【3】新たな宗教観の芽生え(2002年の代表就任~2002年秋まで)
2002年1月に、私は、教団の代表に正式に就任することになりました。それまでも、実質上、正大師のステージにある私が、教団の運営を主導していたのですが、出所後間もない、と言うことで、正大師のステージを形上返上して、元正大師と名乗るなどしていました。
それが、2001年後、秋頃から、そろそろ状況も落ち着いてきたということや、正悟師というステージでありながら代表を務めてきた村岡氏の負担が大きいという問題などを勘案して、私が、正大師のステージに正式に復帰し、加えて、教団の代表に就任するのはどうかという考えがでてきて、それが実現したということになります。
■独自の宗教的な体験・思想の始まり、2002年6月
そして、代表に就任してまもなく、2002年の半ばくらいに、自分自身には新たな宗教観が芽生えるということが起こってきました。それが、その後、上祐派と反上祐派との間の意見の相違と、上祐派の脱会・独立という事態につながっていく上で、全てではないですが、一つの原因となっていると思います。
その第一のものは、その年の6月のことでしたが、私は、かねてから自分の疑問であった旧団体の麻原の一連の事件のことについて瞑想しながら考えていました。
そして、理解しがたい面が多々あった麻原の一連の行動について、深く考えれば、それは、麻原だけの問題・凶行ではなく、私たち信者の心の働きとつながりのあるものだ、と感じました。
仏教的な用語で言えば、自業自得、因果の法則、ということになりますが、私たちが麻原のような教祖に巡り会って、事件を含めた経験したのも、自分たちの業であるということです。
心理学的、現代的に言えば、表層意識においては、麻原の行動は理解しがたい面が多々あるものの、それは、自分では気づかない、自分たちの潜在意識を投影している面がある、とでも言うのでしょうか。
これは、このサイトで別に掲示している、①95年までの総括や、②脱会に際する信者へのメッセージにおいても、説明しています。
麻原は、自己を絶対視して、一連の事件を含めた違法行為を行いましたが、麻原を絶対視することを通して、自分たちが巡り会った宗教や自分たち自身を絶対視したい、という自己愛、傲慢、そして、それに基づく、権力欲などが、信者側にも、あったのだろうと思います。
そして、そう感じたとたん、麻原の一連の事件について、それを単に理解できない、疑問の対象としてとらえていた時とは違って、大きく心が晴れる感じがしました。
ヨーガ修行者、霊的修行者の表現を使うならば、自分のエネルギー状態、いわゆる、気の流れが非常に良くなったのです。
この精神的な体験自体が、自分には大きな出来事でしたが、それを更に印象づける出来事が起こりました。
それは、この気づきを得た直後、外出してみると、その日は、東京を離れて、ある郊外の自然の中にいたのですが、空のあちこちに、全部合わせて、7つもの虹が出ていたのです。
太陽の周りを囲んでいるもの、その更に周りを囲んでいるもの、そして、太陽の下に棒状になっているもの、太陽から遠く離れているものなど、様々な虹がかかっていました。
これは、虹というのが、単に美しい自然現象であるだけでなく、仏教・密教において、非常に神聖な意味を持つこともあって、大変印象深い出来事でした。
■2002年7月、続く印象深い虹の体験
その後、私は、郊外の自然の土地で、似たような体験を何度かすることになりました。
一ヶ月くらい後の2002年7月には、太陽の周りを囲む環状の虹とその外の棒状の虹が、5時間近く出続けるのを見ました。その際は、人の苦しみの裏側には、喜びがある、という仏教的な教えについて瞑想していた時でした。
そして、その虹の鮮明さ、出ている時間の長さ、そして、その形などが、非常に珍しいものでしたから、強い印象に残りました。
さて、その時は、気づかなかったのですが、この日は、2002年7月4日で、その後、麻原から自立する上で、非常に重要な宗教的な教えを学んだ、インドの大聖者のラーマクリシュナの弟子であるヴィヴェーカーナンダが死んでから、ちょうど100年後の日でした。
■後から知った、インドの聖者ヴィヴェーカーナンダの教えについて
私は、2002年までは、ヴィヴェーカーナンダのことはほとんど知らず、そのグルであるラーマクリシュナについて、わずかに旧教団の機関誌で読んだ程度でした。そして、その日が、100年後だということを知ったのは、2002年ではなく、おそらく、2003年になってからだ、と思います。
しかし、この出来事は、最終的には、単なる偶然の一致以上の影響を私に与えることになりました。というのは、先ほども書いたように、このヴィヴェーカーナンダの教えが、私が麻原から自立する上で、非常に大きな影響を与えたからです。
とはいっても、私が、ヴィヴェーカーナンダの具体的な教えや活動を知ったのは、この2002年から2003年ではなく、私がいったん教団運営から退くことになった2004年よりも後で、2005年以降のことでした。
よって、2005年に関する出来事を書くときに、これについて述べても良いのですが、バラバラになるのもどうかと思い、ここでまとめて書いておきたい、と思います。よって、自分がヴィヴェーカーナンダから学んだ以下の事項は、2002年時点で学び取ったものではなく、その3年弱後のことになります。
さて、ラーマクリシュナが説き、ヴィヴェーカーナンダが重視した教えの中で、私が非常に感銘を受けたものとして、全ての人々を神の現れと見て奉仕するという教えでした。
そこでは、自分が、他の人々に哀れみを垂れる、といった考えでさえ、傲慢で愚かな考えだ、として否定されていました。
これは、麻原を神の化身と位置づけて、教団・信者を聖とし、社会・非信者を邪とし、教団が、悪業をなす非信者の生命を奪って、その悪業を止めることも慈悲の一環である、とした麻原の思想とは、大きく異なるものでした。
また、ヴィエーカナンダは、師であるラーマクリシュナの死後に、ともすれば、兄妹弟子が、グルや神を拝むことばかりに集中しがちだったのに対して、一部の兄妹弟子の反発を一時は受けつつも、「ラーマクリシュナは自分を拝めとは説かなかった」「人々への奉仕こそが解脱の道である」などと説いて、教団の修行実践のあり方を大きく改革した人物でもあり、その点も、共鳴しました。
彼は、宗教活動のみならず、社会思想においても、自立心の重要性を説き、イギリスの統治下にあったインドで、インド伝統の思想の価値を強調し、当時のインド社会に大きな影響を与え、その中には、ネルーやガンジーといった後のインド独立の立役者も含まれていました。彼の死後、インドは独立することになります。
■アメリカ合衆国の独立に共鳴する
それから、もう一つ、自分が感じた不思議な一致がありました。それは、私が、この虹を見た7月4日は、ヴィヴェーカーナンダの命日であると共に、彼が布教に大成功したアメリカ合衆国の独立宣言の日でもありました。
ラーマクリシュナとヴィヴェーカーナンダの教団では、ヴィヴェーカーナンダは、ヨーガの聖者についてよく言われるように、自分の死期を悟って、自ら死ぬ日を決め、サマディという超越的な瞑想状態に入り、意図的に死んだと信じられています。
そして、これらの事実が、どのように自分に影響を与えたかというと、アメリカ合衆国が、大英帝国から独立した際の状況が、後に脱会し独立していく自分の立場と、ある意味で共通点があるように感じられたからです。
というのは、当時のヨーロッパでは、王権神授説に基づいて、王を神の代理人とする思想が主流でした。それに対して、アメリカ大陸で独立を決意した人々は、全ての人々に神の権威を認める、という新しい思想をより所として、当時としては世界で初めての民主主義国家を設立しました。これが、アメリカの独立です。
そして、アメリカの人々は、この初めての偉業の達成において、大変な勇気を持って、それを行なったことを知りました。
その独立時の最大の障害は、経済的な問題ではなくて、精神的な問題でした。すなわち、神とされてきた大英帝国の王から、自分たちが独立することに対する精神的な不安だったとされています。
これが、オウム・アーレフ教団において、神の化身・キリスト・王とされた、麻原から、自立していく私たちの立場と、非常に似通っていると感じたのです。
とはいえ、繰り返しになりますが、このような思索は、2005年ほどから始まったものであり、2002年の時点では、単に珍しい鮮やかな虹を見て、直感的に何かを感じはじめてはいても、まだ、脱会も独立も全く考えていませんでした。
■2002年秋、宗教的な体験が続く
その後8月に、私は、シャクティパットという宗教的な儀式・修行を行いました。
これは、オウム・アーレフ教団において、麻原が始めたもので、高いステージの修行者の霊的なエネルギーを信徒・会員に移入する、とされる儀式・修行ですが、結果として、多くの信徒・会員が相当な霊的な体験をしました。
この頃から、珍しい虹の体験の連続やシャクティパットの霊的な現象などによって、私の教団内におけるカリスマ性は、徐々に高まり、それは、徐々に、教団の単なる代表というもの以上になっていったと思います。
その後も、私に、印象深い虹の体験や夢や瞑想上の体験が続いていきました。2002年の9月ごろには、自分と他人を区別しない仏教的な教えに関する印象的で鮮明な仏教的なヴィジョンを見ました。
自分たちの教団を聖とし、社会を邪と見て、教団と社会を強く区別する善悪二元論がオウム真理教の教義の特徴ですから、この体験は、6月の最初の虹の体験の時と同様に、私が、自と他の区別が柔らかい、仏教的な一元論的な世界観に傾倒していく、一つのきっかけになったと思います。
10月になると、さらに、自分に大きな影響を与えるヴィジョン(夢)を見ました。
そのヴィジョンは、最初、火山の噴火があって、その後に龍神のヴィジョンが現れました。そして、その後に、もっとも強い印象をあたえるヴィジョンが展開しました。
その中では、私の前には、世界中に向けて神聖なエネルギーを発する回転体があり、その回転体から、私の方に向かって、透明感のある赤を中心した美しい色のエネルギーが棒のように伸びていました。
私は、それが非常に貴重なものである、と感じ、自分の手で掴もうとして、そうすることができました。また、その場には、チベットの高僧のような赤い服を着た仏教僧のような人がいて、私を見守っているように見えました。
そして、そのエネルギーの棒を掴んだ後、私は、その棒を押すことで、その神聖なエネルギーを発している回転体を回転させようとしました。すると、その時に、「21世紀の大黒柱」という非常に印象深い声が、どこからともなく聞こえました。
これが、その時のヴィジョンの概要ですが、当時の私は、多くの宗教家のように、これをいわゆる神からの啓示のように受け取りました。そして、こうした背景としては、この前後に、私には、偶然の一致にしては、不思議な体験、神秘的な体験が、連続して起こっていったこともありました。
■宗教家が自己の体験を過大視する問題について
さて、2002年当時の私は気づきませんでしたが、これらの体験は、私が、宗教家として、麻原からの自立・独立していく始まりではあるという意味では、今でも好ましいものだと考えています。
しかし、これらの体験に関する、当時の私の解釈の仕方は、麻原を含めた、多くの宗教家が抱える、神の啓示にまつわる問題と共通したものがありました。
この問題に、ある程度、定まった答えが出たのは、2002年よりも、だいぶ後のことであって、いったん教団活動から退いて、再び復帰した、2005年以降のことだった、と自分では思います。
その問題とは、宗教家が、自己の神秘的な体験を過大視・絶対視してしまう傾向のことであり、バランスの取れた視点で捉えることが出来ないという問題です。
今現在の私は、こういった神秘的な現象は、確かに、この世にあるのですが、それが珍しいから、と言って、それを絶対視・神格化することは間違いであって、そうしてしまうと、自己を神格化するなど、誇大妄想に陥ってしまい、本当の悟りからは、離れてしまう面があると考えています。
そして、今現在の自分の考えでは、神秘的な体験や超能力といったものは、それを過大視・絶対視し、そういった体験・能力のある人を神格化する根拠にしてはならないと思います。
そうではなく、世の中を広く見渡すならば、そういった体験や能力は、様々な人に起こるものであり、決して絶対視・神格化するべきものではない、というように、バランスよく考える必要があると思います。
ただし、自分の考えとしては、こういった霊的・神秘的な体験を全面的に否定して、そういったものは存在しないという姿勢も、物質主義・唯物主義に偏った極端な考え方だ、と思います。
それは、現時点の科学が説明できない現象を一切無視する、という姿勢だと思いますが、これもまた、完全・絶対ではない現時点の科学を絶対視・過大視している、という意味で、別の意味で、何ものかを絶対視する見方であり、極端である点については、宗教における絶対視・過大視と共通した面があると感じます。
こういったタイプの人は、あまり神秘的な体験がない人が多いと思いますが、逆に、このタイプの人は、否定しがたいほどの神秘的な体験を経験すると、一転して、極端な信じ方をする場合もあります。これは、霊的・神秘的な体験に対する、ある意味で、未熟な状態ではないかと思います。
よって、今現在の自分の考え方は、その両方の極端に偏らず、霊的・神秘的・宗教的な体験に対して、否定もしないし、絶対視・過大視もしない、というバランスの取れた姿勢が、もっとも成熟した、安定したものではないか、というものです。
さて、話を元に戻したいと思います。
神秘的な体験を絶対視・過大視するという問題は、その体験をする中心人物だけでなく、その周囲の人たち、すなわち信者が、自分の依存心や自負心によって、自分たちのリーダーを神格化していく、そのように期待していて担いでいくことにもあると思います。
麻原とその信者の場合は、正にこの典型的な例だったと思います。麻原が示した一定の霊的な能力によって、麻原とその信者は、麻原を絶対神の化身にまで、神格化してしまいました。
その背景には、当時の教団の信者の心理状態として、冷静に合理的な判断として、そうしたのではなく、麻原への依存心・愛著、そして、自分の教祖や宗教への虚栄心などから、そうしたい、という気持ちが働いていたのだと思います。
そして、今から思えば、この当時の私と、私の周りの人たちにも、麻原の時代とはその程度において、大きな違いがある、とは言え、ある意味で似たような心の働きがあったのではないか、と今では内省しています。
それは、麻原の不在の穴を埋めたい、という気持ちもあったと思いますが、私の宗教的な権威について、ある意味で安直に高めていこうとする傾向です。そして、そのような流れから、私は、いくつかの著作を出版することになったのですが、特に、覚醒新世紀と題する本については、その傾向が強かったと今では考えています。
とはいえ、長い目で見るならば、自分自身が、宗教団体のリーダーとして、このような体験をしたことは、長期的な視点で見れば、良い面がありました。
その一つは、自分の失敗・試行錯誤を通して、バランスの取れた神秘的な体験の解釈や宗教家のあり方について、実体験的に学ぶことができたことです。
もう一つは、それまでは、麻原に全面的に依存していたのに対して、この時期からは、まだまだしばらくは麻原に依存していくものの、少しずつは、自分なりの思想や実践が芽生え始め、後に脱会して自立した宗教家になっていく、最初の過程にはなったことでした。