【8】1993年末から1995年サリン事件まで
ロシア滞在のため知らなかった事件の裁判資料に基づく総括さて、私は、1995年のサリン事件によって、緊急に日本に帰国するまで、その間に起こった事件には関与していませんが、ヴァジラヤーナ活動を総括する意味で、以下に、裁判資料に基づく総括をしておきたいと思います。
まず、1993年末に始まった、ないし発生した事件は、以下の通りです。麻原の裁判資料などから要約します(以下に、被告人とされるものは麻原)。
■1993年の事件
(1)第7サティアンプラント事件
麻原は、93年夏頃までに、教団武装化計画の一環として、サリン70トン生産計画を立て、実行を指示した。ダミー会社を通じてサリンの原材料を購入する一方で、同年7月から9月にかけて第7サティアンをプラント工場として建設した。
同年11月には、土谷がサリンの生成に成功した。94年2月頃からプラント機器類の設計が本格的に始まり、同年6月頃には一通りの作業が終わった。そして、同年夏頃からプラントの稼働が始まったが、トラブルが相次ぎ、異臭騒ぎで周辺住民が抗議に押し掛けるという事態も発生した(94年7月)。結局このプラントではサリンは製造できていない。
(2)池田大作名誉会長襲撃事件
(麻原に対する判決文より)
被告人は,かねてから創価学会の池田大作名誉会長を敵対視していたが,サリンの大量生成の方法についてめどがついたことから,その製法によって生成されたサリンで池田を暗殺するよう村井らに指示した。
村井幹部らは,被告人の指示に基づき,2回にわたり,前記の方法に基づき生成されたサリンを創価学会の施設に噴霧した。
1回目は同年11月中旬ころ,乗用車に設置した農薬用噴霧器を使って約600gのサリン溶液を噴霧し,2回目は同年12月中旬ころ,熱した鉄板の上にサリンを滴下して気化させそれを大型ファンで上方に排気する構造の噴霧装置を設置したサリン噴霧車を使用して約3kgのサリン溶液を噴霧したが,いずれも池田氏に被害を与えるに至らなかった。
しかし,特に2回目の際には,サリン噴霧車に乗車していた村井及び新實幹部は,当初,ビニール袋を頭から被り酸素ボンベからエアラインを通して酸素を送り込む方式の防毒酸素マスクを着用していたが,警備員に不審を抱かれ逃走した際,サリン噴霧車を運転していた新實幹部が,酸素マスクを外すなどしたため,サリンに被ばくし,次第に視界が暗くなり,呼吸困難に陥り,やがてひん死の状態に至った。
医療役として待機していた中川らは,合流して,新實幹部に対しパム等を注射し,村井と共に人工呼吸を施すなどの救急救命措置をとりながら,教団附属医院に新實を搬送した。
被告人もその報告を受けて同医院に赴き,医師である林郁夫幹部に対し,サリンで池田を殺害しようとして新實がサリンに被ばくした旨の説明をしてその治療をするよう指示した。
新實幹部は一命を取り留め,症状は回復した。このような新實幹部の症状を目の当たりにした被告人及び村井ら教団幹部らは,これを契機に,土谷らが生成したサリンを加熱し気化させて噴霧した場合に相当な殺傷能力を有すること及びサリン中毒を避けるために前記防毒酸素マスクが有効であることなどを認識した。
(以上、引用終わり)
■1994年の事件
次に、1994年に起こった事件やそれに関係する出来事について、裁判資料等をもとに列挙します。
1月30日 落田事件(殺人・死体損壊事件)
2月15日 サリン30キロ完成
2月22日~ 朱元璋ゆかりの地の中国旅行
2月26日 自動小銃1000丁 製造指示
2月27日 LSD1キロ製造指示
2月27日 サリンプラント建設を指示(殺人予備事件)
3月11日 仙台支部で毒ガス攻撃を受けていると説法
3月 出家信者、25時間ヘリコプター飛行操縦訓練 モスクワ
4月 軍事訓練 ロシア射撃ツアー(数次にわたる)
4月18日 サリンプラント建設工事の指示
5月 1日 LSDの合成に成功
5月~7月 「白い愛の戦士」訓練(岐阜 高根村)
5月 9日 滝本サリン事件(殺人未遂事件)
6月 1日 ミル17ヘリコプター 78万$(\9400万)購入 横浜港到着
6月26日 省庁制発足式
6月27日 松本サリン事件(殺人・殺人未遂事件)
7月 VX製造の指示
7月9日 第7サティアンから異臭(亜リン酸トリメチル噴出事故)
7月10日頃 冨田事件(殺人・死体損壊事件)
7月 覚醒剤のサンプル製造に成功
8月~10月 白い愛の戦士 訓練(和歌山 古座川町 廃校跡)
8月9日 波野村9億2千万円 で撤去和解
9月初旬 サリンプラント稼働
9月 VXの合成に成功
11月 チオペンタールナトリウム(麻酔薬)の合成に成功
12月 2日 水野VX事件(殺人未遂事件)
12月12日 濱口VX事件(殺人事件)
12月下旬 メスカリン(幻覚剤)製造
次に、具体的な一つ一つの事件について、裁判資料――主に麻原への判決に基づいてまとめておきます(第三者や服役後に社会復帰している一般の方等については、プライバシー保護のためイニシャルにしています)。
(1)落田事件について(殺人・死体損壊事件で麻原有罪)
落田耕太郎氏は、オウム真理教附属医院で勤める出家信者だったが、94年1月22日頃、教団を脱退した。その後、落田氏は、かねてから親交があり同病院に入院・治療していたY・F氏を連れ出そうと決意し、同年1月29日、同女の息子である元出家信者Y・H氏らを誘って、第6サティアンに向かった。同30日未明、落田氏とY・H氏は、第6サティアンに侵入したが、まもなく発見され、取り押さえられた。侵入した2人は、催涙スプレー、サバイバルナイフ、火炎瓶等を持っていた。
両名は、麻原のもとに連れて行かれ、麻原は両名の処遇について検討した。麻原は、(新実・中川被告人の証言によると)事件より前にY・F氏のザンゲを受け、Y・F氏と落田氏の男女関係を知っていたため、落田氏が同女を連れ出そうとしたのは、男女関係が動機であり、落田氏がそのことを明かさずに同女の治療が教団内ではできないからと言ってY・H氏をだまして協力させたと考え、さらに、落田氏の手帳には、Y・H氏の父親を殺し財産を奪うという計画まで書かれていたと認識した。
これらを勘案した麻原は、落田氏の悪業を止めるためには、落田氏を殺害するしかないと判断し、その役割をY・H氏に命じ、その場に居合わせた、井上嘉浩、中川、新實、丸山美智麿ら幹部が、落田氏の体を押さえつける中で、Y・H氏は、ロープを使って落田氏を絞殺することとなった。
殺害の実行行為には関わらなかったが、その場に居合わせた松本知子も共謀したとして立件され、有罪判決を受けている。他にも、越川真一、後藤誠、杉本繁郎らの幹部も、共謀したとして立件されている。
また、麻原は、その後、村井、丸山らに指示し、同日、第2サティアン地下室において、落田氏の死体をマイクロ波加熱装置とドラム缶等を組み合わせた焼却装置(マイクロ波焼却装置)の中に入れ、これにマイクロ波を照射して加熱焼却し,同人の死体を損壊した。
(2)この時期の武装化、クーデター計画について
(麻原に対する判決文より)
被告人は,かねてから自己の前生は中国を宗教的政治的に統一した明の朱元璋であるなどと公言していたが,同年2月22日から数日間,村井,新實,井上,早川,遠藤,中川ら教団幹部や真理科学技術研究所のメンバーその他の出家信者ら合計約80名を引き連れて中国に旅行し,前世を探る旅として朱元璋ゆかりの地を巡った。
被告人は,その旅の途中,ホテルの一室で,約80名の同行した出家信者に対し,タントラ・ヴァジラヤーナにおける五仏の法則について,「アクショーブヤの法則とは,例えば毎日悪業を積んでいる魂は長く生きれば生きるほど地獄で長く生きねばならずその苦しみは大きくなるので,早くその命を絶つべきであるという教えである。アモーガシッディの法則とは,結果のために手段を選ばないという教えである。」などと体系的に説いた上,「1997年,私は日本の王になる。2003年までに世界の大部分はオウム真理教の勢力になる。真理に仇なす者はできるだけ早く殺さなければならない。」旨の説法をし,武力によって国家権力を打倒し日本にオウム国家を建設して自らがその王となる意図を明らかにした。
被告人は,そのために,サリンプラント製造計画と自動小銃製造計画を軸とする教団の武装化をより一層早める必要があると考え,中国旅行から帰国した直後である平成6年2月27日ころ,都内のホテルオークラにおいて,中国旅行に同行したメンバーらの前で,「このままでは真理の根が途絶えてしまう。サリンを東京に70tぶちまくしかない。」などと言い,村井,早川,井上らの前で,サリンによる壊滅後,日本を立て直して支配するが,オウムが生き延びるためにも食糧事情等の調査もしなければならないという趣旨のことを話した。
また,被告人は,同ホテルで,サリンプラントの設計担当者である滝澤ら真理科学技術研究所のメンバーを集め,設計担当者を新たに追加し,その設計を急ぐよう発破を掛けた。
被告人は,その翌日,千葉市内のホテル「ザ・マンハッタン」に移動し,同所に呼び寄せた廣瀬及び豊田に対し,自動小銃の製造チームに加わり,自動小銃1000丁を一,二か月で完成させるよう指示し,青山,Iや富永らのグループに対しては,自衛隊を取り込むために自衛隊員の意識調査をし,また,東京が壊滅した後に理想的な社会を作っていくための作業として,現代の日本の矛盾点について1か月で調査するよう指示した。
他方,被告人は,一般信者には,教団支部等での説法等を通じて,教団がサリンの大量生成や自動小銃の製造などの武装化を進めていることを秘し,教団が国家権力から毒ガス攻撃を受け続け危機的状況にあることを強調して国家権力に対する敵愾心をあおった。
被告人は,同年3月中旬ころ,新實,井上,中村昇らに対し,「もうこれからはテロしかない。」などと言い,新實をリーダーとして,自衛隊出身あるいは武道のできる出家信者十数名に軍事訓練のキャンプをさせ,同年4月上旬ころには,そのうち約10名をロシア連邦に派遣し,数日間,軍の施設で自動小銃等による射撃の訓練をさせ,同年9月下旬ころにも,異なるメンバーで,多種の武器による射撃訓練が実施された。
被告人は,同年5月ころ,青山らのグループに対し,オウムでも日本やアメリカのような省庁制度を作るので,その国家制度について調査するように指示し,また,日本を壊滅した後の将来の国家体制を担うオウム国家の憲法草案を起草するよう指示した。同年6月ころの段階での憲法草案には,主権は神聖法皇である被告人に属することや神聖法皇に国家権力を集中することなどが規定されていた。
さらに,被告人は,日本やアメリカの行政組織を模した省庁制を採用し,教祖である被告人を頂点とし,その下に,被告人が直轄する法皇官房(実質的責任者はI),武装化に向けて兵器等を開発するなどしていた真理科学技術研究所が改編された科学技術省(大臣は村井),被告人やその家族の警護や軍事訓練,スパイの摘発等を担当する自治省(大臣は新實),信徒からの情報収集その他の諜報活動等を行う諜報省(CHS,大臣は井上)等の省庁を設け,大臣や次官には教団幹部を任命した。
(3)麻酔薬、LSD、メスカリン、覚醒剤製造事件について
94年から95年にかけて、信者の精神性・霊性を向上させるイニシエーションのために、麻原が指示して、厚生省を中心としたメンバーに様々な薬物を製造させたとされる。
麻原は、これらの事件で起訴されたが、裁判迅速化のため、検察は起訴をその後取り下げたので、この事件についての麻原に対する判決は出ていない。ただし共犯者とされる被告らは有罪判決を受けている。
(4)滝本サリン事件について(殺人未遂事件で麻原有罪)
滝本弁護士は、89年11月頃から「オウム真理教被害対策弁護団」及び「坂本弁護士を救う全国弁護士の会」に所属し、教団を相手方とする民事訴訟の代理人として活動したり、信者の出家阻止、脱会促進のための活動を活発に行なったりしていた。
こうした活動が教団活動にとって障害になると考えた麻原は、94年5月7日頃、青山、遠藤、中川ら教団幹部に対して、同弁護士の殺害を指示した。
同月9日に甲府地裁で教団信者絡みの裁判があり、相手方の代理人として滝本弁護士が出廷することがわかっていたので、その際に駐車場に止めてある同弁護士の車のフロントウィンドー付近にサリンを振りかけて吸引させることにした。
犯行には、青山、遠藤、中川らの幹部のほか、連絡係として富永昌宏が、サリンを同車にかける係としてT・Aが抜擢された。
犯行は計画通り行なわれ、サリンを振りかけた車に滝本弁護士は乗り込んでしばらく運転していたところ、サリンを吸引して縮瞳が生じ視界が暗くなったりなどした。
(5)松本サリン事件について(殺人・殺人未遂事件で麻原有罪)
91年から教団松本支部の土地を巡り、土地所有者と教団との間に係争があった。法廷での争いも教団にとって芳しくない結果が出て、当初の計画を縮小せざるを得なくなっただけでなく、地元住民による反対運動も盛り上がりを見せ、社会問題化した。
麻原は、こうした事態を打開するとともに、サリンの効果を実験するため、教団に敵対的な長野地裁松本支部の裁判官と地元反対住民に対して、サリンを噴霧するよう村井、新實、中川、遠藤らの幹部に対して指示した。
麻原の意を受けた村井は加熱式のサリン噴霧器を積載した車両を使うことにした。噴霧現場での警備役として中村昇、冨田隆、端本らの幹部が抜擢された。噴霧車の製造には、渡部、富樫若清夫、藤永孝三、林泰男、角川知己、高橋昌也らの幹部、信者が当たった。中川、土谷らの幹部が生成したサリンが使用された。
94年6月27日、第7サティアン前から、噴霧車ともう一台のワゴン車が松本に向けて出発。噴霧車は端本が運転し、村井が同乗した。ワゴン車には、冨田を運転手として、新實、中川、遠藤及び中村らの幹部が同乗した(中川と遠藤は医療班として)。当初の攻撃目標は地裁庁舎であったが、現場到着が夜となり、地裁が閉庁した後だったので、実行グループは麻原と相談の上、目標を裁判官官舎に変更した。
同日、午後10時30分、上記2台は裁判官官舎近くの駐車場に留まり、午後10時40分から、村井が噴霧器を操作してサリンを発散させた。ワゴン車の方は見張り役を務めた。こうして、散布されたサリンが風に乗って付近の住宅街に広がり、死者7名、負傷者600名以上の被害を出す大惨事となった。
(6)冨田事件について(殺人・死体損壊事件で麻原有罪)
94年7月、女性出家信者が第6サティアンの浴室で、びらん性の毒ガスを浴びたのと同様の火傷の症状を呈したことから、何者かが教団内に入り込んで毒ガス攻撃をしているとの見方があったが、その後、当時タンクローリーで第6サティアンに教団の生活用の水を運搬していた教団車両省所属の冨田俊男氏の名前が、スパイとして挙がってきた。
そのため、麻原は、林郁夫に命じて、ポリグラフ(いわゆる嘘発見器)とイソミタールインタビュー(いわゆる自白剤の投与)によって、富田氏をチェックしたところ、ポリグラフの方では陽性反応が出た。なお、麻原の判決によれば、当時教団ではびらん性毒ガスを研究していたので、その事実を隠すとともに、国家権力に対する敵愾心を煽るために、誰かをスパイに仕立て上げようとしたと認定している
そこで、麻原は、新實に対して、冨田氏を自白させるよう指示した。新實は杉本、中村、山内信一ら幹部に手伝わせて、冨田氏を自白させようと、冨田氏を椅子に縛り付け、暴行を加え続けたが、冨田氏は自白しなかった。
あらためて新實が麻原に相談したところ、麻原は、冨田氏を殺害することを決意し、村井とも相談した上、新實に対し、マイクロ波焼却装置を使い冨田氏を焼却するように指示した。新實はその指示通り、冨田氏の頸部にロープを巻き付けて締め上げ、これを殺害して死体を焼却した。
なお、新實自身は、動機について、「スパイを放置することで、他のサマナに危害が加わることを防止し、冨田にこれ以上スパイとしての悪業を積ませずに、真理との縁を深めるためやった」旨を証言している。また、「松本サリン事件以降、麻原は警察などの動きに敏感になり、スパイ疑惑に厳しくなっていた」旨証言している。
(7)VXガスによる連続殺人(未遂)事件について(殺人・殺人未遂事件で麻原有罪)
サリンに対する注目が強まったことから、しばらくはサリンの使用を控えることにし、その代わり、94年10月までに、土谷は、サリン以上の毒性(100倍~1000倍といわれる)を有する毒ガス・VXの生成に成功、常時製造できる態勢を整えた。
このVXを使った殺人(未遂)事件が、94年12月から95年1月にかけて3件起き、以下の通り、水野昇氏、濱口忠仁氏、永岡弘行氏の3氏が被害にあった。
・水野VX事件
水野氏は、教団を抜け出し同氏の許に身を寄せたN・H氏とその家族を匿ったうえ、弁護士を紹介して、彼女のお布施返還訴訟提起を手助けした。この訴訟で、N・H氏は、教団にお布施を強要されたと主張し、社会的イメージが損なわれることを恐れた教団は、N・H氏に訴訟を止めさせ教団に戻したいと考えていたので、水野氏の存在が障害であった。
麻原への判決によれば、麻原は、新實,井上及び遠藤らの幹部に対し,「水野は悪業を積んでいる。N・Hの布施の返還請求は,すべて水野が陰で入れ知恵をしている。水野にVXを掛けてポアしろ。そうすれば,N親子は目覚めてオウムに戻ってくるだろう。これはVXの実験でもある。水野にVXを掛けて確かめろ。」と指示した、とされる。
そして、94年12月2日、上記のメンバーに加えて、山形明が実行役として加わり、ゴミを出すために自宅前に出て来た水野氏の後頭部にVXガスをかけたが、殺害までには至らなかった。
・濱口VX事件
教団は、94年11月頃、教団大阪支部や名古屋支部において、在家信徒I・Y氏が分派活動を行っていると疑い、濱口氏が、それを背後で操っているのではないかと疑った。
判決によれば、麻原は、「I・Yは悪業を積んでいる。I・Yを操っているのは,濵口という者だ。濵口が公安のスパイであることは間違いない。VXを一滴濵口にたらしてポアしろ。」と言い、殺害を指示した。
実行したメンバーは、水野VX事件のメンバー、すなわち井上、新實、中川、山形、平田悟及び高橋克也ら幹部の6名であり、これらのメンバーは、94年12月12日、通勤途上の濱口氏の後頭部にVXガスをかけて、同人は、その10日後にVX中毒により死亡した。
・永岡氏VX事件
永岡氏は、「被害者の会」結成当時(89年10月)から同会の中心的な存在であり、出家信者の脱会促進、宗教法人の認証取消の陳情、教団に批判的なマスコミ発表を行なうなど、教団活動を抑えるために精力的な活動を展開していた人物だった。
94年12月当時も、永岡氏とその長男T氏が、活発に信者の脱会促進活動をしていたことから、麻原は、これ以上放置できないと判断した。
判決によれば、麻原は、新實に対し、永岡氏やその長男が、これまで教団や教団信者に対し行ってきたことなどを話した上、「どんな方法でもいいから永岡にVXを掛けろ。幾らお金を使ってもいい。VXを掛けるためにはマンションを借りてもいい。息子のTの方が行動力があるから、永岡ができなければTでもいい。井上としっかり打合せをするように。」という趣旨のことなどを言って、永岡氏か、それができなければその長男をVXを使って殺害するよう指示し、新實はこれを了承した。
95年1月4日、新實、井上、中川、山形、高橋ら幹部は、港区南青山の路上において、永岡氏の後頸部付近にVXガスを掛けて体内に浸透させたが、結果としては、永岡氏は一命を取りとめた。
■1995年の事件
次に、1995年の事件や関連する出来事について、裁判資料等に基づいて、列挙します。
1月 1日 読売新聞が上九一色村でサリンの残留物質が検出されたと報道
自動小銃一丁完成(武器等製造法違反事件)
1月 4日 永岡VX事件(殺人未遂事件)
1月 4日 肥料工場(三共有機)経営者を毒ガス噴射の殺人未遂で告訴
2月28日 假谷事件(逮捕監禁致死・死体損壊事件)
3月 大川隆法毒ガス襲撃未遂
3月15日 霞ヶ関アタッシェケース事件
3月18日 サリン散布のためのリムジンでの謀議
3月19日 大阪支部に強制捜査
3月20日 地下鉄サリン事件(殺人・殺人未遂事件)
3月22日 假谷事件容疑で全国一斉強制捜査開始
4月23日 村井刺殺事件 青山本部前
5月 5日 新宿青酸ガス事件
5月16日 都庁小包爆弾事件
5月16日 麻原逮捕
次に、一つ一つの事件について、裁判資料に基づいて説明します。
(1)自動小銃製造事件について(武器等製造法違反事件で麻原有罪)
麻原は、教団武装化計画の一環として、ロシア製自動小銃AK-74を1000丁製造することを決意し、92年12月から93年1月にかけて、村井や早川に実行に取りかかるよう指示した。
ロシアから実物を取り寄せて研究するなどした後に、93年5月頃から清流精舎を製造工場として、さらに第9サティアン、第11サティアン、第12サティアンにおいて、多くの信者が従事する形で部品製造の作業は進んだが、95年までに量産には至らず、95年1月1日にようやく1丁が完成したのみだった。
(2)假谷事件について(逮捕監禁致死・死体損壊事件で麻原有罪)
假谷清志氏の実妹であるN・A氏は、93年10月頃から教団の在家信者として青山道場に通うようになった。95年2月中旬から、準出家信者扱いとして同道場に寝泊まりするようになった。
ところが、同月24日頃から、N・A氏は道場に戻らなくなり、N・A氏の出家に際して多額のお布施が見込まれていたこともあり、飯田エリ子氏¥は、部下を使って彼女を捜したが見つからなかった。その後、内偵を進めていった結果、N・A氏の兄である假谷氏が、その居場所を知っている可能性を見いだした。
この報告を受けた麻原は、中村や井上ら幹部と相談して、假谷氏を拉致して、N・A氏の居場所を強制的に聞き出すことにした。そして、同月28日、假谷氏の勤務先である目黒公証役場付近の路上で、中村、井上、平田悟、高橋、平田信、松本剛、井田、中川らの幹部が待ち伏せし、帰宅途中の假谷氏を襲撃し、車に押し込んで連れ去った。
この後、假谷氏は第2サティアンに運び込まれ、中川と林郁夫は、假谷氏を半覚醒状態に保った状態で、N・A氏の居場所を聞き出そうと試みたが、聞き出せなかった。また、假谷氏の拉致を知った警視庁が、教団に疑いをかけて捜査を始めているという情報が入り、関係者に緊張が走った。
麻原は、假谷氏からN・A氏の居場所を聞き出すことができなかったことや、頭部に電気刺激を与えて記憶を消す方法(ニューナルコ)では教団に拉致されたという假谷氏の記憶を消すことができないと聞き、口封じのために假谷氏を殺害して、これまでと同様に、証拠隠滅のために、死体をマイクロ波焼却装置で焼却することを村井に指示した。
一方、こうして、假谷氏の処遇について検討している間も、假谷氏の意識が回復しないように、麻酔薬の投与が続けられていたが、3月1日午前11時頃、中川は、假谷氏の息が既に途絶えていることに気づいた。それは、大量投与した全身麻酔薬の副作用であった。その後、假谷氏の遺体は、教団のマイクロ波加熱装置で焼却され、本栖湖に遺棄された。
(3)地下鉄サリン事件について(殺人・殺人未遂事件で麻原有罪)
95年3月18日頃になって、假谷事件の疑惑が教団に対して向けられていて、強制捜査があるかもしれないという可能性が指摘されるようになった。この日の未明、麻原のリムジンの中で、麻原、村井、井上、遠藤、青山ら幹部が、強制捜査を防ぐ、ないし延期させる手だてについて話し合った。
その結果、阪神大震災という大災害によって当時予定されていた強制捜査がなくなったという事例にならい、地下鉄にサリンを散布してパニックを起こし、強制捜査を防ぐ、ないし延期させるという案が出された。この計画は、その後、実行に移すことになった。
その内容は、3月20日の朝の通勤時間に警視庁に近接した霞ヶ関駅を通る地下鉄車内(3つの路線の5本の電車)でサリンを散布するというもの。散布方法は、ポリエチレン袋に注入し封をされたサリンを(生成したのは遠藤、中川、土谷などの幹部)、とがった傘の先で突いて漏出させ発散させるというものであった。
5つの路線における散布役と散布役を送迎する運転手が以下のように選定された。
Ⅰ、日比谷線中目黒行き
散布役――林泰男、運転手――杉本繁郎
Ⅱ、日比谷線東武動物公園行き
散布役――豊田亨、運転手――高橋克也
Ⅲ、丸の内線荻窪行き
散布役――広瀬健一、運転手――北村浩一
Ⅳ、千代田線代々木上原行き
散布役――林郁夫、運転手――新實智光
Ⅴ、丸の内線池袋行き
散布役――横山真人、運転手――外崎清隆
犯行は上記の計画通り実行され、Ⅰの路線では8名、Ⅱでは1名、Ⅲでは1名、Ⅳでは2名が死亡し、Ⅴでは死者は出なかった(死者計12名)が、このほかに、5000名を超える負傷者を出す、大惨事となった。