指導員・会員の総括

斎藤友希 オウム・アーレフの総括と今後の抱負

『オウム・アーレフの総括と今後の抱負』

●はじめに、麻原について

 まず、麻原彰晃こと松本智津夫死刑囚(オウム真理教元教祖)(以下、麻原と表記)についてお話したいと思います。ひかりの輪になってから、麻原について、その生い立ちから事件に至るまで、そして逮捕後の言動など、私たちなりに検討してみました。

 例えば、麻原の生い立ちから宗教を始めるまでの経緯などについては、麻原の生い立ちについて調査したジャーナリストの著作を、皆で読むなどして検討しました。

 その中では、彼が、彼が師と仰いだ人から助言され、弱い人を相手にして、自分の欲望を満たすために宗教を始めていったと感じさせる経緯が描写されていました。

 また、心理学者の分析として、善と悪の双方の面をもった病理的な人がいる、という事実を知ったことも重要でした。

 その結果として、アーレフのころは、自分がイメージしていた信仰の対象である慈愛に満ちた麻原と、一連の事件の犯罪者である麻原が別々の存在のように感じていましたが、私の中で、その両者が一つになって、人間としての麻原が見えてきました。

 かつて麻原に対して持っていた(妄想していた)純粋な宗教家というイメージが薄らいでいって、欲望を持った普通の人間と同じ人である、と感じるようになりました。事件を起こした麻原と、慈愛に満ちているように見えていた麻原が一致したのでした。

 検討の中であぶり出された、麻原の言動は、その幼少期から、いかに自己中心的で、支配欲が強く、すべての行動が自己の利益のためになされていたか。そう思ったときに、自分が、麻原のような人間を信じてしまったことの愚かさに愕然としました。

 それと同時に、麻原の、事件に至るまでの生い立ちを学び、いろいろな人の麻原の心理分析結果を学ぶうちに、麻原の心理的な傾向が、一面において、自分にも当てはまることに気がつきました。

 麻原はひどい人間だ、と思いましたが、自分も、一面において、似たような傾向を持っていると。そして、だからこそ、麻原にひかれ、尊敬してしまったのではないか、と思いました。

 そして、自分の中にある、(麻原が)こういう人であって欲しい、という願望と思い込みで、勝手に人を判断し、信じてしまった軽率さを反省し、これからの教訓としたいと思っています。

 また、総括作業を進めていく過程で、麻原の中に見た欲望。すべてを思い通りにしようとする傲慢さ。

 これらは自分の中にも存在し、もし、(自分も教祖に指示をされるなど、という)条件が揃っていたら、その傲慢によって、(一連の事件に関わった他の信者と同様に)、場合によっては、恐ろしいことをしていたかもしれない、という可能性を感じました。

 そして、自己を客観的に、冷静に見ていくことの必要性を感じました。


●私と事件

 過去にオウム真理教が起こした事件には、私は直接には関係していませんでした。しかし、教団に対する寄付や奉仕活動など、犯罪を推し進める何らかの援助を行ってきていたことは確かなことです。

 また、社会を敵視し、いろいろな教団活動を行ってきたことは、事件にはなりませんでしたが、心の働きとして、程度の差はありますが、事件を起こした人たちと変わらなかったのではないかと思っています。

 ヴァジラヤーナ活動を実践していたかどうかに関わらず、真理を広め、真理の世界を作りたいという思いは、実際にテロを起こした人たちと同じだったと思います。そして自分の教団での活動は、自分の欲望を満たすために行っていたことであり、それは傲慢であり、テロを起こした人たちと変わりはないと思っています。

 そして、私たちは死後の世界を重く見すぎたために、今、この世界で生きている生命というものを、軽く考えるようになってしまったのだと思います。その結果、今生での生命の尊厳を無視した、非情なテロ行為に至ってしまったのだと思います。

 正直なところ、被害者の方々に、何をどのようにしたらいいのか、今はまだ自分の中で明確にはわかっていませんが、これからもっと事件のことを身近なこととして考えていく努力をしながら、模索していきたい、と思っています。

 今、私にできることは、ひかりの輪の他のメンバーの方々に助けていただきながら、自分が信じて援助してきた人間が、過ちを犯し、多くの人を傷つけたことを事実として受け止めること。そして、自分が犯した過ちを忘れないようにすること。そして、何よりも、二度とオウム真理教のようなテロ事件を起こす人(団体)が現れないようにすることではないかと思います。

 そのために、ひかりの輪での賠償、そしてこれから先、自分たちと同じ過ちを犯す団体、もしくは人が再び現れないように、自分たちの過ちを伝え、過ちを犯さないためにはどうしたらいいのか、宗教が、教祖などの他人に頼らなくても、自分で道を探求していけるのだということを、示していけたらと思っています。

 来世ではなく、今の世界を大切に、今をどう生きたらいいのかを考えていきたいと思います。


■教団活動に携わる過程での心理状態と自己分析について


●小学生時代

 小学校一年の頃は、私は友だちと遊ぶよりも勉強の方が好きでした。とにかく、いろいろなことが知りたくて、たくさん本を読みました。

 でも、それが普通の子供と違うということに気がついて、できるだけ友だちと遊ぶように心がけました。友だちと遊ぶ時はかなり無理をして、みんなに合わせていたのを覚えています。興味のないことも、興味があるふりをしたり、面白くもないのに笑ったり。

 それでも、学級図書の本を全部読破することに挑戦してみたり、ひとりで本の世界に没入している時が、私にとっては一番楽しい時でした。

 小学校低学年のころは、いわゆる登校拒否のような感じでした。学校に行かなくてはいけない、と思うとお腹が痛くなったり、熱が出たり。病院に行っても自家中毒と診断されていました。それでも学校には普通に通って、できるだけ普通に振る舞っていたので、ストレスで、のどが詰まって、軽い呼吸困難になったりしていました。

 友だちの家に遊びに行ったりすることもありましたが、どちらかというと友だちとどこかへ遊びに行ったりすることよりも、テレビに夢中になり、自分の世界に浸っている方が好きでした。


●中学校時代 他人に対する無関心

 友人は大勢いなくても、一人か二人仲のいい友だちがいれば十分でした。みんなと一緒に、グループになって何かをすることがあまり好きではなかったので、一人でいる方が、かえって気楽でした。

 このころから、自分以外のものに対する関心がなくなっていったのではないかと思います。
他人と関わることがわずらわしくて、一人でいることの方が好きでした。


●アニメブーム

 もともとテレビ漫画が好きだったのですが、このころからアニメブームが始まり、ますますアニメに夢中になっていきました。

 ヒューマンドラマ的な要素の強いものよりも、どちらかというと、敵・味方のハッキリしている、勧善懲悪のロボットアニメなどが好きでした。白黒はっきりしていて、善悪に悩まなくてもいいところに、心地良さを感じていたのだと思います。

 友人の影響もあって、そのころはやっていた、宇宙戦艦ヤマトやキャプテンハーロックなどにも夢中になっていました。

 自分は自分の正しいと思う道を貫く、そして、間違った権力に対しては敢然と立ち向かう。そんな生き方にあこがれていました。そんな傾向が、オウム真理教時代の、社会との対立につながっていったのかもしれません。


●1993年、オウム真理教に入信

 それまで超能力など、人間の未知の力に対する憧れがあったと思います。人間に、やってできないことはない、人間は、訓練次第で何でもできる可能性を持っているのだ、と思っていました。

 入信のきっかけは、友人から超能力や不思議現象について勉強しないかと誘われたことでした。宗教と知って抵抗はあったものの、なぜか逆らうことができませんでした。嫌だったらやめればいいと、無理やり自分に言いきかせて、友人に誘われるまま、オウム真理教の道場に向かいました。

 そのころには、ヴァジラヤーナの教義がすでに始まっていました。毒ガスや陰謀論など、色々な話がありました。心のどこかで、それが本当だったらアニメみたいで面白いな、とは思っていましたが、本当にそんなことがあるとは思っていなかったし、好きな人が勝手に言っていればいい、くらいにしか思っていませんでした。

 予言については、あまり興味がなかったので、細かい予言についてはほとんど記憶にはありませんでした。95年以降、「予言の時が云々」と言われても、その時になって初めて、そんな予言があったのだと知ったくらいでした。


●教団の方針に抵抗感を感じたこと

 その当時、私が、ヴァジラヤーナの教義として聞かされたのは、衆生に真の幸福を教えるために強い意志をもってあたるべきだ、という教えでしたから、それ自体は抵抗を感じるようなものではありませんでしたが、実際に教団から指導される方針には、抵抗を感じていました。

 サマナがしていることは、本当のヴァジラヤーナの実践ではなく、自己の欲求を満足させるために教えを利用しているだけなのではないか、と思っていました。

 そういった教団の指導の中で、一度だけ、私も、出家者に言われるままに、親にうそをついて、お金を受け取って、お布施をしましたが、その後に、ものすごい罪悪感が出て、後悔して、二度と出家者のいうことを聞くのはよそう、と思いました。それでも教団に居つづけたのは、麻原の初期の頃の教義に共感を持っていたからでした。


●教団の教えの良かったところ

 私が共感を持っていた初期のころの基本的な教義の中で、特に、すべての宗教はひとつであり、最終的にはつながっているのだ、という教えがありました。この話を書籍で読んだ時に、この団体は他の宗教団体とは違うと思いました。

 そして、教団を通して、仏教が説くカルマの法則というものを知りました。そのころ、会社での上司との人間関係に悩んでいた私は、このカルマの法則を知ることで、自分の精神のバランスを保つことができました。

 こういった教えを実際の生活にあてはめてみて、色々な疑問が解消されていきました。
なぜ、同じ言葉を聞いても、人によって受け止め方が違うのか。なぜ、自分が今のような環境にいるのか。なぜ、人を愛することがこんなにも苦しいのか、等々。

 そして、そんな経験が何度か繰り返されるうちに、私は、オウム真理教の教義に確信を持つようになっていきました。

 今から思えば、オウムだけに、こういった教えがあるわけではないのですが、私の業でしょうが、この教えを私が知ったのは、オウムだったので、このようにして、信じるようになったのでした。


●自分で理想の麻原のイメージを作ったこと

 麻原に対しては、率直に言えば、最初は皆が言うほどすばらしいとも、かっこいい、とも思いませんでした。しかし、そう思わなくてはいけない、そう思うことでこの団体の中で認められるのだと思って、一生懸命に麻原のことを、すばらしい人なのだと思い込もうとしていました。

 そして、いつの間にか、自分のイメージの中で理想の麻原像が出来上がっていきました。そして、イメージの麻原に対して信と帰依を強めていきました。その背景として、どこかに自分を認めてくれる場所を求めていたのかもしれません。

 それに加えて、同じ価値観を持った人たちの中にいることの、居心地の良さもありました。社会の中では、人それぞれに価値観が違っていて、同じ行為に対しても、受け容れられる人と、受け容れられない人がいたりして、そのことを見極めて相手に合わせた対応をするだけでも、かなり疲弊していました。

 教団の中にいれば、みんなが同じ教義を実践していて、相手がどんな価値観を持っているのか、あまり気を使う必要もありませんでした。教義に沿ってさえいれば、価値観の違いに気を使うことなく、安心してそこにいることができたのです。


●間違いないものを求め、オウムに依存していったこと

 私は、子供のころ、親からしつけられる行儀作法が、友人の家庭では違うしつけ方がされていたりして、何が正しいことなのかわからなくなってしまったことがありました。それ以来、本当に正しいもの、絶対に間違いのないものを探しつづけていました。

 そのため、絶対に間違いのないもの、絶対に裏切らないもの、完全に依存してもいいもの。そんな存在を麻原にダブらせてイメージしていたと思います。先ほど書いたオウム真理教の教義に出会ったとき、これで迷うことなく自分の正しい、と思うことをしていける、と思ったのです。

 そして、その後は、何も考えず楽に生きて行きたい、という気持ちも背景にあって、だんだんと、自分で考えて判断する、ということをしなくなっていったように思います。


●1995年、自分自身が、地下鉄サリン事件にニアミスした!

 その後、1995年になると、私は、オウム真理教のパソコンショップである、マハーポーシャに就職を決めました。そして、その数日後の3月20日の朝8時過ぎのことです。荻窪駅から地下鉄丸の内線に乗って、会社に行く途中、霞ヶ関で電車が止まりました。

「危険物を除去しています、しばらくお待ちください」と車内放送が流れました。

「何か事件でもおきたのかな」

 その時は、何気なくそう思っただけでした。それが、後で地下鉄サリン事件と呼ばれるようになる、大事件だとは知らずに。

 そのとき、私の乗っていた地下鉄は、10分間くらい、その駅で停車していました。そして、それを降りて、会社についたら、仕事仲間に「どうしたの!その目!」と言われ、鏡で見たら目が真っ赤に充血していました。特に痛くも何ともなかったので、病院へは行かずに、そのままにしていました。

 実際に、サリンが撒かれたのは、日比谷線であり、丸の内線のホームとは、だいぶ離れているので、撒かれたサリンと私の目の充血との因果関係は、定かではありません。しかし、自分が霞ヶ関で停車していたときに、外では大惨事が展開されていたのは確かでした。


●教団がサリン事件を起こしたと思いながら、教団の会社へ

 その日の夜、テレビのニュースでサリン事件のことを知り、数日後、テレビで強制捜査の報道を見て、サリン事件は、私がこれから行くオウム真理教が起こした事件だ、と知りました。

 その時の私の心境は、今思えば異常な状態だったのですが、大変なことになったなぁ、とは思いましたが、だからといって、教団と約束したことを変えよう、とは思わなかったのです。

 その理由を当時の事実に従って率直に言えば、これから自分が行く部署とは、別の部署が起こした事件だろうから、自分とは関係がない、というものでした。そして、被害に遭われた被害者の方たちについては、その時は、あまりピンとこなくて、自分にとっては、他人事のように感じていたのでした。

 どうしてこのような考え方をするようになってしまったのか。これについては、後から詳しく述べたいと思います。

 2週間後、私は、マハーポーシャ(教団の会社)に行きました。家のものをすべて処分し、わずかばかりの荷物を宅急便で亀戸施設に送り、翌日大きなスポーツバッグと、スキーバッグひとつをもって、亀戸の施設に行きました。

 この時から私は、教団で「マハーポーシャ信徒」と呼ばれる、出家信者よりは自由だが、在家信徒よりは戒律が厳しい、中途半端な立場の者になりました。亀戸の施設に行くまでの間、担当の出家信者が、私が不安になっているのではないか、と心配して何度も電話をしてきました。


●なぜ、事件があっても、教団を信じ続けたか?

 しかし、私自身には、不安は何もありませんでした。自分の中では、約束は約束だからそれを守らなくてはいけないという思いだけで、事件のことなどは、あまり考えていなかったのです。

 どうしてそうだったのか。その背景として、一連の事件に限らず、世間の面倒なことから離れて、社会と自分とを切り離したところで生きていたい、という、今から思えば、病理的までに、現実逃避的な心理状態があったのではないか、と思いますが、これについては、生い立ちから振り返って、もう少し後で詳しく述べたいと思います。

 また、これまでに、もしかしたら、自分も事件に巻き込まれていたかもしれない、と考えたこともありました。もし、事件に巻き込まれていたら、今でも信仰を続けていただろうか?そんなことを自問自答したこともありました。しかし、答えは、きっと続けていただろうなということでした。

 というのは、そのころの私にとって、カルマの法則や無常などの仏教的な教義は、体験上も確信が持てるものであり、特に、カルマの法則によって、自分が救われたことが大きかったので、事件が、教団によって起こされたものだったとしても、この自分が救われた教義に対する信仰は、変わらなかっただろう、と思います。

 もともと、麻原個人に対する信仰というよりも、教義に対して信仰心を持っていたので、その後に、麻原が逮捕されても、自分の信仰には、あまり影響がありませんでした。もちろん、ヴァジラヤーナ的な教義には、受け容れがたいものがあったので、もっぱら初期のころのオーソドックスな教義に対する信仰でした。

 今にして思えば、本当に何も知らなかったと思うのですが、その頃の私にとっては、日本の仏教は間違っていて、オウム真理教で教えられた教義が、唯一正しい釈迦の教えだと教えられ、私自身もそのように信じていたので、他の団体で正しい教えが勉強できるとは思っていなかったのです。


●教団の会社の中で見聞きしたヴァジラヤーナの実践
 
 さて、教団のヴァジラヤーナの教えや実践については、(私が勤め始めた教団の会社の)マハーポーシャで仕事をするようになってから、いろいろな話を聞かされました。それは、一連の事件ではなく、その会社の中でのヴァジラヤーナの実践としての営業方針についてです。

 例えば、返品されたパソコンをわざと壊して、運送会社に弁償させたり、クレームをつけてきた客を脅して帰したり、といったことでした。

 しかし、これについても、実際に、自分が、そのようにすることを指示されたことはなかったし、目の当たりにすることもなかったこともあって、当時の私にはとっては、他人事のように感じられ、ひどいことをするものだと考えてしまっていたのです。
 自分に直接不都合がなければ、周りで何が起こっていても、自分とは関係ないという、今にして思えば、本当に身勝手な考え方だったと思います。


●警察の強制捜査に対する反発、自分はやっていないから

 また、秋葉原のパソコンショップに、何度か警察の強制捜査が入った時も、この他人事という心理が、私を支配してしまっていました。

 具体的にどう感じていたかというと、自分が何もしていないのに、言いがかりをつけられている、と思ったのです。その言い訳として、自分は直接に事件に関わったこともなかったし、詳しいことも知らなかったというのがありました。

 今思えば異常なことですが、世間の一般の人ならば、私について、一連の事件をおこした教団組織の一部として見るのに対して、当時の私は、教団の色々なパートの中で、事件とは関係のないパートの一員であって、事件にかかわっている、という認識がなかったのです。いや認識を持ちたくなかったのかもしれません。

 そして、その背景としては、先ほども書きましたが、他人事という心理、つまり、他人が何をしようと、自分に直接的な害が及ばなければ、一切関係ない、といった心理がはたらいていました。


●警察に対する闘争と、その背景の集団心理や、自己の正当性を失う恐怖

 こういった心理状態を背景として、強制捜査は、私の反省を促すものとはならず、闘争心を刺激するものとなってしまいました。

 私は、教団の他の信者と共に、警察に対抗心を燃やし、闘争することを楽しんでいました。そして、その中では、事件を教団がやったかどうかについては、あたかも、どうでもいいことのように感じ、ただ、自分が攻撃されるから、それと戦っていた、といった、そんな心理状態でした。

 今思えば異常なことだと思えるのですが、一種の集団心理というものではなかったかと思います。集団生活をしていて、みんなが同じように一緒に警察と闘っていて、その中で、同じように闘うことに、何の疑問も感じていない自分がいました。おそらく、これが、在家で一人暮らしの時だったらそうはいかなかったのではないかと思います。

 そして、毎朝の朝礼では、強制捜査で無理やりに連れて行かれる法友のビデオを見ながら、進軍という戦いの歌を歌ったりして、みんなで闘争心を煽っていました。

 しかし、今思えば、この異常な行動の背景としては、そうしなければ、自分が行っていることの正当性が保てないという恐怖があったのだと思います。つまり、自分が間違っているかもしれないと思うことが怖かったのだと思います。

 その後、長い年月を経て、ひかりの輪に入ってから、ようやく、この恐怖心を抑えて、私は、自分が間違っているかもしれない、という疑問を持ちながら、冷静に(自分の)現実を見ていくことの大切さを教えられたのでした。


●徐々に独善的なヴァジラヤーナの教義に染まっていったこと

 さて、先ほども多少書きましたが、客が店に損をさせることは、客の悪業になるから、クレームを素直に受け容れてはいけない。それがマハーポーシャでのクレームに対する考え方でした。客が困っても、自分の店が損をしなければいい、ということです。
 
 最初にこれについて聞いたときは、自己中心的なひどい話だと思いました。そして、こんなところで続けていけるのだろうか、と思いました。

 しかし、私が、マハーポーシャに入った時には、上長の成就者は既に逮捕されていて、それほど無茶苦茶な指示をされることもなくなっていました。そのため、自分がそういった指示をされるということはなく、なんとなく、そこでの集団生活を続けていくことになりました。

 そして、その後は、今から思えば恐ろしいことに、いつしか救済のためだという大義名分のもと、どんなことでも許される、というような、ヴァジラヤーナ的な考え方に、私自身が、少しずつ染まっていったのでした。

 自分たちは正しくて、他の人は無知で何もわかっていない。そこでは、すべての判断が、そういう考え方の上に成り立っていたために、自分たちのやることはすべて正当化されていました。


●教団との関係を隠したパソコンショップで働いたこと

 その後、事件の影響で、マハーポーシャがつぶれたので、教団のコンピューター事業部は、CMPと名前を変えて、教団との関係を隠して、別のパソコンショップをはじめました。

 そのころから、私は、店頭にも出るようになり、教義的には、パソコンをたくさん売ることが、多くの人と真理との縁を結ぶことだ、と教えられ、お客さんが間違えてお札を多く出したのにそれに気づいていないときなどは、自分も気づかない振りをして、そのまま返さなかったりもしました。

 お客さんがたくさんお金を払えば、お客さんの功徳になる、と教えられましたが、実際には、売り上げが上がれば、自分のプライドが満たされてうれしかったから、売り上げを上げる努力をしていただけだった、と思います。

 言い換えれば、自分の貪りや認められたい、という思いを満足させていただけだったのだと思います。心の中では人をだましている、という後ろめたさも少しはありましたが、自分は正しいのだ、という傲慢な思いで、その後ろめたさを無視していたのです。


●1996年、正式に出家したこと

 1996年、大阪のパソコンショップにいたころに、私は、正式に出家をしました。それまでは出家信者ではなかったので、月に一度は休みをとって実家に帰っていました。

 そのとき、出家しても実家には帰れる、と言われて、それなら問題ないか、と思って、出家しましたが、翌月実家に帰ろう、と思ったら、「出家して実家に帰るなんて、そんな事が許されるはずがない」と言われ、私は、騙された、と思って、少し腹が立ちました。

 しかし、それほど家族に未練はなかったので、まぁいいか、と思って、私は出家生活を続けることにしました。実際には、かえって家族とのしがらみがなくなってほっとしたところもありました。

 その後しばらくの間は、両親の幻影に悩まされることがありました。駅で歩いているときに、いつ両親に見つかって、連れ戻されるか、という不安がありました。私は、家には二度と帰りたくない、と思っていたのです。


●責任からの逃げ、一人暮らしと教団への出家

 ここで、私がそう考えるようになっていた背景について、生い立ちから振り返って、書きたいと思います。

 まず、20歳のころ、実家を出て、一人暮らしをはじめたのも、自分が、家族との人間関係に疲れていたからでした。

 私の家族は、ごく普通の家族で、別に問題があったわけではありませんが、家族に干渉されることに、嫌気が差していました。誰にも文句を言われずに、自分の好きなようにやりたい、と私は思っていました。

 それに加えて、斎藤家の長女という責任から逃れたいと思っていました。両親は共働きで、子供のころから「あなたはお姉ちゃんなのだから」と言われていたため、両親に何かあったら妹たちは、自分が面倒を見なくてはいけない、と思っていました。

 その結果、今思えばおかしな事ですが、自分が小学生である当時から、「親に何かあったら、妹たちにはせめて義務教育だけは受けさせないと。そのためには、小学生の自分はどうやって稼いだらいいのだろうか」などといったことを考えていました。

 また、「もし今、両親が死んだらお葬式はどうやって出したらいいのだろうか。費用はどれくらいかかるのだろうか」などいったことを真剣に考えていました。

 こういうことは、誰に強要されたわけでもなく、勝手に自分で責任を感じ、勝手に思い込んでいただけだったのですが。

 しかし、いつしか、その責任感が、自分にとっては、耐え難い重荷になっていきました。そして、「家から逃げだしたい。様々なしがらみから解放されたい」と思っていました。

 そのため、オウムに出家したときには、「これで自由になれる」と思ったのです。

 つまり、その当時の私にとっての自由とは、責任から逃れることを意味していたのだと思います。

 つまり、私は、すべてに無責任になりたかったのです。


●サリン事件の時も、全ては自分とは関係ないと思いたかった

 そして、先ほども書きましたが、すべての責任から逃げたい、全てに無責任になりたい、と思っていた私には、サリン事件のときも、事件は自分とは関係ない、という心理が強くはたらきました。

 自分が所属する教団で起こっていること(=事件)も、自分自身の利害関係に直接に関わってこない限りは、自分とは関係ないことだ、と思いたかったのです。

 世の中のことに対しても同様です。自分自身の直接的な利害と関係がないことについては、全てが自分とは関係のないことだ、と思いたかったのだと思います。


●出家後に急速に麻原に依存していったこと

 出家してから急速に、麻原への依存が強まっていった、と思います。入信してすぐのころは、あの容貌が、どうしても好きになれなかったし、周りの信者から、麻原がいかに素敵な人物かを聞かされても、現実を見ると、そのようには思えませんでした。

 ただ、さまざまな瞑想体験をしたり、説かれている法則に対する確信が強まるうちに、この団体で認められるためには、自分も、麻原について、そのように思わなければいけない、と思いはじめ、努力して好きになるようにしました。

 出家してからは、あちらこちらに、麻原の写真が貼ってあったり、年中麻原の声がラジカセから流れていて、いつしか麻原が頼れるとても大好きな存在になっていきました。

 私にとって、グルにすべてを委ねるオウム真理教のグルイズムは、自分の現実逃避、責任からの逃避を正当化するのに、うってつけの教義だったので、麻原に帰依をするのにそれほど時間はかかりませんでした。

 私にとっての麻原とは、実在の人物というよりも、自分で作り出した想像上の理想の人物で、別に麻原でなくても誰でもよかったのだ、と思います。つまり、自分の理想の人物をイメージで作り出して、それに対して依存し、愛着していったのです。


●自分たちが正義である、という教えに簡単にはまったこと

 私が教団の教義に関してメリットを感じていたことは、先ほども書いたように、麻原に対する信仰というよりも、カルマの法則や、縁起の法、利他といった、教団の初期の頃の基本的な仏教の教えを学ぶことのメリットでした。そして、麻原のヴァジラヤーナの教義には、受け容れがたいものを感じてはいました。

 しかし、その一方で、自分は正義でありたい、という願望のために、オウムのヴァジラヤーナの教えの背景にある、「自分たちこそが正義だ」という教義には、簡単にはまっていきました。

 今にして思えば、正義という大義名分を得ることで、自己の行為を肯定して、正常な善と悪のバランスを見失っていた、と思います。しかし、この善と悪のバランスを見失うプロセスは、自分でも認識することがなく、今から思えば、本当に安直に進んでいってしまったのです。


●観念崩壊セミナーについて

 出家してしばらくしてから、観念崩壊セミナーというものがありました。セミナーの前に、1日中礼拝をし続ける修行を1ヶ月近くしていて、外の世界のことがほとんどわからないままにセミナーに参加しました。

 そのセミナーではいろいろなことをさせられました。数人のグループで、夜に車で知らないところに連れて行かれ、そのまま置き去りにされて、歩いて帰らされたり、寒いところで水をかけられて、そのまま放置されたり、富士の施設から上九の施設まで4時間くらいで歩いて往復させられたりしました。

 富士、上九の往復のときは、炎天下を歩いたので、熱射病のようになって倒れる人も多数出て、警察の人が見かねて車で送ってくれたりもしたようです。

 私も途中で目の前が真っ暗になって歩けなくなってしまい、近くの水道でタオルをぬらして頭を冷やしたり、道端に生えていた木苺を食べて糖分の補給をしたりしながら、何とかみんなの所にたどり着くことができました。施設に戻ると、何人もの人がブルーシートの上に寝ていて、栄養剤の入った飲み物が配られていました。

 何時間も寒い中を屋外で過ごしたり、また、大量供養といって、短時間の間にたくさんの物を食べたり、といったことも行われました。何日も寝ることができなかったため、セミナーに参加した人たちは、夢の中にいるような、異様な意識状態になっていました。そのうちに、自分がどれくらいの間外に居るのか、セミナーが始まってから何日経ったのかさえわからなくなっていました。

 こういったセミナーの中で、途中で窓から飛び降りて自殺しようとした人もいた、と聞いています。施設の外で警備をしていた警察に助けを求めて、帰った人もいると聞きました。しかし、私は、そのころは帰りたくても帰れない、どうやって逃げ出そうか考える思考力もなくなっていました。

 第一回目のセミナーの後に、2回目も行われましたが、私は参加しませんでした。セミナーに参加しても何も得るものはないと思ったからです。一回目のセミナーから戻って、少し冷静になってから、とてもくだらないことをしていたのではないか、と思っていました。あの時の異常な雰囲気に恐怖心もありました。

 2回目のセミナーから帰ってきた出家者の中には、胃に穴があいてしまって、医者に、気をつけないと、死ぬかもしれない、といわれた人や、足のすねのほとんどの部分が腐って大きくえぐれて骨まで見えている人もいました。

 その後、セミナーのノリをそのまま持ち越した成就者が2人ほど住居にやってきて、「拘置所の前の河原でセミナーの時のように水をかぶって、大きな声で叫びに行こう」と誘われました。

 はじめは嫌だな、と思ったのですが、その場の雰囲気やのりに流されて自分も一緒にやっていました。叫んでいるうちにだんだん気持ちが高揚してきて、帰依するとかしないとかとは関係なく、大きな声を出すこと自体が快感となっていきました。

 今から思えば、観念崩壊セミナーの時は、本当に異常なまでに無思考な状態だったと思います。まるで意志を持たない人形のように、命じられるままに行動をしていました。通常の意識状態だったら決してできないようなことも、何の躊躇もなくすることができました。あの時にもし、事件に関わるようなことを指示されていたら、何も考えずに指示に従っていたかもしれません。

 そして、そこまでの無思考に至らなかったとしても、その後の拘置所前の河原での行いのように、その場の雰囲気やのりだけで、後先を考えずに行動してしまう傾向が自分にはあるのだということを、当時を振り返って、あらためて認識すると共に、今後は、軽率に行動することがないように、しっかりと考えてから行動をするように気をつけようと思いました。


●ハルマゲドンに対するサバイバル活動について

 その後、教団では、麻原が預言したハルマゲドンに対する準備として、サバイバル活動と称して、さまざまな物品が購入され、出家修行者たちに配られました。

 その当時は、私は、自分たちが一生懸命に稼いだお金が、こんなことに使われているのかと思ったら、なんだかやりきれない気持ちになったのを覚えています。本当に来るかどうかもわからない、ハルマゲドンのために、しかも、自分たちだけが助かればいいといった対策について、教団への疑念を感じました。

 しかし、それについても、またしても、無意識のうちに「自分とは関係ないこと」として意識の外へと追いやっていったのです。

 そして、自分は相変わらず、教団で起こっている諸々のことから目を逸らして、それによって、何も考えずに、気楽に、無責任に、生きていける教団の生活に埋没していったのでした。


●1999年、教団が謝罪し、パソコンショップがなくなったこと

 1999年の暮れにになって、教団は、社会の圧力もあって、被害者への謝罪と賠償を発表しました。その後、教団は、名前をアーレフに変えることになります。

 その時は、やっと教団が、社会に対してまともな対応をしてくれたと、仲のいい法友たちと話しあっていました。

 その後、パソコンショップがなくなる直前に、私は辞職して、失業保険をもらうことになり、その後、派遣社員として一般の会社に勤めるようになりました。

 それからしばらくして、私は、アーレフであることを隠して、ヨガ教室を開いたり、インターネットを通じて知り合いを作ったりする活動に移りました。

 そして、毎月、何人、教団の説法会に連れて来るか、という目標が決められて、それに導くことをしていました。

 そういった活動の中で、私たちは、他人を幸福に導くというよりも、自分たちの目標の達成のために、強引に引っ張った結果として、信用してくれていた人を傷つけてしまったこともありました。

 また、中には、最後まで、自分がアーレフの信者だとは言わずに、その人がアーレフの道場に来たときには、自分は別の部屋に隠れていた、といったこともありました。


●当時の事件についての思い

 そして、そのころは、アーレフに導く中で、一般の人には、教団が事件に関与したかどうか、という点については、「やったかどうかはわからない」と説明していました。

 当時は、まだ、麻原の裁判の結果も出ていなかった時期でしたから、関与の確たる証拠がない、といったような論法だったと思います。

 そして、自分で人にそう説明しているうちに、いつしか自分の中でも「教団がやったのだろう」という気持ちよりも、「教団がやったかどうかわからない」という気持ちの方が強くなっていきました。

 今から思えば、事件に関与したかどうか、という重大な真実を探求することを放棄する恐ろしいことでした。

 そして、こういった考えと同時に、「(教団が事件を起こしたとしたならば)どうしてあんな事件なんか起こしたのだろう。おかげで残された私たちが苦労させられている」などといった気持ちもありました。

 これは、今と違って、その頃は、一連の事件は、「自分とは関係ない」、「自分には全く責任がない」と思っていたからに他なりません。

 後に自分が反省したように、事件が、自分たちの依存心や、無思考な愚かさが引き起こしたという側面がある、といったことは、当時は考えることがありませんでした。


●2003年の教団改革について

 その後、2003年に、上祐代表が主導して、教団改革を行おうとしました。上祐代表は、教団が一連の事件を行ったことを皆の前で明言しました。

 先ほど書いたように、私は、事件が自分とは関係なく、どうしてあんな事件なんか起こしたのか、残された私たちが苦労させられている、と思っていましたから、この改革において、麻原の写真や書籍を表面上なくした時は、特に抵抗はありませんでした。

 むしろ、私は、麻原をはずすことで、ほっとしました。やっと普通に戻れる、と思いました。

 改革は、はじめは新しい信徒さんと、古くからいる信徒さんを分けて対応する、という方針でした。新しい信徒さんは、麻原の写真などのない道場で対応して、道場とは別の部屋を用意して、そこに麻原の書籍やビデオを置いて、古い信徒さんで麻原を捨てきれない信徒さんに対して対応していました。

 ところが、いつのころからか、少しずつ道場でもビデオを流すようになり、新しい人が来たときだけビデオを消す、というやり方に変わっていきました。

 これは、上祐氏が進めていた教団改革に反対する人達によって、その改革が頓挫し、教団が分裂し始めたことを示していました。


●教団の分裂について

 私は、2003年の秋に、教団の小諸道場に部署移動になりましたが、その後、教団は、上祐氏を支持するグループと反対するグループに分裂していきます。

 私は、2004年の暮れくらいから、上祐氏を支持する出家信者とのやり取りが始まりました。

 現教団の問題点や上層部の問題点など、いろいろと教えてもらいました。しかし、そんなことははじめからわかっていたことで、自分としてはどうでもいいことでした。

 とりあえず今は、物事を深く考える必要もなく、お金の心配もなく、生活していられるうちは、それでもいい、と思っていました。本当に教団にいることが嫌になったら、やめればいいだけだ、と思っていたので、教団を改革しようなどとは、思ってもいませんでした。

 その中で、私は、2005年の1月に長期の修行をすることになりました。その間、教団の内部では、いろいろなことがあったようですが、修行中の私には、そういった情報は、ほとんど入ってきませんでした。ただ、上祐氏に反対する村岡さんの言動には、異常なものを感じてはいました。

 その後、3月に、2ヶ月間の長期修行から小諸道場に帰ってきて、法友から、現在の教団の状況を大雑把に教えられました。その結果、代表派と反代表派に分かれて、なにやらもめていることは理解しましたが、その当時は、どちらも間違っているわけではなく、教義に対する視点が違うだけなのだ、と思っていました。そして、どうしてお互いを認め合うことができないのか、と残念に思っていました。

 たまたま信徒さんのことについて相談をした成就者が、代表派の人だったので、その人から、代表派への参加を勧められました。そのころは、教団が分裂するなどとは、思ってもいなかったし、上祐氏の魔境の話も、地方の小諸では、あまり関係のない話だったので、何の抵抗もなく、代表派へ参加することになりました。

 私は、上祐代表とも直接会って話をし、上祐代表が進もうとしている方向性も、私なりに理解しました。そして、私には、(反代表派に)魔境と批判されている上祐代表が言っていることの方が、むしろ納得のできるものでした。

 その当時の小諸道場には、代表派の成就者と反代表派の成就者、中間派の成就者が交互に滞在していましたが、道場長が反代表派だったため、私は、中間派の立場で、道場長に隠れて、代表派の手伝いをするようになりました。

 また、小諸道場は、成就者の修行場にもなっていたので、反代表派の成就者がよく出入りしていました。そのため、両者の狭間で、かなり緊迫した雰囲気でしたが、実力行使に出ることもなく、お互いにお互いを監視しあっている、といった感じでした。

 当時、地域担当の警察の人が、私たちのことを本当に心配してくれて、その時は、自分たちが世間からどんなに危険な団体だ、と思われているのかについて、改めて認識するとともに、心配してくれる警察の人に対して、私は感謝しました。


●代表派としての活動を公に始める

 2005年の秋からは、私は、小諸道場でも、代表派としての活動をはじめました。

 しかし、その中で、代表派の成就者による勉強会を小諸道場で行おうとした時、あらかじめ反代表派である道場長の承諾を得ていたにもかかわらず、反代表派の成就者が突然やってきて、勉強会を中止させられたことがありました。

 この当時、小諸道場が管轄する会員は、代表派の成就者と関係のある人が多かったので、ほとんどの会員さんが、代表派の活動に参加していましたが、道場自体の管理は、その当時までは、依然として、反代表派の管理下にあったのです。

 また、この当時の私の内面について言えば、このころはまだ、代表派への参加の意義というものを、麻原を通した神々の世界という感じで考えていました。

 これを具体的にいえば、麻原の本質をカルマの法則や宇宙の秩序とつかまえて、麻原自身ではなくて、麻原の本質であるカルマの法則や宇宙の秩序に対する信仰を続けていた、ということです。

 これはある意味で過渡的な状態だったと思います。

 また、2003年の改革以降、私は、密教の神々を信仰の対象とすることで、それまで以上の霊的、精神的な体験をすることができました。

 それに伴い、自分の中で作り上げた麻原のイメージは神々にかわって、密教の神々に対して信仰するようになっていきました。

 ただ、先ほども書いたように、自分が観想するイメージは、麻原から神々へと変わりましたが、麻原を通した教義の理解という点では、以前と変りはありませんでした。


●麻原とは関係ないところで真理を体験するようになったこと

 その後、アーレフの代表派から、アーレフを脱会した新団体・ひかりの輪に変わっていく過程において、私は、いろいろな聖地や自然に触れ、瞑想体験を続けました。

 その結果として、私は、麻原とは関係のないところで、真理というものを体感するようになっていきました。

 それまでは、どうしても「麻原の説いた教え」という発想が付きまとっていたのですが、ひかりの輪になって、一般的な仏教教義の解釈や、瞑想を学ぶうちに、麻原の教えではない、本来の仏教の教えとして、受け容れるようになりました。

 そして、2006年の7月に、代表派と反代表派の間で、会計・経理が、明確に分けられた時点で、それまで小諸にいた反代表派の成就者は、アーレフの東京道場へ移り、小諸道場は、代表派の管轄となりました。


●事件を自分の問題として考えるようになったこと

 また、代表派に関わるようになってから、少しずつ事件のことを自分と同じ世界に持ってきて考えるようになりました。

 これは、一連の事件があっても、私が教団に出家した背景にあった心理である、「全ての責任から逃れたい」、「全てに無責任になりたい」、「自分の直接の利害に関係がないことはどうでもいい」といった考え方を修正していくプロセスでした。

 それまでは、自分と社会、自分と教団、自分と他人、というように、自分と自分以外のものを切り離して、一歩引いたところから、他人や社会といったものを見ていた、と思います。

 そして、2007年に、いよいよアーレフを脱会して、新団体ひかりの輪になってからは、自分と切り離していた他人、教団、社会といったものについて、一歩一歩、自分に近づけていく様々な作業をし始めました。

 その作業の中には、最初に書いたような、団体のメンバーと協力し合った、麻原とオウム真理教の深い分析が含まれています。

 その活動の中で、オウム真理教の一連の事件、そして、麻原の宗教家としての裏表、さらには、麻原の生い立ち、そして、麻原の人格障害の傾向などを皆で繰り返して議論し、考えることなどを行いました。

 自分自身も、自己を振り返って、自分の生い立ちから、なぜ自分がオウム真理教に入り、そして、出家して、一連の事件を反省しなかったかについて、できるだけ分析して、反省するように努めました。

 その中で、冒頭に書いたように、ようやく、一連の事件を起こした犯罪者である「現実の麻原」と、それとは別個に自分が作り上げていた「理想の麻原」が一つとなり、一人の人間である松本が見えてきて、それとほぼ同時に、麻原の人格は、自分の歪んだ人格を投影したものだと感じました。

 また、縁起の法をはじめ、仏教の本来の教えを学ぶうちに、社会とのつながり、他人とのつながりというものを理解し、実感できるようになりました。そして、自分がいかに現実から逃避していたか、社会に対して壁を作っていたかがわかりました。

 こういった反省・総括については、これからも、自分個人はもちろん、上祐代表をはじめとした、ひかりの輪のメンバーと協力し合って団体全体として、更に進めていきたいと思います。


●人に潜む狂気を超えるため、常に自分をチェックして生きていきたい

 そして、今回の総括を通して気づいた、重要なことの一つとして、人の中に潜む狂気というものがありました。

 それは、自分が正しい、と思うことで、悪に対して止めようとする意識が薄れ、ついには肯定し得る意識です。

 これは、人を神とする宗教だけに限らず、自分が正しいと思った瞬間に、自分自身が神となってしまうのではないか、と思うのです。

 そして、これは、誰の中にもあるものだ、と思います。たとえば、戦争による兵士の一般市民への攻撃、テロ事件など、個人レベルでも起こっている問題ではないか、と思うのです。

 今、事件当時を振り返ってみると、私の中には、自分が正しい、正しくありたいという欲求があり、そのために、事件は、自分の所属する団体が起こしたということを、受け入れることができませんでした。
自分を守るために、多くの人に迷惑をかけ、不安を与えてしまったと思っています。

 そして、ひとたび、自分が正しいと思えるような条件が整ったならば、善も悪もすべてを肯定し、自分が世界の中心であるかのように思い込んでしまう可能性を、この総括をしていて自分の中にも発見しました。

 そして、その背景には、それが絶対善だと思っていた、いや、思いたいと思っていた存在(以前の私にとっては麻原)に対する依存があったと思います。

 私は、そのような意識に再び陥らないように、これからは、常に自分は間違っていないだろうか、という疑問を持つことで、自分自身をチェックしながら、現実としっかりと向き合いながら生きていきたい、と思います。

 オウムに入信してから、思考することを放棄し、社会に対して無責任でいることで、多くの人に不安を与え、ご迷惑をおかけしてしまったことを反省し、これからは、自分で考え、選択し、社会とのバランスを保てるように努力していきたいと思います。

 二度とオウム事件のような悲しい出来事が起きないように、なぜ、オウム事件が起きたのかを、現実から目をそらさずに分析し、オウム真理教の悪かったところ、オウム真理教時代に培ってしまった、あるいは、増長させてしまった、自分のゆがんだ精神(現実よりも空想の世界に生きようとする傾向など)を修正し、そして、冒頭で述べたように、麻原の中に見つけた欲望(人を支配したがる傾向や、すべてを思い通りにしようとする傲慢さなど)、妄想的な要素が、一面で、自分の中にあることを自覚して、反省しながら、それを十分に乗り越えていきたい、と思います。

斉藤友希

カテゴリアーカイブ