指導員・会員の総括

田実恵理子 オウム・アーレフ時代の総括と、なぜひかりの輪に

『オウム・アーレフ時代の総括と、なぜひかりの輪に参加したのか』

<初めて無常を感じた出来事~中学時代>

 中学1年までの私は、多くの友人に囲まれ、極々普通に毎日を過ごしていました。中1のクラスはとても仲がよく、楽しい思い出しかないような日々でした。
 
 中2のとき、私の人格形成に、大きな影響を与えた出来事がありました。当時私は運動部に入っており、放課後も休日も、部活動の仲間と一緒に過ごしていて、親密な仲間意識を持っていました。

 ある日突然のことでしたが、私が「先輩に同じ部活の仲間の悪口を言いつけている」という噂が、学年中に流されたということがありました。まったくの濡れ衣で、まさか皆がそれを信じるとは、夢にも思わなかったのですが、信頼していた友人が、それを簡単に信じてしまい、その影響で、学年中から無視されるという日々が続き、靴を隠されることなどもありました。

 常に友人に囲まれ、どちらかというとちやほやされており、そういったことは初めてで大きなショックでした。このとき、ストレスで肉体が衰弱してしまい、検査にいった病院で、少し血液を抜いただけで、意識が朦朧として倒れてしまったほどでした。

 時間がたつにつれ「あなたがそんなことしていないのはわかってるよ」と、理解してくれる友人が増えていきました。学校に行けなかった日もありますが、つらくともできるだけ通っていました。そこには母の支えも大きかったのですが。

 私は今振り返ってみても、ある程度気が強かったと思いますが、同じような環境がエスカレートして、登校拒否になったり、思い悩み死を考えるような人もいる中、そういった気持ちを少しでも知ることができたことは良かったと思っています。

 数ケ月もすれば、ほとんどの人間関係は元に戻りました。関係が戻らない人もいましたが、大きな落胆はありませんでした。中学の卒業文集に「つらい出来事があってよかった」と、「ありがとうと言いたい」などと当時のことを書いていました。そんな人格者だったとはとても思えないのですが(笑)不思議ですが、今振り返っても強がりではなく、わりと本気で「良かった」と思っていたと思います。

 実際、その出来事がなければ、私は人の気持ちが今よりわからなくなっていたと思いますし、進学した学校も変わり、出会う人も変ってしまったと思います(おそらく遊ぶ方向に行っていた)。そこで初めて、人の心が無常であること、予測もしないような理不尽なことがおき、続くと思っていた安定が壊れるということはあるのだと(後に「因果応報」の考えを知ることになります)、身をもって感じたのでした。


<多様な事をしていた高校時代>

 高校時代は、一言で言って「とても楽しかった」日々でした。後にその楽しさを越えるものがなかなか得られず、トラウマになるほど良かったと思える時代でした。通っていた学校には制服がなく、いろんなタイプの人が混在し、しかし存在を認め合っているような感じで和気藹々としていました。

 ここで、私は運動部のマネージャー、軽音楽部でのバンド活動、アルバイト、学校行事の実行委員等あらゆる事にあけくれましたが、一方、たまたま街頭でした署名から、差別や戦争の問題などに向き合うことになっていきました。

 もともと私のいた高校は、在日韓国・朝鮮人の人が多く、民族差別論の授業や、サークルとしての問題研究会など、皆が日常的にそのような問題を身近に感じていました。そういった土壌があり、問題意識を持ちやすかったというのもあります。

 普通、宗教にしても、思想・哲学にしても、膨大な教え・考え、解釈といったものがあり、自分の考えをしっかり持つ人であれば、それを冷静に幅広く学んだり、検討すると思うのですが、私は年齢が若くて無智だったことと、元来自分の思い込みの「善」の観念が強く、「これは正しいのではないか」と自分が感じるものにあうと、バランスを考えずに、「正しいと思うことが目の前にあるのに、やらない自分は日和見主義なのではないか」と、自分を追い込んでしまうようなところがありました。

 当時の自分は、それが誠実さだと勘違いしていましたが、実際は非常に自己保全が強く、判断基準を吟味せず、行動してしまうという無責任な思考でした。こういった傾向は後にオウムの依存的な人格につながる大きな要因であったと思います。


<立ち止まり、生き方を模索したOL時代>

 もともと高校を卒業したら、進学して、バンドをするか、音楽関係の仕事につきたいと思っていましたが、諸事情ですぐに就職をしました。

 比較的大きな会社のOLになったのですが、このOL生活は、家族を支えるために頑張る人々や、いろんなしがらみの中、淡々と生きている人、日本経済を支える人の実態を見る中で、非常に勉強になり、貴重な時であったと思います。それまでは、そういった「普通」ということを斜にかまえて見てしまう部分があったのです。

 相変わらず社会問題は考え続けていましたが、建前と自分の内面のギャップに疲れてしまい「世界中の誰もが幸せになっても、自分が幸せでなかったら意味がない!」と思う意識状態になってしまいました。

 そして仕事をはじめ、すべてを止めて、いったん自分をフラットにしようと思いました。その頃、ブルーハーツというバンドのコピーバンドのメンバーを、雑誌で募集をしたのですが、そこで応募してきたのが、後に、私をオウム真理教に導き、そして、その後、ひかりの輪に導いた友人でした。

 仕事をやめ、貯金がなくなるまで、バンド活動をしたり、遊んだりしながら、膨大な友人、知人に出会っていきました。このときの友人の多くは、いったんオウム真理教に入り、出家した人もいます。


<オウム真理教への入信>

 入信前と入信後しばらくは、ずっと音楽関係の仕事をしていました。バンドのファンクラブ、レコード店員、ライブハウスの店長、バンドのマネージメントなど、合計10年以上していました。

 あけてもくれても音楽、そして毎日多くのバンドマンと語り合い、休日もクラブにコンサートにと動き回る日々でした。おそらく有名になっているバンドのかなりはアマチュアやデビューしたての無名時代に、見ていると思います。

 1993年の暮れにオウム真理教に入信しました。もともと、「宗教は、心のよりどころのほしい人がするもの」「すがるもの」という感覚があり、自分には全く必要の無いものだと思っていました。

 自分のやりたいことを、ある程度実現して生きていた私は、自分が宗教に入るとは、考えてもみませんでした。が、先述の、仲のよかった友人に強く誘われ、「つきあいで仕方なく入ってしまった」というのが正直な当時の気持ちでした。

 入って1年くらいは、まったく活動をしなかったので、1994年頃の記憶はほとんどありません。身近に話すオウムの友人が、終末思想や、フリーメーソンによる、陰謀論といったものに、相当影響を受けているなということは感じていました。

 当時「ヴァジラヤーナ・サッチャ」という本があったのですが、その極端な書き方や、教団全体に感じる危機意識のようなものに、私は非常に違和感、どちらかというと拒否感をいだいていました。今だから言えることですが「滅亡の日」といった予言系のたぐいのものは、実は今まで一冊もきちんと読んだことがありません。

 入会したとき、オウムの書籍を何冊かもらったのですが、その帯に、「真理の御魂 最聖 麻原彰晃尊師」と書かれているのを見て、すごく嫌な感じがしていました。弟子が教祖をたてすぎていること、もし本人(麻原彰晃こと松本智津夫死刑囚)が自分で、そういった呼び方を弟子に指示しているとしたら、「本当にいやだな」と思っていました。その頃は、そういった、外部から観察するような客観的な感覚で見ていました。


<最初で最後のイニシエーション>

 94年の終わりごろ、富士で様々な教団が「イニシエーション」と呼ばれる儀式・修行が行われていました。

 そして、私もひょんなことから急遽「イニシエーション」を受けるということになりました。それは友人に、「いかない?」と、ひょいと車にのせられ、富士まで行ってしまった、というもので、軽い感じで受けてしまったのです。

 当時何のイニシエーションかもわからなかったのですが、時期と内容からして、「ルドラチャクリンのイニシエーション」と呼ばれるものだったかもしれません。

 このとき、私は現金を2千円しか持っていず、教団が説くイニシエーションの価値もまったく信じていなかったので、後で師が勉強会で「イニシエーションをたった2千円で受けたひどい人がいます」と言って怒っていたことを覚えています。

 そのイニシエーションでは、個室に入り、何か詞章を唱えましたが、私はその時点で、マントラや詞章をまったく覚えていなかったため、何もせず部屋でじっとしているだけでした。

 他の部屋からは「奇声」や「叫び声」といったものも、聞こえていて、異様な感じだったのと、「こんなに深い意識に入ってしまっている人がいるんだな」と思ったのを覚えています。

 終わってから、点滴による、生理用食塩水の注入が長時間ありました。今思えばあきらかに、薬物が体内から検出されないよう、入れかえするためのものだったと思うのですが、その時は「そういえば何か飲んだっけ?」という程度で「薬物」を飲んだ、という認識はありませんでした(おそらく薬に甘い味がついて、ジュースのような感じだったのだと思います)。

 私の場合は、そのイニシエーションの結果、意識がなくなるとか、極度に混濁するという感じはありませんでした。仕事柄、日頃からお酒を大量に飲んでいたため、薬が効きづらかったのかもしれません。

 こうして、富士に初めていった時のことですが、「ウレタンマット」という床のマットや「コスモクリーナー」(空気清浄機のようなもの)など、日常には見ないようなものがあったのを見て、それを私は夢で見ていたのか、「すでにここには来たことがあるし、この臭いはかいだことがある」、「その場所を知っている」といういわゆる「デジャヴ」のような経験をし「不思議なこともあるものだ」と思いました。

 そして、その時、空気中にきらきらと輝くもの(教団では「プラーナ」と呼んでいた)を初めて見たり、イニシエーション後に、様々なきれいな色や光をみたりしました。また、しばらくは、生命エネルギーのようなものが視覚的に見えていました。

 これらの神秘体験は、先述の「デジャヴ」の体験などと共に、「オウムで修行したら、いろいろ面白い体験ができるのではないか」という好奇心を私に起こさせました。

 そして、そういったオウムへの「慣れ」や「好奇心」と並行して、あれほど違和感があった「終末思想」や「陰謀論」といったものに対しても、「もしかしたらあるのかもしれない」と、危機意識を感じるようになっていきました。

 今思えば、神秘体験によって安易に好奇心が生じたと言うことなのですが、当時の私は、こうして、オウムの修行への興味・関心が高まり、しだいに道場に通うようになっていったのでした。


<地下鉄サリン事件とその前後~活動をしばらく離れる>

 1995年に入ってからか、詳細な時期は記憶していませんが、在家信徒の道場においては、教団がクンダリニーヨーガの成就者とする人(以下「師」と表記)が、確か「特別説法1、2、3・・」というような名前で、非常に扇動的な内容を読み上げる説法が、一日数回行われていました。

 そこには、「尊師を信じなさい」といったような言葉が入っていた、と思います。内容ははっきり覚えていませんが、回を追うごとに激しくなるものでした。この説法の確か4か5くらいの時に、事件がおこり、事件後も少しの間行われていたようです。

 支部スタッフの間では、「アジテーション」と言われていたそうですが、実質この説法は、在家信徒を危機意識で煽り、固めるためのものであった、と思われます。

 事件当日私は、実家に帰っていたのですが、その日は何か胸騒ぎがして起きました。そして、地下鉄構内に何かまかれ、死傷者がでているという報道を目にしました。

 そのときは、この前代未聞の大事件を、まさかオウムが行ったなどとは夢にも思わいませんでした。

 そのため、教団が疑われる状況を見て、私は、それまでは半信半疑であった教団が主張していた「陰謀論」というものを、「陰謀は本当だったのだ」と、思い込んでしまったのです。今から思えば、とんでもない思い違いでした。

 そして、もともと出家を勧められても断っていたのですが、こんな危機的な状況になって、「もう出家するしかない」などと、母に対して言いだす始末でした。

 事件後、逮捕者が続出する中で、何人かの人が、犯行や教団の違法行為を自供していきました。それでも、私は、「不殺生の戒を守り、優しい人ばかりである教団の人が、そんなことをするはずがない」と思い込んでいました。

 そして、「弟子の中にスパイがいたのではないか」とか「フリーメーソンに、とりこまれていた人がいたのではないか」など、あくまでも、事件が麻原の指示であることを信じる気にはなりませんでした。

 この時は、麻原個人というよりも、(私が知っている限りにおいては)慈悲深い教団の人達という、団体に対しての親しみが強かったからだ、と思います。

 しかし、私は在家信徒で、新聞、週刊誌、テレビといったものは見られる環境でしたので、さすがに「なんらかの形で、教団関係者がやったのは間違いない」と、早期に考えざるを得なくなりました。

 そして、「なぜ」という疑問と「真相はわからない」(わかりたくない)という狭間で、自宅に警察がきたり、道場にいく度に、警察に名前生年月日を言わなくてはならないような中で、「仕事に支障がでるのではないか」、といった不安・恐怖が生じ、2年くらいは、道場に通わない日々が続きました。


<1998年 活動を再開>

 その間、何度もその時々の担当のスタッフが訪ねてきたり、師が電話をくれたりしましたが、道場へは行きませんでした。

 98 年の夏、担当になったスタッフの方は、家に訪ねてきても「道場にいきましょう」とは、全く言わない人でした。

 教団の教え・法則の話は多少はしていたと思いますが、好きな音楽、お互いバンドをやっていたこと、いろんな興味が一致しており、私はそのスタッフに今までにない親しみを感じていました。

 何度も家に訪ねてもらうのは悪いので、道場ではない教団施設で話をさせてもらうようになり、それも申し訳ないので、その人への義理を果たすため、「一度だけ道場へ行ってみよう」という気持ちになりました。

 そして、2年ぶりくらいに道場に行ったのですが、この時、師と話していると自分の内側から、私自身驚くような意外な感情がでてきました。

 それは「私は今まで法則がなくて苦しかった」という思いでした。それまで「自分が苦しい」とは思っていませんでしたから、これは意識の深い部分で感じていたことだったのかもしれません。そして、その時の私は、「どういう立場になっても、法則は手放さないようにしよう」という強い思いが湧き上がってきました。

 これは、大変わかりづらい話だと思いますが、表層意識の自分は、世俗の仕事に燃え、修行を避けたい、と思っていましたが、潜在意識では、何らかの理由で、そんな世俗の自分に苦しみを感じており、道を求めるような意識があったということだと思います。
 

<在家信徒のバンドのスタッフになる>

 98年の秋に、在家信徒で結成されたバンドのコンサートが、ライブハウスで行なわれたのですが、私は、偶然このバンドのスタッフになり、コンサート制作にかかわることになりました。

 そのバンドは、麻原の作った歌を、ロックやポップス、アコースティック等にアレンジして、演奏するバンドで、フロントには若くアイドル性のある女の子たちが、立っていました。

 MCも「尊師の教えは・・、尊師は・・」といったことが普通に話されていて、聴きやすい歌を通して、麻原の教えを伝えることを意識したものでした。

 このバンドのコンサートは99年の2月まで、3回に渡り行なわれ、スタッフ、信徒の友人、いわゆる「オウマー」の方などを中心に、一般のお客さん、毎回数十名を集客し行われました。



<執着していた仕事をやめ、修行一色に>

 私は「生涯、音楽の仕事をなんらかの形で続けていきたい」と考えていましたが、このコンサートを上司が知るところとなり、仕事と宗教的な活動の選択をせまられ、結果として、仕事をやめることになりました。

 完全解脱のスタッフをせず、目立たず信仰しながら仕事を続けるという選択もあったのですが、そのときの自分には、修行に向かう道が指し示されているように思われたのです。

 この上司との絆はとても強く、その人から離れ、生きがいとする大好きな仕事をやめることは、二重に身を切られる思いでした。

 そして、それからの私は、修行とそれを支えるアルバイトという、修行とバクティ(奉仕作業)中心の生活に入っていくことになりました。


<コンピューター事業部で働く>

 1999 年の12月に音楽の仕事をやめると同時に、CMPという、教団のコンピューター事業部のビラ配りのアルバイトを始めました。「オウムのお店はどこですか?」とか、「お宅、オウムですよね?」といった質問は街頭でよくされましたが「違います」としらを切りとおしていました。

 秋葉原にオウム経営のPCショップが数件あり、私がいた店は小さいほうでしたが、それでもボーナス時期、年末には一日の売り上げが、1千万円いくこともあったと記憶しています。

 当時の信者の意識は、今思えば大きな思い違いですが、「自分達は不当に弾圧されている」という意識が強かったので、「こういった、苦しいときの財施はすごい功徳になるのだ」という思いで、ビラ配りをしていました。


<ノアの箱舟セミナー>

 98年から99年の年末年始セミナーは、「帰依の○日間」(確か8日くらい)と題されたものでした。

 その内容としては、数時間に一度のビデオ教学と、短時間の睡眠以外は、ひたすら立位礼拝(オウムでの立位礼拝とは、チベット密教などとは違って、麻原を神と見、麻原を中心とした神々を観想し、帰依の詞章を唱えながら、五体投地を行なう修行。)という修行でした。

 一方別に「信徒用決意」という修行もあり、「布施」「自戒」など、項目ごとに、麻原と神々への帰依を培う詞章を延々と唱えるものでした。 そして、その中で、一日に3、4回、一時間の「究竟の瞑想」という座って行なう瞑想の際は、多少回復することが出来るものの、横になっての睡眠は、一週間以上全くなし、(とはいっても、究竟の瞑想中横にはならずとも、寝ていた人も多かったですが)という修行でした。

 このとき私は、決意の修行に参加していましたが、修行の進み具合が上位の人は、最終日、ごほうびとして、行く先を告げられず、違う場所にマイクロバスで連れて行かれました。このバスの中で、師が「ここから先は、"ノアの箱舟セミナー"になります」と告げました。

 立位礼拝の修行にでていたのは、「帰依信徒」とよばれる、お布施の額も高く、中心となる信徒が中心で、このノアの箱舟セミナーには無条件で参加でした。内容は、名古屋の公共のホールを利用して行なわれた、アストラルミュージックと呼ばれる音楽のコンサートと、正悟師(オウム真理教で言うマハームドラー、阿羅漢のステージと言われる成就者)の歌がメインだったと思います。

 内容自体は特にどうということはないのですが、「お布施をする徳のあるもの、成績のよい優秀なもの」だけが「ノアの箱舟セミナー」にいくことができたというのは、当時の団体の性質をよく現わしていたのではないか、と思います。


<行き過ぎた拡大活動~GWセミナー>

 99 年のGWセミナーは、原宿での街頭パフォーマンスなど、目立つ拡大路線が、世論から叩かれるきっかけを生みました。このとき原宿だけでなく、恵比寿ガーデンプレイスや井の頭公園での(井の頭は夏だったかもしれません)アンケート調査もおこなっていました。

 オウムと告げずに、好きな色や、興味のある時事ネタを選ばせたりして、その中に「オウム事件」の項目をいれて、関心をみて話をするというものでした。

 また「ビジター制度」といって、参加者の一人が「オウムをやっている」ことを告げて、できればなんらかの修行をさせ、お布施を(参加費として)数千円もらえばいいという、「とにかく真理と縁をつけるのだ」といった導き活動があり、一緒に食事する友達のほしい、独身女性を装っての食事会などが開催されていました。

 一連の事件から数年しかたっていず、社会にも生々しい傷跡が残る中で、こういった行動が社会に脅威を与えていることを、私たちは、まったく理解できていませんでした。

 「縁なき衆生は度しがたし」という、麻原の言葉があり、「逆縁でも縁があったほうがいい」とか、嘘は戒律に反しますが「真理との縁」のためには「嘘は正当化される」ということに、疑問がありませんでした。

 「自分とグル」、「自分と神」といった世界観に没入しており、事件自体を掘り下げる事、自分と事件の関連性、大事件を起こした団体に自分が所属し続けている責任、事件を自分自身の問題として捉える思考が全くなかったと思います。


<在家信徒から準サマナへ>

 99 年の夏には、「準サマナ」といって、出家希望の信徒として、自宅を引き払い、道場に住み込むようになりました。その直後に道場活動が「休眠宣言」といってしばらくお休みになり、私はCMP管轄の出家希望の信徒と、一緒に生活し、修行をするようになりました。それは2000年の夏まで続きました。

 そこでの生活は、朝から19:30まで週6日ビラ配りをしたり、派遣でフルタイムで働いたりしながら、平日8時間、休日15時間の修行が課せられるという厳しいものでした。

 私は、準サマナになる直前まで、毎日友人と遊んだり、話したりするような生活をしていました。ここでは何か悩みがあっても上長に相談するということもできず、友人だった在家会員との連絡も禁じられていました。

 同じ仲間にも「法友を引き下げるような愚痴は言えない」ということで、誰にも自分の辛さを話すことができず、本当に苦しみました。ただし、この時かなり苦しかったので、出家してしばらくは、それと比較すれば、苦しいと感じることがありませんでした。


<苦しさ故、麻原への依存が強まる>

 団体内では常に麻原の良いところ、奇跡的な話ばかりが感動的に話されていて、私の中で麻原に対して「やっぱりすごい人なのだ」という思い込みが強くなっていきました。

 その頃、私はいつも誰かが自分を見守ってくれているような感覚を感じていました。今思うとそれは、すべての魂に注がれている仏陀、如来方の慈悲、広大な宇宙意識のようなものと思えるのですが、そのときは自分が苦しいのと、麻原を絶賛する人としか接していなかったこともあり、「今までの自分の人生は、もしかしたら麻原(尊師)がすべて司っていて、いつも見守っていてくれていたのではないか」というような感覚を生じさせていきました。

 私は麻原との接触がまったくなく(説法を直接聞いたことも無い)、どちらかというと、あの手この手と、ここまでするのかと思う工夫で指導をしてくれていた、「師が素晴らしい」「師のような人になりたい」ということが活動の動機だったようなものなので、「その師を指導して育てたのがこの方ならば、きっとすごい方に違いない」というような思いこみが麻原に生じていきました。しかし、今思えば師を理想化してみてしまい、安易に過大評価した面があるのだろうと思います。

<出家への決意>

 準サマナにはなったものの、私はなかなか出家の決意を固めることができずにいました。

 2000年夏の、在家信徒だけのセミナーに、私たち出家希望組も参加していいということになりました。このとき、現代世界の生き地獄ともいえる、苦しみについて考えさせられる場面があったのですが、これが私の転機となりました。

「地球上に人間として生まれても、業によって耐え難い苦しみの世界にいってしまうことがある」ということに、非常に衝撃を受け、「本当に輪廻転生というものがあるならば、家族や友人だけではなく、どんなに嫌いな人であっても、このような苦しみの世界に行かせることはしたくない」という思いがこみ上げてきました。

「自分は修行を体得して、縁ある人の役に立ちたい」という強い思いが生じ、「そのために修行が早く進む出家の道を選ぼう」と、そこでようやく本格的に出家の決意が固まったのです。


<アーレフへの出家>

 2001 年の7月にようやく出家をしました。出家担当の道場の師に「14日付けで出家し修行に入るよう」いわれ、八潮の施設に行き、修行していましたが、施設担当の師自体が「あれ?今日からなの?」(笑)という感じで、「正悟師」の許可がまだでていないことがわかりました。

 この2日後くらいにたまたま正悟師会議があり、無事に出家したのですが、会議が開かれなかったら、いったいどうなっていたのでしょうか。働いていた会社の仕事を、慌てて整理して、出家の準備を整えたのですが、そそっかしい私の業をあらわしたような出家生活のスタートでした。

 約2ケ月、八潮の施設の受付をしながら、半分修行半分ワークという形で修行に入りました。修行中は常に「尊師エンパワーメント」という麻原の歌と映像のビデオが流れていて、先輩方からは、さまざまな麻原やその家族のエピソードを聞かされていました。

 その頃、ちょうど上祐代表の説法会が、開催されだしたのですが、私の出家して初めての公的な「ワーク」というものは、代表説法会のちょっとした警備のようなものでした。出家生活の始まりからそうでしたので、やはり代表とは縁があったのだなと思います。


<横浜支部での活動>

 その後横浜支部に配属になり、約4年その部署にいました。支部活動の内容は、日々の在家信徒さんの修行のお手伝いや相談、勉強会、週末イベント、説法会といったようなものでした。出家当時は、毎日が楽しく、不謹慎なのですが、一年中修学旅行か、合宿にきているような気持ちで過ごしていました。

 このころ、八潮での修行(スタッフの修行場)などでは「帰依を培う」という修行が多く、「自分が麻原の弟子である」という気持ちが、徐々に強くなっていきました。

 
<古いスタッフとの感覚の違いに戸惑う>

 支部活動の中で、先輩と話していて、ときおり「え?」と思う感覚の違いを感じることがありました。そのひとつは出家者の在家信徒に対する見方でした。

 当時は信徒さんと一緒に奉仕作業をすることが多く、ビラ配りなどかなりの労を使う作業だったのですが、信徒さんに何かお願いするときに「お願いします」と言ってはいけない、「お疲れ様、ご苦労様、ありがとう」労をねぎらうことは一切言ってはいけないということがありました。

 信徒は徳がないから信徒で、徳を積ませていただく立場なのだから、頼んで当然、向こうがお願いしてやるくらいのものなのだという感じでした。バクティ(奉仕作業)だから、神々への供養だからという「させていただくという気持ちで行うべきだ」、というのはわかりますが、今思うと出家者の優越意識もあった気がしています。

 私は社会生活が長く、もともとのクセもあり、自然と「お願いします」「ありがとうございます」と言ってしまい、いつも怒られていました。


<アーレフを隠しての勧誘活動>

 オウム、アーレフにおいて、「導き」と言って、一般の方を勧誘することは常に行われていました。

 HPや書籍から問い合わせをしてくる方もいたのは事実ですが、多くはアーレフと告げない形でのヨーガ・サークル、エスニックなどの一般サークルといった形で仲良くなり、良さそうな人にはアーレフと明かしていく。。というものでした。

 私のいた支部でもそういったことは行われていました。私自身、書店で、宗教コーナーにいる人に、声をかけて友人になるということもしたことがあります。

 私達の意識は、「アーレフと最初から名乗って導ける人はいないので、やむを得ない」という認識でした。また、この頃の私達は「真理との縁をつける」ことが、「その人の人生にとって最善のこと」と思い込んでいました。

 他宗教の教えや、様々な思想を学びもせずに、「麻原の教えは完全で、他のものはすべて途中段階」という傲慢な見方をしていました。そこに明確な根拠や検証といったものは一切ないという無責任なものでした。

 アーレフと明かされて、驚いた一般の方を何人かみてきました。当然、「アーレフで一緒に活動します」という方は少ないのですが、それまでの信頼関係があり、「自分自身はアーレフの活動はしないが、あなたがやっているのを反対はしない」「団体のしたことは許せないが、個人としては信用している」と言った形で、普通なら嘘をつかれて、怒鳴られても仕方がないようなところを、自分は傷つきながらもこちらに気を使ってくださった方も多かったのです。

 自分が騙されたということがわかっても、こちらの状況を汲み取り、頭から否定しないよう、理解しようと悩まれる方もいらっしゃったということがあります。そういった方々の善意を、傷つけるような活動を行っていたこと、自分達本位の活動を行っていたことをお詫び申し上げます。


<アーレフの現状への疑問~修行に入る>

 その後、教団が徐々に分裂していきますが、2004年の11月になると、それまで修行にこもっていた上祐代表が、沈黙を破って活動を再開しました。

 2005年1月ごろ、まだ自分は、代表を支持する人達の勧誘はほとんど受けていず、客観視していました。この頃、「代表の話を聞いたらしい」と思われる出家者が、あからさまに差別されたり、監視されるというようなことがおきだしました。

 そして、「心の成熟を求め修行し、人の心を扱うのが宗教のはずなのに、もうこの活動は心を置き去りにしてしまっているのではないか」と思う、尋常ではないできごとがあり、私は数日教団を飛び出し、家に帰ってしまいました。

 八潮の修行場の近くまでいったのですが、施設に入ることができませんでした。その日は雪が降っており、修行の大きな荷物を抱え、夜中に雪の中をさまよっていました。いつも経行修行で通りなれている道が、知らない場所のように思えました。

 団体を辞めるつもりはなかったのですが、烏山にいけば(上祐代表の息がかかっている、と思われ)魔境だと思われる、埼玉の部署にいけば当時強硬派であった村岡さん(その後、中間派に転じる)がいるということで、団体内に、自分が落ち着いて考えられる場所がどこにも思い当たらなかったのです。

 数日実家にいましたが、私は、基本的に「人間、話し合えば必ずわかりあえる」という考えなので、「思い切って、おかしいと思うことをぶつけてみよう」と思い、そのときひっかかっていた出家者の方を呼び出し、一対一で話し、その場は一件落着となり支部に戻りました。

 しかし、家に数日でも帰ったことが、戒律違反だということで、当時私はサマナ長だったのですが、「通常だったらステージ降格のところ、3ケ月の長期修行」と正悟師が言っていると言われました。

 私は、この杓子定規な措置に納得がいかず「修行には入りません」と伝えました。そこで上でもいろいろ話してくださったのか、「修行に入らなくてもいい」という雰囲気になりました。結果的には(強制され入るのでなければ)「それなら1ケ月は修行に入ります」と、自分から修行に入りました。

 
<アーレフ代表派へ>

 そんな頃、ひかりの輪の前進である、「アーレフ代表派」への勧誘がありました。諸々あって、私は、上祐代表のグループ(以下「代表派」)の活動に参加することになりました。

 実は、最初から活動に積極的だったわけではないのですが、横浜では代表派と関係があるスタッフが自分しかいず、自分が誘わなければ、横浜の信徒は代表の話が聞けないという状況でしたので、すごいプレッシャーでした。

 他の支部は師や師補といったステージの人が、信徒を勧誘していましたが、私はそういったことにも慣れていず、上長である師や師補の目を盗んでの勧誘でしたので、「いつばれるか」と冷や冷やしながら、信徒さんを呼び出して話をしていました。

 目立たないように代表派の活動をしていたのですが、横浜支部では、全国に先駆けて「代表がおかしい」ということを信徒さんに話し、代表派にいかないよう説得する面談が行われていきました。

 信徒さんにとって、支部の師がいうことはすごく力があるのです。昔なら、「絶対」というくらいだったと思います。

 それが、未確認の情報や個人の考えが入った情報だったとしても、信じてしまうことも多いのです。「ステージの高い人ほどグルの意思を理解していて、わからないときはステージが高い人の意見に従う」と言う考えを多くの人が持っていました。

 信徒さんが目の前で、根拠のない説得をされていくのを見て、「これはもう正常な道場活動ではない。このような道場活動を、私はもう手伝うことはできない」と思いました。

 そして「道場活動をやめたい」という申し出をし、完全に代表派でやっていくことを決意したのでした。


<教団の真実を知るための勉強会が開催される>

 代表派の始まりは、まず「事件を知る、見つめる」ということから始まりました。

 地下鉄サリン事件を扱ったNHKの「プロジェクトX」や、再現のテレビドラマの上映、遺族の方の手記、教団内で当時事件にかかわりのある部署にいた人の話、ディスカッションなど、事件を知るための勉強会がことあるごとに行われました。

 また麻原が本気で、今の世を終わらせ、麻原を王(キリスト)としたオウム独自の国家を創ろうと考えて、教団武装化をし、自分の国の憲法・法律まで考えていたことや、90年の石垣島セミナー以前にも、人の殺戮を企てていたことがあったことなど、愕然とする事実を知るところとなりました。

 上祐代表の活動は、アーレフの施設内で行われることは、反対派によって認められなかったため、毎週様々な公共施設を転々としてこの勉強会は行われました。各部署の人も、自分の部署を抜け出し、参加するのは大変なことでした。


<事件関連報道を歪曲して見ていたことに気付く>
 
 私は、事件当時在家信徒だったので、ある程度の情報は知って考えてきたつもりだったのですが、「団体をできるだけ悪く見たくない」という思考で、報道をみていたため、とんでもない捕らえ方をしていたことがわかりました。

 たとえば、サティアンに一斉捜査が入ったとき、先頭に立つ警察の方が「カナリア」のかごを持って入っていく映像が、当時よく流されていたと思いますが、私はそれを「完全なパフォーマンス」だと思っていました。「カナリアなんか映してわざとらしい」というような気持ちで見ていたのです。

 しかし、実際そこに入っていった警察官の人々は、「オウムが大惨事をおこした」ということはわかっており、そこに突入することは命をかけた決死の覚悟であったことがわかりました。あの、カナリヤは真剣なものだったのです。それを私達は笑ってみていた・・本当に馬鹿だったと思います。

 もともとオウムは危険視されていたが、宗教法人というなかなか手のいれようのない状況で、そういった懸念を元々していた人々も事件がおきたことにより、「なぜ暴走を止められなかったのか」すごく苦しんだことも知りました。


<麻原への幻想が完全に壊れる>

 麻原に対して、教義に対して、何がおかしかったのか。また、我々自身のどういった意識、共通性によって、オウムにはまってしまったのか、を見つめる作業が行われていきました。

 ヴァジラヤーナ活動に参加した方が言っていることや、麻原のそばに実際にいた人が見ていた麻原というのは、私達が思っているのとはかなり違った部分があったということも知りました。

 そばにいず、麻原のトータルな姿を間近で見ていない人ほど、幻想が今も強いことを感じました。それは実際「高弟」と言われた人々は、ほとんど残っていないことからも明らかです。

 麻原に修行上において、仮に優れた点があったとしても、人間としてこの世に存在している以上、老い病み死んでいく。完全な人、間違えない人などはいない。そんな当たり前のことがわからなくなっていました。

 冷静に考えてみれば、本当におかしなことだらけで、世間の方から見れば「なぜこんなにおかしいのに、信じてるのかわからない」というところだったろうと思います。

 私自身そうであったし、多くの信者もそうだったのではないかと思うのですが、麻原に対して疑問が生じても、「弟子の面倒を見ながら、短期間であれだけ多くの教材を残したり、素晴らしい曲を作ったり、慈愛がなければできない」など、自分で麻原を否定しない理由をなんとか構築しようとしてしまうということがありました。

 それから、オウム真理教を始める前の、麻原の悪い情報や、犯罪に結びつく可能性のあった要素の話などを聞いても、「解脱したら過去のカルマが切れる」とか、「解脱したら完全に変わってしまう」と言った考えが信者の中に根強くあり、それも麻原や高弟といわれる人を、否定しないひとつの原因になっていました。

 実際には、ステージ高いといわれた人がやめてしまったり、精神的な病も含む病気になったりしていることからしても、それはまったくの思い込みだったと今では思います。

 麻原が発言しないのをいいことに、いわゆる「深いお考えが」ということで、事実に向き合うことから逃げ、すべてを都合よく解釈していました。

 そこに「自分の信じた教団が間違っていてはならないし、グルが完全であってほしい」という、結局「自分を否定したくない」という自我執着があったと思います。

 「絶対であるグル」の「直弟子である自分」という選民意識。「グルが完全」と判断できる叡智を自分が持っていると思ってしまっている過信、傲慢さ、「グルへの帰依」という、一見エゴをなくそうとするかのような行為の裏側に、グルを通して自己実現する煩悩が潜んでいたのではないか・・。様々なことに気づき、考えさせられていきました。


<ひかりの輪の意味>

 世の中の争いの多くが「自分が信じるものは正しく、それ以外は間違っている、排斥する」といった、一部の共通性も認めない二元的思考の中でおこっている中、私達のしてきた活動は、それを止めるどころか、拍車をかけるような行為を行ってきてしまったと思います。

 地下鉄サリン事件を始めとし、オウム真理教は数多くの事件をおこしてきました。被害者の方、遺族の方に与えてしまった想像もできないほどの心身への苦痛に対して、そして社会を震撼せしめたこと、その償いをどうしていくのか。

 二元の極致であった私達が、今後どう生きていくのか。どう社会的に安心していただける形で変わっていくことができるのか。そういったことを話し合い、模索する中で、ひかりの輪という団体が生まれたと思います

 私自身は、アーレフ代表派時代は、「やはり団体は解散したほうがいいのでは」とか、「私自身もやめたほうがいいのでは」ということも考え、何度も悩みました。

 しかし、実際にやめていった多くの人を客観的に見ても、それが良かったと感じる人は、正直ほとんどいず、オウム・アーレフにかかわった人々が、その意識の抜本的な改革を経ずに、形として単に社会へ戻ることは、本質的な問題の解決にはならないと思っています。

 団体が解散して、誰も責任をとる人がいなくなる一方で、個々人の意識は「ミニオウム」として、社会に散っていく、隠れていく、というのでは、逆に事件が風化してしまい、忘れた頃にその芽をもった人が活動するなどということにもなりかねない危惧があると考えます。

 団体という社会に見える形で残り、本質的に変わっていくこと。賠償の実践について責任を持つパートは、必要なのではないかと私は思います。

 団体で改善して、その改善の情報を公開していくほうが(記者会見や施設公開、地域住民の方への資料提供など)、社会的にも透明に内部が見えますし、安全で速やかに、完全に旧団体の片鱗を残さない変化をしていけるのではないかと思います。

 また、団体を辞めて個人になればなおざりになってしまう可能性もある賠償についても、団体であれば、それをしていなければしてないことがすぐわかり、チェック機能が果たされます。

 解散や脱会は、本質的な解決から逆に遠ざかり、覆い隠す面があり、そういった様々なことを覆い隠さない意味でも、団体として変わっていくことがいいのではないかと私は考えています。

 また、旧オウム・アーレフにかかわった人々の中で、いまだにくすぶっているその時代の芽を根底から変えていくためにも、旧団体を乗り越えるための具体的な新しい宗教・思想や、実践方法、人を神としなくとも人が幸せになっていける方法を模索し、提示していくことは重要だと思います。

 オウム・アーレフ時代をできるだけ緻密に総括して、どう自分達がオウムにはまっていき、その後に、マインドコントロール的な呪縛、自分を閉じ込めていた観念から抜け出していったかについて、同じ仲間であったものからの提示も重要だと考えています。

 団体存続の意義についていえば、それに加え、オウムに出家して今や実質上身寄りがない老人や、身体の弱い人などに対する扶助も含めて、生活共同体としての維持の必要性ということも現実にはあります。


<今後の決意と感謝>

 ひかりの輪が、団体として取り組まなければならないことの第一は、被害者の方、被害遺族の方々への賠償だと思います。そして、恒常的に被害者の方の苦しみを知る努力をすることです。

 徹底的な旧団体の総括を行い、二元の極致であったオウムのグルイズムに積極的に取り込まれていった自分達の心を、しっかりと見つめ、二度とあのような事件を起こさない強い思いを持ち、それを常に意識した誠実な活動を行っていくことだと思います。

 釈迦牟尼の説かれる「縁起の法」を始めとする、聖者方の一元的な教えに立ち戻り、それを現代の私達が実感できる形で、本当に体得していくことが必要だと思います。

 具体的な実践として、現在ひかりの輪には、大自然から学ぶ聖地自然修行などがあります。自然の中では、様々なことを証知できますが、大自然の中で、私達は地球というこの星に置いてもらっており、大いなる力によって生かされているのだといった実感、謙虚さなどを学ぶことができます。

 こういった様々な事物とのかかわりの中で、「自分が生かされている」ことを実感することは、すべてに繋がりがあることを理解せず、「自分達は善業多き魂で、それ以外は悪業多き魂」といった思想からの脱却にも非常に有益であるといえます。

 私は1995年以後は、在家信徒だったこともあり、被害者・遺族の方が大変な思いをし、教団内も混乱して大変だった時期に、その風当たりから逃げていられた面があると感じています。ですから、今のこの改革期においては、自分のできるだけのことをしたいと思っています。

 今後のひかりの輪の活動の中で、生涯に渡り、オウムの総括と具体的な実践というものを考え続けていきたいと思います。この文章も、現在の時点で私が考えられることであり、その反省、思索と実践は、ずっと続き、深めていくものだと思っています。

 まだまだ未熟者で、皆さんから見て、おかしなことをしているときがあるかもしれませんが、今後も、どうぞ叱咤のほどよろしくお願い致します。

 最後に、つたない文章を読んでくださり、感謝致します。ありがとうございました。

田実恵理子

カテゴリアーカイブ