【4】教団改革の試みまで(2002年秋~2003年)
■さらに続くシンクロニシティの体験、乗鞍連峰の大黒柱さて、大黒柱のヴィジョンを見た後も、私には、色々と不思議なことが起こりました。それは、見たヴィジョンなど、自分の心の中にあるものと、外界で体験するものが、不思議と一致するという現象でした。
今思えば、これらの体験は、ユング心理学の説く、シンクロニシティ(共時性、意味のある偶然の一致)という現象に当たるのではないかと思います。人の内面と、外界の体験が連動・共鳴している(かのように感じられる)現象です。ユング心理学の理論と似ているとされる仏教の唯識思想では、この世界は、全ては人の深層心理(阿羅耶識)の現れだしたものとされます。
そういったシンクロ現象の一つとして、大黒柱のヴィジョンを見た後に、何となくフィーリングで、乗鞍連峰に行った時の体験がありました。現地に到着すると、連峰の多くの山の中で、その日、光っている山が一つあったので、その山に昇って見ると、それが偶然にも、大黒岳という山で、その頂上には、その名前が刻まれた柱(=大黒柱)がありました。
さらに、周辺の地理が、大黒柱のヴィジョンから連想される、インド神話の乳海攪拌の物語に登場してくる神仏の名前と、非常に良く一致しているという、不思議なこともおきていました。
■神柱の如き、富士山での虹の体験
シンクロ体験は、それ以降も続いていきます。大黒柱のヴィジョンを見た、ちょうど一ヶ月後に、富士山の麓に行くと、富士山の裾野から、まさに柱のように、天に向かって立ち上る、見事な虹を見ました。
それは、ちょうと日暮れ時で、夕日に輝く虹でしたが、雰囲気として、神柱の如く、神聖に感じられもので、私と同行した信者も、深い印象を受けました。虹が出ている前後、夕日に照らされた富士が真っ赤に染まっていくのも素晴らしい光景でした。
なお、後日、インドの神話の中で、シヴァ神が、光の柱として現れる話しを教えてもらったのですが、その神話の内容が、自分が体験した虹色に輝く柱のような虹や、赤く染まる富士の光景と、これも良くシンクロしており、これもまた興味を覚えました。
なお、これは余談ですが、この富士の虹の体験から3年くらい後に、その虹を見た場所と非常に近いところに、私は、聖徳太子を祭る寺を見つけたのですが、その寺は、聖徳太子が、その地で虹を見て、ここは聖地であると語ったという伝説(聖徳太子伝説)に基づいて建てられたと聞いて、これも非常に興味深く思いました。
それから、この頃、教団は、大阪の道場の賃貸契約が切れ、移転先の物件を求めていたところ、新しく見つかった物件の最寄り駅が、偶然にも、(大黒と同じ発音の)大国町であり、近くに、大黒様の神社があったため、私の体験とシンクロしたものとして、通称、大黒道場と呼ばれることになりました。なお、日本の神仏習合の宗教文化では、大黒天と大国主命が習合し、大黒様となっています。
この道場については、後に起こる教団分裂の際にも、大家さんが、上祐派の社会融和を重視する考えに深い理解を示し、社会融和を軽視する反上祐派との契約を解除して、私たちの使用を認め、今でも、ひかりの輪の大阪道場として、縁が続いています。
こういったシンクロ体験は、他にも色々なものがありました。私は、そういった体験と共に、自分の中で芽生えつつある新しい宗教性に突き動かされて、神社仏閣を訪れたり、他宗派の研究を始めたりしました。
■諏訪の御柱、教団と日本の信仰文化が融合し始める
その一環として、柱をキーワードとして、ご神木を崇拝する御柱祭で有名な諏訪大社を訪れました。そして、当地の博物館で、諏訪の御柱祭と共通性がある海外の信仰として、オウム真理教の崇拝対象だったシヴァ信仰に関する神柱の祭りが、ネパールにあることが、紹介されているのを見つけました。
これを見たとき、私は、教団で説かれたシヴァ神の信仰が、少なくとも、その一部においては、本来は、教団に限らず、諏訪の神柱のように、日本や世界全体に広がっており、教団の信仰と、日本や世界の信仰文化は、その根底において、つながりがあるのではないかと感じました。
この体験を初めとして、自分の神社仏閣や聖地の訪問は、教団を聖として、社会を邪とし、教団以外の日本の信仰文化を否定した麻原の教えから、自分が一歩一歩脱却していくための道筋を与えていきました。
そもそもが、オウム真理教といえど、日本人の教祖が、日本人の信者と作った宗教ですから、仏教の因果の法則からしても、本来は、日本と縁があるはずであり、宗教面においても、教団と日本につながりがあるのは、当然のことでした。
■十和田のストーンサークル
また、この頃、私は、有名な宗教家である出口王仁三郎が、世界を救う神柱の予言をしていたのに注目しました。そして、彼がよく訪れた東北の十和田に行き、そこの神社や、自然でできたピラミッドや、ストーンサークルといった、超古代・縄文時代の遺跡を見ました。
特に、ストーンサークルは、中央に石の柱があり、その回りを囲む形になっていますが、その形が、ヒンズーの崇拝対象であり、シヴァ神を象徴する(シヴァ)リンガというものに、非常に似ていることに気づきました。また、この遺跡の名前が、偶然にも、その訪問前に、自分の瞑想の中で浮かんだ名前と同じだったことも、印象に残る理由となりました。
そして、超古代の日本とインドの信仰文化に見事な共通点を見て、私は、世界の宗教が根底のところで一つにつながっているのではないかと思いました。実際に、後日になってからですが、ある宗教学者が、超古代の環太平洋文明において、このストーンサークルと似た遺跡があると報告していることを知りました。
■インドの聖者にまつわるシンクロ体験
さて、翌年2003年になると、先ほど少し先走って言及しましたが、有名なインドの宗教家であるラーマククリシュナと、その弟子であるヴィヴェーカーナンダに関心をもちました。
そのきっかけは、信者の中に、ヴィヴェーカーナンダの容姿や性格・考え方が、私と似ている、という人がいたからでした。そこで、調べてみると、私だけではなく、私の法友達にも、ラーマクリシュナの教団の弟子達と、その容姿や性格がよく似ている人たちがたくさんいるように感じられ、この類似性を教団内で発表するなどしました。
そして、先ほど書いたように、私は、このヴィヴェーカーナンダの考え方に深く共鳴するところがありました。特に、彼が、師のラーマクリシュナの死後、師を神の化身として崇拝する実践をする兄弟弟子達を叱咤し、一時期は一部の弟子達の反発を受けながらも、師の崇拝よりも、全ての人々を神の現れとみて奉仕するカルマ・ヨーガを唱えて、教団を改革していった点は重要に思えました。
■宗教家が語る前生の問題について
ただし、この際に、私の周りの人たちに、私が、このインドの聖者の生れ変わりではないか、という言う人がいた点については、今思えば、不適切なことだったと内省しています。
これは、麻原に限らず、宗教団体にはよくあることですが、自分たちが歴史的に非常に偉大な宗教家や人物の生れ変わりであるという主張は、自分たちを過大に神格化・絶対化する可能性があり、問題をはらんでいると思います。
もちろん、その教団の世界の中で、歴史上の特定の人物と似ている人がいると言うことはあると思います。例えば、ある教団の教祖は、その教団の世界の中では、その教団の信者にとって、イエスや仏陀の生れ変わりのように見えることは、事実として、あると思います。
しかし、問題は、その小世界での救世主が、その自分の世界を逸脱し、実際の世界全体の救世主であると自己を錯覚し、いわゆる誇大妄想に陥るならば、それは、大変なことになります。
その教祖と宗教が、全ての人類の救世主になるべきだと考えるならば、その宗教は、対立する社会や、他の宗教・宗派との間で、当然の如く争いを起こします。そして、これが、まさにオウム真理教であったということが出来ると思います。
その意味で、私個人の考え方としては、あらゆる宗教・宗派や、その教祖は、自分に縁のある人たちを救えば良く、自分に縁のある範囲で活動すればよいと思います。
それ以上に無理に信者を増やそうとすれば、何かしらの争いの元になり、その意味で、程度問題ではありますが、基本的には、来る者は拒まず、去る者は追わずの精神が大切だと思います。
よって、どこの宗教団体でも言われる、教祖が過去の偉人の生れ変わりであるといった話しは、少なくとも、他者との闘争につながらないように、限定的、抑制的に、用いられるべきだろうと思います。
なお、この教祖の前生や来世を原因とする宗教的な対立・紛争の問題については、別項で詳しく書きましたので、そちらをご覧いただければと思います。
それはともかく、この2003年の時点では、私には、前生というものについて、十分にバランスの取れた考え方は、まだ形成されておらず、このことは反省しています。
■2003年、教団の改革の試みを始める
他にも様々なことがありましたが、こういった流れの中で、私自身も、そして、教団全体としても、私の宗教的な権威を高める方向に動いていきました。
その中で、2月ごろから、私が主導して、麻原を目立たせなくする教団改革を始めました。これは、あくまでも、在家信徒を扱う支部道場を中心として、麻原を目立たせなくし、麻原に信仰を持ちにくい信徒などが、強い反発・違和感を感じることを和らげるのが、その主たる目的でした。
なお、公安調査庁は、この2003年の教団改革を麻原隠しと批判していますが、これは、明らかに事実に反しています。
そもそもが、その当時の私は、麻原に対する信仰を完全にはやめておらず、改革においては、その教材をある程度減らすことは意図しても、大半は維持される予定でしたし、その主旨は、麻原が、以前よりも目立たない状況を作ろうとしたに過ぎませんでした。その意味で、麻原隠しと呼ばれるほどのものでは全くありません。
なお、その一方で、反上祐派は、この改革を「グル外し」と批判しています。一般社会から客観的に見るならば、単にグル=麻原を目立たせなくする程度の改革であっても、なぜ、反上祐派が、それをグル外しとして批判したのかというと、その程度であっても、彼らにとっては、宗教的に許容できないということに過ぎません。
彼らの考え方は、グル=麻原が、事実上絶対であって、表では賠償はしても、内部では、事件の総括・否定さえも拒むものですから、その絶対的とされる麻原を目立たなくさせること自体が、信仰に反する行為なのです。
こうして、この2003年の教団改革の試みは、社会一般から見れば、麻原隠しとか、グル外しと見なすことが出来る程のものではありませんでした。
しかし、それ以前に比較するならば、次の何点かにおいて、本質的には、非常に重要な変化を含んでいた、ということができます。表面的には、単に麻原を目立たせなくする形のものであっても、本質の面において、大きな変化の始まりであり、それが、その後の上祐派の活動につながっていったと私は解釈しています。それは、具体的には以下の通りです。
■事件の明確な否定と、微妙に変化した麻原の位置づけ
第一に、一連の事件を明確に否定したことと、それに伴い、麻原の位置づけが、微妙に変化したことです。
それまでの教団では、表向きは、麻原の指示した一連の事件を否定し、賠償をしていましたが、裏においては、①一連の事件を起こした麻原は、グルとして、私たちとは別個の絶対的な存在であり、②それ故に一連の事件は、神の化身が行ったものとして否定すべきではない(ないしは、信者がその是非を判断してはいけないもの)、という考え方が支配的でした。
しかし、この教団改革を行おうとした時期の前後から、私は、先ほど述べた宗教的な体験もあって、一連の事件を起こした麻原は、グルとして、私たちと別個の絶対的な存在ではない、という考えを持ち始めました。
それは、麻原の言動は、一見して理解しがたい面があっても、実際には、私たち自身と深い部分ではつながっている面があり、信者には刑事責任はなくても、宗教的な責任がある(仏教的に言えば、私たちの業の投影、自業自得である)というものです。
これを少し科学的な言い方をすると、私たち信者の潜在意識の投影である、ということでしょうか。
ここで注意していただきたいことは、この考え方は、①事件を聖戦ではなく、悪業である、とする考え方ではありますが、かといって、②麻原を否定した考え方であるかというと、解釈によっては、そうはならないということです。
なぜならば、この考え方は、教団信者の間では、麻原がグルとして、信者に内在している悪業を意図して引き出して、信者にその悪業の結果の苦しみを体験させることで、そういった悪業を将来は二度となさないように導いた、という非常に特殊な解釈が可能だからです。
もう少し具体的に説明すると、①信者達には暴力的な行為への欲求が潜在的に存在しており、②それは、麻原が引き出すことがなくても、今生や来世などおいて、いずれ表面化することが必然であり、③一連の事件を指示することで、麻原がそれを意図的に引き出して、そういった暴力的な行為の苦しみを信者に経験させた上で、その後の改心に導こうとしているという考えです。
これは、一般の方から見ると、非常に奇妙な考え方に思われるでしょう。
しかし、教団の信者には、①一連の事件は悪いことだと感じるが、②麻原はグルとして否定したくない、という二つの相反する気持ちがありますから、この矛盾を解決することが出来る意味で、この考え方は、信者に受け入れられやすいものです。
さらに、チベット密教の経典などを見ると、①似たような行為をなしたと解釈できるような、昔のグル・聖者を見いだすことができたり、また、②グルが弟子の悪業・欠点を投影することがあると書かれているものもあったりし、それらは、この考え方に、正当性を与えることになります。
ただし、誤解のないようにお話ししておきますが、今現在の私のチベット密教の教義の解釈は、これとは違っています。チベット密教の正当な解釈をするならば、旧教団の一連の事件は正当化されることはないと考えています。この点は、サイトの別の記事に表現しています。とはいえ、2003年の改革の時点では、こういったチベット密教の教義に関する解釈の見直しは、まだできていませんでした。
ともかく、以上のことをまとめれば、この2003年の時点での私の考えは、
①一連の事件は、麻原が指示したが、それは、信者に内在していた悪業の投影であって、正当化できるものではなく、反省すべきことである、と位置づけたものの、
②麻原は、それを全部承知で意図して指示した、と解釈する余地を残して否定せず、その絶対性を従来とは違った意味ではあるが、維持した面がある、
ということになります。
しかし、ここには、今から思うと、これだけでは終わらない、非常に微妙な問題が含まれていました。
それは、従来のように麻原の言動が、信者とは別個の絶対善であるという考えをやめた点では、麻原を相対化した面もあるということです。
当時の私は、信者に対して、麻原を否定することはなく、従来とは違った新しい解釈においてではありますが、麻原への帰依を説いていました。
しかし、私の考え方は、段階的な麻原の相対化に結びつく可能性を持っていた、ということができるかもしれません。
というのは、麻原の指示・言動の一部に、信者の悪業が投影されているものがあるとすれば、麻原の指示があったとしても、信者はその全てに自動的に従うべきなのではなく、自分で考えなければならない場合もあるという解釈が出てくるからです。
■一連の事件の関与を明確に認める
さて、この教団改革を行うために、全ての出家修行者や、主だった信徒多数を集めた集会を開きました。
そして、その際に、複数の信者から、本当に教団が事件に関与したのかを質問を受け、私が、それに対して、明確にそれを認めたと言うことがありました。
一般の方から見ると、教団の事件関与を認めると言うことは、1999年から2000年の時点で、賠償金の支払いを始める際に、既に行ったことではなかったか、という疑問を持たれると思います。
確かにそうであり、このこと自体はある意味で、私にとっても、驚きだったのですが、教団が、既に何年も前から、公には一連の事件に対する関与を認め、賠償金の支払いを始めていたにもかかわらず、教団中では、出家修行者にしても、在家信徒にしても、多くはありませんが、少なからず、依然として、それを信じていなかったのです。
信者の中には、幹部が行なった教団の一連の事件に対する関与についての説明を聞いても、それを表向きのことであると解釈して、真実として受け止めていなかった人もいると思います。
そういった一部の信徒がいても、幹部達は、その思いこみを覆すまで、十分に説得したり、その思いこみをやめなければ、反省がないとして、教団から除名したり、といった措置は取っていなかったと思います。
また、一部では、幹部自身が、関与を信じたくないので、信者への説明が全くの形式的なものか、それ以下になってしまっていた場合もあるかも知れません。
この背景には、麻原が一連の事件に関与したと信じたくないとか、それを反省したくない、といった考えがあったからだと思います。
実際に、その後、上祐派と反上祐派が分裂しますが、反上祐派の一部においては、一連の事件の陰謀論を広めた幹部がいました。
これは、教団信者の一部に、麻原と旧教団が一連の事件に関与していないと信じたい、という強い感情があることを示しています。