指導員・会員の総括

宗形真紀子 麻原彰晃とわたしの魔境

■1 オウム・麻原信仰からの転換・脱却のプロセス

(1)転機となった出来事――宗教テロの原因への気づき
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 わたしの場合は、95年のサリン事件の後から、脱会した2007年までの12年間の期間の中で、本当の意味で、オウム・麻原信仰の過ちに気づいた転機は、2003年になってからでした。それまでは、本当の意味では気づくことができなかったのです。

 その時やっと、オウムの行った宗教テロの原因と恐ろしさに気づき、内省がはじまり、宗教観が大きく変化することになりました。その気づきまでのプロセスの概要は以下の通りでした。


●事件の事実・社会との摩擦に苦悩しながら、オウム・麻原信仰に留まっていた時期(1995~2000)

 95年の事件発生後~2000年までの5年間は、その現実のあまりに悲惨な出来事に動揺し悩み、激化する社会との摩擦に悩みながらも、おろかなことに「信仰」という内面においては、オウム・麻原信仰の中に留まったままでい続けていました。

 95年当初、サリン事件がオウムがやったとはとうてい信じられず、宗教弾圧だと思っていたのですが、実際にあるはずがないと思っていた坂本弁護士ご一家の遺骨が発掘された時は大きな衝撃を受け、教団の脱会を考えました。

 しかし、自己の解脱・悟りを人生の目標としていたわたしは、特に、オウムのグルイズムとマハームドラーという「グルの与える困難な試練にエゴを越えて従わないと解脱・悟りはない」という教えを信じ込んでいたために、当時の状況を「グルからの困難な試練」ととらえ、「もし麻原がやったとしたら、何か理由があるのかもしれない(あるに違いない)」と考え、オウム・麻原信仰を続けました。

 また、「直接麻原から聞くまでは真相はわからない」と考えた面がありましたが、結局、麻原から直接聞いたのは「事件は弟子がやった」という趣旨に取れる不規則発言だけでした。

 さらに、麻原の預言において、「97年は真理元年で日本に大きな変化が起こる」「99年にハルマゲドンが起こる」というものがありましたが、それらはことごとく外れ、実際には、97年には、麻原の不規則発言・不可解な言動が始まり、99年には、教団に団体規制法が適用されるという、社会でなく教団に悪い変化が起こっただけとなりました。

 しかし、その不規則発言や不可解な言動、預言の非成就についても、さらにそれを「何か深く意味があることなのではないか」というより、「そう思いたい」ととらえ、信仰を続けました。

 結局、この期間は、人の命を奪った未曾有のテロ事件の問題について悩んでいたのではなく、自分自身の存在価値、信仰と人生が壊れてしまうことについて悩み、信仰を続けることを選択しただけの自己優位な状態でしかありませんでした。


●上祐代表により、事件の事実が明らかにされ、徐々に脱却がはじまる(2000~2002)

 2000年に、上祐代表は教団に復帰し、それまで皆があいまいにしてきた重要な点についての、明確な修正を始めました。危険とされる教義を排除し、賠償を始める決定をなしました。

 わたしは、賠償をはじめとする上祐代表の決定に、共感と、社会と共存していけるという安心を覚え、上祐代表の部下となって活動しました。本心では「麻原の言動には何か深いお考えがあるに違いない」と考え続けることに無理を感じていたため、上祐代表の合理的な判断に共感を覚えたという形だったと思います。


●信仰の変化のはじまり――日本各地の自然・神社仏閣・遺跡来訪(2002~2003)

 信仰の上での大きな変化が始まりだしたのは、2002年ころからで、上祐代表らと共に、教団の道場の中から、外にある、日本各地の自然、神社仏閣、遺跡などに行き、探求を始めたころからです。

 オウム時代に麻原は、教団施設が最も聖なる場所であり、日本の神社仏閣などは「外道」で「エネルギーが悪い」から行ってはならないと説いていましたが、自然の中に行くと、あちこちに、神社やお寺や祠などがあるために、自然と行くようになりました。

 また、自然の中で、7つもの虹が同時に現れるという、珍しく、とても美しい現象や、太陽の周りに輪を描く虹を見たりすることが続き、自然と、虹や空や自然の神秘や美しさに、とても惹かれるようになりました。

 わたしはオウムに入る前、自然の中で育ち、神社仏閣が好きだったこともあると思いますが、そのような場所に行く方が、教団施設内の道場だけで、麻原を観想したりして閉じこもっているよりも、外の自然に行くことが好きになりました。

 また、そのような場所を、麻原のように「外道でエネルギーが悪い」とは感じず、むしろ「エネルギーがいい」と感じ、縄文遺跡などでは、仏教以前の日本人の古代文明や信仰のあり方に興味がそそられました。

 麻原が逮捕され指導を受けなくなって7年も経っていたことも大きいと思いますが、最初はこのような流れで、「麻原が説いていることと反していても、自分がいいと思う感覚を優先する」という行動を、自然と行うようになる面が出てきました。

●麻原以外の教えに学びはじめる(2002~2003)

 時を同じくして、上祐代表が、麻原以外の教えを学ぶようになり、共に仕事をしていた関係上、わたしもそれを読み、「麻原以外にも、教団の外に学ぶべきたくさんの教えがある」と思うようになりました。例えば、インド三大聖者のラーマクリシュナとその弟子ヴィヴェーカーナンダの、「すべての人を神の現れと見て学び奉仕する」という教えなどです。

 また、同時に麻原の「95年以前の説法」を読んでも、99年にハルマゲドンが起こるなど、すでに外れた予言の内容が書いてある面があり、それを読むことに意味を感じられなくなってもいたことも、影響しています。


●上祐代表の教団改革を共に行う(2003~)

 そのような活動によって、上祐代表は心境の変化が大きくなり、さらに大きく教団改革がはじまりました。その改革では、今までうやむやにして避けていた部分をはっきりと否定し、事件の年表などを皆で確認したりする集会などが勧められていく中、わたしもそれに共感を覚え、共に改革を推進しました。

 その改革とは、①一連の事件を直視する(年表などで事実認識を深めた)、②事件を明確に否定する(一連の事件は、麻原が指示した、信者の悪業の投影として起こった悪業)、③麻原の映像をなくす(ビデオ映像を、それを好まない信者以外の人のために、道場において目立たせなくした)などです。
 その改革の行動の背景には「麻原を絶対視しない」という前提が貫かれていました。


●アーレフ教団からの排除が、オウム脱却の大きな転機となる(2003~)

 このような形で、わたしは徐々に「麻原やオウムだけの世界」から、教団の外に意識を向けていくようになっていきました。

 そんな中、大きな転機となったのは、2003年に起こったアーレフ教団の上祐代表の排除でした。上祐代表の、事件を直視して麻原を絶対視せず、教団を改革していこうとする活動に対し、修行仲間だと思っていた友人たちは、麻原やその家族への信仰・依存を背景として、豹変したように、上祐代表や、上祐代表の路線を進めていた人たち(私などを含め)を魔境(悪魔がとりついている)と断定し、教団活動から排除する行動に出ました。

 その非常に激しい排除の行動に直面した私は、同じ信仰を持つ人たちに対しては、たいへん優しく、いい人たちが、そうでないと思った人たちに対しては、自分たちが信じる「真理」の名のもとに、非常に苛烈な行動に出るのだということに気づかされました。

 さらに、それこそが、社会から見れば、まさしく自分が実践してきたオウムそのものであり、その宗教テロの原因だった、という気づきがあり、内省が始まり、宗教観が大きく変わりました。

 わたしが今まで、オウムの人間として社会に対してやってきたことを、教団内部での意見対立を通して、反上祐派側からわたしが経験することになったのです。 過去の自分の姿が、反上祐派の中に見えました。


●オウム・アーレフの改革の必要性を再確認する

 このような経験により、わたしの宗教観は大きく変わり、オウムという宗教が行ってきた問題の大きさに愕然とし、このままオウム・アーレフ・麻原信仰を続けている場合ではなく、根底からわたしたちが変わっていく必要性・重要性に気づかされることになりました。


●自分は「不自然」で「傲慢」だと気づく(2003~)

 また、それと同時に、教団活動から外されたおかげで、時間ができたため、内省を深めていくと、別の視点から、自分のおかしさに気づき始めました。
 当時のオウム・アーレフの中では、わたしは「クンダリニー・ヨーガの成就者」とされ、「師」という指導者的位置づけがあったのですが、そういった位置付けから外れてみると、実際の自分は「不自然」で、「なにかおかしい」と肌で感じるようになりました。

 「不自然」というのは、「自然」と切り離されてしまい、自然な感性が死んでいるという感覚です。また、「おかしい」というのは「傲慢」ということで、自分がオウムに入ってからの長い間、異常なほどの「プライド」「増上慢」「魔境」に陥っていたことに気づいていきました。


●オウム・麻原の教えは、根本的に仏教と逆の教えだったと気づく(2003~)

 この気づきから、麻原の説法ではなく、一般の仏教書や思想書などをどんどん読んでいくようになり、オウムの教えの根本的な過ちとして、実は、仏教の教えとは、逆の方向であることに気づかされました。

 本来の仏教の教えでは、「自我執着」を滅することが説かれ、その実践により謙虚な人格が育っていくのに、逆に、オウムのわたしたちの場合は「自我執着」へのとらわれは増し、傲慢で自己中心的な人格が増大していたのです。

 このような形で、やっと、この2003年になって、オウム・麻原信仰や、わたし自身のおかしさに一気に気づくことになったのでした。遅すぎる気づきだと自分でも情けなく感じていますが、このような形でしか、気づくことができませんでした。

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2 オウム脱却のプロセスを振り返って
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 次に、この脱却のプロセスが進んでいった期間である、2000年~現在までについてできるだけ詳しく振り返ってみたいと思います。


(1)上祐代表による、アーレフ体制の発足(2000~2001)
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●最後の頼みの綱として上祐代表への待望高まる

 1999年12月末、世間が騒然とする中、上祐代表が出所し、オウム教団に戻ってきました。教団は最後の頼みの綱として、上祐代表を心待ちにしている状態だったので、かろうじて横浜支部に入ったことをニュースで聞いて、皆ほっとしていました。

 私は、当時社会対応担当だった杉浦(兄)氏の部署にいたのですが、そこでは「オウム新法によって、再発防止処分がかかれば教団は潰れる。もうどうなるかわからない」という切迫した状況になっていました。「もはや上祐代表が戻ってくるのを待つしかない」という、切実な上祐代表待望を神頼みするような雰囲気だったので、上祐代表が戻って来たことで救われた思いさえしました。

 というのは、当時、オウム教団はあらゆる意味で崩壊寸前だったからです。事件に直接関与していない信者ばかりが残る教団内で、あらためて知る事件の衝撃や、裁判の進行などによる精神的ショックによる混乱は、当然のことながら、数年の間にどんどん深まっていきました。

 また、一部の幹部が自分たちの置かれた社会的立場を考えず、北御牧村へ進出したことに端を発した地域住民との軋轢の激化、それに伴う警察との対立、毎日のように相次ぐ強制捜査、転入の拒否、住民票の不受理などにより、皆の疲労は蓄積しピークに達していきました。

 内部においても、松本家の家族と、「正悟師」と呼ばれる最高幹部たちとの対立の激化により、麻原が定めたはすだった教団運営体制(長老部)は崩壊しており、教団運営は、それぞれの幹部がバラバラに各自の考えで、各自の部署を運営する状態となっていました。

 このような状況の中、幹部がバラバラに動き、独自の考えで社会を逆なでするような活動を行ってしまう幹部もおり、それが社会との融和を重視する幹部との間でも対立したりと、もはや団体としてのまとまりを欠いた集団にすぎなくなっていきました。

 さらに、「オウム新法」と呼ばれる団体規制法が成立したことで、「団体はすぐにでも潰されるのではないか」という不安が最高潮に達していました。これらはみな、事件の大きさを考えるとすべて当然のことで、その後の行動からしても自業自得です。

 私たちには「これからどうなるかわからないから」ということで、どうなってもいいように1人10万円が配られていました。

 そのような状況にあったため、教団の中に(大人の中では)今は一人もいない(教祖の三女が「正大師」のステージにある)、教祖に次ぐ「正大師」のステージであり、法務部・広報部で実力を発揮していた、社会対応の実務能力のある人物だということで、みな上祐代表を、大きな期待を持って待ち望んでいました。

 なお、この「正大師」のステージというのは、オウムの定義では、弟子の中では唯一、真の利他の実践ができる「大乗」の段階で、弟弟子たちを解脱に導くことができ、「正悟師」の100倍上とされていたので、皆の期待も大きくふくらみ、最後の頼みの綱という神頼みのような切迫したものとなっていきました。


●荒木浩氏と共に上祐代表の秘書となる

 上祐代表は、復帰すると、不在期間の状況把握をした後、早速教団の立て直しに入りました。その際、広報部の荒木浩氏が上祐代表の秘書となっていました。人事異動が行われ、教団の休眠宣言で修行に入っていた人たちが新しい部署に配属されていく流れで、荒木氏に加え、意外なことに、私は上祐代表の秘書に配属となりました。

 荒木氏は、99年の暮れ、上祐氏出所の前からマスコミで「失踪!?」と騒がれていたのですが、実際会ってみると、教団の混乱に疲れ切って弱っている状態でした。

 上祐代表不在の教団内外の混乱の中、広報部で矢面に立って尽力してきた荒木氏は、教団の体制等に大きく行き詰まりを感じて、広報部を離れていたようで、上祐代表出所後は上祐代表を頼って横浜支部に身を寄せ、心身を回復しながら、上祐代表を手伝うようになったようでした。

 荒木氏とは、このあと2003年まで共に上祐代表の下で仕事をすることになりましたが、その後、荒木氏が「宗教理念の違い」によって、上祐代表に反旗を翻すことになるとはこの時は夢にも思いませんでした。当時の荒木氏にとって上祐代表は最も信頼していた人だったと思うからです。

 しかし、世界では「宗教の違い」により、戦争や、宗教テロが頻繁に起こっているように、荒木氏の行動も、荒木氏が急に変わったわけではなく、オウムの中で事件前から続いている、宗教テロの原因となった心の根にすぎなかったのです。


●麻原の絶対性の否定・位置付けの変更がはじまる

 上祐代表は横浜支部で寝る間を惜しんで、多くの人の意見を聞き、現状の把握に努め、正悟師や師と呼ばれる幹部信者や、松本家の子女らと、社会対応担当幹部らとの話し合いを進めていきました。

 上祐代表の部署になる前は、上祐代表とは2、3度話したことがあるかないかくらいで、近くで接するのははじめてだったのですが、昼夜のないその激しい仕事ぶりに、この人なら崩壊寸前の教団を立て直せるかもしれないと感じ、疲れ切っていた私も、だんだん自分の仕事に意義を見出していくようになりました。

 上祐代表は、信者に対し、麻原への信仰は残しながらも、麻原の99年ハルマゲドンの予言が外れていることなどや自身の経験から、「すべてにおいて麻原が全知全能な存在ではない」ことなどを幹部信者に話していきました。

 人によっては「最終解脱者」とされる麻原が「全知全能で絶対ではない」ということを考えるだけで、ショックを受け落ち込んでしまう人などもいましたが、上祐氏は根気よくみなと話し続けていきました。

 私は、もともと麻原の予言については、内容が突飛すぎるために、当たるか外れるかということにはあまり興味がなく、麻原がその予言をすべて成就させる全知全能の力があるとも思っていませんでした。

 とらえ方としては、その予言の内容自体よりも、麻原が意図的に、「弟子を解脱させるために、わざと突飛なことを言い、それでも付いてこれるかを試すためのマハームドラーという試練」なのではないか、ととらえていました。

 裏を返せば、突飛なことだと感じて「本気にしていなかった」といえますが、それよりも「自分が麻原をレベルの高いグルだと信じたい」ために、「わざと突飛なことを言い、弟子を導いている」と思い込むことで、麻原のグルとしての手腕を高く見るようにし、自分内面の信仰を保っていたように思います。

 そういう風に思い込んでいた、当時の私の観念の背景には、「グルイズム」と「マハームドラー」という教えがありました。それは、言葉自体はチベットに伝わる言葉ですが、オウムでは麻原が独自に解釈した意味として伝わっていました。

 オウムでは、「グルイズム」と「マハームドラー」は、チベットに伝わる「最高の教え」で、高度な精神のレベルの者しか達成することができない難しいもので、それなくしては悟れないと言われていました。

 そのため、私は、その「高度な最高の教え」を実践することにこだわり続けました。それが、オウム・麻原信仰を抜けるまでの、最後のとらわれとなっていました。

 その内面の信仰とは別に、社会を刺激したり苦しめたりこれ以上したくないという気持ちを強く持っていたため、上祐代表の方針は賛成できるものでした。

 しかし、本当の意味で、社会を刺激したり苦しめないためには、わたしの内面の思い込みを解体して、心から変わらなければならなかったと思っています。この時期のような心の状態では、まだそのように思い込んでいるその心がにじみ出て、社会に圧迫を与え続け、それが「欺瞞性」と言われる原因だったと今は反省しています。

 このような形で、当時は、私の未熟さ・心の弱さから、少なくとも社会と対立する教団のあり方を、まずは形だけでも変えなければ社会の迷惑になると考えて、ある意味表面的に実行することしかできませんでした。

 事件の真相を見つめたり、「麻原グルイズム」や「マハームドラー」の考えを捨て、麻原をグルとしなくなったのは、もう少し後の2003年以降となりました。

 麻原の具体的な位置付けについては、「瞑想家としては優れていたが、事件はとうてい肯定できるものではないため、その写真を祭壇から外し、原点に戻ってシヴァ大神の絵を祭壇の中心とする」と決まりました。

 私はこれにも、信者以外の人は、当然、麻原の写真を見るのも耐え難いだろうから、それを祭壇に飾ったりして目立たせることは、社会を苦しめることになるからよくないと考え、祭壇から外すことに賛成しました。


●教団の事件関与を認め、謝罪・賠償の決定がなされる

 また、大きな方針として、麻原の事件の関与を含めて、教団が事件に組織的に関与したことを認めて、謝罪・賠償をしていくことが確認・決定されました。これは大きな転換でした。なぜなら、教団内には、「グルがやったと明言していない以上、やったと認めることは、帰依に反する。だから認められない」という考えの人も多かったからです。

 私は、この、事件関与を認め、謝罪・賠償をしていくという方針は、自分たちの置かれた現実を見れば当然のことだと思い、やっと決まってよかったと、ほっとして心が解放された気持ちがしました。

 私の場合は、今思えば、95年末までに、多くのマスコミの情報を知ったので、明言はしなかったものの、心の奥では、事件を教団がやったと思うに至っていました。

 しかし、自分のこれまでの存在価値が否定されることに耐えられず、人生をかけていた麻原への信仰をやめたくないというエゴのために、「麻原がそんなことをするわけがない」「麻原から直接どうだったのか聞くまではわからない」「もし麻原がやったとしたら、何か理由があるのかもしれない(あるに違いない)」と考えてしまっていました。

 事件の真相を追求する思考を停止させた、思考停止状態に自らなっていたのです。

 そのため、上祐代表が出所する前までの私は、事件含め、事件後の状況もすべてが「何か意味のある」「グルの深遠なマハームドラー」なのではないかという最後の希望の論理を捨てきれず、「その何か」を求めて、麻原の不規則発言や不可解な言動を注視して状況を見守っているような状態でした。

 このわたしが行った思考停止状態ですが、今思えば、多くの人もそのような状態にあったように思います。私は、上祐代表復帰前の教団は、幹部それぞれがやりたいことをやっているだけのように見え、それを批判的に見ていました。ですが、皆、私と同じように、事件の直視を避けたい心が、何か別のことを行わせていたのではと思うと、納得がいく面もあります。

 例えば、それまでの各正悟師や松本家の子女の大きな方針のうち、疑問を抱かざるを得ないものが多々ありました。松本家の子女の指導で、99年ハルマゲドンの予言のために、農村に核シェルターを作ろうとして刑事事件に発展したこと。

 ハルマゲドンが来るということで避難活動をしたことや、大きな高額の物件を取得して地域住民の不安を煽り、当局と対立することになったこと。サリン事件の起きた東京で、派手な布教パフォーマンスをしていることなど、どれも事件後の教団が置かれている状況を無視したもので、別の部署の人から見ると、その宗教理念や理由がわからず、大きな疑問を抱いているといった状態でぐちゃぐちゃなになっていました。

 それまでのそのような状況に比べ、上祐代表の方針は、現実的で、少なくとも納得のいくものだったため、皆従った面があったと思います。


 これらのことに対する受け止め方は、人それぞれ大きく違っていた部分があったと思いますが、現実的に、「そうしなければ教団が崩壊する」という危機に立たされていたために、少なくとも、教団を潰さないためには、みながその方針に従うしかないと受け止め、承認される流れになったと思います。

 そして、2000年の2月4日に、団体の名称は「宗教団体・アーレフ」に改められ、マスコミ発表が行われました。


●松本家の子女全員の脱会

 なお、アーレフが発足する直前に、通称「旭村事件」といわれる事件により、松本家の子女が全員オウム教団を離れざるを得ない事態が起こりました。

 それは、松本家の家族間の対立(兄弟げんか)で、長女対次女・三女という図式で、長女の部屋に次女と三女が不法侵入したという容疑で、次女と三女が警察に逮捕され、少年院行きとなるという事態でした。

 長男は児童相談所に保護され、精神を病んでいた長女はその事件のあと、家出して放浪生活中に窃盗罪で逮捕され、すぐに釈放されたものの、精神病院に入院、通院する生活となってしまいました。
 このようなことにより、松本家の子女は全員、自らの意志というよりも、教団を離れざるを得ない事情に各自がなっていき、自動的にアーレフに入会せず、教団運営から離れざるを得なくなりました。

 これらの出来事により松本家の子女に対する幻滅感も広がり、「麻原の子女は麻原との血のつながりのために最もステージが高い」とされるそれまでの教団内でのステージ制度は崩壊の兆しを見せ始めました。

 また、このことで、それまでの教団内の不和の原因だった松本家の子女と正悟師の対立は事実上なくなり、教団は上祐代表を中心にまとまっていく方向に動いていく流れとなっていきました。


●危険な教義の否定作業

 そして、事件の原因となった危険な教義を排除することになり、その原因となったヴァジラヤーナと呼ばれた教えが排除されました。

 そして、私も、一連の事件の原因となった危険な教義を否定・排除することについては、当然だと考え、その破棄作業に携わりました。

 麻原の説法の中には、2000年までの予言をしながら、大幅に外れているものがたくさんあったため、それをいまさら読んでも無意味だと思っていました。それよりも、逆に、今から精神的成長に役立つような教本が必要ということで、新しく『アーレフ教学システム』という教本を作ることになり、友人と一緒に編纂しました。

 そこでは、基本的な仏教の教えを学んでいけるよう、麻原の説法の中から、予言など現時点で無意味なものを排除し、仏教的な死と無常や利他心などを説いているものだけをできるだけ選ぶようにし、それがアーレフの教本となりました。

 しかし、当時は「よいことだ」と思って行っていたことですが、今思えば、本の形にしたことで、後々残るものを事件後においても作ってしまったという意味では、これからもこの教本が、まだ残っているアーレフ信者などの麻原への依存を強める一助になってしまうかもしれません。

 安易に、事件後においてもこのようなものを作ったことについて、悔やむ気持ちでいっぱいです。これらの行為は、まったく本質的な脱却への行為ではありませんでした。


●ホームページの開設
 
 ほかには、上祐代表が、開かれた教団作りを目指していたので、その活動をホームページで紹介することになり、上祐史裕オフィシャルサイト、アーレフ公式サイトという2つのホームページが開設されました。

 その中で、上祐代表やアーレフの活動を紹介したり、Q&Aコーナーにおいて、一般の方からの質問などを受け付けたところ、予想以上にメールなどが来て、一般の方と交流することができ、99年までの閉鎖的な教団から変化し、充実感を感じるようになっていきました。

 私個人が当時このように感じていても、当時のこの活動は、事件の反省に基づいた活動ではまったくありませんでした。本当は、このようなことではなく、やらなければならないことは他にたくさんあったと、未熟で浅はかな自分が悔やまれますが、当時はそういった意識ではまったくありませんでした。


●烏山――事件後はじめての定住地

 事件後、定住できる場所を持つことができなかった私たちは、転々とする生活をする中、あちこちで地域住民の方の反対運動を引き起こすこととなってしまいました。

 私たちはそれがわかっていつつも、どこか住むところが必要だったために、地域住民や自治体の方々に行く先々で、圧迫をかけてしまったこと、そして現在もかけ続けていることには本当に申し訳なく思っています。

 ですが、当時、世田谷区在住の現在の烏山の大家さんから、私たちに古いマンション賃貸の申し出があったことで、2001年のはじめに引っ越すことができました。今まで住むところに苦労していた私たちにとって、この申し出は大変ありがたいものでした。

 しかしそこでも、同じマンションの住民の方に大きなストレスを与え、住民票不受理の判断を自治体に強いることとなり、警察、公安調査庁の方々に、毎日の監視活動を強いることになり、多くの方々に圧迫と負担を与えていることを日々感じています。少しでも早く、そういった活動を多くの方に強いずにすむような存在になっていきたいと思っています。



(2)麻原彰晃とわたしの魔境――ヴィジョン至上主義という問題(2001~2003)
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●安直なヴィジョン至上主義的傾向の反省

 アーレフにおいては、上記のようなことが行われて行きました。それと平行して、私の内面では新たなヴィジョンを見たことによる、強い観念が育っていました。なぜやめずに続けたのかという原因にもつながるものですので、心の中で、そのヴィジョンに基づいて日々をすごしていたことを書き添えておきたいと思います。

 前述のように、子どもの頃からヴィジョンを見たり霊的体験の多いタイプだった私は、3日3晩続いた夢によりオウムに入信したと思い込んだことをきっかけとして、内面においては、「ヴィジョン至上主義」とでもいうような性質が強くなっていました。

 事件前までは、事件前までに見たヴィジョンにより、自分が「麻原と縁が深く、前世からのグルである麻原に、夢のヴィジョンによって今生もまた巡り会うことができ、今生の使命は、麻原の救済活動のお手伝いをすることだ」と思い込んでそれに価値を置いて、日々を過ごしているような状態でした。

 また、麻原も、弟子たちに対し、「君たちは前世からの弟子」「わたしの救済を手伝うために生まれてきた約束された関係」などという教えを連発していましたから、信者たちはすっかりその気になっていき、さらに、私のようなヴィジョンを見るタイプは、その麻原の言葉により、自分のヴィジョンを肯定し、それによりさらに、内面では、自己存在価値を高め、自己を肯定するようになっていってしまいました。

 これは自分の内面の中での思い込みですから、現実にそれらを誰かに主張したというわけではありませんが、私の心の中での中心的な生き甲斐・自己存在価値となっていったわけです。

 こうしてあらためて書いてみると、自己存在意義を高めるために、こんなにあまりにも安直に信じたことは、単純でおろかで恥ずかしいのですが、オウム信者一般がそうであったように、私も「神秘体験」「不思議なヴィジョン」というようなものに大変弱く、その内容が、自分がよしとした世界において「自分の価値を高める」ものであれば、安易に、自己中心的な価値基準で強く思い込んでしまう、という傾向を持っていたことがよくわかります。

 オウムに入信したのは、生きる意味を激しく求めていた19歳ころで、オウムの「解脱・悟り、人々を救済する」という理念を、生まれて初めて出会った理想的な生き方だ思ってしまい、自分の見たヴィジョンとからめて、安直にも、麻原の言葉をうのみにして、「前世からの約束」と思い込んでしまったのです。この辺は、人生経験の足りなさから来ている、青年期の未熟さでもあります。

 ですが、私がもし「自分の価値を高めたい」という欲求をここまで強く持っていなければ、ここまで思い込むことはなかったと思っています。振り返ってみるとあらためて「自我」というのは、放っておけばどこまでも妄想を拡大してゆく恐ろしいものだと思います。


●事件後の弱い心から、新たな幻想にはまる

 わたしは、事件後年が経つにつれ、この2001年ころは、悲惨などうしようもない現実に悩み、事件はとんでもなくひどいことで、麻原が何を考えてなぜ事件を起こしたのかもわからず、麻原自身は、不規則発言と不可解な言動を行い、狂ってしまったのかとも思え、しかし、自分の悟りのために麻原への信仰はやめたくないという矛盾した気持ちを持って激しく悩むようになっていました。

 深層意識では、わかってしまったら信仰が崩壊してしまうという恐れもあり、思考停止を決め込んで、問題を先送りにしていた状態です。そして、意図的に、生きる目的をあいまいにして、目の前のめまぐるしい問題に対処して生きているだけの状態となっていました。

 「このような教団になってしまった」と悲観し、事件前に持っていた「悟って、麻原の救済の手伝いをする」という生き甲斐をなくしていました。自分の心の中で抱いていた、「オウム幻想」が崩壊しかけていた状態だったと思います。

 このまま、この「オウム幻想」が崩壊してくれていたらよかったのですが、そのような苦しみの中、最後の悪あがきのように出てきたものとして、恐ろしいことに、私は内面に、新たな幻想の世界を作り出し、ヴィジョン主義から来る新たな幻想にはまってしまうことになっていきました。

 そしてその後、人には語りませんでしたが、2003年に、上祐代表と共に教団活動から排除されるまで、私の内面では、その自分が見たヴィジョンと啓示による「新幻想」を生き甲斐として、日々を過ごすことになっていってしまったのです。

 オウムにおいて麻原は、自らが見たヴィジョンやシヴァ大神からの示唆に基づいて、宗教活動を行い、それを麻原自身が「自分で解釈」し、実際の現実世界において、現実に大量殺戮を目指し、実際に行うという取り返しのつかない大きな過ちを犯すことになってしまいました。そういう意味では、オウム事件は、「ヴィジョン至上主義」が引き起こした犯罪だったともいえると思います。

 そして前述のように、私もそういう「ヴィジョン至上主義」というようなところは、麻原とかなり似ていたと思います。

 私の場合は、そのとき見たヴィジョンが及ぼす世界が、どんなに広く見ても「教団内」だけに留まる小さな幻想で、「反社会的」だったり、殺人を犯すようなものではまったくなかったので、実際に現実に、犯罪を犯したり、一般社会に迷惑をかけるというようなことはありませんでしたが、今思えば、その「自己の思い込み・幻想にとらわれ生きている」という点では、麻原とほとんど変わらなかったと思うのです。

 見たヴィジョンの概要は以下のようなものでした。

・麻原は、裁判を引き延ばし、弟子のために長く生きようとしている。

・上祐代表は麻原が前世からの息子と言っている人で、麻原と縁が深いため、麻原の代わりに、救済活動を行うことになっている。だから麻原がいなくても救済活動は大丈夫。

・しかし、このような社会状況だから、今生の救済が成功するかどうかは微妙なところ。

・よって、私は、上祐代表を中心的に手伝うべき。


 このようにこうして今羅列してみると、特別どうということのない、当時の信者なら、普通に悩みながら考えるようなことにすぎないし、その時思っていた私の頭の中の考えと同じだけです。

 これが特別なことのように感じられた理由は大きくは3つあったと思っています。

 一つは、これらの内容が、光輝いていたり、鮮明だったりし、映像や音声も鮮明でリアリティがあり、神秘的な雰囲気に満ち満ちていたことが伴っていたということです。それにより、当時のわたしは、神の啓示のような特別なことと受け止めたのでした。

 また、二つ目の理由は、その内容が、麻原がさまざまなことを大げさに断言していたのと比べると、現実離れしていないために、妙に信憑性があるように感じたということです。

 3つ目の理由は、当時の私が望んでいた内容だったということです。

 これは今思うと、ある意味、当時の私にとっては、驚くべき恐ろしいもので、悪魔的な誘惑的ヴィジョンとさえいえるものだったと思っています。

 2つ目の、妙な信憑性を感じた点については、例えば「裁判を引き延ばすために」というものは、「裁判に必ず勝てる」というような非現実的な話ではないと感じられました。

 「救済は微妙なところだ」という内容も、事件前によく麻原が言っていた「救済は成功する」というような、今となっては現実離れした内容でなく、「微妙なところだ」という点は、微妙にリアリティを感じました。

 そして3つ目の、当時の私が望んでいた内容だったという点についてですが、麻原の不規則発言は、裁判を引き延ばすために演技しているだけで、実際には狂っていないのだと安心できたということがありました。

 そして、「救済」については、私は、事件後、事件前から麻原が説いていた「救済」はいったいどうなったのか、「救済」どころか、人を殺し、不幸にし、大惨事にしかならなかったじゃないか、どこが救済なのか、どういうつもりなのかと激しく悩んでいました。
 さらに、自分のアイデンティティが、「悟って、救済活動を手伝う」ことにあったため、この「救済」がどうなったのか、というのと直結した苦しみになっていました。

 そこに来た「救済は微妙なところ」という内容は、「救済は失敗した」と思い絶望しなくてもすみ、「救済は成功する」と非現実なことも思わなくてすむ、自分の中でちょうど納得のいく、「都合のいい」表現となっていました。

 また、「私が上祐代表を中心的に手伝うべき」というのは、麻原なき今、教団トップでカリスマ性のある上祐代表を中心的に手伝うということで、当時の私にとっては、自己存在価値が満たされる内容でした。

 さらに、この経験の直後に、意外にも偶然上祐代表が部屋にやってくるという内容とのシンクロ現象が起こったために、私の中に強く印象づけられるというおまけもついていました。

 こうした意味で、このヴィジョンは、わたしが望んでいたり、頭で考えていた内容を、仰々しく神秘的に登場させた内容にすぎず、私の潜在意識の欲求が作り出したもので、私の悩む心が、安直に、事件後の大きな悩みから解放されるように作り出した、あまりに「都合のよい幻想」だったと思うのです。

 当時わたしの持っていた疑問と悩みは、以下のようなものでした。

 ①事件は麻原が起こしたのか。
 ②起こしたのなら、なぜ起こしたのか。
 ③なぜ、麻原は何も語らないのか。
 ④事件によって、それまで麻原がさんざん説いてきた人々の苦悩からの「救済」が台無しになったが、それをどう考えているのか。
 ⑤不規則発言は何なのか。演技なのか。それとも本当に狂ってしまったのか。
 ⑥もし麻原が狂ってしまったのなら、麻原をグルとして生きてきた私はこれからどうすればよいのか。ということなどでした。

 このような自己の心の苦しみから、愚かにも私はそのヴィジョンを安直に信じ込んでしまい、人には言いませんでしたが、実は、その思い込みは2003年まで、心の中で続いていきました。

 この、あまりに安直に「都合のよい幻想」のヴィジョンを自ら作りだし、それに後押しされ、自分のやりたいことをやる、という傾向は、わたしの入信のときの状況とまったく同じであったことに、後に気づきました。

 そして、麻原も、この私と同じ傾向を持ち、魔境に入ってしまったということに気づいていきました。それは、特に今年の2008年になって、心理学的視点から総括をして分析することで、確信となりました。


●魔境――霊的ヴィジョンという悪魔的誘惑

 そのヴィジョンを見た後、都合の良いシンクロ現象が思い出されました。事件後の落ち込んでいたある時、上祐代表のヴィジョンが現れて励ましてくれたことや、荒木氏と共に上祐代表の秘書となる予知夢を見ていたことなどです。

 それらも、わたしの内面でそのヴィジョンを正当化する後押しとなりました。「あのときのあれはこういう意味だったのか」と勝手にすべてを、都合良く、安易に関連づけて解釈して、さらに思い込みを強くしたということです。

 これは、世間で言われているような、「麻原のマインドコントロールの呪縛」ではなく、私自身が自ら行う「自己マインドコントロール」だと思うのです。私自身の弱い心、自己をどこまでも肯定したい心が巧みに、心の隙をぬって、自分の願望を投影するヴィジョンを作り出すという構造があると感じています。

 人の心の中の悪魔は、このような形で、人の心の隙を突いて微妙に誘惑するようなものではないかと思えました。そして、こういうものが古来、「心の中の悪魔」「魔境」「増上慢」と呼ばれて、古来、修行者たちに戒められてきたものだと感じています。

 その背景には、人の心の弱さ、自己存在価値を高めたいという野望、虚栄心などが絡んで、引き起こしている構図があると思います。

 しかしあまりにおろかなことに、当時の私は、この未曾有の事件や信じられない現実、その悲惨さ、自分の信仰の問題や苦しみなどに行き詰まり、それから逃れたいがために、都合よく安直に解決してくれるヴィジョンを単純にも信じるという、安易なことを心の中で行い、心の中ではそのことを基準にして活動するようになってしまったのでした。

 それほど、事件の衝撃により「現実認識を避けたい」という私の心の弱さ、逃げ、闇が深かったのです。しかし、今は、この大失敗により、このパターンで、人は悪魔的誘惑に負け、自己を過大視して、魔境に入っていくのだと気づきました。
 そして、まさに麻原も、同じように、このようなパターンで、魔境に陥ってしまったのだということに気づいていきました。よくよく考えると、麻原の語るヴィジョンや体験も、かなり都合のよい話ばかりだったのです。


●ヴィジョン至上主義がもたらした麻原の破綻

 今年5月以降に団体で行った総括作業の中で、心理学的視点からの麻原の人格分析を行いました。そこには、麻原の場合は、「誇大自己症候群」「空想虚言症」といったような症例に当てはまると思われることがまとめられています。

 それを読んでいくことにより、このわたしや麻原が陥った「魔境」への理解が深まりました。

 麻原の生い立ちを分析していくと、麻原は、現実の社会において、挫折を繰り返したものの、その等身大の自分を社会において現実的に生かすことができず、繰り返し、社会に対して「誇大妄想」に基づく挑戦をし続け、破綻していきました。

 そして、オウムの教祖になってからの麻原は、①民主的に政権をとろうと考え、選挙に出て惨敗し、②次は、教団武装化=軍事力によって、日本・世界の王になろうとし、③95年をきっかけに、一連の事件が発覚して、破滅した、という行動を取りました。

 そして、重要な点は、それらの行動の示唆を与えていたのは、麻原の内面に登場する「シヴァ大神」をはじめとする「神々」のヴィジョンだったというところにあります。まさにこれは、私と同じように、彼の「潜在意識が作り上げたヴィジョン」だったと思うのです。

 そして、その神々はヴィジョンに登場するたびに、麻原を、常に「地球で一番偉大な人物になる者」として位置づけていきました。

 具体的には、知りうる限りにおいてですが、彼の神々は、彼に、以下のような啓示・示唆を授けています。

①1985年に、「アビラケツノミコトを任じる」との天から啓示を受ける(「アビラケツノミコト」とは、神軍を率いて戦う光の神であり、神仙の民の国を築くものと解釈され、「シヴァ大神」と相談して、その命を受けることにする)

②その後、守護神から「お前はマイトレーヤである」といった示唆を受ける。

③88年、シヴァ大神から、「ヨハネ黙示録を紐解くように」と言われ、その解釈を行い、自分がハルマゲドンの際に現れる「キリスト」であると解釈する。

④89年、神々から「キリストになれ」という示唆を受ける。

 このように、麻原の神々は、「アビラケツノミコト」「マイトレーヤ」「キリスト」というように、ヴィジョンの世界において、「世界最高の救世主」としての位置付けを、麻原に与える者だったのです。

 これらの事実を考えると、麻原は、実際には、とても弱い人であり、まっとうな生き方では成功できない弱さと、そのままでは満足できない弱さがあったのだと思います。

 そのため、自分が「解脱者」といった「特別な存在」になれる可能性がある、宗教世界へのめり込んでいったと考えると、私と同じであり、多くの信者が陥った精神構造とまったく同じだと思います。

 私の場合は、「世界最高の救世主」と自己を位置づけるような誇大妄想の大きさはなかったのですが、精神構造が同じだとすると、まるで「ミニ麻原」のようだと思え、恐ろしくなりました。しかし、この苦い経験により、このようなヴィジョンの問題の背景にある、心の根を変えていくことの重要性に気づくことができたので、強く戒めて、そのような状態に陥らないような工夫をするようになりました。

 それについては、最後の方で述べさせていただきます。

(3)新しい宗教観の始まりと教団改革(2002~2003)
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●上祐氏の代表就任と、シャクティーパットのための準備修行

 2002年の1月になると、上祐代表がアーレフ教団の代表に就任し、徐々に組織は立て直されていきました。ちょうどそのときに空に大きな虹がかかり、上祐代表の代表就任を、虹が祝福してくれていると思え、内部的にも盛り上がっていきました。私はそれを大きく機関誌やホームページで宣伝しました。

 心配されていた再発防止処分も、上祐氏が当初言っていた通り、きちんと報告し、立ち入り調査に協力していくことで施行はされず、すぐに潰されてしまうのではという心配はなくなっていきました。

 そんな中、もう一度、解脱・悟りのために仏教・ヨーガの修行を進めていこうという流れがはじまり、集中的な瞑想修行などが再開されていき、混乱・動揺していた組織は、少しずつ落ち着きを取り戻していきました。

 そして、「グルがいない教団では、修行も進まず、解脱の体験をすることもできないのではないか」という当時の信者たちの不安をなくすために、上祐代表は「グルがいなくとも、自分で真剣に仏教・ヨーガの修行をすれば解脱の体験をすることができる」ということを示すために、シャクティーパットという霊的エネルギー移入を再開することを決めました。

 オウムでは、シャクティーパットを行うことができる人は「正大師」というレベルの人だけとされており、アーレフ教団の中でそれができるのは上祐代表だけだったことで、そのシャクティーパットには大きな期待が集まっていました。
 しかし私は、そのシャクティーパットは、行う上祐氏に大きなダメージが伴うものだと思っていたので、もし上祐代表がそのダメージのために調子を崩せば、せっかく立ち直ってきた教団が潰れてしまうと考え、シャクティーパットに激しく異議を唱えました。

 しかし、それを推奨する声が圧倒的だったために、それが行われることになり、上祐代表は、自然の中の郊外でその準備のための修行に入ることとなり、私もその修行に同行することになりました。

 そして、このときに、教団施設でなく、自然の中に行くようになったことが、後に私がオウム・麻原信仰を脱却していく、大きなきっかけとなっていきました。


●信仰の変化のはじまり――教団施設の外、自然の中へ

 その時は、この修行が、その後、麻原信仰から脱却するきっかけになっていくとは思いもよりませんでしたが、オウムの、麻原をだけを導き手としていた心から、大自然の中に神仏を感じるような心へと変化していき、翌2004年までには、大きな転換が起こっていきました。

 オウム時代の教団の修行といえば、締め切った道場の中に籠もって、麻原を観想する瞑想や行法を行うもので、「サティアン」という施設などは富士山麓の自然の中にありながら、まったく自然と切り離された修行形態を取っていました。

 外に出ても、脇目をふらず、耳にはイヤホンをして麻原のマントラや説法を大音響で聞き、常に「麻原のデータ」を入れ続けることが望ましいとされていたため、川のせせらぎや小鳥の声などを感じることも、それを妨げる「煩悩」であるとして、遮断していた面がありました。

 自然に囲まれて育ったにも関わらず、オウムの中で、私はすっかりそのような習慣となってしまっていたため、教団の道場から離れ、空気のきれいな山間地で自然の息吹を感じながら過ごすことが、たいへん新鮮に感じられました。


●珍しい7つの虹を見る

 2002年6月10日のことでしたが、上祐代表が瞑想を終え、皆で外に散策に出かけると、空が青く澄み渡り、透けるように輝いているように見えました。
 しばらくすると、太陽の周りに7つもの虹が現れました。あちこちにさまざまな形の虹が空に広がるさまは、なんともいえず美しく、珍しく、ただ驚くばかりで、そこに居合わせた皆が感嘆の声をあげていました。

 このときばかりは、皆が空に釘付けとなっていました。虹を見ているときは、自分のことや悩みなどを考えていず、その突然の光景に、我を忘れる状態となっています。

 事件後の私は、常に自分の苦しみの中にいて、このときもそういった落ち込んだ心の状態にありましたが、虹を見ているときだけは、幸福感、心の開放感があり、その美しい姿は、大自然からの励ましのように感じられました。後に、それらを、自然の中から現れだした大いなる存在、神仏のように感じるようになっていきました。

 後から聞きましたが、このとき上祐代表は、信者の自己愛や傲慢さが、麻原という教祖や事件に投影されたのではないかという思考をしていたと語っていました。


●何度も現れ続けた虹に導かれる

 この6月をはじまりとして、2002年の年末まで、上祐代表らと自然の中に行くたびに、何度も虹が現れているところに出合いました。太陽の周りを輪のように囲む虹とその外側の虹が5時間出続けたり、富士山よりも高く、柱のような光輝く太い虹が立ち上っていたりと、珍しい形のものや、とても鮮明で美しいものなどがありました。

 今思うと、虹が出ている瞬間は、その姿に、驚きと喜びの気持ちが湧き起こって、その時だけは幸せだったと思いました。

 そして、あまりに何度も虹体験をしていくうちに、虹は、大自然から現れ出た神のようなものと感じるようになりました。それは、虹が現れると、虹に釘付けになり、大自然の神秘にただただ驚くばかりというような状態になるため、麻原のことや、自分のことなどを考えていないことに気づいたのです。

 まるで、大自然から現れた神のような虹が、その鮮やかな姿を持って、麻原グルイズムから脱却させてくれようと、大自然に目を向けさせて何か教えようとしてくれているのではないかと感じるようになりました。

 それと同時に、このような大自然があるのにもかかわらず、人間の中から誰か一人を選んで、ある人物を人間でなく神のように扱って、その人物の意思に極限まで合わせようとするような信仰は、ものすごく不自然なものなのではないかと感じるようになりました。

 それよりも、人間でない大自然の中の神仏から、何かを学び取るような感覚は、自然に生じる自然なものであり、宗教でも信仰でもないようなこの自然な気持ちは、自然豊かな日本に住む日本人や、人間という生きものの身の程に合った、本当の信仰なのではないかとさえ思われるようになっていき、徐々に徐々に、麻原グルイズムにはまっている状態が解けていきました。


●上祐代表のカリスマ性の高まり

 上祐代表は、教団の外の自然の中で修行し始めてから、心境の変化が始まったようで、独自の宗教体験などが起こるようになっていきました。

 それは、上祐代表にとっては、行く先々で、珍しい虹に何度も遭遇したりするたびに、麻原を相対化するような心境の変化を伴う出来事などが起き、オウム・麻原信仰からの脱却のはじまりだったのですが、それに反して、私をはじめとする上祐代表の周りにいた者たちは、上祐代表に起こった体験を過大視して、持ち上げるようになっていってしまいました。

 例えば、上祐代表の行く先々で虹が現れたことで、聖者が現れると虹が出て祝福されるという仏教国の考え方などから「上祐代表は祝福された聖者」のようにとらえる人が増えていきました。

 例えば、上祐代表が、インド・エジプトの神話にある、世界を救う神聖な「乳海攪拌」を行ない、「21世紀の大黒柱」という声が聞こえるという神秘的な啓示を受けるということがありました。

 その直後、上祐代表の周りでは、ヴィジョンと現実が一致するようなシンクロニシティが次々と起こっていくということがありました。例えば、啓示を受けた「大黒柱」のヴィジョンと同じような地名の場所(大黒岳)を偶然訪れたり、富士山麓で「柱」のように太く大きく立ちのぼる虹(大黒柱は虹色のように光る柱だった)と出合ったり、「大国町」(=大黒柱を連想させる。日本の神では、大国=大黒)ということころに新しい道場が決まったりという具合でした。

 例えば8月に行われた上祐代表による霊的エネルギー移入であるシャクティーパットでは、「麻原でなく、上祐代表だけで、ほんとうに霊的体験が起こるのだろうか」という信者たちの懸念をよそに、多くの信者が霊的体験や心の体験を深めるということがありました。

 信者の中で比較すると、上祐代表は、もともとのカリスマ性に加え、崩壊寸前で絶望的だった教団を立て直していったという功績や、知性の高さ、その説法の面白さや人に対する気配りなどに加え、そういった神秘性も加わったことで、自然とカリスマ性が高まっていきました。


●上祐代表への依存と自負心・虚栄心の増大

 これらのことについて、現在、上祐代表自身は、神秘的な体験は起こることであるけれど、絶対視・過大視した面は未熟だったと振り返っています。

 私や上祐代表の周りの人たちは、安直に、上祐代表の宗教的権威を高めていこうと動いていってしまったのですが、その背景には以下のような心があったと思います。

 当時、事件の現実や、麻原の不在の現実、そして、不規則発言と不可解な言動をする麻原の現実などからの不安や苦しみが強かったために、上祐代表を聖者化して持ち上げることで、安心したいという、私たち信者の安直な依存です。

 そして、麻原やオウムの幻想が壊れていくと同時に、自己存在価値も壊れていくために、満たせなくなっていく自己存在価値や自負心・虚栄心・教祖や教団への愛着を、上祐代表の宗教的権威を高めることで、埋め合わせ、満足させようとする心です。

 それに加え、私の場合は、先に述べました啓示ととらえたヴィジョンの中に、「私が上祐代表を中心的に手伝うべき」というものがあったために、自らを「宗教的権威の高い上祐代表を手伝っている中心的な存在」と自分の内面で勝手に位置づけて、行動していた面がありました。

 そのような意識があったために、仏教の、自我執着を滅する教えとは逆に、自負心・虚栄心が増大し、それが現実で満たせなければ嫉妬・闘争するという精神状態に陥ってしまいました。そのため、周囲の人たちとの争いが絶えず、おろかで幼稚すぎるのですが、「現実」と「ヴィジョン至上主義からくる妄想」のギャップに、自分の内面で勝手に苦しんでいる状態になっていってしまいました。

 この経験は、後に、麻原とわたしが共有するオウムの大きな問題、虚栄心からくる魔境・増上慢という問題だったと理解していくために、必要な苦しみの経験となったのでした。


●信仰の変化のはじまり――日本各地の自然・神社仏閣・遺跡・聖地巡礼(2002~2003)

 この2002年の後半から、上祐代表らと共に、自然だけでなく、さまざまな神社仏閣や、縄文遺跡、日本各地の聖地巡礼を始め、他宗教の研究を始めました。自然豊かな場所に加え、神社仏閣などを巡礼し始めたことは、後に、大きく信仰・宗教観が変化する大きなきっかけになりました。

 オウム時代に麻原は、教団施設が「最も聖なる場所」であり、日本の神社仏閣などは「外道」で「エネルギーが悪い」から行ってはならない、と説いていましたが、実際に、自然の中に行くと、あちこちに、神社やお寺や祠などがあるために、自然と行くようになりました。

 わたしはオウムに入る前、自然の中で育ち、神社仏閣が好きだったこともあると思いますが、そのような場所に行く方が、教団施設内の道場だけで、麻原を観想したりして閉じこもっているよりも、好きになりました。

 また、そのような場所は、麻原が言うように「外道でエネルギーが悪い」とは感じず、むしろ「エネルギーがいい」と感じました。

 そのころは、長野県の諏訪、乗鞍、東北の縄文遺跡であるストーンサークル、十和田湖、黒又山、沖縄のウタキ巡りと久高島、出雲大社、奈良の聖徳太子ゆかりの寺、日光などに行きました。

 「御柱祭り」で有名な諏訪大社を訪れ、柱を見学したときは、近くの博物館で、その御柱祭りと、シヴァ神を祀るネパールの神柱の祭りが非常に似ていることが展示されていました。

 それを見て、私たちが当時オウムで主宰神としていた「シヴァ神」の柱の信仰が、ネパールや、日本で同じように行われているということは、日本や世界の信仰や文化が似ているということであり、日本にある教団だけが「聖」で、他の日本や世界の宗教は「邪」で「外道」という麻原の説く教えは違うのではないかと感じ始めました。

 東北にある、縄文遺跡であるストーンサークルを見学したときは、それがインドのシヴァリンガとよく似ていることを知り、諏訪のときと同じように、日本の遺跡とインドの遺跡が似ていることで、インドの信仰と日本の古代信仰はつながりがあるのではないかと思い、たいへん興味がそそられました。

 他にも、日本古来の竜神や蛇信仰などにもたいへん興味がそそられ、多くの場所を巡礼していきました。

 麻原が逮捕され指導を受けなくなって7年も経っていたことも大きいと思いますが、最初はこのような流れで、「麻原が説いていることと反していても、自分たちがいいと思う感覚を優先する」という行動を、上祐代表らと共に、自然と行うようになっていきました。


●麻原以外の教えに学びはじめる(2002~2003)

 時を同じくして、上祐代表が、麻原以外の教えを学ぶようになり、共に仕事をしていた関係上、わたしもそれを読み、「麻原以外にも、教団の外に学ぶべきたくさんの教えがある」と思うようになりました。例えば、インド三大聖者のラーマクリシュナとその弟子ヴィヴェーカーナンダの、「すべての人を神の現れと見て学び奉仕する」という教えなどです。

 教団では、麻原だけを神の化身と見て奉仕する、ということだったのですが、そうではなく、「すべての人」をそう見るということです。誰か一人だけをそう見るというのはおかしく、いろんな人のいろんな面を学んでいく方が、意識も広がり、人間的に成長できると思いました。

 また、他の教えを学びたいと思っていった背景には、同時に麻原の「95年以前の説法」を読んでも、99年にハルマゲドンが起こるなど、すでに外れた予言の内容が書いてある面があり、それを読むことに意味を感じられなくなってもいたことも影響しています。


●上祐代表の教団改革が始まる(2003~)

 そのような活動によって、上祐代表の心境の変化が大きくなり、2月ころから、教団改革がはじまりました。

 後に松本家の家族を中心とする反上祐派は、この改革を「グル外し」と批判しましたが、この時点では、「グル外し」は行われていません。

 具体的には、麻原への信仰を持ちにくかったり、持てない在家会員や、一般の人が、各支部道場を訪れた際の違和感を和らげるために、各支部道場の道場部分において、麻原の映像や本を置かないようにして目立たなくするというものでした。

 ですので、この時点では、麻原の教材などは道場となっている部屋以外の場所に、存在していました。それでも、反上祐派からすれば、「グルが外された」と表現するほど、信仰に反することだったということで、この行為に対する受け止め方の違いは、後の分裂とつながっていくことになりました。
 この改革は、後に、それをよしとしない麻原の家族の反対により、2、3ヶ月で停止することになり、そこから教団が分裂し、上祐派の活動、脱会・独立につながっていく大きな流れのはじまりとなりました。


●事件の明確な否定による、麻原の相対化

 当時のわたしの意識状態は、一連の事件はとうてい肯定できるものではない惨事だと思う意識と、麻原をグルとして否定したくないという相反する意識が共存していて、その矛盾に悩んでいる状態でした。

 もう少し具体的には、①事件を否定して賠償をすること、社会と融和していくことはしたいという意識があり、それと同時に、②事件は麻原や教団がやったと思っている意識もあり、しかし、③なぜそのようなことを麻原が行ったのかわからない、という疑問があり、④麻原をグルとして否定したくない、という欲求があるという状態でした。

 この矛盾した悩みを解決するために、麻原は事件を起こしたが、その動機は、私たちとは違う、最終解脱者・神の化身の深い考えによって行われたために、計り知れないので、考えてはならない。として思考停止するしかないという状態になっていました。

 こういう意識状態は、当時、私だけでなく、多くの信者が陥っていた状態だったと思います。

 そのため、上祐代表は、以下のような考え方を述べました。

①一連の事件は麻原が指示したが、それは信者に内在していた悪業の投影であり、正当化できるものではなく、反省すべきこと。

 これは、麻原が行うことは、最終解脱者・神の化身・絶対善とする考えを否定する考えです。信者に内在していた悪業を投影して、麻原が、事件という悪業・失敗を犯した。という考え方だからです。

 ですが、麻原を直接的に「悪」とするのではなく、信者の「悪」が麻原に投影されて、麻原が「悪」を行ったという、間接的なものなので、事件は「悪」だが、麻原を「悪」としたくないという、信者の心に受け入れやすい形だったのです。

 私の当時の状態も、これなら麻原を悪と断定しなくてすみ、かつ事件を反省でき、麻原をグルとして否定しなくてすむために、そう考えることで、今までよりも少し楽になりました。


●事件の関与を明確に認める

 この改革は、すべての出家信者と、主な在家信者を集めて集会の形で行われました。
 その場で、さまざまな事件の年表を確認し、事実認識していく作業などが行われましたが、その中で、信者の中で、上祐代表に「本当に事件をやったとは信じられない。陰謀に違いない」と質問した人がいたのです。

 いまだに事件が陰謀だとする人がいることに驚きましたが、教団は、2000年の段階で、事件の関与を認め、賠償支払いを始めていたにもかかわらず、それは形式上のこと、と思って、真実を見ようとしていない人がいたということが露呈した形になりました。

 つまり、その決定には賛同しても、個人個人の心の中で、勝手な解釈をする人が何人もいたということになります。アーレフ発足時に、信者一人一人と上祐代表が納得するまで話したというわけではないので、その部署の幹部の傾向によって、一人一人の理解がバラバラであり、自分の思いたいように思っていた状態だったと思います。


●心身の状態の悪化

 この改革を進める活動に協力しながらも、先に述べました私の内面での野望によって、現実と、妄想的ヴィジョンのギャップに苦しみ続ける状態に陥り、抜け出すことに苦戦していた私は、どんどん心身の状態を崩していき、ついに病気になってしまいました。

 そのストレスから、自律神経のバランスを崩し、急性胃腸炎になって緊急病棟に運ばれてしまいました。精神的に絶望していた約1ヶ月の間、食べた食べ物が一切消化されずにそのまま排泄されてしまうという症状になり、寝たきりの療養生活をせざるをえない状態になってしまいました。


(4)オウム・麻原信仰からの転機――教団からの上祐代表の排除(2003~2004)
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●オウム脱却の大きな転機――教団からの排除が始まる

 そんな矢先、私がオウム・麻原信仰から脱却する転機となった出来事が起こりました。

 それは、松本家の家族の反対による、上祐代表の排除の行動でした。

 上祐代表の、事件を直視して麻原を絶対視せず、教団を改革していこうとする活動をよく思わなかった松本家の家族が、上祐代表を教団活動から外すための協力を求める活動を、上祐代表に知らせずに、秘密裏に進めていくという形でそれは起こりました。

 それと同時に、上祐代表と共に仕事をしていた私ともう一人も、教団活動から排除されることになりました。表向きは、皆、修行入りという名目でしたが、実質は、教団活動からの排除でした。

 形としては、上祐代表は修行という名目で、実質烏山の自室マンションに閉じこもる形となりました。私などの上祐代表の部下は、上祐代表と連絡を取って行動が起こせないように、携帯電話やパソコンが没収され、郊外の施設に隔離されました。

 後に知りましたが、上祐代表の方は、松本家の家族から命じられ、共にいた上祐代表の秘書や警備に監視されてすごす生活を送っていたようです。

 修行仲間だと思っていた友人たちは、麻原やその家族への信仰・依存を背景として、その指示に従い、一夜にして、豹変したように、上祐代表や、上祐代表の路線を進めていた人たち(私などを含め)を魔境(悪魔がとりついている)と断定し、教団活動から排除する行動に出ました。

 最初は、その突然の、話し合いの余地のない、理不尽なやり方に、私自身はまったく納得がいかず、苦しみました。

 事件後の混乱の中、正悟師と呼ばれる幹部と松本家の子女たちがうまくいかず、崩壊寸前まで追い詰められた99年に、上祐代表が復帰したおかげで、教団を立て直すことができたにもかかわらず、松本家の家族や正悟師と呼ばれる幹部の皆が、その恩を仇で返すような行動に出たことがショックでした。


●オウムの教えの過ちに気づく(2003~)

 心身も病気で弱っていたところに、この排除の出来事があり、その時に心の支えとしていた「教団は上祐代表によってまとまり、みんなで変わっていける」という思いも幻想にすぎなくなり、壊れてしまいました。

 教団の外から見たら、狭い一つの世界にすぎないと思いますが、私は十数年も教団の中にいて、教団の中が私にとっての社会だったことに気づきました。そのため、十数年間も一緒にやってきた教団の友人たちから排除されてしまったことは、思った以上に相当にこたえました。

 理不尽に感じてはいても、自分には何もなくなってしまったように感じ、そこにいることがやっとで、なにもできない状態になってしまい、私が思った以上に、外のいろんなものに依存して生きていたのか思い知りました。ですが、これがオウム幻想の崩壊のはじまりでした。

 落ち込んで過ごしていたある日、修行場にしていた家の駐車場から、大きな三重の虹が立ち上っている光景に出会いました。虹が足下にありその中に入ることができました。虹自体は、山の向こうまで伸びて、180度のアーチではなく、円形に近い270度の形をしていました。

 そのような珍しい虹体験をして、少しだけ心が明るくなった後、考えを巡らせていると、上祐代表は、教団という一つの社会から、死んで新たに生まれ変わらなければならない転機なのではないか、という考えが浮かびました。

 そう考えると、私自身も、自己存在価値にとらわれて、上祐代表を中心に教団のみんなが変わっていくという幻想が壊れた今、そんなこだわりを捨ててしまえばいいし、それが本来の仏教の修行ではなかったかと、目から鱗が落ちた気持ちになりました。

 この後、1年半ほど、修行に入って排除された状態が続いたのですが、その期間中は、この気づきから、教団の目を盗んで、麻原の説法ではなく、一般の仏教書や思想書などをどんどん読みふけり、オウムの教えの根本的な過ちに気づいていく期間となりました。

 そして、本来の仏教の教えでは「自我執着」を滅することが説かれ、その実践により謙虚な人格が育っていくのに、逆に、オウムの私たちの場合は自己存在価値、自我執着へのとらわれは増し、傲慢で自己中心的な人格が増大していたことに気づいたのです。

 当時のオウム・アーレフの中では、わたしは「クンダリニー・ヨーガの成就者」とされ、「師」という指導者的位置づけがあったのですが、そういった位置付けから外れてみると、実際の自分は「不自然」で、「なにかおかしい」と肌で感じるようになりました。

 「不自然」というのは、「自然」と切り離されてしまい、自然な感性が死んでいるという感覚です。また、「おかしい」というのは「傲慢」ということで、自分がオウムに入ってからの長い間、異常なほどの「プライド」「増上慢」「魔境」に陥っていたことに気づいていきました。

 それに気づくと、麻原の過ち、オウムの教義の誤りが見えてきて、宗教観が変わってしまいました。そして逆に、この自分の傲慢で自己中心的な人格を変えていくことが、重要だと思うようになっていきました。

 このような形で、やっと、この2003年になって、オウム・麻原信仰や、わたし自身のおかしさに一気に気づくことになったのでした。遅すぎる気づきだと自分でも情けなく感じていますが、このような形でしか、気づくことができませんでした。


●宗教テロの原因と改革の必要性に気づく

 また、この2003年~2004年末の間には、反上祐派の人たちの、排除の行動は激化し、いかに上祐代表や私たちが魔境かという「お話会」という勉強会なども活発に開かれていきました。

 そこでは、例えば、上祐代表は魔境であり、麻原と違う教えを説いていて、権力欲のためにグル外しを行って、自己がグルに成り代わろうという野望を持っていて、麻原に帰依していない。脱会・分派を考えている。その魔境の影響により、教団内に、事故や強制捜査や、いろんな人たちが教団を脱会したりというような悪いことが連発して起きているというような話が行われていました。

 幹部の会合が何度か行われましたが、そこでは、上祐代表を呼び捨てにして、嫌悪やプライド丸出しで攻撃する人たちもいました。私自身も、あからさまに個人的に批判や皮肉や悪口の的になりました。

 ほかにもいろいろあるのですが、事の実相を何も知らない人たちなどは、これらの非常に激しい排除の行動を見て、反上祐派は嫌悪などを出しておかしいと思い、逆にやめていく人も多数出たほどでした。

 それらの、その非常に激しい排除の行動に直面した私は、しばらく見つめていくうちに、同じ信仰を持つ人たちに対しては、たいへん優しく、いい人たちなのにもかかわらず、「同じ信仰でない」と思った人たちに対しては、自分たちが信じる「真理」の名のもとに、豹変したように、非常に苛烈な行動に出るという性質に気づかされました。

 そして、まさにそれこそが、社会から見れば、まさしく自分が実践してきたオウムそのものなのではないかと感じ、その宗教テロの原因は、こういったことなのかという気づきがあり、そこからも、オウムや自分自身への内省が始まっていきました。

 私が今まで、オウムの人間として社会に対してやってきたことを、教団内部での意見対立を通して、反上祐派側からわたしが経験することになったと思い、過去の自分の姿が、反上祐派の中に見えました。

 このような経験により、わたしの宗教観は大きく変わり、オウムという宗教が行ってきた問題の大きさに愕然とし、このままオウム・アーレフ・麻原信仰を続けている場合ではなく、根底からわたしたちが変わっていくことの必要性・重要性に気づかされることになりました。


●反上祐派への心配

 その対立の際、仲間だと思っていた多くの人が、同じ団体にいながら、ずいぶん異なる信仰・宗教観を持っているということに気づかされました。

 例えば、上祐代表が「麻原を"人間"だと言った」ということで、むきになって怒っていた人がいましたが、神格化・絶対視のレベルがここまでとは思いませんでした。この場合、今後、麻原の死刑が執行されたときに、弱ってしまうのではないかと心配です。

 また、事件を直視せず、場合によっては陰謀と思う人もいるという点は、現実逃避や被害妄想を増大させていくと思いますので、精神の病理が深くなってしまうことが心配です。



(5)代表派の活動――教団内での方向性の模索から脱会へ(2004~2007)
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●上祐代表不在期間からはじまった教団の低迷

 2004年の11月に上祐代表が「(上祐)代表派」として教団活動に復帰したので、私も一ヶ月遅れの12月に教団活動に復帰することにしました。

 復帰すると、上祐代表が教団活動から外れている間に起こった大きな変化を目の当たりにすることになりました。

 最高幹部の一人の野田氏は、薬事法違反の事件で逮捕され、不在となりました。残る4人の最高幹部は、松本家の方針に従い、上祐代表の教団活動の排除に協力した人たちですが、この時期には、上祐氏の教団活動への復帰を望むようになっていました。

 状況としては以下の状態で、その自体の収拾が望まれていました。

・そもそも最初から上祐代表の排除に納得できていなかったが、松本家の家族の宗教的権威を尊重して、仕方なく従っていた面があった。

・松本家の方針に従った結果、方針に納得できなかった幹部が多く脱会した。

・教団の出家者も多く脱会し、経済も悪化した。

・在家信者への活動も低迷した。

・松本家が、最高幹部を無視し、独裁的に教団内の指示を出すようになり、教団内が混乱した。

 なお、この低迷は上祐代表が教団活動から外れた2003年から加速し、現時点もその加速が続いているようです。明確にわかる範囲では、最高幹部の杉浦兄弟の2人が脱会し、野田氏と村岡氏が教団に残るものの最高幹部の地位は実質的になくなり、反上祐派としては、二宮氏のみが残っています。出家者も、少なくとも150人は脱会したと聞いています。


●上祐代表の教団活動への復帰と、内部分裂のはじまり

 上祐代表は、松本家や、上祐代表を排除したい松本家の意向に従う人たちの強い反対を押し切る形で、上祐代表の教団改革を指示する人たちと共に、教団活動に復帰することになりました。

 そのため教団内の出家信者は、おのずと自身の選択を迫られる形となっていき、実質的に内部分裂が激化していきました。大きく分けると、反代表派・代表派・中間派の3つに分裂していきました。

 この当時の派閥の分類をまとめると以下のようになります。

【反代表(反上祐)派】松本家の家族とつながり、その指示を受け、上祐代表を教団活動から排除する意思を持つ人たち。上祐代表の教団改革に反対。
 教団改革に反対という意味は、事件を直視しようとせず、事件は麻原が起こしたということを認めず、人によっては事件は陰謀で、教団は宗教弾圧を受けているという被害妄想を維持する。
 麻原をグルとし、麻原を神の化身。絶対者ととらえる。
 新しい宗教性を模索・実践することは、宗教的に麻原の意思に反した「外道」の実践だと思い、反発し、ひたすら麻原に回帰しようとする。そのためには社会からの反発もやむなしとする。
 上祐代表について、麻原を外し、自分がグルに成り代わろうとしている「魔境」「悪魔がついている」という認識をしている。

【代表派(上祐派)】上祐代表の教団改革に賛同。事件を直視している。事件は麻原が起こしたという認識。そのための償い・賠償を進める意思を持つ。
 麻原については、グルであるという位置付けは残しているが、「人間」であり、絶対者・神ではなく、悪業も犯してしまう存在と相対化している。
 上祐代表について、「魔境」ではなく、事件を直視し、社会と共存しようとし、新しい宗教性を模索・実践しているという認識をしている。

【中間派】思想・活動的にはどちらにも属さないが、組織の上では、教団に従っている人たち。


●代表派設立当初の状況と心境

 代表派と反代表派は、その方針と活動において、上記に分類されるような、まったく逆といっていいほどの違いを持っていましたので対立は必須のことでした。

 オウム教団から、アーレフとなった時の実質は、簡単にいうと、オウム・麻原信仰を維持しながらも、麻原を絶対者でないと相対化し、事件を認め、謝罪・賠償をすすめることで、社会と融和するという要素が加わった形態でした。

 しかし、そこであらわになってきた、教団内の重大な問題は、「事件を否定し認め、麻原を相対化すると、オウム・麻原信仰が維持できなくなる、それは嫌だ」という人たちがいたことがわかった、という点です。これが、後に袂を分かつことになる選択の大きな点となりました。

 上祐代表は、2004年のこの時点で、旧来のオウム・麻原信仰から、麻原の絶対性を相対した形に変えることを行い、他宗教の教えや麻原以外の宗教書や宗教者から学び、教団外の神社仏閣や自然の中に行く中、自然と湧き起こってきた、新しい宗教観が加わり、それらがすべて混じり合っているような状態で、オウム・麻原信仰脱却の過渡期にあったと思います。

 ですので、それをそのまま表現した言動となっていました。上祐代表を支持した上祐派の人たちは、その、新しい方向性に共感していた人たちでした。

 それは自然な心境の変化だったと思いますが、まだ、新しい宗教観が湧き起こっていない反代表派の信者たちにしてみれば、それは「外道」「魔境」「裏切り者」とでも言うべき「とんでもないこと」というとらえ方になりました。松本家の家族が主導したものの、それに付き従った人たちは、その部分について、同じ信仰を共有していたといえます。

 私自身のこの時期の心境は、先に述べましたように、自分の中に湧き起こる新しい宗教観が生じ、オウム・麻原信仰の根本的過ちに気づいた後だったために、それをもっと深めるため、他宗教・日本の聖地を探求したいというものでした。そして実際、多くの麻原の本でない宗教書を読みあさっていました。

 しかし、外形的には、この時はまだ、オウム・麻原信仰を維持するアーレフ教団の中に属していたために、教団内での仕事以外の、自分の興味としてはほとんど読んでいないとはいえ、今まで保存してある麻原の著書や教材などは持ったままとなっていました。

 また、その当時の私の中にあった、もう一つの思いとして、自分が気づいたこのオウムの重大な問題点や、上祐代表が行っている教団改革の重要性を、できるだけ多くの信者に気づいてほしいと思っていました。代表派に来ていない人たちの中にも、まだたくさんの十数年一緒に暮らしてきた友人がいたからです。中には在家時代に、自分が導いて、入信させた信者もいました。

 特に「中間派」と呼ばれた人たちは、反代表派のような激しい反発をしているわけではなかったので、話せばまだ聞く耳があると思われたため、今回の大混乱の事の真相を知らせ、上祐代表の教団改革の方向性に向かってほしいと、話せる人には話をしていきたいと思っていました。


●代表派の活動――反代表派・中間派に活動内容の理解を求め、共存を模索

 このように、代表派設立時から脱会を決めるまでの間は、教団内が大変混乱した状況にある、変化の時期でしたので、これからどうしていくのかを模索しながら、教団の中での共存を求める活動となりました。

 代表派設立当時、代表派が行ったのは、反代表派・中間派に、活動内容の理解を求め、共存する方向に向けての活動でした。それを箇条書きにすると以下のようなものとなります。


①今回の騒動の事実を、中間派の人たちに伝える

 上祐代表が教団活動から排除された、理由や事実関係が、反代表派により、隠されたり、事実でないことが伝えられたりしているため、その事実関係を、無関係だった信者に伝える。


②教団改革として、事件の直視・否定・反省・賠償、麻原の相対化を行う

・信仰の土台となる生活面で、社会の中で生きていくためには、社会の人と共通した現実認識が最低条件となるため、事件を直視する活動を行う。

・事件は、大変な悪業であるため、人として反省と償いが必要。反省と償いの心境になるためには、麻原は絶対者・神の化身ではなく、失敗を犯した人間であることを理解させる必要があるのでそれの考え方を広める。

③教団改革として、麻原の教えについてのとらえ方を改める

 麻原の教えの中で、事件を肯定するかの教義、すでに外れた予言の教義の否定・反省・排除を行い、その中で、危険性がなく、現実とも合致し、仏教・ヨーガの根本的教えと共通する部分だけを学ぶ。


④他宗教・他宗派を探求する

 オウム・麻原独自の教えでない、他宗教・他宗派の教えを学び、宗教的探求を深める。それも参照しながら麻原独自の教えを精査する。


●反上祐派の反発の激化と、在家信者に広がった活動

 上記のような代表派の活動に対し、反上祐派は、反発を強め、あの手この手で、活動を抑え込もうとしました。出家信者で代表派と接触した人を、教団活動から排除するなどの圧力をかけて阻止したり、上祐代表の事実に反する批判を広めたり、「上祐代表と話をすると、魔境が移り地獄に落ちるから会ってはならない」と圧力をかけたりといった具合でした。

 また、反上祐派は、事件の陰謀説などを広めたり、反社会的な過激な発言を強めたり、麻原を絶対視する教えを広めたりといった、上祐派とは逆の方向性を強めていきました。

 さらに、反上祐派は、在家信者にもそういった活動を行っていったので、それを受けて、代表派も、在家信者への活動を始めていきました。

 その結果、在家信者も、出家信者と同じように、反上祐派・上祐派と分かれていくことになりました。

 上祐派と反上祐派の話し合いも、何度も行われましたが、宗教観・社会観がまったく違うため、平行線をたどり、最終的には、反上祐派が、話し合いを拒否する形で決別していきました。

 私は、この対立の経験によって、同じ教団で十数年もすごしてきたにもかかわらず、人によって宗教観がまったく違っていたこと、オウム・麻原信仰の過ちに気づくことが大変難しいことに愕然となりました。

 私自身、はまり込んでいたときは、社会から見れば、反上祐派のように見えただろうことを痛いほど思い知らされ、さらに自分自身の心の根を絶っていく必要性の理解を深めていきました。


●事件を直視する活動により、事の甚大さ・非道さ・残酷さの認識を深める

 代表派の活動の大きな一つに、上記に述べました②の、「教団改革として、事件の直視・否定・反省・賠償、麻原の相対化を行う」というものがありました。

 この活動の一環として、上祐代表が知りうる限りの、教団の違法活動の実態を聞いたり、実際に犯罪行為に手を染めてしまい、刑期を終え、出所した者などから、その犯罪の赤裸々な事実を、直接聞く勉強会などが、何度も行われました。

 報道や、信者でない外部の方の教団批判の情報は知って、事件の概要は理解していたつもりでしたが、教団内部の信者から、例えば教団内部のリンチ殺人事件のほう助の生々しい話を聞いたりしたことで、一連の事件の残酷さ・非道さをあらためて思い知ることになりました。

 そして、事件当時の報道や、被害者・遺族の方々の現在の状況などを知るための勉強会が開かれたり、リカバリー・サポート・センターの方が、被害者・遺族の方の状況を説明しにきてくださり、その悲惨さをお聞きし、オウムのなした非道さ・取り返しのつかない罪の重さを、あらためて重く受け止めていきました。

 また、違法行為に関与した信者自体が、刑期を終えた後も、拘禁症や、心身症などの症状に苦しんでいる事例なども見聞きし、事件の悲惨さ・悪業の深さを思い知りました。


●オウムの総括を始める

 こういった事実を知り、賠償の償いの必要性を実感するとともに、オウムの実態を分析し、二度と同じ過ちが起きないためにも、オウムの総括を行っていく必要性を感じるようになりました。

 そこで、事件後の、さまざまなオウムを批判・分析する本・雑誌などの資料を、できる限り収集していき、可能な限り読み進めていきました。

 読み進めていくと、この事件後10年も経った時点で、やっと私が気づき始めたことを、すでに事件直後に、明確に指摘する内容の書籍などがたくさんあることを知りました。

 教団内部のちっぽけな世界に閉じこもり、自己中心的な妄想的価値観に染まり、傲慢になっていたせいで、真実をまったく理解できていなかった自分の無智・おろかさ・情けなさを思い知りました。

 また、オウム事件が、事件の被害者・遺族の方はもちろんのこと、さらに、日本の宗教界・精神世界や、さまざまな宗教者・学者の方々に、拭いがたい甚大なダメージを与え、大きく傷つけてしまったことを知りました。

 事件後10年もたってやっと、このようなたくさんの現実と向き合うことになったのですが、その罪の大きさに愕然とし、あまりにおろかな自分にあきれ、今度は心身の調子を崩すという情けない状態に陥ってしまいました。

 最近になってやっと、心身の健康を取り戻すことができてきたので、それらのたくさんの償いを、自分のできる限りこつこつ積み重ねていこうと決意しています。


●神社仏閣・聖地巡礼の案内係となる

 代表派の方向性として、麻原を神の化身として崇めるのではなく、大自然・他宗派から学ぶという姿勢を重視していました。
 私自身も、2003年に気づいたように、自分が大自然から切り離されて、おかしくなっていると認識しており、オウム・麻原信仰の脱却のためには、聖地・自然の巡礼で、そのすばらしさを実感することが重要だと強く感じていました。

 このような理由で、代表派では、神社仏閣・聖地巡礼を重要視しており、ありがたいことに、私は聖地巡礼の案内係となりました。

 特に、2005年から、日本各地の聖地、神社仏閣巡りを本格化していき、長野県の戸隠・諏訪や、熊野古道の那智・熊野の巡礼、奈良の三輪山などの巡礼を行いました。

 戸隠では、その土地の自然のすばらしさ、山岳・修験の信仰の深さに感じ入り、聖なる強い波動を発している聖地だと感じました。

 諏訪では、縄文以前の「古代」から続く信仰の深さが、間近に見える形で残って続いていることに感銘を受けました。特に、縄文時代の石棒を祀るミシャグジ神に強く惹かれるものを感じました。また、ご神木の湛の木という木や、ご神体の巨石などの中に、何も語らず静かにそこにあるあり方に、人を超えた愛の深さのようなものを感じました。
 那智の滝や、熊野川、森、海、三輪山の山、ご神体石などにも感じ入るものがありました。

 2006年になると、上祐派の在家信者に対して、日本各地の聖地・神社仏閣巡りのツアーを企画して、百数十名の信者を各地の聖地へ案内しました。伊勢神宮、比叡山延暦寺、高野山、奈良吉野の金峰山寺・天河、長野の諏訪、富士山、京都の神社仏閣、奈良の神社仏閣など、たくさんのところを、在家信者とともに巡礼しました。

 これらの巡礼を行い、麻原のような人を拝むような宗教よりも、自然の中に神仏を見るという、自然な日本古来の信仰のあり方の方が好きになりました。

 私だけでなく、この巡礼によって、多くの人が、そのような感想・経験を積み重ねていくことができ、脱オウム・麻原の方向に、体験を伴って進んでいったことは、大変ありがたく、うれしく思っています。

 また、聖地巡礼で、さまざまなオウム以外の方々との出会いがあり、私たちをオウムと知りながら貴重な助言をくださったり、大変親切にしていただいたりということがありました。それらにより、教団の中だけに閉じこもって落ち込んでいた心が、外にひらけていき、教団と社会・信者でない人への区別の心がなくなっていき、教祖だけを拝んで教祖だけから学ぶような宗教の過ちを実感していきました。


●他宗教・麻原以外の宗教家の教えや、宗教の歴史を学ぶ

 それと同時に、他宗教や、麻原以外の教えをどんどん学んでいきました。

 その中でも、宗教の歴史を知ることで、この、反上祐派との激しい反発のようなことは、歴史上、よくあることだと気づいた点はためになり、その後冷静な見方ができるようになる大きな助けとなりました。

 例えば、インド三大聖者の一人といわれるラーマクリシュナの死後、その一番弟子であったヴィヴェーカーナンダが、「ラーマクリシュナ一人だけを崇めて、修行の世界に閉じこもるのではなく、すべての人々に、神の現れを見て、実際の奉仕をせよ」と説いて、それに反発する兄弟弟子たちから、過激な反発を受け、それを乗り越え、ラーマクリシュナ教団の改革に成功した、という話がありました。

 これらの伝記などを読むことで、原理派と改革派の争いの原因、原理派にある、宗教や教祖への依存や心の弱さ、引きこもりの傾向、社会と修行者である自分たちとの区別、奉仕への怠惰さなどの構造が、客観的に見えてきました。

 その原理派にある問題点は、かつての自分が強く持っていたことでもあり、今教団は、その要素を乗り越えていく時期にあると思われました。

 その他にも、さまざまな教えを学んでいきましたが、反省すべき点が一つあります。それは、中間派の信者を、改革の方向に導く上において、興味を持たせるために、誤った活用のしかたをしてしまった点です。

 それは、上記のような話をしたうえで、さらに興味を惹かせるために、「ラーマクリシュナが麻原の前世だと聞いたという信者がいるらしい。(だから、麻原に帰依しているあなた方は)このような改革を、受け入れるべき。」というような話をしたことがありました。

 これは、今思うと、安易に麻原に依存するやり方であり、そんなことを話さなくても、原理派と改革派の争いの歴史的構図を話すだけで十分有効だったと反省しています。現在はそんなことを話すことに何の価値もおいていませんので、そのような話をすることは、二度とありません。

 今振り返ると、このような話は、本質的な脱却の方向性に行きたいという本人の意思がなければ、このような話は本質的に気づかせる根本的な原因となるものでもなく、過渡的な、方便、一時的に関心を惹かせるためのものでしかありませんでした。

 私の話が下手だったせいもあると思いますが、人によっては、この話を聞いて、代表派にも入らず、反代表派のアーレフ教団もやめて、ラーマクリシュナやヴィヴェーカーナンダに傾倒してしまった人もいたほどでした。


●麻原の教えを活用、教団改革を進める

 上祐代表が2003年から進めてきた教団改革の一つに、上記③の、「教団改革として、麻原の教えについてのとらえ方を改める」というものがありました。

 このときから、麻原の教えの中で、事件を肯定するかの教義や、すでに外れた予言の教義の否定・反省・排除を行い、その中で、危険性がなく、現実とも合致し、仏教・ヨーガの根本的教えと共通する部分だけを学ぶ、という作業を行い、私もその作業を行いました。

 しかし、そのことは、反上祐派の強い反発を招き、「グルの教義の改ざん」だと、強く批判されるに至り、私も上祐氏とともに批判・排除されることになりました。

 そういった経緯があったために、この時点では、「麻原の教えと反するのか反さないのか」ということを最重要視する傾向のある信者たちに対し、麻原の説いた教えの中で、一般の大乗仏教やヨーガの教えなどと共通している教えをできるだけ探し出して提供し、上祐代表と代表派の進める、事件の直視・教団改革が、視点を変えて見れば、麻原の教えとも反さないことを示して安心させ、本質的に重要な問題が受け入れられるような方向に、説得していきました。

 例えば、「真実をありのままに見る」というようなどこにでもある教えが、麻原の説いた中にあれば、「真実をありのままに見るためには、事件の事実を直視しなければならない」という風に活用するというようなやり方です。

 麻原の説いたものでも、割と初期の頃のものは、社会と融和する方向性のあるものなども、探せばあったので、それらを、教団改革を受け入れられる土台となるように、活用して使用したのでした。

 ですので、その頃は、麻原の教えの危険なものと危険でないものを、信者にとってわかりやすく区別できるために、危険でないものを「マハーヤーナ尊師教」「尊師仏教」などといい、一連の事件に至った危険性のある排除すべき教えを「ヴァジラヤーナ尊師教」「尊師キリスト教」などと上祐代表がネーミングしたりしていました。

 また、反上祐派は、「上祐代表は、魔境で悪魔が取り憑いており、会えばグルとの縁が切れて地獄に堕ちる」などといって、在家信者を怖がらせていたりしましたので、そう聞いた人を安心させ、そんなことではなく、本質的な問題、事件の直視や、教団改革の方向に導くために、麻原の教えや言葉を活用しました。

 例えば「上祐代表は、魔境ではなく、むしろ、麻原に高い評価をされていた一番弟子だったから、会っても地獄に堕ちたり、グルとの縁が切れたりしないから安心しろ。だから、事件を直視し、現実をみて、考え方を変えなければならない」と話して安心させるなどの使い方をしました。

 この過渡期に、このような活動を行ったために、外部の方から「麻原隠し」「グルの意思としての活動」いう見方をされてしまったのだと思います。それは、いたずらに教団外部にあらぬ誤解をもたせてしまったことだと反省しています。

 なお、その後の2007年に正式に脱会する際までには、さまざまな活動により、オウム・麻原信仰への脱却が進み、実際にすべての麻原・オウムの教材を破棄し、そういった過渡的方便を使うことの意味さえなくなった状態になることができ、現在に至っております。


●教団内での改革の限界を実感し、脱会する

 反上祐派の激しい反発を直接的に経験していったこの時期、この180度逆ともいえる転換が、一度はまった信者には、非常に難しいことを実感しました。理解してもらえるだろう、と思っていた人でも、かなり多くの人は代表派に賛同してはくれませんでした。

 しかし、その中でも、結果的に、約60人の出家信者が、上祐派を支持するようになりました。

 上祐派の変化に伴い、反上祐派との話し合いさえ拒否される状態になっていき、もう決裂した正反対の思想と、実践を進めるためには、これ以上同じ団体に属する意味がなくなっていきました。

 そして、決断までには、2004年から2007年という3年の期間を要してしまいまいたが、正式に脱会し、オウム・麻原信仰を脱却した、新しい思想の団体として、やり直すことになりました。

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