【1】「1983年(昭和58年)~1985年(昭和60年)」
■オウム真理教の前身組織の設立松本智津夫死刑囚は、1983年夏「鳳凰慶林館」を設立し、初めて「麻原彰晃」と名乗り始めます。
続く1984年2月には、東京都渋谷区でヨーガ道場「オウムの会」を設立、同年5月には、株式会社「オウム」を設立しました。
■初の「空中浮揚」――誇大宣伝の始まり
麻原は、1985年2月、初めて空中浮揚をしたとされています。そして空中浮揚の写真が『プレイボーイ』などの一般雑誌に掲載され、それが後々の教団で大きく宣伝されていくことになります。
このうち、『プレイボーイ』誌は、同誌の記者が直接に空中浮揚の現場を取材した内容となっており、他の雑誌のものが、麻原側が撮った写真を雑誌社に持ち込んで、そのまま掲載されたと推察されるのに対して、客観性が高いと思われるものでした。
しかし、『プレイボーイ』の当該記事の担当記者に事の真偽を問い合わせたジャーナリストや弁護士などの複数の情報源によると、その写真は、実際には浮揚したのではなく、連続的に飛び跳ねる現象(ヨーガではダルドリーシッディといわれる)の一瞬をとらえたものであるにかかわらず、同誌の担当記者が空中浮揚ということにした方が面白いということで、そう掲載されたにすぎないと判断されます(※1)。
よって、これは明らかに誇大宣伝でしたが、こうした誇大宣伝は、その後の麻原や教団の傾向ともいえるものでした。
例えば、この空中浮揚を表紙の写真に用いた『超能力秘密の開発法』という麻原の処女作では、「全てが思いのままになる」といった宣伝文句が使われるとともに、麻原が、自身の超能力とヨーガの経典を根拠として、高い解脱のステージに到達しているといった主張が行われ、会員・信者の獲得に用いられました。
しかしながら、空中浮揚の写真の公表は、他のヨーガ行者(※2)も行っており、その中には、麻原以上に高く飛んでいる様子のものもあり、麻原特有のものではありません。また、そういった他のヨーガ行者は、自分が高い解脱の段階に到達したとか最終解脱したといった主張をしたり、自らを神格化したりはしていません。
また、麻原を指導したこともあるインドのヨーガ行者は、「解脱に至っていなくても、超能力が身につく修行の段階があり、麻原は、その段階で止まっており、解脱をしていない」という趣旨の証言をしています(※3)。
にもかかわらず、多くの信者は、麻原の超能力の宣伝によって、同氏を特別視・絶対視していったと思われます。
これは、麻原の誇大宣伝に加えて、当時の信者達が、
①ヨーガ修行・超能力について無智であったこと
②超能力などの超常現象が好きなために、信じ込みやすい傾向にあったこと
などが、その原因と思われます。
実際に、信者の中には、1995年の逮捕後も麻原が空中浮揚をして教団に復帰してくると考えた信者までいましたが、そういった意味では、麻原の超能力の宣伝を信じた側の信者の姿勢にも問題があったと考えられ、今後、同種の問題が社会に再発しないように、この総括が役立つことを祈ります。
なお、ひかりの輪では、麻原の超能力の有無やその意味合いに関して、
①麻原は、一定の霊的能力を発揮することがあったが、
②それは、麻原が、絶対であるとか、神の化身であるといった根拠では毛頭なく、
③常に発揮されたのではなく、発揮されなかった場合も多く見られ、
④この世には、そういった力を発揮する人達、いわゆる霊能力者は、まま存在しており、
⑤霊能力と高い人格は必ずしも同居せず、超能力者を解脱者と考えることは危険であり、
⑥麻原は、その典型であった、
という見方をしています。
■誇大妄想による武力行使思想の萌芽
1985年4月から5月にかけて、麻原は、神奈川県の三浦海岸で修行を行い、この際、天から神が降り、「アビラケツノミコトを任じる」と言われたとされます。
それは「神軍を率いる光の命」「戦いの中心となる者」という意味で、シャンバラのような王国、神仙の民(修行の結果、超能力を得た民)の国を築く必要性を強く感じたということです。これは「救済のスタート」として宣伝されました。
このように、極めて初期の頃から、すでに武力行使を容認する思想の萌芽が見られることがわかります。
これは、いわゆる「お告げ」に類するものであり、科学的には証明できないことであるにもかかわらず、絶対視する傾向が麻原には見られます。こうしたお告げやヴィジョン(幻視)を絶対視して突っ込んでいく傾向は、その後の麻原に一貫して見られる傾向でした。
そもそも、こうしたお告げやヴィジョンの類は、巨大な存在でありたいという麻原自身の(潜在的な)願望が現れ出たものと考えられます。それは後に述べていくような麻原の誇大妄想傾向からも、うかがい知ることができます。
■霊石収集とハルマゲドン予言の始まり
1985年6月、麻原は、岩手の五葉山にヒヒイロカネ(霊石の一種)の収集に行きます。その際、酒井勝軍(戦前の神秘研究家)と行動を共にした最後の生き残りから「今世紀末、ハルマゲドンが起こる。生き残るのは、慈悲深い神仙民族だ。指導者は日本から出現する」との予言を聞いたとされます。
この酒井予言も、麻原のハルマゲドン思想を形成した1つの要因と見られます。酒井予言に限らず、この時期には、社会の行き詰まりから様々な破滅思想が流行していました。
こうした流行思想の影響を、麻原も信者も受けていたと思われますが、具体的には、すでにこの時期、ノストラダムスの予言、ヨハネ黙示録の予言、ヒトラーの予言などの影響を受けていたことが、麻原の雑誌などへの投稿などからわかります。
そして、同年の夏頃には、麻原は、弟子の山本まゆみ氏・飯田エリ子氏・石井久子氏らに命じて、岩手から大量のヒヒイロカネを運び込んだ上、次のように宣言しています。
「2006年には核戦争の第一段階は終わっているだろう。核戦争は浄化の手段。だが"人が自分の分け前を割いて人に与えよう"と考えない限り、浄化はなくならない。私が目指すのは最終的な国、完璧な超能力者たちの国。超能力の獲得とは神に至る道だ。完全な超能力者の集団を作りシャンバラ(最高の聖者達が住む国)を確立すべく、自分を神に変える修行をした」(雑誌「トワイライトゾーン」より)。
こうした発言も、前記アビラケツノミコトのお告げと同様に、麻原の誇大妄想傾向の現われではないかと思われます。
■年末セミナーでの「シャクティーパット」
麻原は、1985年末から年始まで集中セミナーで100人以上を集め、シャクティーパット(霊的エネルギーの移入の儀式)を行いました。シャクティーパットは、その後、人々をオウムに惹きつける儀式として、麻原によって大々的に行われていくようになります。
この麻原のシャクティーパットについては、光を見た、熱を感じた等のエネルギー的な効果があったといった多くの信者の証言があり、その証言の事実自体は、外部のジャーナリストの取材などでも確認されています(※1)。
しかしながら、受け手が、何らかの霊的な体験・エネルギーを感じるような技法は、麻原以外にも、昨今いろいろな人々(例えばヒーラーとされる人達)が有しており、麻原のみができることではなく、同氏を絶対視・神格化する根拠では毛頭ありませんでした。
しかし、当時の日本の精神世界の中では、シャクティーパットというもの自体が珍しく、その意味で、信者が無智であったことと、麻原のやり方が、一人一人に相当の時間をかけるなど重厚であったために、信者が惹きつけられたものと思われます。
このシャクティーパット等で進められるエネルギーのヨーガは、ヨーガ修行においては認められています。ただし、エネルギーのもたらす霊的な体験と人格の成熟とは、必ずしも合致せず、両者をバランスよく進めなければならなかったところ、オウム真理教は、エネルギーのヨーガと、それに関連する身体行法に偏りすぎる傾向がありました(※4)。
霊的なエネルギーの偏重、霊的体験の偏重は危険であり、さもなくば、悟れないどころか大きな問題が起きるという考え方が、チベット仏教にもあります(※5)。この点は、ひかりの輪としても、十分に注意しなければならないと考えています。
シャクティーパットによるクンダリニー(尾てい骨に眠るとされる霊的エネルギー)覚醒はあり得ますが、その後どうなっていくかが重要でした。クンダリニーの覚醒と上昇で、自分の煩悩による詰まり(引っかかり)を自覚しつつ、精神的な悟りのプロセス、心のプロセスでそれを改善できるなら意味がありますが、そうでなければ危険であったことは上記の通りです。
■この時期は比較的穏健だった説法
ところで、この期間中の12月31日、麻原は以下の説法をしています。
そうですね。わたしも非常に難しいと思います。わたし自体がまあ、あまり得意じゃない分野だったから。で、本当にそれができるのは、カルマ・ヨーガかバクティ・ヨーガでしょうね。この説法にいう「他人の中に仏陀を見る」という考え方は、仏教的にきわめてまともで正統です。麻原も、当初は、武力行使的な思想を持つ一方で、このような考え方も重視していたと思われます。
例えば、あなたのことをシヴァ神の化身だとわたしが感じたとしましょう。あなたの中にシヴァ神がいると感じたとしましょう。
そうすると、わたしはあなたのために全力で尽くすわけですよ。わたしの信じてる神様だから。わかりますよね。だから持ち方なんです。
例えば、ここにOさんがいらっしゃると。Oさんに対してわたしが、これはOさんだと、ね。例えば、わたしより霊性が低いとか高いとか感じたとしましょう。そして、それによって壁を作ったと。
そうじゃなくて、例えば、「わたしが尊敬しているお釈迦様が心の中に住んでらっしゃるんだ」と思ったとしよう。
じゃ、どうして思えるかというと、例えば、Oさんの行為を見てらっしゃって素晴らしいとこが一つでもあったとしましょう。「あっ、これは仏陀の教えと等しいと。だから、この点に関しては、この人は仏陀と同じなんだ」と思ったとしましょう。(中略)
だから、例えばあなたの信じるものでいい。信じるものを相手の中に見いだしたときですね。いいでしょうか。
ただし、この説法の冒頭にもあるとおり、「非常に難しいこと」と自分で認めています。だからこそ、こうした考えはその後あまり強調されず、麻原のみを神格化する個人崇拝的なグルイズムを弟子に求めていったものと考えられます。
ところで、他人の中に仏陀を見るという考え方は、「カルマ・ヨーガ」といわれますが、麻原のその後を見る限り、麻原の言葉通り、カルマ・ヨーガの実践が浅かったといわざるをえず、それが一連の事件につながっていったと考えられます。
というのも、他人の良い要素を見て他人の中に仏陀を見るとすれば、他人の悪い要素を見た場合、他人の中に悪魔を見ることになってしまい、結局はその悪い他人をポワ(殺害)しろという考えになってしまうからです。
そうではなくて、他人の中の悪い要素は、自分の中の悪い要素が映し出されたものなのだと考えることによって、自分の虚栄心や傲慢を静めていかねばならないのですが、麻原や信者らには、それができていなかったと思われます。つまり、自分と他者とのつながりを考えておらず、自分と他者は全くの別物であるというように、物の見方が二元的になっていたのでしょう。
このようにして精神的な訓練を行うカルマ・ヨーガが不足する一方で、エネルギーを重視するクンダリニー・ヨーガに偏重したのは、教団の問題点でした。つまり、カルマ・ヨーガで精神的な訓練をしないうちにクンダリニー・ヨーガをすると、自分の願望をヴィジョンで見てしまい、それにとらわれてしまう可能性があるのです。
前記の通り麻原はそのパターンだったと思われますし、それを見抜けなかった信者にも、同様の責任があると考えます。
※1 ジャーナリストの調査は、『麻原彰晃の誕生』(高山文彦著・文春新書)
※2 空中浮揚の写真を公表している日本のヨーガ行者の例としては、成瀬雅春氏
(成瀬ヨーガグループ)などがいる。同氏は自らの解脱は全く主張していない。
※3 ここでのインドのヨーガ行者とは、マハリシ パイロット・ババ師。
この内容は、オウムの元信者で同師に接触した者が、聞き出したことである。
1986年に麻原は同師に接触し教えを請うたが、その後、袂を分かつ。
※4 パイロット・ババ師に接触した元信者によると、同師は、麻原の修行は身
体行法(ピンガラ気道)に偏りすぎたと語ったという。
※5 例えば、『虹の階梯』(ラマ・ケツンサンポ師など、中公文庫)