『私のオウム真理教総括』
全体に文章が長いために、まず、最初に、反省と総括を要約したものを述べさせていただき、その後に、より詳しいものを書きたいと思います。●事件についての反省
2006年の秋頃だったと思います。上祐代表が、私たちに、事件について反省しなければということを話しました。事件はとんでもないことであり間違っていたという話は、すでに2005年からなされていて、私もそういう認識はしていましたが、自分が自分のこととして事件を反省するということには思い至っていませんでした。
自分はヴァジラヤーナ活動も知らないし、もちろん、事件に関わったわけでもないので、事件の反省と言われてもピンときませんでした。
しかし、上祐代表のその後のアドバイスで、事件そのものでなくても、事件後も教団に残ってやってきたことの中に反省すべき点はないか、あるいは、自分の心の要素の中に事件と繋がるものがないかとみていくことで、少しずつ事件に対する自分の責任ということを自覚するようになりました。
また、サリン事件の後遺症に苦しんでいる方の様子を知り、償いの気持ちが強く出てきました。
94年から地下鉄サリン事件までの間、支部活動において、信徒にたいしてフリーメーソンの陰謀、ハルマゲドンが来ること、麻原彰晃こと松本智津夫死刑囚(以下、麻原と表記)は予言されたキリストであるなど、大いに煽り、ヴァジラヤーナ的感覚をよしとしていたわけですから、その点は事件の実行犯の人たちと変わらないわけで、事件を後押ししていたことになります。ですから、当然、反省すべきことです。事件後も、麻原信仰を続け、世間の人たちに不安を与えてきたことは反省しています。
また、<まとめ>の分析にも書いていますが、自分もグルを祭り上げていったひとりであり、グルと弟子との共同作業によって事件へと向かう妄想世界を作り上げてしまったのであり、自分の潜在意識の願望、欲求の現れとしての麻原でもあるので、責任は十分にあります。(是非、<まとめ・分析>のところを読んでください)
自分で明確に、この先ずっと、事件の償いをしていくことの決意をしたのは、2007年の2月末です。この年の3月のアーレフ脱会、その後の新団体設立に向けての意思決定のときでした。このときには、事件の責任を自分のこととして捉えられるようになり始めていたということだと思います。
●麻原について
今現在、麻原をどう思っているかというと、麻原には、自己誇大視、自己顕示欲の強さ、誇大妄想、被害妄想、反社会性など人格障害的ゆがみというものがあったと思います(麻原の人格分析については、私たちが、心理学的視点からの団体全体の総括の中でより詳しくしていますのでそちらを参考にしてください)。
そして、それが、教団の性格にも大きな影響を与え、事件にまで至ってしまった大きな理由だと思っています。当然ですが、麻原がいなければオウム真理教の事件は起こっていません。いくら、麻原一人の責任ではないといっても、多くは麻原に依るものです。その点はけして忘れてはいけないと思います。そういう認識のもとで、その麻原をグルと仰いでしまった自分(たち)の責任があると思います。
もちろん、麻原は神でもなんでもありません。自己の妄想世界におぼれてしまった一人の人間です。欠点もあれば、また、どんな人にもあるように長所もあった一人の人間です。ヨガの行者としては秀でたものがあったのではないかと思います。
また、この世の中の問題点をなんとかしていかなければならないという、世直しの気持ちはあったと思います。実際、かつて自分の口からそういうことは言っていたようです。しかし、その実現方法が人格のゆがみなどの影響を受けて間違ったものになってしまったものと思います。そして、その間違いは取り返しのつかないほど大きな間違いだったのです。
●今後の実践
オウム真理教がどうして日本社会に生まれたのか、影とその投影という視点を含み、社会心理学的に分析していくことによって、現代社会に欠けているもの、現代人が抱えている問題を探り、オウム的なものが出てこないよう社会に訴えていくことをしていかなければいけないと思っています。
それは、この私の個人総括に続き、私も中心となって皆で行う心理学的視点からの団体の総括という形をとって行っていきます。その後、その延長線として、現代社会と現代人の状態を新しい仏教的見地にたった心理学によって分析していくことを行っていきたいと思っています。それによって、現代社会が抱えている問題を超えていく方向を指し示すことができればと思います。
また、オウム真理教の問題点のひとつとして、霊的進化と人格の発達のアンバランスの問題がありますが、スピリチュアルブームである今、その落とし穴である霊的体験の正しい理解を広め、人格の発達との関係をさぐっていくことは、多くの人にオウムと同様の失敗をさせないために必要なことであると思います。
そして、具体的に個々人には、現代の社会問題化している個々人の心の問題の解決に仏教的教え(心理学)と技法をもとにしたセラピーによってアプローチしていくこともしていかなければならないと思っています。
これらすべては、オウムの失敗から学ぶことが土台となっています。ですから、常にオウムの失敗の分析に立ち返りながら行っていきたいと思います。こうしたことを行うことが、償いのひとつの形だと思います。
<本編>
☆「生きる意味」を求めて
私は、中学後半ころから「なぜ、人は生きているのだろう?」という「生きる意味」に対する疑問が生じだしました。思春期によくある「はしか」のような疑問です。
高校、大学になってからもその問題は消えず、宗教(主に仏教)・哲学・心理学・教育・小説などの本を読みました。もちろん、答えは出るものでなく、自分でもそんな問題を考えるのをやめようと何度も思いましたが、無理でした。
大学一年のとき、私が子供のころからずっと病弱であった母が亡くなりました。それから半年後、山登りのサークルの友人が山で遭難死しました。ずっと病弱であった母の人生、若くしてこの世を去った友人の人生、その二人の死により、人生の意味、生きる意味をよりいっそう考えるようになりました。死ぬときに悔いのない人生を送りたいと思いました。
だからと言ってけして暗かったわけではありません。一般的なごく普通の学生がやる遊びはやっていました。
どう生きるのがいいのか?
どう生きたら幸福になるのか?と考えるようになった背景には、漠然とした空しさがありました。
何かものたりない人生、充実した人生を送るための意味、価値を求めていました。自分の存在する意味、生きる意味を。
☆平凡な人生は取るに足らないもの
それは通常の生き方に意味を見出せないということでした。ごく普通の生き方が取るに足らないつまらないものという思いがありました。サラリーマンになって平凡に生きるのはつまらない、面白みがないことだと価値付けていました。平凡な人生をバカにしていたと言ってもいいと思います。まだ、本当に自分の人生を歩き出してもいないくせに、すでに一生懸命自分で人生を歩いている人たちを蔑んでいたのです。若者によくある傲慢さです。
そして、自分はこんなつまらない生き方をする存在ではない。特別な存在でありたいし、あるはずだと思っていました。今の自分はたいしたことないつまらない存在であるがそれは本来の自分ではない、本当は素晴らしい特別な存在なのだという思いがありました。
これは、子どものころ、いわゆる偉人の伝記が好きだったということとも関連していると思います。自分もこういう偉大な人になりたいという向上欲求であり、いいものではありますが、裏返せば、平凡さをバカにする要素にもなるものです。
本当の自分は今の自分とは違い、素晴らしい存在なのだという思いは、劣等意識と優越意識です。このことがオウム真理教にはまって行った原因のひとつだと思っています。このことについては、あとでまた詳しく書きたいと思います。
平凡のなかにこそ偉大さがあり、素晴らしいことであることが理解できなかったのです。
地道にこつこつとやっていくことにより学び、人間的成長が促されることが理解できていなかったのです。
このことは、地道な努力を厭い、スタンドプレー的な一発屋的な性格にもつながっていきます。また、忍耐にも関連してきます。
また、今のままの社会ではよくないという思いもありました。この思いと平凡さを取るに足らないものと思う意識は相互に関係しています。取るに足らないものの証明として社会問題を持ってきて、自分の考えを正当化させていたところもあるように思います。
☆就職
そういう思いがありましたから、学生時代、就職活動を行う時期になっても一切行いませんでした。自分の生きるスタイルが確定していなかったし、安易に確定させることも拒否していました。"取るに足らない生き方"に踏み込んで行くことを拒否していたということです。簡単に言ってしまえばモラトリアムであったわけです。
しかし、ひょんなことから就職が決まってしまいました。知的障害をもつ子供・大人の福祉施設で働くことになりました。まだ就職が決まっていない友人が言いました、「お前いいよなあ。何にもしなくて決まって。棚からぼた餅だもんなあ」と。私を知る多くの人は「お前に合ってる」と、私の就職先を聞いてそう言いました。自分でも自分に合っていると思いました。
知的障害を持つこの人たちがどう生きることが幸福なのか? そのために自分が何をしたらいいのか? 何をしてあげられるのか? 何ができるのか?と考える日々でした。
今まで考えてきたテーマ(生きる意味)そのものの仕事についたのです。仕事のやりがいはありました。
☆何故、オウムに入ったのか?
やりがいのある仕事をしていたそんな私が、何故オウム真理教に入り、出家までしたのでしょう?
自分自身の生き難さと、この今の世の中のあり方、近代以降の物心二元論からはじまる科学尊重主義による物質的・精神的弊害に、これでいいのかという疑問、このままでは世の中は悲惨な状況にすすんでいくのではないか、そして、自分が生きている間に第三次世界大戦が起きるのではないかという思いが生じていました。それは、中学時代に話題になった五島勉さんの『ノストラダムスの大予言』が少なからず影響を与えていました。
もう少し詳しく書くと、
①社会このままではよくない ← ノストラダムスの予言・世相の影響 → 仏教的生き方による解決
中学生のとき、五島勉の「ノストラダムスの大予言」がベストセラーになり、私も読みました。もちろん、単純に信じたわけではありませんが、この予言とは違っても何か大きな不運・破局的なことが起こるかもしれないというわずかながらの不安と恐怖(今、考えるに)が生じたと思います。
この本が出版されたのは1973年でした。
この当時の世相は
1969年は学生運動が吹き荒れ、安田講堂での攻防をテレビで見ていました。また、アメリカにおいてはベトナム反戦運動が盛んでした。
1970年には、赤軍派による「よど号」乗っ取り事件が、そして、1972年には浅間山荘事件が起きました。
1973年はオイルショックによるトイレットペーパー騒ぎ。この年あたりから、エネルギー危機により、少資源・節約の時代に入りました。そういった世相を反映したこともあってか、終末論の書籍が増えたということです。ノストラダムスに加え、小松左京の「日本沈没」も出版されベストセラーになりました。
このころから、それまでの経済成長に陰りが見え始め、不安が少しずつ心に進入しだしてきました。石油ショックによるトイレットペーパー騒ぎなどまさに不安が生み出した現象です。
1974年には、経済成長率が戦後はじめてマイナスになりました。消費需要が落ち込み倒産する会社が増えました。また、ユリ・ゲラーの影響で超能力ブーム、オカルトブームが起きました。また、学生運動の内ゲバが激しさを増しました。
69年以降、今までの秩序が少しずつ崩れていくような出来事が起こりだし、人々の心に不安が生じだし、目に見えないもの、通常では起こらない何か超常的なものにたいする関心が高まりだしていきました。それは、終末論、超能力・オカルトブームとして現われました。突破口を探していて、焦りの現われとして学生運動の内ゲバが起こり、不安の現われとして終末論、超能力・オカルトブームが起こったのでしょう。
1975年になると、完全失業率100万人を突破(不況の深刻化)、高度経済成長に陰りが見得はじめてきました。
こういう時代に思春期を過ごしているということは、私にも強くその時代の雰囲気というものが影響を与えていました。米ソ冷戦時代でもあり、大学時代、自分が生きているうちに第三次世界大戦は起こると思っていました。私の大学時代は1977年から1980年代初めの時期です。何か世の中全体がいい方向に向かっていないのではないだろうか、という思いがありました。公害問題、地球環境問題も騒がれ、ローマクラブなどがこのままでは何年後には地球はこうなってしまうというデータを出していました。立花隆さんの「文明の逆説」という本にも感化されました。家庭内暴力、校内暴力が激しくなっていて精神の荒廃も言われていました。それらのことをひっくるめて社会に対して否定的見方をしていました。世の中どうにかしなくてはという若者にありがちな精神でもありました。
不確実性の時代と言われ、先に書いたようにノストラダムスの影響もあり、社会全体に漠然とした不安があったように思います。
自分自身の心の問題と社会の状態を良い方向にするためにはどうしたらいいのだろう?と考えていた私は、中学のころから興味をもち出した仏教にその救いを見出しました(何故そんなころから興味を持ちだしたかわかりませんが)。これからは仏教的生き方をしていかなければ、社会(地球)は悲惨な状態になると思っていました。それは、各個人の心・精神の問題も社会の現象も、地球の環境問題も仏教的な生き方をすることによって乗り越えていけると思っていました。それは 今でも基本的には変わっていません。
そして、ユートピア、理想の社会というものを考えていました。
このあたり、オウムにはまっていく下地は十分あったと思います。シャンバラという理想郷、最終戦争においてそこの王が蛮族と戦い勝利するというシャンバラ予言が、自分たちの団体だということを抵抗なく受け入れる下地です。
②自分の苦しみ脱却、成長 → ヨガや瞑想に興味 → より高度なヨガ求める
もう一方では、先にも書いたように生きる意味を求めていて、漠然とした空しさがあり、それを埋める精神的充実感を求めていました。素晴らしい自分とは、精神的に充実した存在ということでもありました。それは仏教的生き方を自分自身がしていくということで得られると漠然と思っていました。
自分で瞑想の真似事をやっていましたが、一時的な安寧は得られても本質的に変化していないこともあり、もう少し具体的なものをやった方がいいのではと、本を見ながらヨガをやり始めました。ヨガは少しやっただけで効果がありました。
その頃はもう仕事をしていて結婚もしていました。今思うに自分でも熱心だったなあと思います。誰かにやれと言われたわけでもないのに、仕事から帰ってきてアーサナを1時間~1時間半はやっていました。心身ともに爽快ですっきりするのでやっていました。そうやって数ヶ月くらいたつと、その本の内容では物足りなさを感じ出し、もっと本格的にやりたいと思うようになりました。
そのとき、麻原彰晃著「生死を超える」という本を見つけ、その本を使ってヨガをやりました。この本にクンダリニーのことが書かれていて、自分もできればクンダリニーを覚醒させたいと思いました。しかし、この段階では入信する気はありませんでした。仏教が好きで本を読んでいましたが、団体に属そうとは思いませんでした。そうは言っても、書店でオウムの他の書籍はないか探して月刊誌「マハーヤーナ」などを買って読んでいました。
「生死を超える」を買ってから半年ほどして、「イニシエーション」という本を見つけました。これには非常に感激しました。私は心の安定・充実を求めていたので「悟り」に興味があり、この本はそのことについて書かれていて、「生死を超える」を読んだときよりも「スゴイなあ」と思いました。また、この本には核戦争が起こるという予言が書かれていて「やはり核戦争はあるのか」という思いを生じさせました。「悟り」と「終末予言」これは一見ちぐはぐに思えますが、心の安定と社会の様相に危うさを感じていた私にはぴったりとくるものでした。
それでも入信はしませんでした。まだまだ団体に所属することに抵抗感があったからです。しかし、それから半年後、ある苦しみが生じ「もう、入るしかない」と思い入信しました。書籍を読んで「スゴイ」という思いがありましたので、苦しみが、団体に所属する抵抗感を超えたときはすんなり入信しました。
前述したように、理想の社会というものに興味があった私は、現状の社会を否定したオウム真理教の打ち出していたシャンバラ化計画というものにも魅力を感じたのです。個人の生き方、社会のあり方この両方に対して、「救済」を打ち出していたオウム真理教は、まさに私の求めていたものであり私の心にフィットしまし た。
☆入信はじめてのイベント ~水中サマディ~
入信して、はじめの数ヶ月間はそれほど活動しませんでした。それでも、富士の後に総本部道場となるところで行われた水中エアータイトサマディというイベントには参加しました。
これは麻原が密閉された部屋に入りさらにその部屋を水槽の中に入れ空気が部屋に入らないように完全密閉された状態にして、通常では酸素不足になり死んでもおかしくない長い時間その部屋にいるというもので、それでもサマディという深い瞑想状態になれば酸素消費が減って生きていることができ、それが解脱者の証明であるということでした。確か富士山の噴火をくい止めるということ行われたのだったと思います。
しかし、何らかのアクシデントがあり(水槽の水漏れだったような)、すぐに中止されました。そして、日を改めてもう一度行うということでした。
再度行われたサマディでも当初言っていた日数は行われず、しかも本人でなく、弟子の石井久子さんが12時間酸素消費がなかったということで、目的が達成されたということで、サマディ成功ということで終わりになりました。麻原自身が行うのを取りやめた理由として接着剤から有毒ガスが発生したためと聞かされました。弟子ができたのだから、そのグルができるのは当然であるという論理だったと思います。
それを聞いて、正直、私は、少し落胆しました。言ってることとちょっと違わないか?という疑問が生じました。しかし、有毒ガスが発生したなら仕方ないなという思いと、まだ入信したてでほとんど活動らしい活動をしていない自分はまだよくわかっていないからそういう疑問が生じたのかと思い、疑問は大きくなっていきませんでした。
☆シャクティパットを受けて
その後、麻原のシャクティパットが残り何人で今後もう行われないということになったというので、是非受けたいと思い、そのための条件である単位取得のための修行をはじめました。
シャクティパットを受けた人の体験談を読んでいたので自分はどんな体験をするのか楽しみでもあり、期待と少しの緊張がありました。
仰向けに寝て額を指でこすられているだけなのに背中がかなり熱くなりました。これは不思議でした。あと、ちょっと意識が違うことに向いたとき「はい、集中して」と声をかけられました。今考えればたいしたことでもないのですが、そのときは「私の意識状態を把握している」と思い驚きとともにスゴイという気持ちが生じました。終わった後、意識が「スッコーン」と突き抜けたようで意識の深いところまで非常にすっきりクリヤになりました。
シャクティパット後は体の熱くなり方が違って、クンダリニーが覚醒したのかなと思いました。そして、ダルドリーシッディという座った状態で体が跳ねだし、感動しました。自分の意思とは関係なく体が跳ねるのですが、クンダリニーが覚醒すると起こると言われていて、その通りになったので、オウム、麻原に対する「信」を強めることになりました。しかし、今思えば、こういったヨーガの霊的体験を過大視していったのがオウムの過ちだったのです。
しかし、当時は、霊的体験を過大視して、そういった結果が出てくると、修行に対する励みにもなり道場に通う回数も増え、バクティと言われる奉仕もやるようになりました。
その年の暮から年始にかけ、特別イニシエーションと言われるものを受け、続けて「狂気の集中修行」と呼ばれる10日間の修行に参加しました。在家信徒には厳しい修行でしたが、様々な霊的な体験をし、同様にそれを過大視し、「信」を強めていったのです。
「信」が強まれば自分の身近な人に入信してほしくなります。それは妻と一歳になったばかりの子どもでした。
春になんとか入信させ、時々一緒に道場に通い修行しました。そしてそのころには、出家したいという気持ちが生じていましが、子どもがいる身ではそれは叶わないことと諦めていました。
クンダリニー体験を含み、修行による心身の変化が興味深く面白かった。出家したいという思いは、そういう面白い興味深い修行というものに集中できるからという理由もありました。
☆優越感を満足させる修行体験
人がなかなかできないクンダリニー体験や修行での体験は、自分は特別な存在であると感じさせてくれるものでした。一般の多くの人は知りえない世界を知った・知っているという優越感情を満足させるものでした。さらに、そういうことを指導している素晴らしい人(麻原)を素晴らしい人だと理解できることが、それを理解できない人より自分が優れているという優越感を満たしてくれるものであったのです。それは心地いいものです。
このあたりのことは、当時、認識できていたわけではありませんでした。
さらに「救済」という大義名分によってさらに優越感情を与えられました。「救済」という崇高なものを志向する自分は優れているという思いです。
救済こそが第一義であり、もともとあった通常の社会生活など取るに足らないくだらないものという思いが正当化され承認されたのです。
そして、その後も信仰を続けることによって、取るに足らない一般的社会生活を送っている人たちに対する蔑んだ感情が、教団の説く「選ばれた魂と真理を知らない凡夫」という形での蔑みと見事にマッチしてしまったのです。もともと特別な存在でありたかったが、現実ではそうなれていない劣等意識があったので、そのもともとの欲求を満たしてくれる(承認してくれる)教えをすすんで受け入れていったという構図です。
☆「サンデー毎日」のオウム批判
その年の秋から、「サンデー毎日」によるオウム真理教、麻原彰晃批判がはじまりました。私は入信してまだ「信」のあまりない妻がその批判によって修行から遠ざかってしまわないように、オウムを擁護する話を妻によくしました。そのうち、坂本弁護士事件が起き、オウムがやってないことの主張を一生懸命していました。何を根拠にやっていないと思っていたのかといえば、仏教の教えを根本としてこれだけ真剣に修行している団体がやるわけがないと思っていたのでした。この思いは地下鉄サリン事件が起こったときも同様でした。
ひとつだけ私の麻原に対する信頼にほんの少し傷がついたことがありました。それは、「サンデー毎日」の麻原が薬事法違反で逮捕されたという記事によってです。その記事を読んで「せこい」と思いました。なんか潔くないというか、「せこいよなあ」と思ったのです。オウムを辞めようと思う気持ちが出るまで強くなかったのですが、麻原に対する信頼にほんの少し陰りが生じました。
当然ですが、教団では、「サンデー毎日」の記事、坂本弁護士事件の疑いを教団に対する弾圧だと言っていました。
☆選挙と被害妄想
90年の総選挙出馬のときには、バクティ(奉仕活動)をやりました。
選挙の結果は落選でした。教団は落選について、本来は当選していたにもかかわらず、投票票が操作されたから落選したのだと主張していました。それを聞いた私は子どもっぽいこと言っているなと思いました。そんなことできるわけないじゃないかと。そんなことができてしまうと思うことは社会をバカにしているとも受け取れました。そして、被害妄想的だとも思いました。麻原自身は弟子たちにそう思わせただけで、自分自身ではそのような被害妄想は持っていなかったかもしれませんが、それを聞いた弟子たちが被害妄想的な人が多くそれを受け入れていったのかもしれません(被害妄想についての検討は後ほど)。
前年の「サンデー毎日」の批判、坂本弁護士事件の疑惑、さらにその前年の宗教法人認定が遅いことなど、選挙以前にも教団が謂れもない批判・弾圧を受けているという被害妄想的受け取りをしていて、弟子たちのなかに(教団の性格として)被害妄想を受け入れる土壌ができていたのではと推測できます。入信以前から、個々そういう傾向はあったでしょうが、それがより教団に所属していることで強まっていったのではないかと思います。
☆いよいよ出家
90年6月には妻と子どもをつれて出家しました。子どもをつれての家族出家というのがそれより半年くらい前から認められていました。出家の願望があった私は、教団の「大予言セミナー」というセミナーに参加し、壊滅的なことが起こるということで出家するしかないという扇動に、妻子をともに出家させるために半ば意図的に乗っかりました。妻子を置いて自分ひとりで出家するわけにはいきませんでしたから、自分が出家するためには妻も出家させなければならなかったのです。
出家後は妻子とは別々の生活になりました。戸籍上は夫婦でも出家者は実質的に独身であることが決められています。出家したからには、一般世間の規範とは違う規範に従うことになります。半年後、お互いの修行のためということで離婚しました。離婚することに抵抗感はありませんでした。なぜなら、出家したくても結婚して子どもがいることで出家できず結婚したことを後悔したこともあったからです。
出家後は、修行と「救済」につながるワーク(奉仕業のこと)だけで生きることができることを嬉しく思いました。学生のころから思っていた多くの人が仏教的生き方をすることによって社会が良くなっていくということと自分の幸福が得られることの両方に専念できる生活であると思ったからです。
出家してすぐは修行だけに専念する期間でした。場所は清流精舎とよばれるところで、後にヴァジラヤーナ活動が活発になると武器製造をしていたところです。
ある日、その建物の消防検査のために消防署員が来ました。それに対応した師(クンダリニーヨーガの成就者)の人が、喧嘩を売るような態度で対応していました。当然の職務として来ているにもかかわらず、疑ってかかって中に入れようとしません。出家したばかりの私は、その余裕のないイライラというか嫌悪のある対応にある種軽蔑を持ちました。
今になって考え見れば、何故そんな対応をしたのかは解ります。そのころすでにボツリヌス菌の培養が行われ、その建物がそのための特殊なビニールで気密性を持たせた施設、いわゆるシェルターだったからで、そのような特殊な状態を知られたくなかったのでしょう。後ろめたさというか、悪いことをしていれば、外部の人間が立ち入ることを拒絶しようと思い、イライラしたり嫌悪したりするのは当然でしょう。
オウムは非合法なことをやることによって、発覚することを恐れ、必要以上に警戒心が強くなり被害妄想的になり、閉鎖的になり、嘘・欺瞞が多くなっていったのでしょう。心明るく屈託なく正直に生きるためには、「悪い」ことはするものではありません。「悪い」ことをしていて物事がうまくいくことはありません。最後は身の破滅を招くだけです。
☆波野村騒動
修行だけの生活が二ヶ月ほど続きました。その後、九州の阿蘇に行きました。オウムの国土法違反で逮捕者もでた土地です。熊本県波野村のオウム立ち退き騒動の渦中に入っていきました。
私は警備のワークをしていました。村から教団の施設を作っている土地に通じる道路の各ポイントで工事車両の通行整理や村住民や右翼の通行妨害などに対処する仕事です。住民や右翼が教団の進出反対のために通行を邪魔したり、また暴力をふるってきたりしていました。私も一度暴力事件に巻き込まれ、警察に行って事情聴取をされました。
また、何百という村人が道の関門(私たちが警備しているポイント)に押し寄せ、中には酒を飲んでいる人も何人かいて、いつ暴徒化してもおかしくない状態で、機動隊の人も自分たちの力では抑えきれないからどうなっても責任持てないからと私たちにそのいつも警備している場所から引き下がるよう何度も要請してきました。正直、怖かったです。私たちは3人だけでした。
当時、阿蘇を統括していたのは村井さんでした。村井さんが麻原にどうしたらいいかと指示を仰いだところ、「絶対に引くな」という答えが返ってきました。警備している場所から引き下がるなということです。その返答で覚悟が決まりました。グルがそう言うなら何をされようが逃げまいと思いました。心身が引き締まりました。弾圧に屈することなく立ち向かう勇者きどりであったかもしれません。また、自分のカルマを受け入れようという思いもありました。
その後もしばらく、緊張した状態が続きましたが、少しずつ村人が引き上げはじめました。徐々に帰りはじめ人数が減っていきました。それを見て、安堵の気持ちが湧き上がり何事もなかったことに感謝しました。
☆出家した子どもたち
警備のワークは4ヶ月ほどやって、そのあとは、在家時代の仕事に関連して出家者の子どもたちの修行、勉強、生活面の面倒をみるワークにつきました。
修行も勉強も子どもたちはなかなかやりたがらず、やるように仕向けるのに苦労しました。煩悩を強めるからということで世間一般の遊びはできず、食べ物もお菓子も制限がありました。子どもなのだからそういう生活条件は可哀想という思いも少しはありましたが、煩悩を過剰に刺激される世間で育つよりその要素が少ない生活は恵まれていると思っていました。
しかし、正規の教育も受けることもできず、狭い世界しかしらないことは良かったとはいえません。また、子どもは理解できて宗教的生活にどっぷりつかっているわけではないので、強制的にやらされているという意識も多分にあったと思います。95年のサリン事件後、多くの出家していた子どもたちが保護されましたが、栄養状態が悪かったことが露呈されました。
特殊な状況の中で、宗教的教育をうけたことは子どもたちのその後にどう影響を与えているのだろうか?
私自身、自分の子どもをそうような状況の中に入れた者として、そして、多くの子どもたちと関わった者として知ることは必要だと思っています。しかし、その点に関しては何もできていません。今後の課題として残っています。
☆毒ガスとキリストのイニシエーション
その後、93年11月ころ、上九一色村に行き、建築や警備のワークにつきました。ちょうど教団が毒ガス攻撃を受けていると言われていたころです。毒ガス対策のコスモクリーナーというものの製作・設置で上九はある種沸き立っていました。
それが毒ガスかどうかわかりませんが、何かはあったと思います。自分自身、不自然に体調がすぐれなくなることもありました。さらに多くの出家者が私より重い体調不良を訴えていましたから、何もなかったとは思いにくいです。アメリカやフリーメーソンというものが毒ガスを撒いているという陰謀説をそのまま認めていたわけではありません。
そんなバカなことあるわけない、被害妄想的だと思っていた一方で、もしかしてそういうこともあるかもしれないと思っていたところもあります。今となれば教団の自作自演かもしれないという選択肢もあるのですが、当時としてはそんなことはまったく思いもよりませんでした。真実は今もわかりません。
94年5月ころ、薬物による「キリストのイニシエーション」というものを受けました。
このイニシエーションはいきなり皆に行われたのではなく、一部の人たちに密かに行われていました。私はその頃、上九一色村の施設で警備をやっていました。
そういう実験的なことが行われるようになった初めのとき、医療関係の人が、「どんな人でも絶対ここから外へ出さないでくれ」と警備をしていた私に言いました。私は何かただならぬものを感じました。
その日から一日おきくらいのペースで深夜、人を密かにつれて車が来ます。そして、時々人の怒鳴り声が聞こえてきて、車が急に発車してどこかにぶつかったりということや、ボーっとしてまるで夢遊病者のように意識がないような状態でふらふらと歩いて門の外に出て行こうとする人がいて声をかけても何も反応せず、そのままスーっと外に出て行ってしまい、慌てて医療関係の人が追いかけて来たりということなどが何度かありました。
そういう人たちの尋常でない様子から、これは何か秘密なことが行われているなということはわかりました。そのころ、教団が薬物と関係しているらしいという噂が耳に入り、尋常でない行動をしている人たちを見て、今行われていることに薬物が使われているなと思いました。
そのうち、すべての出家者がそのイニシエーションを受けることになり、私も受けました。体験は強烈なものでした。イニシエーション後、「こんなイニシエーションができるグルは凄い」と思いました。何故そう思ったのかといいますと、イニシエーション前ずっとあることの願いを発し続けていました。
そして、イニシエーションの体験が見事それに一致する内容だったのです。イニシエーション開始時も麻原を目の前にしてその願いを発していましたので、その体験を麻原が与えてくれたのだと思うのは当時として当たり前のことでした。自分の発していた願いにあった体験をさせることのできるグルは凄いと思ったのです。
しかし、今思えば、自分の体験するものは、すべて自分の意識内にあるものですから、あえて麻原と結びつけて考える必要はありませんでした。自分が強く願っていたので意識にあるその部分の体験をしたということに過ぎません。しかし、今となってはそう思えるのですが、当時ははまっていましたから、何でもグルの力と思い込んだのでした。
☆支部活動 ~信徒を煽る~
その後、省庁制になり、私は支部活動のワークになりました。場所は福岡支部でした。その頃は信徒に対しても、フリーメーソンの陰謀を強く訴えることが盛んに行われていました。「戦いか破滅か」というそのためのビデオも作られました。アメリカという国自体がフリーメーソンによって運営されていて、世界を支配するために、悪しきことをしている極悪アメリカ「鬼畜米」という感じに作られていました。
また、「ヴァジラヤーナサッチャ」という月刊誌も刊行され、私たちの日々の生活もフリーメーソンに牛耳られて、日本政府もうまく支配されているという陰謀論一色の内容でした。そしてそのフリーメーソンが教団を攻撃しているという筋書きです。教団の被害妄想を信徒にも植え付け、そのようなアメリカを悪魔と見立て闘争心を煽りました。
そして、不謹慎極まりないのですが、当時の私は、そういう「教化」は楽しんでいました。陰謀論は単に遊び感覚で捉えると面白いのです。当時の私自身にも遊び感覚がありました。
しかし、今思えば、その延長にサリン事件があったのですから、この点は深く反省しています。結局、救済とか何とか言っていながら、その一面では、「遊び」感覚があり、しかも、その遊びの裏には恐るべき狂気があり、その中で人殺しまで行なうに至ったところが教団の悲劇があったのかもしれません。なんとも、愚かしく、悲しく、矛盾に満ちています。
とにかく陰謀論で煽ることに「乗って」いました。このように多くの人に被害妄想的情報を与えたことは教団がよりいっそうヴァジラヤーナ活動を推進させることにつながっていったのだと思います。具体的・現実的にはそれによって多額の布施を得たということです。世界を支配するフリーメーソン(アメリカ)が世界を破局に導くという煽りは、94年夏前くらいから95年事件発生まで続いていました。
それとあいまって夏からは信徒に「キリストのイニシエーション」が行われました。お布施は100万円でした。これもヴァジラヤーナ活動のための資金集めの目的もあったのだと今となっては思います。
このイニシエーションの信徒の体験は、過去世のグルとの縁、六道輪廻の恐ろしさ、カルマの法則、グル以外救ってくれる存在はいない、グルは偉大というテーマのものが多かったように思います。そしてそれらはすべてグル以外意味のあるものはなく、グルとの縁の大切さ、帰依の大切さへと受けた者の意識を向けました。
秋からは、「決意」と呼ばれる修行がはじまりました。これは、4~5つの段階になっている文章を各段階ともその人の年齢に合った規定数を何万回か唱えるものです。第一段階は世の中の悲惨さ、一般的普通の生き方を否定する内容の文章で「この世の中は三悪趣のデータに満ちている・・・」という文章から始まっていました。三悪趣というのは輪廻転生で地獄・餓鬼・動物と言われる苦しみに満ちた三つの世界のことで、現代社会にはその三つの世界に至る情報ばかりで普通に生きていると次の生はその三つの世界に落ちてしまうということを現わしている内容です。徹底的な現実社会否定の内容でした。
その後の段階は、グルの偉大さを説いているものや最終的には出家に向かわせる内容になっていました。そして、各段階の文章を規定数唱えると、その各段階にあった内容の誘導瞑想が行われました。簡単に言えば、催眠をかけ決意の内容に対応する情報を対象(信徒)に語り聞かせるというものです。催眠状態というのは潜在意識に入った状態で、その深い意識に暗示的に情報を入れていくものです。
私は福岡支部での誘導瞑想の担当者でした。社会の悲惨さとグルの偉大さを吹き込みまくりました。そして、人に情報を語り聞かせるということは、自分にも情報を入れていることになり、私自身いっそう陰謀論や破局を信じる気持ち、それらと対立していくこと、グルは偉大だ、という思い込みが、強まっていったのです。
秋から年末年始にかけては、もうとにかく信徒をルドラチャクリンとか呼ばれるイニシエーションに信徒を放り込みました。それと並行して、陰謀論、フリーメーソンへの敵愾心を煽り、そしてそれら「悪魔」を粉砕する真理の戦士という思いを奮い立たせるための勉強会、さらに、「アジテーション」と呼ばれる文章、まさにアジテーションを信徒に師が力をこめてアジテージすることを行っていました。この当時は、もう煽りに煽っていました。
この一連の心理的な誘導の流れは、悪い意味で非常に巧妙にできていました。
まとめるならば、「世界は悪の勢力に支配され、近いうち破滅に向かう。もう世の中は悲惨な状態だ。そしてさらに特に自分たちはこの悪の勢力から弾圧を受けている。この悪の勢力に対抗して世界を救えるのは自分たちの偉大なグルしかなく、自分たちはその偉大なグルの救済のお手伝いをする弟子である。さあ、今こそ立ち上がれ」といった煽りです。
今思えば、末期的な、異常なハイテンションであったと思います。
布施集めも、家の抵当権を無理やり持ってこさせたり、保険を解約させたり世の中が破局することを前提に無茶苦茶なことをやっていました。真理に布施させることがその人を救うことであるから、布施させるためにはどんな手段を行ってもよいというヴァジラヤーナの教えが背景にありました。救済のためなら「殺人」も 厭わないというサリン事件の意識とまったく同じものがあったのです。
これは本当に恐ろしいことです。偉大な救世主の行う救済のためなら何を行ってもいいという意識です。自分たちは偉大な救世主の偉大な弟子であり、そうでない一般凡夫はどうせ地獄・動物・餓鬼という世界に落ちていく哀れな存在であるから、その彼らを少しでもいい方向にもっていく(救済の)ためにはほとんど犯罪行為であっても許されるという思いです。このような誇大妄想の独善の世界に陥っていました。
今思えばとんでもないことなのですが、当時はまったくそう思えませんでした。この点は、本当に深く反省しなければならないと思います。そして、どうしてこうした独善の妄想世界に陥っていったのかの分析は後ほどしてみたいと思います。
☆サリン事件発生、事件は陰謀だ
95年3月20日地下鉄サリン事件が起こった日は福岡支部でそれまでとかわらない支部活動を行っていました。東京でとんでもない事件が起こったという話を聞いたときには、特に関心もなく話を聞き流していました。後からその事件をオウムがやったと言っているらしいと聞いたときも、またなんでもすぐオウムのせいにしたがるのだからと軽い気持ちで受け止めていました。それくらいサリン事件とオウムは私の中で結びつかないものでした。私だけでなく他の出家者も同様に受け止めていました。
強制捜査が入りそんな軽い気持ちではいられなくなりました。
しかし、救済を考え、仏教を元として多くの人の幸福を願っていたグル、団体なのですから、事件は絶対にやるわけがないと思っていました。ですから、やはりオウムは弾圧されている陰謀だというそれまでのマインドコントロール情報をより確信するだけでした。被害者意識がより強まるとともに警察、国家、というものに対する敵対感情も強まりました。
街頭で、事件はやっていないことを訴えるビラまきを連日やりました。麻原が逮捕されるとそれらの感情は高まりました。
逮捕された事件実行犯の人たちが自供をし始めましたが、それを真実の供述とは思っていませんでした。「やるわけがない」という強い思い込みによって事実であると思えませんでした。坂本弁護士ご一家の遺体が発見されても、まだ、やっていないと思っていました。
今思うに、現実感覚の無さに自分でも驚きます。ある価値観で構成された妄想世界に生きていると、それ以外の現実世界が幻影のニセの世界という認識がうまれてしまいます。人間とは、自分に都合のいい妄想を選び、それを正当化してくれるものを手放せなくなってしまいます。
そのころ、松本サリン事件の医療対策等にあったチームがその結果報告書をだしていました。その中にサリンによる体調不良の症状が出始めた時間が、実行犯が自供している犯行時間より前になっていたことを見つけ、これはサリン事件が陰謀である証拠である、と話す機会がある人に訴えていました。
事件はやったのではないかという情報が出てきたなかにおいて、やはりやってないのだと思わせるデータとして得意になって話しました。その結果報告書は正悟師に渡しました。それが教団全体としてどう使われたか、あるいは使われなかったかは解りません。
96年になると破防法の手続きがなされ、破防法がほぼかかるのではないかという思いがありました。そういう危機感から信徒に道場がなくなっても一人で修行できるようになってもらいたいという思いから、麻原に対する帰依を強くすることを指導しました。自分の汚れをザンゲし麻原にすがることを徹底的に行わせました。これが、いわゆる教団で、福岡における「魔境事件」と呼ばれるものにつながります。
これは麻原に対する依存の極度なもので、アーレフの原理主義といわれるA派と類似性があると思います。このとき、「極A派」をやって破滅したので、A派はこりごりと思い、今こうして代表派からひかりの輪に来ることができたのかもしれません。
☆事件、グルへの疑念
97年からは横浜、船橋、東京と関東圏の支部での活動を行いました。
一般の人を入信させようという導きは続けていました。オウムであることを隠して、ダミーサークルやヨガ教室で導き活動をやっていました。
最終的にはオウムと明かすのですが、その段階でほとんど去っていきます。一度など、喫茶店で相手と事件のことで激論になってしまいお店の人から他の客の迷惑だから出て行ってくれと言われてしまったこともありました。なんとも恥ずかしいことです。自分がいつ事件をオウムがやったと認めるようになったのかはっきりしていません。
ただ、この激論のときはやってないと思っていたから激論になってしまったのだろうと思います。いや、やったとは思っていても、それを認めたくないという思いがあったからこそ、強い反応を示したのでしょう。97年です。
97年で私にとって重要な体験は、麻原の裁判を傍聴したことです。久しぶりに麻原の姿を見た私はショックを受けました。腰縄をつけ、ひげがなく髪の毛も短くなった麻原は目が見えないこともあってよたよたとした歩みで法廷に入ってきました。正直、みすぼらしく見えました。「見るんじゃなかった」と思いました。何かが心の中で崩れました。心の中にあった威厳に満ちた麻原の姿が崩れ、ただのみすぼらしい「おっさん」であるという認識が生じたのです。
しかし、それも一瞬で消え、表面の意識では今までと同じようにグルとして仰いでいました。今思えば、麻原に対する帰依が崩れることにつながるものは一瞬にして麻痺させていたのだろうと思います。しかし、それは表層の意識で麻痺させただけで、潜在意識では帰依が崩れていくプロセスは進んでいたのだと思います。
そのうち、入信促進の活動をしていて、「事件がなかったら多くの人が入信しただろうに。麻原(当時は尊師)、なぜ事件を起こしたのですか?」と導き相手に自分の素性を明かし失敗したときに、そう思うようになっていました。
この問いを問うことは、事件はとんでもないことであるという事件否定につながり、ひいては麻原に対する疑問につながることなので、それ以上追究することはしませんでした。麻原を疑うことの恐怖がそうさせていました。
事件をやったことがわかっても、なぜ、教団に居続けたのだろうか?
事件はやったのであり、事件はおかしいと思っても、麻原の力は確かに凄いという思いがあり、それを否定することは難しかったのです。入信前、入信後、出家後 と書籍や体験談によって麻原の偉大さを読み聞きしてきていたので、麻原の偉大さを否定することはできませんでした。
そんな偉大な麻原のやったことならば、事件には深い意味があり、マハームドラーというグルが弟子に試練を与えて修行を進める方法であったのかもしれないと思うことはできました。
しかし、 それも100%納得できていたわけではなく、時々疑問が薄っすらわいても、それを打ち消していました。それは、麻原に対する信仰が揺らぐことは輪廻転生において苦しみの世界に落ちていくことになるという恐怖があったからです。
事件のことはできるだけ考えないでいました。考えれば苦しいからごまかしていたのです。日々の生活だけを考え将来に対する展望も修行に対する意欲もなく過ごしていました。それでも導きを続けている限り、「なぜ事件を起こしたのか?」という疑問は何度も湧き上がってきました。
心の中にもやもやしたものがあって、それをごまかして日々を過ごしていることがいい状態であるわけはありません。
それでも、ヨガや仏教の教えを人に伝えるということ自体は心嬉しいものであることは間違いなく、それは喜びでした。
99年9月になると、支部を閉めて支部活動の出家者は名古屋で修行になりました。その後、教団全体が休眠宣言をしました。多くの人は12月まで修行を続けていましたが、私は11月に修行を出て、その頃東京に道場はなくなり船橋を合同の道場として使用しました。オウムに対して団体規制法という新法ができ、施行が 間近だということで、その対応をどうするかということで教団内は揺れ動いていました。私自身、もう教団を離れようかという思いも生じていました。
そんな中で上祐代表が、刑務所から出所して教団に戻ってきました。しっかりとリーダーシップを取れる人が戻ってきて、私は教団に残ってもいいかと思い直しました。救われたという思いでした。
☆アーレフ時代
その後、アーレフ体制になり、事件被害者への損害賠償をすることになり、やっと公に事件のことを取り上げるようになりました。
2002年ころ、事件をやった麻原に対する思いが自分の中でどうにもうまく納まらなくなりました。真に納得していなかったグルには深い考えがあってとか、マハームドラーということで事件を受け入れることができなくなってしまったのです。それまで誤魔化してきたのですが、いつまでも誤魔化せなくなってきたのでした。これはまずいと思いました。それ以外の理由で事件を肯定化しなければ、自分の中で破綻が生じてしまうと思いました。しばらく不安定な状態が続きました。
そして、麻原の救済は失敗したという思いが生じてきました。成功とは(オウムの言う)真理が広まっているということだから、広まっていない今のような状態は、どう考えても失敗だという認識です。事件に深い考えがあったわけではなく、失敗したのだと。現実をみれば失敗したことは明らかです。疑いようのない事実です。否定しようがありません。
それまで、そんなことは考えないようにしていたのでしょう。ですから、こんなに当たり前のことが認識できなかったのです。その事実から考えれば、麻原が完璧な存在でないことは明らかです。こうして、事件は深い考えがあったという見解の収まりの悪さはなくなりました。そして、その後、徐々に徐々に麻原を相対的に見ることができるようになっていったのです。
2003年には、上祐代表による改革路線が打ち出され、事件のことを総会で話し、麻原の写真や映像、音声を道場空間からなくすことが進められていきました。上に記したようなこともあって私は改革の趣旨に賛成でした。麻原の写真などをなくすということに抵抗はありませんでした。導きをしていても、道場の麻原の映像に抵抗感があって入信しないという人がいましたので、映像をなくすことは喜ばしく思えたのです。
この頃の私は、麻原という人に入信する人を導くといより、事件に至るようなヴァジラヤーナ的教えを廃した仏教・ヨガの教えに導くことに価値をおいていましたから、映像がなくても何も問題がないどころか、喜ばしかったのです。
アーレフ体制になる前から、グルによって救済されるというより、仏教の教えによって救済されるという考えに少しずつ変わってきていました。そして、この当時は「麻原信仰」が薄れてきていました。
その後、改革は間違っていたということで上祐代表が修行に入ってからは、教団内において、「グル、グル、グル」と麻原に対する帰依を第一に重視するという逆行現象が起きました。説法と言えば、麻原の偉大さ・素晴らしさの思い出話ばかりを師と言われる人たちはしました。昔の麻原の秘蔵ビデオの上映など修行場では毎週行われていました。そういう動きに抵抗していたわけではありませんが、今更昔を懐かしんでいることに前向きなものを感じることができず、違和感があり、できるだけそういうものには参加しませんでした。すがれば救われるなどという教えは仏教にはありません。
麻原を相対的に見ることが、私の潜在意識でより進んでいたようで(表層であれこれ考えたというより、突然ぽっと)こんなことが浮かんできました。「麻原も真理に至る一つの入り口・ドアに過ぎない。多くのドアのうちの一つで、中に入るためにはドアにとらわれていても意味がない。そして、今はこのドアは多くの人が拒絶しているドアであるから使えない」というものでした。そうは言っても、このドアは他のドアよりはいいドアなのかなあという思いは、その当時はまだ、残っていました。
このように、徐々に、「麻原信仰」が薄れていった背景には、97年以降、精神世界、心理学、仏教書などの一般書籍を多く読み出していたということがあります。それまでは、教団以外の書籍を読むことは禁止されてそれに従っていたのですが、97年以降、それに従わず多くの一般書籍を読んでいたのです。それが、オウムこそ、オウムだけが真理だという偏った認識を正してくれたのだと思います。それが、上記のように麻原を相対化する意識を形成していったのだと思います。
上記のような私でしたから、上祐代表が活動を再開したときには、代表を支持することは当然の成り行きでした。代表派になって、一連の事件のあらましを知って、やはりショックでした。自分が信徒のときから既に殺人を犯している、初期のころからそういう教団だったことを知り、そんな教団に出家までした自分は、とんだ馬鹿者だと思いました。
しかし、知ってよかったと思います。そのショックのお蔭で、マインドコントロールされていたのだということが実感としてわかりました。まさに、氷が溶けるような感覚で、何かが解けていくのがわかりました。「我に返った」という表現がぴったりで、夢から醒めたような感じで解かれていきました。もう自分はそんなことないと思っていましたが、まだまだ 呪縛から脱却できていなかったのです。マインドコントロールというのは簡単には解けないものなのだと実感しました。
この時点で、明確に事件はとんでもないことであり、許されることではないという認識が生まれ、それまでも少しずつ薄れていった麻原に対する幻影も消えたのですが、事件に対する自分の反省というものは強いものではありませんでした。もちろん、事件を起こした教団の一員としての償いという思いはあったのですが、それほど深いものではありませんでした。
2006年の秋頃だったと思います。上祐代表が、私たちに、事件について反省しなければということを話しました。上にも書きましたように、事件は間違っていたという認識はしていましたが、自分が自分のこととして事件を反省するということには思い至っていませんでした。自分はヴァジラヤーナ活動も知らないし、もちろん、事件に関わったわけでもないので、事件の反省と言われてもピンときませんでした。
しかし、上祐代表のその後のアドバイスで、事件そのものでなくても、事件後も教団に残ってやってきたことの中に反省すべき点はないか、あるいは、自分の心の要素の中に事件と繋がるものがないかとみていくことで、少しずつ事件に対する自分の責任ということを自覚するようになりました。また、サリン事件の後遺症に苦しんでいる方の様子を知り、償いの気持ちが強く出てきました。
すでに書きましたように、支部活動において、信徒を大いに煽っていたわけで、ヴァジラヤーナ的感覚をよしとしていたわけですから、その点は事件を起こした人たちと変わらないわけで、事件を後押ししていたことになります。ですから、当然、反省すべきことです。事件後も、麻原信仰を続け、世間の人たちに不安を与えてきたことは事実であり、その点も反省しなければいけません。
また、<まとめ>の分析にも書いていますが、自分もグルを祭り上げていったひとりであり、グルと弟子との共同作業によって事件へと向かう妄想世界を作り上げてしまったのであり、自分の潜在意識の願望、欲求の現れとしての麻原でもあるということに気づいていく中で、反省の気持ちも強くなっていきました。
自分で明確に、この先ずっと、事件の償いをしていくことの決意をしたのは、2007年の2月末です。この年の3月のアーレフ脱会、その後の新団体設立に向けての意思決定のときでした。このときには、事件の責任を自分のこととして捉えられるようになりはじめていたということだと思います。
<まとめ・分析>
☆被害妄想、誇大妄想体質
この教団は比較的早い時期から、社会は自分たちに必要以上に危害を加えるのではないかというような被害妄想的体質だったのだと、一連の事件を知って思いました。
そしてそれは、麻原の意識の持ち方と関係しているのではないかと思います。社会に対する被害妄想。障害者としての生い立ちから、被害者意識が芽生えていったのではないかと思います。
麻原は、自分は本来もっと素晴らしい存在であるはずなのに、そうなれない自分の満足できない境遇は、障害を持つということで親を含む社会から不当に扱われている結果ではないか、という思いがなかったでしょうか? それによって、社会に敵対感情をもつようになっていったのではないかと思います。
オウム真理教の性格は、当然、教祖のカラーを強く反映しているでしょう。そして、そのカラーに同調しやすい人たちが集まって来ていたのではないでしょうか。卑屈・被害妄想とその裏返しの傲慢・誇大妄想をもつ者たちが。
社会の中で不器用なるがゆえに生きづらさを感じていたり、実際にちょっと蔑んでみられ、劣等感を持っていたり、エリートと言われる人たちも強い劣等感を優越感と背中合わせにもっているものです。
そういう人たちは、社会は自分を不当に扱うという被害妄想をもっていなかったかでしょうか?少なくとも持ちやすかったことは事実ではないかと思われます。弟子である私たちの中にグルと共通した心性があったのではないかということです。
それは、私自身が、卑屈・被害妄想その裏返しのプライドというものを持っていることと、周囲の出家者を見てきて思うことです。
麻原の場合は、卑屈さというよりも、自己誇大視とそれによる被害妄想という感じはします。自分を未来仏マイトレーヤであると言ったりしていたことも自己誇大視の現われでしょう。
さらにそれを強めたのは、自分のことを「キリスト(救世主)」と位置づけてからのように思います。「キリストになれ」という示唆を信じ自分を本当に「キリスト」と思っていたのでしょう。そして、歴史上のイエス・キリストとだぶらせるところがあったと思います。イエスは弾圧され処刑されたということが、自分も不当な弾圧をされる、されているという妄想を産み出していったのではないでしょうか。
フリーメーソンという煩悩によって世界を支配する存在があるという陰謀論を信じ込み、救世主である自分は彼らから世界を救わなければならない。救世主だからフリーメーソンは自分(オウム)を攻撃してくる。だから彼らと戦わなければならない。日本社会はフリーメーソンにほぼ支配されているから、日本社会との戦いでもある。という妄想世界を作り上げていったのではないかと思います。
私自身、特別な存在でありたい、特別な存在であるという思いがあり、それと違う現実によって劣等意識を持っていました。劣等意識と優越意識。それは被害妄想と誇大妄想を産み出します。劣等意識によって卑屈になり、卑屈になると被害妄想・被害者意識が生まれます。優越意識は自己を誇大視し誇大妄想を生み出します。
これが麻原の誇大妄想・被害妄想と共鳴したのではと思います。
優越感情を刺激されたところとしては、「本物」(麻原・オウム)を「本物」と理解できる自分は「偉い」。
在家時代は、徳がないと真理に巡り合えないとよく出家者からいわれていた=めぐり合えた自分は徳がある素晴らしい魂。出家してからは、偉大な救世主の選ばれた弟子ということによって優越感を味わいました。
その中でも特にキリストの弟子、選ばれた魂というのが一番優越感を満たすものだったように思います。ですから麻原をキリスト(救世主)とすすんで受け入れていったのだと思います。その部分を受け入れれば、「キリスト」であることによって形作っていった麻原自身の妄想世界に同調していくことは当然であったように思います。
その一方、劣等意識を強めるものとして、汚れ多き魂、修行しなければ三悪趣に落ちる魂、成就していないというものがありました。
この両方の要素によって、誇大妄想(キリスト・キリストの弟子)と被害妄想(不当な弾圧・攻撃を受けている)の世界に入っていったのだと思います。
☆共同作業で成立していた妄想世界
そして、私の中にもベストセラーになった「ノストラダムスの大予言」の影響はあり、自分の生きている間に第三次世界大戦は起こるという思いが若い頃からありましたし、他の人も同様の思いは同時代人として共有していたと思います。
また、不合理な社会の在り方に対して、社会を支配する者たちが連携・裏でのつながりを持ち、自分たちに都合のいい社会・世界を作っていっているのではないか?という思い、現実的に社会の支配構造はなかなか変わるものではないのでそういう利己的な支配層をくつがえすためにある特殊な力を持った存在を夢想する、そういう思いが心の中に明確ではなくてもありました。(この総括文章を一通り書き終わって読み返していてこのことに気づきました。自分自身、明確に認識していませんでした。潜在意識レベルのものだったのだと思います)
こういうものと、麻原の説く終末論、フリーメーソンの陰謀、キリストは驚くほど見事に一致しています(実際このことに気づいたときは驚きました)。このことと上記の誇大妄想・被害妄想という質がそろえば、もう共通の妄想世界は形作られます。自分の中にぼんやりと元々存在していた夢想が、外側に具体的な形をとって現われたのが麻原であり、麻原の説く世界であったということができます。
先ほど、妄想世界を麻原が作り弟子たちが同調していったと書きましたが、正確には、共同作業で妄想世界を作り出していったという方が真実ではないかと思います。「キリスト」と「キリストの選ばれた弟子」という構図は相互依存によって成り立っています。「キリスト」も「キリストを信じる弟子」がいなければ「キリスト」にはなれません。
そして、私(たち)は「キリストの選ばれた弟子」=素晴らしい存在になりたかったのです。そのためには「キリスト」が必要でした。それを麻原が提示してくれたのですから手放したくないのは当たり前のことだったのです。
麻原も自分の誇大妄想を成立させるために私たち弟子が必要でした。私たちも自分たちの誇大妄想を成立させるために麻原が必要だったのです。お互いがお互いを必要とし、合わせ鏡のようにお互いを映し出していたのではないでしょうか。
☆私も「麻原」とかわらない
ということは・・・ここでさらに考察すると、私も条件によっては「麻原」になる可能性はあったということになるのではないかという思いが生じてきます。
いや、その可能性があることを証明するような事実があります。
これは、先ほど少し触れましたが、1997年頃に、教団内で「福岡事件」と呼ばれていた魔境事件のときのことです。その時、私はグルと一体化したと様々な理由から思い込み、慈愛が溢れ出ているように錯覚し、支部独自のセミナーでは師の人をさしおいて(師の人も私のことを認めていました)、信徒指導の主導を握ったということがありました。
その時は、自分が凄い存在になったと錯覚・妄想していたのです。そして、普通ではできないようなこともやってしまいました。自分は偉大な存在であるという思いによって、自分のやることは正しい、許される、あるいは当然と思ってしまうのです。
これがエスカレートすれば「麻原」です。程度の差でしかありません。
合わせ鏡であるということは、お互いに同じということです。
自分の中に「麻原」と同じものがあるという事実、それを払拭していくことが償いでもあると思います。
今現在、麻原をどう思っているかというと、麻原には、自己誇大視、自己顕示欲の強さ、誇大妄想、被害妄想、反社会性など人格障害的ゆがみというものがあったと思います(麻原の人格分析については、私たちが、心理学的視点からの団体全体の総括の中でより詳しくしていますのでそちらを参考にしていただければと思います)。
そして、それが、教団の性格にも大きな影響を与え、事件にまで至ってしまった大きな理由だと思っています。当然ですが、麻原がいなければオウム真理教の事件は起こっていません。いくら、麻原一人の責任ではないといっても、多くは麻原に依るものです。その点はけして忘れてはいけないと思います。そういう認識のもとで、その麻原をグルと仰いでしまった自分(たち)の責任があると思います。
麻原は、もちろん、神でもなんでもありません。自己の妄想世界におぼれてしまった一人の人間です。欠点もあれば、また、どんな人にもあるように長所もあった一人の人間です。ヨガの行者としては秀でたものがあったのではないかと思います。
また、この世の中の問題点をなんとかしていかなければならないという、世直しの気持ちはあったと思います。実際、かつて自分の口からそういうことは言っていたようです。しかし、その実現方法が人格のゆがみなどの影響を受けて間違ったものになってしまったものと思います。そして、その間違いは取り返しのつかないほど大きな間違いだったのです。
☆善悪二元論が強いオウムは「影」を形成しやすい
ここで、社会に対する敵視について、少しユング心理学的に解釈してみたいと思います。
社会敵視・対立には、すでに書いたように被害妄想の部分があります。
さらに、「影(自分の抑圧した悪い面)の投影」というものによっても、起こります。そしてこれは被害妄想にも結びついてきます。
教団は、煩悩をなくすことが目標としてあり、煩悩があることを悪いことであるという価値観がありました。そのため、自分に煩悩があってはならないと思い、それを強く抑圧してしまったあるいは、しようとすることが多かったのではないかと思います。
それは、まさしくユングのいう自分の悪い部分を自分として認めず、抑圧して影としてしまうということです。その影になってしまった汚れ(煩悩)を一般の人、社会に投影して自分たちはきれいな存在だが、社会は汚れているとして敵対感情を持った、あるいは敵対感情を強めたのではないでしょうか。
(煩悩が苦しみの因であることは仏教の教えの真理ですから、それを弱めていくことが私たちの幸福になっていくことは間違いありませんが、それを嫌悪し自分にあってはならないという善悪の観念で見てしまったことに問題があったと思います)
煩悩をなくし、綺麗な存在になることを目指していたわけですが、それは非常に危険なことになる場合があると思います。汚いもの、悪を排除する「排除の論理」に陥ることになる可能性があるからです。それが投影であり、"魔女狩り"につながるものです。
ユングは聖職者の家族(子どもが多い?)に、聖職者の影を肩代わりしている例があることを報告しています。聖職者は綺麗な者でなければならず、自分の汚れた部分を認めず覆い隠すことが多いので、その部分が影となるのです。オウム真理教という団体も集団でそれを行い、社会に投影して社会は汚れていると必要以上に嫌悪したのではないでしょうか。
また、綺麗で崇高なものを目指す、さらに「救済」という錦の御旗をたて、その言葉に憧れと酔いを感じ純粋な気持ちでそれの実現を目指した、そういう自分たちは素晴らしい存在であり、正しい善なる存在であり、「救済」こそが何にもまして第一に優先されることである。
そして、そのためなら何をやってもいいのだという思い。これが、結局は、目的のためなら手段を選ばないという「いわゆるヴァジラヤーナ」という教えに結びつくわけですが、ヴァジラヤーナという言葉を使うまでもなく、自分たちが絶対的に正しいと思っていれば、そのために人は何をやっても許されると思ってしまいます。
それがおかしいことだと気づかなくするためのものとして、"崇高な教え「ヴァジラ ヤーナ」"を持ってきたのではないかという捉え方もできるのではと思います。
純粋な思いでやることはいいのですが、度が過ぎれば危険なものになります。自分の中に汚れがあることを認めることができなくなり、弱者や汚れのある人たちのことを理解できなくなり傲慢、横暴になります。
純粋な思いもあるが、どこかに利己的な動機もあるはずです。それら二つが入り混じっているのが私たちの心の現実ではないでしょうか。その汚れを認識していることは、重要なことだと思います。自分の汚れが混じっていることを認識していれば何をやっても許されるとは思えないでしょう。何をやってもいいという思いに歯止めをかけることができると思います。謙虚になり、他を許すこともできるのではないでしょうか。
善悪の観念、善悪二元論が強いほど影が形成されやすくなります。そして、それを投影して他に対する嫌悪が強まります。自分と他人の区別が強まるのです。他人蔑視が強まります。自分たちは絶対的善であると思います。そして、絶対的に正しい自分たちは、自分たちの正しいと思うことの実現のためなら何をやっても(どんな手段を使っても)、いいのだという傲慢な論理になります。
オウム真理教はまさにそうだったと思います。それが事件につながっていきました。非常に危険なことです。
ですから、善悪二元論に陥ることなく、自分の中の影を認識していくことで、独善に陥ることなく謙虚になっていくことが重要だと思います。
総括を書いて、自分の中の傲慢さ、汚れを再認識しました。そして、それがオウム真理教の事件ともつながっていることを理解しました。自分の中の事件とつながる要素を抑圧して隠すのではなく、しっかりと対面して払拭していくことに今後も努力していきたいと思います。
自分が特別な存在でありたい。偉大な存在でありたい。大した者でありたい。他より優越していたい。本人が認識している、していないにかかわらず、これらは多くの現代人に共通する心性ではないかと思います。ですから、これからも社会にオウム的なものが出てくる可能性はあります。二度とオウム的なものが社会に出てこないために自分たちの失敗を生かし、その反省した結果を社会に還元していきたいと思います。
オウム真理教がどうして日本社会に生まれたのか、影とその投影という視点を含み、社会心理学的に分析していくことによって、現代社会に欠けているもの、現代人が抱えている問題を探り、オウム的なものが出てこないよう社会に訴えていくことをしていかなければいけないと思っています。それは、この私の個人総括に続き、心理学的視点からの団体の総括という形とって行っていきます。
その後、その延長線として、現代社会と現代人の状態を新しい仏教的見地にたった心理学によって分析していくことを行っていきたいと思っています。それによって、現代社会が抱えている問題を超えていく方向を指し示すことができればと思います。
また、オウム真理教の問題点のひとつとして、霊的進化と人格の発達のアンバランスの問題がありますが、スピリチュアルブームである今、その落とし穴である霊的体験の正しい理解を広め、人格の発達との関係をさぐっていくことは、多くの人にオウムと同様の失敗をさせないために必要なことであると思います。
そして、具体的に個々人には、現代の社会問題化している個々人の心の問題の解決に、本当の意味での仏教的な教え(=心理学)とその技法をもとにしたセラピーによって、アプローチしていくこともしていかなければならないと思っています。
これらすべては、オウムの失敗から学ぶことが土台となっています。ですから、常にオウムの失敗の分析に立ち返りながら行っていきたいと思います。こうしたことを行うことが、私としての償いのひとつの形ではないかと考えています。
2008年9月2日
山口雅彦
山口雅彦