上祐史浩個人の総括

1.オウム真理教の違法行為・ヴァジラヤーナ活動について(1984~1995)

【6】1991年 国土法違反事件の裁判闘争

 1991年は、国土法違反事件の初公判が行われました。よって、ここで国土法違反事件のあらましを述べたいと思います。

 国土法違反事件とは、国土法(正確には国土利用計画法)において一定以上の土地を売買するときは事前にその届け出をするべきところ、それを怠ったという事件です。

 よって、本来は、ある意味では、交通違反のような軽微な事件であって、罰則も非常に軽い事件なのです。
しかし、本件の場合は、それが、教団が熊本県波野村に進出したことに対する地元の強い反発に関係していたために、早期から大々的に報道されるなど、大きな問題となりました。
 その後の教団側の対応もあって、最終的には、全国一斉の強制捜査や幹部信者の逮捕などといった大事件の様相を呈しました。

 教団が土地を取得したのは1990年の5月ですが、本来はその際に国土法の届け出を出すべきでした。
 しかし、ヴァジラヤーナ活動を早急に進めるため、麻原の指示があって、本来は土地の売買であるにもかかわらず、土地の贈与であると偽って、贈与であれば不必要である国土法の届け出をせずに、教団が土地の贈与を受けて、それを取得したことにしました。この手続きに関わったのは、早川や青山らでした。

 贈与といっても、正確には、その土地に関係する債務は教団が引き受けるという負担付贈与という形をとっていますので、全く無償で贈与を受けたと主張したわけではありませんが、実際には、裏では負担付贈与ではなく、明らかな土地の売買の取引となっており、いわゆる裏金が渡されていました。

 この裏の事実は、8月末頃に、警察の捜査を受けた地主が自白することで明るみに出ましたが、それより以前から、この土地取引が国土法違反であるということは大きく報道されました。

 それは、仮に裏の事実がなくても、負担付贈与であっても、国土法の届け出が必要だというのが県の見解だったからですが、その背景には、波野村・熊本県の教団の進出に対する激しい反発があることは明らかでした。

 この件が最初に報道されたときから、麻原の姿勢は非常に闘争的でした。そして、それは、ある意味で意図的にそうしていると感じられるものでした。それを最も強く感じたのは青山だったと思います。

 波野村との摩擦において、波野村が教団信者の住民票を不受理にするなど、法律的に見れば明らかに信者の人権を侵害しているような事例が多々ありましたので、青山が波野村との問題に深く関わり合うことになりました。
 彼は毎週のように熊本に行っては信者に対する人権侵害を告訴し、記者会見を行い、私も外報部長として、それに同席しました。

 青山は、この時期に、マハームドラーの成就をするために、「たった一人になっても真理を守りなさい」という課題を麻原から与えられていました。
 よって、彼から見ても、私から見ても、麻原が教団進出に反発する波野村・熊本県に対して意図的に闘争的な対応をして、問題を激化させているかのような面がありました。

 その一方で、世間で悪評が高い教団の進出を受けた波野村がとった対応が、住民票の不受理などを含めて非常に激しかったことも事実で、教団側の信者から見れば、麻原が主張するように、村や県が教団を弾圧している、宗教弾圧である、と映る状況がありました。

 実際に、波野村による住民票の不受理に対して、教団は訴訟を行い、実質上、波野村が住民票を受理しないかわりに高額の解決金を支払うことで和解することになりました。

 そして、一般の有識者や人権運動家の人たちの中には、教団と波野村の摩擦において、教団側を擁護する人たちも少なからず出てきたほどでした。その中には、後に教団が大変なご迷惑をかけることになる島田裕巳氏らもいました。

 しかし、彼らは、この時期の教団がその裏側でヴァジラヤーナ活動をなしており、その一環として波野村の広い土地を早急に取得したという事実については、当然知ることはありませんでした。

 一方、熊本県や県警は、地元波野村の政治的な要請を受けてのことだと思いますが、国土法違反や森林法違反の疑惑を追及し続け、8月末から、教団に土地を売った地主の自供を得て、それを証拠として、10月に教団の強制捜査を行うことになります。

 私は、5月末から8月末までは、この国土法の件は一切関与しておらず、元地主や不動産の方に会ったのも8月末が初めてでした。そのときはすでに地主の方が自供を始めており、事態は非常に切迫したものになっていました。

 よって、私がこの国土法の問題に関与し始めたのは、主に、国土法違反事件が摘発された後から、その公判が始まった時です。

 前回述べたように、1990年の10月から11月にかけて、複数の幹部信者が逮捕・起訴され、その後保釈されました。

 その後、私は、麻原の指示のもとで、教団が裁判で無罪を勝ち取れるように、起訴された信者と話し合い、教団が元地主に渡した裏金は、売買代金ではなくて貸付金であるという主張をすることにしました。

 なぜ、嘘の主張をしてまで無罪判決を得ようとしたからというと、それは当然麻原の意向に基づいたものですが、単に麻原の意向だけでなく、教団全体がすでに1989年頃から、麻原が解釈したヨハネ黙示録の終末思想の預言に合わせて、社会が教団を弾圧していると主張していたこともあります。

 そして、その流れで、波野村・熊本県との摩擦についても宗教弾圧であると主張しており、国土法事件について教団側の過ちを認めれば、教団の名誉や宗教弾圧であると説くその教義の正当性が揺らぐために、そうするわけにはいかない状況であったということができます。

 よって、私は、麻原と話し合って、村井と逮捕された幹部信者とともに、貸付金があった旨の書面を偽造し、また柴田と話し合って、柴田が裁判で貸付金があったかの如く装う証言をするように手配しました。

 裁判は1991年に始まり、95年まで続いていましたが、書面を偽造したのは1991年の初め頃で、柴田の偽証の手配をしたのは1992年頃です。そして、1995年になると、この行為が発覚し、私は、偽造・偽証の容疑で逮捕、起訴されました。

 さて、1991年の話に戻りますと、麻原と教団は、国土法違反事件の強制捜査・逮捕のために、いったんヴァジラヤーナ活動の休止を余儀なくされ、国土法事件の公判に対応しつつ、ヴァジラヤーナではなく通常の布教活動であるマハーヤーナの活動を行うことになります。

 そこで、「死と転生」という音楽・舞踏イベント、説法祭などを行い、1991年半ば頃よりは、多くの書籍を出版し、例の『朝まで生テレビ』に出演するなどの広報活動を行い、その後、インドの巡礼ツアーなどを行いました。

 私は、10月から、地中で5日間を過ごす、いわゆるアンダーグラウンド・サマディのための準備修行に入り、11月にそれを終えると、その後に「シャクティーパット」と呼ばれる宗教的儀式を信徒に対して施し始めました。このシャクティーパットは1992年の末まで続き、その期間は、私自身はヴァジラヤーナ活動には関与していません。

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