【7】「仏法から見た今後の信仰実践の道」
■仏法は、社会に対する慈悲の実践を前提とする最後に、今後の教団について、仏教の法則から見て、どうあるべきであって、また、どうなると考えているかについて、お話ししておきたいと思います。
私は、仏教の実践において、最も重要で、根本的なことは、慈悲の獲得、慈悲の実践だ、と考えています。
仏教のあらゆる修行は煩悩を止滅し、慈悲を得るためにこそあります。これは仏教の根本だと思います。
そして、グルイズムも、その他の修行も、そのための手段であって、目的ではありません。もし、グルイズムが目的となり、慈悲の獲得が損なわれてしまえば、それは、本当の意味で仏教ということはできない、と思います。
それは、「人の(慈悲の獲得の)ために、グルに帰依する教えがある」のではなく、「グルに帰依する教えのために、人がある」という考えになり、本末転倒だと思います。
そのために、自分の信仰実践が、一般の人、一般社会に害や混乱を与えることがないように最大限の努力をすることが必要だと思います。そして、歴史的に、仏教、とりわけ密教は、そのために、さまざまな努力・注意を払ってきた、と思います。
とりわけ、社会に誤解を与えかねない密教の修行については、そうしないように、
1.その教えの正確な理解をなし、さらに、
2.その実践の形態を注意深く定めてきた、
ということを理解しなければなりません。
そして、この仏教・密教の教えを前提にして考えると、今現在のように、出家教団が集団居住をなして、団体活動を行い、社会に不安を与え、団体規制法がかかる、といった状態は、許されない、と考えています。
よって、自分なりに考えると、仏教・密教の法則に照らし合わせるならば、私たちには二つの選択肢がある、と思います。
■二つの選択肢:新団体か、個人的な実践か
そして、仏教・密教の法則にかなわない形態の実践は、長期的に見れば、不可能だと思いますから、この二つの選択肢というのは、ある意味で、私の予想、予見でもあります。
一つめは、代表派のように、元代表のグルイズムを含めた、一連の事件をもたらした旧教団の宗教的な要素を完全に払拭した、新しい団体を作ること、です。
もちろん、最初は、新団体に対して、表向きなのではないか、といった疑惑があるように、社会の理解を得るためには時間がかかる、と思います。これは、今までの裏表、嘘の悪業があるために、仕方がないことだと思います。
しかし、教団内部では、反代表派が、「代表派は、元代表への帰依を否定している」と激しく批判している事実があるように、真実は、代表派・新団体の出家修行者は、元代表の教材を全て破棄し、日常生活でも、別の修行を実践しており、元代表への信仰・依存を本当に乗り越えていこうとしています。
そして、その真実は、必ず、社会に伝わるときが来ると思います。それは、真実は勝利する、という原則があるからです。時間はかかっても、真実である限り、必ず認知されている時が来る、これが法則です。後は関係者の忍耐、辛抱ですね。
そして、社会がしばらく疑おうとも、自分たちの中で、しっかり旧団体を反省して、新しい宗教観をもって、再出発する以上は、私たちには、何のやましいこともありません。自分たちの道をしっかり歩んでいけばいいと考えています。
さて、二つめは、元代表をグルとして維持する場合であり、これは、社会と摩擦し続けるわけですから、長期的に見れば、団体活動としては衰退して、個人的な実践になっていくと思います。
しかし、この場合は、さまざまな問題が起こる恐れがあります。
まずは、信者の精神的な健康の問題であり、今現在の元代表への盲信を続ける場合は、将来において、教団組織が衰退・崩壊したり、元代表が死刑執行となったりしたときに、本当に大丈夫なのだろうか、という心配があります。
盲信しているほど、盲信が破壊されたときの精神的なショックがあり、鬱状態、絶望状態に陥って、例えば、自殺を図る人がいないか、という心配がなされています。
また、小さなグループに分かれると、その中には、極端な考え方をする者が出ないか、という心配があります。過去には、現状に絶望して元代表の奪還未遂事件を起こしたロシアのシガチョフのグループや、リーダーが絶対的となって無理な修行をさせた日本のケロヨンのグループがありました。
そして、当然、被害者賠償や、教団内の高齢者・障害者といった弱者の扶助ができなくなる恐れがあるでしょう。それは、最終的には、皆が高齢者になるのですから、全員の問題だということになります。
そして、上記の信者の精神的な健康の問題を回避するためには、少なくとも、盲信を解いて、将来に対して今から精神的な準備をしておく必要があります。
そのために、このメッセージの中で、グルを絶対と見なすなどの密教の法則の正しい理解や、予言等の盲信の放棄、そして、教団の事件関与の事実などについて、お話ししてきました。
A派の一部の人にとっては、私が言っていることは疑念である、ということになるかもしれませんが、私は、疑念を持たないという帰依の実践と、盲信・狂信をするということは、別のことだと思います。
実際の現実に反し、理にかなっていない信仰は、盲信であって、信仰が逆に無智を増大させ、それは、真実の帰依ではなく、真実の智慧を増大させない、と思います。
■現在の教団の根底にある、元代表=キリストの信仰を越える
では、なぜ、仏教・密教を実践しているはずの教団が、このような状態になったのかというと、それは、旧教団において、仏教・密教ではなく、元代表をキリストとした信仰をしていたことがあるからだ、と思います。
つまり、元代表がキリストであり、社会は(一連の事件を含めて)教団を弾圧しており、それに耐えれば、キリストの世の中が来る、という旧教団の教義を信じる人たちにとっては、社会に害や混乱を与えないようにという、通常の仏教・密教的な考え方自体が、全く意味のないこととなり、弾圧者に対する妥協となってしまいます。
しかし、それは、旧教団独特の「尊師キリスト(終末思想)教」ともいうべき信仰であって、社会に対する慈悲、思いやりを前提とする、仏教・密教の信仰とは異質のものだと思います。
そして、既にお話ししましたが、私は、このキリスト教的な信仰は、「盲信である」と考えるのが合理的だと思います。
一方で、仏教の実践は、盲信ではなく、現象をありのままに見ることを重視します。
何か特定の観念に執着するのではなく、時と場合によって、実践すべき法則を適切に選択することを重視します。このことは、釈迦が対機説法、方便に優れていた、とされることからもわかるでしょう。
■元代表の家族の人々に対する帰依について
最後に、こうした条件を守って、元代表を自己のグルとして維持する場合ですが、宗教的に言えば、勾留され、連絡が取れない元代表が、事実上、私たちの修行におけるグルであり続けるかどうか、という問題があるでしょう。
特に、元代表が刑死した際にどうなるか、ということがあるでしょう。
その結果として、松本家の方々に期待する人が教団の中にいるのだろう、と思いますが、これは、相当に将来の問題だとは思いますが、私が懸念していることは、A派教団の人が、自分たちと元代表・旧教団の問題を総括しない限りは、再び同じようなものの考え方で、松本家の人たちを信仰するのではないか、ということです。
それは、グルを完璧と見なす、人と見ないで神と見なす、という密教の修行法の意味を誤解して、松本家の人たちを本当に完璧であり、神である、と考えてしまうことであり、この考え方が続く限りは、一歩間違えば、神とされた人の指示で、非常にラディカルな行動に出る可能性を完全には排除できない、という問題がある、と思います。
実際に、最近の教団の意見の多様化、分裂の過程の中でも、自分たちの考え方だけが正当である、と考える結果、かなりラディカルな行動が見られましたし、また、自分たちの考え方や存在を特別視する中で、社会に対してあまりに大きな裏表を作り、欺くような行動も、正当化されていく心配があります。
松本家の中でも、長女や四女が離脱し、家庭内で争いが起こり、長女の場合は、刑事事件に発展し、四女の場合は、現在、民事裁判となっている、と報道されています。
この原因は、教団と社会の闘争や、教団内の闘争と全く同様に、善悪二元論の考え方で、「誰が正しいか」「誰が魔境か」という争いがあり、その背景として、めいめいが、自分を特別視するところに根本原因がある、と思います。
そして、この考え方が、現教団の将来に影を落とすこと、そして、21世紀の宗教全体を危うくしていることを懸念しています。
以 上