指導員・会員の総括

山口雅彦 「私のオウム真理教総括」

「オウムの反省・総括」

                             2017年2月改訂

■1.反省の要点

(1)現在の麻原に対する見方

 人格的には、パーソナリティ障害だと思います。誇大自己の持ち主で、誇大妄想と被害妄想がたいへん強く、自分が本当に救世主であると思い込んでしまいましたが、思うようにいかないときは、被害妄想により、攻撃的になります。そして、誇大妄想の現れとして、野心があり、世界の王になろうとしました。それが教団武装化につながったと思います。

 強そうに、ふんぞり返っていましたが、現実の自分や周囲に起こる現実を受け容れることのできない弱い人間だと思います。逮捕された後も、現実を受け容れることができなくて、自分の妄想の世界に逃げ込んで、その世界でまだ救世主であろうとしましたが、それもできなくなると、不規則発言や奇行という狂気に逃げ込みました。

 事件に関して、自分が関わったことを言えず、潔さのかけらもない情けない人間だと思います。

 また、輪廻転生の教えとカルマの法則で弟子たちを支配したずる賢い人間だと思います。

 上記のような人間であり、もうすぐ人生が終わるだろうと思いますが、可哀想な人間であったと思います。


(2)現在のオウム教義に対する見方

①強い善悪二元論で、麻原を信仰できる者を選ばれた者とし、そうでない者を劣った者として蔑み、麻原を信仰する自分たちは絶対善であり、信仰できない者および批判する者は絶対悪であるとする。
 自分たちのことを絶対善であると思えば、絶対善である自分たちがやることは、どんなことでも善であると考えるのは当然で、犯罪行為であってもやってもいいと考えることになる非常に危険な教え。
 このような善悪二元論では、自分と他人の区別をなくすことはできないから、悟りは得られない。

②仏教の根本の縁起・空の理解がない。ゆえに、いくら仏教の教えを説いていても、真の仏教の教えではない。

③輪廻転生の教えを、信仰ではなく、絶対的真実と思い込んでいて、そのことから、来世のための今の生という来世中心主義になり、今の現実人生を否定する現実逃避の教えになっている。このことは、現実社会否定にもつながっていく。

④カルマの法則を何にでも当てはめ過ぎ、それによって、悪用している。苦しんでいる人は過去世のカルマのせいで、自分が悪いんだ、という冷たい心になりやすい。

⑤慈悲の大切さを説くが、口先だけである。善悪二元論、そして上記のカルマの悪解釈では、慈悲を培えることはない。


(3)現在の会員等への麻原とオウム教義の説明のあり方

 上記1.2.の麻原およびオウムの教義の自分の見方を、具体例などを交えながら説明しています。


■2.反省・総括 本編

それでは、上記に記しました、反省の要点を詳しく述べていきます。

(1)被害妄想、誇大妄想の体質

 オウム真理教は比較的早い時期から、社会は自分たちに必要以上に危害を加えるのではないかという被害妄想的体質だったのだと、一連の事件を知って思いました。

 そしてそれは、麻原の意識の持ち方と関係していると思います。社会に対する被害妄想。障害者としての生い立ちから、被害者意識が芽生えていったと推察します。

 麻原は、自分は本来もっと素晴らしい存在であるはずなのに、そうなれない自分の満足できない境遇は、障害を持つということで親を含む社会から不当に扱われている結果ではないか、という思いがなかったでしょうか? それによって、社会に敵対感情をもつようになっていったのではないかと思います。

 オウム真理教の性格は、当然、教祖のカラーを強く反映しているでしょう。そして、そのカラーに同調しやすい人たちが集まって来ていたのではないでしょうか。卑屈・被害妄想とその裏返しの傲慢・誇大妄想をもつ者たちが。

 社会の中で不器用なるがゆえに生きづらさを感じていたり、実際にちょっと蔑んでみられ、劣等感を持っていたり、エリートと言われる人たちも強い劣等感を優越感と背中合わせにもっているものです。

 そういう人たちは、社会は自分を不当に扱うという被害妄想をもっていなかったかでしょうか?少なくとも持ちやすかったことは事実ではないかと思われます。弟子である私たちの中にグルと共通した心性があったのではないかということです。

 それは、私自身が、卑屈・被害妄想その裏返しのプライドというものを持っていることと、周囲の出家者を見てきて思うことです。

 麻原の場合は、卑屈さというよりも、自己誇大視とそれによる被害妄想という感じはします。自分を未来仏マイトレーヤであると言っていたことも自己誇大視の現われでしょう。

 さらにそれを強めたのは、自分のことを「キリスト(救世主)」と位置づけてからのように思います。「キリストになれ」という示唆を信じ自分を本当に「キリスト」と思っていたのでしょう。そして、歴史上のイエス・キリストとだぶらせるところがあったと思います。イエスは弾圧され処刑されたということが、自分も不当な弾圧をされる、されているという妄想を産み出していったのではないでしょうか。

 フリーメーソンという煩悩によって世界を支配する存在があるという陰謀論を信じ込み、救世主である自分は彼らから世界を救わなければならない。救世主だからフリーメーソンは自分(オウム)を攻撃してくる。だから彼らと戦わなければならない。日本社会はフリーメーソンにほぼ支配されているから、日本社会との戦いでもある。という妄想世界を作り上げていったのでしょう。

 私自身、特別な存在でありたい、特別な存在であるという思いがあり、それと違う現実によって劣等意識を持っていました。劣等意識と優越意識。それは被害妄想と誇大妄想を産み出します。劣等意識によって卑屈になり、卑屈になると被害妄想・被害者意識が生まれます。優越意識は自己を誇大視し誇大妄想を生み出します。

 これが麻原の誇大妄想・被害妄想と共鳴したのではと思います。

 優越感情を刺激されたところとしては、「本物」(麻原・オウム)を「本物」と理解できる自分は「偉い」。(しかし、真実は、麻原・オウムは本物ではなく、とんでもない代物であった)。

 在家時代は、徳がないと真理に巡り合えないとよく出家者からいわれていた=巡りり合えた自分は徳がある素晴らしい魂。出家してからは、偉大な救世主の選ばれた弟子ということによって優越感をくすぐられました。

 その中でも特にキリストの弟子、選ばれた魂というのが一番優越感を満たすものだったように思います。ですから麻原をキリスト(救世主)とすすんで受け入れていったのだと思います。その部分を受け入れれば、「キリスト」であることによって形作っていった麻原自身の妄想世界に同調していくことは当然であったように思います。

 その一方、劣等意識を強めるものとして、汚れ多き魂、修行しなければ三悪趣に落ちる魂、成就していないというものがありました。

 この両方の要素によって、誇大妄想(キリスト・キリストの弟子)と被害妄想(不当な弾圧・攻撃を受けている)の世界に入っていったのだと思います。


(2)共同作業で成立していた妄想世界

 そして、私の中にもベストセラーになった「ノストラダムスの大予言」の影響はあり、自分の生きている間に第三次世界大戦は起こるという思いが若い頃からありましたし、他の人も同様の思いは同時代人として共有していたと思います。

 また、不合理な社会の在り方に対して、社会を支配する者たちが連携・裏でのつながりを持ち、自分たちに都合のいい社会・世界を作っていっているのではないか?という思い、現実的に社会の支配構造はなかなか変わるものではないので、そういう利己的な支配層をくつがえすためにある特殊な力を持った存在を夢想する、そういう思いが心の中に明確ではなくてもありました。(この総括文章を一通り書き終わって読み返していてこのことに気づきました。自分自身、明確に認識していませんでした。潜在意識レベルのものだったのだと思います)

 こういうものと、麻原の説く終末論、フリーメーソンの陰謀、キリストは驚くほど見事に一致しています(実際このことに気づいたときは驚きました)。このことと上記の誇大妄想・被害妄想という質がそろえば、もう共通の妄想世界は形作られます。自分の中にぼんやりと元々存在していた夢想が、外側に具体的な形をとって現われたのが麻原であり、麻原の説く世界であったということができます。

 先ほど、妄想世界を麻原が作り弟子たちが同調していったと書きましたが、正確には、共同作業で妄想世界を作り出していったという方が真実ではないかと思います。「キリスト」と「キリストの選ばれた弟子」という構図は相互依存によって成り立っています。「キリスト」も「キリストを信じる弟子」がいなければ「キリスト」にはなれません。

 そして、私(たち)は「キリストの選ばれた弟子」=素晴らしい存在になりたかったのです。そのためには「キリスト」が必要でした。それを麻原が提示してくれたのですから手放したくないのは当たり前のことだったのです。

 麻原も自分の誇大妄想を成立させるために私たち弟子が必要でした。私たちも自分たちの誇大妄想を成立させるために麻原が必要だったのです。お互いがお互いを必要とし、合わせ鏡のようにお互いを映し出していたのではないでしょうか。


(3)私も「麻原」とかわらない

 ということは・・・ここでさらに考察すると、私も条件によっては「麻原」になる可能性はあったということになるのではないかという思いが生じてきます。

 いや、その可能性があることを証明するような事実があります。

 1997年頃に、教団内で「福岡事件」と呼ばれていた魔境事件のときのことです。その時、私はグルと一体化したと様々な理由から思い込み、慈愛が溢れ出ているように錯覚し、支部独自のセミナーでは上長をさしおいて(上長も私のことを認めていました)、信徒指導の主導を握ったということがありました。

 その時は、自分が凄い存在になったと錯覚・妄想していました。そして、普通ではできないようなこともやってしまいました。自分は偉大な存在であるという思いによって、自分のやることは正しい、許される、あるいは当然と思ってしまうのです。

 これがエスカレートすれば「麻原」です。程度の差でしかありません。

 合わせ鏡である存在は、お互いに同じ質を持っているということです。

 自分の中に「麻原」と同じものがあるという事実、その同質のものを払拭していくことが償いでもあると思います。


 今現在、麻原をどう思っているかというと、麻原には、自己誇大視、自己顕示欲の強さ、誇大妄想、被害妄想、反社会性などパーソナリティ障害的ゆがみというものがあったと思います(麻原の人格分析については、私たちが、心理学的視点からの団体全体の総括の中でより詳しくしていますのでそちらを参考にしていただければと思います)。

 そして、それが、教団の性格にも大きな影響を与え、事件にまで至ってしまった大きな理由だと思っています。当然ですが、麻原がいなければオウム真理教の事件は起こっていません。いくら、麻原一人の責任ではないといっても、多くは麻原に依るものです。その点はけして忘れてはいけないと思います。そういう認識のもとで、その麻原をグルと仰いでしまった自分(たち)の責任があると思います。

 麻原は、もちろん、神でもなんでもありません。自己の妄想世界におぼれてしまった一人の哀れな、情けない人間です。


(4)善悪二元論が強いオウムは「影」を形成しやすい

 ここで、社会に対する敵視について、少しユング心理学的に解釈してみたいと思います。
社会敵視・対立には、被害妄想の部分があります。

 さらに、「影(自分の抑圧した悪い面)の投影」というものによっても、起こります。そしてこれは被害妄想にも結びついてきます。

 教団は、煩悩をなくすことが目標としてあり、煩悩があることを悪いことであるという価値観がありました。そのため、自分に煩悩があってはならないと思い、それを強く抑圧してしまった、あるいは、しようとすることが多かったのではないかと思います。

 それは、まさしくユングのいう自分の悪い部分を自分にあることを認めず、抑圧して影としてしまうということです。その影になってしまった汚れ(煩悩)を一般の人、社会に投影して自分たちはきれいな存在だが、社会は汚れているとして敵対感情を持った、あるいは、もともとあった敵対感情を強めたのではないでしょうか。

 (煩悩が苦しみの因であることは仏教の教えの真理ですから、それを弱めていくことが私たちの幸福になっていくことは間違いありませんが、それを嫌悪し自分にあってはならないという善悪の観念で見てしまったことに問題があった)

 煩悩をなくし、綺麗な存在になることを目指していたわけですが、それは非常に危険なことになる場合があります。汚いもの、悪を排除する「排除の論理」に陥ることになる可能性があるからです。それが投影であり、"魔女狩り"につながるものです。

 ユングは聖職者の家族(子どもが多い?)に、聖職者の影を肩代わりしている例があることを報告しています。聖職者は綺麗な者でなければならず、自分の汚れた部分を認めず覆い隠すことが多いので、その部分が影となるのです。オウム真理教という団体も集団でそれを行い、社会に投影して社会は汚れていると必要以上に嫌悪したと思われます。

 また、綺麗で崇高なものを目指す、さらに「救済」という錦の御旗をたて、その言葉に憧れと酔いを感じ純粋な気持ちでその実現を目指した、そういう自分たちは素晴らしい存在であり、正しい善なる存在であり、「救済」こそが何にもまして第一に優先されることである。そして、そのためなら何をやってもいいのだという思い。これが、結局は、目的のためなら手段を選ばないという「いわゆるヴァジラヤーナ」という教えに結びつくわけですが、ヴァジラヤーナという言葉を使うまでもなく、自分たちが絶対的に正しいと思っていれば、そのためには何をやっても許されると思ってしまいます。

 それがおかしいことだと気づかなくするためのものとして、"崇高な教え「ヴァジラ ヤーナ」"を持ってきたのではないかという捉え方もできるのではと思います。

 純粋な思いでやることはいいのですが、度が過ぎれば危険なものになります。自分の中に汚れがあることを認めることができなくなり、弱者や汚れのある人たちのことを理解できなくなり傲慢、横暴になります。

 純粋な思いもあるが、どこかに利己的な動機もあるはずです。それら二つが入り混じっているのが私たちの心の現実ではないでしょうか。その汚れを認識していることは、重要なことです。自分の汚れが混じっていることを認識していれば何をやっても許されるとは思えません。何をやってもいいという思いに歯止めをかけることができるのです。謙虚になり、他を許すこともできるのではないでしょうか。

 善悪の観念、善悪二元論が強いほど影が形成されやすくなります。そして、それを投影して他に対する嫌悪が強まります。自分と他人の区別が強まるのです。他人蔑視が強まります。自分たちは絶対的善であると思うのです。そして、絶対的に正しい自分たちは、自分たちの正しいと思うことの実現のためなら何をやっても(どんな手段を使っても)、いいのだという傲慢な論理になります。

 オウム真理教はまさにそうだったと思います。それが事件につながっていきました。非常に危険なことです。

 ですから、善悪二元論に陥ることなく、自分の中の影を認識していくことで、独善に陥ることなく謙虚になっていくことが重要だと思います。

 総括を書いて、自分の中の傲慢さ、汚れを再認識しました。そして、それがオウム真理教の事件ともつながっていることを理解しました。自分の中の、事件とつながる要素を抑圧して隠すのではなく、しっかりと対面して払拭していくことに今後も努力していきたいと思います。

 自分が特別な存在でありたい。偉大な存在でありたい。大した者でありたい。他より優越していたい。本人が認識している、していないにかかわらず、これらは多くの現代人に共通する心性ではないかと思います。ですから、これからも社会にオウム的なものが出てくる可能性はあると思います。二度とオウム的なものが社会に出てこないために自分たちの失敗を生かし、その反省した結果を社会に還元していきたいと思います。

 オウム真理教がどうして日本社会に生まれたのか、影とその投影という視点を含み、社会心理学的に分析していくことによって、現代社会に欠けているもの、現代人が抱えている問題を探り、オウム的なものが出てこないよう社会に訴えていくことをしていかなければいけないと思っています。それは、この私の個人総括に続き、心理学的視点からの団体の総括という形とっています。

 その延長線として、現代社会と現代人の状態を新しい仏教的見地にたった心理学によって析していくことを行ってきました。今後も続けていきます。それによって、現代社会が抱えている問題を超えていく方向を指し示すことができればと思います。

 また、オウム真理教の問題点のひとつとして、霊的進化と人格の発達のアンバランスの問題がありますが、スピリチュアルブームである今、その落とし穴である霊的体験の正しい理解を広め、人格の発達との関係をさぐっていくことは、多くの人にオウムと同様の失敗をさせないために必要なことであると思います。

 そして、具体的に個々人には、現代の社会問題化している個々人の心の問題の解決に、本当の意味での仏教的な教え(=心理学)とその技法をもとにしたセラピーによって、アプローチしていくこともしていかなければならないと思っています。

 これらすべては、オウムの失敗から学ぶことが土台となっています。ですから、常にオウムの失敗の分析に立ち返りながら行っていきたいと思います。こうしたことを行うことが、私としての償いのひとつの形ではないかと考えています。


(5)オウムの教義・社会否定の教義の過ち

 ここまで、誇大妄想、被害妄想、そしてそれとも関係する自分の汚れた部分を認めず、他に投影するという「影」の理論にもとづいて反省・総括してきました。
 それを踏まえ、社会を否定するのか、肯定するのかという点、さらに自己存在価値という視点から述べていきます。


 現実社会というものをどう捉えるかを、教義の面からオウムとひかりのの違いについて、そして私個人の宗教的体験・境地から述べたいと思います。

 簡単に言えば、オウムは現実社会を否定。ひかりの輪においては、人の意識状態によって現実が決まるという考え方から、この世が仏の境地から見れば仏の世界・浄土であると説いて、現実社会を否定することはありません。

 この社会否定ということが、オウムの事件の重要なポイントだと思います。

 オウム真理教の事件の背景のものの見方・捉え方として社会否定というものがありました。もちろん、いつの時代も理想の社会、ユートピアはありえないので、いつの時代にもその時代、社会を否定する人たちは存在します。

 この場合、社会の問題点を指摘し、現実的に改善していく方策をとっていくならば何ら問題ありません。というより、社会をいい方向に向かわせるものになり多くの人の利益になるでしょう。そういう意味での社会否定なら問題ではありません。

 しかし、オウムの場合、問題点を指摘しても、それを現実社会の中でこつこつと改善していくのではなく、昔ならいざしらず、現代日本において暴力革命、クーデターを実行するなどという子どもっぽい妄想にもとづいて何とかしようということに問題がありました。

 また、社会否定・批判であっても、社会全体の否定にまで至ることはなかなかありません。

 オウム真理教の場合、社会思想、政治思想による世直しというものとの違いがあります。それは、人間という存在に対する否定というものにもとづいた人間社会否定というものです。これは仏教の輪廻転生思想から導きだしたもので、六つの世界(地獄・餓鬼・動物・人間・阿修羅・天)からの脱却を良しとしていて、人間というものは低い存在状態であるとされ、人間としての存在のあり方を否定的に見ていました。人間を軽蔑していたといっていいでしょう。ゆえに意識状態の低い人間の作る社会というものを否定することになります。

 そのことにプラスして、信者個人の心理が関係してきます(というか、この心理面の問題が先にあり、輪廻思想にもとづいた人間否定は、それを後押しするものだったと思います)。それは劣等意識、被害妄想、誇大妄想、自己存在意義などというものです。それらが絡んで行き着いた先が、社会破壊活動ということでした。(この心理分析については、心理学的総括というものでされています)

 私個人としては、現代の社会の問題点に意識は向いていたので、オウムの社会問題に対する指摘には共鳴するものがありました。ただ、オウムに入会する前は、先に書いた六道輪廻の思想に基づいた、人間否定の考えはありませんでした。

 しかし、オウムの教義を学んでいく中で、人間存在あるいは人間的意識状態の否定という教えに染まっていきました(その教えに染まっていった理由については、劣等意識と優越意識ということで記述している)。

 そして、社会、世間との間に壁を作っていきました。オウムに入る前は、社会の問題を認識しても、壁はありませんでした。

 この、社会を否定するかどうかということは、オウムの反省をするにあたって一つの大きなポイントであると思います。そして、それが教義と関連していることであるので、どのような教義を持つかが重要なことになります。

 ひかりの輪においては、大乗仏教の現世即浄土、凡夫即仏、すべての衆生(生き物)に仏性があるという教えにもとづいて、オウムのような聖なる魂と劣等な魂の区別という二分化の教えはありません。

 とくに日本仏教において顕著になった「山川草木悉有仏性」(山、川、草、木にもことごとく仏性がある)「山川草木悉皆成仏」(山、川、草、木も皆仏陀になる)という生物だけでなく、すべて自然のなかに仏を見るという教えにそっています。

 先のオウムの考え方とはまったく違います。
 自然の山や川、植物、動物、人間、要するに存在物すべてに仏性があり、仏の現われであるという教えです。ですから、人間を始め人間の社会も動植物をも軽蔑、否定しない教えで、すべてを尊いものとして尊重する教えです。
 これは、現実肯定の教えと言っていいでしょう。

 ここで、ひかりの輪において私がしたこの教えの体験をご紹介します。


◆すべては大日如来の現れ(2009年10月)

 体験を書く前に、大日如来(だいにちにょらい)とはどのような仏様なのかということを簡単に説明させていただきます。
 大日如来は宇宙の中心仏であり、宇宙そのものといってもよいような存在です。密教の胎蔵曼荼羅(たいぞうまんだら)・金剛界曼荼羅(こんごうかいまんだら)の中心におかれ、そこから全ての仏・菩薩が生まれてきます。『大日経』などには、すべてのものは大日如来の現われであると説かれています。

 大日如来の光明真言を唱えるようになって4,5日しての体験です。光明真言という大日如来の真言を、縁起の法(つながりの中で生かされていること)を考えながら、感謝の気持ちを持って唱えていました。その時のことを書いた日記(ミクシィに掲載したもの)がありますので、引用します。

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(引用始め)(2009年10月22日)

 この大宇宙が地球を作り育んでいます。
 太陽の恵み、そして、地球の恵み、大気の恵み、大地の恵み、水の恵み・・・
 そうしたもののお蔭で私は生きることができる。

 私は自分の力で生きているのではありません。
 誰が私の心臓を動かしているのでしょう?
 誰が呼吸を続けさせているのでしょう?
 当たり前のことこそ、最高の神秘。

 私たちは大いなる存在の懐のなかで育まれています。
 それがマハーヴァイローチャナ、大日如来。
 その大慈悲に感謝。

 祭壇の前で、光明真言を唱えていると、祭壇自体が大日如来の現われであるように生き生きと輝いて見えてくる。
 すべてが、生き生きと溌剌としている。
 真言を唱えながら、「ありがとうございます」という思いが湧き上がる。
 何か内側から軽快な力が湧き上がる。

 こんなにすっきり、爽やかで、体の中心に軸が定まったような感覚はかつて経験したことがない。
 そして、心は柔らかい。

 (引用終わり)
※注:この日記を書いた当時は祭壇というものがありましたが、今はありません。
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 この体験は一回だけのものではありませんでした。この日記に書いた日の前日からこの体験が起こりました。この日記の翌日も起こりました。

 このような体験はしばらく続きました。そして、少しずつその体験が深まっているように思います。以下も日記からの引用です。

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(引用始め)(2009年10月27日)

 すべてが赦されている世界。
 すべてが肯定されている世界。
 大日如来の現われである世界は明るく肯定的だ。
 一つ一つの存在が活き活きと輝いている。
 生命の不思議な営み。
 すべてが生かされ、支え合っている。
 私もあなたも、どんな人も60兆の細胞が躍動している。
 その一つ一つに大日如来が潜んでいる。

 木々が、草花が、大地が、水が、鳥たちが、風が、子供たちが歓喜の舞を舞う。
 鳥のさえずり、川のせせらぎは大日如来の歌声。
 すべてが大日如来の懐に抱かれ、生命が踊る。

 感謝と喜びの世界。
 ありがとうございます。
 大いなる光の宇宙仏陀に感謝します。

 このような思いを、外を散策しながら、光明真言という大日如来に関係する真言(マントラ)を唱えているときに実感しました。
 多くのものに支えられ生かされていることへの感謝と、すべては宇宙を象徴する仏陀である大日如来の現われである、と思いながら真言を唱えていました。
 すると、周りのすべてのものが活き活きと輝いて見えてきて、大日如来の存在を天空・大気に感じました。

(引用終わり)
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 このときはもう本当に、歓喜と感謝以外なく、すべてが大日如来の現れと感じました。子供たちも、大人も、小川も、鳥も、木も、すべてが、世界が歓喜で輝き感謝で溢れていました。それは、生命賛歌でした。この世界がそのままで輝いていました。すべてが許され認められている世界でした。

 大乗仏教に「現世即浄土」という教えがありますが、このときはまさにこの世が浄土と言ってもいい光り輝く歓喜の世界で、「現世即浄土」の体験だったのではないかと思います。

 オウムの真理を実践する聖なる魂と実践しない汚れた魂との区別の世界観とは、まったく違う世界です。汚れた魂の社会を否定し破壊活動にまで至ったオウムの教義の過ちを、払拭する体験であったと思います。

 このような体験をするということは、オウム真理教からの脱却が本質的なところ(深い意識)で出来てきていると考えていいのではないでしょうか。

 このような体験をしたら社会を破壊しようなどという考えは出てきません。

 この現実肯定、現世肯定という観点から仏教の流れをみると、部派仏教(小乗仏教)から大乗仏教の流れとしてみることができます。

 このような変遷は、民族的な特質にも関連していると思われます

 大乗仏教の現世肯定は中国仏教においていっそう進んだと考えられています。中国人は現実主義でインド人のように内向的思弁的でないという特質がそうさせたとも考えられます。

 そして、その中国仏教が日本に流入され、日本人にもともとあった自然の中に神を見るという特質と融合されいっそう肯定観が強まり「山川草木悉有仏性」「山川草木悉皆成仏」とまで考えられるようになりました。

 このあたりのこととオウムのことの関連で以前にミクシィに日記で書いたものがあるので引用します。

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(引用始め)(2010年1月28日)

 仏教史を現世に対する否定・肯定という観点から見ると、否定から肯定への歴史と言える。それは言葉を換えて言えば、死から生への転換とも言える。

 お釈迦様の弟子たちは、世間を捨て山林のなかで、煩悩・欲望を断つ修行をして涅槃に入ることを目指した。これはまさに現世を否定し、後に小乗仏教と言われるスタイルの原型と言っていい。欲望・煩悩の否定は死につながる。

 大乗仏教になると現世即涅槃といわれるように、現世を否定しての涅槃でなくなる。また、泥の中に咲いても汚れない蓮の花に喩えられるように、現世からの逃避を説かない。          

 しかし、まだ、全肯定とまではいかない。浄土系の教えでも来世に阿弥陀の浄土に生まれ変わることを目的とする、ということからもそれは明らかだ。

 全肯定は、空海の密教によってなされた。「即身成仏」という言葉はまさにそれを現わしている。煩悩の元である感覚・肉体を否定せず、その身そのままで仏になるという。肉体・感覚の肯定。そして、その身をもって営まれる現実社会の肯定。
その背景には、すべては大日如来の現われであるという体感がある。宇宙法身仏の現われである現世を否定することなど考えられない。

 すべての形は大日如来の身であり、言葉・音は大日如来の言葉であり、すべての心は大日如来の心であるから。それは生命への賛歌になる。

 大乗仏教で説かれた現世即涅槃(浄土)は密教において実現したと言える。

 ここで自分の体験と重ね合わせて考えてみると、上記の大日如来の現われは納得できる。それは、生命賛歌であった。この世界がそのままで輝いていた。すべてが許され認められている世界であった。

 世間と自分の間に壁を作っているのも、現世を否定する意識であることに気づく。とくにオウム経験者である自分。世間を徹底して否定しさったオウム経験者は世間と本当に何の屈託もなく接することができる人はなかなかいないのではないか。

  (引用終わり)
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 このように2010年1月に書いていますが、今の自分には違和感がある文章が一文あります。それは、「世間と自分の間に壁を作っている」というところです。

 これを書いた時には、オウム時代から引きずっていた世間との壁が薄れてきていたとは言え、まだ感じていたわけですが、今の自分は壁があるという表現に違和感があるくらい、それがなくなっています。その当時の自分と今の自分が変わっていることを実感できます。

 
(6)ひかりの輪の活動するなかで社会:世間に対する意識が変わった

 では、なぜ、そのような変化したのかを考えてみると、

 上記のように、世間を否定しない教えの自分への浸透が1つあります。もう一つは、私のことを元オウムの信者であると知っている一般の人との交流が増えたことです。

 具体的には2010年夏以降から懇親会というもので、一般の方々と交流をもち、そのなかで、「なぜ、オウムに入ったのか?」「事件をどう思っているのか」などなどの話をしてきました。このように一般に対して開いていくことは心を開いていくことでもあり、その結果、世間との壁もなくなっていきました。

 このように、ひかりの輪の活動をしてきたなかで、社会、世間に対する意識が大きく変わりました。

 上記において、私の総括が深化したことについて書きましたが、以下その他総括に基づいた活動について少し書きます。

①開かれた団体作り

 すでに書きましたが、懇親会というものを開いて一般の方との交流をはかっています。その中で、「なぜ、オウムに入ったのか?」「オウムの事件についてどう思っているのか?」「麻原のことをどう思うか?」「なぜ、ひかりの輪をやっているのか?」等の質問を受け自分がどう誤って、どう反省してきたか、そして、今後どうしていくのかなどについて話してきました。
 そのようなことを話すことによってさらに反省・総括が深まっていったのだと思います。

②「被害者」への賠償の実践

 折に触れて(特に地下鉄サリン事件、松本サリン事件、坂本弁護士事件などのあった月)、会員の方々に対して、賠償金への協力を促しています。それによって自分自身の思いも新たにしています。

③地域住民との融和

 これについては、固いかしこまった形での活動はないのですが、偶然の出来事をきっかけに隣近所の方々との融和がされています。

 2010年の1月の終わりころのことです。名古屋支部は住宅街にある一軒家です。隣の家はお年寄りの一人暮らしです。ある日、隣の家から人を呼ぶ声が続くので見ると隣のおばあちゃんが、トイレの鍵が開かずトイレに閉じ込められてしまったと言って助けを求めていました。急いで隣の家に行って、近所の人を含め救出しました。寒い冬でもあり、第一発見者の私にご本人も隣近所の方々も何度もお礼を言って、「一人暮らしなので今後も何かとお願いします」と頭を下げました。もちろん、近所の方々は、私がひかりの輪であることを知っています。翌日、別居している息子さんと隣のおばあちゃんがあらためてお礼の挨拶に来ました。このことがあって以来、隣近所の方々との壁はほとんどなくなりました。
 私の方から積極的に働きかけたことではありませんが、地域の方々と融和しているという事実ですので、書かせていただきました。
 

(7)自己存在意義・価値を満たしてくれたオウム

 「自分は特別な存在である」という自己価値を満たしてくれるものとしてのオウムということは、すでに述べましたが、もう少しこの点について考えたいと思います。 
 
 自己存在意義、自己価値、アイデンティ、他者からの承認、自己愛、自己愛社会、共同体の崩壊(地域社会の崩壊、家庭の崩壊)、共同体的であった会社の崩壊(終身雇用制の崩壊)などといった言葉や概念は現代社会を分析するうえでたいへん重要なものになっています。

 オウムにはまった多くの人は、自己価値感を感じたかったからはまっていった、というのが根本的なはまった理由だと今の私は結論づけています。

 自己存在価値感をなにで満たすか? 感じようとするかは人によって違いますが、オウムにはまった人は、宗教的、霊的、神秘的能力のある自分は他とは違い素晴らしい存在であると、そして、それを認める団体での地位、権力、名誉を得ることでさらに自己価値を感じられた、と。

 団体外部の世間の人より自分たちは、真実を知り、より高尚な人間であるということで優越性から存在価値を感じたのです。

 それは、卑屈、劣等意識の裏返しです。

 世間でなにかしら、うだつがあがらない自分、自己の存在価値をあまり感じられない自分。
 それがオウムに入って、素晴らしい自分に変身して(本当は錯覚ですが)、自己肯定でき、自分の価値を感じられるようになった。

 偉大な救世主の選ばれた弟子。

 このように自分が肯定され自己価値を感じられる世界、思想にはすすんではまっていくのは当然だと思います。

 しかし、これはなにもオウムにはまっていった人たちだけが持っている心性ではありません。

 ほとんどの人が持っているものです。

 人から評価されることや、権力を得ることや、人よりいい待遇を得ることや、人がうらやむ物(者)を持つことや、地位・名誉を得ることで自己存在価値を感じる。

 オウムの世界でなく、世間の中でそれを行っています。

 そういう意味では、心の質に違いはありません。オウムにはまっていった人たちが特別な人たちではないのです。

 私たち元オウムの者がほんとうにオウムから脱却する最終ポイントは、この自己存在価値感を外側のもので感じるのではなく、内発的というか、そのままの自分で十分価値ある存在であると実感することであると思っています。

 で、それは、世間の多くの人にとっても本当に幸福になるポイントなのです。

 なぜなら、オウムにはまっていった人たちも幸福を求めて自己存在価値を求めたからです。
 そして、多くの世間の人たちも幸福を求めて自己存在価値を求めています。

 しかし、外側の評価、地位、権力、名誉、人、財産によって得られる自己存在価値感は不安定であり、また、得られない場合も多いゆえに常に求め続ける苦しみを味わい、幸福にはなりません。

 オウムの人たちがしがみついていた自己価値感も永続せず崩れていきました。
 世間の多くの人たちも、それを日々経験しているはずです。

 今の時代、なかなか自己価値を感じることが難しい時代のように思います。
 仕事に存在価値を感じられず、人との関係も深い人間関係がもてず、その中で感じる自己存在価値も当然持てない。

 そうなると、半ばやけになりマイナスなことで自己存在価値を感じようとする人も出てきます。

 難しい時代ではあります。

 しかし、だからこそ、ありのままの自分で存在価値があるという実感に至る以外、本当の幸福はないと気づくチャンスでもあるのではないかと思います。

 今の自分は偽の自分、本当の自分は素晴らしい自分なんだと思うことで、なんとか自分を保っている人も多でしょう。しかし、それは危険です。それは、妄想の中で自分を素晴らしい存在に仕立て上げてしまうことです。

 現実社会のなかで自己存在価値を感じられるものを得ることができないと、妄想・空想の中で素晴らしい自分を作り上げる方向に行きやすくなります。

 引きこもりの人たちなどそうなのでしょう。しかし、それをやり続けていると、ますます現実に対処できない、無力な自分が増大し、より自己存在価値を感じられなくなるという悪循環に陥ることになります。

 今の自分は偽りで本当の自分は・・・という思いで、解脱・悟りを求め地道な努力なく一気に変身できることで、オウムに多くの人が集まったのでしょう。

 現実の自分は抹殺し、ほうむり去り、妄想の自分に変身する。
 こういう思いで宗教やスピリチュアルの世界にはまっている人たちが、かつてのオウムのように今も存在していることでしょう。

 それを解決するには、自分がすべてのものとつながって一体であり、その中で生かされている事実を実感することです。

 生きるために必要なものはすべて与えられているという事実。今、生きてるということは、生きるために必要なものが、生まれてからずっと今まで与えられ続けてきたということ。

 それは、食べ物であったり、衣服であったり、住居であったり、とさまざまの人が生きる上で必要なもの。もし、与えられていなかったら、今、現在生きていない。

 そしてそれは、無数の多くの人々、自然、宇宙によって与えられているということ。

 そういうことをしみじみと実感することによって、自分が生きる価値ある存在であると思えてきます。生かされているとは、生きていていいということ。赦されているということ。
 生きているということが存在価値がある証拠と考えられます。

 この実感が得られれば、外のもので自分の存在価値を感じる必要はなくなるでしょう。

 これは、今、生きている人なら誰でも本人がその気になれば実感できることです。今そのままの自分で存在価値を感じられる方法です。

 「自分の居場所がない」という声もまま聞きます。共同体の崩壊が、そのままの自分を受け容れてくれる場の喪失につながっています。「受け容れられる」=自己価値を感じることです。

 社会において居場所がない人が、オウムで居場所を見つけたということです。ですから、この自己存在価値の問題は、重要な問題です。

 自分が特別な存在でなくても、他と比較して優秀でなくても感じることができる自己存在価値。

 これこそがオウム脱却の最終ポイントではないかと思います。そして、オウム脱却の最終ポイントは、結局、すべての人が幸福になる最終ポイントでもあります。

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