『オウム・アーレフの総括と反省』
●総括にあたって、自分の心の現われとしての事件なぜオウム真理教が、地下鉄サリン事件を含めた一連の事件を起こすに至ったのか。
私は、これらの事件自体には、全くかかわっていませんでしたが、この事件を起こした教団に属していたものとして、その総括をしていきたいと思います。
私は、自分としては、真剣に自己の成長を求めるために、オウムの修行を始めたつもりでした。オウム真理教の教えの中には、利他の実践とか四無量心を説き、多くの魂を救済するということが説かれており、そのための教団のはずでした。
それがいったいなぜ、このような一連の事件を起こすことになったのか。そして、より重要なこととして、私自身が、なぜ、95年にそれらの事件が発覚した後も、2000年まで、謝罪の表明や賠償をしない団体で活動を続け、それ以降も、ひかりの輪として独立するに至るまでは、本当の意味での反省をすることができずにいたのか。
その中で、私は、大学時代に心理学を勉強していたこともあり、自分の分析において、心理学的な面からも合わせて、分析していきたいと思います。
●オウム真理教に入るまでの経緯
まず最初に、私がオウム真理教に入るまでの経緯を書いていきたいと思います。
私は1960年に鳥取の田舎に生まれました。周りは山に囲まれており、川の水はきれいで、本当に自然豊かな場所でした。実家は農業をしており、鳥取の名産の20世紀梨を作って生計をたてていました。父母、祖父母、妹、弟の7人家族でした。父は梨の果樹園を自分で山を切り開いて造ったようで、軌道にのるまでは、苦労していたのだと思います。生活も質素で自給自足に近いものがありました。
仏教では、この生は前生からのカルマによって、その容姿や環境が決まる、といわれていますので、その教えに従えば、このような環境で生まれ育ったのも、私の過去のカルマということになります。
家族は純朴な田舎の人でしたが、祖母と父は教育熱心でした。4、5才の頃からひらがな文字を書かされたりしたのを覚えています。子供心にもそれが結構苦痛でした。
小学校に行くようになると勉強に関してますますうるさく言うようになりました。母や父がいつも口をすっぱくしていうのは、勉強をしていい成績をとるようにということでした。母はおとなしい人でしたので、あまり口うるさくいう人ではありませんでした。
親としては子供に立派な人になってほしいと思うのは当然ですから、しょうがないのですが、子供にとっては結構なプレッシャーになっていました。先生や親や人のいうことはよく聞くようにと教育されていたので、一生懸命勉強しなくてはと思っていました。
かといって勉強ばかりしているわけではなく、学校から帰ると、自然の中で近所の子供たちとよく遊んでいました。山登りや川遊びをしたり、冬は雪遊びをしたりと自然の中でたくましく育っていったような気がします。
また、その頃「巨人の星」とか「アタックNO1」とかスポーツ根性もののマンガが流行っていてそれが好きで良くテレビを見たり、マンガを読んでいました。そういう影響で、根性とか耐えることが重要だと感じていました。
学校では成績もよく、友達も多く、活発な子供でした。いわゆる優等生の部類だったと思います。家では父は口を開くと勉強しろとしか言わないような感じでしたので、家族の暖かさとかをあまり感じなかったかもしれません。
受験戦争という時代で、勉強して、いい大学に入って、いいところに就職するというのがすばらしいという価値観が家族によって植え付けられていました。誰それが勉強ができるというのが祖母や父からでてくることばでしたので、周りの人が競争相手に思えてました。
小学校が5年のときに統合したのですが、新しいクラスになったとき、この人はどれくらい勉強ができそうかと考えていたくらいです。勉強でだれかに負けると父や祖母にまた、うるさく言われ、いい成績を取ることが家族を喜ばせることだったのです。おかげで6年のときにはオール5をとったこともありました。
反面人にはやさしく親切にするように、という教育もうけていましたので、それなりにやさしい性格ではあったように思います。母が立正校正会に入っていて宗教活動のようなものを小学校の頃からはじめたので、たまに一緒につれられて教会に行くこともあり、宗教的なものにはふれる機会がありました。
中学になるとソフトボール部に入り部活に明け暮れる毎日でした。スポーツは好きでしたし、スポーツ根性もののマンガの影響で、自分を鍛えるにもいいと思っていました。部活では部長をしていました。だんだん性格も男っぽくなっていったような気がします。同級生から男のような性格だといわれたことがあります。男の人に負けるのが悔しかったように思います。とても負けず嫌いな性格でした。
中学の頃友達に借りて読んだ「ノストラダムスの大予言」という本があります。これが結構印象が強くて、世界の破滅の日がくるのではないかという不安がよぎりました。
●思春期に芽生えた自意識、親への疑問
思春期になるとそれなりに物事を考えるようになりました。勉強しろといわれるが、なぜ勉強しなくてはならないのかと疑問に思ってきました。父親になぜ勉強をしなくてはいけないのか聞いたこともあります。そのときは「立派な社会人にするためだ」と言われました。その頃になると親は私のことを学校の先生にしたかったようです。田舎ではそれが安定した職業だったからです。
だんだん私は家族の期待とかがプレッシャーになってきました。自分の将来も決められて、家族の期待に応えることが自分の人生であることが重荷になってきたのです。自分とはいったいなんだろうか。何のために生きているのだろうか。そんな悩みが生じてきたのです。友達とそんな悩みを話しあったこともありました。内面ではいろいろ悩みや葛藤がありましたが、学校ではスポーツに勉強にとがんばっていました。
高校に入ったころから、悩みや苦しみが多くなりました。高校のクラス分けで近所の友達がトップクラスに入ったのに私が普通クラスということで父や祖母がものすごく怒ってしまったのです。まるで自分が生きていることも否定されるような感じで、そのとき私は嫌になってしまったのです。
私は父や祖母の期待にそうための人形ではないと思いました。反面期待にそえなくて申し訳ないという気持もあり、葛藤が生じました。家族の期待に応えるためには勉強に専念しないといけない状況なのですが、ソフトボールの部活も義理があってやらなくてはならず、その両立に悩みました。
1年の頃は勉強もがんばり成績もよく、地元の国立をめざしていたのですが、3年の頃になると受験勉強もやる気がせず、勉強しろとしかいわない父や祖母に対する反抗心がだんだん強くなっていったのです。私は親の言うとおりに生きる人形ではないと。自分で自分の道は決めたい。家族の期待する先生には絶対にならないと思ったのです。自立心の芽生えだったのかもしれません。3年の頃は授業中窓から遠くの景色を眺めてボーッとしていることがよくありました。
高校の頃は、母親がやっていた校正会の機関誌をよく読んでいたのですが、それが仏教の教えで、結構いい体験談があり感動していたのを覚えています。いずれこんな道を歩むかもしれないけど、そのときはこんな大変そうなことはまだ無理だと思っていました。
●大学で心理学を学ぶ
親に相談もせず、自分で決めた関東の私立の大学を受験し、その中で一番勉強したかった心理学の勉強できる大学に受かりました。親はこの私の勝手な決断にショックを受けたようです。怒られもしました。しかし、私としてはやっと家族の期待の重圧から離れられると思っていました。
大学には茨城にある叔母のところに下宿し、埼玉にある大学まで通いました。他の家族に入って驚いたのは、子供と親がいろいろ話しあったり、会話があり、とても暖かい家庭だと思いました。私の家庭では会話がほとんどなかったからです。
大学で心理学を勉強するにつれて、家庭環境が性格形成に影響を及ぼすようなことを学ぶと、自分の家庭や親が悪いんだ、という思いが生じてきたのです。今から思えばそれも自分のカルマなのですが。その頃から私の性格が暗くなっていきました。人と話すのも苦手になっていきました。
相手のいうことは聞いてあげなくてはいけないという気持が強く、自分の気持を抑圧してしまう性格でした。いいたいこともあまり言えないのでストレスがたまり、人間関係にも悩むようになりました。人とつきあうのがおっくうで学校もさぼりがちでした。
あるとき失恋したことがきっかけで、さらに学校に行くのが嫌になりました。必要最低限しか行かず、部屋にこもっていることが多くなりました。
それがひどくなり、2年の春休みにはついに何もできなくなり、実家に帰って寝たきりになってしましました。何もやる気がしなくて、だれとも話したくないし、精神的に鬱状態になってしまったのです。祖母も心配して病院に行った方がいいのではないかといいました。
私はこのままでは社会復帰できなくなると思い、あせりました。しかし、精神病院に行くのには気がひけました。
●ユング心理学などで立ち直る
そこで心理学の本を読んで治そうと思いました。ちょうどその頃ユングに興味をもっていたのでユング派の本を読んだり、交流分析の本を読んだりして自分の心を変えようとしました。
そのとき、読んだ本ですごくショックを受けたのは、自分にすべて責任があるという言葉でした。交流分析の本だったと思いますが、自分の行動のすべては自分に責任があるのだということは当然のことのようですが、当時の私にとっては受け入れがたいことでした。
それまで学んだ心理学で、悪いのは家庭や環境のせいにしてきたのですが、責任は自分にあるという言葉は重く私にのしかかってきました。人のいうことを聞いていればいいという環境で育ってきたので、自分のことは主張せず、人のいうがままに行動する傾向が強く、自分の行動はすべて他人のせいにしてきたのです。
自分の行動に自分で責任をとるということ、他人のせいにしないということは、私の大きな自己改革の指針となりました。またユングの影の理論なども参考になりました。その過程で徐々に動けるようになり、人とも話せるようになりました。
こうして、精神的危機状況をなんとか乗り越えた感じでした。それまでの私は他人のいうことを聞くロボットのような感じで自分がなくなってしまった感覚があったのです。そして悪いのはすべて他人のせいにしていたのです。自分で何かするということができず、自分で何かしようとすれば他人に非難されるような気がしていました。
春休みが終わりなんとか大学に通えるようになりましたが、それでも必要最低限しか行きませんでした。ただ、心理学の授業はおもしろく、特にユング心理学には惹かれていきました。
ある教授が授業で、ユングのいう自己実現を実際体験するにはどうしたらいいかと、アメリカに留学したときに先生に聞いたところ、それはヨガでもやるしかないといわれたという話があり、そのときヨガに興味をもちました。ヨガには何かあると。
心理療法の勉強をしていたのですが、実際は自分が治りたいという気持が強く、真剣に勉強していたような気がします。自分とは何なのか、何のために生きているのか、暗中模索で考えていました。
自分が苦しかったので、同じように苦しんでいる人を救ってあげたいという気持も芽生えてきました。ゆくゆくは心理療法の仕事につきたいという気持が強くなってきていました。カウンセラーとかになれたらいいとは思っていました。友人もそういう人が多かったようです。
この気持ちが、のちのオウムでの救済活動にはまっていった原因でもあるといえます。
●社会人になるも空しさを感じる
しかし、とりあえず普通の会社に就職し、OLをしながら心理学の勉強をしようと思いました。OL時代は会社の人間関係に悩みました。仕事は真面目にやっていましたが、表ではいい顔して裏では悪口をいう人がいて、それが嫌でした。社会生活はそれなりに勉強にはなりました。
会社というものがどんなところか、組織というものがどんなところか見せてもらったように思います。そのころから一人暮らしもはじめ、自由を謳歌していました。しかし、空しさもありました。遊んだり、楽しいことをしても空しさが残るのです。
友人は結婚をしたり、異性とつきあったりしていましたが、私はあまり異性と縁がなく、結婚もあまりする気がしませんでした。なぜなら、結婚すると家事を毎日やらなくてはならず自分のやりたいことができなくなると思ったのと、親を見ていても結婚に幸福があると思えなかったからです。
●心理学やヨーガをこつこつ続ける
心理学の勉強の方は細々と続けていました。ユングクラブに入って、講演会をきいたり、セミナーに参加したり、本を読んだりして勉強はしていました。ユング派の講演会でアメリカから来たシュピーゲルマンという人が行った講演で、ユングの自己実現と中国の禅の十牛図が似ているという話しがあり、自己実現は仏教的なものともつながっていると感じていました。河合隼雄氏の講演を聴いたり、秋山さと子氏のセミナーなどにも参加していました。
ユングは夢分析を行っていたので、自分で夢日記をつけたりして、自分の潜在意識を探っていました。夢分析をしていたのですが、たまに見た夢が現実になることがあり驚いたことがあります。月に行くロケットが発射されたのですが、それが事故で炎上して墜落する夢を見たことがありました。その3ヶ月後、実際、アメリカで月に向かって発射されたロケットが事故で炎上して墜落したのです。
また、精神世界の本にも興味を持ち、本屋で探しては読んでいました。とにかく心や精神的なものに対する興味があったのです。自分とはいったい何なのか。何のために生きているのか知りたかったし、自分が苦しみが多かったというのもあります。この苦しみを取り除くにはどうしたらいいのか、どう生きていったらいいのかということを探求したかったのです。
そして心身健康になりたいという気持からヨガに興味を持つようになりました。また以前大学の教授が言っていた、ユングのいう自己実現を体験するにはヨガでもやるしかないという言葉が焼き付いていたので、ヨガが習いたいと思っていました。巷の短期のヨガ教室に通ったりもしました。資料を取り寄せたりしていましたが、なかなかこれといったいいところがありませんでした。
5年くらい食品会社のOLを努めたあと、転職しました。次の仕事は版画の営業販売の仕事でした。元々絵が好きだったので、関係のある仕事をしたかったのと、話すのが苦手なので、人と話す訓練しようと思いました。この会社の仕事は大変でしたが、おもしろかったです。いろいろなところに行けて、日本の各地に出張で販売に行ったりしました。人間関係も良好でした。おかげでだいぶ人と話せるようになりました。
●オウム・麻原の書籍を見つけ、入会する
前の会社をやめたころ、ある書店で麻原彰晃こと松本智津夫死刑囚(以下、麻原と表記)の「超能力秘密のカリキュラム」という本を見つけ購入しました。人が空中浮揚していて、ガンも治るという見出しに惹かれて買ったのですが、当時の未熟な私は、世の中にはすごい人がいるものだと思っていました。そのときはまだオウム神仙の会の頃でした。アストラルコンサートのチラシが入っていて行きたいと思ったのですが、仕事で休めないので、行けませんでした。超能力や神秘的なものには興味があり、ムーという雑誌などもよく読んでいました。
数ヶ月後に、渋谷で精神世界の本を物色していたところ、マハーヤーナという本を見つけました。そこに石井久子さんの美しい写真と成就記事が載っていて、思わず立ち読みしてしまいました。そこでは解脱とか悟りができるとか書いてあり、その時の私は、これこそが私が求めていたものだと思い込んでしまいました。その後「生死を超える」とか、「イニシエーション」や「超能力秘密のカリキュラム」やマハーヤーナを買いそろえて何度も読みました。
読んだ結果、私は、教団が説く修行して解脱がしたくなりました。そうすれば苦しみがなくなると思ったのです。これがユングのいう自己実現ではないかと、人生の最終目的はこれしかないと思い込んだのです。オウムの教えはヨーガや仏教などのよいところを取り入れたような内容であり、心理学にはない世界が広がっていたと感じたのです。
魂、真我、無常、カルマの法則、輪廻転生、チャクラとクンダリニー、功徳の大切さ、利他の実践など、いままで知らなかったことが説かれていました。それは、心理学よりももっと広範囲に魂の成長について説かれており、霊的な世界でもあり、修行しないと体験できない世界であるように当時の私には感じられました。人間の未知の領域に入った感じでした。
オウム真理教の教義では、クンダリニーを覚醒させるのは普通、何年も修行しないと難しいといわれているのですが、オウムではすぐに覚醒するということでした。麻原の力がそれほどすごいということで、シャクティーパットというイニシエーションを受けるとすぐにでもクンダリニーを覚醒させることができるとされていました。
そして、オウムの書籍には、麻原は、神通という超能力がすごくて、人の心を読んだり、霊視をしてその人の状態をあてたり、空中浮揚をしたりと人間を超えた能力をたくさん持っていると書かれていました(当時の私は空中浮揚の話も鵜呑みにしました)。
その書籍の記載をそのまま信じた私は、麻原は、神様のような人であり、人を救済することに命をかけているような人だ、と思いこんでいきました。当時の私が知っている中では、こんな人はいない、と感じさせるものでした。
今から考えると、若くて純粋で人を疑うことを知らない自分だったと思います。本に書いてあることは、ある程度いいことばかり書いて宣伝効果を狙うということは、まったく浮かんできませんでした。だから、書籍に書いてあることを全て信じ込んでいきました。
そして、私は、入信しようと思いましたが、宗教団体に入るのは躊躇がありました。変な新興宗教だったらどうしようと思い、なかなかふんぎりかつかないでいたのです。
それが、ある日不思議なことに、私の部屋に麻原の顔が浮かんだのです。部屋いっぱいに充満している感じでした。肉眼で見えるというより感じたのです。
そして、電車にのっても、何をしても私の方のところに麻原の顔がくっついてくるような感じがしたのです。思わず「わかりました。入信します」と声に出して言ったのです。それから、そのような不思議なことはなくなりました。
今から思うと、これは、麻原の神秘的な力などではなく、自分自身の深層心理が引き起こした幻想・妄想の可能性がありますが、当時の私は、自分に対するそういった冷静な見方はできず、この自分の体験に影響を受けてしまったのです。
1987年の3月末日に私はひとりで東京道場に行き、入信しました。
このような経緯で私はオウム真理教に入信するにいたりました。
こうして、入信のきっかけは、人生に苦しみを感じたこと、その苦しみをなくすためにはどうしたらいいかということが根本となっています。それが故、心理療法にその解決法を求め、そしてヨガに出会い、オウムに出会ったという経緯です。
新興宗教なんて信用していなかった私が入信したのも、解脱者がいたと(思いこんだ)ということ、自分でも解脱できて、苦しみがなくなるのではないか、ということでした。そして、ユングのいう自己実現が実際体験できるのではないかという期待がありました。
●入信してから出家するまで=霊的な体験を過大視したこと
入信してからはじめて勉強会に参加したとき、はじめて麻原を見ました。黄色にクルタを着てマハーヤーナスートラの本を解説していました。世田谷道場の2階にところせましと信徒が集まって一心に説法を聞いていました。
最後に麻原の母印を押したポスターを配布するので、どこかに貼るようにといわれたときは、大変驚きました。しかもみんな喜んでそれを持ち帰っているのです。さすがに私はいきなりそのモードにはついていけませんでした。麻原が神格化されている感じでした。外から見ると確かに異様な世界だったと思います。しかし、やがて自分もそのモードにはまっていったのでした。これが宗教の怖いところです。
自宅では奥義書にそってヨガのアーサナをやるようにしました。1ヶ月ほどたつと浄化がはじまりました。そして睡眠時間がだんだん短くなっていきました。また、当時の自分には、前生と思われる夢を見たりしました。
チベットの山奥で袈裟を着て河原で修行している僧がいました。そして空中浮揚をしていたのです。弟子がいましたが還俗してしまい、とても残念がっていました。しかし、それは自分に力がたりなかったのだと反省していました。とても不思議な夢でしたが、それがなぜだか自分だと感じたのです(今思えば、これが前生であるという証拠は何もないのですが)。
また、修行をなまけていると、どこからか起きろという声が聞こえたり、美しい音楽が聴こえたりしたこともありました。今思えば、一種の幻聴の可能性もありますが、このような体験は、本にも書いてあり、当時の私は修行が進んでいることを示すものだと思いました。
また、やめられなかったタバコが、スパッとやめられたことにも、驚きました。その結果、私の生活は、ずいぶん健康的なものになっていきました。
今思えば、こうした神秘的な体験や体調の改善は、一定のヨーガの修行を行えば、多くの人に起こるものであり、それを過大視してはいけないのです。そのために、例えば、禅の修行においては、このようなヴィジョンを一切魔の現われとみて、無視するという考え方があります。
しかし、当時の私は、そういった知識や智恵が全くなく、これらの体験を過大視して、オウムの修行が本物だと感じていった(感じていってしまった)のでした。
また、そして、そういった霊的な体験として、次のようなものもありました。
87年の5月には富士で水中エアータイトサマディというイベントがあり、特別なおまんじゅうが一人5個づつ配られ、それを全部食べるようにいわれたのですが、あまりおいしくないので私は3つくらいしか食べれませんでした。
そのあとひとりひとりに麻原の「イニシエーション」が行われましたが、私の順番がきて、頭頂に手をのせて、いわゆる「エンパワーメント」といわれるものを行ったあとに、いきなり「まんじゅうちゃんと食えよ」と注意されました。
これを聞いて、私は驚くとともに恐くなり、この人には隠しごとできないんだと思いました。この一件があって以来、私は麻原の対する信をもちました。そして、とても恐い存在ともなりました。
今から思えば、このときの体験が、私の麻原の見方を偏ったものにしたと思います。麻原に近い人の話を聞いても、麻原の預言などを見ても、麻原の霊的な能力というか、超能力というのは、決して完全なものではなく、間違うことも少なくないということが分かります。
また、だいぶ後になってから、私は、自分の体験を通して、こういった霊能力を発揮する人は、世の中に他にもままいることを知りました。そして、それを持っていたとしても、その人の人格が完全であって、神の化身である訳ではありません。
わかりやすい例としては、神の化身どころか、その反対の動物には、例えば、近づく天災を察知するような予知能力があります。いわゆる動物的な直感というものです。また、視覚障害を負っていた麻原のように、何かの障害を負っている人が、それを補うために、直感、第6感が発達する、という例は良くあることだとも聞きました。
実際に、だいぶ後になってからですが、私自身も、教団の外に、外国の人ですが、高い霊的な能力を持っている修行者がいることを体験しました。その人は、外国の人でしたが、麻原を知らないにもかかわらず、麻原が人を殺したことを見抜いて死刑になると予見しました。実際、その人の人を見抜く力は麻原よりもすごかったかもしれません。
しかし、当時の若い私は、ある意味で、霊的な能力を持っている人や、霊的な能力といったもの自体に対する、冷静なバランスのとれた見方ができておらず、こうした麻原との体験の結果、麻原を過大視・絶対視していく結果となってしまったのです。超能力や神秘的な力に免疫がなく、そういう力をもっている人を絶対視し、依存する傾向があったのです。
その後、私は、教団の道場で行われる、修行のコースにも通い初めました。3時間のコースがあり、アーサナや呼吸法や瞑想を行いました。
その修行の中で、私は、教団で「クンダリニー」といわれるものが覚醒したように感じました。それは、背中を何かエネルギーのようなものが上昇していくものです。
そして、今から思えば、先ほども述べたように、当時の未熟な私は、こういった霊的・神秘的な出来事を体験の結果として、それを過大視し、麻原とオウム真理教に対する間違った信、行きすぎた信を形成することになっていきました。
こうした霊的な体験を過大視してしまう私の傾向は、教団が宣伝していた「シャクティーパット」を受けた時も同様でした。
私は、麻原のシャクティーパットが最後になるということが知らされ、これはぜひ受けなくてはと思いました。教団では、シャクティーパットは直接のエンパワーメントでものすごい効果があるとされていました。すなわち、クンダリニーが覚醒したり、神秘的な体験をするとされていました。
そして、シャクティーパットを受けると、私の額に麻原の親指があてられて、エネルギーが入ってくると、だんだん気持よくなり、深い意識に入っていき、終わってからも、体がしびれたようになって、気持がよい状態が続きました。
しかし、今から思えば、これは、いわゆる他人に「気」と呼ばれる生命エネルギーを注入することであって、麻原だけが出来ることではありませんでした。最近は、スピリチュアルブームであり、霊的なエネルギーを使うヒーラーと呼ばれる人達も多くなり、それが知られています。
しかし、繰り返しになりますが、当時の私には、残念なことに、そういった霊的な現象に対するバランスの取れた理解はなく、こうした体験の一つ一つが、麻原を絶対視する理由となっていきました。
入信して数ヶ月した頃、「ダルドリーシッディ」と呼ばれる状態が起きるようになったり、霊的に敏感になってきていて、他人のカルマを受けた、と感じるような状態になりました。
そして、私は、教団の教義に沿って、自分の生活を切りつめ、布施をし、菜食にし、どんどん、教団が説く修行者的な生活を深めていきました。
また、功徳を積むことが大切だとされていたので、教団が説くように、教団への奉仕活動=バクティをするようになりました。チラシを配ってまわったり、道場にきて、カーテンを縫ったり、掃除をしたり、チラシを折ったりしていました。
そして、その時期は、それまでと比較して、自分では、性格も明るくなり、人間関係もよくなっていったと感じていました。
とはいえ、今思えば、それは教団の教えや霊的な体験に自分自身が満足した結果であって、その世界にはまっていない友人知人から見て、私がどうであったか、ということは別の問題だと思います。
●出家へ
私はできれば出家がしたいと思っていました。教団では、出家したほうが早く解脱できるということもいわれていましたので、出家者に対するあこがれがありました。
その頃の教団は、多くの出家者が極限修行に入り、成就者と認定される人が続出していました。クンダリニーヨーガの成就が、出家してわずか1年くらいでできるように思われました。
私は、教団月刊誌の「マハーヤーナ」に、教団が成就者と認定した人の体験談が次々と載るたびに、何度も読んで、私も早く成就したいと思うようになりました。当時の私は、成就すれば苦しみもなくなり、神通もつき、神のような存在になれるものと思っていました。そして、すべての人を救済するという目的もすばらしいと思っていました。そしてそういう救済活動のお手伝いもしたいと思いました。
今思えば、教団が説いた成就とか、成就者というのは、肉体的に極限的な状態の中で修行を指せることによって、一定の霊的な体験や、エネルギーの強化をもたらすものの、自我に対する執着を超えるといった、本当の意味での精神的な向上をもたらすものではなかったと考えています。
しかし、当時の私は、だいたい教団の書籍の宣伝をそのまま信じて込んでいきました。
とはいえ、当時の私にも、本当にここに一生を捧げてもいいのだろうかという不安はありました。宗教というものにまだひっかかりがあったからです。
オウムの教えが本当に正しいのか検証するために、そのころトランスパーソナル心理学の理論家であるケン・ウィルバーの本を読んでいたのですが、その中に、仏教的な世界が統合されていていました。
その本の影響を受けて、私は、宗教的にだけでなく、心理学的にも、人間の最終目的は統一意識にいたることであって、それが解脱、悟りに至ることだと考えて、オウムの教えは正しいと思いました。
そして、当時の私の未熟な考えでは、オウムの修行は、実践すれば必ず結果もでるし、実際何人も成就者がでており、解脱への道筋ができていると思われるものでした。また、その当時の日本では、解脱者がでた、と主張しているところは、他に知りませんでしたし、ここで修行するしかない、と思うようになったのです。
今から思えば、先ほど述べたように、「結果が出る」ということも、一定の霊的な体験やエネルギーの強化といったことであり、真の解脱に至ることではなかったのですが、当時の私は、教団の世界に相当に没入しており、そこで説かれる価値観に基づいて、自分の修行の結果の価値を判断していたのだと思います。そして心理学的にも正しいという裏付けを感じたがためにさらにオウムの修行は正しいと思いこんだのです。
そして、出家をしたいと申し出ると、許可が出ました。そして、私は、87年の11月下旬に出家しました。入信してからわずか8ヶ月でした。
●出家してからサリン事件まで
出家してから、まず最初に1日16時間の立位礼拝という修行がはじまりました。「オーム グルとシヴァ神に帰依したてまつります。私○○を解脱へとお導きください」と大きな声を張り上げて唱え、体を前に投地します。チベットでは五体投地という似たような修行があります。
これはかなりきつい修行でした。肉体的にも極限でしたし、精神的にも大変つらい修行でした。私もかなり辛かったのを覚えています。その頃の富士の2階の道場には立位礼拝の修行をしている人がたくさんいました。出家者が次から次へと増えてきました。
10日くらいこの修行を行ったあとワーク(教団への奉仕活動)に着くようにいわれました。最初はオウム出版の事務を手伝うことになりました。上長は、アングリマーラ大師と呼ばれる人でした。岡崎被告です。世田谷の道場で忙しい日々が始まりました。岡崎被告はとても行動的で仕事のできる人でした。
たまに麻原からの電話を取ることがありましたが、誰だかわからなくて「君はグルの声を忘れたのか」と言われたことがあります。グルがどれだけ大事なのかほのめかされた出来事でした。飯田エリ子さんに出版の経理とかを教えてもらっていました。このときに営業をやる人が何人かふえてきました。その中で田口修二さんも一時期きていました。おとなしい感じの無口な人でした。何か問題がありそうな感じはしていましたが、よくわかりませんでした。ましてやその後亡くなったとは夢にも思いませんでした。
睡眠時間4時間くらいでワークをやるのですが、成就をめざすということで、辛くともがんばれました。そのころは出家すると戒律があり、それを守るようにいわれました。睡眠時間は短く、食事も少なく、このような煩悩を滅する方が修行が進むといわれてましたので、みんな自分の煩悩と戦いながら、煩悩滅尽をめざしていました。
出家してすぐ成就する人もいて、とにかく私も早く成就したいと思っていました。そのためにはグルに帰依し、どんな辛いこともがんばろうと思っていました。もともと負けん気は強かったし、スポーツで培った根性はある方でしたので厳しいワークにも耐えていきました。
1ヶ月ほどして、私は富士の総本部で新人研修をすることになりました。当時出家したばかりの人が富士で修行とワークの研修を行っていたのです。飯田エリ子さんと大内早苗さんが担当でした。そのころ浄化法という修行をやったあとダルドリーシッディが頻繁に起こるようになりました。立位礼拝をしているときなどにエネルギーが上昇すると体が自然に飛び跳ねてくるのです。これには驚きましたが、修行が進んだとうれしくもありました。
その後私は名古屋支部に行くことになりました。支部活動のワークです。ここには数ヶ月いました。都沢さんが上長でした。とても明るくて気さくな方で、話しやすい方でした。たまに厳しいところもありますが、よく働く人でした。たいがい成就したといわれる人はみなワークもできて優秀な人たちでした。
この名古屋支部にはその後、成就してまもない野田さんや名倉さんなども加わり、大きくなっていきました。当時の信徒に清水美人姉妹や中田清秀さんなどもいました。麻原の説法会には100人くらいの人が集まり、コースなどの修行にもまじめに参加する人がいました。
麻原は、早く成就するためには、グルに対する帰依というのが弟子として重要なポイントだと説いていました。グルが白と言ったものはたとえそれが黒だとしても白というのが帰依だということまでいっていたのです。
エゴを滅する修行として、そこまでしなくてはいけないのでした。これがやがてサリン事件にもつながっていったのだと思います。麻原の言ったことは絶対で、麻原が言ったといえば、誰しもがいうことを聞いていました。麻原の言葉は印籠のようなものでした。グルがこういったからというのが私たちの言動の元になっていました。さからうことはできなかったのです。
しかし、その当時は、まさかグルが違法行為、しかも殺人を指示するなどとは夢にも思いませんでした。利他の実践、四無量心を解く宗教団体が殺人を犯すなどとは思えなかったのです。
●選挙活動、坂本弁護士事件
その後選挙活動に入ることになりました。麻原が救済のためには政治家になることが必要だということで、衆議院議員に立候補することになったのです。ずいぶん思い切ったことをするのだなあと思いました。
当選するかどうかわかりませんが、とにかくやるだけやるしかないという感じでこれも修行だと思ってやりました。グルの意志を実現することが修行を進めることにつながると常日頃からいわれていたのです。当時の教団は、グルの意志といえば、なんでもそのまままかり通る状態になっていました。
選挙活動は東京に拠点をいくつか設け、全国の出家者が集められ、そこに振り分けられました。私も名古屋から東京の拠点に移動しました。信徒も長期バクティということで参加した人います。私は中野や杉並の拠点でポスターを貼ったり、チラシを配ったり、電話かけをしていました。
その頃、麻原はすごい人だと思ってしまうに至ったもう一つのエピソードがあります。富士に呼ばれたのですが、そのときに麻原に心を読まれたと思いこんだものです。
そこ頃私はあることでとても落ち込んでいたのですが、この中で「一番落ち込んでいるのは田渕さんだ」といわれ、驚いたことがあります。誰にも言ってないことなので、なぜわかったのだろうという思い、その当時の私は、それを仏教が説く他心通であると思い、深く感動してしまいました。
しかし、ここで、私を含めた、麻原の「神通力」なるものに対する、こういった信者の反応には、次のような先入観があって、そのため、麻原を過大評価してしまうことがあったのではないかと思います。
まず、この世の中には、一定の霊的能力を持っている人は、まま存在しており、麻原が唯一絶対では全くないにもかかわらず、そういった知識・経験が無く、未熟であるがために、麻原の霊的な能力を過大評価してしまう。具体的には、一定の霊的能力があったにしても、それだけで人を神としてはいけないのですが、そうしてしまう。
この総括に至るまでに、いろいろ調べたのですが、例えば、オーストラリアの原住民のアボリジニーは、80キロも離れたところにいる仲間の居場所を言い当てることができたり、数キロ離れたところにいる動物や砂漠の中の水のありかをいいあてたり、一年前の人の足跡をたどったりもできるという報告もあります。ある意味で麻原より神秘的な力を持っているとも言えますが、彼らは自分のことを神だとは誇りません。
次に、そもそもが自分自身が苦しんでいるので、つまり、自分の苦しみを和らげたいという気持ちが元々あるために、麻原は自分のことを全て分かってくれているのだ、と思いたがる傾向がありました。
教団の宣伝で、麻原の神通力が大々的に宣伝され、それをそのまま信じていることや、さらには、自分もそういった麻原の神通力を体験したい(体験した弟子でありたい)という気持ちがあるため、麻原自身がしていることは、一定の洞察力がある人ならば、他の人もできることであったり、場合によっては自分が知らないところで、何かの情報が麻原に提供されている場合があっても、そういった考えには及ばず、過大評価してしまう傾向があります。
この頃、坂本弁護士事件が起きました。テレビでも話題になり、オウムのプルシャが落ちていたことから、オウムが犯人ではないかといわれていました。それに対して麻原は富士に集めた出家者の前でオウムがやったわけではないが、殺されてもしかたないようなことをいっていたような気がします。オウムに対していろいろ不利益なことをやっていたからです。このとき私は、麻原が結構怖いことをいう人だと、ひそかに感じていました。
しかし、テレビでの取材では、教団は事件の関与を否定していましたし、グルのいうことは絶対でしたので、オウムはやってないと信じてました。今思えば、このような盲信は本当に怖いものです。事実をねじまげ、現実を直視できなくなります。
●成就修行でラージャヨーガの成就を認められる
選挙活動の間にいよいよ成就修行の順番がまわってきました。何十人もの人が富士の道場に集められ、成就のための極限修行が始まりました。私は成就したいという強い気持で修行にのぞみました。麻原は1週間で成就させるという意気込みで、2つのグループに別れて成就修行が行われました。
麻原がたえずついて一緒に指導していましたが、大変きびしい修行でした。私はいざがんばろうと思ったものの、蓮華座という特別な坐法が組めなくて、足が痛くて泣きながらやっていました。このときにはラージャ・ヨーガの成就をしました。成就の認定をされたあとは、当時の自分としては、心が自由になって苦しみは減ったような気がしました。私としては、このときにクンダニー・ヨーガの成就の認定まで得たかったのですが、それは無理でした。教団の教えとしては、まだ功徳が足りなかったのでしょう。
たくさんの成就者が半月の間にでました。ラージャ・ヨーガの人が多かったのですが、クンダリニー・ヨーガの人もいました。名古屋の清水姉妹も出家して1ヶ月くらいでラージャ・ヨーガの成就をしたのです。そういう人が何人もいました。このようにわずか1週間で大量成就というのにも驚きました。
しかし、この成就認定も、オウムでの認定であって、ヨガの本などに書かれている成就は、もっと超能力がつくといわれているものです。教団の成就認定は、三グナという3つの色の光を霊視したらラージャ・ヨーガの成就というきわめて安易な認定でした。
また、クンダリニー・ヨーガにいたっては、光を霊視してダルドリー・シッディが起き、麻原が心の変化を見抜いて決めるといったものでした。教団では、クンダリニーヨーガによって、仏教で説かれる六神通などのさまざまな超能力がつくと宣伝していましたが、そういった超能力に関しては、人によっては、一定の体験をすることはあったと思いますが、教団の宣伝は明らかに誇大宣伝でした。
成就修行のあとはまた選挙のワークにもどりました。
選挙の間で一番ハードだったのは、「バッタ作戦」というワークでした。朝始発から終電まで、麻原のお面を付けた人と二人駅に立って「麻原彰晃です。よろしくお願いします」と通る人にお辞儀をしていました。冬、雪の中でやることもあり、たいへんでした。休むこともなく、食事もせず、ずっと同じことを繰り返すだけの修行でした。普通の人にはちょっと真似ができないことですが、グルの一声ということでそれがまかりとおる世界でした。
このころ一人一人に麻原の面談があり、私は「ダルドリーは完璧だ。バッタのワークでクンダリニーヨーガを成就する気持でがんばれ」といわれ、辛くてもがんばろうと思いました。しかし、結局このときに「クンダリニー・ヨーガ」成就認定は得られませんでした。
その後、上祐氏が12月に、教団で言う「マハームドラー」を成就したと発表されました。ヒマラヤに行ってのことでした。年明けには、「クンダリニー・ヨーガの成就者」と認定された人が何人かでました。
選挙は結局落選しました。そのときには投票のあと落選するように操作されたという話がありました。前調べでは当選確実ではないかと噂されていたということでした。
私はすっかりそれを信じて、選挙管理委員会は不当なことをするのだと思っていました。そういえば投票のとき、立ち会っていた人が不気味な笑いを浮かべていたと思ったのです。
しかし、今思えば、教団や私の見方の方がおかしかったのであり、当時は、そういった被害妄想をいだくほどに、麻原と教団を盲信していたのでした。
選挙が終わると東京道場で支部活動に配属されました。杉並に道場を新しく作るということで私はそこに回され、一人でやっていました。
●石垣島セミナーに参加、真相を知らないままに
それから、「石垣島セミナー」というものが行われました。
その前から富士で成就者の人が何やら秘密のワークをやっていたのはうすうす感じていました。たまに富士に行くと、飯田さんや都沢さんとかが、汚れた服を着てどこからか帰ってきていたのを見ていました。
しかし、その当時の私は、まさかそれがポツリヌス菌を作っていたことだとは、全く思いもよりませんでした。
このころから教団は、ヴァジラヤーナ活動(いわゆる教団武装化)に本格的に入っていたようですが、私はほとんど知りませんでした。支部活動をやりながら、救済をするんだと、信徒対応を一生懸命行っていました。
石垣セミナーが裏でどんな意味があったかを知ったのは、ほんとうに最近のことでした。当時は何かオースチン彗星が近づいてくるので、というような話しがあり、何か起きるから避難するような感じでいったように思います。ずいぶん大がかりなセミナーで、馬をつれていったりしていたらしく、やることがすごいと思っていました。
出家者ほぼ全員の大移動でしたから、ものすごいものでした。船に乗って沖縄までいき、結婚式場で雑魚寝をしたり、石垣島に着いたと思ったら、私のいたグループはすぐ帰ることになりました。一晩は泊まったのですが、それがすごいところで、どこかの農家の納屋でした。帰ってからも、一体このセミナーは何だったのだろうと、わけがわかりませんでした。
ボツリヌス菌を製造して、日本中に撒くという話があったということは、あとで知ったことで、その時は大変驚きました。
石垣から帰ったあとは東京道場で経理をやりながら支部活動をしていました。私は、教団の表の活動ばかりしていたので、裏でどんなことが行われていたのか、全く知りませんでした。
しばらくすると、山梨の清流精舎というところに集められて、修行をすることになりました。清流精舎はすごい施設ができていて、ビニールが部屋に貼られたりして、シェルターのようなものが作られていていました。富士の施設も、作りが改造されていて、ドアとか空気清浄機など、非常に大がかりなものが作ってありました。
何が起こるのだろうという緊張が走りましたが、私としては、上の言うことを聞くしかないので、いわれるがままに、清流で修行をしていました。
その後、マハームドラーの成就者として認定された人が何人かでました。村井さんや新実被告や飯田さんが認定されました。
またクンダリー・ヨーガの成就者として認定された人もたくさんでました。この当時の私は、極限修行には入れず、残念な思いをしており、同じ頃出家していた人がどんどん成就するのを見てあせっており、自分も、がんばってワークをし、教団が成就の条件としていた功徳を積もうというように考えていました。
●二度目の極厳修行やその後の出版のワーク
ようやく秋頃、成就するための「極限修行」と呼ばれる修行に入ることになりました。これが二度目の極厳修行でした。その場所が九州の阿蘇だったのです。
その場所は、シャンバラ精舎といわれていましたが、山奥に大きな建物がいつのまにかできていて、たくさんの人がワークをしていました。このように、オウムのやることは、本当に観念が崩れるというか、常識を逸脱していました。
当時の私は、とにかくその阿蘇での極限修行で、がんばって成就しようと思っていました。しかし、蓮華座という特別な座法が苦手でなかなか組めなくて、痛くて痛くて、そのカルマが落ちて痛みがとれるのにに半年くらいかかりました。途中で富士に移動しての修行になったのですが、このときにも結局成就認定をもらえませんでした。
ワークに出ることになり、こんどは「戦え真理の戦士部」と呼ばれる、変わった部署につきました。場所は杉並の宮前にありました。成就できなかったことで、とにかく、功徳を積むために極限でワークをしようと思っていました。
何をするかというとオウム真理教の広報活動のようなものをやる部署でした。具体的には出版した書籍の宣伝をしたりしていました。チラシを街頭で配ったり、大きな宣伝カーを走らせたり、結構大がかりな宣伝活動をやっていました。
麻原は、マスコミにも出るようになり、著名人と対談したりして、雑誌にも掲載されていました。その時の上司は新実被告でした。
やがて出版の事務もやるようになりました。出版攻勢で月に何冊も本を出版していました。しばらくして、そこの場所を引き払うことになり、世田谷の上町に移動しました。そこでのワークは出版活動でした。
この部署においても、私は、裏の活動は全く知りませんでしたが、ただし、たまにその部署に様子を見にくることがあった上司の新実被告が、一度死にそうになったことは知っています。
というのは、たまたま上町の施設にきていた野辺さんという当時新実被告の運転手をしていた人が、中川被告から、「ミラレパ正悟師が大変なことになって、死にそうだから、オウム真理教医院に入院しているので、お世話をしてほしい」と言われていたからです。
そのときは、どうしたのだろうくらいにしか思っていませんでした。まさか、新実氏らが、池田大作氏をサリンガスによって殺そうと計画し、それに失敗して、自分自身が被爆してしまい、重症に陥ったとは思いもよりませんでした。
また、93年の7月頃、六ヨーガのイニシエーションがあったのですが、そこで麻原の血液を額に注射されたのです。しかし、あとで知ったのはそのときボツリヌス菌に免疫をつくるための薬が注射されたということだったのです。裏の事情を知らなかったものにとってはありがたいイニシエーションとしか思えませんでした。
麻原がみんなの前で採血し、椅子からずり落ちて倒れる姿を見て、みんな麻原は身を犠牲にしてみんなのためにイニシエーションをやっているのだと思ったものです。
●LSDのイニシエーションと成就の認定
94年頃から、ヴァジラヤーナの教えが麻原の説法で頻繁に説かれるようになりました。聖・科・武というような話があり、科学を研究したり、武道もやることが必要だというようなことが話されました。ヴァジラヤーナ教学システムというのもできたりして、教団全体がヴァジラヤーナに流れていきました。武の実践として、気功の修行もとりいれられ、それを毎日やっていました。
その頃は秘密ワークと称されるものが多く、富士で何かやっているのは感じていましたが、何をしているのかはさっぱり知りませんでした。古い師の人が次々と秘密ワークと呼ばれるものにまわっていき、あまり表には出てこなくなったように感じます。
94年6月に松本サリン事件が起きたのですが、それにオウムがかかわっているなどとは知りませんでした。
94年の7月にキリストのイニシエーションというのがありました。このとき上九で受けたのですが、ものすごい体験をしました。まさかLSDという薬物が使われていたとは全く知りませんでした。麻原の自室に呼ばれて、何か液体の入ったグラスを渡され飲むようにいわれました。飲んだあとは気絶して、個室に入れられ、何時間もヴィジョンを見続けていました。
欲六界の体験、宇宙の創造、みんな自分の物語を生きているにすぎないというようなヴィジョン。自分がいろんな人と競争していって勝っていったのですが、最後の相手が自分だったというショッキングなヴィション。
麻原が何かあぶないことをしでかすのではないかというヴィジョンも見ました。最後は救済のお手伝いをしていこうと思ったところで現実に戻りました。気がつくと口にはガムテープが貼られ、全身ロープで縛られていました。相当暴れていたようです。自分の潜在意識に入っていったと思うので、何が起こるかわからないのです。
このときの体験をひとりひとり麻原に報告しました。そして麻原の判断によりクンダニー・ヨーガの成就の判定をもらいました。やっと成就できたと思いたいへんうれしかったのを覚えています。「お前、いい体験したな」と言われたのを覚えています。
たったの1日で成就と認められたのですが、それまでのワークの積み重ねが麻原に判断されたのかもしれないと思いました。成就者のステージの順番も再編成されました。
なお、後から聞いたことでは、この際の成就認定は、麻原への帰依や、麻原の救済のお手伝いといったヴィジョンを見たかどうかが基準となっていたそうで、だとすると、麻原の思惑にあった人間に選ばれたということになります。
しかし、こういった薬物による体験は、例えばグロフという心理学者も研究しており、何もオウムでなくともLSDでいろいろな神秘的な体験はするのです。その中では、過去生の体験や空の体験、地球や何かと合一する体験など、修行していなくてもほとんどの人はLSDで体験するようです。グロフは、LSDによる数千人の体験を研究しています。
そういった効果がこのキリストのイニシエーションに利用されたのであり、神秘体験をしたからといってそれほど驚くことでもなく、ましてこれで成就の判定がくだされたのですから、極めて安易なことです。
しかも、LSDは一歩使い方をまちがえると廃人にもなりますから、危険なものです。何も知らないものにとっては、このイニシエーションで麻原がすごい体験をさせたと思い込んでしまっていますが、実際はそうではなく、薬物の影響だったのでした。
●出版のワークのリーダーとなる
成就すると師となり、部署のリーダーを任されます。出版のワークにもどって、また新たな気持でワークをはじめました。そのころ後藤さんが一緒に出版のワークをすることになりました。彼も古い師です。その後落田さん事件で捕まってしまった人です。
上町の施設には信徒バクティの人が増えてきました。数人くらいいたと思います。リーダーとなると自分のワークをやるだけでなく、部下のワークの面倒もみなければならず、大変でした。
その頃、第6サティアンでは、「シールドルーム」という特別な密閉された部屋のがたくさん作られ、そこで修行をする人が増えてきました。特別な個室で外の影響を受けにくいということでした。私もしばらく修行に入ることになったのですが、そのとき記憶を消す「ニューナルコ」を受けました。
点滴のようなものを打って、気がつくと何の記憶もないのです。自分が誰なのか、何をしているのかわからないのです。時間がたつにつれてだんだん思い出しましたが、あれも不思議な体験でした。そのあと決意という詞章を何回か唱えるようにいわれました。
それが終わるとルドラチャクリンというイニシエーションが受けられるということでした。しかし、イニシエーションを受ける間もなく修行を出ることになりました。薬のようなものを利用したイニシエーションが行われていて、だんだん教団が変わっていったという印象がありました。
その後、もうひとり石塚さんという師の人が配属されてきました。3人体制でやっていたのですが、後藤さんはいつもいないことが多く、何か秘密ワークもやっていたようです。何をしているのかと聞いても、言えないというので不信に思っていました。この人が落田事件にかかわっているなど思いもしませんでした。
上町にいる信徒は出家する人もいたり、新たに後藤さんが連れてくる人もいて、入れ替わっていきました。精神病的な人もいて対応が大変でした。しかし、救済だと思って、慈悲をもって接するようにしていました。
●毒ガスが巻かれているという噂や説法
また、この頃教団に毒ガスが撒かれているといううわさが流れ、麻原はその被害を受けているというような説法もありました。麻原の家族も被害を受けていて、米軍の攻撃を受けているのではないかという噂もありました。
教団によれば、イペリットガスだ、ということが検査でわかったとされて、そのビデオも制作されたのです。上九には警備が増やされ、空を米軍機が飛んでいたとかいう話もありました。また、Q熱リケッチアという病気もはやっていると言われ、それを防ぐためにということでヨーグルトが配布されたこともありました。
各施設には毒ガスを防ぐために、コスモクリナーというものが科学技術省によって作られ、設置されました。富士・上九の施設には何個もその機会が置かれ、動いていました。
だんだん教団が危険な雰囲気になってきたのを感じました。
当時出版関係の仕事をしていたため、書籍の買い物を頼まれることが多かったのですが、その頃、軍事関係の本を大量に頼まれたことがありました。一体何をしているのだろうと思いましたが、まさか本気で武器を作っているなどとは思いもしませんでした。
95年の正月くらいから、お食事会とよばれる会が開かれるようになりました。麻原と出家者がお食事をしながら話すというもので、数回にわたってグループにわかれて行いました。私は最後に参加したように思います。
このときの説法テープを聞くと、ヴァジラヤーナ的な話がなされていて、予言を成就させるために、ハルマゲドンを起こすのだくらいのことを言っていたように思います。それを聞いて私はそんな大それたことができるのだろうかと思っていました。またずいぶん危険なことを言っているとも思いました。麻原があぶない危険な人のようにも思えました。この話をまともに受け取れば、教団が破壊活動をすることは予想されます。
その頃正悟師に昇格になった人が何人かいました。また、何ヶ月後かに昇格になる予定の人が、期限に分かれて発表されました。たくさんの人がマハームドラーを成就する予定であるとされていました。
●地下鉄サリン事件が起こる
そして、95年3月20日、地下鉄サリン事件が起きました。まさかオウムがやっているとは思いませんから、大変なことが起きたのだなくらいにしか思っていませんでした。テレビでその様子を見ていたのですが、地下鉄で何かがまかれて、人がたくさん倒れていて、大惨事のようでした。霞ヶ関のあたりには救急車が走っていて、目が見えなくなるという人がたくさんいたとのことでした。
そして、2,3日後に突然朝早く、強制捜査だということで警察がやってきました。刈谷さんの拉致事件が容疑だったように思います。私は何が何だかわけがわからず、どうせ濡れ衣でやってきているにちがいないと思って対応していました。
松本剛という容疑者の名前も初めて聞くし、刈谷拉致事件もはじめて聞くし、いったいどうなっているのだろう、宗教弾圧もいいところだと思っていました。表ワークしかしていなかった私にとっては、晴天の霹靂といった感じでした。
全国のオウムの施設に強制捜査が入ったらしく、上九の施設には迷彩服やガスマスクをつけた警官が入ってきたようです。テレビではカナリアを持った人までいました。まるでサリンをまいたのがオウムだといわんばかりではないかと私は思いました(私が知らないだけで、実際にまさにそうだったのですが)。
幸福の科学の人らしき人たちが、駅前で地下鉄サリン事件はオウムがやったというビラをまいているといううわさを聞き、また幸福の科学の人がオウムを弾圧をしているとも思いました。とにかくひどい宗教弾圧が始まったと思っていました。
●事件後から2000年まで
それからテレビには毎日のようにサリン事件の報道が取りあげられていました。私はテレビと新聞のチェックをするワークもはじめ、毎日のようにテレビと新聞を見ていました。新聞には毎日のようにトップ記事としてサリン事件のことと、オウムのことが載っていました。
この頃、上祐氏がロシアから戻り、青山にあった東京総本部に緊急対策本部をおき、警察操作やマスコミ取材に対応することになりました。そして連日、テレビに出演しては事件はやってないことを主張していました。
サリン事件のあとに、大きな事件が続出しました。3月30日には国松長官狙撃事件もそのひとつです。これもオウムの仕業ではないかと疑われました。4月23日には村井氏が青山で刺殺されるという、悲惨な事件も起こりました。当時はとても信じられませんでした。身近な人が殺されるという経験がなかったのでそのショックは大きいものでした。ニュースに青山総本部が映り、刺殺場面まで放送されていて、生々しいものでした。
また、第7サティサンのことが話題になり、そこでサリンが作られていたのではないか、という疑惑を払うために、農薬を作っていたとか、サリンを作るのは無理だという説明をしていました。それをそのまま私は信じていました。まさか教団がサリンを撒いたなんて思ってもみませんでした。濡れ衣もいいところで、国家の謀略でオウムを潰そうとしているのだと思っていました。これもオウムが正しいと思い込みたいがゆえに現実を見ようとしなかったという点があげられます。
●事件発生後の自分の出版のワーク
そのような大変な状況の中で、私の出版のワークはこれまでにないほど忙しくなりました。その頃発売した新刊の、「日出づる国、災い近し」という本はよく売れました。テレビで紹介されたり、事件後というのもあり、オウムの書籍が飛ぶように売れました。
皮肉にもオウム出版の書籍が一番売れた時期となったのです。前代未聞の事件で、テレビで話題となっているので、毎日毎日書店から注文の電話がひっきりなしにかかってきました。ひとりで朝から晩まで電話対応に追われる日々が続きました。夜中まで注文スリップを書き、本をセットし、取次ぎに毎日届けてもらうという日々でした。
自分の中ではこれで真理が広まると思っていました。事件をまさかオウムがやったなどとは思っていなく、宗教弾圧だと思っていたからです。この機会にどんどん書籍を売って真理を広めようと思っていました。直接出版社まで本を買いにくる人もいました。
「日出づる国、わざわい近し」は3万部くらい売れたと思います。4月下旬には「亡国日本の悲しみの」という本を出版しました。これは宗教弾圧に対する警告のような内容の本で、真理を弾圧するとひどい目に会うという仏典を引用して、真理というものは弾圧されるものでそれに耐えるしかないというような内容だったと思います。麻原のメッセージも入っていました。Q熱リケッチアで病気だということでした。この本も飛ぶように売れました。内容的には今から考えると教団擁護そのものの内容でした。
村井氏がなくなったあと、村井氏の書籍も出しました。その後もオウムが米軍に毒ガスをまかれているという本や、また事件の前から、ヴァジラヤーナ・サッチャという月刊誌を出し始めていたのですが、その中で強制捜査は不当だということ、オウムは事件をやってないということを主張していました。教団擁護が書籍を通してなされていきました。
また村井氏が刺殺されたのは、この雑誌の6号でフリーメンソンのことにふれたからだということで6号は販売中止になったこともありました。こういった販売中止の理由は、荒唐無稽のことだったのですが、その当時は、村井氏が死ぬまぎわに「ユダヤにやられたと」言っていたということからです。
こうして、オウムの書籍は合計で10万部くらい売れました。それまでにないくらいの売り上げでした。その当時の私は、これでお布施がたくさんできると、喜んでいました。なぜならば、オウム出版は、それまで赤字だったからです。
今から思えば、一連の事件の被害者の方のことを考えれば、このようなことは、本当に不謹慎なことだったと思います。販売中止にすればよかったですが、その当時の私は、一連の事件を教団はやっていないと思い込んでいました。
後にオウム出版をたたむときに、取次ぎに残っていた売り上げ金は、すべて賠償金にまわさせていただきました(1500万ほどあったかと思います)。
●麻原を始め相次ぐ逮捕と教団の崩壊
事件後は、警察の人が施設の前に24時間張り付いていて、出かけるたびにチェックをしていました。車の荷物チェックなどもしていました。もっとすごいのは車で出かけると必ずどこかの道路で、警察に止まるようにいわれ、チェックされるのです。
教団は事件をやっていないと考えていた当時の私は、わずらわしいと思いながらも、このような弾圧に耐えなければと思っていました。どこかにでかけると必ずわからないように後をつけられていました。常に監視されているという感じです。
その頃、幹部の人たちが次々と別件で逮捕されていきました。これも弾圧だと思っていました。微罪で逮捕されていたからです。なぜ、こんなことが起きるのだろうかとわけがわかりませんでした。不殺生を説くオウムが人を殺すはずはないと信じてました。
その中で5月に林被告がサリン事件はオウムがやったと自供したと報じられ、15日には麻原も逮捕されました。そのときの報道はすごいものがありました。特番で麻原が逮捕されてから移動する様子をずっと追って撮影しているのです。
麻原は第6サティアンの特別な部屋に隠れていて、逮捕されるときの様子がレポートされていました。テレビでその様子をみながら、ひどい弾圧だと思っていました。グルが逮捕されたらどうしようかという不安も生じました。
ほどなくして一緒にワークしていた後藤さんも逮捕されました。落田事件にかかわっていたということでした。それにも私は驚きました。
麻原逮捕後、教団がガタついてきました。それでもみんなまだ事件はオウムがやってないと思っていました。上祐氏が教団をまとめるような形でした。石井さんも、飯田さんも、松本智子さんも、新実さんも早川さんも、主な人たちはみんな逮捕されました。そして、10月には、上祐氏も逮捕されたのです。
何十人もの人が逮捕されました。それでもみんなまだ弾圧で事件はやっていないと思っていました。マスコミの情報は入れないように指導されていたのです。獄中の麻原からのメッセージが弁護士をとおして届き、それに従ってみな動いていました。
村岡氏が代表代行となり、正悟師が数人で話し合っての教団運営がはじまりました。破防法が適用されるのではということで、弁明手続きが行われていました。また、被害者の賠償のために、破産手続きがとられ、教団の資産が破産管財人のもとに置かれ、処分されていくことになりました。富士、上九の教団施設から出て行かなくてはならなくなったのです。
●教団が事件をやったと聞いた後も続いた信仰
私はあるとき一緒に出版のワークをしていた石塚さんから、「事件は教団がやったんだよ」と聞かされ、大きなショックを受けました。その当時の私は、まさかと思いました。嘘だと思いました。100%まだ信じられませんでした。
しかし、もしかりに万が一やったとしても、グルのやることには何か意味があるに違いないと思っていました。その当時の私は、グルのやることは絶対だという信仰にはまっていたので、グルがまちがったことをやるはずがなく、事件をやったとしても、それは、いわゆるヴァジラヤーナの救済のためにやったのだ、という考えに陥っていました。
具体的に言えば、たとえば、日本人のカルマが相当重くなったので、そのカルマを落とすためにやったとか、また、弟子にマハームドラーをかけたとか、事件を正当化する理由を自分で勝手に妄想して考えて、仮に麻原が事件に関与していたとしても、一連の事件と麻原、そして、麻原を信仰する自分を正当化していたのです。
どうしてこういう思考パターンにはまったのかというと、①まず、私は、自分が麻原をグルとして受け入れ、②そして、次に、グルは絶対である、という密教的な教えを受け入れ、その結果として、グルである麻原は絶対である、という思考パターンが出来てしまっていたのです。
しかし、今になって冷静に考えれば、麻原をグルとしたのは、私を含めたオウム信者だけですから、それは、自分達がグルとした麻原は絶対である、という考えなのです。
この点を突き詰めて考えれば、私は、自分が気づかないうちに、自分に、誰かを絶対に間違うことのない人であるかどうかを判断する能力がある、と思いこんでいたことになります。
今から思えば、その人について、私が経験したような、多少の神秘的な体験をしたからといって、その人が絶対であるかどうかなど、自分には判断できないことです。
しかし、当時の私は、こういった自分自身に対する客観的な分析はできず、気づかないうちに、(ある意味では宗教をする人の多くがはまりこむ)、第三者から見れば、自分(達)が信じたものは正しい、という、非常に傲慢な考えにはまりこんでいました。
また、グルは絶対である、という密教の教義については、密教には確かにそういった印象を与える教えがあり、その教えと共に、1000年位も昔の時代に、神のような力を発揮したグル達の物語があります。
しかし、その教えを現代の現実にあてはめていいのか、ないしは、オウムでの解釈と、例えばチベット密教での解釈は同じなのか、といった点については、私たちは全く考えませんでした。
これは、(チベット)密教などの世界を信じ込んでいない第三者の人から見るならば、昔の伝説・神話の世界をそのまま現代の現実にあてはめる、という非科学的な行為ですが、その当時の私は、その(密教の)世界の中にどっぷりと浸っていたので、それを現実に合わせて解釈することをしませんでした。
この点については、今では、ダライ・ラマ法王などが、密教の経典については、例えば、「仏陀を殺せ、そうすれば解脱する」などと書いてある過激な物もあり、その言葉通りに受け入れてはならず、自分でしっかりと思索し、論理をもって正しく再解釈しなければならない、としていることを知りました。
しかし、オウム以外の世界を知らない当時の私は、そういったことには無智でした。経典の教えの正しい解釈が出来なかったのです。
96年の4月から麻原の公判が始まりました。みんな交代で傍聴に行っていました。最初の頃は傍聴希望の人がものすごい数で日比谷公園まで並ぶほどだったのです。
私は公判の傍聴に行ったとき、裁判所に近づいただけで、自分の体の中で、エネルギー(気)が上昇したので、麻原が事件を起こしていたとしても、(それが人殺しの悪業となって麻原のカルマが)地獄のカルマにはなっていないと思っていました。
今から思えば、そのような体験も、自分が自分の麻原の信仰を正当化するために、そのような体験を現象化させたのかもしれません。ないしは、現実ではなく、自分のイメージの中の麻原を意識すると、エネルギーが上昇するという一種の条件反射が形成されていた可能性があります。
そして、自分がエネルギーが上がったと感じるだけで、その対象を肯定したという行為ですから、第三者の方から見れば、あたかも、自分の霊的な能力を絶対視して、殺人容疑の真偽や殺人の是非を判断する、という非常に傲慢な行為に感じられると思います。
また、そもそも、一般の人から見れば、地獄のカルマを積めばエネルギーが下がり、そうでなければエネルギーが上昇する、という考え自体が、科学的に証明された理論ではなく、オウムの世界の論理でしょう。
さらには、エネルギーの感覚というのは、個々人によって感じ方が違う主観的なものであり、私が上昇を感じても、他人はそうではない場合あるのに、それを客観的な世界の殺人容疑の真偽などにあてはめる、という非合理的な考えである、と思われるでしょう。
こうして、今から思えば、私には、何重もの無智・傲慢・思い込みがあった、と言わざるを得ませんが、当時の私は、そういったことに気づきませんでした。
裁判の傍聴にたまに行くことがありましたが、落田事件も落田さんがあまりにも悪業を積んだがためにそうなってしまったと妙に納得していた部分もありました。落田さんはサマナのお母さんと一緒に下向しようとして、麻原に殺意までもっていたようでした。
今から思えば、この考えも非常に傲慢で安直な考え方だと思います。落田さんたちが麻原や教団に反感・敵意を持っていたとしても、そういう感情に至る背景・事情をよく知って理解しようともせず、グルを絶対とする教団の世界観にはまり込み、自分たちがグルとして存在に反感・敵意を持つ者は大きな悪業を積んでいる、という見方に一辺倒になっていた、と思います。
こうして、その当時の私は、仮に事件をオウムがやっていたとしても、何か正当なわけがあると考えていたのです。
もう少し加えると、それは、私たちの修行を進めるためにグルが仕掛けたマハームドラーなのだと自分勝手に考えていました。教団では、グルが弟子を成長させる一種の宗教的な試練をマハー・ムドラーと呼んでいました。
そして、グルというのは、マハームドラーを成就させるためには、教団をつぶしてもかまわないと思っている、というような説法を以前に聞いたことがありました。グルは、救済のことしか考えていない、というのが、常日ごろの麻原の口癖でしたから、それを信じていました。
そして、これは私たちに対するカルマ落とし(=悪業を精算する苦しみの体験)であり、これに耐えれば、修行が進み、グルはいつか必ず(拘置所から)戻ってくる、と信じていました。
これも、今になって冷静に考えるならば、自分たち弟子が成長するためには、一般の人を巻き込んで、その人たちの生命を奪ってもいい、という非常に傲慢な考え方だと思います。当時の私は、こういった自分たちの問題には気づくことが出来ませんでした。
その世界にはまりこむと現実認識があまくなり、自分たちの考えがすべてになってしまっていたのです。宗教の怖さはそのあたりにあると思います。信じたもののためには何でもやってしまう怖さがあります。
●麻原の家族の崇拝へ
その後教団運営は、長老部を構成し、行うようにという麻原のメッセージがありました。その構成員は三女がリーダーとなり、麻原の子息と正悟師以上の人の参加ということでした。
また、麻原のエネルギーは長男、次男を通して流れるというメッセージがあり、「リンポチェ猊下」と敬称をつけて呼ぶようになり、グルのかわりに観想もするようにという指示がでました。祭壇には長男や次男の写真も掲げられ神格化されていきました。私もいわれたとおり、長男、次男を観想するように努力しました。
ワークの方は出版の仕事が次第になくなり、縮小することになりました。私一人でやるようになったのです。上町はからサティアン識華とよばれる杉並のビルに移りました。そこでほそぼそと出版営業などをしていました。
その頃はサティアンショップというオウムグッズを売るショップをあちこちに作っていました。有名になったことで、人がたくさん訪れ、いろいろなものがよく売れていました。そこのビルもショップを開いていました。
そして、そこで興味をもった人が入信したりすることもありました。事件によってマスコミで有名になり、休日ともなると若い人がたくさんお店を訪れました。ちょっと異常なオウムブームという感じでした。
今から思えば、これも被害者の方にとっては申し訳ないことをしてしまったと思います。事件を利用して収益をあげるという、なんとも恥ずかしいことをしてしまいました。
96年の夏ごろには三女によって観念崩壊セミナーというのが開かれました。自己啓発セミナーのような内容でしたが、より激しいものでした。最初はそうでもなかったのですが、だんだんきびしくなっていったようです。
麻原よりもきびしいことをやらせると私は思いました。外に何日も食事もとらせず放置したりしたと聞いたときにはびっくりしました。私は、そのグループにはいなかったのですが、大変だと思いました。でもカルマが落ちているんだと思い聞かせていました。
私はそのセミナーに数回も参加するはめになりました。睡眠時間もなく修行を続けたり、お酒を飲まされたこともありました。確かに観念は崩壊しました。
途中に強制捜査が入ってきたこともありました。そのときは警官ともみ合いになって、めがねが壊れたりしました。みんな三女のいうことを聞いて、まるでグルのように従っていました。当時の教団の中では一番力のある人でした。
このときにあまりにもきびしい修行で、ひどい病気になった人が何人もでました。入院したり、蓮華坐の組みすぎで足がおかしくなった人もいます。端からみると狂気の世界でしょう。
やがて、富士、上九の施設からみな出て行き、東京などに移動し、一部の人は外に働きにでることになりました。そうしないと生活ができないからです。事業も立ち上げたりしました。オウムと隠して事業を行っていました。
私は名古屋支部に配属されて、しばらく支部活動をしていたのですが、事件後やめた信徒も多く、道場は閑散としたものでした。しかし、道場を新しく借り直し、勉強会などを開いたり、勧誘活動などを始めていました。しかし、そこは数ヶ月で移動になり、東京で事業の手伝いをやることになりました。
●信者のデザイン関係の会社の担当になる
東京にもどり、デザイン関係の会社を見ることになり、一般からデザインの注文を請け負って、それで生活費を稼いでいました。オウムとばれないように気を使い、なれない化粧をする人もいました。服装にも気を使ったりと出家生活も形態が変わってきました。
いままでは社会と接することはあまりなかったし、事件前でしたら、変な目でみられることはなかったのですが、事件後は、やった頃から見ると当然のことですが、オウムというだけで、敬遠されるような時代でしたから、大変でした。
一般社会の中で、私たちは肩身の狭い思いをしていました。テロ事件を起こした団体ですから、当然といえば当然ですが、信者の中では、まだ、宗教弾圧だという観念が残っていました。信者の中には、社会の否定的な情報はシャットアウトしていましたから、事件を教団がやったと思っていない人もいました。
信者の中では、以前として、すばらしいグルを信じることが帰依のあかしである、という考え方がありました。99年にハルマゲドンがきて、悪業を積んだ魂は滅び、自分たち善業を積んだものだけが生き残るという希望をもとに、生きていたような部分もありました。
今から思うと本当に盲信と妄想の世界に生きていたように思います。世間のことを待ったく考慮しない自己中心的な世界でした。現実を見ようとしない弱さがあり、自己の世界を守りたいという気持ちが強かったように思います。
●ハルマゲドンの預言を信じていたこと
麻原の予言で、ハルマゲドンは99年に必ず起きるといわれていましたから、みなそれを信じて、修行をして功徳を積んでいました。私も中学の頃読んだノストラダムスの大予言の本を信じている部分もあり、ハルマゲドンは来ると思っていました。
97年に奇跡的に破防法が棄却になり、みんなやはり、神々の守護を感じていました。真理は絶対だと思っていました。守られていると。そして、この97年は、教団では、真理元年といわれ、「麻原の空」が広がったのだ、という解釈がされていました。
その頃、パソコン事業が勢いをつけ、ものすごい収益をあげていたようで、教団の財産は潤っていきましたが、ここは教団とは関係ない会社としていました。しかし、裏ではつながっていました。
師といわれる人が定期的に会合を開き、今後の方針などを話っ合っていました。事業関係者の話し合いは野田さんが中心になっていました。教団はこのような嘘も教団を守るためなら平気でやっていました。
財施部といって、普通に外で働く人たちのグループもいました。オウムとばれないようにするのが大変そうでした。たまにばれても雇ってくれるところもあったりしたようです。
外で働くことは、慣れていない人にとって大変そうでした。
そのうちデザイン会社はなくなり、私も外で働くようになりました。会社勤めをしていたのですが、大変でした。化粧をして普通の服装をして、普通のものを食べることもたまにありました。
しかし、修行者だという誇りをどこかに持っていて、自分を保っていました。それはオウムで培ってきた自分たちは特別な選ばれた魂なんだというプライドだったのかもしれません。
教団は99年のハルマゲドンに向けて、サバイバル準備をしていたようです。さまざまなものが配られました。サバイバルグッズといって、非難するときに必要なものがリュックに詰められて配布されました。しかし、結局ハルマゲドンは起こりませんでした。グルの予言ははずれたのですが、みな現実を直視しようとはしませんでした。盲信しているので現実が見れないのです。
長老部はそのころ、麻原の子息と正悟師が対立していてうまくまとまっていませんでした。私自身ある正悟師が三女や長女に対して怒っていたのを聞いたことがあります。上層部がまとまってなく、このままでは教団はあぶないなあと感じていました。
そして99年12月に教団は社会に対して、正式に謝罪し、記者会見を開きました。しかし、上層部はバラバラだという雰囲気が強く、捕まっていた上祐氏が出所して、ようやくまとまるきざしが見えてきました。
●2000年以降、上祐氏の復帰で社会融和路線へ
しかし、オウム新法がかかり、教団は観察処分を受けることになりました。立ち入り調査という検査を定期的に受けるようになり、協力しなかったりすると、活動が停止されることになったのです。上祐氏が教団に復帰したころ、三女や長女が事件を起こし捕まるということがありました。そのうち長女は精神的におかしくなってしまったようです。子息も大変なのだと思っていました。しかし、子息に対する神格化は崩れていきました。
上祐氏が復帰して、麻原の予言ははずれたのだという発言があり、ショックを受けました。絶対だと思っていたグルが間違っていたというのは、なかなか受け入れがたいものでした。そういう人は多かったように思います。
そして、観察処分のもと、社会融和路線が徐々に引かれていきました。賠償金も支払う契約を破産管財人と交わしました。麻原の写真は祭壇からはずし、こっそり隠して持つようになりました。表向きは麻原信仰は隠し、見せないようにしました。その実、裏では、写真を持っていたり、説法を聞いたり、ビデオを見たりしていました。まだ心から麻原をはずすことは無理でした。
私は外の仕事をやめ、内ワークに戻りました。しばらく修行したあと、MIROKUと呼ばれる本部で総務のワークをやるようになりました。上祐氏は分裂しそうな教団を建て直し、アーレフという新教団を立ち上げ、支部活動も活性化してきました。説法会を毎月開き、セミナーも定期的に行い、宗教団体としてなんとか動きはじめました。
しかし、支部活動にはどうしても限界がありました。事件の影響でやめた信徒も多く、新しく入信する人も昔に比べたら、ごくわすかでした。あれだけのテロ事件を起こしたのですから、当然のことといえば当然ですが。本当なら解散するべきところです。
支部活動だけでは財政的にはまだまだやっていけず、外で働く人はまだまだたくさんいました。宗教団体として昔のようにやっていくには、社会に受け入れてもらう必要がありました。麻原は社会で受け入れられないので、麻原から脱却していく必要がありました。
●麻原の現実を直視する辛さに悩む
上祐氏はそのため、徐々に方針を変えようとしていました。麻原をはずしていかないと法則の流布すらできない状態でした。そのため、麻原から自立する説法を何回も繰り返してみんなの前で行いました。
麻原はいずれ死刑になり、もう戻ってこない、自立しないといけないと力説しました。私は麻原がいずれ帰ってきてくれて、みんなを救ってくれると心のどこかで思っていましたので、その発言はショックでした。やはり盲信と妄想の世界にどっぷりはまっていました。
私の中には麻原に対する依存心がまだまだ残っていました。グルを意識してグルの意思を100%実行することが成就への決めてと刷り込まれてきましたから、グルがいなくなることのショックというのは、ものすごいものがありました。次の成就もできなくなるし、これからどうしていったらいいのだろうかという思いで苦しみました。
グルがすべてという人にとってはグルをはずすことは、自分をなくすことにもつながります。それゆえ、みんなが麻原から脱却し、自立していくことは、ものすごい困難な作業でした。
埼玉にある大きな施設にみんなが集まり、上祐氏中心に麻原をはずしていく話し合いがもたれました。納得した人もいれば、なかなかついていけないような人もいました。事件を教団がやってないと思っている人もいました。参加しない人もいました。まだまだ抵抗感がある人がいたようです。グルをはずすと地獄に落ちるという話もあるので、どう考えたらいいか迷う人もいました。
事件を起こしたということを直視せず、まだまだ自分たちの世界優位でした。
●麻原の家族が、上祐氏の改革を止める
信徒にも説明が行われました。そうして教団が方針を転換していこうとしたときでした。突然上祐氏が修行に入ることになりました。その背後には麻原の家族の存在がありました。捕まっていた麻原の妻の知子氏が出所してから、何やら裏で動ききがあったようなのです。正悟師が裏で麻原の家族とひそかに会い、上祐氏がグルはずしをしているからおかしいと話していたらしいです。
シャクティーパットでカルマを受けてその浄化するためという名目で上祐氏が修行に入ったあと、正悟師がリーダーとなって会合が開かれたことがありました。その中で上祐氏がグルをはずしたこととか、シャクティーパットをグルのいないところで行ったとか、グル化しているとか、いろいろ問題があるということが話されました。そしてグルは麻原だけだと強調したのです。
ふたたび教団は麻原を信仰するようになりました。麻原の写真が個人祭壇には置かれるようになりました。そして、荒木浩氏を中心にお話会なるものがはじまり、いかに上祐氏がグルはずしをして悪業を積んだかをあちこちで話してまわりました。
その背景には麻原の家族の存在があったようです。家族は教団とは表だってかかわれないので、裏で指示をして、教団を支配していました。
そのころ私は、メディア関係のワークについており、出版活動もはじめ、上祐氏の書籍を3冊くらい出版していたのですが、これは麻原の家族の指示によって販売中止になりました。グル以外の書籍を出すことはよくないということでした。私はそんなバカなと思いました。法則を広める方が大事なのではないか思いました。
とにかく、極端なその考えについていけませんでした。荒木氏は過去の麻原のお言葉をあげては上祐氏は間違っていると批判し続けました。グルの意思というのが何なのかをグルのお言葉に基づいて、解釈して正当性を主張していました。それが本質より枝葉を重視している感じで何か違和感を覚えました。
そのグルを意識していれば救われるというノリについていけませんでした。法則を実践しなければ意味がないと思いました。何かおかしい・・・・そう思っていました。
●事件の原因について探求する
私はお話会とかにうんざりしてしまい、批判をしてもしょうがないのにと思ってました。やがて体の調子が悪くなり、肝臓が痛むようになり、療養もかねて修行に入りました。
そして、そのときに時間がとれたので、心理学と宗教について勉強し、まとめていきました。というのは、事件以外の部分のオウムの教え、すなわち、仏教の教えは、心理学的にもまちがってはいないということを検証したかったからです。
そこで、トランスパーソナル心理学や心理学者のユングの本を読み直し、心理学と仏教との接点を検証していきました。すると、心理学と仏教は、やはり通じるものがあることがわかりました。心理学的にも、仏教の教えは正しいと考えられると思いました。そして、これは、(ひかりの輪において)今でも私が、仏教の修行を続けている理由の一つになっています。
しかし、オウムでの仏教の教えについては、特に密教的な教えの解釈になると、麻原の都合のいいように解釈されてしまったと思います。また、密教の教えに限らず、釈迦牟尼が説いた初期の仏教の教えについても、その一部の解釈には、大きな問題があったのと思います。
●麻原の事件も、自分たちの心の現れだと考えるに至る
また、この期間に、オウム真理教の事件がなぜ起きたのかも、心理学的に検討してみました。
その結果として、一連の事件も、それを知らなかった私たちと全く無関係ではなく、私達信者の潜在意識の働きと関係しているのではないか、と考えるようになりました。これを仏教的に表現すると、「私の業(カルマ)」によって起きてしまった、と言うことになるかと思います。
もちろん、麻原の責任は最も重いと思いますが、しかし、麻原を中心としたあの教団の全体の流れは、私達信者の潜在意識の働きが作り出しており、言い換えれば、信者には、刑事責任はない物の、精神的・宗教的な責任があるのではないか、と思います。これについては、わかりにくいかと思いますので、以下に説明します。
私が読んだユング関係の本では、ドイツが第2次世界大戦に入っていった原因が分析されていました。それによると、その原因は、単純にヒトラー・ナチスが悪いというのではなく、その当時のドイツ国民全体の潜在意識の中に、戦いを挑みながら、最終的には自滅に至るような要素があった、と分析されていました。
実は、ユングは、第2次世界大戦がはじまるより前に、約十年間の間、ドイツ人の精神病患者の多くを治療する中で、その人達の夢に、「ラグナロック」という、ある北欧神話と共通する要素を多分に満たしているという事実を発見していました。このラグナロックと呼ばれる北欧神話では、世界の終末において、神々と巨人族の壮絶な戦いが起こり、その中で、巨人族だけではなく、神々も滅びるという内容です。
この夢分析に基づいて、ユングは、今後、ドイツ人が、大きな世界的な破局を呼び、最終的には、自己破壊に終わるだろうと予言しました。そして、それが、ナチスドイツによる世界大戦の勃発とその破滅という形で、見事に的中したのでした。わかりやすく言えば、ドイツ人の深い潜在意識の中にある闘争による自己破滅の欲求が、現実に、表面化したと言うことです。
この例から考えられることは、この戦争は、ヒトラー(とナチス)の狂気によって起きたというのではなく、当時のドイツ国民全体の潜在的な欲求が表面化して生じたものであり、仏教的に言えば、業(カルマ)として起こったものだと思います(仏教では、業とは、ある時期まで潜在しているものの、時期が満ちる、表面化して、何らかの結果を生じさせる潜在的な力を言います)。
これを学んだ私は、オウムの一連の事件も、それを知らなかった私達信者と無関係ではなく、私たち信者全体の集団の業(カルマ)、すなわち、潜在意識にあった自己破滅に至る闘争の欲求が現象化したものではないかと考えるようになりました。
実際に、一連の事件は知らなくても、教団の信者は、皆、麻原と共に、89年頃からは、教団の主張を信じ、社会との摩擦・闘争状態の中にあり、また、事件発覚前の93年頃から始まった、より闘争的で破局的な、きな臭い雰囲気の中にあっても、その教団に疑問を持ってやめることなく、むしろ逆に出家したり、より積極的に活動していたからです
こうした意味で、その意味では、刑事責任はなくても、信者みんなの心・意識は、一連の事件とつながっている部分があって、その意味での責任があるのではないかと思うようになりました。これを具体的に言えば、実際に事件を実行した人だけでなく、まわりにいた私たちの心の中にも、事件を実行した人と同じ精神的要素があったと思うのです。
例えば、あの当時の教団の中にあっては、皆が、麻原を神の化身で、絶対であると信じ込んでおり、社会・国家権力は、教団に毒ガスを撒くなど、恐ろしく不当な弾圧をいしている悪魔の集団と信じ、加えて、ハルマゲドンが起こると信じていました。ですから、実際に事件を実行した信者でなくとも、麻原に指示されたならば、事件を実行していた可能性があると思います。
このことを私はユングのこの事例を読んで実感しました。
こうして、自分の中にも、麻原やその指示を受けて事件を実行した人達の要素があるということを認識するのは、事件を知らなかった信者にとっては困難なことではありますが、直接事件にかかわっていなくても、同じ集団に属し、同じ思想・信条を共有していた点では、宗教的には同罪である一面があり、それを自覚した私は、自分達なりに、この罪を一生償っていく必要がある、と思いました。
そして、麻原の言動についても、私達信者の潜在的な要素を投影したものとして、自分の問題として、反省しなくてはいけないと思いました。実際に、私個人について考えても、私の潜在意識の中には、麻原と似た要素があると思います。
例えば、若いころに陥った、自分の欠点・暗部を見ることなく、自分の問題・不遇をすべて他人のせいにしてしまうといった性格的な傾向です。私も、麻原と同じように、自分の苦しみの原因を家族のせいにしたり、周りの人のせいにして、自己を正当化しようとしていた面がありました。
そして、大人になっても、麻原は、悪いのは社会で、自分や教団ではなく、全ての問題を社会のせいにして、事件を起こしてしまいました。そして、私も、その麻原の社会観をそのままに信じ込んでしまいました。この部分は、しっかり反省しないといけないと思いました。
そしてよく考えてみると、麻原の「自分の教えが一番正しい」という傲慢さ・独善性が、私自身の中にもあるのだと思いました。「自分は、救済を考えて、修行しているすばらしい人なんだ」というプライドを肥大化させていたのではないかと思いました。
こうして、妄想的なまでに、「自分は他人より優れている」という意識を形成し、傲慢になって、その結果として、「自分達は救済のためなら何をしても許される」という考えにもはまってしまいました。
これは、私が、子供の頃から、他より良い成績を取ろうとするなどして培ってきた闘争心などにも通じる面があると思います。自分が他より優れた存在であることによって、プライドを満足させるという傾向が強かったと思います。特に、若い頃は他の人を称賛するのがとでも苦手でした。
そして、まだまだ明確に自覚できていない部分としては、自分も、麻原が陥ったような特殊な精神状態・立場・条件に置かれた場合は、その傲慢・狂気によって、場合によっては、殺人を犯すような攻撃性、暴力性、自分に敵対する物存在は許さないという支配欲求が生じうるかもしれない、ということです。
今後とも、自分の中のこのような要素を厳しく客観的に認識するように努め、決して以前のような悪い方向にはいかないようにコントロールしてくことを決意しています。
●上祐氏が教団活動に復帰する
私が、こういった検討をしている間に、教団では、正悟師と麻原の家族の間にも溝ができていったようでした。
野田氏は麻原の家族のやり方についていけない感じでした。麻原の家族は現場を知らないで指示してくるので、現場との温度差があったようでした。しかし反論をすると長期修行に入れられるという処置がとられるので何もいえないようでした。
やがて、体の調子も良くなったので、外に働きに出ることにしました。これから教団はどうなっていくのだろうかと思いながら職を探しました。なかなか見つかりませんでしたが、派遣で事務の仕事を転々としました。
二宮氏や杉浦茂氏を中心として、家族との折り合いが合わなくなり、上祐氏に修行から出るべきだといったり、家族の教団運営のやり方に反発する正悟師がでてきました。上祐氏はそこで修行から出て教団運営にかかわろうとしました。
上祐氏がでるころ、私はたまたま派遣の仕事が終わり、上祐氏の秘書室でワークすることになりました。どちらかというと争いは嫌なので、みんなが仲良くしてほしい、という中立的な立場でしたが、反上祐派の人たちは、上祐氏が教団運営にかかわることをかたくなに拒否しました。それはものすごい圧力がありました。
その頃は麻原の家族の息のかかった人を中心に運営がなされていました。正悟師もいうことをきかない人は長期修行に入れられていました。師の人が中心になっていった部分もあります。
上祐氏は教団運営にかかわれない中で、縁のある人を集めて話をしていきました。一部の有士で真実を考える会を作り、会合を開き、上祐氏を擁護する話もしました。
●上祐氏のグループで聖地巡礼や勉強会を行なう
そのような中で上祐氏は聖地と思われる自然の中に旅に行き、思想を固めていきました。その頃は諏訪の民宿で過ごすことが多かったようです。自然の中はプラーナが多く、癒されるようでした。
また、雪の戸隠にも行きました。雪の中にテントを張り、キャンプをしましたが、とても寒くて眠れませんでした。奥社までの雪道を歩いて登って修行をしました。そこは、浄化される感じでした。
鳥居の前で立位礼拝をしているところを近くの誰かに見られたのか、オウムとばれていました。後日戸隠に行ったことが、教団に知れ渡り、神社に行ったということで、反上祐派の人から魔境扱いされてしまいました。他宗教は外道と呼ばれて、お参りするなどタブーとされていたからです。
それは戸隠問題として大騒動になりました。もともと戸隠は修験道の聖地で、昔は宿坊がたくさんあって、山岳修行として栄えたところであり、日本の三大聖地のひとつでした。それでもいろいろいわれ、問題視されました。戸隠は、私は以前の部署でみんなでキャンプしにきたこともあり、神社というより山というイメージの強いところです。
上祐氏はこのままでは教団が行き詰ると、外の会場を借りて勉強会を開き始めました。各支部の信徒にも勉強会を始めました。そこに集まった人で話を聞いて賛同した人は上祐氏に協力的になっていきました。
●はまったグルイズムからの脱却に苦闘する
しかし、アーレフ代表派の時代には、グルイズムにはまった人の考えを変えるのは思った以上に難しく、最初のうちは、グルをはずすことがグルの意思だ、という方便が用いられたこともありました。
もちろん、こういった方便は、しばらくした後、代表派の成長と共に、行わなくなり、ついには、麻原に対する依存から完全に脱却することを皆で話し合って決意し、具体的には、全ての麻原の教材を破棄することにしました。そして、その後、アーレフからの脱会に至りました。
また、脱会して、ひかりの輪を設立した後も、決して後戻りしないように、団体として総括の作業を行ったり、個人の総括についても、それを皆で分析しながら、繰り返すなどして、努力を継続的に続けています。
しかし、その当時は、私自身も完全にグルイズムから脱却できているわけではなく、その過程にありましたから、麻原から自立するのは大変でした。長年培ってきた思考を変えなくてはいけないので時間がかかりました。
世間から考えるとただの恐ろしいテロ集団でしかないのに、そのような客観的事実を直視することなく、自分たちの世界に閉じこもって他をかえりみないという性質を変えていくのは、容易ではなく、時間のかかる作業でした。
よって、最初頃は、自分達の反省を直接的にするのではなく、他のことを考えるということから、私は始めていきました。
それは、本当の四無量心(仏教で言う愛)は、自分のことより、他のことを考えるという実践です。それを考えると、世間に不安を与えている自分たちを変えていく必要があると考えました。
私が執着していた麻原は、客観的には殺人者でしかありませんでした。私が、それを正しいと信じているならば、それは一般の人にとっては、私達が怖い団体としか思えないのは当然のことである、と考えるように努めました。
これまで、客観的に見れば、自分たちの世界しか見ようとしなかった私にとって、これは、一番必要な利他の実践ではないかと考えました。
今から思えば、自分達の罪を反省し、麻原の信仰をやめるのが当然のことであるのに、それを利他の実践などと言うことは、あまりにも偉そうなことですが、当時の私達としては、自分の(存在意義の)全てでもあった麻原をはずすために、このように考えた次第である、と理解していただきければと思います、
●その後、どのように自分の間違いに気づき、脱却していったか
その後、私は、麻原のことを絶対視したということが、そもそもの間違いだったのではないかと思うようになりました。単純に言えば、完全な人間などいないのだということに気づいたのです。
なぜ、麻原を絶対視したかというと、その原因は、前にも書いたように、神秘的な現象に対する理解が未熟・うぶで、それに弱かったというのもありますし、加えて、何か依存できる絶対的な存在を求めていたのではないかとも思います。そういう人に依存していれば、自分は楽なのです。自分で考えなくてもその人に従っていればいのです。
しかし、色々と考えている内に、麻原は完全な人間ではなく、神でもなく、絶対者としてはいけなかったと思うようになりました。私達は、あまりにもその力を過大評価しすぎたのではないかと思うようになりました。そして、盲信しすぎた自分を反省していきました。
どんな人間であっても、違法行為やらせるというのは、あまりにもおかしいことであり、完全に逸脱した行為であり、それを信者が肯定したということは、非常に恐ろしいことだと思いました。そして、自分の愚かさを反省しつつ、徐々に、麻原の呪縛から解き放たれていきました。
●教団が分裂し、新団体ひかりの輪に参加する
8月に船橋支部ではじめての上祐氏による説法会が開かれました。そのとき、いわゆる反上祐はであるA派といわれる人たちが船橋に来て支部長をしていた細川さんに出ていくようにいったのですが、細川さんは、それに屈しませんでした。
それから、秋には大阪道場が分裂しました。A派とM派(上祐派)の道場ができたのです。東京、横浜も二つに分かれました。M派はA派とどう努力しても和合することができそうにありませんでした。A派の人はM派を批判し、出て行ってほしそうでした。
96年の7月には世田谷の施設はA派とM派の建物に分かれて住むようになりました。住居による分裂が始まりました。そして次は、経済による分裂が始まりました。
そして、97年の3月にはM派の人は全員アーレフを脱会しました。記者会見を行い、その旨を社会にもお知らせしました。そして5月には新団体「ひかりの輪」を設立しまし、私は役員の一人となりました。
そして、このひかりの輪では事件を深く真剣に反省し、自分達は直接的には事件に関与していないものの、同じ教祖・思想を信じたものとして、謝罪・賠償をしていくこととしています。そして、このような事件を二度とおかさないような、新しい思想・実践をつくることを決意しています。
この点については、一般の方の中で、団体を解散しないことに批判があることは証智しておりますが、私としては、このようにすることが、私たちの責任でもあり義務だと考えました。
大きな問題を起こしたからこそ、その問題の原因を追究して、2度と問題が起こらないように改善することが、本当の意味での責任の取り方ではないか、と思います。なにとぞご理解いただけるようお願い申し上げます。
●宗教の分裂について
さて、教団が分裂にいたり、新団体をつくるという経緯を経験する中で、私は、これらの出来事は、これまでの宗教の歴史が繰り返してきたことと同じだと痛感しました。
同じ宗教団体でありながらも、その教えの解釈のちがいによって、争いが起きることを身をもって体験したのです。それは、自分でも信じられないことでした。同じ宗教団体で争うなんて、想像もしていなかったことです。宗教家なら仲良くやっていけるはずだと思ったのが間違いでした。
しかし、この経験を通して、オウム真理教のような妄信的な傾向が強い宗教の場合は、自分がこうと思ったら、かたくなに自分の信じるものを守ろうとする傾向がある、ということがわかりました。ある段階までは、話合えばわかるはずだと思っていたのですが、お互い平行線で歩み寄ることは難しいものでした。宗教的な考え方の相違というのは、解決が難しいと思いました。
世界の宗教でも、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教ももとは、同じ旧約聖書から派生してきたものですが、とくにこれらの宗教は多くの戦いを行ってきました。自分たちの宗教が唯一正しいものとしていました。旧約聖書自体、選民思想的な色が濃く、自分たちは選ばれた民だとしています。
●私が選民思想だった事に気づいた
そして、この選民思想は、オウムにも通じるものがあります。
麻原は自分をキリストだとたとえていましたし、自分たちはキリストの弟子として選ばれた魂で、真理の実践をしているんだというプライドがありました。他の宗教は外道で、修行をしていない凡夫よりは偉いんだという自負心がありました。麻原はまたそういうことを説法でも言っていました。
このような自分たちの宗教が唯一正しいという考えは、結局それ以外のものを認めず、ひどい場合には争いになることに、私は、自分の体験を通して、気づきました。そして、今後の宗教のことを考えると、こういった点は、完全に捨て去らないといけないと考えています。そして、お互いのよい部分は認めていく必要があります。
しかし、その前にそもそも宗教とは何かということを考えていかないといけないと思いました。そもそも、宗教というものが、その全体ではありませんが、人間をおかしくしている部分もあるのではないかと思うようになりました。
それは、自分たちが正しいと思い込んでいるからこそ、なおさらある意味で難しい問題ではないかと思います。自分たちが悪いと思っていれば、改心しようと思いますが、正しいと思っていれば、ないしは、信仰上、そう思わなければならない状況であれば、なかなか改心はできません。私も、オウムの中で、その一人でした。
その時、以前読んだ心理学者のケン・ウイルバーの著作(科学と宗教の統合)の内容を思い出しました。彼は、その著作の中で、今後、科学と宗教が歩みよる上では、本物の宗教に、その資格があると語っています。
彼によると、宗教の本質的・根本的な目的は、それを信じる人々が、自と他の区別を超えた(自と他を平等に尊重する)「非二元」、「一元」の意識・世界観にいたることであるとして、その上で、それに至る方法・手段を多くの宗教の創始者は提示していたはずだが、時代を経るにつれて、その本質的目的よりも、手段・枝葉の違いに捕らわれるようになってしまたった宗教が多くなった、ということです。
わかりやすく言えば、教祖が、方便・手段としたことを絶対だと思ってしまい、それをすべてにあてはめてしまう傾向がありますが、これは、本質を見失って、本来の目的からはずれてしまう危険性があります。その辺をしっかりと見極めることが、とても重要になってくると思いました。
●宗教を見直す必要があるのではないかと思うこと
こうして、私は、あらゆる宗教について、根本から見直しをしないといけないのでは、と思うようになりました。そもそもの宗教の目的はななんなのか。そもそもは、自と他を平等に尊重し、全てを愛するという「一元」の意識に至るための方法・手段としてできたものであり、そのためのいろいろな修行法が創始者によって作られたのが宗教の本来のあり方だと思います。
そして、自分たちの方法が唯一絶対の道だと思うのは、自分の経験からしても、とても危険なことだと思います。なぜなら、自分たち以外のものを排除したり、弾圧したり、攻撃したりするからです。それがひどくなると殺人や戦争にまでなります。
オウムの事件も同じように、麻原が社会から弾圧を受けていると考え、自分たちが一番正しく、真理の実践をできる国にするのだと、あのようなテロ事件が起きてしまったのだと思います。
麻原はオウムの教えこそが真理であり、それ以外の宗教は外道だとしていました。私もそれを信じていました。教団以外の本は一切読んではいけなかったし、情報も捨断するようにいわれていました。
ですから、出家してからはオウムの教えのことしかしらず、ある意味他の宗教がどんなものなのかはわからないのです。自分たちの教えこそが真理と信じ込んでいますから、他の宗教と比較のしようもありません。麻原を常に観想することこそが大切と教えられてきたのです。
また、社会はオウムを弾圧しているということをよく麻原は話していましたが、今思うと麻原は被害妄想気味のところがあったのではないか思います。そして、宗教弾圧ということばが良く使われていましたが、そこから社会を敵視するようない、特に選挙で負けたことも票の操作が行われたと考え、そのころからヴァジラヤーナ的になっていったと思います。そして、当時の私は、麻原にそういわれると、自分も、そういうものだと思い込んでしまいました。
これに身近に感じたのも、A派のM派に対する排除のやり方でした。本当に自分たちのグルを外そうとするものは、批判、攻撃、排除ということをしていました。実際自分で体験して怖いことだと思いました。でもそれは、かつての自分が社会に対して行ったことであり、自分の過去の姿を映したものでした。
そして、オウムは結局自分たちの教えが一番正しく、あとは外道だといって一切受け付けませんでした。それによりプライドが高くなっていったと思います。傲慢でした。
そして自分たちの教えを世界に広めることが救済だということにつながり、そのためにはどんな手段でも使うというような危険思想に走っていきました。ヴァジラヤーナの教えは本当に危険です。救済のためなら、違法行為もやってもいいという解釈をしてしまう教えです。
●自分の過去としてのA派の人たちの問題
A派の人たちについては、かつての自分の姿ですから、ある意味で、その気持ち=意識状態については、よくわかります。
彼らはかたくなに麻原信仰を続けようとしています。その背景には、麻原を否定してしまったら、転生がこわいとか、来世一緒に転生したいとか、地獄に落ちたくないとかいろいろな気持ちがあるようでした。麻原をはずすことは、それまでの自分を否定することにもなり、精神のバランスを失うと恐れている面があると思います。
しかし、これは、本来の目的である愛の獲得(仏教的には四無量心・慈悲など)と、それを実現する手段(=修行法)ということを考えることがなくなり、目的を見失って、手段にとらわれてしまっている状態だと思います。
そのため本来の目的の四無量心から外れて、社会と対立したり、人を批判したり、自分たちだけが選ばれた修行者だとプライドを満足させていたり、麻原の枝葉の言葉にとらわれて、修行の本来の目的から遠ざかっているような感じでした。
自分たちの世界に閉じこもって、現実を見ようとせず、事件も直視せず、麻原信仰をすることで世間に恐怖を与えるということも考えていません。むしろ、自分たちは選ばれた魂だという誇りをもって修行しているのです。
●グルイズムの間違いと気づいたこと
こうして、グルイズム(麻原などのグルとされる人間を神の化身として信仰するタイプの信仰実践のこと)がすべてになってしまった呪縛から解き放たれるのは、結構大変なことだとは思います。
私自身も、このプロセスは、なかなか大変でした。その過程では、上祐氏の話などを聞いて、自分なりに考えて、ショックを受けながらも、乗り越えてきました。
その過程においては、当時の私にとっては、グルイズムは、解脱に至るためのひとつの手段に過ぎず、他にも修行のしかたはあるのだということを受け入れるのが、容易ではありませんでいた。
というのは、オウム真理教の私たちには、グルイズム以外にも修行の道がある、という考え方が少なすぎて、グルがすべてだという教えしかなかったのです。そして、麻原以外のグルを見いだせなかった私達にとっては、麻原をグルとして否定するということは、修行の道が全くなくなることだと思いこんでしまっていたのです。
しかし、アーレフ代表派の中で学んだこととして、例えば、仏教開祖の釈迦牟尼は、グルイズムを説いていないということがありました。釈迦牟尼は、信者が、釈迦牟尼を拝むことを禁じた人でした。そして自分自身と教えを根本とするように説きました。仏教の開祖が、グルイズムを否定していたのでした。
こういったプロセスを経て、私の中で、グルイズムが絶対、麻原だけがグル、といった考え方が解消されていきました。
●霊的な現象に対する無智に気づいたこと
そして、こういった検討の中で、私は、麻原を神格化してグルとしてあがめた大きな要因として、その霊的な現象に安易にはまってしまったということに気づきました。
つまり、麻原に、霊的な力があると感じて、それを過大評価し、すごい人だと思ってしまい、この人のいうことは、全部正しい、何ひとつ間違っていることはない、と思い込んでしまったのです。
しかし、客観的に見れば、霊的な力を持っている人は世の中にいくらでもいます。前述したように、例えば、自然と調和して生きているオーストラリアのアボリジニーも持っていると言われていますが、彼らは決して自分達を神の化身とか、絶対者の化身とは考えません。
さらに言えば、動物も、動物的な感と言われるように、人間から見れば、超能力を持っています。そういった力があっても、それが神の化身の証明では全くないのです。特に、霊的な能力と、心の成熟とは違うものであり、それにとらわれると、とんでもないことになるということに私は気づきました。
また、麻原の霊的な能力の程度も、客観的に見るならば、それほどすごいものではないと思います。教団の誇大な宣伝や、信者一人一人の依存心・期待感が、それを過大評価したこともあると思います。しかし私自身、この神秘力にはまってしまったということができます。書籍の言葉をそのまま鵜呑みにして盲信していました。
しかし、それにはまってしまった個人は、それを冷静に考えられなくなってしまいます。
場合によっては、むしろ考えたくない、すごい人が自分のグルなんだという喜びにしたいという気持ちに圧倒される場合もあったと思います。
こうして、人を判断するときに、霊的な力を持っているから、神のような絶対者だと考えて、安易に依存していくのは、大きな間違いでした。また、信者も、自分たちはそのようなすごい力を持っている集団だということで、プライドも生じ、傲慢になっていたように思います。本当の悟りとは、そのような霊的な能力にとらわれてはいけないものでした。
この点における自分達の無知を深く反省して、依存から脱却していかないといけないと思いました。
●オウムが敵対したのは、自分の投影であったこと
また、検討の中で、自分達には、被害妄想と誇大妄想の傾向、そして、その背景として、自分達の妄想的なまでの支配欲求・闘争心といった問題があることに気づきました。
例えば、教団側が、麻原をキリストとして、世界を支配するという欲求を持っていました。そういった欲求を背景として、自分達は、現実に世界を支配している米国や、日本の国家権力、そして、闇の支配者とされるユダヤ・フリーメーソンといった(架空の)存在に、弾圧されるのではないか、という被害妄想が生じたのだと思います。
すなわち、自分達側の支配欲求、闘争心といったものが、作り出した幻影の弾圧だったのです。いわゆる「自分達の影」におびえたに過ぎなかったのです。
これは、私が調べた心理学でよく指摘されている問題であり、心理学的いえば、こういった現象は、自分の中の影の要素を自分で直視したくないために、まわりが悪いことにしてしまう、という問題です。すなわち、教団は、自分の影を社会に投影してしまったのでした。
具体的には、日本におけるユング心理学の第一人者であって、前文化庁長官である故河合隼雄氏は、次のように述べていました。
「影を認知し同化することのむずかしさは、われわれに投影の機制をフルにもちいさせることになる。自分の内部にある認めがたい影を他人に投影し、とかく悪いのは他人で、自分はよしとするのである。このような傾向が一般化し、一つの民族や一つの国民が、その全体としての影を何ものかに投影するような現象も、全世界を通じてしばしば認められるのである。たとえば、ある国によっては、他の一つの国民を全く馬鹿にするとか、悪人であるときめつけて考えるようなことが非常に多い。中略
内部にあるはずの悪を他にあるように信じることは、何と便利なことか。このことを知っている狡猾為政者は、適当に影を投影する方法を探し出すことによって、全体の団結を高める。その顕著な例として、ヒットラーによるユダヤ人の排斥をあげることができるだろう。」
(「ユング心理学入門」河合隼雄著)
そして、この教団の被害妄想的な傾向は、単に教団の問題ではなく、若いときに、悪いのはすべてまわりのせいにしてきた自分自身の姿でした。私自身は事件には直接かかわってはいませんが、私の中にあるこのような心の穢れが教団に投影され、事件にもつながったのだと思います。
今後は、自分の中にあるこういった被害妄想や誇大妄想、プライドや闘争心などの心の歪みを徹底的に修正して、周囲・社会を敵視することなく、すべての人々に奉仕するつもりでがんばっていきたいと思います。
そして、被害者・遺族の方々には、本当に申し訳ないことをしました。心からお詫びした上で、できるだけの賠償に努めたいと思います。
●最後に、教団信者と日本社会のとのつながり
そして、この総括の最後に、二度と事件を起こさないようにするという全ての人の利益のために、事件の原因を完全に解明する上で、誤解を恐れずに言及したいことがあります。
それは、より視野を広げて考えるならば、オウムは、事実として、教祖から信者まで、全て日本で育った人たちでできた日本の新興宗教団体であり、そうである以上は、それを生み出した日本社会の暗部のカルマ・業の投影である、という側面は否定できないのではないか、と思います。
これをユング心理学的に言うならば、日本人の集合無意識から浮上してきたある種の共通の要素によって生まれた教団とその事件だった、とも言うことができます。それは既に事件発生の10年くらい前から浮上していたかもしれません。
そうではなく、私を含めて、オウムに入った人間が、日本社会の中では突然変異体であり、全く特殊であって、オウムに入らなかった人間とは、全く違った人間だったのだ、という見方もあるかもしれません。
しかし、一万人を超える多くの日本人が、オウムに入った事実を考えれば、私のようにオウムに入った人と入らなかった人は、全く違った人間だったのではなく、その当時の精神的・肉体的・環境上の様々な条件によっては、立場が入れ替わっていた可能性があるかもしれないと思います。
団体の総括にもありますが、日本の学歴社会、競争社会、物質主義、個人主義などで育まれている自己中心性があり、また、日本の過去の暗部としては、大日本帝国の妄信的・狂信的な戦争行為がありました。
さらには、最近で言えば、経済活動のバブルの崩壊に見られるような妄想的な自己実現欲求とその結果の自滅的な崩壊など、オウム信者に限らず、社会全体に広がった様々な精神的な歪みや問題点が、オウム教団と一連の事件の発生の背景要因として、存在しているのではないかと思います。
その意味で、日本社会の暗部・陰として産み出された教団だったのではないかと感じます。今後、私は、ひかりの輪の活動の中で、自分たち自身の反省・改革に全力を尽くしながら、二度と私たちと同じようなことが起きないように、一般社会全体に対して、最善の奉仕を行いたいと思います。
また被害者の方には謝罪のしるしとして、賠償金を支払うということは一生続けていきたいと思います。
以上をもって、私の総括を終わらせていただきたいと思います。
2008年9月2日
田渕智子
田渕智子