団体総括(テーマ別)

2.事件の要因に関する総括と今後の方針

【1】麻原と教団の神格化の総括と今後の思想・実践

 麻原が、前述のように変遷し違法行為へと暴走していった過程で、私たち多くの信者が、なぜ麻原を神格化し、麻原の指示に基づいて犯罪行為に至ったかという点について、その原因を総括して反省した上で、それを乗り越えるための今後の思想・実践を示したいと考えます。


(1)キリストの弟子、世界救済の中心にいたいというプライド、誇大妄想的な欲望があったことについて

 麻原がキリストであれば、信者らはキリストの弟子となり、世界救済の中心にいることになって、プライドは満たされます。自己の存在意義が満たされます。外部に対して絶対的優位に立つことができます。

 そこから、グルが神であってほしいと思う気持ちが強まり、神格化を進めていったのです。背景には、それまでによく見ていた、ヒーロー願望をかきたてる情報(アニメ)もあったと考えられます。

 当時の教団では、ただ入会して会員になっただけでも「真理と縁のある徳のある魂」となり、修行して成就者ともなれば、希有で高貴な魂の一員として、教団内で高い尊敬を受けることができました。

 社会で卑屈にさいなまれていた人も、教団に入ればエリート感情を満足させられましたし、社会でエリートだった人も、さらに高いプライドを満足させることができたのです。

 また、このプライド(誇大妄想)の裏返しとして、教団外に設定された「敵」に対する被害妄想も生じました。フリーメーソン、国家権力等の外敵を設定し、それから攻撃されているという被害妄想を形成すると、自己防衛本能により、結束力も高まり、その象徴としてのグルへの神格化が進んだのです。

 悪いことは他人のせいだと考える傾向の強い人が信者となり、こうした考えを助長したとも考えられます。外敵を設定したり、外に意識を向けると、内への分析や冷静な見方ができなくなるという点も注意すべきことでした。

 以上に基づいて、ひかりの輪では、信仰実践をする者が、自分の傲慢を極力滅するために、全ての人々・万物を神の現われと見なして尊重する思想を提唱しています。また、世界の救済は、特定の集団だけではなく、人類全体が皆で協力し合って行うべきものであるという理念を説いています。


(2)自分で考え、努力するのではなく、誰か完全な人に従いたいという依存心があったことについて

 自分の信じた人に従うだけで幸福になれるのではあれば、大変楽であり、そうした依存心が、信者の背景にはあったのではないかと思われます。すなわち、自分の幸福のために、自分が信じたグルが絶対であってほしいという信者側の欲求が、内側からグルの神格化を進めたと考えられます。

 その背景として、この現実の競争社会において、多かれ少なかれ、何かうまくいかずに行き詰まっており、卑屈になったり、物足りなさを感じたりして、それを打破するために、何らかの依存の対象を自分でも気づかないうちに求めていた人は少なくないと思います。

 また、オウムにはエリートも多いといわれますが、エリートとは、学校教育という教師・教科書を見習うという依存的な行為で地位を得たにすぎませんから、自分自身だけでは、理想を達成することはできないと感じ、エリートなるがゆえの大きなプライドを満たすために必要な依存の対象を求めていたとも考えられます。

 さらに、グルに無思考に従う傾向となった背景には、煩雑な人間関係を嫌がる傾向があったのではないかと思います。普通この人間社会では、相手が完全でない限り、人と摩擦し、もみ合わねばならないものです。

 しかし、教団内における「グルと弟子との一対一の関係」は、一人の人の言うことをただ単に聞いていればよいだけですから、少なからぬ人にとって、教団内の単純な人間関係は、少なくとも一時的には、非常に楽な人間関係の世界だったのだと思います。

 なお、出家教団については、出家者を社会から隔絶する閉鎖性、閉鎖的な情報空間が形成されていたことも、教団の教えや行動をおかしいとは思わせない、客観的な検証を不可能とする、神格化を進めた要因と言うことができると思います。

 しかし、これについても、根本的には、信者の依存心の結果として、麻原以外の情報が入らない世界を自ら受け入れて、それを良しとしたわけです。閉鎖的ではあっても、その中の教え・思想・規律に従う限りは、単純で煩わしさがなく、単に言われたことだけをやっていれば幸福になれるという気楽さや依存心の充足があってこそ、信者が自らそれを選択したのだと思います。

 その結果として、無思考に従う気楽さや怠惰の裏側で、将来の自分の幸福を破壊する大きな問題が進行し、それが1995年の一連の事件の発覚と麻原の逮捕・教団の破綻という形であらわれたと言えます。

 その意味で、過剰・安直に他に依存することで幸福になろうとする依存心や怠惰を超えて、現実の人間関係に対応する忍耐を持って生きていかねばなりませんでした。また、常に、自分自身の信念の是非を客観的に検証するために、外部に対する開放性も必要でした。
 
 その意味で、仏教を志そうとした以上は、グルイズムに過剰に頼ることなく、仏教開祖の釈迦牟尼の有名な教えである、「自灯明・法灯明」の法則、すなわち、(釈迦を含めた他人に頼るのではなくて)自己と法則をよりどころにすべきある、という教えの価値を再認識しなければならないと思います。

 また、オウムの出家教団については、出家という伝統的な仏教的な行為として、物欲・私有財産などの世俗の煩悩を抑制したところまでは肯定できるにしても、その中で、仏教の精神からかけ離れ、被害妄想と誇大妄想に満ちた終末思想の予言世界観にはまり込んで、社会と戦う方向に突き進んだ点については、非常に煩悩的になったことを深く反省しなければなりません。

 以上に基づいて、ひかりの輪では、自立的な思想・実践の原則を重視する理念・方針を掲げています。


(3)自分自身が麻原・教団からもたらされた(と思った)霊的な体験があったことについて

 麻原の指導に基づく修行によって、劇的な精神的・霊的体験がもたらされると、それだけで、麻原を神格化してしまいました。その体験をもたらしたものには二種あり、①通常のヨーガ行法等、②薬物によるものです。

 これらはいずれも、必ずしも麻原によらなくても、もたらされるものですが、①信者はそもそもがこうした超常的・霊的な体験を好む傾向があって、その体験と体験に導く者の価値を過大視・絶対視しやすい傾向があったということと、これに加えて、②そういった体験に関する幅広く正しい知識・体験がなく、免疫がなかったために、麻原唯一のものと絶対視してしまったと考えられ、今後の教訓としなければならないと思います。

 よって、ひかりの輪では、霊的・超常的な体験に関する冷静で正しい見方をするように提唱し、特に、霊的な体験ではなく、心の解放・自我意識の減少といった、人格の成熟を重視するように説いています。


(4)教団の宣伝や他の信者の体験による影響があったことについて

 自分自身の体験に限らず、他人が麻原の力でいろいろな体験をしたということを、口コミや出版物等で間接的に知らされて、それを信じ込むことによって、集団的に、麻原への神格化が進んだという面もありました。

 しかし、それらの体験は、例えば出版物などでは宣伝の意味で誇張された面も多々ありますし、また、口コミの場合も、帰依が称賛される教団の中では、各信者のプライドのために自ずと誇張される面もありました。一方で、麻原に否定的な事実や体験は、出版物においても、教団内の人間関係においても、隠されていきました。

 こうして、信者達は、信者同士の間で、互いが互いに対して、麻原を過大視する方向に誘導(強く言えば洗脳)しあった面があります。それは、一人一人の信者に麻原が具体的な指示をしなくても、麻原への帰依を最重視する教義に基づく教団の精神構造の中で、自ずと起こったものでした。
 
 また、一定の信者に対して霊的な体験をもたらすいわゆる霊能力が麻原にあったとしても、それは、普遍的な力ではなく、いわゆる縁ある人々にもたらされているものであって、全人類に等しくもたらされる体験とは限りません。このことを理解せず、麻原を世界を統治するキリストであるとする予言を信じたことも、大きな過ちでした。

 これに対して、ひかりの輪では、霊的な現象は、縁ある人同士の間では起こりえても、誰に対しても起こる普遍的なものではない可能性を重視して、自分の体験を一般化=絶対化しないことを原則としています。


(5)内外の有識者による麻原への評価・権威付けを獲得する教団の活動があったことについて

 麻原の権威は、麻原自身の超能力の宣伝だけではなく、多くの外部関係者が関わって形成されていきました。

 ダライ・ラマ法王を初めとするインド・チベットの海外の聖者や、中沢新一氏などの国内の有識者、外国政府の関係者、そして、新宗教ブームの中で、テレビ・雑誌等が盛んに麻原を取り上げたことも、麻原の権威・カリスマ・人気の向上の一因となりました。

 教団は、これらの評価・権威付けを得られるよう、多額の金銭の提供などの積極的な活動を行ない、聖者・要人との面会や称賛の言葉などを得られると、その背景や状況を無視して、積極的に宣伝に活用しました。本文にも記したとおり、麻原は、「誰かを売り出す際には、確立された権威を利用していくのだ」と語っていました。

 こうした教団側のやり方に信者は騙された面がありますが、一部には、信者達が、宗教世界を信じるがゆえに、一般の人よりもはるかに海外の聖者というものを過大視して、彼らが神通力によって麻原のステージを見抜く間違いのない存在であると思いこんでしまったという問題もありました。

 これについては、いかに高名な聖者であろうとも、人は人であって全知の神ではなく、麻原のその後の蛮行を予見できない場合もあるという事実を示しています。

 そして、このさらに奥にある根本的な原因・背景としては、信者達に、依存心を背景として、権威によって安易に物事の是非を判断して、楽に幸福になろうとするという権威主義的な傾向があったとも思われます。以上のことは深く反省しなければならないと思います。

 このようなことからも、ひかりの輪では、人を神としないという原理原則を唱えており、(上祐代表を含めたひかりの輪の)指導員との接し方においても、上祐代表らが自ら、他人に学ぶことは重要であるが、対象を絶対視しないで学ぶ(どんな人にも何か間違っているところがある、という考えをもって学ぶ)ことなどを提唱しています。


(6)ハルマゲドン・救世主の登場を自然とした当時の社会状況があったことについて

 当時は、20世紀末の時代の中で、ノストラダムスを含めて、終末思想的な予言等が、社会の中に、相当広く流行し、それに関する書籍、アニメーション、SF映画が非常に多く作られていました。
 
 そして、それらを積極的に採り入れていったのが、麻原・オウム真理教であり、その中には、ノストラダムス、ヨハネ黙示録、ヒトラー、エドガー・ケーシー、ジーン・ディクソン、酒井勝軍、出口王仁三郎といった予言者、そして、ハルマゲドンを舞台とする宇宙戦艦ヤマトなども含まれていました。

 そして、それらの映画やアニメでは、破局という暗いテーマをとりあげつつも、その舞台設定の中で、主人公が驚異的な活躍をして、たちまちにしてヒーローとなる内容のストーリーが多くありました。

 こうした予言の情報が氾濫し、フィクションのヒーローに共鳴した若者達には、ハルマゲドン予言自体が荒唐無稽なものではなく、その状況下でヒーローになりたいという願望が存在していたと思われます。

 そして、それは、多くの若者にとって、自分のある意味では地味な、ないしは行き詰まった現実を大きくチェンジするロマン・夢に感じられ、興奮をそそるものだったのではないかと思います。

 そして、自分をヒーローにする上で、自分の力では到底かなわないところに、この人に帰依=依存すれば、それがかなうのではと思わせたのが麻原ではなかったかと思います。弟子が、麻原を安直に絶対化し、救世主として受け入れていったプロセスには、こうした背景心理があったように考えられます。

 しかし、オウム真理教の問題をとらえる視点からは、若者のこうした心理状態は、誇大妄想的な傾向であり、実在しない破局と、非現実的な自分の未来の成功を盲信する結果となってしまいました。これは大きな教訓ではないかと思います。

 なお、これらの破局予言の流行が受け入れられた背景としては、社会的には、米ソ冷戦による核戦争等への危機感、またローマクラブ等による人類文明の破局予測などがありました。特に、日本では、高度経済成長にかげりが出てきていたため、破局予言がさらなる不安心理をあおり、多くの人が不安に共鳴していったとも考えられます。

 こうした傾向は、20世紀が終わった今の時代でも続いており、依然として、破局的な予言のブームは後を絶たず、場合によっては、再び似た過ちが繰り返される恐れもあります。

 ひかりの輪としては、こうした教訓をふまえて、上祐代表らの講話において、予言や予言ブームといったものに対する冷静で正しい見方を示すとともに、依然として社会に広がっている予言ブームによる将来の危険性について、幅広く訴えていきたいと考えています。


(7)生まれてからの教育や生活で育んできた、二元的世界観があったことについて

 さて、以上の視点に加えて、より本質的な問題としては、人の心に潜むプライド・優越感・虚栄心といった欲望を背景として、善悪二元論的な考え方、すなわち、「善なる自分」が「悪なる他者」を成敗するという考え方が、生まれて以来、自ずと身についていたのではないかということがあります。

 これは、現実の社会とフィクションの双方において、こういった考え方は多く存在していますが、信者たちの傾向として、善悪二元論に共鳴しやすく、そのため、麻原の説いた「魂の二分化」などの概念を容易に受け入れ、麻原や自分たちの教団を「聖」とし、社会を「悪」と見なして、批判・攻撃する失敗を犯してしまったのだと考えます。

 この反省に基づいて、ひかりの輪では、世界を善と悪に極端に二分する価値観を否定し、全ての存在は繋がっているという一元的な世界観を重視し、全ての人々・生き物・万物の尊重を説いています。

【2】オウムの密教的な教えの総括と今後の思想・実践

 ここでは、事件の要因の一つとなった、オウムの密教的な教えを総括・反省した上で、それを乗り越えるために、今後のひかりの輪における密教に関する思想・実践を示したいと思います。

(1)オウムにおける「グルを絶対とする」教えの解釈の過ち

 オウムでは、グルを絶対とし、グルに対する絶対的な帰依・服従が、タントラヴァジラヤーナという密教の教えの実践であると説かれました。これが、事件の一因になったことは周知の事実だと思います。

 そこで、チベットなどの伝統的な密教の教えを総合的に研究・検討した結果、確かに、密教の教えの中には、グルを完璧、絶対的と見ると解釈できるような教えが説かれていますが、その教えに関するオウムの解釈は、伝統的な密教の解釈と大きく違っており、過ちであった、という結論に至りました。

 この違いについて、具体的に言えば、チベット密教が説く教えは、

① グルが絶対で完璧だ、という事実ではなく、あくまで、弟子である自分のエゴを弱めるための修行法として、そのように見なすことである。

② グルに対する帰依の実践というのは、グルが常に正しい、と考えなければならない実践ではなく、グルに弟子の悪業が投影されることもあり、その場合、弟子は、グルの悪業から自分の悪業を反省しなければならない。

③ 密教的な帰依・実践をする前に、グル側だけでなく、弟子となる側も、その土台として、様々な条件を満たす必要があって、自分が(特定の密教のグルに)帰依するべきかどうかについて、慎重に適切に判断しなければならない、という大きな責任がある。

 というものでした。

 この点について、チベット密教関係者の教えを以下に引用します。

◆密教は、「グルが完璧である」という客観的事実を主張しているのではないこと

 カルマ・ゲレク・ユトク師 ダライ・ラマ日本代表部事務所の元代表
「法師(=グル)に欠点を見出すことなく、完璧な存在として見るよう指示しているが、これは(法師が完璧であるという)客観的事実とはほど遠く、本来、弟子の主観的自我を清めることを意図したものである。」 (ダライ・ラマ法王日本代表部事務所のHPから引用)
◆グルに弟子の悪業が投影されたと考えるべき場合もあること

 第9代カルマパ、ワンチャ・ドルジェ師
「もし一見してグルが解脱した人にふさわしからぬ行動をしていると感じ、グルが仏陀だと思うのは偽善的だと思ったときには、......グルはあなた自身の欠点を映し出しているのです。よって、グルをよく見、グルから自分自身の欠点を取り除く方法を学んでください」
◆密教的な実践をする弟子には、帰依すべきかどうかを判断する重大な責任があること

 カルマ・ゲレク・ユトク師(前出)
「...ある人を自分の師とするにあたって、慎重かつ注意深くやらなければなりません。
 急がずに、十分に時間をかけて、法師の行動、性質に常に注意をはらうことが、基本として挙げられます。
 師の候補となる人についての情報を信頼する人から聞くこと、関わりを持つ以前の彼のスピーチやダルマ説法を聞くこと、彼の日常の生活や行動をきちんと吟味すれば、これから自分の法師になろうとする者について知ることができます。
 ...その条件を有する法師は、学識かつ経験を積んだダルマを体得した人であること。正直で平静かつ謙虚な者。最高の真理を会得し、それに従って生きる者。生きとし生けるものに溢れる慈悲の心を持つ者。精神的な師としての務めに常に励む者。
 ...もう1つは、真の倫理を守っている者。真の分別の知恵を守っている者。真の利他主義を守っている者。上記の条件に十分相当する師は、この世でどんなに貧しい身分でも、たぐいまれな精神的師と言えるのです。」
 このように、伝統密教では、「グルが本当に完璧である、絶対的である」と説いてはいません。それは、「弟子のエゴを弱めるために、グルを完璧・絶対と見なす、考えるようにする修行法がある」ということにすぎません。
 しかし、オウムの場合は、「グルが完璧、絶対である」から、信者はグルに犯罪行為を指示されたとき、それに従わなければならないと考えるケースがありました。

 よって、弟子が自分とグルの個人的な関係の中で、すなわち、自分の心の中でグルを完璧と見るように努めることはよいとしても、第三者を巻き込んで、グルを絶対として第三者を殺すことを正当化する教えではないと解釈すべきです。

 そうでなければ、自分の帰依の修行のためには第三者を犠牲にしてよいということになり、弟子のエゴを弱めるどころか、逆に、エゴを増大させる実践になります。こうして、オウムは、グルへの帰依という名の下に、なかなか自分達では気づかない、自分たちのエゴ、煩悩を増大させてしまっていました。

 さらに言えば、信者がグルを絶対・完璧であると考えるならば、その瞬間から、自分たち自身を、グルの指示があればこの世の中で殺人を含めて何をしてもいい存在にしてしまうことになり、これは「私たち=信者自身を絶対化」してしまうことになると思います。

 そして、伝統密教では、密教の教えを実践する場合に、そのグルだけではなく、弟子となる側にも、正しいグルを選ばなければならないという重大な責任があると説かれています。
 
 しかし、「この弟子側の責任」という考え方については、オウムでは全く言われず、オウムの信者は、こういった責任を全く果たさずに、密教の教えの実践を行ってしまうという過ちを犯しました。

(2)ひかりの輪における、脱グルイズムの思想

 こうしたオウムの反省に基づいて、ひかりの輪では、グルを絶対者・崇拝対象とするグルイズムを超えた思想を形成してきました。

 そのために、ヨーガ・仏教の教えを再度研究し、「グルがいないと修行ができない」という考え方は、仏教やヨーガ全体の考え方ではない、と結論しました。

 仏教の修行においては、密教でこそグルが強調されますが、釈迦牟尼自身が説いた上座部(テーラヴァーダ)の教えでは、ご存じのように、それはありません。
 
 むしろ、釈迦牟尼は、「釈迦牟尼を含めて、人を崇めることを否定する教えを説いた」ということが、仏教研究上は、広く認められている事実です。弟子たちに、「めいめいの自己と法則を帰依処とするように説いた」ということです。

 ですから、「グルがいないと修行できない」というのは、「グルイズムが強調されたオウム真理教の一種の固定観念である」というくらいに考えることができます。

 では、これらの釈迦牟尼の教えについて、以下に引用したいと思います。

『大パリニッバーナ経(大完全煩悩破壊経)』
    (岩波文庫『ブッダ最後の旅』中村元訳)

 アーナンダよ、修行僧らはわたしに何を待望するのであるか?わたくしは内外の区別なしに(ことごとく)法を説いた。完き人の教法には、何ものかを弟子に隠すような教師の握拳[にぎりこぶし]は、存在しない。

 『わたくしは修行僧のなかまを導くであろう』とか、あるいは『修行僧のなかまはわたくしに頼っている』とこのように思う者こそ、修行僧のつどいに関して何ごとかを語るであろう。

 しかし向上につとめた人(※漢訳では「如来」となる)は『わたくしは修行僧のなかまを導くであろう』とか、あるいは『修行僧のなかまはわたくしに頼っている』とか思うことがない。向上につとめた人は修行僧のつどいに関して何を語るであろうか。

 アーナンダよ、わたしはもう朽ち、齢をかさね老衰し、人生の旅路を通り過ぎ、老齢に達して、わが齢は八十となった。アーナンダよ。譬えば古ぼけた車が皮紐の助けによってやっと動いて行くように、わたしの車体も皮紐のたすけによってもっているのだ。

 しかし、アーナンダよ、向上につとめた人が一切の相をこころにとどめることなく一々の感受を滅したことによって、相のない心の統一に入ってとどまるとき、そのとき、かれの身体は健全なのである。

 それ故に、アーナンダよ、この世で自らを島(灯明)とし、自らをよりどころとして、他人をよりどころとせず、法を島(灯明)とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ。(中略)

 アーナンダよ。今でも、またわたしの死後にでも、誰でも自らを島とし、自らをたよりとし、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとし、他のものをよりどころとしないでいる人々がいるならば、かれらはわが修行僧として最高の境地にあるであろう。
 この経典を見ると、釈迦は、「自分が教団の指導者である」ということを自ら否定していることがわかります。その代わり、「めいめいの自己と法をより所にすべきである」としています。

 次に引用する経典では、釈迦が、「私(釈迦)を仰いでも何の意味もない」と言明する部分があり、釈迦牟尼個人を崇拝してはならず、崇拝すべきは法であることを示している経典として、有名なものです。
『サンユッタ・ニカーヤ』(相応部経典)より

 釈迦は、弟子・ヴァッカリの余命が幾許もないと聞き、家を訪れたが、その時、病いに臥せていたヴァッカリは、
「末期の思い出に、今一度、世尊の御顔を仰ぎ、御足を頂礼いたしたいと思いました」
と言った。
 その言葉に応えて釈迦は死期の近いヴァッカリに、厳しく言い放った。
「汝は、この私の爛懐の身(壊れ爛れる無常の体)を見てもなんにもなりはしない。汝はかく知らねばならない。法を見るものは我を見る。我を見るものは法を見る」
 次に引用するのは、ダライ・ラマ法王の見解です。この著書の中で、法王は、「師ではなく、教えに対する信を持て」と説いており、しかも、それを示唆する釈迦牟尼の教えを引用しています。
ダライ・ラマ十四世著『宇宙のダルマ』より

 この解釈学的なアプローチで重要なのは、大乗の四つの信の理論です。それは、

(1)師ではなく教えに対する信、
(2)言葉の表現ではなくその意味に対する信、
(3)一時的な意味ではなく真実の意味に対する信、
(4)知識ではなく深い体験から生まれる超越的な智慧に対する信
からなります。

 四信の理論の一番目は、教えを聴いたり論書を読んだりするとき、そこで述べられていることの妥当性を、語り手の名声や財産、地位、権力にもとづいて判断すべきではなく、教えそのものの価値にもとづいて判断すべきだということです。
 二番目の理論では、著作の判断は文章の形式によってではなく、主題についてどれだけしっかり論じているかによって行うべきだと言っています。
 三番目の理論は、命題の妥当性について考えるときは、その一時的な意味ではなく、究極的に言わんとしている内容によって、判断すべきだと命じています。
 最後に、四番目の理論は、真理を信頼する場合、経験を通して獲得した智慧と理解の力にもとづくべきであり、理論的知識だけに頼ってはいけないと述べているのです。
 このアプローチの妥当性を示す証左となる一節を、ブッダ自身の言葉の中に見いだすことができます。彼は次のようにすすめています。

「おお、比丘たち、そして賢者達よ、あたかも金職人が、焼いて、切って、擦って、
 金を試すように、私の言葉を、吟味して、受け取りなさい。
 私への崇拝の念だけで受け取ってはいけない。」
 こうして、グルイズムを非常に重視してきたチベット密教において、その最高指導者であるダライ・ラマ法王が、「師ではなく、教えに対する信」を強調していることは、非常に興味深いことだ、と思います。
 
 次に、密教とならんで、グルイズムが重視されているのがヨーガですが、それでも、ヨーガ根本経典においては、グルのいない場合の修行の方法が説かれています。
佐保田鶴治著『ヨーガ根本経典』より

 しかし、本物のグルに出会うということは今日まれな幸運ですが、昔も事情は変わっていなかったと思います。そこでグルに出会うことができない運命にある行者は絶望的かというと、そこに救いとなるのが、自在神のめい助を祈願するという方法です。自在神はグルのグルなのです。
 そして、ひかりの輪では、その思想体系の中に、
①釈迦牟尼如来が説いた、自己(の仏性)と法則を尊重する、
②全ての人々を神の現われと見て、その人の良いところを自己の教師、悪いところを反面教師として学び取り、全ての人々・生き物・万物を尊重する、
という教えが説かれています。

 インド三大聖者の一人として高名なラーマクリシュナ・パラマハンサも、「全ての人々を神の現れと見て奉仕すること」が最上の教えだとしました。仏教の一部では、「全ての存在は大日如来の現れ、仏の現れ」とします。チベット仏教でも、生起次第の瞑想・マンダラ観想法などでは、「全てが仏の現れであり、この世に不要なものは一切ない」という教えがあります。

 これは、オウムの対極を行くものです。オウムは、麻原がキリストであり、私たちの唯一の絶対のグルでした。その意味で、麻原という一人の人間だけが神の現れと位置づけられましたが、ひかりの輪では、全ての人々に神の現れを見ることができる思想を重視するという結果になりました。


(3)オウムにおける「五仏の法則の解釈の過ち」について
 
 次に、オウムが一連の事件を正当化するために用いた密教の教えとして、殺人も肯定する「五仏の法則」と呼ばれるものがありました。しかし、これについても、伝統密教の解釈を研究した結果、オウムの解釈は違っているという結論を得ました。

 具体的には、ダイライ・ラマ法王は、密教の経典の中には、親や仏陀を殺すことさえ説いている教典があるため、「文字どおりに受けとめるべきではなく、比喩として解釈するべき教えがある」と説いています。

 一方、オウムの「五仏の法則」の解釈を見ると、自分たちに都合が良いように、文字通りに受け止めている面がありました。では、この点に関する法王の著作を引用します。
ダライ・ラマ十四世著『宇宙のダルマ』より

 また大乗仏教を含む、仏教のさまざまな哲学学派の多様な説明を全体的に考察するには、様々な経典が、それぞれ了義(直接に真理を説いている経典)なのか、未了義(さらに解釈を必要とする経典)なのか、区別することが必要だということも分かってきます。
 
(中略)ですから、結局は、論理に基づいて、その経典が了義か未了義か、自分で判断しなくてはなりません。このように、大乗仏教においては、論理が聖典より大事なのです。

 ある特定の表現や経典が、未了義であるかどうかは、どのようにして決めればよいのでしょうか?未了義の経典には、様々なタイプがあります。たとえば、ある経典には、自分の親を殺さなくてはならないと書かれています。

 このような経典の言葉を、文字通り、額面通りに理解するわけにはいきません。さらなる解釈が必要です。この場合、親とは、汚された(有漏の)行いと執着のことです。それらの結果として、輪廻の中に再生する、それ故、そのような汚された行為と執着を断て、という意味なのです。

 同じような表現は、「秘密集会タントラ」のような密教経典の中にも見いだせます。そこでブッダは、「仏を殺せ、仏を殺せば、最高の悟りに到達できるだろう」と言っています。もちろん、このような教えを文字通りに受け取るわけにはいきません!
 ひかりの輪では、こうした伝統仏教の正確な教えを学び、誤った解釈に基づいて、二度と過ちを繰り返さないように指導しています。


(4)オウムの「ポワ(転移)の教えの解釈の過ち」について

 チベット密教で、ポワ(転移)というのは、死期が近づいた者が自分で瞑想して、意識を上に引き抜き、高い世界へ行くというものです。もしくは僧侶が他人に、ポワをほどこす場合、死んだ人に対してです。

 それは、間違っても、オウム真理教のように、生きている人に対して行なう殺人行為をポワと呼ぶのではありません。

 仮に、もし生きたままの人をポワする=殺すということになれば、そういうことをしてもよい条件としては、いったん殺しても生き返らせる超越的な力がなければならないなどとされています。

 この教えの意味するところは、昔の経典の伝説の世界の中ならばともかく、現代には実際に死人を生き返らせることができる人がいないことが明白である以上、事実上、ポワという名で殺すことを厳しく戒める教えになっています。

 また、ポワによって高い世界へ転生させたなら、それを神通力によって見せることができなければならないという教えも、チベット密教の教えにはあります。これも、事実上、ポワの名の下で殺すことを厳しく禁じる教えと解釈できます。

 しかし、麻原はこういったチベット密教の正統な教えの解釈をせずに、独断的なポワの教えを説いて、一連のオウム事件を起こしてしまいました。

 当然のこととして、麻原は、殺した人達を生き返らせていませんし、極楽浄土に行った様を見せることなどできず、正統な密教の教義に照らしても、ポワをする資格もなく、ポワしたわけでもなく、不殺生の戒律に違反する悪業をなしたということができます。

 さらに、仏教では、すべての人は仏性(仏の性質)を持っていると説いています、そして、人を殺すならば、その人の仏の要素も殺すことになると教えます。これは、仏教徒として当然なしてはならないことです。

 こうして、オウムで行なったポワは、チベット密教のポワと言葉は同じですが、実際は似て非なるものであって、全くの殺人であるということが、密教の正統教義の研究に基づいて判明しました。

 ひかりの輪では、こうした伝統仏教の正確な教えを学び、誤った解釈に基づいて二度と過ちを繰り返さないように指導しています。


(5)瞑想法の内容と伝授の仕方に関するチベットとオウムの教えの違い

 チベット密教には、「生起次第」と呼ばれる瞑想と「究竟次第」と呼ばれる瞑想がありますが、オウムは、これと同じ言葉を使いながらも、その意味合い・役割がまるで違っていました。
 
 オウムでは、生起次第はブッダや神々などを観想し、究竟次第は生起次第で観想したものが、潜在意識に根付いているか確認するため、目をつぶってボーッと何も考えず瞑想するというものでした。

 オウムで行なわれていた小乗のツァンダリーという瞑想を例にとると、チベット密教でいわれている生起次第と究竟次第が混じってしまっていて、それを生起次第と呼んでいました。そもそもチベット仏教の各宗派で伝わっているツァンダリーの瞑想は、究竟次第であって、生起次第ではありません。

 究竟次第の瞑想もボーッとするだけではなく、チベット密教では、人間の身体生理学に基づいた瞑想をするために、人間の体の中にチャクラ(霊的センター)というものと、プラーナ(エネルギー)が流れるナーディ(管)を観想します。

 また、修行の伝授の方法についても大きな差異があります。

 オウムでは、お布施をすれば誰にでも究竟次第の瞑想を伝授していましたが、チベット密教では、そう簡単に伝授はしません。特に究竟次第の瞑想は、初心者がなんの準備もせずに行なうことは、心身に変調をきたし危険だとされています。

 また、生起次第の瞑想についても、浄化のための準備段階の瞑想を充分こなしてから、伝授するということで、修行者の心身に無理にならないように配慮すべきだとされていると思います。

 ひかりの輪では、こうした瞑想法の伝授の仕方に関するオウムの過ちについても、明らかにしています。

【3】オウム真理教のヨーガ行法の総括と今後の方針・実践

(1)オウムの修行の問題点

 オウムでは、ヴァヤヴィヤや、立位礼拝のような激しい修行を何時間も続けて行ったり、極限の断水断食をしたり、睡眠を限界まで減らして眠らないようにしたりして、深い意識(潜在意識)に一気に入れる修行を行いました。

 その状態で、教祖への帰依などを中心とした、同じデータを何度も何度も入れるという修行を行っていましたが、これは、ある意味で、洗脳ともいえるテクニックだと考えられます。

 また、深い意識に入った場合は、意識が現実から遊離して、現実に意識が向かなくなる可能性がありますが、場合によっては、そのために、現実逃避などの精神的な問題が生じる場合があります。

 特に、精神的な疾患がある人の場合はそうであり、こういった修行法は危険ですが、オウムの場合は、人を選ばず、皆にそのような修行をさせていました。そのため、激しいヨーガ行法の結果として、精神的におかしくなった人も何人かいました。

 また、このような行法によって得られた内面の霊的な体験を重視しすぎると、わかりやすく言えば、より妄想の世界にはまっていきやすくなります。このような修行が、妄想の世界を現実化するという事件にもつながっていったのではないかと思います

 また、オウムでは限界を超えて修行を行うことによって「カルマ(悪業)を浄化する」という考え方がありました。例えば、立位礼拝という修行では、できるだけ大きな声を出して体を投地し起き上がる、これをひたすら何時間も何日も繰り返すのですが、それによって足が腫れて腐ったようになった人がいました。

 「極限の蓮華座修行」では、足を「逆ハの字」になるくらい深く組み、さらにそれを紐で縛り、紐を解く可能性のある人は手も縛られ、その状態を何時間も続けるという修行をやっていました。足の痛みは地獄のカルマといわれ、そのカルマを落とせば、ナーディ(エネルギーを通す体内の霊的な管)が通り、痛みも抜けてなくなるといわれていましたが、その痛みは半端ではなく、大の男の人でも転げまわって泣きわめくほどでした。

 しかし、こういった限界を超えるのも、場合によっては、それが命取りになることもあります。ある人は、この蓮華座修行で立てなくなり、病院に行ったときには手遅れ寸前だったという人もいます。

 ところが、オウムの修行では、どんなひどい状態になっても、それは極限までやってカルマを落とすという考え方が通常だったので、病院に行くことはよほどのことがない限りはしませんでした。

 また、温熱修行では、ナーディの詰まりを取る為に、高温のお風呂に何度も繰り返して入るということを行っていました。そのために体に負担がかかり亡くなった人もいます。

 こういった修行をする場合には、ある程度心身の仕組みについて専門的な知識を持った人が、その人の状況を見ながら行う必要があったと思うのですが、そうではない人が「カルマの浄化」という判断のもとに、常識では考えられないくらい限界を超えて体を酷使させていました。

 こういった行きすぎた激しい修行の仕方には、非常に問題があったと思います。

(2)ひかりの輪でのヨーガ行法の改善

 こうして、オウムの修行のやり方には危険性があったという反省をもとに、「ひかりの輪」では、あまりに激しい行法をやって、一気に深い意識に入れるというやり方をとっていません。さらに、極限を超えて体を酷使するような実践もやっていません。

 それに代わって、自然に無理なく段階を追って行法を進めることで、現実と遊離しない程度に心身をリラックスさせていくという方法をとっています。

 また、実践の場所もオウムのように密閉された暗いイメージの空間ではなく、自然の中に出ていって自然と融合できるような形で行う方法を取り入れています。

 そういった意味では誰でも無理なく行うことができると同時に、とてもオープンになっています。

【4】総括に基づく今後の償い(テロの抑止への貢献)

 オウム真理教の活動に参加した私たちは、その活動で社会に与えた被害・悪影響を最大限償うことによって、社会に奉仕していきたいと考えています。


(1)一連のオウム事件への賠償の心構え

 今現在、一連の事件の被害者遺族の方々への賠償を微力ながら行っておりますが、これは、私たちが、あのような事件を二度と起こさない証しとして位置づけております。
 
 ご存じのように、ひかりの輪の会員は、国が賠償を肩代わりすることになったサリン事件を含めた重大事件に対しては、その事実を知らなかった者がほとんどです。さらには、その全ての会員は、事件に対する刑事責任や、賠償に対する法的な責任を負っていないという事実があります。

 しかも、今現在は、すでにオウム真理教(アレフ)を脱会し、事件の原因となった麻原に対する信仰や教えは全く使わずに、上祐代表らが中心となって説く新しい考え方によって、思想的にも経済的にも完全に独立して、団体は運営されています。

 その中で、団体として、どのように賠償を位置づけているかという点をご説明しますと、特に、オウム真理教からひかりの輪に移ってきた者に対して、

1 自分たちが、事件の犯行者達と同じ教祖・教団の信仰を共有していたこと、
2 重大事件の犯行者の中には、最高幹部に限らず、中堅幹部から一般出家者もいること、
3 特に、あの時に仮に自分が教祖に犯罪の指示を受けていたならば、自分が犯罪に及んでいたのではないか(宗教的な理由からも、身の保全からも、及ばざるを得ない状況だったのではないか)ということ、
 
 などをよく考えるように促しています。すると、自分たちは実行犯ではないが、実行犯は自分達と完全に区別できる存在ではなく、多くのオウム信者の代表として犯行をなした一側面があることがわかり、それに基づいて、自分のこととして賠償に尽くすようにと指導しています。

 これは、ある意味、間違った体制の中で、間違った戦争を行なった国の中で、徴兵された兵士のようなものかもしれません。私たちは、自分たちが実際の犯行者ではなかった中で、こういった心構えを持って今後の賠償を行うことで、将来において、あのような犯行に及ぶことは決してないことの証しにしたいと考えています。


(2)生命・健康の損失に対する償いについて

 しかし、当然のことながら、賠償金のお支払いでは、一度失われた尊い生命を取り戻したり、後遺症の完治をもたらしたりすることはできず、単に、遺族や被害者の方々の経済的な損失被害を弁償するにすぎません。

 よって、生命の損失、健康の喪失に対する償いというものを考えますと、現在、被害者の方の検診・治療に当たっている組織への寄付を行わせていただくことや、将来のテロを含めた犯罪の抑止のために尽くさせていただくことを考えています。

 そのためには、オウム真理教に限らず、様々な宗教勢力によって世界中でテロが頻発する現代において、いかにすれば、将来において宗教によるテロ・犯罪が行われることを緩和・抑止・防止することができるかという点を考えて、できる限りの奉仕をさせていただきたいと思います。


①テロを起こさない新しい思想を提示すること

 その活動の一つとして、まず、公式HPなどを通じて、
   1)オウム真理教の実態・問題点・教訓を分析した結果や、
   2)団体内部で検討した一元の思想や、テロを起こさない思想、
について、公表していくことがあります。

 実際に、世界には数多くの思想・宗教がありますが、歴史を見ても明らかなように、少なからぬ思想・宗教は、自分たちが最善で他は悪であるという二元的な思想傾向を持つことから、自己を絶対視し、人と人との対立・闘争を生み出してしまう傾向があります。

 オウム真理教のテロがなくなった後も、世界では、例えば、イスラムと欧米の間でのテロをはじめとして、宗教や文化の違いを根本的な原因とした宗教的テロリズムが大きな問題になっています。

 その中で、私たちは「償い」をさせていただくという気持ちをもって、21世紀のための思想として、例えば以下のことを提唱しています。

  ①自分や他人を含む人間を絶対視しない。自分は常に不完全で未完成の求道
   者であるという謙虚な気持ちを忘れない、その結果として、自分と他人、
   善と悪、聖と邪を単純に二分して区別する二元的な思想・宗教の傾向から
   超越していくこと。

  ②全ての人物や生き物、自然の中に、神や仏の性質を見つけて尊重すること
   や、全てがつながっており支え合っていること、人類社会・世界を皆で協
   力し合いながら良くしていくことといった、一元的な世界観を育むこと。


②テロ防止機関・専門家に対する協力をすること

 さらに、国内外のテロ防止機関、研究家、専門家に対する情報提供を含めた協力を行いたいと考えています。その中で、公安調査庁には当団体から情報提供を行っており、海外の専門家に対しても、すでに繰り返し協力を行っています。

 海外の専門家に対する協力の中では、アメリカのテロ研究家と複数回すでに面会し、今問題となっている国際テロリズムの防止のために、過去のオウム真理教のヴァジラヤーナ活動における生物兵器・化学兵器の製造実験などの実態を明らかにした協力も含まれており、今後もこれを継続する予定です。

 また、世界には、アメリカに限らず、テロを防止するための研究や活動を行っている機関や研究家が多数存在していますから、今後とも、こうした機関等に対して情報を積極的に提供し、テロ防止のために役立たせていただきたいと考えています。


③国際テロリズムの温床を緩和するための貢献

 また、今後の団体活動の中で、現在の国際的なテロリズムの温床となっている途上国における貧困・適切な教育機会の不足などに対して、(一連のオウム事件の賠償支払いの負担があるために、それに抵触しない形で)適切な支援を行っていくための具体的な仕組み作りに着手しています。

 テロの原因としては、テロリストとされる人の精神病理的な人格の問題が第一に来るとは思いますが、先天的な要素もある人格の問題は、現実として解決しにくい面があるとも思われ、第2の要因として、その人を取り巻く生活環境を改善することが、先天的に人格上の問題をテロに結びつけない対策ではないかと思います。

 麻原の場合も、弱視という身体障害を負う中、自分が望まない親元を離れた盲学校(障害者学校)に入学させられる中で、親との交流が乏しくなり、親を憎むようなった経緯が見られます。こういった幼少期・青年期の挫折・苦しみが、人格を歪め、教祖となった後にも、彼の被害妄想と、その対極の誇大妄想の一因となったとも思われます。

 一方、現在問題となっているイスラム原理主義のテロリズムについても、その根底には、現在の国際社会の中での途上国社会の苦しみ、貧困や教育機会の欠如があり、その中で、原理主義の神学校による過激な宗教教育が若いテロリストを育てているという現状が報告されています。

 こうして、テロは人が行うものであり、その中でも幼少期の問題は大きいと考え、微力ながら、できうる限りの支援を検討しております。

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