【2】89年から90年まで
1989年には、その2月10日に、田口事件(殺人事件)が起こりましたが、私自身は、これを95年になって知りました。裁判の判決によると、故田口氏は、故真島氏の遺体焼却に関与していたところ、89年1月頃から、脱会を希望するようになり、「脱会させないなら、麻原を殺す」と言い出し、この状況を知った麻原は、故田口氏が脱会して、故真島氏の件を表沙汰にし、教団維持や宗教法人化の障害になると考え、早川、村井、岡崎一明・新実智光に命じて、脱会を留まるように説得させ、もし説得に応じないのであれば、殺害するように指示したところ、田口氏は、説得に応じなかったために、頸部をロープでしめられて、死亡した、とされています。
私が知っていることは、ちょうどこの2月頃、早川が、麻原に、「警視庁が教団を警戒している」という趣旨の情報を報告したことでした。麻原は、自らの予言教義に合わせて、教団に対する弾圧として受け止めたように感じます。
この早川の情報自体が正しいかどうかわかりません。ただ、自分が推測するに、当時既に信徒になっていた、小杉氏(長官狙撃事件の疑惑で一時期逮捕)が早川に情報提供したのかもしれません。
また、仮に情報が正しかったとしても、今から思えば、その当時発刊されていた『滅亡の日』の内容をよく読めば、当局が危険思想の団体として警戒するのも、不思議ではないでしょうし、また、そのくらいから、徐々に増大する出家者と家族のトラブルを当局が懸念し始めたかもしれません。
ただしこれは、今から思えば、ということです。その当時の私の考えは、『滅亡の日』が危険図書と見なされることや、出家制度の問題などには十分には神経が回っていませんでした。出家制度がまずいなと思うのは、この後しばらくして89年の夏以降のことだったと思います。また、全く発覚していなかった田口事件のことも知りませんでした。
こうして、自分たちの教団を客観的に見ることもできなかった私は、早川の話が本当であれば、それはやはり弾圧ではないか、と思う面もありました。
その意味で、国家権力が社会を弾圧しているという麻原の考え方に、このくらいから、少しずつ影響を受けていったのかもしれません。
さて、3月には、東京都知事に宗教法人の認証申請をし、7月には、麻原が、教団信者と話し合い、次期総選挙の出馬を決めました。その後、すったものだがありながらも、8月29日に、宗教法人の認証を獲得しました。
そして、10月2日に、いわゆる『サンデー毎日』による教団批判キャンペーンの報道が開始され、それが後に、11月4日の坂本弁護士殺害事件に発展していきます。
■坂本弁護士事件について
この事件は、麻原の裁判等の資料によると、
(1)故坂本弁護士が、89年5月頃から、子供を教団から脱会させたい、とする親の相談を受けるようになり、同年6月には中心となって「オウム真理教被害対策弁護団」を結成し、子供の脱会を望む親たちの組織化を図り、同弁護士は、出家信者とその親との面会の交渉を担当するだけでなく、教団の問題点を批判し、宗教法人の認証取消の働きかけなども行なっていた。
(2)そこで、麻原は、村井、新實、早川、岡崎、中川を集め、「もう今の世の中は汚れきっておる。もうヴァジラヤーナを取り入れていくしかないのだから,お前たちも覚悟しろよ。」などとして、教団による救済にとって障害となるものに対しては殺人をはじめ非合法的な手段により対処していく趣旨のことを言い,「今ポアをしなければいけない問題となる人物はだれと思う。」と述べて,教団にとって最も障害となる殺害しなければならない人物はだれかという意味の問い掛けをした後,坂本弁護士を名指しし,同弁護士について,被害者の会の実質的リーダーであり,将来教団にとって非常な障害になるから,同弁護士をポアしなければならない旨述べて,同弁護士の殺害を指示し、
(3)上記5名に端本悟を加えた6名は、同年11月4日未明、横浜市の同弁護士宅に侵入し、同弁護士と、居合わせたその奥さんと子供の計3名を、頸部を締める等して窒息させて殺害した。3名の遺体は新潟県、富山県、長野県にそれぞれ分散して埋めた。
とされています。
この事件について、私が知っていたことを明らかにすると、
(1)私は、事件発生前に、故坂本弁護士を殺害する謀議に参加したことも、そういった考えを麻原から聞いたこともないが、故坂本弁護士ではなく、サンデー毎日など、教団を批判している存在について、それをポワすることについて、どう思うか、という意見を聞かれたことがある。
その際は、私は危険なことだとして強く反対し、また、同席していた石井久子も同様だったと記憶している。そして、その後、しばらくして、麻原は、私や石井を含めずに、上記の5名を呼び、坂本弁護士事件の謀議を行なった、と思われる。
(2)事件発生後に、しばらくして、私は、報道されていることや、上記の5名など、一部の元高弟が事件発生前後に教団で見かけなかったことなどから、教団の犯行の疑惑を深め、不満が生じていたが、その件で、麻原と電話で話すことになった。
私としては、そのような暴力行為ではなく、自分が行なっている広報活動によって、『サンデー毎日』等の批判の影響を和らげるべきだと思っていたが、麻原は、教団の関与を明言はしなかったが否定せず、それは正しいことであるという立場から私を説得する形となり、最後に、「もうわかっているようだからな」と言い、教団の関与を示唆した。
私は、不満はあったものの、麻原と話した後は、結果として、麻原に帰依する選択をし、教団を守る広報活動に集中することにした。
(3)私自身は、事件が誰によってどのように行われたかは、95年に全貌が発覚するまで、全く教えられなかった。よって、95年までは、89年当時に報道されたように、教団が暴力団関係者か何かに依頼して行なわれたのではないかと推測していた。まさに、素人の6人の集団が大変な危険を犯したとは思っていなかった。
そのため、私は、現場にプルシャ(教団作成のバッジ)が落ちていたことは、もし、プロ犯行だとしたら大変なミスだと思ったり、そうでなければ、私がテレビで主張したように、あのプルシャは犯行とは関係なく、被害者の会を通じて、教団の資料として坂本弁護士の方に渡されていたものではないか、と考えたりしていた。
(4)坂本弁護士殺害の謀議に参加していないので、正確にはわからないが、私が推察する限り、事件の目的は、教団に対する批判を封じることだったと思う。
しかしながら、プルシャが落ちていたこともあり、教団に対する批判は、事件発生前よりも遙かに大きなものとなり、全くの逆効果になった。
これについて、麻原は、「おかしいな。普通は失踪した人間が出たからといって、こんな騒ぎにはならないのにな」と言って、不服そうだったことを記憶している。
(5)坂本弁護士事件に関係して、私が他に知っていることとしては、事件発生からしばらくして、岡崎が脱会した後に、どうやら岡崎が、坂本弁護士事件に関係する教団の秘密・弱みを握っているらしいことを知ったことである。
岡崎は、脱会と共に、教団の何億ものお金を一時持ち逃げしようとした。それが、早川らの行動で阻止されると、岡崎は、麻原に金を渡すように要求して、麻原はそれを承諾した。その際、麻原は、早川に対して「(岡崎は)私と差し違えるつもりだろうか」と語っていた。
私は、これらの事実を直接見聞きして知っていたが、誰からも、岡崎が、坂本弁護士事件に実行犯として関与したことは明言されてはいなかったので、岡崎が実行犯の暴力団関係者と関係があったのだろうか、と自分なりにいろいろと推測していた。
私の事件に対する認識が抽象的なのは、誰も、私に対して、坂本弁護士事件への関与を明確に告白したり、その詳細を説明したりすることはなかったからであり、逆に言えば、実行犯の人としては、決して他人に漏らすことができる内容ではなかったのだろう。
■教団の陰謀論について
この年から、教団の中では、ヨハネ黙示録の終末預言を解釈した『滅亡の日』において、聖徒が弾圧が受けると預言されているように、「教団が国家権力・マスコミ等から、いわれなき弾圧を受けている」という主張が始まった。
麻原は、『サンデー毎日』のバッシングは、自分が選挙に出ることを決めたからであり、その背景には、それを嫌がる創価学会の勢力があり、その裏には、JCIA(内閣情報室)やアメリカがいる、とまで主張し始めた。
私は、それについては半信半疑の面もあったが、『サンデー毎日』がたかが数千人の信者のしかいない小さな宗教団体を7週連続で批判するキャンペーンをやったことについては、やはり奇異に思えた。その裏に創価学会がいて、そして、国家権力やアメリカの力がある、という考えはよくわからなかった。
私は、『サンデー毎日』のバッシングがひどくなったときに、麻原に、「過激な出家制度がこの批判の原因である」と話したことがある。それは、まだ坂本弁護士事件の前のときである。
それを聞いた麻原は、非常に不満げに、「それはあちら側のシナリオじゃないか」と言ったことを覚えている。あちらのシナリオというのは、教団を弾圧する側の作ったシナリオという意味である。
それを聞いた私は、教団の過激な出家制度が原因だと考えるのが合理的だと思っていたので、違和感があったことを記憶している。
なお、シナリオというのは、麻原独特の考えだが、「教団を弾圧する側が、ある種の計画を持って、教団を弾圧し、社会を動かしている」という見方である。
しかし、麻原こそが、教団の軍事力を形成し、ハルマゲドンを起こそうとする計画=シナリオを持っていたのだから、自分の考え方を通して、社会を見ていたのではないかと思う。
私としては、麻原に帰依して麻原と同じように考えなければならないという教団の信仰実践と、自らの理性や合理的な判断とが、食い違っていたので、悩むことは、このときだけではなかった。
教団がヴァジラヤーナ活動に入っていく大きな根拠として、「教団が社会に弾圧されているから、社会と戦わなければならない」という状況認識があったので、これが真実なのか、被害妄想であるのかは、非常に重要な問題となっていく。
特に、1990年の選挙の敗北もが、国家権力による投票操作の結果とされたのは大きい問題であった。
今になって思えば、当時の教団を客観的に見れば、日本社会には、馴染みが薄い、ヨーガ、密教系の宗教的実践への無理解・誤解もあったのだろうが、(1)多くの出家者による家族とのトラブル、(2)多額の布施を取る修行に関する一部信者とのトラブル、(3)宗教法人の認証申請時に教団信者が大挙して都庁に詰めかけた過激な行為、(4)書籍『滅亡の日』の過激な記載など、さまざまな点で、危険な教団に映る現実があったのだと思う。