団体総括(本編)

2.『アーレフ時代(2000~2007年)の総括』

【4】「2003年初頭、上祐代表の教団改革の試み」

 翌年2003年になると、有名なインドの宗教家であるラーマククリシュナの弟子であるヴィヴェーカナンダと上祐代表が非常によく似ているという見解が、一部の幹部信者の間で発表されました。

 それと同時期に、教団の観察処分が更新され、それもあって、上祐代表を中心として、麻原の色を薄めて社会に融和する教団改革を行おうという流れが始まりました。

 ただし、この際に、上祐代表とその周辺において、上祐代表がこのインドの聖者の生れ変わりの可能性があるという主張があった点については、今現在のひかりの輪の指導部は、安直で不適切なことだったと内省しています。

 これは、麻原に限らず、宗教団体にはよくあることですが、自分たちが歴史的に非常に偉大な宗教家や人物の生れ変わりであるという主張は、自分たちを過大に神格化・絶対化する可能性があり、問題をはらんでいます。

 もちろん、その教団の世界の中で、歴史上の特定の人物と似ている人がいるということはあるでしょう。例えば、ある教団の教祖が、その教団の中で救世主として映ることがあったとしても、その自分の世界を逸脱し、実際の世界全体の救世主であると自己を錯覚し、いわゆる誇大妄想に陥るならば、それは、大変なことになります。

 その教祖と宗教が、全ての人類の救世主になるべきだと考えるならば、その宗教は、対立する社会や、他の宗教・宗派との間で、当然の如く争いを起こします。そして、これが、まさにオウム真理教であったということができます。

■2003年教団改革のスタート

 2月からは、さらなる教団改革が始まりました。具体的には在家信徒を指導する道場から麻原の教材を撤去したり、カバーを掛けたりするなどして、目立たないようにするというものでした。
 そうすることによって、道場に来訪する入信希望者や比較的新しい信徒による麻原への反発を和らげ、入信を促進し、教団を拡大しようという狙いがあったのでした。

 公安調査庁はこのことを麻原隠しと述べていますが、隠すというほどのものではありませんでした。現に、出家信者の施設では麻原の教材はそのままでした。
 一方、その後、上祐代表を批判した人たちは、グル外しだったと言っていますが、この程度のことでもグル外しというほど、許容できない動きに見えたということがわかります。

 この改革に際して、埼玉県草加市内に当時あった大型施設に、出家信者と在家信徒のほぼ全員を集めて、上祐代表から話がありました。

 上記の改革を実施するにあたって、いかに社会の人々が麻原を恐怖し嫌悪しているかを信者に理解させるために、麻原が事件に関与したことを、事件について記したプリントを配付して明確に説明しました。
 これに対しては、一部の信者から、驚きとともに、本当に関与したのかという質問が上がりましたが、当時はまだそのようにして麻原の事件関与を信じない信者がいたのでした。
 そのうえで、一連のオウム事件や、オウム事件を引き起こした麻原は、私たち信者の心の汚れの表れであり、潜在意識の投影なのだから、私たちにも事件に対しての宗教的責任があるという話がなされたのです。

 この考え方は、言い換えるならば、麻原の指示の中には、信者の心の汚れが投影されているものがあるのだから、従わなくてもよいという考え方です。

 上祐代表がこの考え方を示したのには、それ相当の根拠がありました。
 1990年に麻原の弟子達が熊本県警によって国土法違反事件で逮捕された際、麻原は激怒して、警察にトラックで突っ込めという話をした際、上祐代表は大声を上げてそれに反対したのです。そうしたところ、麻原は、しばらく沈黙した後、「そうだ、マイトレーヤ(上祐)の言うとおりだ」としきりに繰り返していた、という出来事があったそうです。
 こうした出来事も一つの根拠として、上祐代表は上記の話をしたのですが、この考え方は、麻原の指示は絶対であり服従しなければならないという麻原への絶対視を覆していくきっかけとなるものでもありました(それだけに、この後、徐々に反発を招いていくことになります)。

 また、同時に上祐代表は、麻原を観想しない修行法についても、皆に指導し始めました。

 この草加市での会合の場では、上祐代表の打ち出す方針に皆が賛成しました。
 ようやくこのような改革をしてくれるようになったかという喜びの声も上がっていたほどでした。やっとまともな組織になってきたと思った信者もいました。
 そして、改革が始動し始めたのでした。

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