団体総括(本編)

1.『オウム真理教(1983~1999年)の活動経緯の総括』

『オウム真理教(1983~1999年)の活動経緯の総括』目次

 この文書は、ひかりの輪として、オウム真理教時代(※1983~1999年)を時系列的に振り返り、その経緯を総括・反省するとともに、その反省に基づいて、今後ひかりの輪が進むべき道について述べたものです。
 なお、この文書は、2008年7月10日の記者会見においても、マスコミを通じて広く社会に公表しています。

〔※教団名が「オウム真理教」になったのは1987年ですが、便宜上、前身団体の時代を含めています。また、麻原彰晃こと松本智津夫死刑囚については、オウム真理教時代に「麻原彰晃」と名乗り数々の犯罪を行ったことから、文中では「麻原」で統一表記しています。〕


            目  次

 【1】 1983年(昭和58年)~1985年(昭和60年)
    ・オウム真理教の前身組織の設立
    ・初の「空中浮揚」――誇大宣伝の始まり
    ・誇大妄想による武力行使思想の萌芽
    ・霊石収集とハルマゲドン予言の始まり
    ・年末セミナーでの「シャクティーパット」
    ・この時期は比較的穏健だった説法

 【2】 1986年(昭和61年)
    ・インド各地を訪問、使命を託されたと主張
    ・「傲慢になりやすい人間」と自認
    ・「最終解脱」をしたと主張
    ・パイロット・ババ師の麻原に関する見解
    ・サンガ(出家)制度の発足

 【3】 1987年(昭和62年)
    ・「大乗の年」と位置づける
    ・殺人肯定説法
    ・「核戦争を起こす」と発言
    ・一方で、核戦争防止の説法も
    ・この時期まではあった穏健な説法について
    ・ダライ・ラマ法王等からの「称賛」――その背後にあったもの
    ・弟子を成就させる――その成就体験について
    ・教団を「オウム真理教」と改称
    ・エジプトに行き「過去世」を語る
    ・アメリカに活動展開

 【4】 1988年(昭和63年)
    ・「タントラヤーナの年」と位置づける
    ・社会への宣伝活動を強化
    ・「水中エアータイトサマディ」の実施
    ・「血のイニシエーション」を実施
    ・カル・リンポチェ師との交流――麻原への真の評価
    ・ダライ・ラマ法王等を低く位置づける
    ・グルイズムを強調
    ・初の違法行為――真島事件
    ・予言解釈による麻原絶対視の始まり
    ・妄想的な予言を連発する
    ・一部の霊的エリートだけを残すという危険な構想

 【5】 1989年(昭和64年・平成元年)
    ・ヴァジラヤーナ路線の宣言
    ・麻原個人崇拝的な修行
    ・宗教法人化をめぐるトラブル
    ・初の殺人事件――田口事件発生
    ・グル絶対視、殺人肯定説法を繰り返す
    ・魂の二分化――二元的思想の強まり
    ・衆院選への選挙活動のスタート
    ・『サンデー毎日』の批判報道への反発
    ・キリスト妄想の始まり
    ・坂本弁護士一家殺害事件の発生
    ・事件に揺れる教団を組織固めする
    ・選挙活動における違法行為

 【6】 1990年(平成2年)
    ・選挙落選は国家の陰謀と主張
    ・落選を機に教団武装化へ
    ・信者避難のための石垣島セミナー
    ・武装化拠点として波野村に進出
    ・進む武器の製造
    ・ヴァジラヤーナ活動に基づく成就認定
    ・国土法事件――ヴァジラヤーナを決意

 【7】 1991年(平成3年)
    ・違法行為を一旦停止、マハーヤーナ路線へ
    ・社会的評価を得るために諸活動を展開
      「死と転生」「創世記」公演/海外への訪問
       テレビ、雑誌等のメディアに登場/大学等で講演会を行う
       大量の出版物を刊行
    ・自らをキリストと宣言

 【8】 1992年(平成4年)
    ・引き続き社会的評価を得る諸活動
      海外への訪問/テレビ、雑誌等のメディアに登場
      大学等での講演会
    ・ロシアへの大規模な進出
    ・ロシア進出のいきさつ
    ・パソコン会社「マハーポーシャ」設立
    ・警察との対決を煽る
    ・教団武装化、ヴァジラヤーナ活動の再開
    ・日本を救う最終解脱者と自称
    ・教団への敵対者は報いを受けると説法
    ・核戦争予言、アメリカを敵視

 【9】 1993年(平成5年)
    ・軍事力による世界統治に論及
    ・自動小銃の製造、化学兵器、核兵器の研究開始
    ・全ての魂の「ポア」を神に誓う
    ・自己破滅的な予言
    ・さらに戦闘的な発言を続ける
    ・救済のための大量殺人を肯定
    ・さらに進んだヴァジラヤーナ活動
    ・「額に刻印イニシエーション」を実施
    ・教団が毒ガス攻撃を受けていると主張
    ・「パーフェクト・サーヴェーション・イニシエーション」の始まり

 【10】 1994年(平成6年)
    ・大量殺戮、国家との対決意図を強固に示す
    ・さらに進んだ武装化計画
    ・多くの信者を兵士へと養成
    ・兵士として洗脳するための「修行」
    ・頻発する暗殺・殺害事件
    ・落田耕太郎氏リンチ殺害事件
    ・滝本太郎弁護士サリン殺人未遂事件
    ・冨田俊男氏リンチ殺害事件
    ・江川紹子氏ホスゲンガス襲撃事件
    ・VXガスによる連続殺人(未遂)事件
    ・松本サリン事件
    ・省庁制度(教団内疑似国家)の発足
    ・「戦争」ムードを盛り上げる
    ・事件を招いた信者の潜在的闘争心

 【11】 1995年(平成7年)
    ・毒ガス製造隠蔽のために第三者を攻撃
    ・サリンプラント・第7サティアンの偽装工作
    ・阪神大震災を予言していたと主張
    ・目黒公証役場事務長逮捕監禁致死事件(假谷事件)
    ・『日出づる国、災い近し』でハルマゲドンを強調
    ・地下鉄サリン事件
    ・強制捜査の開始
    ・強制捜査を宗教弾圧と主張
    ・上祐ロシア支部長が帰国、緊急対策本部長へ
    ・警察庁長官銃撃から村井氏刺殺事件へ
    ・第7サティアンの偽装発表など
    ・麻原や多数の信者の逮捕
    ・少しずつ報じられ始めた事件の真相
    ・上祐氏の逮捕と新しい指導体制
    ・社会との対決姿勢を示す「尊師メッセージ」
    ・宗教法人解散と破防法手続きの開始

 【12】 1996年(平成8年)
    ・破防法と破産法による教団追及
    ・麻原公判の開始
    ・新たな指導体制――「長老部」
    ・長老部の指導の問題点(1)――麻原と子息の神格化
    ・長老部の指導の問題点(2)――陰謀論の展開と事件の宗教的肯定
    ・長老部内の不和
    ・観念崩壊セミナーの開催
    ・事件を正当化した宗教的理論――「マハームドラー」
    ・大部分の信者が事件を起こす可能性はあった
    ・分散居住と破防法への備え

 【13】 1997年(平成9年)
    ・教団への破防法適用棄却へ
    ・妄想の中に逃げ込み始めた麻原
    ・個人崇拝のさらなる強化へ
    ・パソコン事業で社会を欺く

 【14】 1998年(平成10年)
    ・全国的な施設確保へ
    ・破局予言の流布
    ・非現実的な信徒倍増計画
    ・教団の偽装会社による詐欺的訴訟
    ・全国的な教団反対運動が発生

 【15】 1999年(平成11年)
    ・全国に飛び火する教団反対運動
    ・反対運動への教団の対応
    ・街頭パフォーマンスで批判を受ける
    ・「サバイバル」に多額の金銭を消費
    ・1999年の予言が当たらず崩壊へ
    ・教団活動の「休眠宣言」
    ・ようやく形式的な謝罪・賠償へ
    ・1995年から99年までを振り返って

【1】「1983年(昭和58年)~1985年(昭和60年)」

■オウム真理教の前身組織の設立

 松本智津夫死刑囚は、1983年夏「鳳凰慶林館」を設立し、初めて「麻原彰晃」と名乗り始めます。
 続く1984年2月には、東京都渋谷区でヨーガ道場「オウムの会」を設立、同年5月には、株式会社「オウム」を設立しました。

■初の「空中浮揚」――誇大宣伝の始まり

 麻原は、1985年2月、初めて空中浮揚をしたとされています。そして空中浮揚の写真が『プレイボーイ』などの一般雑誌に掲載され、それが後々の教団で大きく宣伝されていくことになります。
 このうち、『プレイボーイ』誌は、同誌の記者が直接に空中浮揚の現場を取材した内容となっており、他の雑誌のものが、麻原側が撮った写真を雑誌社に持ち込んで、そのまま掲載されたと推察されるのに対して、客観性が高いと思われるものでした。

 しかし、『プレイボーイ』の当該記事の担当記者に事の真偽を問い合わせたジャーナリストや弁護士などの複数の情報源によると、その写真は、実際には浮揚したのではなく、連続的に飛び跳ねる現象(ヨーガではダルドリーシッディといわれる)の一瞬をとらえたものであるにかかわらず、同誌の担当記者が空中浮揚ということにした方が面白いということで、そう掲載されたにすぎないと判断されます(※1)。

 よって、これは明らかに誇大宣伝でしたが、こうした誇大宣伝は、その後の麻原や教団の傾向ともいえるものでした。

 例えば、この空中浮揚を表紙の写真に用いた『超能力秘密の開発法』という麻原の処女作では、「全てが思いのままになる」といった宣伝文句が使われるとともに、麻原が、自身の超能力とヨーガの経典を根拠として、高い解脱のステージに到達しているといった主張が行われ、会員・信者の獲得に用いられました。

 しかしながら、空中浮揚の写真の公表は、他のヨーガ行者(※2)も行っており、その中には、麻原以上に高く飛んでいる様子のものもあり、麻原特有のものではありません。また、そういった他のヨーガ行者は、自分が高い解脱の段階に到達したとか最終解脱したといった主張をしたり、自らを神格化したりはしていません。

 また、麻原を指導したこともあるインドのヨーガ行者は、「解脱に至っていなくても、超能力が身につく修行の段階があり、麻原は、その段階で止まっており、解脱をしていない」という趣旨の証言をしています(※3)。

 にもかかわらず、多くの信者は、麻原の超能力の宣伝によって、同氏を特別視・絶対視していったと思われます。
 これは、麻原の誇大宣伝に加えて、当時の信者達が、
①ヨーガ修行・超能力について無智であったこと
②超能力などの超常現象が好きなために、信じ込みやすい傾向にあったこと
などが、その原因と思われます。

 実際に、信者の中には、1995年の逮捕後も麻原が空中浮揚をして教団に復帰してくると考えた信者までいましたが、そういった意味では、麻原の超能力の宣伝を信じた側の信者の姿勢にも問題があったと考えられ、今後、同種の問題が社会に再発しないように、この総括が役立つことを祈ります。

 なお、ひかりの輪では、麻原の超能力の有無やその意味合いに関して、
①麻原は、一定の霊的能力を発揮することがあったが、
②それは、麻原が、絶対であるとか、神の化身であるといった根拠では毛頭なく、
③常に発揮されたのではなく、発揮されなかった場合も多く見られ、
④この世には、そういった力を発揮する人達、いわゆる霊能力者は、まま存在しており、
⑤霊能力と高い人格は必ずしも同居せず、超能力者を解脱者と考えることは危険であり、
⑥麻原は、その典型であった、
 という見方をしています。

■誇大妄想による武力行使思想の萌芽

 1985年4月から5月にかけて、麻原は、神奈川県の三浦海岸で修行を行い、この際、天から神が降り、「アビラケツノミコトを任じる」と言われたとされます。
 それは「神軍を率いる光の命」「戦いの中心となる者」という意味で、シャンバラのような王国、神仙の民(修行の結果、超能力を得た民)の国を築く必要性を強く感じたということです。これは「救済のスタート」として宣伝されました。

 このように、極めて初期の頃から、すでに武力行使を容認する思想の萌芽が見られることがわかります。

 これは、いわゆる「お告げ」に類するものであり、科学的には証明できないことであるにもかかわらず、絶対視する傾向が麻原には見られます。こうしたお告げやヴィジョン(幻視)を絶対視して突っ込んでいく傾向は、その後の麻原に一貫して見られる傾向でした。

 そもそも、こうしたお告げやヴィジョンの類は、巨大な存在でありたいという麻原自身の(潜在的な)願望が現れ出たものと考えられます。それは後に述べていくような麻原の誇大妄想傾向からも、うかがい知ることができます。

■霊石収集とハルマゲドン予言の始まり

 1985年6月、麻原は、岩手の五葉山にヒヒイロカネ(霊石の一種)の収集に行きます。その際、酒井勝軍(戦前の神秘研究家)と行動を共にした最後の生き残りから「今世紀末、ハルマゲドンが起こる。生き残るのは、慈悲深い神仙民族だ。指導者は日本から出現する」との予言を聞いたとされます。

 この酒井予言も、麻原のハルマゲドン思想を形成した1つの要因と見られます。酒井予言に限らず、この時期には、社会の行き詰まりから様々な破滅思想が流行していました。

 こうした流行思想の影響を、麻原も信者も受けていたと思われますが、具体的には、すでにこの時期、ノストラダムスの予言、ヨハネ黙示録の予言、ヒトラーの予言などの影響を受けていたことが、麻原の雑誌などへの投稿などからわかります。

 そして、同年の夏頃には、麻原は、弟子の山本まゆみ氏・飯田エリ子氏・石井久子氏らに命じて、岩手から大量のヒヒイロカネを運び込んだ上、次のように宣言しています。

「2006年には核戦争の第一段階は終わっているだろう。核戦争は浄化の手段。だが"人が自分の分け前を割いて人に与えよう"と考えない限り、浄化はなくならない。私が目指すのは最終的な国、完璧な超能力者たちの国。超能力の獲得とは神に至る道だ。完全な超能力者の集団を作りシャンバラ(最高の聖者達が住む国)を確立すべく、自分を神に変える修行をした」(雑誌「トワイライトゾーン」より)。

 こうした発言も、前記アビラケツノミコトのお告げと同様に、麻原の誇大妄想傾向の現われではないかと思われます。

■年末セミナーでの「シャクティーパット」

 麻原は、1985年末から年始まで集中セミナーで100人以上を集め、シャクティーパット(霊的エネルギーの移入の儀式)を行いました。シャクティーパットは、その後、人々をオウムに惹きつける儀式として、麻原によって大々的に行われていくようになります。

 この麻原のシャクティーパットについては、光を見た、熱を感じた等のエネルギー的な効果があったといった多くの信者の証言があり、その証言の事実自体は、外部のジャーナリストの取材などでも確認されています(※1)。

 しかしながら、受け手が、何らかの霊的な体験・エネルギーを感じるような技法は、麻原以外にも、昨今いろいろな人々(例えばヒーラーとされる人達)が有しており、麻原のみができることではなく、同氏を絶対視・神格化する根拠では毛頭ありませんでした。

 しかし、当時の日本の精神世界の中では、シャクティーパットというもの自体が珍しく、その意味で、信者が無智であったことと、麻原のやり方が、一人一人に相当の時間をかけるなど重厚であったために、信者が惹きつけられたものと思われます。

 このシャクティーパット等で進められるエネルギーのヨーガは、ヨーガ修行においては認められています。ただし、エネルギーのもたらす霊的な体験と人格の成熟とは、必ずしも合致せず、両者をバランスよく進めなければならなかったところ、オウム真理教は、エネルギーのヨーガと、それに関連する身体行法に偏りすぎる傾向がありました(※4)。

 霊的なエネルギーの偏重、霊的体験の偏重は危険であり、さもなくば、悟れないどころか大きな問題が起きるという考え方が、チベット仏教にもあります(※5)。この点は、ひかりの輪としても、十分に注意しなければならないと考えています。

 シャクティーパットによるクンダリニー(尾てい骨に眠るとされる霊的エネルギー)覚醒はあり得ますが、その後どうなっていくかが重要でした。クンダリニーの覚醒と上昇で、自分の煩悩による詰まり(引っかかり)を自覚しつつ、精神的な悟りのプロセス、心のプロセスでそれを改善できるなら意味がありますが、そうでなければ危険であったことは上記の通りです。

■この時期は比較的穏健だった説法

 ところで、この期間中の12月31日、麻原は以下の説法をしています。
 そうですね。わたしも非常に難しいと思います。わたし自体がまあ、あまり得意じゃない分野だったから。で、本当にそれができるのは、カルマ・ヨーガかバクティ・ヨーガでしょうね。
 例えば、あなたのことをシヴァ神の化身だとわたしが感じたとしましょう。あなたの中にシヴァ神がいると感じたとしましょう。
 そうすると、わたしはあなたのために全力で尽くすわけですよ。わたしの信じてる神様だから。わかりますよね。だから持ち方なんです。
 例えば、ここにOさんがいらっしゃると。Oさんに対してわたしが、これはOさんだと、ね。例えば、わたしより霊性が低いとか高いとか感じたとしましょう。そして、それによって壁を作ったと。
 そうじゃなくて、例えば、「わたしが尊敬しているお釈迦様が心の中に住んでらっしゃるんだ」と思ったとしよう。
 じゃ、どうして思えるかというと、例えば、Oさんの行為を見てらっしゃって素晴らしいとこが一つでもあったとしましょう。「あっ、これは仏陀の教えと等しいと。だから、この点に関しては、この人は仏陀と同じなんだ」と思ったとしましょう。(中略)
 だから、例えばあなたの信じるものでいい。信じるものを相手の中に見いだしたときですね。いいでしょうか。
 この説法にいう「他人の中に仏陀を見る」という考え方は、仏教的にきわめてまともで正統です。麻原も、当初は、武力行使的な思想を持つ一方で、このような考え方も重視していたと思われます。
 ただし、この説法の冒頭にもあるとおり、「非常に難しいこと」と自分で認めています。だからこそ、こうした考えはその後あまり強調されず、麻原のみを神格化する個人崇拝的なグルイズムを弟子に求めていったものと考えられます。

 ところで、他人の中に仏陀を見るという考え方は、「カルマ・ヨーガ」といわれますが、麻原のその後を見る限り、麻原の言葉通り、カルマ・ヨーガの実践が浅かったといわざるをえず、それが一連の事件につながっていったと考えられます。
 というのも、他人の良い要素を見て他人の中に仏陀を見るとすれば、他人の悪い要素を見た場合、他人の中に悪魔を見ることになってしまい、結局はその悪い他人をポワ(殺害)しろという考えになってしまうからです。

 そうではなくて、他人の中の悪い要素は、自分の中の悪い要素が映し出されたものなのだと考えることによって、自分の虚栄心や傲慢を静めていかねばならないのですが、麻原や信者らには、それができていなかったと思われます。つまり、自分と他者とのつながりを考えておらず、自分と他者は全くの別物であるというように、物の見方が二元的になっていたのでしょう。

 このようにして精神的な訓練を行うカルマ・ヨーガが不足する一方で、エネルギーを重視するクンダリニー・ヨーガに偏重したのは、教団の問題点でした。つまり、カルマ・ヨーガで精神的な訓練をしないうちにクンダリニー・ヨーガをすると、自分の願望をヴィジョンで見てしまい、それにとらわれてしまう可能性があるのです。
 前記の通り麻原はそのパターンだったと思われますし、それを見抜けなかった信者にも、同様の責任があると考えます。


※1 ジャーナリストの調査は、『麻原彰晃の誕生』(高山文彦著・文春新書)
※2 空中浮揚の写真を公表している日本のヨーガ行者の例としては、成瀬雅春氏
   (成瀬ヨーガグループ)などがいる。同氏は自らの解脱は全く主張していない。
※3 ここでのインドのヨーガ行者とは、マハリシ パイロット・ババ師。
   この内容は、オウムの元信者で同師に接触した者が、聞き出したことである。
   1986年に麻原は同師に接触し教えを請うたが、その後、袂を分かつ。
※4 パイロット・ババ師に接触した元信者によると、同師は、麻原の修行は身
   体行法(ピンガラ気道)に偏りすぎたと語ったという。
※5 例えば、『虹の階梯』(ラマ・ケツンサンポ師など、中公文庫)

【2】「1986年(昭和61年)」

■インド各地を訪問、使命を託されたと主張

 1986年1月、麻原はインドを訪問し、各地でスワミ・アガンダナンダ師やパイロット・ババ師等の「聖者」といわれる人物と会い、日本救済の使命を託されたとしています。
 これは前年12月に、「私はヒマラヤに住んでいる、マニクラチューという完成者で、お前のグルだ。インドへ来い。ヒマラヤへ来い」との「啓示」があっての行動とされています。
 しかし今では、調査によって、パイロット・ババ師は1986年の時点から麻原の行動に批判的であったということがわかっていますが、この点は後に詳述します。

■「傲慢になりやすい人間」と自認

 1986年3月、麻原は初の著書『超能力「秘密の開発法」』(大和出版)を刊行し、その中で以下の通り述べています。
 バクティ・ヨーガを続けながら、カルマ・ヨーガという倫理的なヨーガを修行に加えた。カルマ・ヨーガとは、すべての生き物の中に仏性・神性を認め、それから学び奉仕するというヨーガである。
 例を挙げるならば、自分を裏切ったり、悪口を言ったりする人がいても、そういう人たちの行為を認め、自分を見つめ直す機会として学ぶのである。ゴキブリや蚊に対しても同様である。
 わたしに、このヨーガが必要だったのは、傲慢になりやすい人間だったからである。よくよく自分の性格を分析すると、自分だけが正しいという思い込みがあって、他の人の心の動きを当然のことのように無視してしまうことがあったのだ。
 ここでは、麻原自身が、
「傲慢になりやすい人間だったからである。よくよく自分の性格を分析すると、自分だけが正しいという思い込みがあって、他の人の心の動きを当然のことのように無視してしまうことがあったのだ。」
と述べています。

 カルマ・ヨーガが苦手だとする麻原の説法は、先にも紹介したとおりですが、ここでも、後に教団を暴走に導く麻原の性格的要因の1つを見ることができます。

■「最終解脱」をしたと主張

 1986年4月、麻原はそれまでの組織を「オウム神仙の会」とします。

 そして、翌5月から6月にかけて、ヒマラヤに行き、このとき「最終解脱」したとしています。それと同時期に、雑誌『トワイライトゾーン』に「解脱への道」の連載を開始しています。

 ここで、麻原が説いた最終解脱について総括したいと思います。

 第一に、麻原がいう「最終解脱」は、他の高名な修行者に認定されたものではなく、麻原が自称したにすぎず、よって、その内容もオリジナルな定義でした。その意味で、客観的な証明・権威があるものではありませんでした。

 実際に、麻原の説法を調べても、最終解脱とは最終の解脱を意味せず、それ以上のステージとして最終完全解脱というものがあり、それは達成できなかった(※1)としています。また、最終解脱も一度経験したとしています(※2)。

 こうして、最終解脱したとの主張は、麻原自身の説法によっても、①それが一時の経験にすぎず、②最高の解脱を意味する言葉ではなかったことが明らかであり、その主張の問題点が浮かび上がってきます。

 にもかかわらず、後の信者が麻原を最終解脱者として神格化したのは軽率だったといわざるをえません。ただし、この前後の教団の活動では、麻原が様々な高名なインドのヨーガ行者やチベット仏教の高僧に会って称賛されているという主張がなされており、その点の影響が相当にあったとも思われます。この点の総括についても、後に詳述します。

 第二に、麻原は、高弟達に対して、最終解脱したのは1986年のヒマラヤの時ではなく、それ以前であり、ヒマラヤの時であると主張したのは、その方がイメージがいいから(宣伝になるから)と告白していた事実があります(※3)。このことからも、事実を軽視し宣伝に偏るという麻原の人格がうかがわれます。

 第三に、麻原が自分の雑誌記事で紹介したヨーガ行者として雨宮第二氏(故人)がいますが、雨宮氏は、麻原が最終解脱をしたと公に主張し始めた時に、麻原に電話をかけて、それを厳しくとがめ、そんな主張をしたら地獄に堕ちると強く警告をした事実があります(※4)。

 その後、両者は決裂しますが、それ以前は、麻原は自分の雑誌記事の中で、雨宮氏が自分の未来予言を認めた修行者であり、最終解脱について話し合った人として紹介しており、雨宮氏をかなり高く評価していたようです(※5)。

 一般にも、雨宮氏は、その世界の関係者の中では、高く評価された修行者であったとも言われていますが、実際に、その後の経緯を見ると、雨宮氏の麻原に対する警告が、現実のものとなってしまったと思われます。

 なお、決裂後まもなく雨宮氏は死去しましたが、その際に麻原は、高弟に「私を傷つけた人の運命は悪くなるなあ」といった趣旨のことを語っており、この時点からすでに、後の終末予言の解釈などにも見られる、自分に反対する者は滅びるといった自己中心的な世界観が現れだしていたようです。

■パイロット・ババ師の麻原に関する見解

 一時期は麻原が師と仰いだパイロット・ババ師が、当時の麻原に関して、複数の機会に述べたことをまとめてみると、次のようになります(※6)。

①40日間の修行を麻原に指示したものの、麻原は、三女の病気を理由に途中でそれを抜け出したため、修行が途中で止まってしまい、残念である。自分が麻原を導き損なったことに責任を感じている。

②来日時に麻原を見て、自分が伝授した修行を多額の金銭と引き替えに信者に伝授しているのを見つけたので、それはよくない、それでは破滅に至る、と警告したが、これに対して麻原は十分な対応をしなかった。

③当時の麻原は、1日18時間も修行するなど、行者として非常に優れている面があったが、「私が救済する」と主張していた。この「私が救済する」という考え方は、(プライドなどの)エゴである。周りに、プライドや権力欲の強い人が集まってきて、周りの人も、麻原に悪い影響を与えたのではないか。

④麻原は、アナハタチャクラ(ヨーガで胸に位置する霊的なセンターのこと、プライド等の煩悩が関係する)のレベルで引っかかってしまった(修行が止まった)。アナハタチァクラでは、超能力が付くが、それに引っかかったのは残念。そこを超えていくか、そこで魔にとりつかれるか、という分岐点であった。

⑤麻原にはヨーガ行者の優れた資質はあったが、修行のやり方が、身体行法・ピンガラの道に偏っていた。

⑥信者の人達は、麻原の奴隷になってはいけない。

 ――以上に加えて、パイロット・ババ師らのグループによれば、麻原に限らず、ヨーガの一般論として、次のことがいえるということです。

①ヨーガの修行では、身体行法で一時的に浄化された状態になり、サマディ(深い瞑想)などの超常的な瞑想体験をすることがあるが、それで解脱したと錯覚する危険がある。そのため、ある種の行法を安易に教えることは不適切な場合もある。重要なことは、サマディ自体ではなく、その後の人格の向上である。

②修行者は、セルフ(ヨーガで言う本当の自分=真我のこと)に返るべきであり、グルは導き手にすぎない。

 このようなパイロット・ババ師の指摘は、オウム真理教での修行体験と照らし合わせて、理解できる点が多々あり、それを具体的に言えば、

①麻原やオウム真理教の修行実践は、激しい身体行法に偏った面があり、狂気の集中修行と呼ばれるものなど、その一部には、かなり荒っぽいものがあって、その際に心身を痛めた信者の事例もあったこと。

②麻原やオウム真理教は、激しい身体行法などによる劇的な霊的体験を重視して、それを書籍・機関誌など宣伝したが、それらは、極厳修行での体験であって、その後は減少し、恒常的に持続する状態・能力ではなかったこと。

③「自分こそが救済する」という考えは、パイロット・ババ師が言うとおり、エゴであって、その後の数々の犯罪の背景にあったものであり、その意味でも、修行は一時的な霊的体験や超能力ではなく、プライドを含めた自我意識を滅した人格の向上こそが重要であったが、その点を誤ったこと。

などがあります。

 さらに、当時の高弟によれば、1990年代に入って、オウムが日本のマスコミから批判された時も、パイロット・ババ師は、麻原の現世的な執着を諫める内容の手紙を送ってきたという事実がありました。

■サンガ(出家)制度の発足

 1986年8月か9月頃、麻原は、直弟子を集めてサンガ(出家)制度を発足させます。その当初は、30人ほどだったとされています。

 このオウム真理教のサンガ制度についての総括としては、

①仏教思想である貪りの止滅、少欲知足の教義に基づいて、物質欲や性欲、食欲等を抑制した点などは、釈迦の説いた正統な仏教の教えに基づく出家教団の側面があったが、

②サンガに属する者とそうでない者を極端に区別し、教団を善・社会を悪とする傲慢で極端な善悪二元論の思想を展開して、信者と社会を隔絶する閉鎖的な組織を作り、その中で麻原とその予言思想を盲信する集団を作ったことは、仏教的な教義に著しく反していた、

と考えています。

 そして、ひかりの輪としては、間違っていた点を十分に反省して、釈迦の教えに基づいた正しいサンガの形成を目指しています。


※1 麻原の説法 1993年8月16日
※2 麻原の説法 1993年8月24日
※3 上祐氏ら、複数の当時の高弟(麻原に近かった幹部信者のこと・以下同)が麻原から聞いたもの。
※4 1986年当時に既に出家していた元信者からの情報。同信者は、麻原が雨宮氏と電話で話している際に、側にいたいう。
※5 『トワイライトゾーン』(ワールドフォトプレス刊)1986年6月号
※6 パイロット・ババ師に接触した複数の元信者の情報(その一部は録音テープあり)

【3】「1987年(昭和62年)」

■「大乗の年」と位置づける

 麻原は、1987年を「大乗(マハーヤーナ)の年」と位置づけ、初めて「3つの救済」を説きました。初の本格地方支部である大阪支部も開設し、全国的な展開をスタートさせました。
(※なお、ここであえてこのことを記したのは、後述するように、翌1988年をタントラヤーナの年とし、1989年をヴァジラヤーナの年と位置づけていったからです)

■殺人肯定説法

 また、この時期には、元来の過激な傾向を示す説法もしています。
 同年1月4日、以下の説法を行っています。
 グルのためだったら死ねる、グルのためだったら殺しだってやるよと、こういうタイプの人は、クンダリニー・ヨーガに向いてるということになる。グルがやれといったことをすべてやれる状態、例えばそれは殺しを含めてだ、これも功徳に変わるんだよ。例えばグルがそれを殺せという時は、例えば相手はもう、死ぬ時期にきている。そして、弟子に殺させることによって、その相手をポアさせるというね、一番いい時期に殺させるわけだね。
 このように、グルの指示なら殺人も許されるとの考えは、すでにこの頃に見られており、麻原に初期から内在していた考え方であることがわかります。

■「核戦争を起こす」と発言

 また、麻原は、1987年前半のある時期には、周辺の弟子に限定して、「フリーメーソンと戦わなければならない」「中国に核を撃ち込むビジョンを見た、自分が核のボタンを押す」旨の話をしていました(※1)。その後、1988年以降に、核を撃ち込む相手はアメリカだと訂正したそうです。

 このことからも、1987年のうちに、まだ弟子には妄想(アニメや、いわゆるトンデモ本の世界)の範疇に聞こえるものにすぎませんでしたが、麻原は、目的のためには手段を選ばない「ヴァジラヤーナ的思想」も持っていたことがうかがわれるのです。

■一方で、核戦争防止の説法も

 しかし、その一方、核戦争を防止しようとの説法もしていました。
 同年7月26日 以下の説法を行っています。
 じゃあいったい、オウムの救済活動とは何かといったら、まずは真解脱者、アラハットを三万人出すことだ。この三万人という数字は、直感的なものであって、証明のできる数字ではない。なぜ三万人かという数字は、非常に説明しづらい。しかし、わたしは三万人必要だと考えている。
 そして、三万人が世界に散ったならば、そのサットヴァのエネルギーによって、例えば核兵器を持つことが無意味であるとか、例えば他の、宗教理論の中に矛盾があるだとかいうことがどんどんどんどん暴露されてこよう。そしてつぶされよう。そして真理は一つになるはずだ。
 そうなったらしめたもんだ。みんなが同じ宗教を学んでいるのに、同じ宗教を学んでいる者たちが、核戦争をするわけはない。そうでしょ。つまり、心の寄りどころが一つしかない国同志がだよ、戦争するわけないんだよ。だから、そこまでいけたらなあというふうに、わたしは夢想している。
. この説法は、多くの信者の心をとらえたものでした。しかし、今になって見ると、その意味するところは、オウム真理教が3万人の成就者を輩出し、宗教が(オウム真理教に)統一され、皆が同じ宗教を学ぶことになれば核戦争がなくなる、というものであって、本人さえ夢想と言っているように非常に誇大妄想的であり、かつ、非常に自己中心的で唯我独尊的な要素を秘めていたといえるものでした。

 とはいっても、この未来構想は合法的ではありました。すなわち、この時期においては、後に出てくるような、自らがハルマゲドンを起こす(自作自演する)というヴァジラヤーナの路線は、麻原の中において本決まりではなかったと推察されます。

■この時期まではあった穏健な説法について

 前記のような過激な説法をする一方で、この時期までは、依然として、穏健な内容の説法も行っていました。
 例えば、1987年1月25日、以下の説法を行っています。
 それから、もう一つ言っておきたいことがあります。それは、「わたしは決してカリスマ的な生き方はしないよ」ということだ。そして、君たちも成就した段階で、カリスマ的な生き方はしないでほしい。それはね、わたしと君たちとは全く同じなんだよ。同じ魂を持っているし、同じ真我を持っているし、ちっとも偉くないんだ。ただ、わたしが少し君たちよりも先に修行が進んで、修行が終わったというだけなんだ。だから、崇め奉らないでほしい。そうではなくて、君たちの目標として、君たちの修行の最後の段階だというふうに考えてほしい。(中略)
 まあ、わたしはあんまり組織ってのは好きじゃないんだよ。まあ先程も言ったとおり、カリスマも好きじゃないし、組織も好きじゃないしね。しかし、今の日本で生きている限り、これは避けられないプロセスだと思うんだ。
 このように、この時期の麻原は、カリスマや組織を否定する考えも持っていました。
 この後、自らを救世主・キリストであると宣言し、弟子は自分のクローンになるべきだと主張し、究極のカリスマ化をなして、組織拡大に驀進した麻原を見るならば、大きな矛盾に思えますが、初期には、こうした考えも一部には有していた事実があります。

 また、5月5日には、以下の説法をしています。
 つまり、わたしたちの情報を考えてごらん。一切が功徳をすり減らすための情報じゃないか。例えば、宗教だってそうだよ。あなただけが幸せになりますよと。あなたが選ばれた民ですよと。
 とんでもないとわたしは言いたい。ね。この宗教を信じなければ、あなたは救われませんよと。神は見捨てますよと言っている。とんでもないと言いたい。
 よくその背景を考えてごらん。あなたとわたしは違うんですよと。完全にエゴになっている、ね。
 こうした、自分の宗教だけを絶対視しないという、まともな考え方も、この時期の麻原にはあった模様です。しかし、後になるほどオウムだけを絶対視する主張に変わっていったのは周知の通りであり、この時期の後の変化が重要となります。

 さらに、10月6日には、以下の説法をしています。
 カルマ・ヨーガというものは、例えば他の動きを見て、例えば、ここにAさんがいて、Aさんが悪いことをやっていると。
 あっ、このAさんというのは仏陀であると、ね。そして、わたしに、あ、こういう悪いことをしてはいけないのだなと、教えてくれているのだと考えると。
 Bさんがいて、Bさんがいいことをすると。Bさんは仏陀であると。
 ああ、このBさんは、こういう善行を積めば、ね、心も明るくなるし、いいカルマになるんだなっていうことを教えてくれると考えると。これがカルマ・ヨーガのベース。
 そして、応用といおうか完成は何かというと、Aさんが悪いことをやった。じっと見つめる。「あ、Aさんは悪いことをやってる」と、ね。
 それに心を動かされないで、Aさんの状態を見ていて、ね、その人は悪因縁が返ってきたと。「ああ、Aさんはわたしに身をもって、ね、悪いことをすれば、悪いカルマが返ってくるんだということを教えてくれたんだ」と、ね。
 次に、Bさんの場合。いいですか。Bさんがいいことをやったと。そして、いいことが返ってきたと。「ああ、Bさんは仏陀として、わたしに、いいことをやれば、いいカルマが返ってくるんだっていうことを教えてくれた」と。
 これがカルマ・ヨーガの奥儀だね。いいですか。
 このように、「他人の中に仏陀を見る」というカルマ・ヨーガの考え方は、その後の麻原が、弟子達に対して、麻原の中にシヴァ大神・仏陀を見るように説いて、グル絶対主義、グルイズムに突き進んでいったことと、まさに対照的です。そういう意味では、この頃は、過激と穏健の2つの路線が、麻原の内側に共存していた時期ともいえます。

■ダライ・ラマ法王等からの「称賛」――その背後にあったもの

 オウム真理教の書籍によると、1987年2月、麻原は「シヴァ神の啓示」を受けてインドに行き、現地の修行者・ロブサンテンジン師らと面会し、高いステージを絶賛され、ダライ・ラマ法王との面会を勧められたとされています。

 そして、麻原はダライ・ラマ法王と面会し、「日本に本当の宗教を広めなさい。君はボーディチッタ(菩薩の心)を持っている」などと称賛されたとされています。

 チベット密教という権威は、少なからぬ信者にとって、麻原を信じる動機の一つとなりましたから、麻原(とそれに同行した夫人の知子氏)が作成した教団書籍の内容とは別に、実際のチベット仏教関係者の麻原の評価は、どうであったのかについて、以下に述べたいと思います。

 まず、団体として直接確認はできていませんが、一般のジャーナリストがチベット密教関係者を取材したところによると、彼らは、麻原に会った結果、麻原の(傲慢さなどの)問題点を察知し、それを防ぐためにダライ・ラマ法王に会わせたという情報があります(※3)。

 その中では、法王が麻原に「日本に本当の宗教を広めなさい。君は"ボーディチッタ"(菩薩の心、仏陀の心)を持っている」と語ったという事実は否定されています。

 これについては、オウム側と法王側のどちらが正しいか、すなわち、麻原の誇大宣伝だったのか、オウム事件発生後の自らの政治的な立場を考慮して法王側が事実を否定しているのか、ということは確認のしようがありません。

 しかし、以下の事実から、少なくとも、法王側が麻原を日本の宗教家の中で特別扱いする意図はなかったことがわかります。

 それは、1989年、オウム真理教が日本のマスコミに批判された際、麻原がダライ・ラマ法王サイドにオウムを擁護する推薦状を書いていただけるように要請した時のことです。

 その際、法王サイドは、①法王サイドとオウムは、組織と組織の関係ではなく、基本的に、法王と麻原の個人的な関係で交流してきたこと、すなわち、法王サイド(チベット亡命政府)は、オウムの活動内容はよく知らないこと、②以前ある日本の宗教団体の活動に参加して、その際に法王サイドが利用された苦い経験があること、などを理由として、断ってきました。

 その代わり、高僧であるカムトゥエル・リンポチェ師が個人的な推薦の手紙を書くことはできるという話になりました。
 
 これに不服だった麻原は、「(チベット仏教の高僧の一人である)カムトゥエル・リンポチェ師は、私(麻原)が"イエシェ"に到達したと認めた」という主張し、自らのステージを認めるようにと、法王の部下に促しました(ここでの"イエシェ"とは、オウムでは、神の叡智などと訳され、非常に高いステージのことと解釈されていた)。

 しかしながら、法王の部下の方々は、「仏教の教義では、『誰もが(本質的に)イエシェを有している』と言われている」などと応答し、承諾しませんでした(※4)。

 このことを考えると、(麻原いわく)法王が麻原に認めたとされる"ボーディチッタ"という概念も、仏教の教義では誰もが有していると解釈されていることもありますから、仮に、法王が、その言葉を使って麻原と会話していたとしても、麻原を特別に評価する言葉ではなく、ましてや公に評価する意図はなかったと思われます。

 なお、その後、最終的には、カムトゥエル・リンポチェ師個人の推薦の手紙に加えて、法王サイドが、オウムに関してごく短い内容の推奨の手紙を日本の関係者宛に作成し、オウム側に送ることになりました。その内容は、「オウム真理教は、大乗仏教の伝統を推進し、チベット難民のためにおしみなく援助している」といったものであり、麻原のステージなどには言及されていませんでした。

 しかし、こうしたごく短い内容にもかかわらず、オウム真理教の活動内容を知らずに推薦状を書くというリスクを犯した背景には、推測ですが、この手紙にもあるとおり、麻原・オウム真理教が、チベット亡命政府になした合計1億円以上の寄付・お布施があったのだと思います。

 なお、カムトゥエル・リンポチェ師については、カル・リンポチェ師(チベット仏教カギュ派総帥・故人)とともに、オウムが、同師の麻原に対する称賛を教団機関誌などでよく使った人物でした。同師自身は、少なくとも事件前は、金銭的な理由ではなく宗教的な理由で、麻原を高く評価しているように見受けられました。

 そして、こういった聖者とされる人物の称賛の言葉が、オウムの信者に対して与えた影響は少なくなかったと思います。というのも、オウムの信者には、いわゆるヨーガや仏教の聖者が神通力によって他人のステージを見抜くと信じる傾向が強い人も多いため、聖者の称賛の言葉を非常に重く受け止め、1995年の一連の事件の発覚後も、自分の信仰のよりどころにする傾向がありました。

 そういった信者の傾向がある一方で、これは当然のこととはいえ、カムトゥエル・リンポチェ師が麻原を批判しているとか、過去も麻原を称賛したことはないと主張していると伝え聞いており、麻原に限らず聖者というものを安易に絶対化・神格化してしまう未熟さが信者にもあったといわざるを得ません。一説によれば、インドの人達には、この類のリップサービスはよくあるとも言われます。

 もちろん、今になって思えば、教団の情報提供の仕方も、信者の判断を鈍らせる理由になりました。称賛の言葉だけを信者に宣伝し、その前後に、寄付・お布施がなされている事実が伝わっていません。

 また、そういった言葉は、多くの場合、ごく個人的な交流の中でのものであり、聖者側として、後に社会的な責任を問われる類の公の推奨ではない(責任を問われる場合には、法王サイドのように慎重になる)といった詳細な事情も伝えられていません。さらに、聖者方の称賛の言葉の前には、麻原が自分の修行上の体験を話していますから、聖者が必ずしも霊的な目で麻原を見抜いたというわけでもありませんでした。

 その一方で、麻原の方には、聖者らの称賛の言葉を自分の布教・宣伝に用いようという明確な意図がありました。麻原自身が、1987年頃から、高弟達に対して、布教のやり方として聖者と会ったことを宣伝していく考えを述べていたからです。

■弟子を成就させる――その成就体験について

 1987年6月、麻原は、弟子の石井氏をクンダリニー・ヨーガの成就に導いたとされます。教団では、麻原に続く日本で2番目の成就者と宣伝されました。

 麻原は、この後も、弟子をクンダリニー・ヨーガの成就に導いていったと主張しました。しかし、オウム真理教でいわれた成就の体験の特徴は、以下のように総括できます。

①ダルドリー・シッディ(体が飛び跳ねる)の体験、光を見る体験、身体から意識が抜け出す体験など、霊的・超常的な体験が、成就と認定される基準となっていたが、

②極厳修行(集中的な修行)後には、そういった霊的な体験は相当に減少し、一定の心身のエネルギーの強化や霊的な能力の向上は見られるものの、自我意識の滅尽などの真の悟り・解脱は伴わない、

③また、そういった体験は、一般的には変性意識体験とも呼ばれ、その体験に導くことが、麻原が神の化身たる証明とは全く言えず、実際に、(オウムの極厳修行などに見られる)厳しい身体行法や少食短眠等といった極限状態では、体験しやすい側面があって、

④麻原の逮捕後、上祐氏がアーレフの代表である時代に、後輩修行者を極厳修行に入れて、麻原が導いたとされるのと同様の霊的な体験をさせることに成功したという事実がある。

 こういったことを考えれば、弟子を成就に導いたとして麻原を絶対視していったのは間違いでした。

 その背景要因としては、

①信者らに霊的体験に関する幅広く正確な知識がなく、ある意味で免疫がなかったため、その体験や麻原を過大評価・絶対視してしまったこと、

②当時の日本の精神世界・宗教界の中では、そういった霊的な体験、クンダリニー体験をさせる点においては、麻原とオウムは、他宗派・他団体に比較して、強烈であり、目立っていたという時代背景があったこと、

があると思います。

 しかし、信者が、霊的な体験を過大評価し、それにとらわれてしまって、体験した自分と体験に導いた(と信じる)グルを過大評価していくのは、後の人格形成等において、傲慢さを増大させるなどの重大な悪影響を及ぼす危険性があります。

 それは、霊的な体験はするものの、真の自我意識の崩壊は遅れるというものであり、これが、オウムにおけるクンダリニー・ヨーガ成就体験の一側面であったと思われます。

■教団を「オウム真理教」と改称

 1987年7月、麻原は教団を「オウム真理教」と改称します。

 このとき麻原は、
「この改名の背景にあるものは、やはりオウムが宗教であるということ、しかも絶対的な宗教であるということだね」
と説いています。

 前記の通り、1987年5月5日の説法では、特定の宗教を絶対視してはならないことを説いていました。しかし、ここでは一転して、オウムを「絶対的な宗教」と述べ始め、この傾向はその後続いていくことになります。前月の石井氏のクンダリニー・ヨーガ成就によって自信を強めたのが一因かもしれませんが、自己絶対視の傾向が強まった重要な機会だったと思われます。

 また、この時期、「シャンバラ化計画」という、教団の全国展開の計画を発表し、そのための基金を設立します。月刊機関誌『マハーヤーナ』も刊行を開始し、活動を本格化させていきます。

■エジプトに行き「過去世」を語る

 麻原は、1987年7月から8月にかけて、「シヴァ神からの示唆」を受けたとして、エジプトに行き、ピラミッドの謎を解いたと主張し、自分の過去世がエジプトの高官イムホテップであったと述べました。また、エジプト行きをヒントに、霊的エネルギーをこめたバッジである"プルシャ"を開発する等しました。

 麻原はこれを境に、自分の過去世は歴史上の国家の建設者などの偉大な人物であったと主張するようになっていきました。つまり、イムホテップに限らず、後には、諸葛亮孔明、ダライ・ラマ5世、徳川家光、朱元璋、アメリカの建国者だったなどと主張しました。

 もちろん、これらの主張には、確たる科学的根拠はありませんでした。そもそも、輪廻転生自体が、科学的に完全に証明されたものではなく、あくまで可能性であり、信仰の対象ですが、それだけでなく、チベットの経典に伝わるダライ・ラマ5世の転生譚の記載と、麻原が主張する自身の過去世の間にも、食い違いがあることも発見されています。

 しかし、麻原は自分を過大視する傾向を持っており、弟子である信者も、自分のグルが偉大な人物であってほしいという願望を持っていたため、こうした話が自然と教団の中で受け入れられていったものと考えられます。

 まれに、弟子も麻原の過去世ヴィジョンと同じヴィジョンを見ているケースがありますが、これも、科学的・心理学的に言えば、いわゆるシンクロニシティ(共時性と訳される、意味のある偶然の一致)の類とも考えられ、実際に同じ過去世を共有しているという科学的な証明とはなりません。似たような潜在意識を、麻原と縁の深い弟子らが集団的に共有していたとも考えられます。

 なお、社会的な背景事情としては、当時から、若者の中で、過去世・来世といったもののブームがあったということもできます。昨今は、スピリチュアルブームの中で、当時よりもさらに顕著になりました。

■アメリカに活動展開

 1987年11月、麻原は、ニューヨークに教団支部を設立します。そこに、同年9月にクンダリニー・ヨーガを成就させたとする上祐氏を支部長として派遣しました。

 ニューヨーク支部を設立したことからも、麻原は、まだこの時期にはアメリカを敵対視していなかったようです。しかし、1988年末頃には聖書の予言解釈を通じてアメリカを敵視するようになっていき、それは1995年まで続きます。

 やがて、1988年末頃までには、教団は、このニューヨーク支部の布教には力を入れないという決定をすることになります。


※1 麻原が、上祐氏ら当時の高弟数名に語ったこと。
※2 『マハーヤーナ・スートラ』(麻原彰晃著、オウム出版)
※3 前掲『麻原彰晃の誕生』(文春文庫)
   麻原とも懇意だったカルマ・ゲーリック氏が著者の取材に答えている。
※4 このあたりの経緯は、当時の通訳であった上祐氏らの高弟の情報。

【4】「1988年(昭和63年)」

■「タントラヤーナの年」と位置づける

 麻原は1988年について、「今年、私は、大乗からタントラヤーナのプロセスについて説きたい。」と述べました。

 タントラヤーナについては、いろいろな定義がありますが、ここでは文脈上、大乗(マハーヤーナ)の中でも、さらに後期に成立した「密教」について指しているものと考えられます。一般に、インドやチベットでの密教の歴史においては、グル(導師)への帰依によって修行を進める=グルイズムが説かれるとともに、後期密教では世界の破局予言が説かれることがありました。

 現に、この年は、以後述べるように、麻原によってグルイズムや破局予言がいっそう強調されるようになるとともに、信者の死亡事故に起因した初めての違法行為が行われることになります。
 麻原が、タントラヤーナへの移行を決めた原因は不明ですが、麻原に内在していた過激な思想が、この時期から強くなりはじめていたことがうかがえます。

■社会への宣伝活動を強化

 1988年2月、教団は、大阪サンケイホールで『龍宮の宴』という、麻原作曲の楽曲を演奏する催しを開きます。また、同月、麻原の主要著作である『マハーヤーナ・スートラ』を刊行します。

■「水中エアータイトサマディ」の実施

 さらに、解脱者の証しを世に示すためとして、「水中エアータイトサマディ」を実施します。

 これは、水中に設置することにより外気を遮断した箱の中で長時間、サマディといわれる深い瞑想に入り、酸素消費量が減少することを科学的に証明することによって解脱者の証しとするものでした。これを同年3月に実施予定でしたが、水漏れ事故により中止されました。

 同月、再度挑戦しましたが、事故で設備から毒ガスが発生したということで、また中止となりました。同年5月、麻原は弟子の石井氏と共に再々挑戦しましたが、木造の水槽自体が酸素を消費し、毒ガスを発生した影響があったということで、再び中断となりました。

 しかし、この際に、短い時間といえども、石井氏の酸素消費がほとんどなかったして、一定の結果が出たと位置づけて、サマディは終了となりました。また、麻原は、このサマディによって富士山噴火が食い止められたと主張しました。

 このサマディに関する総括としては、

①サマディは、国内外の他のヨーガ行者も行っているものであり(※1)、その達成をもって、その人物を絶対視・過大視してはならないこと。

②オウムの水中エアータイトサマディにおいて、特に石井氏のケースで、密閉された室内で、12時間程も酸素消費が計測されなかったという教団主張については、観測装置その他に問題がなかったかというチェックができないため、否定も肯定もできないが、

③石井氏が、1995年に逮捕された後の勾留生活で精神病を患うようになった事実から判断すれば、そのサマディ体験をもって、石井氏が、解脱・悟りが意味する不動の精神状態を獲得した証明とならないことは明らかであること。

ということができます。

 さらに、富士山噴火を阻止したとの主張については、何の科学的な根拠もありません。常人には存在するかどうかわからない不安・危険について予言し、それが起こらない場合は、自分の力がそれを止めたとする主張することは、他の新興宗教の教祖にもよく見られるケースです(※2)。

■「血のイニシエーション」を実施

 同年3月、麻原の血を信者が飲むという「血のイニシエーション」を実施しました。
これは、チベットの古い儀式をもとにしたものですが、その宗教的な効果には、特に科学的な根拠はなく、そのため、後に『サンデー毎日』等のマスコミで批判されることになります。

■カル・リンポチェ師との交流――麻原への真の評価

 同年3月、麻原は、「私はカル・リンポチェというチベット仏教カギュ派のラマである。私はあなたの過去世のグルでもある」とのヴィジョンを見たとされます(なお、カルではなく、カール・リンポチェと表記される時もあります)。

 そして、麻原は同年7月、日本を出て、カル・リンポチェ師と面会します。カル・リンポチェ師は、チベット仏教カギュ派の総帥格であり、高名な存在でした。その後、麻原と教団は、同師の称賛の言葉を布教に利用するようになりました。

 教団は、同年8月には、静岡県富士宮市に富士山総本部道場を開設し、その開設記念式典にカル・リンポチェ師を招待しました。同師は、その後、日本各地の教団の道場を訪問し、麻原を称賛する説法を行いました。

 その際に、具体的には、麻原のことを「偉大な仏教の師」とし、「あなた方のグルに奉仕し、そして彼がするようにといったことは何でもするようにしなさい」と説法したのでした。このカル・リンポチェ師による称賛は、信者に少なからぬ影響があったと思われ、その後の麻原の絶対視にも結びついた可能性があります。

 よって、以下に、このカル・リンポチェ師に関する総括をしておきたいと思います。

 まず第一に、カル・リンポチェ師は、訪日した際に麻原の信者に語ったほどには、当初は麻原を評価していなかった事実があります。

 例えば、同師は、最初にインドのソナダで麻原に会った時は、麻原に対して、さしたる評価はしておらず、それが、日本に来訪した際に、インドの時よりも相当に高い評価をしたため、麻原や高弟が驚いたという事実がありました。

 インドのソナダでは、カル・リンポチェ師は、麻原にいろいろな修行法を教えようとしていました。その講義の中で、麻原が自らの修行体験を語ると、同師は麻原に対して、「経験は解脱ではない」と繰り返し、戒めるかのように語っていました。この点は、麻原とオウムの修行の特徴を見抜いてのことかもしれません。

 また、同師の弟子ラマ・ガウワン氏によれば(※)、同師は「アサハラはまだ修行が必要である」と語っていたそうであり、少なくとも、同師から見れば、麻原が十分な成就者・完成者ではなかったということがわかります。だからこそ、同師は麻原にイニシエーションを与えようとしたという事実もあるのです。
 
 しかし、麻原は、インドのソナダにおいて、カル・リンポチェ師の講義への参加を途中で取りやめて、日本に帰国しました。麻原によると、カル・リンポチェ師のエネルギーは、ヨーガで否定的な意味がある「タマス」であり、これ以上、その教えを受けてはいけないということでした。

 そして、カル・リンポチェ師が訪日した際も、カル・リンポチェ師がオウムの信者に瞑想法を伝授した後に信者がおかしくなったとして、カル・リンポチェ師に瞑想法の伝授を取りやめて、一般の講義を行うように要請する一幕もありました。

 この問題の背景には、タントラ・ヴァジラヤーナの教えにおける「グルは一人である」(すなわち麻原だけである)という考え方が、徐々に浸透し始めていたということもありました。

■ダライ・ラマ法王等を低く位置づける

 カル・リンポチェ師に加えて、1988年7月には、麻原は、インドでダライ・ラマ法王に謁見し、イニシエーション(ヤーマンタカイニシエーション)を受講しました。

 このとき受講した麻原とその高弟達は、ダライ・ラマ法王のイニシエーションに際して、チァクラが詰まる(=霊的に汚れている)といった評価をしました。このあたりから、麻原は、政治家としてはともかく、宗教家・瞑想家としての法王に対しては、(政治で忙しくて修行していない、できないとして)低い評価をするようになりました。

 こうして、麻原は、パイロット・ババ師にしても、ダライ・ラマ法王にしても、カル・リンポチェ師にしても、最初は自分の師と仰いだ人について、すぐに自分より下に位置づけていくということを繰り返していきました。その中で、自分を世界の聖者のトップに位置づけていき、高弟を中心とした弟子達も、同じような見解を持っていきました。

■グルイズムを強調

 そして、グルを絶対視する、いわゆるグルイズムを強調する説法がなされていくようになります(ただし、当時の教団は、グルイズムという言葉はありません(※))。

 具体的には、1988年8月5日には以下の説法をしています。
 ここにヴァジラヤーナの優位性があるんだよ。(中略)優位とは何かというと、短い期間で同じ結果が得られると。(中略)帰依の土台からいったならば、大乗とタントラを比較するとだよ、それは雲泥の差がなければならない。タントラは、ヴァジラヤーナは、完璧な帰依が必要であると。ねえ、大乗は、一応、尊敬、グルを尊敬すればそれでよろしいと。この二つには、大きな違いがある。
. つまり、単なる「尊敬」だけではダメで、「完璧な帰依」を弟子に求めています。

 同年9月1日には、以下の説法をしています。
 〔麻原の写真を椅子の上から取って投げつけた後〕まず、君たちは説法を聴く空間と、供物をこうやって並べる空間と、どっちが大切だ。どうだ。だったらすぐ並べかえろ。ここは説法をする場所だろう。
 はい、君たちに聞こう。実物がいるのに、ね、祭壇にわたしの写真が飾ってあると、ここに。ね。君たちにはどちらが大切なんだ。
 タントラの条件というものは、何が大切で何が大切でないかを考えなきゃなんない。そして、君たちがもし、法を理解しないで修行をやろうとしても、成就がありえるわけないし、何を尊敬し、何を尊敬しなければならないか、何を貴重とし、何を貴重としな、ね、何を大切にしなくていいか。あるいは、何が低い修行であって、何が高い修行であるか。そこらへんの理解ができてなくて成就がありえると思うか。どうだ。
 上記の説法は文字だけではわかりにくいのですが、麻原は、自分という実物のグルがいるにもかかわらず、麻原の写真を麻原の椅子の上に置いてそれでよしとしているとして、写真を激しく投げ捨てて、弟子の信者らを怒鳴りつけたのでした。

 10月2日には、以下の説法をしています。
 金剛乗(ヴァジラヤーナ)の教えというものは、もともとグルというものを絶対的な立場に置いて、そのグルに帰依をすると。そして、自己を空っぽにする努力をすると。その空っぽになった器に、グルの経験、あるいはグルのエネルギー、これをなみなみと満ち溢れさせると。つまり、グルのクローン化をすると。
 この説法については、刑事裁判の判決においても、
「より早く成就するためにはヴァジラヤーナの教えによることが必要であるとして,グルである被告人に対する絶対的な帰依を求めるとともに,布教活動を行う教団への奉仕活動としてのワークの重要性を強調した。」
と指摘されています。

 こうした説法が、後に、麻原の指示を無批判に唯々諾々と受け入れ実行していく信者らを作り上げていったといえます。このようにして麻原は、自分を絶対的なグルと位置づけるとともに、唯一のグルとしても位置づけていきました。

 チベット仏教では複数のグルを持つという考えがあるのですが、麻原は「最も速く解脱することができるタントラ・ヴァジラヤーナの教えでは、グルは一人でなければならない」として、信者らが、カル・リンポチェ師などの麻原以外の宗教的指導者から指導を受けたり、イニシエーションを受けたりすることを否定しました。

■初の違法行為――真島事件

 9月には、当時集中修行に参加していた在家信者の真島照之氏が死亡する事件が発生しました。
 麻原の裁判判決によれば、この事件は、
「在家信徒である真島照之が奇声を発するなど異常な行動に及んだことから,被告人の指示に基づき,真島に水を掛けるなどしていたところ,誤って同人を死亡させてしまった。被告人は,この件を公にすると教団による救済活動がストップしてしまうことを恐れ,警察等に連絡しないこととし,岡﨑らに命じ,ドラム缶に真島の遺体を入れ護摩壇で焼却した。」
とあります。

 また、早川紀代秀氏の著書によれば、この死亡事故の際に、麻原は「これは"ヴァジラヤーナへ入れ"というシヴァ神からの示唆だな、とつぶやいた」とあります。これが正しければ、この事件は、麻原がヴァジラヤーナ活動に入る一つのきっかけを形成したものと思われます。

 実際、真島事件を機に説法の内容が過激化しています。上記で紹介したとおり、自分を空っぽにしてグルのクローンとなれという説法も、この事件の直後に行われているのです。この説法傾向は、その後も続きます。

 そもそも真島氏の死亡自体は、あくまでも過失による事故死だったのですから、当局に正直に届け出ればよかったのですが、いたずらに隠蔽しようとして、後の田口事件等、より大きな問題に発展していきました。

 これは、違法行為を犯してでも自分の教団・布教活動に傷をつけたくないと考えた麻原の欲望や焦りが招いた顛末だということができるでしょう。

 また、真島氏への修行のさせ方や、水をかけていた信者が、上層部からの指示が出ないことを理由に、真島氏の容態がおかしくなっていたにもかかわらず、水掛をやめなかったという問題もありました。この時期すでに、何も考えずに上からの指示を絶対視する傾向が信者の間に見られるようになっていたことがわかります。

■予言解釈による麻原絶対視の始まり

 麻原は、1988年の後半になると、ノストラダムスや聖書の予言を解釈して、自分こそ予言された救世主であるとして、自らの絶対化を図っていくようになります。

 10月12日には、次の説法をしています。
 ノストラダムスの大予言を見ても、あるいはヒトラーが研究していたというね、予言を見ても、原文を忠実に訳するならば、明らかにオウム真理教、オウムのシステム、そしてわたしのこともその中に書いている。そして、もし、わたし、オウム、君たちがだ、本当の意味で高い世界へと飛翔しない限り、人類救済もあり得ない。
 麻原は、原文を忠実に訳した結果、自分のことが記されていると述べていますが、実際には、ノストラダムスの予言詩は、そもそもが極めて抽象的であって、非常に解釈の幅が広いものですから、麻原や教団のことを述べているように解釈していったのが、真相だと思われます。

 また、麻原は、1988年末頃に、新約聖書の最後部にある「ヨハネの黙示録」の解釈をして、その結果をまとめた書籍『滅亡の日』を刊行します。麻原は同書で次のとおり述べています。

「勝利を得る者、わたしのわざを最後まで持ち続ける者には、諸国民を支配する権威を授ける。彼は鉄のつえをもって、ちょうど土の器を砕くように、彼らを治めるであろう。」
「これが武力で支配することだというのはだれにでもわかるだろう。」
「力で良い世界をつくる。これこそ、タントラ・ヴァジラヤーナの世界だ。」

 これは明らかに、武力によって世界を支配するという構想であり、その主体は麻原や教団であることを示唆していました。

 すでに前記の通り1985年にはアビラケツノミコトを命じられたとして、武力行使の意図をちらつかせていましたが、聖書解釈によって、ますますその意図を強めてしまった可能性があります。

 つまり、単なる神のお告げという主観的な根拠だけではなく、聖書という客観的(と麻原が考えた)根拠をもって、自らの絶対視、武力行使の正当化を推し進めたことがわかるのです。

 もちろん、これを読んだ大部分の一般信者は、まさか麻原にそのような意図があるとは全く思っていませんでしたが、それは麻原に対する見方が甘かったものといわざるをえません。

■妄想的な予言を連発する

 ノストラダムスや聖書の予言によって自己絶対化を図った麻原は、自らも予言をし、自身と教団の未来は次のようになると宣言しました。
 以下は、この時期、1989年以降に起きる出来事として機関誌で公表された麻原の予言です(カッコ内は予言した年月日)。
◎8年以内には、オウムは今の科学を超えるだろう(88/1/31)
◎オウムは将来、おそらく都市を作る(87/6)
◎89年くらいには、オウム町くらいできる(87/10/18)
◎5年後、10年後には、ロータス・ヴィレッジも現実のものになる(88/4/9)
◎5年後くらいに、オウムは真理だと定評が立つだろう(87/11/1)
◎5年、10年のうちに、オウムは日本でも1、2を争う教団に。20年、30年経つと、オウム以外の宗教はなくなる(87/7/26)
◎オウムの登場によって末法の世は終わった――それは数十年後に千名、1万名という多くの成就者が出て、神通を現わし、悟りの証を示すことで証明される(88/9/24)
◎1989年以降にする予言は百発百中(87/6)
◎1999年から2001年までに、核戦争が起きる。96年から97年の間に、ボーディーサットヴァが少なくとも1万人出なければ大変なことになる(86/8)
◎『マハーヤーナ・スートラ』(麻原の著書)は200年、300年、400年後に、お経となって読まれる(88/1/16)
◎500年、1000年後はオウムの名前だけ残って、真理はもうないだろう(87/8/24)※そのときには、もう一度降りてきて真理を展開する。
◎1990年、日米経済戦争の本格化。
◎1993年、日本の再軍備。
◎1996年、日本沈没(一部は残る)。
◎2003年、核兵器による決定的な破局。
◎2006年、広島またはその近辺が核兵器による攻撃を受けて荒廃。
 いうまでもなく、これらの予言はことごとく外れ、今から見れば妄想の域を出ないものばかりでした。
 しかし、麻原のみならず信者らも、こうした麻原の予言を真に受けて、あるいは重視して、その後の活動を続けていったのです。

■一部の霊的エリートだけを残すという危険な構想

 こうした予言解釈が進むのと同時に、麻原の「救済観」にも変化があらわれます。初期は、広く多くの人々を救おうという考えを持っていたにもかかわらず、次第に、大部分の人々は見捨ててもやむをえないかのような考えに変わっていったのです。

 それを裏付けるのが、同年10月28日に行われた以下の説法です。
 当初、初めは、わたしはね、凡夫を救済するのがわたしの役割だろうと考えていた。しかし、近ごろわたしは、心が少しずつ変わってきている。どのように変わってきてるかというと、ひょっとしたら、動物化した、あるいは餓鬼化した、あるいは地獄化したこの人間社会というものの救済は不可能なのかもしれないなと。
 そして、じゃどうしたらいいかというと、新しい種、つまり、ね、今の人間よりも霊性のずっと高い種、これを残すことがわたしの役割なのかもしれないなと。これはまだ漠然としたものである。はっきりしたものではない。だからずれるかもしれない。しかし、休息をとり出したわたしのね、心にはそういうことが浮いてきてるんだ。
 このように、一部の霊的エリートだけを残して、他の大勢の人々の救済は不可能と考えたことが、後のオウム事件における無差別大量殺人に結びついていったのではないかと思われるのです。

 以上の通り、1988年には、麻原は自らを唯一絶対のグルとして権威付け、後のオウム事件を招く思想をすでに説き始めていたことがわかります。多くの信者らは、こうした麻原の危険な傾向にほとんど気づくことなく、盲従していってしまうことになります。


※1 日本人としてはヨグマタ(相川圭子氏)、インド人ではパイロット・ババ師などが行うことが知ら
れている。
※2 以前話題になったパナウェーブ(白装束の信者集団)の女性教祖が、ハルマゲドンを予言した上で、
自分(達)の力で、それが収まったと主張した事例がある。
※3 カル・リンポチェ師の死後に、ラマ・ガウワン氏が麻原にあてた手紙の中に記載されていた事実。
※4 グルイズムとは、文字通り訳せばグル教となるが、人間であるグルを崇拝・絶対視する宗教につい
て、客観的に、場合によっては、批判的に見る立場の用語であり、チベット仏教の僧達も、自分たちがルイズムとされるのを喜ばないといわれる。

【5】「1989年(昭和64年・平成元年)」

■ヴァジラヤーナ路線の宣言

 これは、あまり知られていない事実ですが、1989年が明けると、大師といわれる教団幹部らが麻原のもとに集まって、会議を開きました。
 この会議の場では、ヴァジラヤーナ(金剛乗)の構想が話し合われ、後に科学技術省の大臣として武装化計画の中心となる村井秀夫氏は、「私の役割は全ての魂のポワだと思います」と語りました。

■麻原個人崇拝的な修行

 教団ではこの頃までに『グルヨーガ・マイトレーヤ・イニシエーション』という瞑想法を信者らに伝授し、実施させていました。
 この瞑想は、最後の部分で麻原のイメージをありありと観想し合一する瞑想を行うものですが、これは麻原への個人崇拝へと信者を導く特異な修行であったといえます。
 このように、イメージの上で麻原と一体化するかのような修行は、後に、麻原の指示を無批判に受け入れ事件を起こす信者を作っていった元凶の一つだったということができます。

■宗教法人化をめぐるトラブル

 1989年の始め頃から、麻原は、オウム真理教を宗教法人化するための具体的な動きを始めていました。いろいろな準備を調えた上、同年3月には、東京都知事に「宗教法人規則認証申請書」を提出しています。

 しかし、同年6月、東京都は「未成年者に高額なお布施をさせて出家させることに親たちが反対運動を起こしている」として、申請書の受理を保留しました。これに対して教団は、都知事を相手取って「行政の不作為の違法確認訴訟」を東京地裁に起こすとともに、都庁や文化庁に大挙して押しかけて激しい抗議活動を展開するなどしました。
 その結果、同年8月、東京都は「オウム真理教」を宗教法人として認証するに至りましたが、それは法律の規定上、やむを得ないということだったようです。

 このような公的機関に対する激しい攻撃的姿勢について、麻原は、「国家の権力に対してわざと怒りの形相を見せた、こういった事も時には必要なんだ」という趣旨の話を、弟子の信者らにしています。

 しかし、今から考えるならば、東京都が拒否する前に、そもそも出家の問題を起こさないように、未成年者の出家について、慎重に対処しておくべきだったと思われます。
 すなわち、東京都とトラブルを起こす前に、親たちと真剣に話し合うべきだったのですが、当時の教団は、麻原の予言思想に基づいて、できるだけ多くの出家者を集める、「シッシャ(弟子)狩り」という教えが展開され、強引な出家勧誘がなされたため、このような摩擦を引き起こすことになったのでした。

■初の殺人事件――田口事件発生(殺人事件で麻原有罪)

 上記の宗教法人化への動きが進んでいた1989年2月10日、初の殺人事件である田口事件が発生します。

 裁判の判決によると、田口氏は、前年9月に事故死した真島氏(前記参照)の遺体焼却に関与していたところ、89年1月頃から、脱会を希望するようになり、脱会させないなら麻原を殺す旨言い出しました。
 この状況を知った麻原は、田口氏が脱会して真島氏の件を表沙汰にした場合、教団維持や宗教法人化の障害になると考え、早川氏、村井氏、岡崎氏、新實氏に命じて、脱会を留まるように説得させ、もし説得に応じないのであれば殺害するように指示しました。しかし、田口氏は、説得に応じなかったために、頸部をロープで絞められて死亡したとされています。

 そもそも先の真島事件も、宗教法人化に悪影響が出ないようにするために隠蔽したといわれていますが、その後結果的に、この田口事件のようなもっとひどい結果を招いてしまったのです。

 これは、自己の絶対視に基づいて、自己を過剰に防衛するために、逆に自滅に向かうというパターンであり、後の坂本弁護士一家殺害事件にも共通する、その後の教団の傾向ということができます。

■グル絶対視、殺人肯定説法を繰り返す

 このような初の殺人事件以降、麻原は、さらにグルを絶対視させる説法を続け、ついには、グルによる殺人は肯定される旨の説法まで行うようになっていきました。

 もちろん、事件に関与した一部の信者以外は真島事件も田口事件も全く知りませんでしたが、麻原は、犯行に及んだ一部の高弟達だけでなく、一般の信者にも徐々にこうした考えをなじませておこうと考えた可能性があります。

 これは、田口事件直後の2月26日の説法です。
 でね、何を言いたいかというと、つまり、オウムの、わたしと弟子との関係というのは利害がないんだよ。だから、利害がないということは、弟子たちは、解脱をするためにわたしについてきてると。
 で、わたしはプンナ大師に聞いたんだ。「例えば、プンナ大師」と。「わたしがね、女遊びにふけったらどうしますか」と(笑)。「例えば、物欲に凝り固まったらどうしますか」と。「例えばわたしが左道を説いたらどうしますか」と言ったら、「いやあ、それはもちろんわたしはついていきます」と。「じゃあ、マンジュシュリー大師、どうですか」と。「いやあ、わたしもついていきます」と。
 なぜならば、ね、凡夫の思考では計り知れない、深遠な教えというものがあるんだね。その深遠な教えとは何かというと、三乗といわれていると。わたしはよく三乗を説くよね。三乗というのは、ヒナヤーナ、マハーヤーナ、タントラヤーナと。一つはね。それからもう一つは、右道乗、中道乗、左道乗というのがあるんだよ。もちろん、ね、これは左道は邪道といわれていると。右道は邪道と言っている一派もあると。しかし、一応は、これは古来のインドから三乗の道はあるわけだね。
 そしてわたしは、転生していく過程において、右道にしろ、中道にしろ、左道にしろ、すべてを経験しているんだ。そして、あなた方はびっくりなさるかもしれないけどだよ、仏陀釈迦牟尼も同じように三乗を経験なさってるんだよ。それは知ってたかな。知っていた、ね、経験なさっていたからこそ、わたしは、左道を離れ右道を離れと、中道の道を行くとおっしゃったわけだよ。だってもし、知らなければ言えないだろ。どうだ、それは。知ってるからこそ、左道の良さと悪さがあるわけだね。
 これは殺人を肯定するものではありませんが、麻原がどんな状態になっても弟子はついてくるべきだと説くものであって、麻原の絶対視につながる内容です。とりわけ、説法に登場する「プンナ大師」「マンジュシュリー大師」というのは、それぞれ大内氏、村井氏のことで、両名とも田口事件に関与していることに注目を要します。これは、事件に関与して動揺している両名に向けて行った説法である可能性もあります。
 
 さらに次の4月28日の説法では、殺人にまでテーマが広がっています。
 ここに、このままいくと地獄に落ちる人がいたと。そしてそのカルマを見極めた者が、そこで少し痛めつけてあげて、そしてポワされることによって人間界へ生まれ変わるとしようと。その人は、それを知って痛めつけ、そしてポワさせたと。つまり殺したわけだな。人間界へ生まれ変わったと。これは善業だと思うか、悪業だと思うか。
 ところがね、観念的な、法無我の理論を知らない者は、それをそれとして見つめることができないんだね。観念的な善にとらわれてしまう。そうすると、そこで心は止まってしまうんだ。
 「じゃあ、わかったと。(中略)今日から、例えば人を痛めつけてやろう」と。このように考える人は、どうだ。――無智だ。そのとおりだ。では、どのような状態になったら、この実践を行ってもいいと思うか。――ありのままに見つめる力がついたときということになるね。それからもう一つの条件がある。それは何だ。心が自己の利益、煩悩から離れたときということができる。
 このように、カルマを見極めた者は人を殺しても構わないという説法まで行うに至りました。麻原を絶対視させ、その殺人を肯定する説法を、田口事件から2カ月あまりの間に繰り返していることがわかります。

 一連のオウム事件を肯定する宗教的教義は、すでにこのときまでに説かれていたことが明らかですが、大部分の信者はまさか麻原が本当にやっていること、あるいは今後やろうとしていることだとは気づかなかったのでした。

■魂の二分化――二元的思想の強まり

 また、麻原はこの時期、『滅亡から虚空へ』という書籍を刊行(1989/5/31初版)し、その中で、以下のように述べています。
 私はここでゾロアスター教や密教における宇宙観を思い描くからである。それによると、いずれこの世界の空間は壊滅し、純粋な魂の世界と汚れた魂の世界という、上・下二種類の世界が形成される。そして、中間には初めは何も存在しておらず、次第に上から下降してくる魂と下から上昇していく魂のぶつかり合いが始まり、そのぶつかり合いによって新たなる創世がスタートするというのである。このときに、中間にある人間界も形成されていくのだ。
 創世→壊滅→魂と世界の二分化→創世......と、このプロセスは長い長い期間をかけて繰り返されていく。
 一回のプロセスで救われるのは、ほんのわずかな魂――。だから、すべての魂が救われるには、もう無限に近いような時間が必要となることであろう。
 『黙示録』の預言は、そのように繰り返されるプロセスの中の魂と世界の二分化という、近い未来に私達が経験するであろうことを描き出しているのである。
 このように麻原は、この世界は破局に向けて、「純粋な魂の世界」と「汚れた魂の世界」の2つに分かれていき、ほんのわずかな魂しか救われないと述べています。このことは、その後「魂の二分化」という表現を用いて頻繁に論及されていきました。

 例えば、この4年後の1993年4月11日の説法でも、
「完全に人間の中に二つのジャンルを作る――神々の要素を有する者と、それから、そうでなく三悪趣の要素を有する者の二つを完全に区分する――ために、今回のハルマゲドンは生じるのである。」
と述べるなどして、魂の二分化に論及しています。

 しかし、人間はそう簡単に、「純粋な者」と「汚れた者」、「神々の要素を有する者」と「三悪趣の要素を有する者」の2つに二分化することはできないはずです。一人の人間の中にも純粋な部分と汚れた部分、神々の部分と三悪趣の部分はあるはずだからです。

 こうして人間を単純に二分化してしまうような考え方は、自らの教団を「聖」とし、社会を「悪」として批判攻撃する教団の二元的傾向を形成していったと考えられます。

■衆院選への選挙活動のスタート

 1989年8月頃、麻原は翌年の衆議院議員選挙に立候補することを決意します。そして、同月、東京都選管に政治団体「真理党」「麻原彰晃後援会」の届け出を行いました。
 これに先立ち、政治運動の展開の是非について出家者間で議論がありました。上祐氏だけは当初反対しましたが、それ以外の大部分の信者は政治運動に賛成したため、結局、教団を挙げて選挙に向けての活動が始まりました。

 麻原はその最初期の8月1日、以下の説法をしています。
 このけがれきった世の中に対して、二つのアプローチが考えられるだろうと。
 一つは、今回私が取ろうとしているソフトな手段であると。これは、例えば今の国会に一議席、十議席、百議席、ね、そして、まあ、最終的には絶対的な多数を取って、ね、その、政治を本当に徳の政治に変えてしまうということが一つと。
 もう一つは、そうではなくて、武力的に武装して、今の日本をひっくり返し、そして真理でないものをつぶしてね、救済するという方法が一つと。
 そして、わたしはね、今の段階では、その前者を考えている。ここで君たちは、疑問が生じるかもしれない。今の段階で前者の方を考えているということは、後者の方を考える場合もあるのかと。それは、条件によって違ってくるだろうと。
 このように、この説法からは、政治目的を達するための合法的手段(選挙)をとろうとする一方、すでに武力行使も選択肢に含めていたことが見て取れます。この時期の麻原は、合法手段と違法手段のいずれかを選択するかで揺れていたといえます。

■『サンデー毎日』の批判報道への反発

 こうしてスタートした選挙運動では、真理党の政策として、消費税廃止、教育改革、福祉推進、医療改革を打ち出していきました。
 そして、次第に社会の注目を集めるようになるとともに、一部マスコミが教団批判を始めるようになりました。そのスタートを本格的に切ったのが、週刊誌『サンデー毎日』でした。
 同誌は9月上旬から、教団批判のキャンペーン記事を連載するようになります。
 これに対する麻原の反応は苛烈なものでした。判決には次のとおり記されています。
 
「記事の内容を知った被告人は,早川ら信者数名を連れてサンデー毎日編集部に押し掛けて抗議し,あるいは,岡﨑,早川,上祐史浩ら幹部に指示し,サンデー毎日編集部に対し,連載を中止し謝罪文を掲載するよう抗議させ,同編集部のある毎日新聞社ビルや牧編集長の自宅付近で抗議のビラをまかせたり,街宣車を使って抗議をさせたりし,あるいは,村井と相談するなどして毎日新聞社ビルを爆破するための下見をさせるなどした。」

 このように、批判する者を武力で攻撃しようという乱暴な傾向が、すでにこの時期に顕著にあらわれていたことがわかるのです。
 それを裏付けるかのように、『サンデー毎日』の記事連載が始まった直後の9月24日には、次の説法が行われています。
 生かしておくと悪業を積み、地獄へ落ちてしまうと。ここで例えば、生命を断たせた方がいいんだと考え、ポワさせたと。この人はいったい何のカルマを積んだことになりますか。殺生ですかと、それとも高い世界に生まれ変わらせるための善行を積んだことになりますかと。ということになるわけだよね。
 でもだよ、客観的に見るならば、これは殺生です。客観というのは人間的な客観的な見方をするならば。しかし、ヴァジラヤーナの考えが背景にあるならば、これは立派なポワです。そして、智慧ある人は――ここで大切なのは智慧なんだよ。智慧というのは――わたし先程何て言った? ――神通力と言ったよね。智慧ある人がこの現象を見るならば、この殺された人、殺した人、共に利益を得たと見ます。OKかな、これは。
 こうして、ヴァジラヤーナを背景にすれば殺人も肯定される旨の説法を行っていたのです。

 ところで『サンデー毎日』は、当時教団が「光を発する水」と宣伝していた「甘露水」について批判する記事を掲載しました。

 教団では、その水の発光については京大研究室が証明した旨を宣伝していましたが、実際には、信者が京大の研究室を借りて実験したというにすぎず、明らかに教団の誇大宣伝でした。麻原は「それがアピールというものだ」と述べ、誇大宣伝を肯定していたのですが、同誌からはその点を突かれたのでした。

 もともと麻原には、こうした誇大宣伝の傾向があり、次第にそうした誇大宣伝を本当のことだと思い込むようになっていったのではないかと考えられます。

 また、この後で教団は、同誌の記事に反論するための『「サンデー毎日」の狂気』という書籍を刊行しますが、同書の中で、教団への批判記事の背景には創価学会がいると主張しました。このような創価学会への敵視は、その後も続いていき、1994年には同会の池田大作名誉会長の殺害を狙った事件まで引き起こしていくことになります。

 これも麻原の被害妄想的で思いこみの強い性格が招いた見方だと思われます。

■キリスト妄想の始まり

 このようなマスコミによる攻撃を受け始めたせいか、麻原には被害妄想が高じていったようで、自らをキリストとする妄想が強まっていきます。
 同年9月に以下の現象があったと説法しています。
 正確に言うと(89年)9月の終わりだったと記憶してるけども、グリーンクラフトで休んでるとき、サハスラーラから「ドン!」と、妙なエネルギーが入ってきた。そして、「イエス・キリストになれ」という言葉があった。これは何かというと、「さらし者になれ」って意味だね。それから『サンデー毎日』がスタートした。わたしはイエス・キリストをさらし者だと考えています。そして、そのとおり、さらし者になってきた。わたしの役目はさらし者だからそれでもいい。
 後述しますが、麻原は、この後1991年末にも自らのことをキリストと正式に宣言します。こうした妄想は、この時期に始まっていたことがわかります。

■坂本弁護士一家殺害事件の発生

 この時期、横浜弁護士会の坂本堤弁護士が、教団批判の活動を開始していました。
 具体的には、同年10月、ラジオ出演して教団を批判するとともに、出家信者らの親たちを中心とした「オウム真理教被害者の会」を結成しました。
 また、TBSテレビが、坂本弁護士による教団取材を行ったため、同日のうちに、早川氏、上祐氏、青山氏がTBSに抗議し、放送中止を要求しました。そして同氏らは横浜法律事務所で坂本堤弁護士と面会したのでした。

 こうした流れの中で、麻原の指示により、坂本弁護士一家の殺害が行われます。判決によれば、おおむね以下の通りです。

 麻原は、村井氏、新實氏、早川氏、岡崎氏、中川氏を集め、「もう今の世の中は汚れきっておる。もうヴァジラヤーナを取り入れていくしかないんだから,お前たちも覚悟しろよ。」などとして、教団による救済にとって障害となるものに対しては殺人をはじめ非合法的な手段により対処していく趣旨のことを言い、「今ポアをしなければいけない問題となる人物はだれと思う。」と述べて、教団にとって最も障害となる殺害しなければならない人物はだれかという意味の問い掛けをした後、坂本弁護士を名指しし、同弁護士について、被害者の会の実質的リーダーであり、将来教団にとって非常な障害になるから、同弁護士をポアしなければならない旨述べて、同弁護士の殺害を指示し、上記5名に端本氏を加えた6名は、同年11月4日未明、横浜市の同弁護士宅に侵入し、同弁護士と、居合わせたその奥さんと子供の計3名を、頸部を締める等して窒息させて殺害した。3名の遺体は新潟県、富山県、長野県にそれぞれ分散して埋めた。

 このように、ヴァジラヤーナを取り入れて邪魔者を殺害していくという路線が確定し、実行に移されていくことになりました。それにしても、無関係な奥さんや子どもまで殺害してしまうというやり方は、あまりにも非道であったといわざるをえません。

 組織防衛のために起こした坂本弁護士一家殺害事件は、その後の教団を追い詰めていくことになりますが、そうしたこともわからないで、このような事件を強行したように、麻原の視野はあまりに狭く、短絡的なものでした。過剰防衛からその後の自滅に発展していくというパターンは、その後の教団の事件に共通する特質ともいえるものでした。

 この事件直後、麻原ら教団幹部は日本を出国してドイツに向かい、現地で、教団と事件とは無関係との虚偽の記者発表をします。

■事件に揺れる教団を組織固めする

 教団と事件との関係が噂され、教団の中で動揺が広がるのを防ぐ目的があったのか、麻原は、同月から多数の出家信者を集中修行させ始めます。
 そして、同月19日には、信者らに対して以下の説法をしています。
 わたしは近ごろのマスコミの報道、まあ、サンデー毎日から始まったマスコミの報道は、これは真理に対する挑戦だと考えています。
 わたしのできる限界とは何かといったら、まず、わたしの知っている世界を、この問題があるにかかわらず、全く動揺しないシッシャ(弟子)にまず体験させようと。そのわたしの知ってる世界の一部ではあるけども、まず体験させようと。そして、その体験の輪が、そして、エネルギーアップが、これだけ叩かれてても一生懸命オウム真理教を実践していこうとしている信徒の皆さんの励みになり、そして目標になるんじゃないかと。

 せっかく『サンデー毎日』事件が収束したら、次は坂本さん事件であると。そして、証拠も何もないのに、新聞、あるいはテレビは、ある部分に関してはオウム真理教の名前を出し、そして、いかにもオウム真理教がやったんだと言わんばかりの報道をしている。

 しかし、考えてみるとこれも当然である。なぜ当然だろうか。それはオウム真理教に、それだけの今の社会が恐怖をするような内容が秘められているからであると。
 それは、わたしのもとに出家した400人余りの人たち、この人たちは、おそらくわたしと生死を共にして生きるだろう。例えば、昭和天皇の死に際して、ご老人一人が命を断ったと。ところが、わたしがもしこの世界から去るとき、一体どれくらいの人数の者がわたしと共に転生するのかと考えたら、それは天皇の比ではないだろうと。つまり、現体制に対する最も恐怖に値する組織、しかもまだそれほど大きくはないと。今のうちに叩けと。そして一生懸命叩いていると。

 しかし、例えばウィルスがそうであるように、叩かれれば叩かれるほど抗体は強くなる。そして、今オウム真理教は、少なくともシッシャ400名に関しては全く揺れていないと。逆に、どんどんどんどん固まってきていると。そして、組織的にも強くなっていると。
 普通に考えれば教団が批判されるのは当然だったにもかかわらず、麻原は、批判する方が悪いのだといわんばかりの説法を、この時期には繰り返していました。こうした説法をそのまま鵜呑みにして、社会との対決姿勢を強めていった一般信者は、何も知らなかったとはいえ、まったくもって愚かだったといわざるをえません。

 また、この説法からは、麻原が自分自身を過信し、誇大妄想に陥っていることも読み取れます。こうした傾向が、教団を批判してくる坂本弁護士への過度の反発を生み出し、あのような事件を引き起こしたものとも考えられます。

 なお、この11月から12月にかけてのわずか1ヶ月間の集中修行で、130名もの出家信者が「成就」したと認められました。中には、かなりいい加減な成就の認定が行われたとの証言もあり、上記のような社会的圧力が強まる中、麻原が組織固めを急ごうとしていたことがうかがわれます。

■選挙活動における違法行為

 このような状況の中でも、翌年2月の投票に向けての選挙運動は引き続き実施されました。

 しかし、この合法的であるべき選挙運動の中でも、実は様々な違法行為、脱法行為が組織的に行われていました。例えば、対立候補のポスターを剥がしたり、破壊したりする行為や、本当は政治活動ができない夜の時間帯の活動を「宗教活動」と偽って実施するという行為がありました。

 また、麻原への投票権を得るため、実際に住んでいない選挙区内の住所に、多数の信者らが住民票を虚偽に転入させたこともありました。

 このような違法行為も、麻原の救済活動のためならば許されるというのが、当時の一般信者の感覚でしたから、殺人こそはしないものの、それまでに裏で殺人を実際に行った信者らと本質的には変わりない反社会性を持っていたということができます。

 麻原は、12月25日の説法で、
純粋な宗教活動のみでは、様々な社会問題は解決されないということ。それゆえ、根本的に政治と宗教は切り離せない。(中略)徳によって政を行い、地上に真理を広める転輪聖王としての役割を果たしていきたい。
と述べ、国を支配する程の政治的な力を得ようとしていたことがわかります。

【6】「1990年(平成2年)」

■選挙落選は国家の陰謀と主張

 年が明けて1990年2月18日に投票が行われた衆議院議員選挙では、麻原をはじめ「真理党」から立候補した25人全員が落選しました。麻原の得票数は1783票にとどまり、教団では、投票箱のすり替えが行われ不当に落選させられたと主張しました。

 麻原は、翌2月19日の説法で、以下のように述べています。
 今回の選挙の結果は、はっきり言って惨敗、で、何が惨敗なのかというと、それは社会に負けたと。いや、もっと別の言い方をするならば、国家というものに負けたと、いうことに尽きると思います。で、今回の結果を、まあ君たちはどう分析してるかわからないけども、わたしは初めは、狐につままれたような状態で、あの結果の推移を見ました。そして、まあ、それが決定されたあと、わたしの長女であるドゥルガー、それから、三女であるウマー・パールヴァティーが、
「お父さん、トリックがあったんじゃないの?」
と。つまり、選挙管理委員会を含めた大がかりなトリックがあったんじゃないかという話を、まあ、子供たちがわたしにしたわけです。
 で、君たちも知ってるとおり、真理党の基礎票というのは一万数千票はあったはずと。ところがこの一万数千票が、少なくとも基礎票である一万数千票が、票になって出てこなかったと。そして、わずか千数百票と。で、気づいた人もいるかもしれないけども、東京周辺部、つまり千葉・埼玉・神奈川の票は出ていると。ところが東京の票は出ていないと。だから、考えられることは、選管絡みの大きなトリックがあった可能性はあると。わたしはそう考えています。今ですね、これは。つまり、国家に負けたと。
 冷静に考えれば、このような国家ぐるみの「トリック」など、できるはずもなく、あるはずもないのですが、こうした滑稽な説でも多くの信者が信じてしまったのでした。現実感覚を失っていたものといわざるをえません。

 上祐氏等の一部の信者は、独自の調査の結果、麻原の落選は間違いないと合理的に判断していましたが、大部分の信者は麻原の荒唐無稽な説を信じてしまいました。というよりも、むしろ信じることを帰依として、美徳としていました。

 なお、麻原は、盲学校時代に生徒会長選挙に立候補し、落選した際にも、落選は教師による陰謀と思い込む被害妄想があったとされており(前掲『麻原彰晃の誕生』)、それが真実だとすれば、これは麻原の青年時代からの一貫した傾向ということができます。

■落選を機に教団武装化へ

 同年3月、麻原は、遠藤誠一氏らにボツリヌス菌の培養を指示しました。4月中旬までに日本中に散布するという計画を立て、実行に移そうとしたのです。さらに、風船爆弾を開発して、ボツリヌス菌を風に乗せて、アメリカまで飛ばし、散布する計画も立てました。

 このような武装化のスタートは、選挙落選を機に行われるようになりました。

 現に4月10日頃、麻原は、
「今回の衆議院議員選挙は、私のマハーヤーナにおけるテストケースであった。その結果、今の世の中、マハーヤーナでは救済できないことが分かったので、これからはヴァジラヤーナでいく。」
「これは宇宙の法則であり、本来なら神々がすることだが、神々がやると残すべき人を残すことができないので、我々でやる」
等と述べています。

 判決でも、麻原は、
「現代人は生きながらにして悪業を積むから,全世界にボツリヌス菌をまいてポアする。救済の計画のために私は君たちを選んだ。などと言って無差別大量殺人の実行を宣言」
したと認定されています。

 また3月24日にも、
「人間の魂がもっともっとけがれ、そして第四期、破壊の直前になるとタントラヤーナの修行においても救済できない、そういう魂の世界が人間界に形成されます。ここで登場してくるのが、ヴァジラヤーナ、つまりフォース、力を使って、武力を使っての破壊です。」
という説法を行っています。

 前記の通り、もともと麻原には武力行使の思想は強くあったのですが、それはイメージの世界だけにとどまっていました。しかし、選挙落選によって、現実に、武器製造と大量殺戮計画という形で本格化していったのでした。

 こうした動きについては、大部分の信者は知りませんでしたが、選挙敗北は国家権力の不正のせいだという被害妄想的な意識の集団的な増長が、こうした教団の変化を生んだと考えることもできます。

■信者避難のための石垣島セミナー

 同年4月には、沖縄県・石垣島に多くの信者を集めてセミナーが開かれました。正式名称は、「神言秘密金剛菩薩大予言セミナー」というもので、当時地球に接近しているとされるオースチン彗星がもたらす影響についての説法がなされるとのことでしたが、さしたる内容もないまま現地で急きょ打ち切りとなり、皆、本土へ帰ったのでした。

 実は、このセミナーは、教団がボツリヌス菌を本土に散布するにあたって、信者だけはその被害を受けないようにと考え、信者を避難させる目的をもって行われたものでした。しかし、もちろんそのような真の目的は、一般の大部分の信者には全く知らされていませんでした。
 
 しかし、ボツリヌス菌の製造に失敗して散布計画が破綻し、避難に意味がなくなったため、上記の通りセミナーは急きょ打ちきりとなったわけです。

 事実、このセミナーに際して、4月13日、麻原は以下の説法をしています。
 もし、今回のオースチン彗星が本当に光音天に至るためのサインとして登場したのなら、この中の四分の三以上は滅んでしまうだろう。なぜならば、生きていくための、生き残るための、そして、生かされるための条件を整えてないということになるからだ。
 一つだけ言っておこう。君たちの知らないオウム真理教の部分があるということだ。それは君たちがちゃんとこのように修行できるために、その人たちは、日夜、どのようにしたら君たちが本当に修行ができるか、あるいは、多くの魂が修行できるかということを考えている一群があるということだ。そして、その人たちはヴァジラヤーナの道を歩かなきゃなんない。
 このように「君たちの知らないオウム真理教の部分」があって、しかもそれは「ヴァジラヤーナの道」を歩いているということが、すでにこの頃の説法で論及され、裏の非合法活動について示唆されていたことがわかります。

 しかし、大部分の信者は、その真の意味合いを理解せず、真剣に探究しようともせず、麻原のいうまま安易にこの流れに乗り続けたのでした。

■武装化拠点として波野村に進出

 5月になると、麻原は、熊本県の波野村に約15ヘクタールの土地を取得し、「シャンバラ精舎」と名付けて、新たな教団施設の建設に着手します。

 その真の目的(の少なくとも一つ)は、教団のヴァジラヤーナ活動のための兵器開発の場を得ることでした。

 ところが、麻原は、その誇大妄想的な傾向のためか、教団の軍事力の行使を相当に近い将来に設定して、それを急ぐあまり、通常の土地取得に求められる法的な手続き(国土法の届け出)を行いませんでした。そのため、適法に取得手続きを進めようとする早川氏を怒鳴って急がせたほどでした。このことが、後に、国土法違反として、熊本県警から摘発される要因となってしまいます。

 この波野村への進出は、地元村民の大きな反対運動にあいました。6月には「波野村を守る会」が発足し、波野村行政は信者の転入届を不受理としました。また多数の村民が教団施設前に訪れ、教団の工事や通行を妨げるなどしました。

 こうした動きに麻原は激しく反発しました。7月、波野村一帯に水害が発生すると、麻原は、自分こそノストラダムスに予言された救世主であり、救世主を迫害した波野村に災厄が訪れた旨の解釈を機関誌で公表しました。

 そして、
「私はここに宣言する。私は今世紀最後の救済者であると。また、オウム真理教は、私自体が予言詩にあるとおり神である証明として、今年中にマハー・ムドラーの成就者を40人出し、神の団体となっていくだろう」
等と宣言しています。
 
 また、この時期の機関誌では、「素晴らしきグル麻原――命分け与える真実の愛」と銘打つ特集を行い、グルイズムを強化するとともに、秘密結社フリーメーソンが世界を支配しようとしているとも機関誌で論及しました。

 こうして、波野村騒動の中で被害妄想が拡大するとともに、ノストラダムス予言を引用してのグルの絶対化(誇大妄想)を進め、フリーメーソン等の外敵を設定して内部結束を固めるとともに、閉鎖的な環境の中での共同幻想を増長させていったのでした。

■進む武器の製造

 この間、教団の裏では、武器の製造も進んでいました。富士宮市や上九一色村、そして波野村の施設で、ボツリヌス菌、塩素系の毒ガス、硝酸(火薬の原料)、時限発火装置の研究などが行われました。

 まず、ボツリヌス菌については、この年の前半までに、製造実験の失敗が相次いで、後に述べるように警察に検挙されそうにもなったため、いったんは中止となり、年の後半は、塩素系の毒ガスの研究・実験に移行していきました。

 しかし、9月頃になると、波野村の土地取得に絡む国土法違反の容疑で熊本県警が教団の捜査に乗り出しているとの情報が入ったため、麻原は、毒ガスの製造を急ぐように指示しましたが、当然完成することはなく、強制捜査が行われました。

 強制捜査の結果として、毒ガスの製造実験が摘発されることはありませんでしたが、その時までに行なわれた研究実験は一切中止となり、設備も含めて撤去されました。

 また、この頃、麻原は、ノストラダムスの予言研究を再開し、1997年からハルマゲドンが起きると解釈しました。97年がタイムリミットと設定され、ますます緊張感が高まっていきました。こうした予言が有形無形で信者らを精神的にヴァジラヤーナ的雰囲気へと追い込んでいくことになりました。

 なお、このような武器製造については、関与していたごく一部の信者しか知らないことで、大部分の信者に対しては秘匿されていました。「君たちの知らないオウム真理教の部分」と述べられていた通りです。

■ヴァジラヤーナ活動に基づく成就認定

 こうした武器製造の過程の中で、同年6月、村井氏らがボツリヌス菌の製造実験中に作った菌入り培養液を川に流していたところ、山梨県警に発見され、連行されるという出来事が起きました。

 しかし、そもそもが、教団の製造したボツリヌス菌は有毒なものではなく、事実上雑菌であったことから、警察はサンプルを収集しただけで、村井氏らをすぐに釈放し、後から立件することもありませんでした。

 しかし、この検挙の結果、ボツリヌス菌の製造実験は一切中止となり、強制捜査の可能性を恐れて、その製造施設も撤去されることになりました。

 同時に、村井氏は、集中的な瞑想修行に入り、その3日後に、マハームドラーといわれる教団内では高い修行ステージを成就した、と麻原に認定されました。村井氏が短期間に成就にした理由は、一般信者には説明されませんでしたが、麻原によれば、「警察に検挙されるという失敗のため、闘争心の煩悩・カルマが落ちたから」というものでした。

 このように修行の成就のプロセスが、違法行為を含んだ、特異で反社会的なものとなっていっていったのですが、この傾向はその後の教団に続いていくことになります。

■国土法事件――ヴァジラヤーナを決意

 10月22日、熊本県警は、波野村土地取得に絡む国土法違反容疑で、青山弁護士ら複数の幹部を逮捕し、全国施設を捜索しました。

 一定以上の広さの土地を購入するにあたっては県知事への事前の届け出が必要であるにもかかわらず、それをしていなかったという容疑です。前記の通り、武装化拠点としての整備を急いでいた麻原は、この届け出をすることなく土地を急いで購入したので、確かに国土法に違反していました。

 しかし、教団では、この土地は「購入」したのではなく、「贈与(正確には負担付贈与)」されたものであるから事前届け出は不要だったという嘘の主張を展開して、無実を訴え、熊本県警の捜査は不当な宗教弾圧だと反発しました。

 この際、麻原は、一部の信者に対して、
「マハーヤーナ(大乗、合法的手段)でも救済できるかもしれないと私が思ったのは間違いだった、やはりヴァジラヤーナ(非合法手段)で行く!」
とか、
「(強制捜査よりも早く毒ガスができていたら(警察に)勝てたのに」
などと言いました。

 さらに、多くの高弟が逮捕されたことに怒り、熊本県警に重油入りのトラックで突っ込むべきだと主張する一幕もありました(これは、上祐氏の反対があって、取りやめとなりました)。

 そして、麻原が、100パーセント、ヴァジラヤーナ路線で進むことを決意したのは、この強制捜査の後だと考えられます。というのは、それまでは、麻原の中に、マハーヤーナ路線との選択に迷う面があったからです。

 というのも、この年の6月以降、村井氏のマハー・ムドラーの成就に続いて、少なからずマハー・ムドラーの成就者が誕生したため、麻原は、いったんはマハーヤーナ路線でも自分の救済ができるのでは、と考えた時期があったのでした。

 一方、大部分の信者らは、国土法のような形式犯(微罪)にもかかわらず、大々的な捜索や逮捕がなされたことから、ますます被害妄想を強めていくことになりました。

 教団は、機関誌上で、青山氏ら国土法事件で逮捕された信者達は、他人の苦しみを引き受けるという聖なる菩薩の修行をしており、国家は間違っている旨を主張しました。

 こうして、自分たちこそ聖なる被害者としての位置づけを行い、自己陶酔的な盛り上がりを見せ、より反権力的になっていくきっかけとなったのが、この国土法事件でした。

【7】「1991年(平成3年)」

■違法行為を一旦停止、マハーヤーナ路線へ

 1991年になると、国土法違反による2度の強制捜査と複数の幹部信者の逮捕のために、教団は大きな打撃を受け、それまで続いていた武器製造等の違法行為がいったん中断されます。

 その後の武器製造の再開は、翌1992年の半ばとなりますが、それまでは、教団の勢力を回復させるために、しばらくはヴァジラヤーナの活動は控え、「マハーヤーナ(大乗、合法)路線」を教団は歩むことになります。

 もっとも、大部分の信者にしてみれば、教団の裏での武装化活動――いわゆるヴァジラヤーナ路線については、もともと知るところではなかったので、表面上、教団の様子には特段の変化を感じることはありませんでした。

 一方、この年の初頭、麻原は「師」のステージにある幹部信者を集めて、
「国家権力の迫害に負けなければマハームドラーを成就できる」
と叱咤しました。

 そして、男性信者は警察と戦うことに意義があるとされました。つまり、社会秩序の象徴ともいえる警察と対峙することは、世俗を捨てて麻原を選び取ることを意味し、世俗の煩悩を超越した境地であるマハームドラーに至る道であるとされたのです。

 このように、裏のヴァジラヤーナ活動はいったん中断したものの、その過激な思想は引き続き、幹部信者らに伝授され続けたのでした。

■社会的評価を得るために諸活動を展開

 麻原は1991年を「救済元年」と位置づけました。前年の1990年には社会的に叩かれたので、この年は社会的な評価を得るための諸活動を展開し、教団を立て直そうと考えたようです。主に以下の活動を展開しました。

(1)「死と転生」「創世記」公演

 まず、3月から4月にかけて、教団の舞踏団によるダンスオペレッタ『死と転生』公演を、大阪、福岡、横浜、名古屋、東京の一般会場で実施しました。これは、人間が死んで生まれ変わるまでの霊的世界の様子を音楽や舞踏によって表現した教団オリジナルの作品で、信者のみならず多くの一般人を観客として招きました。
 また、8月から9月にかけては、同様にして、宇宙の創生プロセスを表現したダンスオペレッタ『創世記』を、東京、大阪、神奈川、京都、福岡、愛知の一般会場で開催しました。

(2)海外への訪問

 そして、盛んに海外の仏教国を訪問していきました。具体的には、以下の通りです。

◎5月26日~6月9日 弟子らとインドの仏蹟巡礼。
◎7月3~13日 弟子らとインドの仏蹟巡礼。
◎8月19~26日 チベット訪問。
◎8月26~31日 ラオス訪問。国賓として迎えられる。
◎9月30日~10月3日 スリランカ訪問。総理大臣らと面会、仏舎利の贈呈を受ける。
◎10月5~12日 インド巡礼ツアー。(総勢389名)

 これは、
「(国内での社会的な評価は落ち込んだが)外国には自分を評価する者がいるはずである」
という麻原の方針に基づくものでした。後述するとおり、1992年にも、この方針で海外訪問が続きます。

 これらの訪問では、外国から国賓待遇を受けたり、国家元首と記念写真を撮ったりしましたが、その背景には、多額の寄付金などの提供がありました。
 麻原は、
「必要なのは、(国家元首と並んで撮る)写真一枚だ」
などと述べたことがありました。

 国賓待遇を受けたラオスや、仏舎利を贈呈され総理大臣と面会できたスリランカでも、教団の多額の寄付が背景にありました。なお、ラオスの前にタイから国賓待遇してもらおうと思って打診したものの、日本外務省の意見で話がつぶれたという経緯がありました。

 多くの一般信者は、こうした外国政府による麻原への厚遇は、麻原の徳によるものと思い、麻原を絶対視していくことにつながりました。しかし、裏ではこのような金銭の動きがあったというのが現実でした。

 現に、こうした厚遇をしてくれた国は、いずれも発展途上国か、経済が混乱している国であって、日本円がモノをいうところばかりでした。

(3)テレビ、雑誌等のメディアに登場

 以下の通り、テレビや雑誌のメディアに頻繁に登場して、露出度を高めるとともに、識者との対談をしたりして、その権威を高めることもしていきました。

◎6月 雑誌『流行通信』の取材に応じる。
◎6月 雑誌『ゼロサン』で博物学者の荒俣宏氏と対談。
◎8月 雑誌『十人十色』の取材に応じる。
◎8月 雑誌『サンサーラ』の取材で、田原総一朗氏のインタビューに応える。
◎9月 雑誌『スタジオボイス』の取材で、作家の中島渉氏のインタビューに応じる。
◎9月 雑誌『エム・ジャパン』の取材に応じる。
◎9月 雑誌『iD Japan』の取材に応じる。
◎9月 雑誌『BOX』の取材に応じる。
◎9月 テレビ朝日の『朝まで生テレビ』に出演。
◎10月 文化放送の『梶原しげるの本気でDONDON』に出演。
◎10月 日本テレビの『とんねるずの生でダラダラいかせて』に出演。
◎10月 雑誌『週刊朝日』で宗教学者の島田裕巳氏が麻原を評価。
◎12月 雑誌『サンサーラ』で栗本真一郎氏と対談。
◎12月 雑誌『月刊現代』の取材に応じる。
◎12月 雑誌『360』の取材に応じる。
◎12月 雑誌『BRUTUS』で宗教学者の中沢新一氏と対談。
◎12月 フジテレビの『おはよう!ナイスディ』に出演。
◎12月 雑誌『別冊太陽』で宗教学者の山折哲雄氏と対談。
◎12月 テレビ朝日の『テレビタックル』に出演し、ビートたけし氏と対談。

 このように多数のメディアに出演し、識者・有名人と対談して一定の評価を得たことにより、多くの信者は麻原に対してさらに尊崇の度を高めていくことになりました。

 特に、『朝まで生テレビ』出演は、教団の内外に好評で、これをきっかけに社会的な評価が高まったのも事実でした。同時出演した他の教団に大した魅力を感じさせるものがなかったことが、麻原やオウムの魅力を相対的にアップさせたという指摘もあります。

 なお、麻原が取材に応じた雑誌は、上記の通りその大部分が中小雑誌の類であり、麻原の記事掲載号を教団が大量に購入することを約束して取材してもらったという事情もありました。つまり、ここでも多額の金銭が動いていたという事実があったのでした。

(4)大学等で講演会を行う

 学園祭の季節になると、全国の有力大学等で、以下の通り「麻原彰晃講演会」を実施しました。以下は全て1991年11月の講演です。

◎信州大学(800人集まる)
◎東北大学
◎気象大学
◎東京大学
◎京都大学(1300人集まる)
◎世田谷区民会館(一般人向け)

 大学での講演会は、翌1992年にも連続的に行われます。

 いずれの大学でも多数の学生が講演会に参加しました。
 このような一流大学で極めて多数の大学生が集まったということ自体が、当時の世相を反映していたといえます。つまり、当時は、新宗教ブーム、予言ブームで、麻原の主張が大学生の関心を集めやすかったという事情があったのです。
 また、前記のようなテレビ出演が事前にあったので、注目を得ていたということもあります。

 そういう意味では、オウム真理教が大きくなる素地は、社会的に存在していたといえるのかもしれません。現に、この講演会によってオウム真理教に入信した信者も少なからずいたのでした。

 また、裁判の判決では、
「自ら大学での講演会等で,ハルマゲドン後に生き残るためには教団に入信して被告人(麻原)の下で修行し成就するしかない旨を示唆するなどし,理科系の優秀な人材や高度の専門知識等を有する人材を多数入信,出家させることに努め,その結果,筑波大学大学院で有機化合物の合成等について研究をしていた土谷正実や,東京大学大学院で物理学を専攻していた豊田亨らが出家するに至った。」
と認定されています。

 このことから、教団武装化のための有能な人材を集めたかったという事情もあったことがうかがわれます。

(5)大量の出版物を刊行

 1991年夏以降は、麻原は、自らの説法集など、大量の書籍を毎週のように新たに刊行していきました。当時の教団出版部では「出版攻勢」と呼んでいましたが、大量の書籍を市場に流通させることによって、社会的認知度を高めるとともに、新しい入信者を増やす狙いがありました。

 また、麻原は、入信勧誘のための書籍だけではなく、坂本弁護士事件は教団の仕業ではないと訴えるパンフレットの作成も命じていました。上記のような社会的な評価の向上に努めるとともに、マイナス要素はできるだけ打ち消そうとしていたのです。

 こうした教団の主張を信じ込んで、坂本弁護士事件にオウム真理教は関与していないと信じる信者が大部分だったのでした。

■自らをキリストと宣言

 10月頃、麻原は、自らのことを聖書に再臨を予言されたキリストであると宣言し、その旨を記した書籍『キリスト宣言』を刊行しました。この『キリスト宣言』は、その後、第4巻まで刊行されていきます。

 以下は、『キリスト宣言』の冒頭の麻原の言葉です。
 わたしはここにキリストであることを宣言する。それは、この本書を読み進めていただいたら、ご理解していただけるはずである。
 わたしは今まで『新約聖書』というものに対して、「ヨハネの黙示録」以外全く目を通したことがない。そして、この『新約聖書』を一九九一年の十月二十三日に初めて目にし、そしてこれはまさにわたしが救世主であることを予言した書であることを確信した。その内容については、第一章で詳しく述べることとする。
 ところで、なぜわたしがこの『聖書』について書かなければならないと考えたのかというと、それは多くの偽予言者、偽預言者、偽キリストがこの世に登場しているからである。しかし、彼らはすべて偽物なのである。では、なぜ偽物だろうか。それは、『聖書』に書かれているキリストの条件を備えていないからである。
 麻原は、こうして、自分こそがキリストの条件を備えている人物であると、この書の中で述べていきます。たとえば、キリストは「三日三晩、地の中にいるであろう」と聖書に書かれていることを指して、これは空気を遮断した地中でサマディ(深い瞑想)に入ることを意味しており、まさに麻原やオウムがやっていることであると主張するなどしました。

 そして、キリストやキリストに従う人々は、多くの人に憎まれ、迫害されると聖書に記されていることから、社会的に迫害されてきた麻原やオウム信者こそ、キリストとその弟子なのであると述べたのでした。

 前記の通り、麻原は、1989年9月末に「キリストになれ」との示唆を受けたと述べていましたから、もともと自己キリスト化の傾向はあったといえますが、文献まで引用して本格的な主張を始めたのは、これが初めてでした。
 
 もはやここに至って、オウム真理教は、当初の仏教・ヨーガ団体から、キリスト教的な信仰を持つ団体へと名実ともに変貌していくことになりました。もともとグルイズムという形で麻原に対する個人崇拝は進行していましたが、こうしてキリスト教で予言されたキリストであるという位置づけを自らに与えたことにより、その個人崇拝は絶頂に達したといえます。

 そして、本来なら、このような変貌に対しては、仏教的な観点からは当然異論が唱えられるべきものなのですが、多くの信者は、このような麻原のキリスト宣言を自然と、あるいは喜んで受け入れたのでした。

 それは、麻原がキリストとなれば、自分たちはキリストの弟子となれるのであり、世界において極めて高い宗教的地位を得ることができるからです。虚栄心のなせる業としかいいようがありませんが、麻原も信者も、こうして互いの虚栄心を増幅し合い、相互に支え合って、巨大なキリスト妄想を構築していったのでした。

 また、キリストやその弟子こそ、社会から迫害されるべく予言されているのだという主張も、自分たちにとっては好都合なものでした。社会から批判されてきたのは、本来は「身から出た錆」だったはずですが、このような予言解釈は、そうした現状を自ら直視したり反省したりすることなく、逆に自己肯定し、プライドを増幅させる作用をしたのです。

 社会から攻撃されればされるほど自分たちはキリストの弟子といえるのだという妄想が、こうして広がっていき、それは、今のアレフに至るまで続いているともいえるのです。

 こうした精神的傾向は、事件を起こした信者のみならず、多くの一般信者も同様でしたから、事件を引き起こした教団を底辺から作り上げた責任は、一般の信者にもあったということができるのです。

【8】「1992年(平成4年)」

■引き続き社会的評価を得る諸活動

 1992年も、前年に引き続いて、社会的評価を得るための諸活動を次のように続けました。

(1)海外への訪問

◎5月 スリランカツアー(総勢約350名)。『死と転生』スリランカ公演。現地の高僧らと会談。
◎7月 インドを訪問。ダライ・ラマ法王や高僧と会談。チベット亡命政府に経済援助。
◎7月 ブータン王国を訪問。国賓として迎えられる。国王、法王、前法王と会談。
◎10月 アフリカツアー。医師・看護師らを連れてザイール(現コンゴ)に行き、医療・食糧支援を実施。
◎11月 インド巡礼ツアー(総勢約420名)。

 まず、スリランカツアーに際しても、現地の政府関係者に多額の資金提供をしました。現地の高僧との接触をはかるにあたっても、高僧への献金を行いました。高僧の図書館建設のための寄付要請を受けたこともありました。

 また、スリランカからの帰途のチャーター機の中で、麻原を中心に、教団側が「機内食が粗悪」としてクレームをつけて騒ぎになり、その中で、幹部信者が機長の腕をつかむなどしたため、飛行機がコロンボ空港に引き返すというトラブルが発生し、現地で批判的に報道されるという出来事がありました。これは、教団の傲慢な体質を現した出来事でした。

 インド巡礼ツアー中には、麻原が、マハーボディ寺の菩提樹の下にある金剛座(釈迦牟尼が悟りを開いたといわれている場所で立入禁止)に座り、現地の人たちとトラブルになるという出来事が起きました。これは、麻原や、それを止めなかった周辺の弟子達が、非常に傲慢になっていたことを現しています

 ブータンでは国賓待遇を受けましたが、教団側から多額の金銭の提供があったことは従来の通りです。

 また、このときブータン政府から麻原に「最聖」の称号が与えられたとして、以後、麻原は「最聖 麻原彰晃尊師」と名乗るようになりました。教団の出版物でも、そのように記載するようになりました。
 しかし、実際は、宗教大臣が麻原を「His Holiness」という尊称をつけて呼んだのを、教団側が、勝手にそう解釈しただけでした。政府から公式に授与されたわけではなく、明らかに教団の誇大宣伝でした。

 ザイール訪問も、医療援助という意味合いはありましたが、途上国への援助を通じて国家元首と会うという広報戦略プロジェクトの一環でした。

 なお、この年はロシアへもさかんに進出しましたが、それは後述します。

(2)テレビ、雑誌等のメディアに登場

◎1月 雑誌『週刊宝石』の取材を受ける。
◎1月 大阪放送(OBC)のラジオ放送に出演。
◎1月 フランスの新聞『フィガロ』の取材を受ける。
◎3月 雑誌『自由時間』の取材を受ける。
◎4月 雑誌『BART』誌上で、ビートたけし氏と対談。        
◎4月頃(雑誌『CUT』誌上で評論家吉本隆明氏が「『生死を超える』は面白い」というタイトルで、麻原の修行体験を詳しく分析し評価)
◎7月 雑誌『SPA!』の取材を受ける。
◎11月 スリランカの雑誌『ナバユガヤ』の取材に応じる。
◎93年7月 『GAREGE SALE』(主婦の友社)と『内外タイムス』に、毎回エッセイとコラムを掲載開始。
◎93年8月 雑誌『POPEYE』の人生相談特集に登場。

 こうして、この年から翌1993年にかけても、メディアへの露出を増やし、その結果、吉本隆明氏などの著名な文化人による肯定的な評価を得ることができました。
 こうしたことが教団内部における麻原の権威をも向上させたのは前述の通りですが、これらの評価は、麻原の中のマハーヤーナ的側面など、麻原のごく一面をとらえたものにすぎなかったのでした。

(3)大学等での講演会

◎6月 北海道大学(600名集まる)
◎6月 京都教育文化センターで一般人向けの講演会(2百数十名集まる)
◎6月 名古屋大学(1600名集まる)
◎10月 東京工業大学
◎11月 信州大学
◎11月 大阪大学
◎11月 千葉大学
◎11月 横浜国立大学
◎11月 東京大学
◎11月 京都大学

 このような大学での講演会の狙いは前記の通りですが、とりわけこの時期は、大学でダミーサークルを作って、大学生を入信させることに力が注がれました。大学生と偽った出家信者がサクラとなって、大学で勧誘活動を行っていたのです。こうした虚偽の活動は反省すべきことです。

■ロシアへの大規模な進出

 1992年、教団はロシアに大規模な進出を行いました。ロシアに支部を複数設立し、数万人のロシア人信者を抱え、ロシア国内でのテレビ放送、ラジオ放送を行うまでに至りました。公式な動きを追うと、以下の通りとなります。

◎2月12日 麻原が、来日したオレグ・ロボフ前ソ連首相代行(大統領直属専門評議会議長兼露日基金会長)と会談、3月のロシア公式訪問を決定。

◎3月7~16日 麻原、約300人の信者を連れて「ロシア救済ツアー」を実施。ハズブラトフ最高会議議長(当時のエリツィン大統領に次ぐ実力政治家)、ルツコイ副大統領、ロボフ露日基金会長、サドウニチ モスクワ大学第一副学長、レーザー研究でノーベル賞を受賞したバソーフ博士、ロシア正教最高実力者ペテリウム府主教と会談。「死と転生」公演、モスクワ大学での説法会等を実施。

◎4月1日 ロシアから日本向けのラジオ放送『エウアンゲリオン・テス・バシレイアス』を開始。

◎4月21日 麻原、ロシア訪問。情報通信大臣と会談、全世界向け放送、ロシア国内向けラジオ放送、テレビ放送などを正式契約。モスクワ政府首相が、宗教法人としての認可、道場建設など全面的支援を約束。モスクワ国際関係大学、モスクワ・ラジオ電子自動制御大学で講演会開催。

◎6月15日 ロシアから全世界向けの英語ラジオ放送『エウアンゲリオン・テス・バシレイアス』を開始。

◎9月 モスクワ支部を開設。ロシア国内向けのテレビ放送とラジオ放送を開始。

◎翌年以降も支部を開設、多数のイベントを開いて、数万人のロシア人信者を集めた。

 ――以上が目に見える公式な動きでした。翌1993年からは、教団はロシアの軍事技術を導入して武装化を進めていくことになりますが、そもそもこのようなロシアとのコネクションはどのようにしてできたのか、そしてなぜロシアで教団が広く受け入れられたのか、以下に述べます。

■ロシア進出のいきさつ

 最初は、「モスクワ大学で講演ができる」との話が、ロシア関係の日本人ブローカーから教団側に持ちかけられたことから始まりました。そのブローカーは、日露基金の人脈と繋がっており、前記ロボフ氏がその会長でした。

 やがて教団は、ロボフ氏と直接つながるようになりました。ロボフ氏はエリツィン大統領の旧友であることが判明し、露日基金・ロボフ氏サイドから、「1億円出せばエリツィン大統領と会える」との話が教団に来ました。ロボフ氏は、当時公式のポストを失い、下野中であり、復帰のために資金を必要としていたと思われます。

 教団側は、(当時日本人の中ではあまり会ったことがない)エリツィン大統領と会えるという多大なイメージ効果を考えて、その申し出を受け、麻原以下大勢の信者がロシアを訪問するツアーを企画し実行しました。

 実際には、急な事情の変更を口実に、同大統領と会うことはできず、代わりに、ルツコイ副大統領やハズブラトフ最高会議議長と会うことになりました。また、その後、様々な政界・経済界の要人と面会ができたのも、ロボフ氏の影響でした。

 その後、ロボフ氏は、国家安全保障会議の書記(ロシア国家においては、政治的にナンバー2の地位)となりました。同書記は、軍事分野を統括しているので、後にオウム信者がロシア軍施設に赴いて小銃等の射撃訓練を行う「射撃ツアー」など、特別な許可を与えました。

 さらには、幹部信者が軍の研究者と会ったり、研究所に行ったりすることにも、ロボフ人脈のバックアップがありました。こうして教団のヴァジラヤーナ活動と結びついていったのでした。

 その後、1993年の後半から、ロシアにおけるオウム真理教の教勢は一気に拡大し、入会者5万人ともいわれるほどになります。

 この背景としては、ロシアは共産主義崩壊後の混乱で、精神的な真空状態にあって、精神的なよりどころを求めていたところ、オウム真理教のヨーガ・仏教の教えは新鮮で、インパクトがあったのだと思われます。

 国そのものがハルマゲドンともいえる状況で、平均寿命が短くなり、苦しみが多かったロシア人にとって、既存のロシア正教などは、多分に政治的な存在となっており、精神的なニーズに応じ切れていなかった面もありました。

 また、日本では社会的なイメージが悪いオウム真理教でしたが、ロシアにとっては、日本という国は、先進国として非常に良いイメージがありました。さらに、オウム真理教は、多額の金銭を用いて、有力政治家に取り入ったり、テレビの番組枠を買い取ったりして、良いイメージを形成して、教勢をのばしていきました。

■パソコン会社「マハーポーシャ」設立
            
 この年の3月、教団は関連のパソコン会社「マハーポーシャ」を設立します。

 従業員は教団の出家信者や在家信者で、人件費がほとんど不要だったことと、格安の部品を台湾から輸入していたこともあって、他社と比べて破格の安値でパソコンを売ることができ、かなりの人気を博しました。

 しかし、マハーポーシャの商法には、様々な問題点がありました。売り上げ第一主義で、顧客からのクレームに対して誠実に対応することなく、無視したり、甚だしくは屈強な信者が対応して脅すようにして顧客を追い返したりするようなこともありました。

 こうして、ハルマゲドンに備えての資金集めという目的のもとに、自己中心的な教団の性質をそのまま体現したかのような運営だったといえます。

 マハーポーシャや、その系列に属する信者運営のパソコン会社は、その後、名前や形を変えながら1999年頃まで運営が続きますが、得た莫大な収益を事件被害者に回したりすることなく、教団のためだけに使うなど、あくまで自己中心的に運営されて、まさに、教団の貪りの象徴ともいえるような事業体だったといえます。

■警察との対決を煽る

 こうして国内外で勢力を伸ばしていく一方で、麻原は日本の国家権力に対する敵愾心もあらわにしていきます。
 
 5月1日には、幹部信者に対して、次のような説法をしています。
 一つね、面白いデータがあったんだよ。これはどういうデータかというと、オウム真理教のマハームドラーの成就者を別の角度から分析してみたんだよ。そしたらまず成就した連中というのは、警察絡みであると(一同笑)。男性は警察絡みであると。
 プンナ(大内氏)でしょ、アパーヤジャハ(青山氏)でしょ、マイトレーヤ(上祐氏)は警察対策でしょ、で、マンジュシュリー(村井氏)とミラレパ(新実氏)も、警察とずいぶん縁が深いからね。という条件があるんだよ。それから女性の場合逆に考えるタイプよりも、ガンガン、ひたすらバクティするというか、そういうタイプが上がってきてる。
 前記の通り、マハームドラーとは、教団における高い修行ステージですが、男性の場合その成就は警察との戦いの中から得られるという反社会的考えが示されています(逆に女性の場合は「バクティ」つまり、考えずに麻原に奉仕するタイプがよいとされています)。こうした考えが、その後の事件を容認する教団を形成していくことにもなります。

 現に、この直後に発行された教団機関誌の6月号には、編集部によって次のように記されています。
信徒・サマナの仮面をかぶった悪魔にご注意を!

 彼らは否定的な話をして、信徒の方々を真理から遠ざけようとするなど、教団の破壊活動を意図的に行なっていることが明らかになりました。これは、オウム真理教の拡大を恐れた警察・公安が裏で操っているものと思われます。そのような人物に心当たりのある方、または関係情報をお持ちの方は、彼らにこれ以上の悪業(出家教団〈サンガ〉を分裂させることは、地獄へ至る五逆の罪に含まれ、教団を分裂させたり、活動を妨げたりすることも同様に七逆の罪に含まれています)を積ませないためにも、正大師・正悟師にご連絡ください。

 また、彼らは非常に狡猾であり、巧みに近づいてきますので、自分でも気づかないうちに彼らの手伝いをしてしまっている方もいらっしゃるかもしれません。そのような場合は、できるだけ早くザンゲすることをお勧めいたします。

 なお、磯子署と称する警察の執拗な嫌がらせも相変わらず続いています。例えば、信徒本人でなく、家族・親戚・会社・会社の上司・同僚に何回となく電話をかけてきたりします。彼らは、例の事件とは時期的にも全く関係がないはずの新しい信徒にまで嫌がらせのためのアプローチをしています。

 しかし、初期のキリスト教が大変な迫害を受けたように、救済を志すものにとって、迫害は大発展の前の大きな試練であるといえます。心を乱すことなく、日々の真理の実践に心がけましょう。(警察は無視して、いっこうに差し支えありません。それでも嫌がらせをされるような場合は、本部・各支部の正師・師にご相談ください。) オウム真理教
 文中にある「磯子署」というのは、坂本弁護士一家殺害事件を捜査していた神奈川県警の警察署ですが、このような正当な捜査活動に対しても、教団は露骨に敵対視し、さらには、自分たちこそ被害者であるとして、イエス・キリストとその弟子をたとえに出していたのです。前年の麻原による「キリスト宣言」が影響していることは明らかです。

 当時の教団は、このような独善的で反社会的な性質を持っていたのですが、大部分の信者は自然とこの流れに乗っていたのでした。実に恥ずかしい状態だったといわざるをえません。

■教団武装化、ヴァジラヤーナ活動の再開

 判決によれば、1992年夏頃、麻原は炭疽菌を入手して有毒なものの培養をしようとする取り組みを開始し、さらに噴霧装置を製作しようとしたと認定されています。

 つまり、1990年10月の国土法事件の強制捜査以降、教団武装化をいったん中断していたところ、この時期になって、約1年半ぶりに再開したということです。

 ちょうどこの時期、麻原は、
「マハーヤーナに導こうとする悪魔の誘惑を断ち切る。地位や名誉を与えられて骨抜きにされたくない。世の中から使われるだけだ」
と、一部の弟子に対して発言しています。

 つまり、この時期からヴァジラヤーナ活動が再開されたのは、前年からの取り組みによって社会的評価が高まり、教団への圧力が沈静化したからであるとともに、上記のような思いが強まったからだと思われます。社会に向けてのカムフラージュ活動は終わったという認識だったのでしょう。

■日本を救う最終解脱者と自称

 この年の8月、麻原は、ノストラダムスの予言の解釈を再スタートします。その結果、
「6人の最終解脱者が現れて日本を救う」
と述べました。そして、その一人が麻原自身であることを示唆します。残り5人については明らかにしませんでしたが、麻原の高弟または麻原の子息との説がその後となえられるようになりました。

 いずれにせよ、麻原を中心とした教団のメンバーが日本を救うのだと主張し始めたのです。これもまた自己中心的な世界観のあらわれであったとしか言いようがありません。

■教団への敵対者は報いを受けると説法

 また、この時期には、教団に敵対する者には報いがあるという趣旨の説法を行うようになりました。
 具体的には、9月19日に、以下の説法をしています。
 わたしたちは、わたしたちのなしたカルマの報いを受けなければならない。そして、そのカルマの報いは善しにしろ悪しにしろ、必ず現象化する。

 例えば例を挙げるならば、一九八九年オウムバッシングが始まって、まあ、その先陣を切った『サンデー毎日』の編集長・牧太郎氏は、今年の一月、高血圧とそして糖尿病で倒れたと。そのときの状態がまさに無智――つまり自分自身を言葉によって表現することができなくなり、半身が麻痺したと。これは教義どおりであると。
 つまり真理に対して誹謗した者は、必ずその報いを受けなければならないと。それは、真理に対する誹謗は、信徒であるならばわかると思うが、当然、疑念・無智というスヴァディスターナ・チァクラとの関係により、現象としても思考が弱まるとか、あるいは知能が低下するといったような現象が起きると。そして彼の場合も同じように大脳に大きなダメージを受け、そのような現象が起きたと。

 これは、国土法違反の関係で、オウム真理教を弾圧した検事数名も同じように心臓の病にかかったり、あるいは、先程述べた脳の病にかかったりしていると。これから見てもわかるとおり、悪業は必ず悪果として現象化すると。逆に、わたしたちの積む善業は必ず善果として現象化すると。したがってわたしたちは、善業を積み続けるべきであるというのが仏教の理論である。
 この後も、教団に敵対する者には災いがあるという説法が、さかんになされていくようになりました。さらに後には、教団自体が自ら災いを及ぼす――つまり密かに暗殺するようになっていったのですが、それも、こうした傲慢な考えを共有した信者全体の責任だったということができます。

■核戦争予言、アメリカを敵視

 さらにこの年の年末には、核戦争に関する予言やアメリカを敵視する説法をするようになりました。
 11月2日には、以下の説法をしています。
 これから2000年にかけて起きる現象は、筆舌に尽くし難いような、激しい、しかも恐怖に満ちた現象が連続的に起きると考えるべきであるというのがわたしの立場です。
 では、どのような現象が起きるのかと。これは例えば、ノストラダムスの予言詩の一つを紹介するならばよく理解できると思われますが、この日本の国土が荒れた大地と変わると。では何によって変わるのかと。これは考えられることは、核であると。ではその時期はいつだと。それは96年から98年の1月までの間に起きると。ではどのような形でどこが攻めるのかと。それはアメリカを中心とした連合国であると。
 この予言が完全に外れていることは言うまでもありませんが、それまでのフリーメーソンに加えて、アメリカという巨大な外敵が設定されていくことにより、信者の被害妄想の程度もいっそう高まっていくことになったのでした。

【9】「1993年(平成5年)」

■軍事力による世界統治に論及

 1993年1月31日、麻原は、大勢の信者らを前にして、ノストラダムスの予言を解釈した結果として、
「オウム真理教は、やはり、最終的には軍事力を有することになるんだろう」
「このオウム真理教の教団は、つまり、単なる宗教団体ではなく、世界統治の機構に変化する時期が来ると予言されている」
と説法しました。

 こうした発言は、ちょうどこの頃に全面的に再開した教団武装化のプロジェクトを背景としています。

 もっとも、教団武装化計画を知らない大部分の信者は、実際に教団が違法に軍事力を保有すると受け止めていたとは限りません。軍事力を保有する国家が教団を応援するという受け止め方をしていた信者も多かったと思われます。

■自動小銃の製造、化学兵器、核兵器の研究開始

 麻原は、上記の軍事力保有発言をした翌2月には、早速、自動小銃の製造や核兵器の研究を開始しています。

 判決によれば、

「広報技術部の村井,渡部和実,豊田及び廣瀬健一に対し,教団で実際に造ることができるようにロシアに武器の情報収集に行くよう指示し,村井らは,ロシア連邦に赴き,軍の施設や大学,研究所等を訪れ,銃やロケット等について種々の説明を受けるなどし,教団自らが設計製造するために,旧ソ連軍に採用された自動小銃AK-74を1丁入手し,これを分解してその一部を持ち帰った。被告人は,その報告を受け,横山を自動小銃製造の責任者に指名して,AK-74を模倣した自動小銃の製造作業を進めるよう指示した。」

 とされています。そして、同月中に、村井氏らが、ロシアから実際に自動小銃の部品や銃弾を持ち帰ってきています。

 また、核兵器の原料となるウラン鉱探しも始められました。
 続く3月には、化学兵器の研究も開始されるようになります。

■全ての魂の「ポア」を神に誓う

 こうした流れと並行して、2月に行われた教団行事「シヴァ大神祭」では、麻原は次のような説法をしています。
 目標というものはえてしてなかなか結果が出ない。したがって、このようなシヴァ大神祭という、わたしの最も尊敬する、最高の意識の神であられるシヴァ大神に対して、帰依の意を表明し、ここで発願をしたいと考えている。

 九三年の、わたしのシヴァ大神に対する抱負、それは、

「すべての魂をポアするぞ。すべての魂をポアするぞ。すべての魂を徹底的にポアするぞ。すべての魂を徹底的にポアするぞ。
 偉大なる完全なる絶対なるシヴァ大神のご意思をかなえるために、すべての魂をポアするぞ。
 完全にすべての魂をポアするぞ。完全にすべての魂をポアするぞ。完全にすべての魂をポアするぞ。
 そしてすべての魂が絶対的な自由・幸福・歓喜を得るまで、この苦しみの世界に存在するんだ。」

 これがわたしの、シヴァ大神に対する発願である。

「偉大なるシヴァ大神の意思、これを必ずこの世の中に現証するぞ。
 偉大なるシヴァ大神の意思、これを必ずこの世に現証するぞ。
 すべての魂をポアするぞ。すべての魂をポアするぞ。
 そしてすべての魂を真理に入れるぞ。」

 これが、シヴァ大神祭におけるわたしの発願である。
 ポア(ポワ)とは、本来、死後に意識を高いレベルに引き上げることを意味するチベット仏教の用語ですが、麻原をはじめとする事件関与者の間では、生きている人間を殺して高い世界に引き上げることをも意味していたことが、裁判等で明らかになっています。

 麻原が上記の説法で述べているポアは、表向きは前者の意味であり、大部分の信者もそのように受け取っていましたが、大量破壊兵器を含む教団武装化を本格的に進め始めたこの時期の発言であることを勘案すれば、後者の意味――すなわち無差別大量殺人を意図しての発言だったと考えることもできます。

■自己破滅的な予言

 なお、この「シヴァ大神祭」では、麻原は同時に自己破滅的な予言解釈も述べています。
 ではまず、ここで重要な詩の発表をしたいと思います。
 オウム真理教が最終的にどのような教団になり、終焉するのかという、皆が最も興味を持っている予言詩について、ノストラダムスは次のような予言をしています。この予言は、教団の未来がいかなるものになるのかということを、この詩一つで表わしている詩です。したがって、もし教団の未来に対して興味のある人がいたら、この詩をしっかりと記憶修習しましょう。(中略)

 「使いとして帰ると、王の贈り物が所有地に置かれ
  もうそのように振る舞うことはないだろう、神の御元に召されて
  最も真理に近い家族たち、友人たち、血を分けた兄弟たち
  寝床と長椅子のそばで、すべて死んでしまっているのが見つかる」

 この予言詩は、救済計画が完全に終わり、そしてわたしの本質的に前生からの弟子たちはすべて撤退することを予言した詩である。つまり、ここでは死イコール三昧なのか、あるいは死イコール集団自殺なのかは明解にされていないが、まあ要するにこの教団は、救済が終わり、そしてわたしの死と共に崩壊する運命にあることをノストラダムスは予言している。
 麻原は、自分の死をもって教団は終焉を迎え、同時に弟子の信者らも同時に死ぬことを示唆しています。これは、自己破滅的な予言だといえますが、こうした要素を大部分の信者も共有し、本当にその後、自らの破滅を招くような事件を引き起こしていったと考えることもできます。

 また、麻原の死と同時に信者も死を迎えるという予言解釈は、今後、麻原の死刑が執行された際、アレフ信者らに与える影響が懸念されるところです。このような予言解釈自体が、麻原を神格化するために、麻原の意図に基づいて行われた独自の解釈にすぎないことを、アレフの現信者はよく理解しておく必要があると思います。

■さらに戦闘的な発言を続ける

 教団の武装化再開と同調するかのように、麻原は、この時期連続的に戦闘的な発言を繰り返しています。

 まず麻原の誕生日である3月2日には、「キリスト礼拝祭」という祭典が行われました。これは、その名の通り、麻原をキリストと見立てて礼拝するもので、その演出のために。麻原は白い大きな十字架にかかる形で、信者らの前に現れたのでした。
 このキリスト礼拝祭において、麻原は次のような説法をしています。
 まあ、正大師・正悟師の曲というものは、本当にエネルギーが強いと思います。で、この、「突っ込め」という歌詞、これは、同じ日に、アパーヤジャハ正悟師・プンナ正悟師の方で作った曲、まあ作詞だね、と、わたしの作詞とが一致したと。これはおそらく、神々のご意思が「突っ込め」という指示を出してらっしゃるんだろうと。間違いない。で、何に対して突っ込むのかと。それは、わたしにもわからない。きっと、何に対して突っ込むのかわかるのは、しっかりと瞑想修行に熟達した者でなければ駄目じゃないか、という気がします。
    (中略)
 さあ君たち、いよいよ93年、戦いの時だ。わたしは、自分自身の生命を懸けて、シヴァ大神、すべての真理勝者方のご意思を、この93年に実現したいと考えています。予言が成就するかしないか、それはすべて徳で決まる。しっかり頑張ろう。
    (中略)
 そして、このわたしも、いよいよ93年、ヴァジラヤーナに入りたいと考えている。
. ここに言う「突っ込め」「戦いの時」という言葉は、教団の裏で本格化した武器製造やヴァジラヤーナ計画を背景にしていることは明らかです。

 また、このキリスト礼拝祭では、麻原を称賛する歌や戦闘的な歌が数曲発表され、信者らにテープで配られました。これらは軍歌を参考にして作られたといわれており、信者らもこのような歌を喜んで皆で歌ったりしていたのです。
 もちろん大部分の信者は、裏の武装化計画など知りはしませんでしたが、こういう雰囲気の中で皆が酔っていたのは事実であり、戦闘的な教団をつくっていく雰囲気作りをしていった責任は免れません。

 また3月21日には、麻原は、
「ノストラダムスがキリストをわたしとして予言している以上、わたしが世の中の中心に引っぱり出され、そして、そうだね。まあ間もなくして、主役を演じなければならない時代がくることは間違いないだろう」
と説法しています。

 「中心」「主役」という言葉からも、極めて強固な自己中心的傾向があったことが見て取れますし、多くの一般信者も、そのような「中心」「主役」を努めることを共に夢見ていたということができ、麻原ともども自己中心的な傾向を持っていたことは否定できません。

 続く4月4日の祭典では、麻原は次のように述べています。
 今の現状を見ていたら、わたしたちがやることは一つしかない! それは、ヴァジラヤーナの救済しかないんだ。
 弟子たちよ、予言されたとおり、グリフォンはハッキリした形を現わしてきている。そしてそれにより、すべての魂が三悪趣へと至ろうとしているのだ。もし君たちがこの予言を信じ、アフラ・マズダーを信じ、そして戦うことができるならば、必ずや勝利することができるはずである。智慧、徳、力、この三つをもって戦うならば、必ず勝てるはずだ。しかし、もし負けたら、一緒に天界に行こう。いいね。
 はっきりとしたこの現象、これを正しい方向に向けるには、それは、力と光しかないんだ。したがって、大いなる光を勝ち取ろう。
 さあ、サマナ諸君、全力で救済を成功させよう。全力、全力、全力!
 麻原はここで「もし負けたら、一緒に天界に行こう」と述べていますが、これは死を意味しており、すなわちここで言う「戦い」が実際の死をともなう戦いであるということを明言しているのです。
 明らかに、教団武装化の延長にある実際の戦闘を意識していたといえます。

■救済のための大量殺人を肯定

 さらに、4月18日には、以下の説法をしています。
 今、アメリカのバックについている大いなる智慧を有する者たち、ロシアのバックについている大いなる智慧を有する者たち、中国のバックについている大いなる智慧を有する者たちが何を考えているか。それは、彼らは一つ、つまりこの人類を、より神々の方向へ近づけようとしているのである。ということは、本来、ここに集っている君たちは、救済され得なければならない魂ということになる。
 では、その彼らとわたしたちとの違いとは何であろうかと。それは四無量心という、四つの偉大な心の覚醒というものを有するか有しないかということがポイントになる。つまりわたしたちは、すべての魂を、できたら引き上げたいと、すべての魂を救済したいと考える。どうだ。(一同、「はい!」)
 しかし、時がない場合、それをセレクトし、必要のない魂を殺してしまうこともやむなしと考える智慧ある者、あるいは徳のある魂があったとしてもそれはおかしくはない。どうだ?(一同「はい」)
 そして最終的には、この二つは大きなぶつかり合いになるのである。
 ここで麻原は「時がない場合、それをセレクトし、必要のない魂を殺してしまうこともやむなしと考える智慧ある者、あるいは徳のある魂」について論及しています。

 これは、一応の文脈上は、教団のことではなくて、教団と対立する相手のことを述べているのですが、前記の通り、88年10月28日に、麻原は「新しい種、つまり、ね、今の人間よりも霊性のずっと高い種、これを残すことがわたしの役割なのかもしれない」とも述べており、大多数の人々を切り捨てるかの如き考えを開陳していました。
 だとすれば、これは麻原の中に内在している考えであり、麻原のやろうとしていたことを示唆していたとも考えられますし、麻原の現実の行動も、それを裏付けています。

 また、同じ4月18日、麻原は、
 わたしたちが,すべての衆生を救済するために,ラトナサンバヴァ,アクショーブヤ,アミターバ,アモーガシッディ,ヴァイローチャナの5つの真理勝者の法則,5つの仏陀の法則を実践することができるならば,その魂は『なんと偉大なタントラ・ヴァジラヤーナの修行者だ』と絶賛を集めることになるのである。
と説法していますが、ここにいう「五仏の法則」の中でも、とりわけ「アクショーブヤの法則」に注目を要します。この法則について、麻原は、翌94年3月27日の説法で、次のとおり解説しています。
 タントラ・ヴァジラヤーナにおいてはアクショーブヤの法則というものが存在する。アクショーブヤの法則とは何かというと、その生命体にとってどの時期に死ぬのが一番輪廻にとってプラスになるのかという実践である。
 つまり、例えば毎日悪業を積んでいる魂がいるとしよう。この魂は十年生きることによって地獄で十億年生きなきゃなんない。とするならば、例えば一年、二年、三年と長くなればなるほど、その次の生の苦しみは大きいと。したがって早く命を絶つべきであるという教えである。
 つまり、不殺生の戒と、このアクショーブヤの戒律というものは真っ向から対立することになる。しかし、カルマの法則から見るならば、両方とも正しいということができる。ただ、見ている点が違うんだと。
 つまり、ヒナヤーナの戒律においては自己の身体の苦痛というものをポイントとして見ていると。タントラ・ヴァジラヤーナにおいては自己の身体の苦痛ではなく、自分自身の輪廻転生、つまり意識は乗り物の主であり、そしてその乗り物の主は乗り物を移し変える、乗り物から乗り物へ移し変えるときの中心であるから、その主の道が外れないようにすることが必要なんだと考えると。したがってこの肉体の苦痛よりも輪廻を重視すると。これがアクショーブヤの戒律の本質であると。
 このように、悪業をなしている魂の命は早く絶つべきというのがアクショーブヤの法則であり、衆生救済のためにこの法則を実践することができれば、それは絶賛を集めることになると、麻原は述べていたわけです。

 これらのことから、麻原は、この時期には、悪業をなしていると麻原が見ていた大多数の人々を大量にポア=殺害する意図を持っていたことがわかるのであり、教団武装化の進展とともに、その意向をこうした説法の形で徐々に明らかにしていたと見ることができます。

 一般の信者がこうした麻原の意図を見抜けなかったのは残念なことですが、麻原に対する絶対視と、その基盤にある自分自身へのプライドがあったため、むしろその意図を後押ししていた面もあったのだと思います。

■さらに進んだヴァジラヤーナ活動

 このような麻原の過激な説法と並行して、この1993年は、教団武装化や外敵への攻撃、諸々の違法行為といったヴァジラヤーナ活動が、裏でどんどん進展していきました。
 箇条書きにすると以下の通りです。

◎4月 早川氏がオーストラリアを訪問、核兵器開発を目的に牧場を購入。
◎4月 炭疽菌培養計画開始。    
◎5月 「清流精舎」(小銃工場)建設。
 「渡部及び廣瀬は,被告人の指示により,同年5月ころ,ロシア連邦に赴き,弾丸の製造法や自動小銃の金属部品の表面を硬くし耐摩耗性を強める窒化処理の方法について調査し,窒化炉の図面等を入手するなどし,帰国後,渡部が中心となって窒化炉の設計を始めた。」(判決)    
◎6月 スパイ疑惑の信者・越智直紀氏、逆さ吊り修行死亡事件。遺体を石井久子氏らが焼却処分。
◎6月 亀戸異臭事件。(皇太子結婚の儀パレードへの炭疽菌襲撃計画)
◎6月 サリンプラント製造計画。
 「教団の武装化の一環として化学兵器の中でもサリンをしかもプラントで大量に生成しようと考え,土谷にその生成方法について研究するよう指示した。」(判決)        
◎7月 亀戸異臭事件。2度に渡り炭疽菌を散布するが、悪臭を発しただけで失敗に終わる。
◎8月 皇居への炭疸菌噴霧、失敗。
◎8月 少量のサリン生成に成功。
 「土谷は,同年8月ころ,フラスコ内で少量のサリンの生成に成功し,引き続きプラントにおけるサリンの大量生成の方法について研究を進めた。」(判決)
◎8月頃 70トンサリンプラント計画。
 「被告人は,そのころ,自分の部屋で,石井や井上の前で『私の今生の目標は最終完全解脱と世界統一である。』という話をし,また,第7サティアンに70tのサリンを生成するプラントを造ろうと考え,同年8月末か9月初めころ,上祐,村井,新實らの同席する被告人の部屋で,滝澤和義に対し,『70tのサリンプラントを造ってくれ。いきなり大きいのでいこう。』などと言って70tのサリンを生成できるプラントの設計をするよう指示した。」(判決)
◎11月 土谷氏と中川氏がサリン600グラムを生成。村井氏は2人に5キロ生成を指示。
◎11月 サリンプラントにおける5工程から成るサリンの大量生成の方法を決定。
◎11月 池田大作創価学会名誉会長暗殺計画(第1回)失敗。        
◎12月 早川氏がサリン散布用の旧ソ連製大型ヘリを購入。
◎12月 麻原が土谷氏にLSD製造を指示。
◎12月     土谷氏と中川氏がサリン3キロ生成に成功。八王子市の創価学会施設の周辺で噴霧し、池田大作名誉会長殺害を図るが失敗(2回目)。この際、新実氏がサリンを吸入し重体。
◎12月 麻原、村井氏を通じ土谷氏と中川氏にサリン50キロ生成を指示。

 ――以上のように、核兵器、炭疽菌、自動小銃、サリンの製造計画が進められただけではなく、実際に、炭疽菌やサリンを用いて、外敵への攻撃ないし攻撃のシミュレーションが行われていたことがわかります。そして、特に70トンのサリンプラント製造計画は、明らかに一般大衆を無差別に殺戮(ポワ)する意図を持っていたことを物語っています。

 また、判決によれば、麻原はこの頃,違法行為に関与していた一部信者に対して、「サリンができた。あと3万人いれば何とかなる。だから,何としてでも3万人のサマナを作らないといけないんだ。」 などと述べて、大量の出家信者の獲得を指示していたといいます。

 これらの武器を使って、教団独自の軍隊を編成するために、多数の兵隊が必要だと考えていたのかもしれません。現に、7月に作成された出家信者向けのビデオで、麻原は、次のように述べています。
 煩悩にまみれて生きてきた前生の弟子たちよ
 いよいよ君たちが目覚め、そしてわたしの手伝いをするときがきた
 君たちは死に際して決して後悔しないようにしなければならない
 君たちがもし選択を誤れば
 君たちはこの人間界へ生まれてきた意味を
 完全になくしてしまうことになる
 君たちは確かに今生、情報により、煩悩により、けがれた
 しかし、君たちの本質はけがれるはずはない
 なぜならば、君たちはわたしの前生の弟子であり
 そして本質的には他の魂と違い
 救済の手伝いをするために生まれてきたからである
 わたしは、君たちがわたしの手となり、足となり、
 あるいは頭となり、
 救済計画の手伝いをしてくれることを待っている
 さあ、一緒に救済計画を行なおう
 そして、悔いのない死を迎えようではないか
 このように、出家信者に対して、「救済計画」の実施にあたって死を覚悟することを求めていたのです。

 また、10月には、信者に「来世グルと一緒に転生する秘儀テープ」と題するカセットテープが配られました。そこでは、死後、麻原と一緒に次の世界に生まれ変わるための瞑想が収録されていたのですが、このことも、信者らが場合によっては死ぬことを前提とした計画を麻原が立てていたことを物語っているといえます。

■「額に刻印イニシエーション」を実施

 7月には、信者らに「額に刻印イニシエーション」と題するイニシエーションが行われました。
 これは、聖書の『ヨハネの黙示録』において、神に救われる魂が額に刻印を押されると記されていることに基づき、行われたものです。

 具体的には、注射器を用いて信者の額に麻原の血を注入したとされていますが、実際には、その際同時に、信者の腕には、その時期に教団が製造実験をしていた炭疽菌のワクチンが注射されました。
 こうしたことは、イニシエーションを受けた一般の信者には、全く説明されませんでした。これは、1990年の石垣島セミナーと同様に、教団自らが起こそうとしていたハルマゲドンにおいて、信者だけは助かるようにとの意図があってのことです。

■教団が毒ガス攻撃を受けていると主張

 10月になると、麻原は、「教団施設が毒ガス攻撃を受けている」と、出家信者に説法を行うようになりました。その後も、同様の説法を麻原は繰り返していくことになります。

 このような説法は、教団信者に従来からあった被害妄想をいっそう強めましたが、教団のサリン製造計画が立てられてから、わずか4カ月後の説法であることから、教団内で毒ガス製造されていることを偽装する意図があった可能性もあります。

 しかし、その一方で、麻原特有の被害妄想の結果だという考え方もあります。すなわち自分が毒ガス製造を始めたから、自分も毒ガスで攻撃されているのではないかと本当に思い込んでいた可能性も否定できないのです。

 実際には、教団への毒ガス攻撃があったという科学的な証拠はありませんし、信者にも示されていません。

 確かに、当時、信者の健康被害が、教団の各施設で認められましたが、それが外部からの毒ガスという証拠はありません。

 ロシア製の毒ガス検知器を用いたところ、教団施設内で微量の毒ガス物質が検知されたということがありましたが、検知器は直後に故障してしまった上に、この手の毒ガス検知器の場合は、軍事用・殺人用の毒ガスが撒かれていなくても、微量の反応が検知されることがあります(ロシア支部での経験より)。

 一部では、Q熱リケッチャの感染が言われており、実際に、教団の医療班は、外部医療機関の検査を使って、一部信者の血液において、その感染を確認しています。

 しかし、医療専門家によれば、Q熱リケッチャ自体が、軍事関係者の攻撃などといった特殊な人為的な原因ではなくても、ネズミなどから感染する可能性があるとのことです。当時の不衛生な教団施設には多くのネズミが繁殖しており、これが原因と考える方が合理的であるため、外部からの攻撃の証明とはなりません。

 そして、健康被害については、教団が、毒ガス対策として、施設の窓を閉め切って、石灰入りの加湿器を使って「毒ガスの浄化」と称する作業などを行っていたことが、逆に衛生状態を悪化させて、内部で何らかの感染症が広がったのではないか、という可能性があります。

 なお、教団では、毒ガスが米軍航空機から散布されているとの主張がありましたが、当時教団の法務部担当者が調査したところ、教団施設周辺の一般人には何も健康被害を訴える人はおらず、訴えていたのは教団施設のごく近くの住民だけでした。高々度からの散布の場合は、こういった状況にはなり得ないと思われ、米軍機の攻撃も、現実的にはありえないと思われます。

 さらに、一部信者の中では、例えば、サリン事件の犯行者である林泰男氏のように、窓を開けて生活していたが、全く被害はなく、麻原は被害妄想だったと思うと語っている者もおり、いわゆる本物の毒ガスが撒かれていた場合は、このような個人差が生じることがないことは明らかです。

■「パーフェクト・サーヴェーション・イニシエーション」の始まり

 12月頃から、パーフェクト・サーヴェーション・イニシエーション(PSI)というイニシエーションが信者に行われるようになりました。報道では、よく「ヘッドギア」と表現されていたものです。麻原の脳波を電気信号にしたものを信者の頭に送り、信者の脳波を麻原の脳波に近づけるというイニシエーションです。

 麻原によれば、通常の人間の脳波には波があるにもかかわらず、麻原の脳波はフラット(平坦)になっており、これは麻原が煩悩から解放された高い悟りの境地にあることを科学的に証明しているとのことでした。そこで、麻原は自身の脳波を信者にコピーしようとして、このイニシエーションを開発したのでした。

 麻原は、翌1994年1月の説法で、次のように述べています。
 そしてここにあるコンピューターと、それからこのヘルメット型の電極は、何を意味しているかというと、わたしが、例えば先程述べた身体に対しての瞑想・感覚に対しての瞑想等の瞑想を実際に行ない、それを脳波計によってとり、そしてそれを逆に増幅し、脳に打ち込むということによって、わたしたちは努力せずとも完全な覚者へ至る道を歩くことができるのです。
 80年代の中盤に、1980年代の中盤に予言した予言はほとんどすべて的中しました。そしてわたしは、この地上に三万人の完全なる神通力を有した解脱者を輩出したいと考えています。そして、このコンピューター・システムがその3万人の成就者に対して大きな役割を果たすことは、どうやら間違いないようです。
 しかし、そもそもこの平坦な脳波が高い悟りの境地をあらわしているという科学的な根拠はありません。

 また、脳波に詳しい専門家によると、緊張が強い人や統合失調症の傾向がある人も脳波がフラットになるという場合があり、脳波がフラットであることが悟りの証明になるとは限らないのです。

 さらに、ひかりの輪のスタッフの中には、麻原以外にもフラットな脳波を有する人と出会った人がいますが、その人は、当然のことながら麻原とは違って、最終解脱したなどとは主張していません。

 こうしたことから、麻原の脳波の特徴をもって、麻原が解脱していると結論づけることはできません。

 一方、このイニシエーションについては、グルと同じ思考パターンになり、グルのロボット・クローンになるという考え方自体に、仏教・密教上の教義的な問題がありました。すなわち、チベット密教などでのグルのイニシエーションは、あくまでも自己の内側の仏性を覚醒させるための呼び水であって、グルは導き手であるべき存在でした。
 
 さらに、電極から生じた火傷などの物理的な傷害を負って、皮膚にその後遺症が残った人もいました。
 
 また、このイニシエーションによって、グルと同じ脳波になることができるという、科学的な根拠もありませんし、麻原の前宣伝とは異なって、このイニシエーションで高い悟りを得た信者が生まれたという話もありませんでした。

 コンピューターシステム(PSI)と電極・電流によって、大量に成就者を出すという考えは、非常に荒っぽく、安直であり、同時に、人を物質と見るかのような非人道的な側面がありましたが、同時に、それはどこか現在の大量生産社会やコンピュータ社会に通じる発想とも思われます。

【10】「1994年(平成6年)」

■大量殺戮、国家との対決意図を強固に示す

 1994年は、ますますヴァジラヤーナ活動が加速化し、武器製造や暗殺等の違法行為が教団の裏で本格化していきました。

 麻原は、この年の2月、その意図を一部信者らに明確に示しています。判決では以下の通り認定されています。
 被告人は,かねてから自己の前生は中国を宗教的政治的に統一した明の朱元璋であるなどと公言していたが,同年2月22日から数日間,村井,新實,井上,早川,遠藤,中川ら教団幹部や真理科学技術研究所のメンバーその他の出家信者ら合計約80名を引き連れて中国に旅行し,前世を探る旅として朱元璋ゆかりの地を巡った。
  (中略)
 ホテルオークラにおいて,中国旅行に同行したメンバーらの前で,『このままでは真理の根が途絶えてしまう。サリンを東京に70tぶちまくしかない。』などと言い,村井,早川,井上らの前で,サリンによる壊滅後,日本を立て直して支配するが,オウムが生き延びるためにも食糧事情等の調査もしなければならないという趣旨のことを話した。」
  (中略)
 自衛隊を取り込むために自衛隊員の意識調査をし,また,東京が壊滅した後に理想的な社会を作っていくための作業として,現代の日本の矛盾点について1か月で調査するよう指示。
  (中略)
 被告人は,その旅の途中,ホテルの一室で,約80名の同行した出家信者に対し,タントラ・ヴァジラヤーナにおける五仏の法則について,「アクショーブヤの法則とは,例えば毎日悪業を積んでいる魂は長く生きれば生きるほど地獄で長く生きねばならずその苦しみは大きくなるので,早くその命を絶つべきであるという教えである。アモーガシッディの法則とは,結果のために手段を選ばないという教えである。」などと体系的に説いた上,「1997年,私は日本の王になる。2003年までに世界の大部分はオウム真理教の勢力になる。真理に仇なす者はできるだけ早く殺さなければならない。」旨の説法をし,武力によって国家権力を打倒し日本にオウム国家を建設して自らがその王となる意図を明らかにした。
 かねてから麻原は、自己の過去世を歴史上の国家の建設者と主張する傾向がありましたが、このときは中国の絶対的権力者である皇帝だったとして、逆らう者は殺すと宣言しています。
 つまり、かねてから主張してきたキリストであるばかりでなく、皇帝でもあるとして、宗教的にも政治的にも軍事的にも自分は頂点の位置にあるという妄想の極致に至ったわけです。

 すでに前年(1993年)の3月25日には、世紀末に登場するキリスト――つまり麻原が自らなろうとしていた存在――について、以下のように述べていました。
 ユダヤ教が望むキリスト、つまりメサイアとは何であるかということについて検討しなければならない。というのは、このメサイアは、ハルマゲドンにおいて、それから二千年の契約において、この世界を、地球を統治する、と予言されているからである。
 例えば、「ヨハネの黙示録」には、"ダビデの若枝"という表現がなされている。このダビデの若枝とは何かと。これは祭司と、それから軍事的な王、この両方を兼ね備えた武人潅頂王のことを表わしている。この「武人潅頂王」とは、「転輪獅子吼経」にも述べられているように、聖なる者に――つまり予言者に――祝福された者、頭に油を塗られた者、という意味である。つまりこれは、「予言者にイニシエーションを受けた祭司・宗教家である軍人」ということになる。そしてユダヤは、この救世主がハルマゲドン前後に現われる、と信じているのである。
. そして、こうした主張を聞いた大勢の幹部信者は、ほぼ全てが、その主張を受け入れ、反対しなかったのです。このようなことからも、オウム事件は、事件に関与しなかった信者も含めた皆に責任があったといわざるをえません。

■さらに進んだ武装化計画

 さらに、以下のように、自動小銃、爆薬、サリン、ホスゲン、VXガスの研究・製造がなされていきました。

◎1月 中川氏らがサリン30キロ生成に成功。
◎1月 千葉市内のホテルに横山真人氏らを呼び、1000丁の自動小銃製造を指示。
◎3月頃 上九一色村第11サティアンで、小銃の部品製造を始める。
◎4月 村井氏が土谷氏に爆薬サンプルの製造を指示。
◎4月 富士川河口付近でサリンの噴霧実験を行い、中川氏がサリン中毒にかかる。
◎7月 中川氏にサリン70トン生成を指示。土谷氏がVXガス製造を開始。
◎7月 第7サティアン悪臭事件(サリン副生成物漏出)
◎8月 村井氏が青酸、ホスゲンなどの製造を指示。
◎9月 VXガスの製造に成功。
◎年末 翌年1月1日までの間に、自動小銃1丁の組み立てを完了。

■多くの信者を兵士へと養成

 上記のような武器の整備だけではなく、多くの信者を兵士に養成していく動きも始まりました。

 判決によれば、
「被告人は,同年3月中旬ころ,新實,井上,中村昇らに対し,『もうこれからはテロしかない。』などと言い,新實をリーダーとして,自衛隊出身あるいは武道のできる出家信者十数名に軍事訓練のキャンプをさせた」
と認定されています。

 また4月には、約10名の信者がロシアを訪れ、数日間、軍の施設で自動小銃等による射撃の訓練をしています。同様のロシアでの武器の射撃訓練は、9月にも実施されています。

 さらに、「映画のエキストラとして登場してほしい」などと声をかけてホームレスを多数集め、「白い愛の戦士」と名付けた部隊を編成し、5月から7月と8月から10月まで、山間部の施設で基礎的な訓練を施しています。    

 自覚のある信者ならまだしも、ホームレスを騙して連れてきて兵士として訓練し、教団の戦争に使おうという考え方は、あまりに非人道的でした。

 もちろん、大部分の一般信者は、このような動きについては全く知りませんでした。しかし、麻原は一般信者に対しても、毒ガス攻撃を仕掛けてくる国家権力と対決しなければならず、そのためには「武」の実践が必要である等と説いていました。

 具体的な「武」の実践としては、3月頃の在家信者向けセミナーで「ヴァジラヤーナコース」が設けられ、柔道の訓練が行われています。

 出家信者全員には、いわゆるブルワーカー型のトレーニング装置を一つずつ配付するともに、ウインド・トレーニングといわれる気功法を授け、肉体強化に努めさせました。

 麻原は、3月11日の説法で、教団信者が今後習得すべき三要素として「聖」「科」「武」の3つを提示したのです。「聖」は聖なる修行の要素であり、「科」は科学を意味します。そして「武」が肉体強化や武道等の修練を意味しました。

 麻原は、6月号の教団機関誌で次のように述べています。
 武とは長の気・短の気を練るということである。長の気とは、例えば易筋経等がそうであるが、身体のナーディーに対してプラーナを十分に循環させる、ゆっくりと循環させる技法であり、短の気とはそのプラーナを放出する、瞬間的に放出する、若干攻撃性を含んだ気の働きということになる。これらは皆さんが例えばアパンクリヤやヴァヤヴィヤ・クンバカやあるいはツァンダリーの瞑想、あるいは先程述べたウインド・トレーニング等を行なうことにより、皆さんは確実に長の気・短の気を練り、そして例えば原爆が落ちようと、あるいは毒ガスの攻撃を受けようと、他の人と違い、延命できるはずである。
 つまり、大部分の一般信者も、ハルマゲドンに備えて「武」の要素の修練が必要であると自然に受け止めて実践していったのでした。

■兵士として洗脳するための「修行」

 こうして、この頃の教団は、信者を修行者というよりは、兵士にするためのプロセスに入っていたといっても過言ではありません。

 ですから、前年にスタートしたパーフェクト・サーヴェーション・イニシエーションをはじめとして、もはや洗脳といってもよいような修行へと変質していきました。

 まず5月頃から、幻覚剤LSDの入った液体を麻原から受け取って飲む「キリストのイニシエーション」が始まりました。LSDが入っているので、飲んだ信者は誰もが非日常的な精神状態を体験しましたが、このイニシエーションには、次のような問題点があったと考えられます。

①非合法的な薬物の使用であったこと、および、受ける人の了解が全くなかったこと。
②これは薬物による体験であったにもかかわらず、薬物の使用を知らせないことで、多くの信者は、麻原の力による体験だと思い込んだ点において、洗脳であること。その一方で、薬物による体験は、当然のことながら、一時的なもので、修行の進歩によるものではないこと。
③イニシエーションを受けた人の中には、精神分裂的な症状を起こした人もいて、危険であったこと。そもそも精神的に不安定な人には、薬物は飲ませてはいけないこと。また、飲んだ後で付き添う人がいるべきだったが、それもなく、安全対策がとられていなかったこと。
④イニシエーション終了後は、薬物を抜くために、高温(約47度)の湯に15分浸かることを3回~10回繰り返す「温熱」修行が課せられたが、これは心身共に非常に危険で、この温熱修行の影響で、少なくとも数名の死者が出たこと。

 洗脳について詳述すると、薬物使用を知らされず、薬物について無智な信者は、このイニシエーションで、非日常的な良い体験をして、麻原をより深く信じるようになった、という者が多くいました。

 しかし、薬物によって、宗教的にいう至高体験に近いものをすることは、よく知られています。チベット密教の瞑想体験に近いものを薬物を使って行うことは、アメリカでは1960年代ごろから行われており、一部では、サイケデリックスとか、ハイテク仏教などといわれています。インドのヨーガの修行者でも、薬物性の植物を摂取して、修行する場合があるそうです。その体験は薬物によるものであり、(麻原の力ではなく)誰でもするものです。

 しかし、そういった薬物が一切違法であった日本では、薬物による擬似的な宗教的体験といったものにほとんどの人が馴染みがなく、しかも、薬物使用を知らされずに摂取させられたため、信者は、麻原の力で高い宗教的な体験をしたと思いこまされてしまいました。

 また、その体験の中で何らかの形で麻原が登場し、そのために麻原を信じたという信者も多くいましたが、これも、麻原の霊的な力だとは判断できません。

 というのは、日頃からの麻原への帰依の修行に加えて、薬物摂取の直前に、それが麻原の宗教的・霊的なイニシエーションであるという意識付けが信者になされたり、それだけでなく、長時間、麻原への帰依を決意する詞章を読まされたりしていますから、信者の潜在意識に形成されたそういった意識・データが、薬物体験の中でイメージ化したと考えるのが合理的です。その中では、本人の潜在的な願望が投影された可能性もあります。

 また、このイニシエーションは、薬物の影響によって、意識が一時的に「ハイ」な状態になり、そうした意識状態を利用して、在家信者に、教団への布施の約束をさせたこともあって、この点も大きな問題でした。

 その後、LSDと覚せい剤の入った液体を飲ませる「ルドラチャクリンのイニシエーション」が行われましたが、この問題点も、「キリストのイニシエーション」と同じでした。

 さらに、教団の医療班を使って、イニシエーションの名の下で、様々な違法行為が行われていきました。

 例えば、信者に催眠剤や全身麻酔薬(チオペンタール)を点滴した上で、戒律に違反していないか、スパイでないか、といった信者の秘密を聞き出そうとしたり、潜在意識に麻原への帰依の心を植え付けたりする行為は、「ナルコ」と名付けられたイニシエーションとして行われました。

 別に、脳に電気ショックを与えて記憶を消去する行為は、「ニューナルコ」と名付けられたイニシエーションとして行われていきました。

 これらの行為全体が、心身に害をもたらす違法行為であるばかりでなく、信者の自発的な意思に基づく修行ではなく、教団の独断的・独善的な洗脳に近いものでした。

 これらのイニシエーションの開発を担当した林郁夫氏は、著書の中で、これらのイニシエーションは、麻原による信者の人格改造が狙いだったと述べていますが、その究極の目的は、麻原が妄想していた国家との戦争のために、信者を兵士に変えていくための洗脳だったといえるでしょう。

 一方、麻原の責任だけでなく、信者全体の責任もあります。信者は、麻原に合一することによって解脱が得られるという極度の依存状態にあり、それによって、このような修行の形を取った洗脳行為に対して、大きな反発もなく、むしろ進んで受け入れていったのでした。

■頻発する暗殺・殺害事件

 前年に引き続き、麻原は、教団の敵対者を次々と暗殺等していきました。それは次のとおりです。

◎1月 落田耕太郎氏リンチ殺害事件。遺体はマイクロ波焼却機で処分。
◎5月 滝本太郎弁護士サリン殺人未遂事件。
◎7月 冨田俊男氏リンチ殺害事件。
◎9月 江川紹子氏ホスゲンガス襲撃事件。
◎12月 水野昇氏VX襲撃事件(殺人未遂)。
◎12月     浜口忠仁氏VX殺害事件。
◎95年1月 永岡弘行氏VX襲撃事件(殺人未遂)。

 これらの殺人等事件の一つ一つについて、その概要を以下に述べます(いずれも判決等に基づく記述です)。

■落田耕太郎氏リンチ殺害事件(殺人・死体損壊事件で麻原有罪)

 落田氏は、オウム真理教附属医院で勤める出家信者でしたが、1994年1月22日頃、教団を脱退しました。その後、落田氏は、かねてから親交があり同病院に入院・治療していたY・F氏(女性)を連れ出そうと決意し、同年1月29日、同女の息子である元出家信者Y・H氏らを誘って、第6サティアンに向かいました。同30日未明、落田氏とY・H氏は、第6サティアンに侵入しましたが、まもなく発見され、取り押さえられました。侵入した2人は、催涙スプレー、サバイバルナイフ、火炎瓶等を持っていました。

 両名は、麻原のもとに連れて行かれ、麻原は両名の処遇について検討しました。麻原は、(新実・中川氏の証言によると)事件より前にY・F氏のザンゲを受け、Y・F氏と落田氏の男女関係を知っていたため、落田氏が同女を連れ出そうとしたのは、男女関係が動機であり、落田氏がそのことを明かさずに同女の治療が教団内ではできないからと言ってY・H氏をだまして協力させたと考え、さらに、落田氏の手帳には、Y・H氏の父親を殺し財産を奪うという計画まで書かれていたと認識しました。

 これらを勘案した麻原は、落田氏の悪業を止めるためには、落田氏を殺害するしかないと判断し、その役割をY・H氏に命じ、その場に居合わせた井上氏、中川氏、新實氏、丸山美智麿氏ら幹部が、落田氏の体を押さえつける中で、Y・H氏は、ロープを使って落田氏を絞殺することとなりました。

 殺害の実行行為には関わらなかったものの、その場に居合わせた松本知子氏も共謀したとして立件され、有罪判決を受けています。他にも、越川真一氏、後藤誠氏、杉本氏らの幹部も、共謀したとして立件されています。

 また、麻原は、その後、村井氏、丸山氏らに指示し、同日、第2サティアン地下室において、落田氏の死体をマイクロ波加熱装置とドラム缶等を組み合わせた焼却装置(マイクロ波焼却装置)の中に入れ、これにマイクロ波を照射して加熱焼却し,同人の死体を損壊しました。

■滝本太郎弁護士サリン殺人未遂事件(殺人未遂事件で麻原有罪)

 滝本弁護士は、1989年11月頃から「オウム真理教被害対策弁護団」及び「坂本弁護士を救う全国弁護士の会」に所属し、教団を相手方とする民事訴訟の代理人として活動したり、信者の出家阻止、脱会促進のための活動を活発に行なったりしていました。

 こうした活動が教団活動にとって障害になると考えた麻原は、1994年5月7日頃、青山氏、遠藤氏、中川氏ら教団幹部に対して、同弁護士の殺害を指示しました。

 同月9日に甲府地裁で教団信者絡みの裁判があり、相手方の代理人として滝本弁護士が出廷することがわかっていたので、その際に駐車場に止めてある同弁護士の車のフロントウィンドー付近にサリンを振りかけて吸引させることにしました。

 犯行には、青山氏、遠藤氏、中川氏らの幹部のほか、連絡係として富永昌宏氏が、サリンを同車にかける係として女性信者T・Aが抜擢されました。

 犯行は計画通り行なわれ、サリンを振りかけた車に滝本弁護士が乗り込んでしばらく運転していたところ、サリンを吸引して縮瞳が生じ視界が暗くなったりなどする被害を受けました。

■冨田俊男氏リンチ殺害事件(殺人・死体損壊事件で麻原有罪)

 1994年7月、女性出家信者が第6サティアンの浴室で、びらん性の毒ガスを浴びたのと同様の火傷の症状を呈したことから、何者かが教団内に入り込んで毒ガス攻撃をしているとの見方がありましたが、その後、当時タンクローリーで第6サティアンに教団の生活用の水を運搬していた教団車両省所属の冨田俊男氏の名前が、スパイとして挙がってきました。

 そのため、麻原は、林郁夫氏に命じて、ポリグラフ(いわゆる嘘発見器)とイソミタールインタビュー(いわゆる自白剤の投与)によって、富田氏をチェックしたところ、ポリグラフの方では陽性反応が出ました。なお、麻原の判決によれば、当時教団ではびらん性毒ガスを研究していたので、その事実を隠すとともに、国家権力に対する敵愾心を煽るために、誰かをスパイに仕立て上げようとしたと認定しています。

 そこで、麻原は、新實氏に対して、冨田氏を自白させるよう指示しました。新實氏は杉本氏、中村氏、山内信一氏ら幹部に手伝わせて、冨田氏を自白させようと、冨田氏を椅子に縛り付け、暴行を加え続けたましたが、冨田氏は自白しませんでした。

 あらためて新實氏が麻原に相談したところ、麻原は、冨田氏を殺害することを決意し、村井氏とも相談した上、新實氏に対し、マイクロ波焼却装置を使い冨田氏を焼却するように指示しました。新實氏はその指示通り、冨田氏の頸部にロープを巻き付けて締め上げ、これを殺害して死体を焼却しました。

 なお、新實氏自身は、動機について、「スパイを放置することで、他のサマナに危害が加わることを防止し、冨田にこれ以上スパイとしての悪業を積ませずに、真理との縁を深めるためやった」旨を証言しています。また、「松本サリン事件以降、麻原は警察などの動きに敏感になり、スパイ疑惑に厳しくなっていた」旨証言しています。

■江川紹子氏ホスゲンガス襲撃事件

 ジャーナリストの江川紹子氏は、自身がオウム信者の親たちに坂本弁護士を紹介した関係上から、教団を批判する言論活動を続けていました。
 そこで麻原は、江川氏の殺害を指示し、指示を受けた信者らが、1994年9月20日、江川氏の自宅のポストから毒ガス・ホスゲンを噴霧したものの、江川氏が気づいたのが早く、噴霧が少量だったため、江川氏は命に別状なく、傷害を負うにとどまりました。

■VXガスによる連続殺人(未遂)事件(殺人・殺人未遂事件で麻原有罪)

 サリンに対する注目が強まったことから、しばらくはサリンの使用を控えることにし、その代わり、1994年10月までに、土谷氏は、サリン以上の毒性(100倍~1000倍といわれる)を有する毒ガス・VXの生成に成功、常時製造できる態勢を整えました。

 このVXを使った殺人(未遂)事件が、1994年12月から95年1月にかけて3件起き、以下の通り、水野昇氏、濱口忠仁氏、永岡弘行氏の3氏が被害にあいました。

◎水野氏VX殺人未遂事件

 水野氏は、教団を抜け出し同氏の許に身を寄せた元信者N・H氏とその家族を匿ったうえ、弁護士を紹介して、彼女のお布施返還訴訟提起を手助けしました。この訴訟で、N・H氏は、教団にお布施を強要されたと主張し、社会的イメージが損なわれることを恐れた教団は、N・H氏に訴訟を止めさせ教団に戻したいと考えていたので、水野氏の存在が障害でした。

 麻原への判決によれば、麻原は、新實氏,井上氏及び遠藤氏らの幹部に対し,「水野は悪業を積んでいる。N・Hの布施の返還請求は,すべて水野が陰で入れ知恵をしている。水野にVXを掛けてポアしろ。そうすれば,N親子は目覚めてオウムに戻ってくるだろう。これはVXの実験でもある。水野にVXを掛けて確かめろ。」と指示した、とされています。

 そして、1994年12月2日、上記のメンバーに加えて、山形明氏が実行役として加わり、ゴミを出すために自宅前に出て来た水野氏の後頭部にVXガスをかけましたが、殺害までには至りませんでした。

 なお、麻原は、この水野氏殺人未遂事件については、その一部関与を認めていると受け取れる発言を法廷で行っています(1997年4月24日)。

◎濱口氏VX殺人事件

 教団は、1994年11月頃、教団大阪支部や名古屋支部において、在家信徒I・Y氏が分派活動を行っていると疑い、濱口氏が、それを背後で操っているのではないかと疑いました。

 判決によれば、麻原は、「I・Yは悪業を積んでいる。I・Yを操っているのは,濵口という者だ。濵口が公安のスパイであることは間違いない。VXを一滴濵口にたらしてポアしろ。」と言い、殺害を指示しました。

 実行したメンバーは、水野氏VX殺人未遂事件のメンバー、すなわち井上氏、新實氏、中川氏、山形氏、平田悟氏及び高橋克也氏ら幹部の6名であり、これらのメンバーは、1994年12月12日、通勤途上の濱口氏の後頭部にVXガスをかけて、同人は、その10日後にVX中毒により死亡しました。

◎永岡氏VX殺人未遂事件

 永岡氏は、「被害者の会」結成当時(1989年10月)から同会の中心的な存在であり、出家信者の脱会促進、宗教法人の認証取消の陳情、教団に批判的なマスコミ発表を行なうなど、教団活動を抑えるために精力的な活動を展開していた人物でした。

 1994年12月当時も、永岡氏とその長男T氏が、活発に信者の脱会促進活動をしていたことから、麻原は、これ以上放置できないと判断しました。

 判決によれば、麻原は、新實氏に対し、永岡氏やその長男が、これまで教団や教団信者に対し行ってきたことなどを話した上、「どんな方法でもいいから永岡にVXを掛けろ。幾らお金を使ってもいい。VXを掛けるためにはマンションを借りてもいい。息子のTの方が行動力があるから、永岡ができなければTでもいい。井上としっかり打合せをするように。」という趣旨のことなどを言って、永岡氏か、それができなければその長男をVXを使って殺害するよう指示し、新實氏はこれを了承しました。

 1995年1月4日、新實氏、井上氏、中川氏、山形氏、高橋氏ら幹部は、港区南青山の路上において、永岡氏の後頸部付近にVXガスを掛けて体内に浸透させましたが、結果としては、永岡氏は一命を取りとめました。

 ――以上が、この時期の暗殺(未遂)事件の概要です。

 判決によれば、この年の12月、麻原は「100人くらい変死すれば教団を非難する人がいなくなるだろう。1週間に1人ぐらいはノルマにしよう。」などと幹部信者に語ったと認定されています。
 前記の通り、麻原は、年頭に「真理に仇なす者を殺す」旨の宣言をしていましたが、それを確実に実行していったのです。まさに狂気の世界です。

 なお、麻原は、このような暗殺に関与した信者の宗教上のステージを昇格させていきました。もはや正常な「修行」がなされているとはいえない状況だったといえます。

■松本サリン事件(殺人・殺人未遂事件で麻原有罪)

 1994年6月27日、教団は松本サリン事件を引き起こしました。サリンを使った初めての大量殺人で、死者7人、負傷者600名以上の被害が出ました。判決等によれば、事実関係は以下の通りです。

 1991年から教団松本支部の土地を巡り、土地所有者と教団との間に係争がありました。法廷での争いも教団にとって芳しくない結果が出て、当初の計画を縮小せざるを得なくなっただけでなく、地元住民による反対運動も盛り上がりを見せ、社会問題化していました。

 麻原は、こうした事態を打開するとともに、サリンの効果を実験するため、教団に敵対的な長野地裁松本支部の裁判官と地元反対住民に対して、サリンを噴霧するよう村井氏、新實氏、中川氏、遠藤氏らの幹部に対して指示しました。

 麻原の意を受けた村井氏は加熱式のサリン噴霧器を積載した車両を使うことにしました。噴霧現場での警備役として中村昇氏、冨田隆氏、端本氏らの幹部が抜擢されました。噴霧車の製造には、渡部和実氏、富樫若清夫氏、藤永孝三氏、林泰男氏、角川知己氏、高橋昌也氏らの幹部、信者が当たりました。中川氏、土谷氏らの幹部が生成したサリンが使用されました。

 1994年6月27日、第7サティアン前から、噴霧車ともう一台のワゴン車が松本に向けて出発しました。噴霧車は端本氏が運転し、村井氏が同乗しました。ワゴン車には、冨田氏を運転手として、新實氏、中川氏、遠藤氏及び中村氏らの幹部が同乗しました(中川氏と遠藤氏は医療班として)。当初の攻撃目標は地裁庁舎でしたが、現場到着が夜となり、地裁が閉庁した後だったので、実行グループは麻原と相談の上、目標を裁判官官舎に変更しました。

 同日、午後10時30分、上記2台は裁判官官舎近くの駐車場に留まり、午後10時40分から、村井氏が噴霧器を操作してサリンを発散させました。ワゴン車の方は見張り役を務めました。こうして、散布されたサリンが風に乗って付近の住宅街に広がり、死者7名、負傷者600名以上の被害を出す大惨事となったのでした。

 この事件の動機も、実に身勝手なものだったといわざるをえません。そのために無関係な人たち多数が巻き込まれてもよい、悪業を積んでいる現代人はポアされた方がよいという麻原の従来の考えに基づく犯行でした。
 
 しかし、一般の信者には、この事件は教団が起こしたものとは知らされず、むしろ逆に、この事件は教団を狙ったものとの宣伝がなされました。つまり、松本市には教団の支部があり、かつ教祖の本名が松本であるという理由から、教団への攻撃を示唆するものだとされたのです。

 かねてから毒ガス攻撃を受けていると考えてきた一般の信者は、これでさらに過剰な防衛意識、被害妄想を生じさせ、また闘争心を高めていったのでした。事件の真相を探ろうとする信者はおらず、教団の宣伝を鵜呑みにしていったのは、今から思えば愚かしい限りでした。

■省庁制度(教団内疑似国家)の発足

 この松本サリン事件の日(6月27日)、教団は「省庁制」を発足させました。
 教団の部署を日本の省庁の名称にならって改称し、日本の行政機関を教団の中に模して作り上げたような形にしたのです(例えば法務部を法務省に改称)。また、それぞれの「省庁」のトップには「大臣・長官」が就任し、その下には「次官」がつくという形でした。

 多くの信者は背景事情を知らなかったため遊びのような感覚で受け止めていましたが、麻原ら上層部は、麻原がいずれ武力行使によって日本をのっとった暁に、日本を統治するつもりで、これらの組織作りを始めていたようなのです。

 判決においても、「青山らのグループに対し,オウムでも日本やアメリカのような省庁制度を作るので,その国家制度について調査するように指示し,また,日本を壊滅した後の将来の国家体制を担うオウム国家の憲法草案を起草するよう指示。」したとされています。

 ただし、国家権力を奪取することを前提とした自らの省庁制度については、すでに91年か92年には、高弟に検討するようにと指示がなされていましたから、国家建設の構想は早期からあったと見るべきでしょう。

 麻原が作ろうとした国は「真理国」または「太陽寂静国」という名称で、その憲法や法律の素案を作るよう青山弁護士に命じていました。
 その憲法(基本律と呼称)は以下の通りです。
【太陽寂静国基本律第一次草案】

前文
 真理歴元年 月 日、神聖法皇は賢聖都にて太陽寂静国の建国を宣言された。すべての太陽寂静国国民にたいし、太陽寂静国建国の聖なる目的とその手続を明らかにするため、ここに太陽寂静国基本律二〇条を公布する。

第一章 神聖法皇
  第1条 神聖法皇は、(シヴァ大神の化身であり、)大宇宙の聖法の具現者であって、何人といえども、その権威を侵してはならない。
  第2条 神聖法皇は、大宇宙の聖法に則り、すべての魂の救済を目的として、太陽寂静国を統治する。
  第3条 神聖法皇は、太陽寂静国統治のための機関として、政府をおく。政府の組織については、別に律令でこれを定める。
  第4条 神聖法皇は政府の運営に携わる官吏の任免をおこなう。官吏の任免手続については、別に律令でこれを定める。
  第5条 神聖法皇は、太陽寂静国の統治基準である律令の制定、施行および監督をおこなう。
  第6条 神聖法皇は、律令に違反した者に、大宇宙の聖法に則った刑罰を与える。
  第7条 神聖法皇は、太陽寂静国国軍の指揮をおこなう。
  第8条 神聖法皇は、宣戦、講和あるいは通商など、外国との条約の締結および破棄をおこなう。

第二章 国民の権利義務
  第9条 すべての太陽寂静国国民は、大宇宙の聖法に則った太陽寂静国の救済活動への参加を通じて、自らの魂の向上をはかる恩恵を享受することができる。
  第10条 すべての太陽寂静国国民は、神聖法皇、大宇宙の聖法、(僧)を敬わなければならない。
  第11条 すべての太陽寂静国国民は、自らの魂の向上のため修行にはげまなければならない。
  第12条 すべての太陽寂静国国民は、太陽寂静国の救済活動を維持するために、律令にさだめられた(納税)をおこなわなければならない。
  第13条 すべての太陽寂静国国民は、大宇宙の聖法を守護するために、律令にさだめられた軍役につかねばならない。
  第14条 太陽寂静国国民たる資格は、別に律令でこれを定める。

第三章 神聖法皇位の継承および(摂政)
  第15条 神聖法皇位は、神聖法皇の譲位あるいは捨身によって、予め指名された者に継承される。神聖法皇位継承者の指名方法は、別に律令でこれを定める。
  第16条 神聖法皇が幼少、あるいは病気の場合、補佐者として(摂政)をおくことができる。(摂政)の任命方法は、別に律令でこれを定める。

第四章 太陽寂静国の国章、暦および首都
  第17条 太陽寂静国の国章は、(梵字によるオウム字)である。
  第18条 太陽寂静国の暦は、(その建国の年を真理歴元年)とする。
  第19条 太陽寂静国の首都は、賢聖都である。

第五章 改正手続
  第20条 本律の改正は、神聖法皇のみがこれをおこなう。本律改正の手続は、律令でこれを定める。
 このように、麻原は、祭政一致の専制国家をつくり、自分は「神聖法皇」(しんせいほうこう)という地位につこうとしていました。これは、太陽寂静国における立法・行政・司法・外交・軍事の全権を掌握する、まさに神のごとき絶対的独裁的主権者ともいうべき地位でした。

 また、この憲法草案と同時に作成された文書(当局に押収済)によれば、

・初代主権者が「神聖法皇」と称する「麻原尊師」であることは自明
・真理国の樹立と神聖法皇の即位により天皇は当然廃位させ、葛城等の氏を与えて民籍に就かせる
・日本なる国称は、歴史的に見て天皇と分離不能で不適当であり、真理の御国が全く新しい理念を持った国であることを人々に理解させる上で、改称は絶大なる効果があり、本案では「真理国」と仮定し、他に「オウム国」「神聖真理国」「太陽寂静国」などが考えられる
・真理国は「大宇宙の聖法」を前提とした制律(立法)を行なうから本来議会制は論理的に不適当な制度
・教団構成員である「僧籍人」の下位に「民籍人」と称する一般国民を置いて統治する

――とされていました。

 また、刑法にあたる「太陽寂静国刑律草案」においては、
・転生刑 罪人を縊首して、これを執行
・温熱刑 改業所に罪人を拘置し、令で定める温水で過熱して、これを執行
・課行刑 罪人を改業所に拘置し、あるいは拘置せず、修行を課して、これを執行
――等の規定がありました。

 もちろん、このような国家建設の企図や、このような法案の存在は、一般信者には秘せられていましたが、多くの一般信者はおもしろ半分とはいえ、こうした流れに進んで乗っていったのです。

■「戦争」ムードを盛り上げる

 麻原は、このような国家建設の狙いをもって教団武装化を進め、その邪魔者を排除するために、次々と事件を起こしていったのでした。

 つまり、麻原や、違法行為に関与していた一部の信者は、本当に日本という国家と戦争をするつもりでしたし、すでに前段階の戦争を始めているつもりだったのです。ですから、しきりに戦争ムードを盛り上げるかのようなことをしていました。

 先に、信者の祭典で軍歌まがいの歌を発表したり、戦いの必要性を強調する説法をしたりしてきたことは述べましたが、特に1994年の終わり頃になると、「なぜ戦争が始まっていることに気づかないんだ!!」などと主張するアジビラが教団内に配られたり、同様のアジ演説が教団内で盛んになされたりしたのでした。

 また、教団の機関誌も『ヴァジラヤーナ・サッチャ』と改称され、内容は、より過激なものとなっていきました。「教団の敵はアメリカである」と訴える『戦いか破滅か』というビデオや冊子も作られ、日本の国家権力のみならず、アメリカに対する敵愾心まで強化され、一般信者の二元的思考が強まっていったのです。

■事件を招いた信者の潜在的闘争心

 本来、宗教者であれば一般に戦争は忌避するものであり、防ごうとするものであり、現に初期の教団ではハルマゲドンを防ぐことを強調していました。しかし、その後は次第に、これまで述べてきたような経緯によって、次第にハルマゲドンを待望するかのような風潮が形成されていきました。

 具体的には、先ほど述べたように、教団は社会から不法な弾圧を受けており、それとは戦うべきだという意識を前提として、麻原がハルマゲドンの際に登場するキリストであり、信者はキリストの弟子であって、ハルマゲドンを通して弾圧を乗り越えて、自分たちの世の中が来る、といったような予言の世界観です。

 そして、この年の4月29日、麻原は、次のように、世の中が破壊されていくという説法をしています。
 4月、細川政権が予言どおり倒れ、そしてこの羽田政権が成立した。そして、政局その他は今回の細川から羽田への移行、こういうものではない、もっとより混迷、というより、ぐちゃぐちゃな状態にこの日本はいよいよ突入する。これらはすべてフリーメーソンの計画どおり進められている。
 では、フリーメーソンはなぜこのぐちゃぐちゃな状態を作ろうとしているのかというと、彼らはもともと人間ではこの地上、地球というものはコントロールできず――ここでいう「コントロール」とは支配という意味だが――支配できず、そしてそれゆえに聖書の予言あるいはノストラダムスの予言、あるいはいろいろな聖者方の予言等を研究し、この世の中をぐちゃぐちゃにし、最終戦争に対しての準備を行なっていると。最終戦争に対する準備とは何かというと、これはまさにその最終戦争をクリアしない限り、キリストの統治がないと彼らは考えているからである。
 これこそがまさに聖書の予言の成就であり、そして自分たちが静かにこの地球で神へ至る道を歩くことができるただ一つの道である、と彼らは考えているのである。
 また、同じ趣旨の説法ですが、これに先だつ前年(1993年)1月31日には、次のように話していました。
 フリーメーソンはキリストを探し求めていたと。なぜかというと「魂が進化する系譜においては、必ずキリストの存在というものが必要である」ということだね。で、次に、キリストはどのような事業をなすか、という予言詩がある。そしてその予言詩は確実に一つ一つ消化されていっている。それに合わせて、フリーメーソンも世界の動きを一つ一つそれに合わせている。

 ではなぜ、その必要があるのかというと、それは人類が進化しない限り、今の人類はすべて滅亡するからである。ではなぜ、すべて滅亡するのかと。それはわたしたちがあまりにも欲望的な生活をしすぎているがあまり、この地球の統制機構、例えば空気、あるいは大気と日光との関係、その他によって必ず滅亡しなければならないんだということ。で、それをくい止めるためには、より進化した魂の系譜の一群が降りてくるはずである。それがキリストである。キリストとキリストの弟子たちである。そしてその弟子たちによって、この地球は進化系に移行する。


 「おいおい、そんなこと言わなくたって、別に大丈夫じゃないか」「今だってわたしたちは生きているじゃないか」と言うかもしれない。しかし、これは、大宇宙真理占星学を研究してはっきりわかったことだが、どんなに狂いがあっても今から二千年後、人類は滅亡します。じゃ、何によって滅亡するのかというと、地磁気の逆転によって滅亡する。そしてこれは、過去の地球の歴史を見ても明らかである。

 ということは、長い目で、つまり、今の人類の子孫の系統をしっかり考えられるような智慧の持ち主である、今の魂の中で最も優れたフリーメーソンが何を考えるかというと、この地球人類をどのようにして生き残らせ、進化させるかを考えるはずである。そしてそのためのチャンスは一度だけ存在する。それは、キリストがこの世に登場したときである。そのときに、要するに淘汰された魂が、新しい進化系の流れに乗り、そして、例えば地軸が逆転したにしろしないにしろ、要するにこの地球は滅びるわけだから、滅びるときにも滅びないような系統を樹立しようと考える。これが、フリーメーソンがキリストを探し、そして「キリストが存在したら」ということを確信して、どんどん世界を――要するに、ある意味で破滅の方向、別の言い方をすれば破滅から進化の方向へ導いているゆえんである。
 これらは、一見すると教団とは別の組織(フリーメーソン)の見解を述べているようですが、自分が既存の社会を破壊しようとしている計画を暴露するわけにはいかない麻原としては、自分の行為を他人の行為のように表現していたのかもしれません。

 事実として、麻原は、自分の前生がアメリカのフリーメーソンであったと別の説法で語っているのであり、時にはフリーメーソンを敵視しながらも、時には、この説法のように、ある意味で、自分であるキリストを信じる存在と位置づけて、説法していました。

 キリストの統治する理想的な世界を実現するためには、ハルマゲドンによっていったん世界を破滅させ人類を淘汰しなければならないという「フリーメーソン」の考えは、現に自らをキリストと宣言し、ハルマゲドンを自ら引き起こし、キリストの弟子たる一部の信者だけを生き残らせようとしてきた麻原の現実の行動と、ぴったり一致しているのです。

 ここからもわかるとおり、最終戦争を経なければキリストの統治がないという考え方は、一般信者の多くにも(少なくとも潜在的には)最終戦争――ハルマゲドンを待望させることになったと考えられます。

 そして、ハルマゲドンの破局を盲信したり、待望したりする心理状態も、麻原に呼ばれて無差別大量殺人を含めた犯罪行為の指示を受けた者が、それに無思考に従っていった要因の一つになったと思われます。

 こうした、社会に弾圧を受けているという被害妄想と、弾圧と戦ってこそ自分たちのキリストの理想の世界が訪れるといった誇大妄想にはまり、何者かと戦わなければならないと思っていた信者も多いことでしょう。ですから、実際に一連の事件の犯行に及んだ信者以外にも、仮に麻原に指示されたならば同じような行為に及んでいた可能性がある信者が多く存在したのではないかと思います。

【11】「1995年(平成7年)」

■毒ガス製造隠蔽のために第三者を攻撃

 1995年1月1日、『読売新聞』朝刊は、上九一色村でサリン残留物が検出されたと第一面で報道しました。記事には、前年の松本サリン事件が発生した長野県松本市と、隣接する山梨県の上九一色村の位置関係が図示され、事件の犯人は、オウム真理教と印象づけるものでした。

 これに麻原ら教団の上層部は危機感を持ち、教団への疑惑をそらすための記者会見を開きました。毒ガス攻撃を受けているのは教団の方であるとして、信者に生じている健康被害のデータを公表するとともに、教団への攻撃の犯人は、上九一色村の教団施設に近い肥料業者であると名指ししました。

 その根拠としたのは、肥料業者と教団施設との間の草が枯れていたことのみであり、毒ガスを風に乗せて教団施設を攻撃していると主張して、その肥料業者を殺人罪で告訴するという行為に及びました。

 このように、教団は自分の罪を隠すために、まったく罪のない第三者を毒ガス噴霧の犯人に仕立て上げるという所業を行ったのですが、これは、あまりにも自己中心的で非道な行いでした。

 翌2月、肥料業者は、当然のことですが、教団側を名誉毀損罪と誣告(虚偽告訴)罪で告訴してきたので、その後、教団関係者は、警察から事情聴取を受けることになりました。
 
 また、TBS、朝日新聞、新潮社、小学館などのマスコミも、教団が毒ガス製造をしているかのような印象を与える報道を行いましたので、教団はこれを名誉毀損として訴える民事訴訟を連発するなど、なりふり構わぬ自己防衛を繰り返したのでした。

■サリンプラント・第7サティアンの偽装工作

 また、教団は、上九一色村の第7サティアンがサリンプラントであることを隠蔽するため、プラントを覆うようにして内部に壁を作り、その表面に大きな張りぼての仏像を設置して、あたかも神殿であるかのように偽装する工事を行いました。

 そして、その当時教団に好意的な見解を示していた宗教学者の島田裕巳氏(当時・日本女子大助教授)を招待して、内部に案内したのでした。その取材に基づき、島田氏は、「第7サティアンは神聖な宗教施設だった」とする記事を月刊雑誌に掲載しました。
 しかし、後の強制捜査で、第7サティアンの偽装工作が明らかになり、島田氏の立場を非常に悪くすることになりました。

 このように、組織防衛のために、敵対的な第三者を攻撃するだけではなくて、自らに好意的・協力的だった第三者までをも欺いて利用することを正当化するほどに、教団は独善的・自己中心的になっていました。

■阪神大震災を予言していたと主張

 1月17日、阪神大震災が発生すると、麻原は、事前にこれをラジオで予言していたと主張し、大量のビラを配布するなどして盛んに宣伝しました。

 しかし、実際には、弟子の信者がコンピューターの占星学プログラムを用いて、1995年に地震が発生する可能性の高い地域の二つの中の一つに、神戸を挙げたところに、麻原が神戸を選んだというにすぎず、麻原の予言が的中したとまで言うのは誇張の側面があります。

 なお、麻原は、2月11日、
「今年の2月から11月までの間に――まあおそらく2月には来ないだろう――11月ぐらいまでの間に、北海道・東北・関東と、大地震が起きると。ロシアの政府がこれを80パーセントの確率で予言している以上、必ず日本の北海道、そして東北・関東は大ダメージを受けると」
と予言していましたが、これが的中しなかったことは周知の通りです。

■目黒公証役場事務長逮捕監禁致死事件(假谷事件・麻原有罪)

 2月28日、目黒公証役場事務長逮捕監禁致死事件が発生しました。いわゆる假谷事件です。

 事の発端は、当時オウム真理教に出家し多額の財産を布施する予定だった女性信者N氏が、突如姿を消してしまったことでした。教団側の調査の結果、N氏の兄であり目黒公証役場事務長である假谷清志氏が、N氏の居場所を知っているらしいということがわかったので、麻原は、假谷氏を拉致してN氏の居場所を強制的に聞き出すことにしました。そして、2月28日、假谷氏の勤務先路上で、中村昇氏、井上嘉浩氏、平田悟氏、高橋克也氏、平田信氏、松本剛氏、井田喜広氏、中川智正氏らの幹部が待ち伏せし、帰宅途中の假谷氏を車に押し込んで連れ去りました。

 この後、中川氏と林郁夫氏が、上九一色村の第2サティアンに運び込まれた假谷氏を半覚醒状態にした上で、N氏の居場所を聞き出そうと試みたものの、できませんでした。また、假谷氏の拉致を知った警視庁が教団に疑いをかけて捜査を始めているという情報が入ってきて、関係者に緊張が走りました。

 麻原は、假谷氏からN氏の居場所を聞き出すことができなかったことや、頭部に電気刺激を与えて記憶を消す方法(ニューナルコ)では教団に拉致されたという假谷氏の記憶を消すことができないと聞き、口封じのために假谷氏を殺害して、これまでと同様に、証拠隠滅のために、死体をマイクロ波焼却装置で焼却することを村井氏に指示しました。

 一方、こうして、假谷氏の処遇について検討している間も、假谷氏の意識が回復しないように、麻酔薬の投与が続けられていましたが、3月1日午前11時頃、假谷氏は、大量投与された全身麻酔薬の副作用により死亡しました。その後、假谷氏の遺体は、教団のマイクロ波加熱装置で焼却され、本栖湖に遺棄されました。

 この後、事件に直接関与してはいなくともN氏や假谷氏関係の情報に少しでも触れた信者らに対しては、脳に電気ショックを与える記憶消去(ニューナルコ)が行われました。
 
 徹底的な証拠隠滅のために事件とは無関係な信者の記憶まで強制的に消してしまうという、きわめて非人道的な行いが教団内部に対しても行われたわけです。

 さらに、世間では、假谷氏を拉致したのはオウム真理教との疑いが広がり始めていましたので、教団はそれへの反論として、假谷さんを拉致したのは創価学会だと主張しました。

 拉致された假谷さんを乗せた車両が創価学会の施設のある方向に走り去ったという事実を根拠にそのような主張をし、ビラを作って大量配布したのです。

 これも、自らの罪を隠すために無関係の第三者に罪をなすりつけた卑劣なケースでした。

■『日出づる国、災い近し』でハルマゲドンを強調

 この時期、麻原は著書『日出づる国、災い近し』を刊行し、ハルマゲドンは近い、ハルマゲドンから助かりたければ教団に入って修行するしかない旨の主張を大規模に展開しました。同書の宣伝ビラを大量に印刷し、日本全国で配布したのです。

 同書の中では、それまで麻原が行った数々のハルマゲドン予言が一斉に紹介されています。例えば次のようなものです。
◎一九九九年、世界規模の戦争勃発
 一九九九年八月一日前後が運命の分かれ目だ。この日はハルマゲドンが勃発する日なのだ。世界経済が行き詰まり、生きていけないという窮地に陥ったときに、世界的規模の戦争が始まる。アメリカ、ロシア、中近東を中心とするイスラム諸国、日本が、正面切ってぶつかり合う激しい戦争となるだろう。(『滅亡から虚空へ』オウム出版より)

◎恐怖の大王が降ってくる
 一九九九年九月二日、三日に必ずや大いなる現象が起きるはずである。で、この時もはや天からマナが降ってこない。じゃ、何が降ってくるんだという問題が出てくる。きっとマナの代わりに恐怖の大王が降ってくるんだね、これは。で、このマナというのは何かというと、これは天の恵みである。で、その反対の言葉として、恐怖の大王が取り上げられているわけであるから、これはやはり天変地異と見るべきであろう。 (九一年十一月三十日 於・京都市東部文化会館)

◎核戦争のヴィジョン1
 今から四日前、アストラル世界において、放射能を浴びるヴィジョンを見た。これは九七年から二○○一年にかけて必ず起きるであろう核戦争の疑似体験であると考えている。そのときわたしの状態は、端から見て何の変化もない。しかし、自分自身では明らかに放射能の影響を受けているという体験であった。周りに数名の弟子たちがいて、数名の弟子たちは一部ただれが起きていたりといった状態があった。間違いなく、最終戦争と呼ばれる戦争は起きる。しかも、それは九七年から二○○一年の間に必ず起きる。戦争のポイントはどこか。それは中東である。そして前回行なわれた湾岸戦争は、その模擬戦争であると考えるべきである。(九二年九月二十七日 於・富士山総本部)

◎九七年、ハルマゲドン勃発!
 わたしの研究はいよいよノストラダムスについても、最後を迎えてきている。それによると、九七年ハルマゲドンである。九七年、間違いなく、ハルマゲドンが起きるであろう。これは単純な理論で、詩の九十七番にそれがあるからだってことだね。
 一般的には、「ハルマゲドン」イコール「最終戦争」という考え方を持つ。しかし実際そうではない。ハルマゲドンは、あくまでも「ハルマゲドン」と呼ばれるエリアでの戦いである。しかもそれは、世界大戦の様相は秘めているが、まだそのときにはアメリカ、あるいはイギリス、フランスといった国々に力が残されていることは間違いないし、このときにまだ世界が認めるキリストは登場しない。(九三年三月二十日 於・横浜支部)

◎第三次世界大戦は必ず起こる
 必ず、第三次世界大戦は起きます。これはわたしの宗教生命を賭けてもいい。必ず起きます。(九三年四月十日 於・福岡支部)
 このように、ハルマゲドンが起きる時期について、当初は1999年としていましたが、次第に1997年と述べるようになり、時期が早まっています。しかも、自身の宗教生命を賭けるとまで断言しています。

 このことから麻原は、極めて強い意思をもって、武装化した教団をもって早期にハルマゲドンを自ら起こすことを考えていたことがうかがえます。

 もちろん大部分の信者には知るよしもないことでしたが、こうした緊迫した空気の中で、皆がいっそう麻原に帰依する雰囲気を盛り上げていったのは事実でした。

■地下鉄サリン事件(殺人罪・殺人未遂罪で麻原有罪)

 こうしたハルマゲドンに向けての緊張が高まっていたさなかの3月20日、地下鉄サリン事件が発生しました。

 判決等によれば、その2日前の3月18日、麻原のリムジンの中で、麻原、村井氏、井上氏、遠藤氏、青山氏ら幹部が、事件の謀議をしました。上記の假谷事件の疑惑が教団に向けられており、強制捜査の危険性が高まっていたことから、捜査を延期させる手だてについて話し合っていました。その結果、その年の1月に発生した阪神大震災によって、当時教団に予定されていた強制捜査がなくなったという事例にならい、地下鉄にサリンを散布してパニックを起こし、強制捜査を防ぐか延期させるという案が出されました。この計画は、その後、実行に移されました。

 その内容は、3月20日の朝の通勤時間に、警視庁に近接した霞ヶ関駅を通る地下鉄車内(3つの路線の5本の電車)でサリンを散布するというものでした。散布方法は、ポリエチレン袋に注入し封をされたサリンを(生成したのは遠藤氏、中川氏、土谷氏など)、尖った傘の先で突いて漏出させ発散させるというものでした。

 5つの路線における散布役と散布役を送迎する運転手が以下のように選定されました。

Ⅰ、日比谷線中目黒行き
 散布役――林泰男氏、運転手――杉本繁郎氏
Ⅱ、日比谷線東武動物公園行き
 散布役――豊田亨氏、運転手――高橋克也氏
Ⅲ、丸の内線荻窪行き
 散布役――広瀬健一氏、運転手――北村浩一氏
Ⅳ、千代田線代々木上原行き
 散布役――林郁夫氏、運転手――新實智光氏
Ⅴ、丸の内線池袋行き
 散布役――横山真人氏、運転手――外崎清隆氏

 犯行は上記の計画通り実行され、Ⅰの路線では8名、Ⅱでは1名、Ⅲでは1名、Ⅳでは2名が死亡し、Ⅴでは死者は出ませんでした(死者計12名)が、このほかに5000名を超える負傷者を出す大惨事となったのでした。

 この事件は盛んに報道され、教団内でもかなりの騒ぎになりました。

 むろん、この事件についても、ごく一部の実行犯を除く、ほぼ全員の一般信者は、教団の関与を事前には知らされておらず、また事後にも知らされませんでした。

 大部分の一般信者は、従前に麻原から聞かされていた「教団こそ毒ガス攻撃の被害者である」という説法や、前年に発生していた「松本サリン事件は闇の勢力 (世界を支配する秘密結社等)による日本攻撃の一環である」という教団内の通説を信じ込み、地下鉄サリン事件も同様の陰謀によって起こされた事件だと当初は受け取っていました。

 ましてや教団が引き起こした事件などとは、夢にも思っていなかったのです。

 麻原も、教団外はもとより教団内に対しても、教団は事件と無関係であると訴え続けました。

 教団が事件に関与しているのではないかという疑いは、事件発生当日から生じており、マスコミの間で「犯人はオウムだ」との推測が早々と流れていました。そこで、その情報をキャッチした広報担当の出家信者が、麻原に報告したところ、麻原は広報担当者に対して、「そこまでして国家権力はオウムを潰したいのか。毒ガス攻撃を受けているのはオウムの方なのだ」と電話で話していました。

 しかし、そのときほぼ同時に、麻原は、上九一色村の教団施設に戻ってきていた事件の実行犯に対しては、おはぎやジュースを出して労をねぎらうとともに、「シヴァ大神にポワされてよかったね」というマントラを実行犯らに唱えさせていたということが、裁判の過程等で明らかになっています。

 このことから、麻原は、実行犯以外の大部分を占める一般信者に対しても、あくまで事件関与を隠し通すつもりだったことがわかります。

 また、その後も、麻原は、教団のラジオ放送などを通じて、無実を訴えていきました。

■強制捜査の開始

 地下鉄サリン事件から2日経った3月22日には、富士山麓をはじめとする全国の教団施設に対して、大規模な強制捜査(家宅捜索)が初めて一斉に行われました。

 警察としては地下鉄サリン事件とは関係なく、以前から準備していた捜査のようですが、当時の教団の大部分の一般信者からすれば、2日前の地下鉄サリン事件を教団の仕業にでっち上げた上で教団を弾圧するための、不当きわまりない捜査であるかのように見えたのでした。

  何百もの捜査員が迷彩服やガスマスクを装着して施設を取り囲み突入してくる異様な光景や、単に施設の責任者であるということだけで幹部信者が逮捕されていった事実をまのあたりにして、一般信者らは、自分たちは一方的に弾圧されているという被害感情を高ぶらせていくことになりました。

  捜査の結果、教団施設内から大量の薬品類が発見されたのですが、これらについて麻原は、陶器作成のために用いるもの等と釈明するなどして、教団のラジオ放送や、NHKのテレビ放送(録画したビデオを提供する形で放映)を通じて、教団の無実を内外に訴え続けました。

 そして、捜索に訪れる警察官らに対して「宗教弾圧をやめろ、支配流転双生児天(閻魔大王のこと)の裁きで地獄に堕ちるぞ」という言葉を浴びせるようにと出家信者に指示したことから、出家信者らはその通り実行したのでした。

■麻原、強制捜査を宗教弾圧と主張

 強制捜査の翌日(3月23日)には、麻原は教団のラジオ放送で次のように述べています。
 オウム真理教の信徒諸君。あなた方は、三月二十二日に行なわれた東京および上九での、二千五百人の警官を動員しての強制捜査をご覧になられたかな?
 君たちは、もし、しっかりと教義を学んでいるとするならば、『ノストラダムス秘密の大予言』の中に、「今までの弾圧は弾圧ではなく、それをはるかに超えた弾圧がある」という内容の主旨の予言を思い出したはずである。オウム真理教が真の至福・幸福を説く教団であるとするならば、当然、それはイエス・キリストが受けた苦しみ、そしてサキャ神賢も成道なさり、ある時期にコーサラ国において同じ憂き目を経験していらっしゃる。
 では、それはなぜか。それはまさに、仏教的な言葉を使うならば「マーラ」、キリスト教的な言葉を使うならば「ルシファー」が戦いを挑んでくるからである。もちろん、このルシファーは非常に強い敵であるから、そこで物理的な打撃を経験しなければならない。
 しかし、この経験は、カルマの法則を理解している者であるならば、「それはまさに、次の教団の救済計画の拡大のために必要なプロセスである」ということを理解できるはずである。
 例えば、今、日本の最大宗教、圧倒的な力を誇る宗教として挙げられる創価学会はどうだったか。オウム真理教ほど強く、激しくは叩かれなかったが、しかし創価学会は、かなりのマスコミによって、やはり叩かれた。これは創価学会の要素に、大きくなるだけの要素が潜んでいるからである。
 オウム真理教はどうか。それ以上に拡大する要素が潜んでいるがゆえに、必死になって、ルシファーの手先であるマスコミ、あるいは国家権力が叩くのである。
 このように、麻原は、地下鉄サリン事件に対する正当な強制捜査に対しても、マーラ=悪魔による宗教弾圧と主張したのです。

 假谷事件の強制捜査を引き延ばすために行ったつもりの地下鉄サリン事件が、かえって教団への大規模な捜査を招いたのですから、麻原としては相当の焦りがあったものと思われます。

 しかし、このような状況になることは通常人なら誰でも容易に推測できるのですから、このときの麻原は精神的に明らかに異常だったとしか言いようがありません。

■上祐ロシア支部長が帰国、緊急対策本部長へ

 前年からロシアでの布教を担当してモスクワに赴任していた上祐ロシア支部長(当時)は、日本に戻って広報を担当するようにとの麻原の指示を受けて急きょ帰国し、一連の警察捜査やマスコミ取材に対応するための部署として、緊急対策本部を設置し、自らその本部長となりました。

 緊急対策本部は、東京都港区青山にあったオウム真理教東京総本部道場に置かれ、同道場の周辺は24時間、マスコミや警備の警察が取り囲む騒然たる状況となりました。

 上祐氏は、この後、多数のマスコミに登場し、教団と事件とは無関係との趣旨で、虚偽の発表をし続けますが、その詳細については本人の総括をご覧下さい。

■警察庁長官銃撃から村井氏刺殺事件へ

 3月30日には、国松警察庁長官が何者かによって銃撃されるという事件が発生し、当然のことながらこれもオウムの犯行に違いないと、世論は沸騰しました。
 これを見た一般信者は、教団が人殺しなどするわけがない、これこそ教団を陥れる謀略に違いないと確信を深めていきました。
 さらに4月23日には、科学部門のトップだった村井秀夫氏が、東京青山総本部道場の前で暴漢に刺殺されるという事件が起き、一般信者は立て続けに起きる異常な出来事に直面して、ますます被害者意識を強めていくことになりました。

■第7サティアンの偽装発表など

 この時期、未完成のサリンプラントがあった第7サティアンに対する捜査が進んできたことから、教団は、これを農薬プラントにすぎないと偽る発表を行いました。
 そのために、外国から専門家を招いて第7サティアンを見学させ、「この施設ではサリンの製造はできない」と発表させることまでしました。
 第7サティアンがサリンプラントであったことは、麻原をはじめとする関与者や上祐氏などの一部の上層部しか知らないことで、それ以外の社会一般や一般信者には、あくまでも農薬プラントとして偽装していく方針だったのです。
 ですから、当時の教団編集部は、上層部からの説明をそのまま信じ込み、その指示を受けて、「第7サティアンはサリンプラントではない。外国の専門家も証明」などと記した機関紙を作成し、それを出家信者が総出で全国の都市にポスティングしていきました。
 その他にも、いかに今回の捜査が悪質な宗教弾圧であるかを訴える機関紙やビラを大量に作成し、全国の家庭に配付し、あるいは街頭で配布するなどしていったのです。

■麻原や多数の信者の逮捕

 そのような活動を展開していたさなかの5月15日、麻原が地下鉄サリン事件の容疑で逮捕され、一般信者の被害者意識は一つのピークを迎えます。
  以上に記したとおり、地下鉄サリン事件を教団が起こしたということ自体が、不殺生の戒律を守ってきた自分たちの従来の生活からして信じられないことに加え、何よりの権威である麻原自身が事件関与を否定し、それどころか国家の謀略と訴えていました。さらに、警察庁長官銃撃事件もオウムの仕業とされ、村井氏も殺害されるという緊迫した状況が続いた後で、麻原の逮捕となりましたから、大部分の一般信者にとっては、自分たちこそ被害者なのだという意識が高じていく一方だったのです。
 この時期、教団では、前記の機関紙やビラのほか、『亡国日本の悲しみ』という書籍を発行しました。
 これは、麻原の最後の著書となったもので、仏教の聖者を迫害した者がどれだけ悲惨な末路をたどるかを記した仏典を引用しながら、オウム真理教への違法不当な弾圧は日本の国を滅ぼす結果を招くだろうという趣旨が書かれていました。
 そのときの一般信者の多くは、まさにこの書籍に書かれている意識状態そのものだったといえます。
 
■少しずつ報じられ始めた事件の真相

 その一方、報道を通じて、事件の真相が少しずつ語られるようになってきました。
 5月には、林郁夫氏が地下鉄サリン事件の全貌を自供したと報じられました。
 また、9月になると、実行犯の自供に基づき、教団内では長年教団とは無関係だとされてきた坂本弁護士事件の被害者である坂本弁護士ご一家の遺体が発見され、教団の犯行が裏付けられる結果となりました。
  このあたりから、事件の真相を知らされていなかった一般信者の一部に、ひょっとしたら教団は事件に関与していたのかもしれないという考えを持つ者も出てき ました。しかし、大部分の一般信者は、教団上層部の言うことを信じて、事件と教団は無関係、弾圧されているのは教団、という考えにとらわれていました。
 
■上祐氏の逮捕と新しい指導体制

 10月になると上祐氏が偽証容疑で逮捕され、「尊師」に次ぐ「正大師(せいたいし)」のステージの者が教団からいなくなりました(松本家の子息は除く)。
 そこで、「正大師」に次ぐ「正悟師(せいごし)」のステージにある者らが中心となって、教団の新しい指導体制を形成していくこととなりました。
 それまで上祐氏がいた青山総本部道場の部屋に、正悟師の村岡達子氏が移動し、村岡氏が教団の代表代行という地位につきました。そして、数名の正悟師と話し合って教団の最高意思を決定するという建前でしたが、実際には、獄中の麻原からのメッセージを受け取りながら、その意向に応じた教団運営をしていました。
 具体的には、獄中の麻原がメッセージを(当時の私選)弁護人に伝え、弁護人が村岡氏らの正悟師に伝え、さらに正悟師が、正悟師より一つ下のステージである「師」という中堅幹部層に伝えていき、麻原の意思を徹底するという形となっていました。
 
■社会との対決姿勢を示す「尊師メッセージ」

 その他、この時期に伝えられてきた「尊師メッセージ」は、国家社会とは妥協しなくてもよいという趣旨の、社会との対決姿勢を示すものでした。
 というのも、上祐氏が逮捕される直前までは、教団に破防法が適用されそうだという情報が流れていたため、麻原も態度を慎重にしており、上祐氏が主導しての社会への融和路線に賛意を示していました。
  しかし、10月になって朝日新聞が、教団への破防法適用の可能性が低いとも受け取れる報道を行ない、それを知った麻原は強気になったためか、一転して、上祐氏の推奨した方針を否定したのでした。その趣旨で、上祐本部長の逮捕後、麻原は、「上祐色をなくせ」というメッセージを教団に送ってきたのでした。
 なお、この「上祐色をなくせ」というメッセージが、2003年以降の教団分裂騒動の際に、反上祐派によって濫用されることになるのですが、それはまた後ほど詳述します。

■宗教法人解散と破防法手続きの開始

 1995年も終わりを迎える12月には、さらに教団への社会的圧迫が強まり、教団内を緊張した空気が支配するようになりました。
 12月19日に、宗教法人の解散命令が確定するとともに、翌20日には、公安調査庁が教団への破防法適用に向けての手続きを開始したからでした。
 宗教法人の解散は、宗教法人法上の利益を受けられなくなるだけで、組織の実体がなくなるわけではないので安心するようにとの話が信者になされましたが、破防法については、もし適用されたら実際に組織をバラバラにされてしまうということから、先行きの不安を訴える信者も少なからずいたのでした。
 なお、麻原からは、同氏が勾留されている警視庁本庁舎を周回すれば心が落ち着くだろうとのメッセージが寄せられていましたので、信者らは同氏への帰依を培い動揺を鎮めるために、盛んに警視庁本庁舎の周辺に赴いていました。

【12】「1996年(平成8年)」

■破防法と破産法による教団追及

 1996年になると、破防法の手続きが本格化していきました。
 1月18日には、村岡代表代行やその代理人弁護士らが公安調査庁に呼び出されて意見陳述をするという弁明手続きが始まりました。
 弁明手続きは複数回にわたって行われていきますが、公安調査庁は速やかに弁明手続きを終わらせ、教団へ破防法を適用しようという姿勢を見せていました。ですから、この時期から、多くの一般信者は、教団の解散と、解散後の修行の仕方について思いを巡らせていました。
 麻原からも、破防法が適用された場合は、破防法と法的に戦うグループと、それ以外のグループの2つに分かれ、それ以外のグループは6人で一組になって生活せよと具体的な指示メッセージが届けられていましたから、多くの信者は切迫感を感じていました。

  さらに3月には、オウム事件の被害者等から申し立てられていた破産手続きにおいて、裁判所がオウム真理教の破産を決定しました。教団の資産が破産管財人の もとに置かれ、処分されていくことが決まったのです。つまり、出家信者らにとって唯一の住居だった教団施設から退去せねばならない状況が現実に目前に迫ってきて、破防法とともに、切実な危機感をもたらしていました。

■麻原公判の開始

 4月24日、東京地裁で麻原の初公判が開かれ、同氏が久しぶりに公の場に出てくることになりました。これ以降、麻原の公判には、信者が交代で傍聴に訪れましたが、それは事件の真相を知るためではなく、あくまでグルである同氏の近くに行き、その姿を見て、帰依を培うためのものでした。
 その意味で、教団では麻原公判の傍聴を奨励していました。

■新たな指導体制――「長老部」

 5月には、破防法弁明手続きの場に、二度にわたって麻原が出席し、意見陳述をしました。その場で、麻原は、オウム真理教の教祖・代表を辞任することを表明するとともに、長男・次男を新たな教祖として指名する旨のメッセージを教団に伝えてきました。
 また、教団の運営は、麻原の子息と正悟師以上の者らによって最高指導部である「長老部」を構成することによって行うようにとのメッセージでした。この長老部の座長に指名されていたのは、麻原の三女(アーチャリーの宗教名で知られる)でした。
 つまり、まだ幼児にすぎなかった長男・次男を宗教上のシンボルである教祖に据え、現実的な運営は三女をトップとする長老部に行わせるというものでした。
 教団はこれ以降、2000年のアーレフ体制発足に至るまで、この長老部が指導していくことになりました。

■長老部の指導の問題点(1)――麻原と子息の神格化

 その後の長老部の指導はまとまりを欠いたものの、麻原のメッセージに基づいて、もっぱら長男・次男をはじめとする麻原の子息を神格化し、長男らへの帰依を強化することに置かれました。
 前記の通り、長男らを教祖に指名したのは麻原でしたが、長男らをグルとしてさらに持ち上げていったのは、もっぱら三女でした。理由は、破防法対策という面が強く、たとえば長男らは幼少なので麻原と面会して麻原の意向を確認できるし、また長男らであれば信者らに直接触れることができるということがありました。
 とにかく麻原からのメッセージは、長男をはじめとする子息への帰依と観想を指示するものでしたから、長老部による指導も、それまで絶対的存在であった麻原に等しい宗教的権威を長男ら子息に帯びさせるものでした。
 具体的には、長男・次男の教団内での正式呼称を「リンポチェ猊下」としましたが、リンポチェとは「活仏」という意味で、まさに生き仏としての位置づけを教祖たる長男・次男に与えていました。
 教団の祭壇には新たに長男・次男の写真を掲げ、礼拝し、教団の機関誌紙では、長男・次男について「新生・我らがグル」として、そのエピソードを盛んに取り上げていきました。たとえば、まだ幼いのに白髪が生えた、体から出血した等の出来事は、すべて私たち信者の悪業を吸収してくださっているからであると主張して、神格化を進めていったのでした。

 また、「次男は、チベットで阿弥陀仏の化身として尊崇される高僧パンチェン・ラマが死去して生まれ変わった存在である」という麻原の主張を強調して繰り返し、神格化を強化しました。
 しかし、かつて教団からの照会に対して、チベットのダライ・ラマ当局は、「パンチェン・ラマはチベットに転生することをあらゆる事柄は示唆している」という趣旨の回答をしてきており、パンチェン・ラマが次男に転生したという見方に対しては明らかに否定的でした。それにもかかわらず、そのような回答があったことは信者には明かさず、それを無視した主張を続けていたのでした。

  このような神格化のための一種の情報統制は、他の場面でも行われました。例えば、当時の教団では、麻原が破防法弁明手続で話した内容をプリントして信者に配付していましたが、麻原の発言のうち、一般社会に対してへりくだっているような表現は、グルの尊厳を傷つけるものとして、三女らが中心になって削除していたのです。

 こうして、麻原の子息や、麻原そのものをさらに神格化していったのが、長老部の教団運営でした。
 
■長老部の指導の問題点(2)――陰謀論の展開と事件の宗教的肯定

 その結果として、長老部の運営下においては、オウム事件に対する反省は、まったくといっていいほど行われませんでした。
 長老部を構成していたメンバー自身、一連の教団武装化や重大事件に関与しておらず、よく事情を知らなかったということもありますが、そうだとしても、もっと積極的に関係者に事情を聴いたり裁判結果を調査したりするなどして、事件について調べることも可能なはずでした。
 しかし、そうしたことは一切せず、教団ぐるみで、事件については「裁判が進行中なので何とも言えない」とだけ繰り返し、それどころか事件を宗教的に肯定するかのような話をしたりしていたのは、あきらかに誤りだったといわざるをえません。

 というのも、この時期になると、前述したとおり、一部の事件関与者が自白して事件の関与を認める発言をし始めていましたから、信者の一部には、教団の事件関与を知って動揺する者も出てきていました。
 ですから、各施設で、事件は教団を陥れる陰謀だと説明したり、あるいは、もし麻原が事件に関与していたとしても、それには宗教的に深い意味があったと考えるべきであるという説明をしたりする勉強会が開かれるようになっていたのです。
 そういうわけで、その後の信者は、脱会した者を除けば2つのタイプに分かれていったといえます。
 一つ目は、教団は事件に関与しておらず冤罪であり、不当な弾圧を受けていると考える者であり、二つ目は、教団は事件に関与しているが、それは麻原の何らかの深い宗教的考えに基づくものであるから反省する必要はないと考える者です。
 2003年に上祐代表がアーレフでの教団改革を始めるまでは、この2つのタイプの信者が混在する状況が続きました。

■長老部内の不和

 もっとも、その長老部自体も、内部の不和によって、その後は意見がなかなかまとまらない状態となっていきました。
 具体的には、一部子息間や一部正悟師間に不和があったり、正悟師と子息間で意見が対立したりなどした結果、会合自体があまり開かれなくなり、事件への反省・総括などとはほど遠い方向に教団は進んでいったのでした。
 とりわけ三女を中心とした子息側が、正悟師の意向を無視することが多くなり、多くの信者が三女側についていったという事実がありました。
 なぜなら、教団においては、全ての他のステージの者よりも、三女を含む子息の方がステージが高い特別な存在とされていたからです。

■観念崩壊セミナーの開催

 この年(1996年)の中頃になると、破産手続きの進行にともなう教団施設の明け渡しや、教団財政の悪化によって、施設を出て分散居住し、外部の企業にアルバイトなどで就労する出家信者が増えてきました。
 また、報道によって事件関与を知る信者も出てきたこともあり、三女を中心とした教団上層部は、信者の引き締めを目的として、厳しい修行セミナーを開催するに至りました。
 それは「観念崩壊セミナー」と題するもので、参加した出家信者に過度な精神的・肉体的負担を強いるものでした。出家信者数十名を一組として、交代で何度か行われましたが、その度ごとに負傷者が出るという異常なものでした。
 大人数で一人を取り込んで怒鳴り続けたり、両足を交差して座る蓮華座という厳しい座り方を長時間強いたり、男性信者を女装させて警備の警察官の前で踊らせたりするのはまだよい方でした。
 悪天候の中、連日屋外に放置して食事を与えない、食事を与えなかった状態でいきなり無理やり大量に食べさせ、吐いたら吐いたものをまた食べさせる、水を浴びせ続ける、単純な運動を長時間繰り返させる等の、行き過ぎた「修行」が課せられたのでした。
 その結果、救急車で搬送され、入院して両足を切断しかけるほどの重篤な症状になった者、その後も足に後遺症が出て足を引きずることになった者、転倒して頭を打って負傷した者、酸素吸入が必要な状況になった者、意識を失いあやうく死にかけた者、断食後の無理な食事で胃の手術を受けることになった者、熱射病に罹患する者が出るという異常事態となりました。
 このセミナーに強い精神的・肉体的なショックを受けて、そのまま脱会した者も多数出たほどでした。
 セミナーは三女らが主導して行い、セミナーを修了するためには三女の判定が必要だったことから、三女に多大な恐怖を感じるようになった出家信者が増えたといわれています。一方の三女らは、このようなセミナーを開いたのは、出家信者らに対する慈愛に基づくものであると話していました。
 ちょうどこの時期に論じられていた破防法適用は、翌年の1月に棄却されたのですが、そのような「奇跡」が生じたのも、この観念崩壊セミナーで出家信者のカルマ(悪業)が落とされ浄化されたからであると後から正当化されました。

 このような負傷者も出た過激な修行と、それを正当化する理論は、一連のオウム事件やそれを正当化する宗教的理論に通じるものがありました。
 
■事件を正当化した宗教的理論――「マハームドラー」

 前記の通り、仮に麻原が事件に関与しているとしても、それには深い宗教的な考えがあるとして肯定する勉強会が開かれていましたが、その基盤となったのが、「マハームドラー」の理論でした。
 それは、神秘的な能力を持ったグルが、弟子の煩悩(弱点)を見抜き、その弟子が嫌がることをわざわざさせた上で、その煩悩を乗り越えさせるという考え方でした。このことを、「グルが弟子にマハームドラーをかける」などと表現していました。
 つまり、弟子はグルによって嫌なことを強いられ(マハームドラーをかけられ)、それを乗り越えていくたびに、修行が進んでいくのです。たとえそれがどんなに理不尽なことであっても、どんなに疑問を感じることであっても、それはグルが弟子の修行を進めるために、あえて深いお考えがあって行っていることだと解釈して受け止めていくのです。その深い意味合いは、浅はかな弟子には理解できず、全てを見通しているグルにしか理解できないのです。
 さらにいうと、グルの命じることに疑いを差し挟むこと自体が、グルからかけられているマハームドラーの結果なのであって、その疑いを積極的に解消してグルへの帰依を培っていかなければならないと考えるようになります。

 この考え方が究極に達すると、グルが弟子に対して行っていること、させていることには、全て深い意味があるとして全面的に無思考に受け入れるようになりますし、弟子に対してだけではなく、無関係な一般の人に対して行っていることであっても、深い意味があると考えて、宗教的に肯定するようになってしまうのです。

 こうなってしまうと、グルのやることは何でもOKで、他人に対しても無制限に迷惑をかけるという、極めて危険なことになります。

 実際、このマハームドラーの理論を事件に当てはめて考えると、事件の実行犯は、逮捕されて精神的・肉体的苦痛を感じるものの、それを乗り越えることによって解脱に近づいていくという修行をグルから課せられているということになります。つまり、事件の実行犯は、グルから厳しい修行を課せられた、祝福された魂ということになります。

 また、事件で被害を受けた一般の方々も、そのような修行者の修行を進めるための尊い犠牲になって大いなる功徳を積んだ、あるいは、事件によって被害を受け、悪業が清算されて浄化され修行が進んだ、あるいは「麻原尊師」と深い縁 が結ばれて来世において救済される種を植え付けられた――ということになり、やはり深い意味があったということになるのです。

 それに少しでも疑問を差し挟んだりすれば、それ自体が、疑念という名の自分の煩悩を乗り越える機会をグルが与えてくれているということになりますから、ますますグルのやることには深い意味があったのだ、あったに違いないと思い込むようになり、無限のループに入り込んでいくことになります。

(※なお、上記のマハームドラーは、チベット仏教伝統のマハームドラーの本来の意義とは違った、当時の教団独特のものだったことをお断りしておきます)
 
■大部分の信者が事件を起こす可能性はあった

 信じられない恐るべき理論だと思いますが、グルに対する絶対視(依存)が究極的に進むと、このようになってしまうのです。
 むろん、前記の通り、大部分の一般信者はオウム事件に関与しておらず、知りもしなかったわけですが、後からこのような理論をもって事件を宗教的に肯定することが可能だったのも現実なのです。
 だとすれば、全ての信者とまでは断言できないものの、大部分の信者は、事前に知らされれば事件に関与していた可能性も否定できなかったということができます。
 
 現に、前記のとおり、観念崩壊セミナーにおいては、明らかに行き過ぎた危険な行為を集団で受け入れ、実施したのです。三女を神格化し、その指示に基づく行き過ぎた行為には深い宗教的な意味があると受け止め、負傷者まで出したものの、その後の破防法が棄却されるほどの浄化をもたらしてくれたと考え肯定されたのですから、オウム事件を宗教的に肯定する考え方と本質的には何ら違いはなかったことになります。

 そういう意味では、この観念崩壊セミナーは、地下鉄サリン事件などの重大事件が起きた後も、なお教団内に向けて行われた一つの「事件」なのであり、その後も事件を肯定する宗教的理論が教団内に存続していったことを示す一つの象徴だったということができます。
 そして、事件に関与しなかった者も、関与した者と同じような性質を持っていたことを示す出来事だったともいえます。

■分散居住と破防法への備え

 7月には、公安調査庁が公安審査委員会に対して、教団に破防法を適用し、解散させるよう求める申請を行いました。公安審査委員会による審査がスタートし、いつ教団が解散させられてもおかしくないという段階に入り、緊張が高まりました。
 11月には、破産手続きにともない、出家信者は全員、富士山麓の施設からの退去を余儀なくされ、各地に散っていきました。
 こういう状況の中、一般信者の間には、被害者意識が高まることはあっても、事件への真剣な反省をするという機運は生じるはずもなく、ひたすら、麻原やその子息への帰依を強める指導がなされていきました。
  このとき、破防法が教団に適用されたら見るように、との指示で、あるビデオが信者に配られました。それは『エンパワーメントビデオ』と題するもので、麻原の画像と音楽が延々と流れるというものでした。破防法適用後は、各自がひたすらこのビデオを見て、麻原に意識を集中するようにという趣旨でした。
 こうして、各地に散った信者の多くは、破防法適用は間近と考え、緊張の年末を迎えていくことになります。

【13】「1997年(平成9年)」

■教団への破防法適用棄却へ

 年が明けて、1月31日、公安審査委員会は教団に破防法を適用しないことを決定しました。将来も継続反復して団体の活動として暴力主義的破壊活動を繰り返す明らかなおそれまではないというのが、その理由でした。
 確かに、客観的に考えればその通りで、現に地下鉄サリン事件後13年間にわたって、そのような事件が全く起きていないことからしても、その判断は冷静で妥当なものだったといえますが、当時の世論からすれば信じられないような結論で、教団信者も驚きをもって迎えました。
 ただ、棄却された真の理由は、前述の通り、観念崩壊セミナーで多くの信者のカルマが浄化されたから、グルの祝福があったから等とされました。また、審査期間中に、公安審査委員の一人が急死されたのですが、教団内では「急死した委員は破防法適用賛成派だった。このタイミングに死んだのは、グルによるポワであり祝福だ」という話もありました。

 こういう感じでしたから、過去の事件への真摯な反省とは正反対の方向に行ってしまったのが現実でした。
 とはいえ、ここで破防法棄却を喜んで、また派手な活動を開始しては社会からの反発を招く懸念があるとのことで、しばらくは大人しくしておいた方がよいと上層部は判断したのでした。

■妄想の中に逃げ込み始めた麻原

 この1997年は、かつて麻原が「真理元年」と位置づけていたことから、教団に好都合な何か特別なことが起きるのではないかという期待が抱かれていました。これまで紹介してきた麻原の説法でも、97年にハルマゲドンが起きると説くものが多々ありました。

 しかし、現実に起きたことは、麻原による刑事公判での不規則発言でした。井上被告が麻原を批判する証言をしたのをきっかけにして、意味不明な発言を繰り返すようになり、裁判長から繰り返し退廷を命じられたり、拘置所内でも不可解な言動を示して拘置所職員を困らせたりするという行動をとるようになっていきました。
 また麻原は、法廷で「すでにハルマゲドンは起きた」旨の発言をするようにもなり、自らの予言は現実化したのだと妄想の中で主張し始めたのでした。これは、現実と向き合えない麻原が、自らの内側の妄想の世界に逃げ込んでいった結果として起きたことだと考えられます。

 一方、教団では引き続き信者に公判傍聴を推奨していましたが、傍聴した信者らは、このような麻原の不可解な言動には何か深い意味があるのではないかと考えました。上記のマハームドラーの理論そのものです。
 その結果、教団は、以前麻原が「私の空(意識)が世界に広がる」と予言していたことから、このような不規則発言は、麻原の意識が肉体を超越して世界に広がっていっている神秘的現象の証であるという、独特の解釈をするに至りました。

■個人崇拝のさらなる強化へ

 5月と8月には、在家信者を集めてのセミナーを再開するとともに、麻原やその子息への帰依が強化されていきました。
 麻原が東京拘置所に移って以降は、麻原からエネルギーをいただくためとして、東京拘置所の周囲を巡回して歩き回る修行を行う出家信者が増えました。

■パソコン事業で社会を欺く
 
 この時期になると、一時沈滞していた教団のパソコン事業が息を吹き返してきました。
 すなわち、外国から安い部品を購入して、人件費のかからない出家信者が組み立てたパソコンを、秋葉原等に店舗を出して格安で販売することによって、多大な利益を上げることができるようになっていきました。
 教団では、この事業を行う部門のことをCMP(シーエムピー)と呼んでいました。
 やがて、あるCMPの店舗では、1日の売り上げが500万円にまで達するようになりましたが、それにつれて「オウムの店ではないのか」「オウムに金を渡すな」等という社会的な批判も高まってきました。
 そこで教団では、これらの店舗について、「教団とは関係ない」「教団を脱会した元信者が経営しているもの」などとして、明白な虚偽を述べて、社会を欺き続けるということをしました。
 このような嘘をつき続けたことも、私たちが反省せねばならないことです。

 先ほどから、麻原やその子息を神格化してきたことを述べてきましたが、それはとりもなおさず、麻原やその子息を信じ、その弟子として働いている自分たち自身を神格化しているのと同じことだったのです。神の陣営に属している自分たちは、真理のためのお布施をするという崇高な役割を果たしているのだから、社会に対して嘘をついても構わないという傲慢な考え方だったのです。
 殺人事件のような重大な事件であっても宗教的に肯定していたのですから、嘘をつくくらいのことは当然に認められると考えていたわけです。
 
 また、嘘をつくだけではなくて、CMPは税金を払うこともきちんとしていなかったのですが、これも同様の傲慢な考え方から生じた過ちだったことを、懺悔しなければいけません。

【14】「1998年(平成10年)」

■全国的な施設確保へ

 1998年に入ると、教団は全国各地に居住施設を確保するようになっていきました。96年に富士山麓の施設を退去して以降、少人数ずつ各地に分散していたところを統合するためと、また、これまで居住していたところを追い出されるなどしたための代替物件を必要とするようになったからです。
 また、99年以降に起きると考えられていたハルマゲドン等の世界的な破局に備えるため、その避難所として用いる必要から、教団上層部の一部が山間部にシェルター施設を取得する動きを始めていました。
 これらの動きを可能にしたのが、CMPによる豊かな収益でした。
 今から考えれば、これらの収益は事件被害者への賠償に優先的に振り向けるべきでしたが、先に述べてきたとおり、事件への反省などはなく、自分たちのことしか考えていない状態でしたから、賠償などは思いもよらず、迷うことなく大型物件確保に資金を投入していたのでした。
 この動きが社会的反発を招き、教団への新たな規制法の成立を招くことになっていくのですが、それは後述します。

■破局予言の流布

 この時期から、特に一部の正悟師が、99年までに破局が起きる旨の予言を在家信者に話し、それに対応するよう説き始めました。
 具体的には「沖縄や九州が沈む」などと予言したりして、それを聞いた沖縄の在家信者が本土に引っ越してくるということがありました。
 その他にも、大規模な災害が起きるからと説いて、全国の在家信者を名古屋に集結させるということもありました。
 こうした破局予言をする背景には、麻原による予言の影響もあったと思われますが、それにもまして、自分たちの教団が置かれている閉塞的な状況が社会の破滅によって劇的に打破されていくのではないか、いや、そうなってほしい、自分たちだけは解放されたいという、ゆがんだ願望があったからであることも否定できません。
 これまで何度か引用してきた麻原の説法でも、キリスト(=麻原)の統治のためには、破局が必要である旨の話が何度かあったとおりです。
 現に、この98年末から99年初頭に一部の人を対象に行われたセミナーは、「ノアの方舟セミナー」と名付けられ、旧約聖書に記された神の天罰で、行いの正しかったノアとその一族だけが生き残ったという物語と自分たちとを重ね合わせていたのです。
 そのような自分勝手な願望こそ、実は自らの身を滅ぼすことになるのですが、それも後述していきます。

■非現実的な信徒倍増計画

 このような施設確保、資金確保に続いて、信者獲得の動きも強化されていきました。
 在家信者の指導を行っている全国の道場では、「信徒10万人計画」という明らかに非現実的な計画を掲げて、99年に向けて実行し始めました。
 事件への総括もないまま、教団に対する社会の不信や不安を考えないままに、このような計画が実現できると考えてしまうこと自体が、あまりに独善的な意識状態だったことを物語っているといえます。

■教団の偽装会社による詐欺的訴訟

 この頃、教団では、出版会社を設立して様々な書籍を販売していました。会社を構成していたのは、教団の出家信者らでしたが、対外的には、教団を脱会していることにし、会社も教団とは無関係と主張していました。
 これを教団の関連会社だと報じた新聞社に対しては、名誉毀損に基づく損害賠償請求訴訟を起こして賠償金を支払わせるということまで行っていました。
 これも、社会を欺きつつ収益を上げ続けた前記CMPと同じ性質の問題で、「真理の教団」の利益のためなら、外部にウソをついてもよく、それによって金銭を得るような詐欺的な訴訟を起こしても構わないという傲慢な考えだったのです。

■全国的な教団反対運動が発生

 12月末、教団が長野県北御牧村(現・東御市)に建物を取得し、内装工事に入ったのをきっかけにして、地元住民の皆さんが建物を24時間体制で取り囲み封鎖するという反対運動を始めました。
 中にいた信者らが実力で表に引っ張り出されて、信者が誰も近寄れない状態となったのです。
 結果的にこの物件は手放さざるを得なくなりましたが、これが大きく報道され、翌年にかけての全国的な教団反対運動の始まりとなりました。

 なお、この際、教団上層部は、信者の中から「決死隊」を募って、北御牧村の施設内に立てこもるという計画を立てていました。決死隊というと暴力的な印象ですが、要するに、村民の実力行使にひるむことなく、施設を守り続けるという趣旨でした。
 ただ、こうした用語を用いたり、こうした姿勢で臨んだりすること自体が、当時の教団の独善的・好戦的姿勢を示すものだったといえます。

【15】「1999年(平成11年)」

■全国に飛び火する教団反対運動

 1999年に入ると、反対運動はさらに拡大していきました。
 山梨県高根町に教団が取得した物件も、地元の反対にあい、地元に売却することで手放しました。
 茨城県三和町にもともとあった教団施設については、そこに新たに転入しようとした信者の転入届の受理が拒否され、住民登録がされないという事件が起きまし た。これが、全国の自治体に猛スピードで波及し、教団施設が存在しない極めて多数の自治体までもが、信者の転入届の不受理を公に宣言するに至りました。
 これは法律上は明らかに違法なのですが、当時、教団が全国に進出しようとしているかのような報道がなされていたので、教団進出におののく地元の不安を静めるための各自治体の苦肉の策だったと理解しています。
 これにより、教団の出家信者は施設間を移動するたびに転入届が不受理になり、住民票を喪失する信者が刻々と増えていきました。一時は100名以上の信者が住民票がない状態になりました。
 やがて、教団施設がある全国の自治体が「オウム真理教対策関係市町村連絡会」を結成し、全国規模の反対運動を連携して行っていくようになりました。

■反対運動への教団の対応

 これに対して教団では、地域問題緊急対策室という、全国の反対運動に対応するための部署を設置して対応を開始しました。
 「オウム真理教対策関係市町村連絡会」や各自治体に話し合いを申し入れたり、国に仲介を申し入れたり、記者会見やテレビ出演、ビラの配布等をしたりして、 教団に危険性はない旨を訴え続けました。しかし、当時の教団は、事件への真剣な反省や謝罪どころか、一部信者の事件関与すら正式に認めていなかったため、反発を招くだけで、反対運動は拡大する一方でした。
 そのうえ、教団へ理解を求めるビラ配りをしていた信者が、マンションに無断侵入したとして逮捕される事件が相次ぎ、家宅捜索など、警察による強制捜査が続発するようになっていきました。

■街頭パフォーマンスで批判を受ける

 こうしたさなか(99年5月頃)にも、新入信者を勧誘する道場活動の部門では、街頭で勧誘のためのパフォーマンス活動を派手に展開したため、さらに激しい社会的批判を受けることになりました。
 このあたりを振り返るに、教団全体で全くといっていいほど連携がとれていなかったことはむろん、それ以前に社会一般の気持ちというものに対する想像が全く欠けていたといわざるをえません。

■「サバイバル」に多額の金銭を消費

 地球規模の破局に備えて、教団が前年から避難のための施設を山間部に用意しつつあったことは前記の通りですが、それ以外にも、破局時の生き残りのために、様々なことがこの時期に行われました。
 これら一連の行動は「サバイバル活動」などと呼ばれましたが、たとえば1999年5月頃からは、物資の大量購入がなされました。米100トン、塩1トンなど用意し、出家信者全員が助かることを前提にし、ついでに在家信者も助かればよいという認識でした。
 それらの物資は、関東周辺の複数のコンテナに保管し、その場所は教団の中でもごくわずかな人しか知りませんでした。いざというときは、出家信者はいくつかのグループに分かれて、そこに行くというプランでした。
 ヘリコプターも買ったという情報があります。
 こうした物資購入には、CMPにおける多額の収入を費やしたのでした。

■1999年の予言が当たらず崩壊へ

 このようにして社会の猛反発を受けながらも、事件被害者には一切の賠償をせず、多額の金銭を投入してサバイバル活動を行ったのは、教団上層部や多くの信者が、麻原のある予言を頼りにしていたからでした。
 それは、
「1999年7の月にキリストが世界に散っている真理の弟子たちを呼び集める。」
というもので、麻原の著書『キリスト宣言PART2』に載っている予言です。
 つまり、1999年7月にはキリスト=麻原が世界中から弟子を集め、世界的な破局の中で教団の現状を打破するので、それまでは社会の批判にも耐え続けようということだったのです。
 しかし結局こうした予言は、全く当たることなく、やる気を失った信者らは、一人また一人と教団を脱会していったのでした。

■教団活動の「休眠宣言」

 一方、前記のような全国的な反対運動の盛り上がりを受けて、国は、教団を新たに規制するための法律(オウム新法)の制定に向けて動き出しました。
 こうした動きや、99年に起きると思われていた世界規模の破局が起きなかったことから、教団でも、ようやく事件について謝罪・賠償すべきではないかという現実的な議論が浮上してきました。
 しかし、長老部体制のもとでは、はっきりした意見がまとまらないまま、結局9月末に「休眠宣言」を記者会見で発表するにとどまりました。つまり、在家信者指導の道場活動や、新入信者の勧誘活動等をしばらく休止し、その間、出家信者らが中心になって今後のことを話し合うという趣旨でした。

 なお、このとき、道場活動は休止すると言いつつも、現実には、在家信者にABCのランク分けをして、絶対に公安当局に情報を流さない人に会って、お布施を受け取るということもしていました。また、一時閉鎖した教団道場の代わりに、在家信者の家を借りて道場施設の代替にしようとしたりしていました。こうして、教団は、この期に及んでも社会にウソをつき続けていたのでした。
 
■ようやく形式的な謝罪・賠償へ

 そして12月1日になって、教団は「教団正式見解」を発表しました。
 つまり、信者の一部が事件に関与していたことを認めて謝罪し、被害者賠償に取り組んでいくということを、1995年の地下鉄サリン事件から4年以上経って、ようやく表明したのでした。
 とはいえ、まだ麻原の事件関与までは認めておらず、被害者賠償の方法も具体化していなかったことから、テレビ出演した村岡代表代行らは、他の出演者から相当の追及を受け、まだまだ真剣な謝罪・反省にはほど遠いという印象を社会に与えました。
 正直なところ、この謝罪・賠償表明は、近々制定が予定されていたオウム新法をかわすために、苦し紛れに行った要素が強く、真の反省に基づくものとは到底言えませんでした。
 まだまだ信者の多くは、教団は事件に関与しておらず冤罪であるとか、事件に関与していても何かグルに深いお考えがあったに違いないと考えているかのいずれかだったので、到底反省できる状態ではなかったのです。

 こうした信者の意識状態に決定的な変化をもたらすことになったのが、12月29日に刑務所から出所して教団に復帰してきた上祐氏でした。
 オウム新法は、「無差別大量殺人行為を行なった団体の規制に関する法律」という名で、上祐氏が出所してくる2日前の12月27日に施行されましたが、これは上祐氏が教団に復帰することによって、教団が過激化していくことを恐れての措置でした。
 しかし、上祐氏が行っていったことは、抱かれていた恐れとは全く正反対のことでした。
 つまり、麻原も過ちを犯すこともある人間だったのだと信者らに語り、麻原への絶対視をやめさせることを始めていったのでした。
 それは2000年以降のアーレフの総括の中で詳説してあります。

■1995年から99年までを振り返って

 以上の通り、ごく一部の上層部を除いた大部分の一般信者は、95年の初めの段階では、教団の事件関与を全く信じていませんでした。
 しかし、裁判の進行とともに徐々に事件関与の事実がわかってくるにつれて、マハームドラーの考え方に基づいて、「グルには深いお考えがあったに違いない」 と考え、事件を宗教的に肯定するようになっていきました(または、事件は陰謀だと考え続ける信者も一方でいたことは、前記の通りです)。
 これはグルの神格化の結果といえますが、それはまた同時に自分自身を神格化していたということができます。ある特定の存在を神と認定できる能力が自分にあるということは、自分も神と等しいということになるからです。そこには限りない無智と傲慢が潜んでいます。
 あるいは、グルを否定することで、自らのアイデンティティーの崩壊を恐れるあまりに、遮二無二グルを肯定するしかない心理状態だったともいえるでしょう。
 しかし、こうしたことに気づかずに、事件を肯定し、自らをも神格化するあまりに、社会の不安を考えず、社会に対して嘘をつき、事件被害者に目もくれずに自らの利益だけを追求し、社会の滅亡と自分たちだけの生き残りを考えた結果、オウム新法という形で、結局は自らの破滅を招いたのでした。
 これが1999年までの私たちの実態でした。
 この傾向は、上祐代表が復帰してアーレフを設立した2000年以降、徐々に変化していくことになります。

 以上が、「オウムの会」から「オウム真理教」時代の教団の事実経過等でした。

カテゴリアーカイブ