御牧村(現・東御市)の物件取得の際、地域住民の実力行使の大反対にあうという事件が起こり、全国的な反対運動へと発展していきました。


●99年 オウム崩壊寸前

 このような状況の中、99年には、反対運動が加速し、住民票不受理問題が起こり、その後2、3年は住民票のない生活を余儀なくされました。反対運動と比例して、警察による強制捜査なども続発し、私の日常生活は、毎日が地域住民や警察との戦いのようになっていってしまい、社会との対立がどんどん激しくなっていきました。

 この反対運動の背景には、パソコンショップで儲けたお金があるのに、被害者賠償はせず、自分たちのハルマゲドンの生き残りのための物件取得に出たという独善的な行動や、そのような状況の中、能天気な布教のための街頭パフォーマンスなどが社会の逆鱗に触れてしまったということだったと今では理解していますが、当時は、自分の部署以外の、教団全体が何をしているのかは知ることのできない体制の中にいました。

 当時は上記のような、長老部の不和により、教団体制は、まとまりのない子女や正悟師の独立体制だったため、パソコンショップの担当と、物件取得の担当、支部活動の担当、社会融和の担当などが、すべてそれぞれの担当者が違い、各部署ごとの独自活動だったために、整合性が取れていなかったのです。その背景に、松本家の子女と長老部それぞれの人間関係の不和の激化があることは、信者の間に広まっていました。

 そして、99年9月にハルマゲドンが起こるという以前からの麻原の予言も外れ、私はもう当たらないだろうと思っていたのであまり関心はありませんでしたが、それにより信仰を考え直す人もいました。

 上記のように教団内が滅茶苦茶な状態の中、国によるオウム新法成立の動きが出てきたため、このままでは教団は潰れてしまうという危機に立たされることになり、教団は9月末に「休眠宣言」となり、布教活動を停止しました。

 その後、二ノ宮氏が、個人的にテレビに出て、事件関与を認めて謝罪し、松本家の長女批判を行うということがありました。これを見た信者は、はじめて教団内の不和を認識したという状態でした。

 その後教団でも、12月になって、正式見解として謝罪・賠償を行う表明を社会に対して行いましたが、ばらばらだった内部で信者に事件の事実含めその意味合いや必要性が説かれるということはなく、その謝罪は、オウム新法をかわすために行ったようなものでしかなかったと思います。

 教団内部には、もうこのまま教団は潰れるだろうというあきらめのムードが漂い、潰れた場合のための足しにするようにということで1人10万円のお金が配られ、具体的に住む場所を探す動きが始まりました。

 私の周りでは、杉浦兄を中心として、もう上祐代表の出所までなんとか持ちこたえて、後は上祐代表になんとかしてもらうしかないという雰囲気となっていて、上祐代表の復帰を祈るような気持ちで待つという状態でした。

 そして12月29日に、上祐代表が出所し、横浜支部へと戻ってくることとなりました。


●95年~2000年までについて

 この期間は現実的な視野とリーダーシップを持つ上祐代表の不在期間だったため、その特徴である、二つの要素が抜け落ちたまま教団が運営されていました。

 それがない状態で、事件を直視するかどうかは、各自の判断に委ねられ、教団挙げての指導はなされませんでした。教団挙げてのこととしては、サリン事件前と同じように、麻原への帰依を続ける指導しかなされていませんでした。

 私は、95年後半に教団に戻る前は、「麻原から直接どうだったのか聞くまでは帰依を続けよう」という結論と、「もし麻原がやったとしたら、何か理由があるのかもしれない(あるに違いない)」という2つの考えが交錯している状態でした。

 しかし、その期間中に、裁判などで麻原が直接話した言葉で、印象的だったものは以下のことだけでした。

 ・今でもオウム真理教の教祖
 ・ずっと四無量心(利他心)で生きている
 ・(信者に向けた獄中メッセージでの)高い瞑想ステージを目指せという瞑想の指示
 ・不規則発言中の、事件は弟子がやったという趣旨の発言
 ・不規則発言と不可解な言動

 このように、結局、麻原から直接聞くことができたのは、「事件は弟子がやった」という趣旨に取れる不規則発言だけでしかありませんでした。

 裁判の進行に伴うニュースは追って、事件はどういうことだったのか知ろうとし、悩みつづけていましたが、私は結局、人の命を奪った未曾有のテロ事件の問題について悩むよりも、その現実を直視できずに、自分自身の信仰と人生が壊れてしまうことについて悩んでいただけの自己優位な状態でしかなかったと思います。

 上記のように、それまでの期間にはまり込んでいた、グルイズムとマハームドラーという高度な教えを貫かなければ解脱・悟りは得られないという考え方に固執していたため、現実には、悲惨なことが起こったとしか思えない事件や、事件後の悲惨な状況も、すべてが「何か意味のあることであってほしい」と考えました。

 麻原の、不規則発言や不可解な言動さえ、何か深く意味があることなのかもしれないと一縷の望みを持ち、裁判を傍聴しては、その言動を注視して、さまざまな想像を巡らせ、このような社会・麻原の状態でも、「麻原への帰依」を貫くことができるか、麻原に試されているのではないかという捉え方をしたりと、現実を直視せず、思考停止を続けた期間となってしまいました。

カテゴリアーカイブ