団体総括(本編)

2.『アーレフ時代(2000~2007年)の総括』

【5】「2003年後半~2004年末、上祐代表の改革頓挫と「代表派」の発足へ」

■改革への抵抗――上祐代表の封じ込め

 ところが、全会一致で始動し始めたはずの改革も、その直後の2003年4月には、早くも、麻原の妻の知子氏、三女、二女が中心となり、麻原崇拝の強い出家信者と一緒になって、ストップさせ始めました。
 具体的には、松本家の上記メンバーが、正悟師や師といった教団の幹部信者を個別に呼び出したり、電話をかけたりして、上祐の方針はおかしい、彼に従うな、彼を修行に入れるから協力せよ等と説得を始めたのです。

 松本家の人々、特に三女や次女といった麻原の子息は、麻原によって、教団内では麻原に次ぐ高い地位を与えられていましたから、その権威や影響力は絶大なものがありました。

 ですから、大部分の幹部信者が松本家の指示を聞くことになり、上祐代表は6月から長期修行入りとなりました。しかし信徒向けの説法会をする必要があるので、土曜と日曜に限ってのみ活動を許されるという状況になりました。
 このあたりの経緯については、現アーレフ代表の野田成人氏が、『月刊現代』2008年1月1日号で詳細に明らかにしています。

 その後も松本家のメンバーが、幹部信者の会合に登場しては、上祐はおかしい、従うなと説得を続け、上祐代表は幹部信者一同の面前で、自分の改革は間違っていたとして、強制的に懺悔させられるという事態となったのです。

 さらに10月には、幹部信者が集まって、上祐はグル化している、脱会・分派を考えている、麻原に帰依していない等として、上祐代表不在の場で批判を展開するという会合を繰り返しました。
 そして上祐代表に対して「嘆願書」と題する文書を提出し、麻原にきちんと帰依し、松本家の人々を尊重すること、そうなれるよう、それまできちんと修行することを要求したのです。

 上祐代表がこのときあえて抵抗せずに懺悔したり修行入りしたりしたのは、もしそこで抵抗すれば教団が分裂することになると松本家サイドから警告されていたのと、松本家への遠慮がまだあったからでした。そして根本的には、まだ上祐代表の中の新しい宗教観が確固たるものとなっていなかったという事情もありました。

■改革が反発を招いた理由

 上祐代表主導の改革がなぜ反発を招いたか、その理由を説明します。

 反上祐派(現在のアーレフ)の広報部は、そのホームページにおいて、上祐代表が信者拡大のために麻原を隠す欺瞞的な路線を取ったことが信者の反発をかったとだけ表現しています。しかし、これは、松本家などの見解に基づいて、全体の事実の中で彼らにとって問題がない部分について表面的に述べているにすぎません。

 実際には、反上祐派は、上祐代表の教団改革を「麻原隠し」ではなく、「グル=麻原外し」と呼んで強く批判しました。すなわち、彼ら=反上祐派の人たちには、その時点の上祐代表の考え・方針さえ、彼らの麻原への信仰に反する問題だったということです。

 具体的には、上祐代表が、
①一連の事件に関与したことを明確に認めて、それを悪業=間違いであると位置づけたこと、
②その一連の事件を一例として、麻原の言動が常に絶対的な善ではなく、信者の悪業を投影する面もあるとした点で、麻原を従来のようには絶対に服従すべき善であるとは位置づけなかったこと(同様に、麻原の家族の人たちも絶対視しなかったこと)、
③それに基づいて、一部の麻原の書籍その他を改訂したこと、
が反発の原因となったと思われます。

■教団が「麻原回帰」へ

 こうして上祐代表は2003年10月以降、完全に修行入りとなり、信者の前から姿を消します。
 大部分の信者に対しては、松本家の動きを含む真相は知らされず、ただ上祐代表はシャクティパットの影響で調子が悪いので修行に入っていただいているとのみ説明されました。
 上祐代表は、松本家から自室での修行を命じられ、世話役の信者らによって日常の動向や外部との交信を監視され、携帯電話の通話記録までチェックされていました。

 やがて上祐代表の修行入りと同時に、荒木浩広報部長が、「マイトレーヤ正大師(上祐)の改革は誤りで、許されないグル外しだった」と訴える「お話会」を、出家信者対象に何十回も連続して開催するようになりました。
 これは、半ば教団の公式な会合として扱われ、出家信者は、この「お話会」を聞くように勧められたのでした。
 この頃、教団運営は、いわゆる「麻原回帰」の傾向が強まったと公安調査庁から指摘される状態となっていきます。
 
 実際に、幹部が信者に行う説法も、麻原を称賛する思い出話の類がメインとなっていきました。

■正悟師の間で麻原への疑問が出て、上祐復帰へ

 しかし、松本家主導の運営に対しては、まず最高幹部の正悟師らから異論が出始めます。
 2004年2月には、野田氏が、「松本家主導、上祐排斥の教団運営は、あたかも北朝鮮のような独裁体制でおかしい」と、幹部会合で公然と異論を唱えて、物議をかもしました。
 杉浦茂氏も、明確に松本家から距離を置き始めました。
 そして9月頃には、村岡氏を除く正悟師全員(当時は二ノ宮氏を含む)が、一方的な上祐批判には疑問を持つようになり、上祐代表と話し合いをするようになりました。その結果、上祐代表は活動復帰の意思を固め、その旨を一部幹部らに宣言します。
 すると、これに対して、反上祐の幹部らが、改革の誤りを反省しないまま勝手に修行を出て活動復帰するのは認められないと主張する書面を上祐代表に提出し、対立が始まりました。

■代表派の形成へ

 11月末には、上祐代表を支持する信者らが集まり、改革は間違っていなかったと訴える会合を教団内で公然と開き、議論を巻き起こしました
 上祐支持を公然と大規模に訴えることは、最高権威である松本家への反旗を翻すことになるので、一般信者レベルではこれまで誰も行っていなかったのですが、この会合を発端として、上祐支持の信者らが少しずつ集まり始め、ここに正式に上祐派が結成されていくことになります。上祐代表が主導する派ということで、これを「代表派」と呼称することにしました。
 それに対抗する形で、反上祐派もさらに強固に構成されていくことになりますが、私たちはこれを「反代表派」と呼称しました。反代表派の人たちは、自分たちこそ麻原の教えを正統に受け継ぐ者として「正統派」を自称しましたが、後には、そもそも代表派を派閥として認めるわけにはいかない、これは派閥闘争ではないというスタンスをとりました。
 しかし、現実には、代表派や反代表派に属さない中間派の立場の信者もいましたから、識別するために反代表派と呼ばれていました。

 さて、こうした上祐派の支持を受けて、上祐代表は、2004年の11月、約1年ぶりに、教団活動に事実上復帰することになりました。

 上祐代表が修行に入っている間に、麻原に一審の死刑判決が下りましたが、こういった中で、上祐代表や彼に近い信者らは、今後の自分達の宗教的な方向性について、内面で葛藤していました。この当時においては、上祐代表をはじめとして、依然として、麻原の影響を脱却することはできていませんでした。

 それに加えて、周囲からは、麻原を絶対視して昔のような教団に戻るように、強い圧力がかかっていました。要するに、そうならなければ教団活動に戻れない、戻さない、という圧力です。

 なお、全面的な意味で、上祐代表やその支持者らが、麻原の影響を脱却し始めたのは、脱却の定義にもよりますが、2006年ごろであり、厳密に言えば、2007年の脱会の時であるということができます。
 というのは、オウム・アーレフに所属し、信徒の教化のために、元教祖の教材を一部でも使っている限りにおいては、客観的に見れば、脱却できていない、依存していると言われても仕方がなかったからです。

■反代表派による代表派への攻撃

 こうして活動を開始した上祐代表やその支持者については、荒木広報部長が再び、「かつてのマイトレーヤ正大師(上祐)の改革は、グル外しで誤っており、何の反省もない活動再開は決して許してはならない」等と批判する「お話会」を、出家信者対象に繰り返し開催しました。
 この「お話会」においては、上祐代表の社会融和方針や改革を否定し、上祐代表を指導部から排除することが「グルの意思」であると主張されました。

 そして、教団運営の主導権を握っていた反代表派は、代表派に属する信者らに対して激しい批判を始めました。
 具体的には、代表派に賛同する者、さらには、明確に代表派に反対しない中間的な立場をとる者について、「魔境である」「悪魔に取り憑かれている」と批判し、場合によっては、教団活動から排斥していきました。

 また、信者に対しては、代表派と接触しないように指示し、代表派の活動に参加・接触する信者に対して相当な精神的圧力をかけ、それでも参加・接触した場合は、どんどん批判・排斥していきました。

 こうして、私たちがアーレフを脱会して、ひかりの輪として独立する以前から、代表派と反代表派との間では、過去の一連の事件、麻原やその家族、そして上祐代表の思想に関して、重大な宗教的見解の相違があったことは、疑いの余地がありません。

 ましてや、代表派と反代表派が裏でつながっているなどという事実は、決してありません。それは、反代表派からの強い圧力を受けた人たちにとっては、非常に残念な疑惑であるというほかはありません。

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